加藤友三郎像


加藤友三郎、ここにあり!
この加藤友三郎は、文久元年(1861年)2月22日に広島藩士加藤七郎兵門の三男として現在の広島市中区大手町で生まれました。

修道学園の前身である藩校や海軍兵学校に学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務められています。

第一次世界大戦後、日本は周辺防備のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態になって財政破たんの危機に至り、軍事費を削減してこの建直しが迫られることになりました。

時同じくして、欧米諸国も同様の状態に陥り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にありました。

このような状況のもとで、大正10年(1921年)11月から翌年2月にワシントンにおいて主要9カ国による「海軍軍縮会議」が開催され、この時、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席し、アメリカから示されたわが国の海軍軍備を対米英比6割に縮減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印しました。

このとき軍部の強硬派に対して、

国防は、軍人の専有物ではない。国防は国家総動員の上に築かれなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ、国防力は高まらぬ

と述べたのです。

大正11年(1922年)6月、軍縮会議後の施策推進最適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任し、

軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船縮減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのである。

そのほかにも、軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回すなど、国民生活に直結する諸政策を進め業績を残しています。

これらの業績を称え、広島中央公園に加藤友三郎の銅像が建てられました。




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