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ドラえもんと日本人

「のびちゃん、ドラちゃん、おやつですよ」

のび太のママは、ドラ焼きとジュースを二人分用意し、二人はなかよく、あるいは多くの兄弟がそうするように、取り合って食べる。ドラえもんは食事もするし、恋愛だってする。私達が何かを感じるのと同じようにドラえもんが何かを感じることを疑う日本人はいない。それは極めて日常の風景であり、ことさらに取り上げて議論されるべき話題だとは考えられていない。

アトムに始まり、ドラえもん、アラレちゃんからキューティーハニーまで、これは日本のアニメの日常であり,ロボットには人間と同じ人格が認められてきたといえる。しかし、このことがひとたび海を越えたとき、日本のアニメの中のロボットは、世界の価値観の変革を迫る大きな波となっている。

ロボットを家族の一員、社会の一員として描いた日本アニメの世界観は、衝撃と困惑をもって世界に受け止められた。ロボットの描き方はそれほどまでに衝撃的なことであった。というのも、西欧の価値観に基づくと、ロボットは機械であり、無機質で機械的な冷たいもので、決して人間のような存在にはなりえないものだと考えられているためだ。ロボットは魂をもつ人間とは根本的に異なるモノであり、それにも関わらず、その機械はあたかも人間であるかのように振る舞い、登場人物や日本人の誰もそのことを問題としない。私たち日本人は改めて考えることのないことだが、西洋にとっては異質で斬新な価値観として評価されている。

これほどに、世界に衝撃を与えた日本人のロボットへの感性の根幹には、日本人の持つアニミズムの呼吸がある。私たちがロボットを―現実の日常に進出してくるにはまだ時間を要するとはいえ―人類の友、あるいはパートナーとして認識するとき、そこには非生物への感情移入が成立している。この種の共感:感情移入は、アニミズム-しばしば、思考や情緒が未発達な幼児に特有のものとして‐西洋では定義される。しかし、日本では擬人化は子供の独占物ではない。直接的にアニミズムを描いたジブリから、びんちょうタンや鉄道擬人化といった萌え文化に至るまで、アニミズムを母体とした日本人の感性がいきている。もっとも、多くの場合、日本人自身がそうした思考体系に目を向けることはなく、したがって意識されることはない。西洋の目を通すことで初めて、ロボットに抱くアニミズムの呼吸に気づくことになる。

先端科学とロボット

しかし、アニミズム―非生物への共感―を科学の最先端で導入したとき、―そして私たち日本人にとっては、アニミズムの呼吸を自ら自覚したとき―このことは人間の存在の尊厳を問いかけてくることになる。ロボットに心があるのならば、私たち人類の尊厳は何なのだろう。換言すれば、ヒトは、ヒトの心は脳という機械による機械的な処理にすぎないのだろうか、ともいえる。もちろん、この問題が大脳生理学の問題として、あるいはパターン認識、といった問題を通して私たちが探求し始めたのは数十年のことであり、いまだに確固たる知を持っているわけではない。しかし、ヒトの心は科学の研究の範疇に急速に取り込まれてきていることは事実である。

心―脳の情報処理の過程―を物理法則に則る自然現象として認識した時、私たちとロボットにどれだけの相違があるのだろうか。あるいは、はたして、違いはあるのだろうか。この問いかけは、西洋にとっては痛烈な難問を突きつけてきた。

西洋ではキリスト教の価値観から、人間の尊厳を規定してきた。一神教では、心、あるいは魂は創造主の独占物であり、生命の創造は神の御業とされてきた。魂や霊性としての人間はその他のありとあらゆるいかなる生物とも異なる、尊い存在である。ましてや、人間の被造物に魂がやどるとは考えられてこなかった。むしろ、そうした考え方を偶像崇拝として忌み嫌ってきた歴史さえある。この点では、西洋はロボットを受け入れない土壌があったといえる。

このように、西洋の人間中心主義的な視点からは、人間の尊厳、たとえば心や魂の問題は不可侵の領域として科学の外に置いてきた。ロボットという概念がSFに登場した時から、それは日本人がロボットに抱く感情とは大きく異なる価値観によって書かれたものであったし、人工の生命―フランケンシュタインの怪物やターミネーター、マトリックスなどのSFに見られるように―は、人間への氾濫を起こす脅威として描かれてきた。人工知能、コンピュータの氾濫−フランケンシュタインコンプレックスと呼ばれる―は、人工生命が人間の尊厳を脅かすことへの不安、すなわち“神への冒涜”への畏れであった。

こうした不安や困惑を乗り越えたとき、私たちヒト自身とは何なのか、という問いを深めることができる。ロボットが心を持ちうることを知ることで、ヒトの心に関する新たな知を経て、新しい人間観、世界観を構築していくことになる。

たとえば、サールの「中国語の部屋」が、背景としてヒトの尊厳―創造主による特別な尊厳を与えられた存在―という価値体系を踏襲しているとしても、中国語の部屋は問題を明確にし、心と脳―ある種のアルゴリズム―との関連を認識することへと繋がっている。

今や、日本の考え方はアニメや技術とともに世界へ輸出され、世界の価値観に改革をせまっているのだ。こうした日本人の感覚は、たとえばドラえもんなどの多くの日本のアニメを通して世界へ輸出されている。私たち日本人の一部が、たかがアニメと軽んじている間にも、アニメによって表現された世界観は、一神教の世界に広がっている。日本の文化として海外への輸出を積極的に推し進めようとしている大臣―ローゼンメイデンを読んでいて話題になった―の活躍にも期待される。同時に、こうした価値観はその他の分野へも波及している。たとえば日本のロボット産業は、アトムやドラえもんによって育った日本人技術者によって支えられてきた。アイボやアシモなどのロボットたちも、同様に世界へと波及している。こうした文化で育った世界の新しい世代は、どのような未来を切り開いていくのだろうか。

(注)

野比玉子。野比のび助の妻であり、野比のび太の母。

ドラえもんにはミーちゃんというガールフレンドがいる。

ピノキオは暴走も反逆もしない、心をもつ主人公ではあるが、人形である=不完全人間になりたい(人間になることがハッピーエンドである)という価値観は西洋的である。

ドラえもんの鉄人兵団、アニマルプラネット、ねじまきシティなどの映画では、SFの常套であるフランケンシュタイン・コンプレックスの構図を利用しながらも、逆説的で日本的な描かれ方をしている。

人形が主人公となる ローゼンメイデンもまた、間違いなく日本人独特のアニミズムがいきているといえる。

2007/6/10


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