頼山陽史跡資料館


のらりくらりと・・・
今回は、ここ「頼山陽史跡資料館」にやってまいりました。

実は、今回は・・・・・散歩していたら面白そうなところがありましたので、とりあえず入ってみました(笑)

えぇ〜!?っというような声が聞こえてきそうですが。。。

たまにはこんなのもあるんです!これが広島大旅行記なんです!!

それではとりあえず参りましょう〜

頼山陽とは?
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人画家で、安永9年(1780年)に大阪で生まれた人物です。この父親の春水(しゅんすい)は、当時私塾青山社を開いていましたが、広島藩が学問所を創設する際に朱子学者として迎えられ、この「頼山陽史跡資料館」の位置する施設内の屋敷には、寛政2年(1790年)から住むようになりました。

頼山陽は、ここ「頼山陽史跡資料館」施設内の屋敷で育ち、寛政9年(1797年)に江戸へ一年間遊学します。そして寛政12年(1800年)には広島藩を脱藩し京都へ行きますが、すぐに連れ戻され、屋敷内の離れの一室に幽閉されることになりました。

この離れが現在「頼山陽史跡資料館」施設内にある頼山陽居室であり、下写真がその頼山陽居室の現在の姿です。

この頼山陽居室は被爆によって、焼失するまでは多門と呼ばれていた箇所のあたりにあり、昭和11年(1936年)には国の史跡に指定されました。

 



頼山陽が幽閉されていた当時の頼山陽居室は、被爆により焼失しましたが、昭和33年(1958年)に復元されました。
頼山陽はこの幽閉さえていた3年間、著述に専念し、晩年に完成する「日本外史」の草稿をまとめたとされており、これは幕末の尊王尊王攘夷運動に影響を与えたとされています。

幽閉が解かれてからも著述に専念し、後半生を京都で送り、文政9年(1826年)頼山陽居室に幽閉されてからおよそ26年の後に「日本外史」を完成させ、翌年にはこの「日本外史」を老中の松平定信に献上した。この時すでに頼山陽は47歳であった。

その後も著述に携わり、51歳のころから喀血をみるなどし健康を害していた。それからも病態は悪化していたが、著述には専念していました。

しかしその2年後、天保3年(1832年)頼山陽没し、享年53のことでありました。



資料館のご案内
まず、「頼山陽史跡資料館」についてはじめにみえてくるこの門構え!

江戸時代には、「杉ノ木小路」と呼ばれた武家屋敷地とあってやはり堂々としています。

個人的には、このような塀や門が堂々とした、庭が広くて、池付の家に将来は住みたいな〜と思ってしまいました。
おそらく手入れは大変なのでしょうが(笑)





そして門をくぐると、きれいに敷き詰められた石畳と丁寧に剪定された庭木がお出迎え。
写真中央の庭木の下にある造形物は、「頼山陽史跡資料館」が被爆後に建設されるひとつ前の「山陽記念館」の際のバルコニーの手すりで、被爆時に全壊せずに残った部分で、これを切り取り被爆時の状況を今に伝えるための資料として保存してあるようです。この造形物はテラコッタ(イタリア語:焼いた土に由来)で作られたもので、素焼きの陶器のデザインをバルコニーの装飾として当時は使用していたのかもしれません。

右側の見取り図は、頼山陽が暮らしていた当時の邸内図で、左下あたりが門があって入ってきた当たりになります。
少々庭が狭くなっているように感じますね。

まっすぐに行けば資料館内の方へとつづき、写真右の細い石畳の道の方へと行けば頼山陽居室の庭内に移動できます。
 

 



そしてとうとう資料館内に入り、最初に正面に見えてくるのは中庭の文人庭です。しかしこの文人庭、中庭というには幻想的すぎて庭というより別の別の空間にあるような感じがします。ぜひ来る機会があれば見てみて下さい。

この頼山陽史跡資料館内には、この文人庭以外にも色々な画家の方の芸術作品が展示されている展示室や頼山陽の生涯を年表にまとめたものや頼山陽の執筆した作品等を展示した常設展示室、またお茶会が開かれる茶室などがあります。

ちょうど私が来た時も、お茶会が開かれていたらしく人が多かったので資料館内は撮っていません。
もちろんそもそも展示室などの撮影禁止場所はとりませんよ(笑)

このように広島には、たくさんの歴史的資産やみどころがありますのでこれからもどんどん紹介していきます。



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