国連における「家族」の歴史〜A History of  'THE FAMILY' in the UNITED NATIONS

by Allan Carlson, Ph.D.

国連の、家族への姿勢は、早い時期に2つの要素が形成された。第一には、ヨーロッパにおける、「死の収容所、優生学作戦、人体実験」などのナチの支配への恐怖が、1945年新しい組織を始めるためにサンフランシスコに集まった人々の心に鮮明なイメージを与えていた。一部の代表は、アドルフ・ヒトラーによってもたらされた人種差別で歪められた理想と制度から「家族」を救うことが特に重要であると思っていた。

第2に、4つの対抗する世界観が世界戦争の瓦礫の中から現れ、戦後の環境を形成しようとしていた。ソビエト連邦の共産主義モデルとアメリカのリベラル民主主義モデルとの間で行われていた政治的軍事的競争(1945〜1990)は、冷戦構造として、一般的に知られている。しかし社会政策、特に家族政策において、Christian Democracy(キリスト教民主主義)と社会民主主義の間で争いが起こっていた。初期の国連、特に1946年から1949年まで、Christian Democracy(キリスト教民主主義)が支配して、Christian Democracy(キリスト教民主主義)の世界観を純粋に反映させて、世界人権宣言を巧みに作りあげた。しかし、1949年頃から、社会民主主義(Social Democracy)はライバルに取って替わり始め、1960年代後半までには完全に入れ替わった。


キリスト教民主主義のエピソード

1940年代中頃にヨーロッパで形成されたChristian Democracy(キリスト教民主主義)運動は、全く新しいものであると主張した。例えばフランスにおけるAction Francaiseにようなヒトラーの勝利以前の、キリスト教政治運動は、「牧師ファシズム」の傾向があった。他の人々は「教皇至上権論者」の現代性の拒否に傾いた。またドイツの中央党の人たちは、厳格な「カトリック」政策にしがみついた。レオ13世の驚くべき進歩的時代、1891年ローマ教皇が全司教へ送った回勅(Rerum Novarum)は、時折、特にキリスト教の労働運動を通して、少しずつ広がり、1940年以前のキリスト教政治運動の共通の世界観は、現代性への疑い、民主主義に対する不信、アンチ個人主義、フランス革命の遺産を認めないということだった。

それでも、1930年代には、新しくて創造的なもの、特にフランスでは明晰なものも生まれていた。重要な哲学者は、エマニュエル・ムーニエであった。カトリックの理想誌である「Espirit」に、ムーニエは"personalism"と書き、個人主義の「キリスト教化」バージョンを作りだした。この視点は、全ての人をユニークで特別だと見るものである。各々の人間は、「固有の」道徳的特性を持つ、自然法に根ざす権利による「フリーエージェント」だった。この視点は、人間の個性のあらゆる面を開発することの重要性を非常に強調したものだった。「物質と同様の、個人と精神と同様の、社会性」。ムーニエは、個人の完全な開花は、家族や地域共同体、労働組合のような社会構造を通してのみ行われると強調した。彼は、キリストの一つの「hard」、一つの価値、そして社会経済ビジョンにある「過激さ」を持つ、革命キリスト教党の創設を呼びかけた。

1943年に、ムーニエの弟子で、カトリック哲学の若い学生、ギルバートDruは、戦後のキリスト教民主党のためにManifestoを作成した。彼は、クリスチャンの真の行動は、革命性であると強調した。全ての人は、党の歯車としてではなく、根本的なクリスチャン原理の新しいフランスを建設する好戦的な仕事に従事しなければならなかった。1年後、Druは、ドイツ人がリヨンから撤退する際に、ゲシュタポから銃撃され、彼の一生の仕事を終えた。

更に、ジャーナリストと哲学者、エティエンヌ・ジルソン、エチエンヌ・ボンヌが、フランスキリスト教民主党の教義の最後の仕上げにかかわった。両者とも「オーブ」ジャーナルに文章を寄稿した。書き手たちは、ポストファシストイタリアと貧しい国々から出てきた。彼らは全員、いわゆる「ブルジョワ的」な19世紀を特徴づけた原子論的な個人主義を拒絶した。彼らの言う、この中流階級の自由主義は、「狭い個性的な展望」を示して、「家族のような基本的な制度に対する無関心」を示した。イタリアの作家、Giovanni Gronchiは、「ブルジョアジーは、文明はとりわけ精神的な繋がりを持つから、我々に機械の進歩と文明以外のものを与えた。」という言葉に同意した。書き手たちは又、彼らの「実利主義」と啓示宗教に対する敵意を持つ社会党と共産党を軽蔑した。実際、ブルジョワ的自由主義と共産主義は、「一つの過ちの2つの側面」とみなされることができる。現在西洋文明の直面する仕事は、個人主義と産業社会の現実とキリスト教教育を一致させることになってきている。つまりブルジョワ的自由主義と国有主義の中道を見つけることである。

英語圏にいる我々には、この言語は馴染みのあるものである。なぜなら、これは英国キリスト教の作家ヒレア・ベロックとG.Kチェスタートンによって導かれた、第3の方法の追求に非常に近いものだからである。彼らは彼らのプロジェクトを、配給者の国(Distributist state)と呼んでいる。キリスト教民主主義は、continental counterpartとみなされるのかもしれない。

キリスト教民主主義綱領の第2項目は、運動と党が公然とキリスト教徒であり、それが牧師でも厳格なカトリックでもないということだった。イタリアのAlcide de Gasperiが説明したように、党のメンバーは「キリスト教財産から…公的活動において彼を導くために不可欠なインスピレーション」を与えられた。しかし、19世紀後半の政党と20世紀前半のヨーロッパの「告白」とは異なり、キリスト教民主主義は厳格なカトリック制度上のアジェンダを追求していない。ヨーロッパにおけるナチ占領の反宗教的暗闇の後で、この運動はそれに代わり、宗教的価値観を持つ文明として、カトリックとプロテスタント信仰者と共感的なユダヤ人とも結びつけた。1946年、フランスの動きは、「用意された国」の概念を保証した。同じようにイタリアの動きは、まだ神を「生命の源泉」と認め、国の基本的制度がキリスト教の倫理に従った憲法を求めた。ドイツのキリスト教民主主義のリーダーであるKonrad Adenauerは、これらのものは新しく始めであり、各宗派間の「the Christian Worldviewの政党」である、と述べた。

キリスト教民主主義は又、等しい力で追求される目的である自由と正義を伝えようとした。Etienne Borneは、彼の本Cet Inconnuで説明している。

・正義のない自由は人工的で、あてにならなくて偽善的である。それは、自由市場のメカニズムとプロレタリアートの奴隷状態を正当化するのに用いられる。そのような自由は、実際は、自由の正反対のものである。同様に、自由のない正義は専制政治、ソビエト共産主義やファシスト集団主義という、全体主義に至る。

これらの仕事を達成し、個人主義とコミュニティを一致させ、正義と自由を実現するために、キリスト教民主主義は、彼らがnatural social structures(自然社会構造)と呼ぶ主張を優先した。これは、近所、町、労働組合、教会などを包含したものであるが、大きな注意を与えられるものは家族であった。Etienne Gilsonは、1948年の著作、Notre Democratieで、簡潔にこのポイントをまとめている

出生から死まで、各々の男性は、彼が生きることも完全な発達も成し遂げ得なかった、多数の自然社会構造に熱中している…。

これらのグループの人々は、特定の組織的統一を所有している。まず第一が、子供が成長する自然な場所である家族なのである。

これらの構造は固有で生来のものであり、まさに人間の本能と本性から、常に再び現れることを意味している。これらは、国より先に存在していた。つまり法律で、家族や町が作られたわけではない。「それらは発見された」のである。Gilsonが強調するキリスト教民主主義社会のゴールは、「人間性の完成であった」。しかし、これは「社会の周辺だけ」で起こり得たことだった。そして、今度は、寛容な多元論を必要とした。Etienne Borneは「互いを受け入れるように構成された自然社会の集まりではない限り、そして彼らの違いを認識し、利益が代表されることが確保されない限り、国民は本当に国民ではなく、自由の中で暮らせないのである」と指摘した。

20世紀初頭の大きな混乱は、ある意味、唯物論的な哲学者によって齎された産業主義が家族の機能をはぎ取り、家族を弱体化することによって説明できるだろう。現在、家族の機能を取り戻す方針をとらなければならない。しかし、これは古いヨーロッパの父権的家族主義的家族のシステムへの回帰を意味しない。父に支配された家族は、「個人主義」で一致することができなかった。キリスト教民主主義は、女性が完全な公民で、法的、経済的、政治的な権利を享受しなければならないと考えた。同時に、家族の回復は、教育の制御は両親に帰されるべきだとされ、母性は、国から特別な保護を受けるべきであり、母親が子供たちと家に残るために公的な権限を与えられるために、家長は「family wage」(家族手当)を与えられるべきであった。概して、政府の義務は自然の家族を保護することであった。そして、それを奨励し、支えることであり、決してそれを変えないことであった。

以前のキリスト教の政治運動とは異なり、戦後のキリスト教民主主義は、自由な人間性の完全な発達のための優れた場として、熱心に政治民主主義を受け入れた。確かに、彼らは民主主義自体が、全ての信者の平等というようなキリスト教の原則に由来すると考えた。彼らは、民主主義の原則の拡大さえ強行した。Gilsonは次のように論じた。

「歴史は、経済社会民主主義がなければ、民主主義政治はフィクションに基づくということを証明する。」

運動は、経済生活は精神的生活や家族の存在よりも下位でなければならないと強調した。これは、キリスト教民主主義を、小さな資産を広く分配する者と、農家や家族農場の代表者の友人とさせた。彼らは強い国家統制が、自治体や「家族手当」のような手段を通して職場を教化することを好んだ。

キリスト教民主主義の世界観を身にまとうことは、歴史の新しい解釈であった。キリスト教教会が1789年のフランス革命と、その「自由、平等、博愛」というスローガンに常に敵対的だった所に、この新しい運動は革命とこれらのことばを受け入れることを目指したのである。ねじれにも関わらず

「これの言葉を奪還することによって、(1789年の革命)以前の長い間、彼らの持っていた目的、不幸なことに革命がそのために我々のために、部分的に忘れられていた目的」。フランスの運動の若いリーダー、モーリスシューマンは、キリスト教民主主義は「1789年から始まった奮闘の持続であり、革命の伝統とキリスト教の考えと互いを一致させるだけでなくて、相互に育てあった」と指摘した。

1789年の革命の見直しは又、キリスト教民主主主義の関わる人権を作りだしたが、それは再び大きなねじれであった。フランスの経験の非宗教的な観点は、権利の「自然主義的」合意に拠るもので、新しい運動は自然法に、天地創造それ自体に人権の発想のあることを強調した。彼らの源泉は神であり、そのような権利は「不可侵」で、「生まれつき」であるとされた。キリスト教民主主義は、政府の傲慢な力から「各個人の生得の権利」と「自然な社会グループ」を保護するために「human rights」を取り入れた。また、社会経済民主主義を進めて、運動は必要に応じて人類の安全と尊厳に対する社会的権利の前向きな見方に固執した。ある歴史家がこの世界観をまとめている:

・…神を信じる、不可侵の権限と任務を持つ創造主によって贈られた人間の尊厳への認識すること、全ての人の命、全ての存在のあらゆる段階の神聖さを信じる、人々が互いに影響しあう基本である結婚と家族を信じる、将来の子孫を守るために、結束と援助の構造を信じる・・・


初期の国連におけるキリスト教民主主義


ヨーロッパのキリスト教民主主義は、これらの新しくて刺激的な、さらには革命的な考えを、国連初期の会議に重大な結果を運びこんだ。フランスでは、キリスト教民主主義は、Mouvement Republicain Populaire(MRP)として政治的な形をとって、ロバートシューマン(3年間外務相を務めた)や、モーリスシューマン、ジョルジュビドーらによって率いられ、1946年のフランス与党連合の中に入った。キリスト教民主主義の強い政党が、オランダ、ベルギー、イタリア、西ドイツにもできた。

この世界観は、1946年に創設された国連経済社会理事会(人権委員会を含む社会政策と人権問題を扱う)に、特別な影響を与えた。社会政策部門のトップに任命されたのは、キリスト教民主主義の主張に同調していたフランスのアンリロージェ教授であった。けれどももっと重要なのは、1948年ECOSOC理事長になったレバノンのチャールズハビブマリクであり、彼は人権委員会で非常に活躍した。

(略)

もう一人の中心的なプレーヤーは、フランスの国際法に通じた弁護士であるR・カサンであった。人権委員会のスタッフのメンバーとして、カサンは人権宣言の草案を作り、リードする役割を演じた。ユダヤ人であるカサンはフランスのMRPと、キリスト教民主主義のシンパだった。スピーチやエッセイで、彼は旧約聖書・新約聖書に、人権思想の起源があることを強調した。(略)カサンは、18世紀の人権宣言の数々(例えばフランスの人権宣言)が、個人主義をたたえていることを強調した。そして、それは自由の濫用に道を開いた。キリスト教民主主義の教義を、カサンは個人の権利と自由が「家族、家庭、職業、都市と国」のような「社会的グループと絆の中に深く留められて」理解されねばならないと主張した。

人権委員会へのフランスの代表派遣団は、チリとベルギーからの代表派遣団のようなキリスト教民主主義と共に、世界人権宣言作成委員会で活躍した。フランスのジロー教授は、スタッフとしてカサンに加わった。一方、ロバート・シューマンは、フランスの外務大臣として、安全保障理事会の立場から、そのプロセスにキリスト教民主主義の影響を強く反映させるように働きかけた。

戦時のアメリカ大統領未亡人であるエレノアルーズベルトが人権委員会の議長であったというのは事実だ。アメリカの伝統主義者は、ルーズベルトの全業績が疑わしいものだと知っている。しかし、少なくとも家族の問題に関しては、これは公平な姿勢ではない。エレノアルーズベルトは、我々が今日知っているようなタイプのリベラルでもフェミニスト(equity feminist)でもなかった。彼女は、1930年代のアメリカ労働長官F・パーキンズのようなタイプとしての"social feminist"であった。男女の完全な法律上政治上の平等を受け入れた時、social feministは女性の母性に特別な保護を与えて、妻と子供、家族への手当てを父親に与える施策を行った。これは、ヨーロッパのキリスト教民主主義とほとんど同一の見解であった。

1948年12月10日に国連総会で承認された世界人権宣言は、キリスト教民主主義の世界観の価値体系と「主に同一」であった。「固有の尊厳」とか人間の「奪うことの出来ない権利」というような神に由来する言葉を俗化させて、「自然」という言葉を、家族の維持の確保のために「生きる権利」の保障と定義した世界人権宣言は、新しいキリスト教民主主義の世界観の大きな勝利とみなすことが出来るだろう。

その16条は「自然」な社会制度を確保している。

家族は社会の自然で基本的なグループ単位であって、社会と国によって保護される。

「国」より前に「社会」という言葉を使っているのが、キリスト教民主主義の特徴である。

第25条では、「家族の維持」が特別に強調されて、家族の社会的権利を支持している。

誰もが自分と家族が健康に幸福に生きるために、食物、衣類、住宅、医療を受ける権利を持ち、失業、病気、障害、寡婦寡夫、老年、コントロールできない状況での貧困などの際に、社会から守られる権利を持つ。

第26条(3)の、世界人権宣言は、家族の優先と自立を保障している。

両親には、子供たちへの教育を選び、与える権利がある。

宣言の構造そのものこそが、キリスト教民主主主義の人権の考え方を示している。第1条21は、人の政治的な権利を国家から保護している。ここは、アメリカ憲法の権利の章典に似ている。一方、第22条27はGilbert DruやEtienne Gilsonが主張するような、人間の「社会的経済的権利」を保護している。

前後の文脈にそぐわない「平等」という言葉でさえ、「生きる権利」(第3条)、「人間の尊厳と価値」(前文)という「personalist」の概念を通して、世界人権宣言に豊かな意味を見出せる

全ての人間は、生まれながらに自由と尊厳と権利を持つ。彼らは理性と良心を授けられることによって、互いを兄弟のように扱うべきである

確かに、キリスト教民主主義のテーマで唯一欠けているのは、天地創造の神を肯定する姿勢である。Charles Malikによってリードされた作成委員会の数人のメンバーは、これを入れ込む方策を捜したが、結局彼らは、神と明記するよりも、神を意味する世界共通語を用いたのである。

要するに、キリスト教民主主義の世界観は、国連創立時期(1946?1948)に、「社会政策」と「人権方針」に関する議論を支配して、少なくともそれから十年は、そのままの影響力を維持した。「冷戦」の出現が「人権」文書の更なる発展の歯止めとなり、期待されていた国際条約「経済的社会的文化的権利」、「市民および政治的権利」は、最終的に1966年に提出され、「家族は社会の自然で基本的な単位であり、社会と国によって保護される。」という文言の確約は、まだ残っていた。


社会主義の勝利

しかし、この時までに、ナチズムやファシズム関係する世界観や社会民主主義世界観などが、国連機構の中で優勢を得ていた。これらは、1946年?1962年、事務局におけるスカンジナビアの優位を通じて、トリグブ・リー(Trygve Lie)やダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjold)という人物によって、国連に最初に根づいたものである。

ノルウェーのトリグブ・リーは新しい組織の初の事務総長を、1946年から1953年まで勤めた。我々は現在、彼がソビエト連邦の選択によって、このポストを引き受けたことを知っている。また、彼の名前を最初に挙げたのが、アルジャーヒスであったことも知っている。ヒスは、アメリカ国務省官僚で、後にソビエトのスパイであると明らかにされた。リーは、決して、表立ったノルウェーの共産党メンバーではなかったが、ボルシェビズムに早くから関心を持ち、1921年にモスクワに旅行している。そこで、彼はレーニンに会ったのだ。Lieはロシアにおけるソビエトの実験に、強い共感を持ち続けた。コミュニストたちは、彼を、彼らの国連への野心の道具として使ったのだ。

Lieはノルウェー労働党のリーダーで、「先鋭的な左翼」だとみなされていた。1930年代、ノルウェー国内の政策実行を行い、彼は熱烈な社会主義者としての評判を得ていた。

朝鮮戦争政策の失敗で、リーは1953年前半に辞任した。彼と交代したのは、スウェーデンの官僚、ダグ・ハマーショルドだった。ハマーショルドの神話とその人間を区別することが重要である。或る伝記作家は、「まれな感受性のカトリック信者」だと、彼の人となりを書いている。その容姿とは違って、「現代の神秘主義者で、彼のキリスト教は本物で激しかった。宗派でなく、神と毎日対話を行う。スウェーデンの王と国に仕える伝統を持つ古い立派な家系に生まれ、ハマーショルドは政党に決して加わらなかった。だが、公式にではないが、あらゆる点で彼はスウェーデンの社会民主党員であった。1930年代初期に、彼は「左翼社会主義知性」への転向を認めた。」彼はストックホルム大学で経済学の博士号を取り、スウェーデンを社会主義国家に変えるために、Gunnar MyrdalとKnut Wicksell(彼の良き指導者で社会民主政府の大蔵大臣)に加わった。財務省と国立銀行のポストを経て、ハマーショルドは新生スウェーデンの社会福祉制度の設計者を勤めた。

ハマーショルドは政策問題解決のために長い期間を過ごす仲間との友情を大切にした。結婚したばかりの同僚が夕方彼と共に過ごさなくなった時には、いつでも彼は失望を表明した。ハマーショルド自身は一度も結婚しなかったため、彼の前任者、トリグブ・リーを含めて、彼の同時代の人たちの中には、彼が実は同性愛者ではないかと囁く者もいた。しかし、これは真実ではないだろう。彼を書いた伝記作家は、セックス経験はあったが、彼の人生において、それは殆ど何の影響も及ぼさなかったと書いている。だから、むしろ彼は「ほとんど性とは無関係」で、「生来の独身者」で、「根気強い一匹狼」だったのだ。家族問題に関して、ハマーショルドが結婚と子供について、個人的体験がなかったので、この問題に関しては、その「専門家」に任せようとした。

リーとハマーショルドの影響を受けて、社会主義が事務局内の考えとして成長した。スカンジナビア人はオフィスで寝泊りして、リーダーである彼の世界観への固執が、進歩にとって重要な鍵となった。

重要なポストに任命された人々の内の一人が、アルバ・ミュルダル(Alva Myrdal)であった。リー事務総長は1930年代の「人口危機」の時の彼女の仕事を知っていた。夫Gunnar Myrdalと共に、彼女は、スカンジナビアの出生率の急激な低下に対して、積極的な社会主義政策を行った。ミュルダルは豊かさを上げる唯一の方法は、子供を設けることのコストと重荷を社会化することにあると主張した。彼らの理論は、1934年Kris i befolkningsfraganにまとめられ、現代の社会福祉制度の土台となる、空論の正当化が行われた。1935年にノルウェーで翻訳されて、この本と以降の議論は、人口に関するノルウェー王立委員会の創設を促して、一連の労働党の提案は"the Myrdal line"として採用された。

アルバ・ミュルダルは、ジュネーブ国連事務所での「The Surplus Energy of Married Women(妻たちの余ったエネルギー)」という講演をして、1948年に再びリーの注意をひいた。彼女自身の夫との新しい形の結婚が混乱していて、アルバ・ミュルダルは子育てと家事がもはや現代女性には合わないと主張した。彼らは大急ぎで、外の仕事の世界へ引っ越す必要があったのだ。

1948年12月中旬、リーは国連社会理事会の副事務総長としてアルバ・ミュルダルを指名した。このように、彼女は国連で最も高い地位にある女性になった。彼女が言うように、「トップから三人目」である。彼女の責任は、女性の問題、人口、福祉、人権に関する国連の仕事の管理を行うことだった。アルバ・ミュルダルは、これを社会主義フェミニズムを広めるために、国連事務局の方向を変えうる機会とみなした。1948年12月14日(皮肉にも、国連総会が世界人権宣言を採択した同じ週)に、アルバ・ミュルダルは、彼女の友人であるDisa V stbergに手紙を書いた。

社会主義の女性たち(スウェーデンでだけでなく、もっと直接に)が、国連事務局で、何の邪魔も無く話す機会が与えられて、影響力を持てることは、大きな喜びです。女性グループが支え望んだことが、こんなに重要な中心部にあって、現代の福祉制度を形成できる。国連の社会部門の重要ポストは、そういう視点から人間社会を変える最高の機会を私たちのグループに与えたの。

社会主義フェミニストの視点とは何か?1930年代1940年代にミュルダルによって明瞭に表現されているのは:

・絶対不変の道徳などない。モラルは、伝統的キリスト教のモラルさえ、単に歴史の進化と制度の変化の産物である。多数の人がいわゆる「道徳的規範」に従って行動しなければ、人々ではなく、その規範が変わらなければならない。

・19世紀から受け継がれている既存の、いわゆる伝統的な家族は、殆ど…病理学的であり」、「根拠がなく」、「孤立している」、そして破滅する運命にある。それは、女性が労働の場で「同志として」男性と共に立つような、新しい家族のモデルと取り替えられなければならない。そこでは、子供たちは政治的な意味での社会生活を営むことになる。生まれてからすぐに、扶養とデイケア、衣類から毎日の食事からサマーキャンプまでの全ての助成金をまかなうよう国に要求するよう、新しい社会協力の型を「教え込まれる」。結婚はその自主性と明確な法的保護を奪い取られることである。家族は、リプロダクション以外の残りの機能の全てを明け渡す。「自由意志を持つ親」は、妊娠中絶法と子供たちへの早い時期から性教育が行われることが保証される。そして子供への親のしつけは不健全であるとみなされる。

・『個々の自由』と『家族に対する責任』を守る面倒なパトスの多くは、足かせを外された『自由』と他人を支配することを制御しない権利を広げるサディスティックな意向に基づいている。

・男女平等は、「自然」なものを含む、全ての制度、伝統、文化的構造の全ての地ならしを要求する。自然によって造られた男性と女性の間の「大きな基本的な違い」さえも取り除かれなければならないし、国はこれを補償しなければならない。



価値の著しい変化

キリスト教民主主義と社会主義の世界観の争いは、1960年代に頂点に達した。勝者は、社会主義だった。なぜか?

原因は、一つには、キリスト教民主主義の極めて重大なイデオロギーの破綻にある。1940年代の興奮とエネルギー、積極的革命の感覚は、次の10年間に消えてしまったのだ。フランスの、キリスト教民主主義の主な政治的媒体であるMRPは、チャールズドゴールの新党RPI(Ressemblement du Peuple Francois)に対する支持が無くなり、1958年までに、全て消えてしまった。一方、イタリアとドイツでは、キリスト教民主主義政党は、彼らの展望の代価で、力の維持を強化した。1960年代初期までに、彼らは現実的官僚的になり、更に現実の擁護者となった。理想主義者というよりもむしろ、野心家となり、党集団を支配し始めた。「道徳的政治的刷新」運動は、単に右寄りの大規模な政党となった。1968年、新しい「価値の危機」が異常な力でヨーロッパを襲ったとき、キリスト教民主主義は、それに耐えるだけの準備ができていなかったのだ。彼らは年をとり、自己満足の実利主義の保護者として評判を落としたのだ。

確かに、価値における「静かな革命」が、1963年以後ヨーロッパ人、そして、アメリカ人の間で始まったことは、現在では明らかになっている。これは、例えば「長い間の政治参加における責任、犠牲、利他主義と清浄」というようなキリスト教の教えから距離を置いて、自分自身の欲望に固執する「非宗教的な個人主義」への観念的転換を示した。1970年代と1980年代のヨーロッパの若者への調査では、「妊娠中絶、離婚、その他に関して、親になることと同様に慣習に従わないという答えが多くなっており」「子供たちは、1人親だけでも良い」、また、「子供たちは、人格形成をもはや必要としない」というような考えに圧倒的多数が賛同している。親に望むことは、宗教や家族、共同体などの義務よりも、「彼らの個人的なニーズを満たす」ことに限られている。ライフスタイルにおいて許せる範囲としては、オプションとして育児や家庭生活を除外するところまで来ている。

もう一人の解説者は、妊娠中絶の素早い合法化と、「あらゆる人、古いもの、障害者の尊厳」へのヨーロッパ人の「認識の低下」を指摘した。彼は以下のように付け加えた:同じように、「…裸の個人主義と拘束のない放蕩は、近年ますます広範囲にわたってきた…促進されている女性解放…この方向に進んでいるように思える」。中でも、司法と世論は、性的逸脱に寛容になっている。この変化は、性的、家族の領域で、社会主義の世界観がキリスト教民主主義に勝利したことを象徴している。

アルバ・ミュルダルは、1949年にECOSOCで仕事を開始して、2年半後に、ジュネーブのユネスコへ移った。そこで、彼女は社会科学部門のトップになった。社会主義者と共に、1963年以降、彼女は穴の開いた果実の、変化の種を植えたのだ。:

・女性の問題に関して、国連は女性票を得て、売春を抑えることについて、当初の国連から変わって行った。そして機会均等を進め、性別役割分担を抑制し、母の育児を否定し、家族を変化させた。

・人口問題では、性教育と「産む権利」を巡っての戦いとなった問題として、大家族の奨励と保護から、人口過剰に対する厳密な注意へとシフトした。

・家族の問題に関しては、「基本的で自然な社会的単位」としての家族という認識から、時代遅れで抑圧的な家族という描写へシフトした。

・人権については、生得の人間の尊厳と自然な共同体での人間の必要な場所に焦点を当てた「人格主義」から、急進的フェミニスト個人主義へと変化した。


そして、本当に重要なことが起こっている。「女子差別撤廃条約 [CEDAW]」について、ここ数日にわたって多くのことを学んだと思う。私は、その内容がこれらの新しい見解に密接に関係している点に注意を促したい。CEDAWは家族の全ての自治と権限を剥奪している。それは、個々の急進的で個人的なものに、道徳的な合法性を与えている。そして、自然の家族を管理して、再編成して、廃止させるために、国に物凄い力を認めている。これは、たとえば、宣言の第5条にはこう書いてある。

締約国は、次の目的のためのすべての適当な措置をとる。両性のいずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること。

関連したやり方で、「児童の権利条約」は、子供たちへの両親の権威を破壊する措置を入れ込んでいる。政治的急進的社会学に賛同して、宗教的な信頼と伝統の権限を剥奪し、そして、国と民族から独自の文化を庇護することを妨げる。たとえば第13条には、こうある。

児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

簡単に言うと、この「権利」の理解は、「両親には、彼らの子供たちに与えられる教育を選ぶ権利がある。」という人権宣言第26条の正反対である。そして、それはもう1つの世界観に対する勝利のシンボルである。


新しい機会?

しかし、近年、対立は戻ってきた。1990年代中頃のカイロと北京における国連会議から、一時的興奮と衝動的な動きによって、国際的な家族擁護運動が協力し始めた。国連の知的影響力の競争は続いている。そして、家族の地位は、まだこの闘いの中心にある。(略)

この国連の55年の経験から得られた学びは、「思想は結果を結ぶ」ということである。国連機構が家族を支持したとき、それはヨーロッパと地中海のキリスト教民主主義の比較的小さなサークルで発展してきた考えの結果だった。国際連合が自然の家族に敵対的になったとき、それは、最初はスカンジナビアの社会主義の小さな集まりの中で発展した考えの結果だった。現在大切なことは、新しい家族擁護/妊娠中絶合法化反対の展望を造ることである。21世紀初頭までに存在し得た新しい世界観、キリスト教民主主義は、1940年代後期までに作られた。しかし、今度は成功するために、この世界的な運動は、西側のキリスト教徒よりも更に多くのものに訴えなければならない。家族の道徳観を基礎とする全ての宗教的なものを抱きしめねばならない、平凡なものに下ることなく。私は、The World Congress of Familiesのようなプロジェクトが、その目的に向かうステップだと信じている。

この55年からの2つめの学びは、「人々は、賢明である」ということである。トリグブ・リー、ダグ・ハマーショルドそしてアルバ・ミュルダルの影響は、国連に社会主義の世界観を入れ込むことに最終的に勝利した。将来のために緊急に行うべきことは:

・家族の高潔さに対する新しい攻撃を弱らせ、防ぐために、NGOとして、積極的に行動すること;

・国連事務局内にいる「家族の後援者」の存在を確認して、擁護して助けること;

・国連事務局内に、潜在的影響力を行使できる位置に、そのような友人を「置く」こと;

・そして、国連で社会政策に影響を与え、作成できる「家族の道徳観を基礎とする全ての宗教的なもの」の国際的運動を構築すること。

であろう。