縮景園

初入庭園!!
今回はここ「縮景園」にやってまいりました。

この広島の街中にありながらも独特の空気を漂わせている「縮景園」ですが、やはり門構えからして堂々としており、さすが広島藩主が造らせただけのことはあるなと庭園前にたちながら思います。

本当は、桜の名所として名高い場所でもある「縮景園」には春か、紅葉にならば秋に訪れようと思ってたのですが、どうしても、ど〜しても待ちきれずに夏に来てしました(笑)

しかしそこはこの旭、楽しく回遊してきたいと思います。

はじまりは・・・
この縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が入国の翌年の元和6年(1620年)から別邸の庭園として築庭したもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇です。

そしてその100年以上の時を経て、1781〜1788年に京都の庭園師:清水七郎右衛門により大改修が行われ、ほぼ現在の規模になりました。

この園の名称は、幾多の勝景をあつめ縮めて表現したことによりますが、一方でまた中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられています。

園の中央に、濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべて、周辺に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それらをつなぐ園路によって回遊できるようになっており、このタイプの庭園は、回遊式庭園と称され、室町時代にその萌芽がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で、諸大名の大庭園はこれに属するものを多く見かけます。

池の中央に架けられた跨虹橋(ここうきょう)は、七代藩主重晟(しげあきら)が京都の名工に二度も築き直させたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋(えんげつきょう)や京都修学院離宮の千歳橋(ちとせばし)にも似た大胆奇抜な手法が駆使されています。

また、清風館(せいふうかん)と呼ばれるこの建物は、庭園のほぼ中央にあり、庭園にふさわしい数寄屋(すきや)造りで、屋根はこけら葺きであり、西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいます。

昭和15年(1940年)浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日に国の名勝に指定され、梅や桜の名所としても有名!
後の昭和20年(1945年)には、原爆によって壊滅状態になりましたが、広島県は戦前時の景観を復興すべく整備をすすめ、清風館・明月亭(めいげつてい)などの亭館も復元しました。


これぞ縮景園!!
「時代劇に出てきそう・・・」私が門をくぐり、初めにでてきた思いでした。
おそらく初めて来た人の多くが同じことを思うんじゃないかと思わせてくれるほど、この「縮景園」は存在感があって、さすがお殿様が造らせただけはあるなと思います。

右下の写真は門を入ってすぐのところで撮りましたが、これだけでも引き込まれる感じがしませんか?(撮影の良し悪しは、素人のためご勘弁ください(笑))
どこぞの上様が、家来を引き連れて歩いてきそうな雰囲気が個人的にはしまくりです!!

 

さてここから順路道理に歩いて行こうとしたのですが、それではつまらないと思い上の写真の右側の道から細い横道にそれていきました。
基本的に私はあまり順路道理に行くことはありません。
順路通りに行くことを期待していた方には申し訳ないですが、今回は私の本能と直観で見て回りたいと思います(笑)

ちなみに「縮景園」の全容は下写真のようになります。○印のところが門があったところで矢印のように回遊していこうと思います。
でも、おそらく寄り道しますのでご容赦ください。
 

そんなこんなでフラフラと歩いていくと、街中とは思えない光景が見えてきます。

まさに癒しの空間です。この日は曇りだったのと私の腕が伴わないばかりに伝わりづらいかもしれませんが、あなたが思っている10倍はリラックスできます。
私の同僚に家族持ちの毎日「忙しい・・・一人の時間がほしい・・・」といっている方がいらっしゃいますが、ぜひ行ってほしいです!

私もサラリーマンなので日々忙しい毎日ですが、こういった場所にはちょくちょく一人で来るようにしています。彼女や友達ときてもいいのですが、たまにはフリーになって癒しを求めたくなります。
なので、

ぜひ、ぜひ、ぜひ

日々忙しい人には、癒しの空間でリラックスすることをオススメします。

もちろん、純粋に観光にきたい方も一度は来てみてそんはないですよ。

 

右写真の端に写っている架橋を渡ると・・・・・



どうでしょうか?!

今までに撮った中で1・2を争うデキです。ちなみに、この写真はプロが使っているような上等なカメラで撮ったものではありませんよ!
普通のケータイのカメラで撮ったものですよ!

まさに私のなかで渾身の一枚です!!

上流の方へ行くとこんな感じです。ホントに街中とは思えません。
真夏だったので飛び込みたくなってしまうじゃありませんか!(笑)





そんなこんなで楽しみながら回遊していると、小さな植物園が見えてきました。

ここには大小さまざまな植物がうえてあり、「縮景園」にはこのような空間が所々にたくさんあります。

ついつい建物や桜や濯纓池(たくえいち)に目がいきがちですが、このような小さな植物にも足を止めてみてはいかがでしょうか。




さらに奥へと歩いていくと木でできた階段がみえてきます。なんとなく手招きされているようだったのでついついのぼっていってしまいました。
 

するとそこには・・・・・・・・・・・・・



迎暉峯(げいきほう)がみえてきました!!


この迎暉峯(げいきほう)は、「縮景園」一の高地で、昔はここから広島湾に浮かぶ似島や厳島が一望できたそうです。

当時は、湾内の出船入船の様子も手に取るように見えていたといわれており、ここからの園内の眺望は、景勝の名にふさわしい素晴らしいものです。そして桜の季節や紅葉の季節にはさらに言葉で表すにはもったいないほどの眺望になっていることでしょう。

これだけの景色に、もしワガママを言わせていただけるなら、もっと濯纓池(たくえいち)の奥まで見えるようにひらけていたら、私としてはなにもいうことはありません。下の写真が迎暉峯(げいきほう)から撮ったものです。

もし私の気持ちに共感していただける方がいましたらありがたいです(笑)




まだまだ終わらない、「縮景園」の魅力
ここからは、「縮景園」の各所に点在する見どころをご紹介していきます。

看花榻(かんかとう)
座席はロクロ式につくられ、昔は回転するようになっていました。この場所で、藩主が対岸の桃林の花や京橋川を行きかう川船を眺めていたといわれています。
  



臨えい岡(りんえいこう)
この丘一帯は臨えい岡と呼ばれ、この場所から遠く厳島を望むと、雲のかかった弥山(みせん)山頂がみえたといわれています。
※私としたことが、写真を撮り忘れてしまいました。楽しみにされていた方には申し訳ないです。
 次に行った際に、必ず更新したいと思いますのでしばしお待ちください。



霊迹壇(れいせきだん)
江戸時代前期、大洪水の時に縮景園に漂着した三体の仏像を祀っていたものです。堂内の仏像はその一体で、平安時代後期頃の作と思われる寄木(よせぎ)造りの十王像です。
この像は、一部損傷したのみで奇跡的に残りましたが、他の二体は原爆で焼失してしまったようです。




明月亭(めいげつてい)
この茶屋は、「縮景園」の北西に建てられており、庭にふさわしい数寄屋(ずきや)造りと一部書院造りで、屋根は茅葺(かやぶき)と一部柿葺(こけらぶき)です。
面積は約43uで、内部は玄関之間、控之間、茶室、水屋となっています。
昭和二十年(1945年)八月六日、原子爆弾の投下により焼失してしまいましたが、昭和四十九年(1974年)に復元されました。

一緒にこんな詩も詠まれています。

「たちならぶ まつの木の間に

 照りそひて 月も千年の

 あきちぎるかげ」

 

   






御腰掛なば石(おんこしかけなばいし)
茸(中国・九州地方では、「なば」とよばれています)に似た自然石を腰掛石としたもので、江戸時代に土佐国(高知県)から持ち帰ったものと伝えられています。
個人的には、茸より石とロープに挟まれている葉面の大きな葉っぱに似ているような気がします。名前は分かりませんが(笑)
 



夕照庵(せきしょうあん)
この茶室は、「縮景園」の西方に位置しており、屋根は茅葺きで建物の面積は約8uあります。
昭和二十年(1945年)八月六日に原子爆弾の投下により焼失しましたが、昭和四十五年(1970年)に復元されました。
この夕照庵(せきしょうあん)のすぐ裏手には、写真のような濯纓池(たくえいち)につづく場所があります。
 



調馬場跡(ちょうばばあと)
この場所は、当時の馬の調教訓練に用いた調馬場の跡で、付近には藩主が調馬状況を見物する「流芳軒」や、弓や銃の演習場もありました。




超然居(ちょうぜんきょ)
この超然居は、観瀾(かんらん)及び洗心(せんしん)両橋によって結ばれた島に建つ四阿(あずまや)です。東方には、清風館を望み、跨虹橋(ここうきょう)に向かい合う眺望は絶佳です。
昭和二十年(1945年)八月六日に原子爆弾の投下により焼失しましたが、昭和四十五年(1970年)に復元され、現在にいたります。
 
                                                 観瀾(かんらん)と洗心(せんしん)

 


超然居(ちょうぜんきょ)より望む、跨虹橋(ここうきょう)と清風館(せいふうかん)




楊貴妃型石燈籠(ようきひがたひしどうろう)
この楊貴妃型石燈籠(ようきひがたひしどうろう)は、形が唐の楊貴妃が付けた冠に似ていることからこの名がつきました。
また、同じ形のものには京都市大徳寺内の聚光院(じゅこういん)にある千利休の墓があるようです。
 



流川(ながれかわ)
かつての「縮景園」において、この濯纓池(たくえいち)から流れ出た水は、まっすぐ南に流れて流川を通り、広島湾にでていたそうです。
 



濯纓池(たくえいち)
「縮景園」の中央にあるこの大泉水は、広さ約8000u、最深部の深さは約1.2mあります。そしてこの池水は汽水(弱塩水)で、正面築山の向こうの京橋川から満潮時に取り入れています。
またこの濯纓池(たくえいち)には、もう一つ面白いところがあります。それは、この濯纓池(たくえいち)に点在する大小数十個ほどある島です。
この島は、それぞれ鶴と亀をかたどっており、亀は所々にみえるのですが 鶴は跨虹橋(ここうきょう)を挟み東西に一島づつ配置されており、その石組みは頭部が長く、手の部分が平立石になっています。
 


清風館(せいふうかん)
この清風館(せいふうかん)は「縮景園」のほぼ中央に建っており、面積は約178uで、数寄屋(ずきや)造りの屋根は柿葺(こけらぶき)です。
なかには、玄関之間、老候之間、清風之間、次之間、それに茶室や水屋があり、東側には花頭窓を設け、西側には優雅な書院造りの様式をそえています。
 

 





跨虹橋(ここうきょう)
この跨虹橋(ここうきょう)は濯纓池(たくえいち)を二分する形で配された花崗岩(かこうがん)製の橋で、天明三年(1783年)清水七郎右衛門により現在の形になったといわれています。
東京後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋にも匹敵し、「縮景園」を象徴する名橋です。
 



祺福山 稲荷神社跡(きふくざん いなりじんじゃあと)
この稲荷神社は、正徳三年(1713年)に建立され、広島藩領内の平穏無事と子孫繁栄を祈願したといわれています。現在ではその跡のみが残されています。




悠々亭(ゆうゆうてい)
この建物は、四阿とよばれる様式です。また「縮景園之記」には、「岸に添ひ池に浮かびてもの清う安らかに建し」と記されており、古くは納涼茶会や歌会などにつかわれていたそうです。
昭和二十年(1945年)八月六日、原子爆弾の投下により焼失しましたが、昭和四十四年(1969年)に復元しました。

また、一緒にこんな詩も詠まれています。

「池水の みぎはのやどの

ゆふすずみ なつはいづくに

木がくれにけむ」

 



有年場(ゆうねんじょう)
ここは、小さな水田で、藩主が田植えをして、その年の五穀豊穣を祈願したと伝えられています。
 




このように「縮景園」にはたくさんの見どころがあり、まだまだご紹介していない春の花見や秋の紅葉、はたまた冬の雪見など各種イベントなど今後もたくさん紹介していきたいと思います。
やはり「百聞は一見にしかず」、です。ぜひ一度・・いや何度でもこの「縮景園」に訪れてみて下さい。



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