
織田信孝(神戸・三好信孝)の家臣団と軍団のページです。
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織田家 高野山攻囲軍 のち 南海道方面軍 三好軍大将。 「信長様御名代」。 「 四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、 御人数御催なされ、五月十一日、住吉に到りて御参陣。 」 - 『信長公記』 − |
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明智(惟任)光秀の軍団 徳川家康の軍団 織田信長年表と織田水軍 大須賀康高の軍団
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(1581年10月〜1582年5月) 高野山征伐軍、副将・筒井順慶・定次。軍監・堀秀政。 (1582年4月頃〜)四国方面軍大将。軍監・矢部家定。
<信孝の一門(連枝衆)・側近衆> *織田家縁戚 *小島* (*〜1583*)(坂)・兵部・兵部少輔。信長側室・坂氏の息。信孝の異父兄弟。信孝の後見人。信孝家臣。家老として各地を転戦。高岡城主。1583年神戸城留守居。林与五郎軍に降伏する。以後消息不明。<柴田家家老の小島若狭守との関連が気になるところです。><のち蒲生氏郷の重臣にも「坂」姓だった武将が居ます。> ▽長尾一勝 (1550〜1619)山路種常・久之丞・隼人正。伊勢の豪族。小島兵部の家老。高岡城主・山路紀伊守・正幽の息。兄に山路正国。信孝家臣。のち福島家に出仕し「福島三家老」のひとり。 *幸田孝之 (*〜1583)彦右衛門。信孝の乳兄弟。信孝の後見人。信孝家臣。家老として各地を転戦。美濃で秀吉方の稲葉家との合戦で戦死。 *織田信兼 (*1558〜1583)津田信廉・新八郎。織田信勝の息(次男)。津田信澄の弟。父・信勝は1558年に暗殺される。柴田勝家に養育される。信孝家臣。「本能寺の変」の信澄事件には連座せず。三好(神戸)信孝に仕え信孝の直臣として殉じた。<父上の死亡年から逆算。大坂に兄・信澄とともに四国渡海の準備でいたとすれば、変後に光秀の同心として討ち取られていてもおかしくないので、元々兄とは別行動で三好信孝に出仕していて、近くの馬廻りにいた信頼から生きながらえたか。><兄・信澄とは分離して部隊を率いれる器量ということでしょうか。> 駒井重勝 (1558〜1635)八右衛門・中務少輔。近江国粟田郡駒井出身。信孝家臣。信孝の右筆を勤める。のち秀次、前田利長に出仕。<近江流出の人材。>
<信孝の家老衆>1568年信孝付き、「四家老」。 ○岡本良勝 (1544〜1600)平吉郎・太郎右衛門・重政・下野守。熱田神宮の社家一門。信孝の母方の叔父。1568年信孝の神戸家養子に坂口縫殿助とともに付家老として従う。信孝家臣。2万石。峯城主。<津島の岡本家でしょうか。> *坂 * (*)仙斎。信孝家臣。四家老のひとり。<信孝の母方の一門か。小島氏とも関連ありか。> 三宅* (*)権右衛門。信孝家臣。四家老のひとり。<三河の三宅か、美濃の三宅か。明智氏とも関連ありか。> 山下* (*)三右衛門。信孝家臣。四家老のひとり。 ⇔坂口* (*〜1570)坂田・縫殿助。信孝家臣。元・四家老のひとり。1568年神戸家養子に岡本良勝とともに付家老として従う。神戸家から信長直参に復帰し、1570年11月近江堅田で坂井政尚とともに討死。 <江北の戦場に何故いたのでしょう。>
(譜代家老) 末松* (*)吉左衛門尉。信孝家臣。 立木* (*)信孝家臣。<信雄付きの立木久内の一族でしょうか。> 河村* (*)信孝家臣。<津島の河村家でしょうか。>
(高野山攻略・与力衆) ⇔岡田重孝 (*)助三郎・小三郎・長門守・直孝・直景。尾張星崎城主。岡田重善の息。織田信長直参馬廻衆。1573年朝倉氏追撃戦に軍功。1581年10月信孝に従い高野山攻囲。紀の川口。1582年1月大和口から高野侵入。敗退。のち信雄家臣。<信秀時代からの古参の岡田家です。> ⇔竹田藤内 (*〜1582)1581年10月信孝に従い高野山攻囲。1582年4月麻生津口の飯盛山城を攻撃し戦死。<信長奉行の武田左吉の一門でしょうか。のち左吉は土方彦三郎の弟を養子にし、更にもう一人の養子、下方貞清の息・武田喜太郎(左吉の養子)は本能寺に戦死。> |
1568年神戸家養子。1571年家督反対派粛清。
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<信孝の軍団・北伊勢神戸衆> (1571) 1/*:近江日野に蒲生賢秀の計略で神戸具教を幽閉。神戸家内部粛清、山路弾正殺害。伊勢長島一向一揆勃発。鹿伏兎・峯の当主は1574年の伊勢長島一揆征伐に従軍し戦死。 ⇔▽神戸具盛 (*)左衛門尉・蔵人大夫・友盛・楽三。六角氏旧臣。政郷の息。神戸家養子。1568年織田信長の三男、信孝を養子とする。伊勢神戸城主。1559年関氏と同盟し、長野具藤・北畠具教軍と抗戦。長野軍を破る。1571年信長の命で蒲生氏の日野城に退去。1582年織田信孝の四国出陣に留守居を任される。息に(北畠)長盛、(赤堀)具之、利盛。<次男・治部少輔は赤堀氏の養子。> ▽赤堀具之 (*)具盛の息(次男)。1559年長野具藤・北畠具教軍と抗戦。波瀬具之に赤堀城を奪取される。<父と同様に1582年復帰か。> (神戸一門衆) 赤堀・山路(長尾)・国府・峯・鹿伏兎。 ⇔国府* (*)佐渡守。神戸家与力。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。国府城主。 ⇔▽国府盛種 (*)次郎四郎。国府盛邑の息。のち神戸信孝の与力。幼少の為、家老の国府市左衛門、打田新右衛門が四国征伐に従軍し摂津在陣。のち信雄家臣。 峯* (*)筑前守。神戸一門。峯城主。 ⇔峯 * (*)与八郎・興八郎。神戸一門。峯八郎四郎の舎弟。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。神戸家与力。峯城には岡本良勝が入城。 ⇔鹿伏兎* (*)加太・左京佐・左京亮。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。鈴鹿郡加太城主。鹿伏兎家は神戸信孝の与力。<名は定長か、定家か。>
(神戸家譜代480人衆の15頭)『勢州兵乱記・神戸録』 1571年神戸家老・山路弾正忠は信孝の家督相続に反対し自害。 堀内* (*)神戸家与力。<熊野新宮の堀内は縁戚でしょうか。> 河西* (*)神戸家与力。 太田* (*)監物。旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。1571年1月所領を安堵され信孝に出仕。伊勢河曲郡若松南村を領する。 高田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 村田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 岡田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。<尾張星崎の岡田氏とは縁戚でしょうか。> 高瀬* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 佐藤* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 佐々木* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 岡部* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 疋田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 馬路* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 片岡* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 伊東* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。 古市* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。<松永久秀、瀧川一益家臣にいる古市氏は一門か。> |
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<信孝の軍団・伊勢衆> ⇔関 盛信 (*〜1593)宗一・中務大輔・安芸守・盛宣・入道万鉄。六角氏旧臣。伊勢国衆。神戸家とともに蒲生定秀の娘婿。1573年近江日野の蒲生氏の下に蟄居。1574年8月樋口直房を討つ。1582年四国出陣に親子で動員される。伊勢の亀山城主。< 関家は甲州征伐に従軍、瀧川与力もしくは遊撃的軍団カ。瀧川一益軍団(家中?)から転出か。><関盛吉(一利)は柴田勝豊の家老。関=柴田のパイプ。> ▽宇野部* (*)関家家老。 ▽岩間* (*)八左衛門。関家家老。関兄弟の家督争いに、3男・盛吉(一利)を擁立。のち秀吉に反抗し、瀧川一益、国府氏と結んで謀反。 ⇔○関 一政 (*〜1625)四郎。右近衛太夫・永盛。長門守。関盛信の息、1574年兄・盛忠に代わり関氏家督。1574年8月樋口直房を討つ軍功。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。三好(神戸)信孝の与力。のちに蒲生氏郷与力。<甲州征伐後に三好(神戸)信孝の与力に転身。> ▽葉若* (*)藤左衛門。一政の側近。関家家老。
⇔○千種* (*)修理正。伊勢国衆。北伊勢の三重郡の豪族。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。千草城主。<南北朝期の名門です。> 阿野* (*)伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 草沢* (*)伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 野呂* (*)伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 荻原* (*)北方。伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 栗原* (*)伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 伊東* (*)桑名。伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 三之尾* (*)伊勢国衆。1582年四国出陣に動員される。 |
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<1580年7月前田利家・不破光治、荒木残党引渡し交渉。8月松井友閑交渉決裂。9月高野聖追討。1581年8月高野聖処刑。1581年10月堀秀政、高野攻囲。1582年「甲州征伐」。河内衆、高野の備え。> <信孝の軍団・河内衆> 1581年「高野山征伐」の頃からの与力か。 ⇔安井定次 (*)(畠山)・清右衛門。河内国の豪族。畠山姓。1581年1月信長より所領安堵される。 ⇔安井成安 (1533〜1615)(畠山)・市右衛門・道頓。安井定次の息。河内国の豪族。畠山姓。大坂道頓堀の造成者。 ⇔松山* (*)新介。元・本願寺番士。三好家家臣として5000石。2000余人を率いる侍大将。1562年安宅冬康と池田勝正と伴に出陣し紀伊根来衆を撃破。のち織田家に従い、1582年1月高野山攻めに従軍「紀伊続風土記」。伊都郡に多和城を築城。九度山を攻撃する「二見文書」。変後の消息不明。<「本能寺の変」後は、鈴木重秀のごとく危ない立場となったのでしょう。> 松山* (*)庄五郎。1581年10月信孝に従い高野山攻囲。紀の川口。<和泉の松浦総五郎と語呂が似てるw。><世代的に新介の跡職をつぐものでしょうか。> |
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<信孝の軍団> ※信孝の直参家臣ではない。 四国渡海に南山城相楽郡衆、丹波衆動員
⇔○永原重治 (*)辰千代・伊豆守。近江六角氏旧臣。神戸信孝与力。養子に赤座直保の息・(赤座)孝治。<佐久間信盛の与力、永原重康の一門か。><畿内で三好義賢との戦いで名を馳せた六角重臣・永原氏の知名度を利用しているのでしょうか。>
《個人的感想》 中国方面に既に動いていた堀秀政の如く、既に先遣部隊として四国に送り出されていたかもしれませんね。だとすれば大坂の駐屯軍の兵力が、一部既に送り出されていたとすれば、信孝や長秀の兵力も残存兵だったということになります。 矢部さんが「本能寺の変」後に皆から無視されるのも、その兵力を無駄に現地で解散させてしまったから、なんてことはないでしょうか(妄想。 |
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⇔○三好康長 (*)孫七郎・山城守・笑岩。三好長秀の息。三好家の長老、長慶の叔父。三好三人衆と結び、松永久秀と対立。1568年の信長の上洛以来、長く信長に対抗する。1569年1月足利義昭の拠る本國寺を襲撃。1570年石山本願寺と同盟し野田・福島砦に籠城。1573年足利義昭、松永久秀、三好義継と反信長同盟を結び河内高屋城に籠城。1575年再び河内高屋城に籠城。1575年4月降服赦免される。1576年原田直政に従い「本願寺攻囲戦」に従軍、先陣を務めるが敗走。1580年本願寺との和睦の仲介役を務める。1582年に阿波国守護、神戸信孝を養子に迎える。 ⇔▽三好長房 (*)備中守。三好長直の息。三好康長の直臣。1562年三好義興に従い河内教興寺出陣。1566年三好義継に従い堺攻撃。1568年義昭・信長の入京には、三好義継の下から離れ三好三人衆方。阿波に退く。1570年7月阿波より渡海し摂津野田・福島城に籠城。のち三好康長に従う。 ⇔▼三好房一 (*)新右衛門・丹後守。長房の息。康長の直参。後、羽柴秀吉の黄幌衆のひとり。 ▽雀部重政 (1559〜1595)玄蕃充・淡路守。三好康長の家臣。のち羽柴秀次に出仕。 ▽横田村詮 (*〜1603)内膳。康長直臣。のち中村一氏に仕える。 ▽乾 忠清 (1531〜1610)長大夫。三好康長の臣。 ▽東条行長 (1544〜1608)紀伊守。三好旧臣。のち羽柴秀長に出仕。
(四国衆)
⇔赤沢* (*〜1582)信濃守・入道宗伝。元・三好長慶の家臣。阿波の豪族。三好義賢の姪の婿。板西城主。変後、長曾我部氏の反攻に勝端城に籠城し戦死。<阿波の重鎮となっていたようです。> ⇔十河存保 (1554〜1586)三好・孫六・隼人正・河内守。1564年十河一存の実子は三好惣領家を継承し三好義継(〜1573)となる。三好義賢の息、叔父・十河一存の養子となる。讃岐十河城主。三好家旧臣。阿波勝幡(勝端)城主。1573年和泉衆・松浦肥前守の仲介で織田に降服。1573年阿波国上桜城主・篠原長房親子を攻撃する。1582年「中富川の合戦」で長曽我部元親に敗戦する。 <常に敵対勢力との前線で奮闘させられ、悲しき人生です・・。養父・十河一存は十河頭を流行させて、その後のサムライスタイルを確立したファッションリーダー。当時の武士の憧れの人物。> ⇔一宮成助 (*〜1582)(小笠原・三好)・成祐・入道卜閑。三好長慶の妹婿。阿波国の豪族。三好義賢をよく補佐する。1562年「久米田合戦」の殿軍に勇名。一宮城主。1577年三好家に背き、細川真之と結ぶ。三好長治を自害させる。のち長曽我部元親に降るが元親により誘殺される。 ⇔新開道善 (*〜1582)三好義賢の娘婿。阿波の豪族。富岡城主。のち長曽我部元親に誘殺される。 (四国水軍) 船越景直 (1540〜1611)左衛門。細川氏、安宅冬康、三好長治の旧臣。 篠原自遁 (*)阿波三好家家宰。木津泊の支配者。1581年2月三好康長の救援。阿波木津城主。 森 村春 (*)志摩守。三好水軍。阿波土佐泊の支配者。土佐泊城主。 香川信景 (*)之景・元景。西讃岐の国人領主。細川、三好、毛利、織田に出仕。信長より信の字拝領。変後、長曾我部氏に降る。雨霧城主。<本能寺の変でこの人も運命が大きく変わりました。> (淡路水軍) ⇔野口長宗 (*)三好。安宅冬康の弟。淡路水軍。淡路志智城主。 ⇔安宅信康 (1549*1555〜1578*1580)甚太郎。安宅冬康の息。清康の兄。三好家旧臣。水軍衆。1570年足利義昭に降る。一時石山本願寺と結び織田家と抗争。1575年頃に降服臣従する。1576年信長より石山攻囲の命を受ける。1577年毛利水軍との第一次「木津川河口の海戦」に参加。1580年羽柴軍の小西行長とともに毛利水軍を撃退する。その後、ほどなく没す。 ⇔▽安宅清康 (*)河内守。安宅信康の弟。三好家旧臣。水軍衆。安宅信康の跡職継承。1581年当時、毛利配下のため羽柴秀吉・池田元助の攻撃をうけ降伏する。池田元助に伴われ安土に出頭した。その後は織田水軍に組み込まれた。<池田元助の与力として、四国渡海組を輸送する予定か。> ⇔菅平達長 (*〜1614)菅達長・菅・平右衛門。三好水軍。淡路岩尾城主。淡路海族衆。のち長宗我部家に出仕。1585年7月の四国征伐後、秀吉配下となる。
(村上水軍) ⇔▽来島通総 (1561〜1597)村上勘兵衛・助兵衛・出雲守通昌。元・毛利家臣。水軍衆。通康の四男。1576年7月「第一次木津川河口の合戦」に毛利家に従う。毛利、織田家に出仕。1582年4月羽柴秀吉の調略に応じる。<第二次木津川河口の敗戦で織田家の力を認めたということでしょう。>
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⇔※○池田元助 ⇔※○生駒親正 ⇔※▽仙石秀久
(明石水軍) ⇔※▽明石元知 (*〜1595)与四郎・則実・則春・全豊・左近将監。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。のち羽柴秀次の家老となる。秀次事件に自殺。<黒田家から離れた軍事行動を行っているのは、信長様に将才を認められてのものか。><1581年9月「明与四」、生駒甚助とともに阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。> 石井* (*〜1592)与次兵衛。播磨明石の水軍の将。1577年頃織田家に臣従。
≪個人的感想≫ 当初、高野山攻略を担当。のち四国攻略のため編成された新軍団です。三好勢力を土台として、長曾我部を従えれば、伊予の毛利勢力を最大の敵として念頭に置いた軍団でしょう。毛利との中国地方での対決の側面支援的な役割も兼ねていると考えられます。 1582年「本能寺の変」直後に大坂では相当の混乱があって、津田信澄を襲撃したのは跡目争いを意識した信孝で、惟住長秀は両者の暴走を食い止めることができず、織田家筆頭家老としての重責を果たせなかったことに負い目を感じ、破竹の秀吉の勢いを見守ることしかできなかったのではないでしょうか。 信長様に後見人として副えられたはずの長秀さんが、清洲会議に信孝を見放すような行動をとるのは、何故に反逆の意志のない信澄を討って大坂の駐留軍を半減させてしまったのだという彼への不信感からきたものではないでしょうか。 大坂駐留軍の「仲間割れ」の出来事が、長秀さんを織田家筆頭家老の地位から転落させてしまった事件なのかもしれませんね。「信孝嫌い」から、秀吉の養子・織田秀勝への期待など、親秀吉の気持ちが膨らみはしないものでしょうか。 |
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「本能寺の変」「清洲会議」終了後。 <信孝の軍団・美濃衆> *縁戚 <美濃領主となってからの配下か。>
⇔*稲葉* (*)刑部少輔。稲葉通明の息。1570年「姉川の合戦」に軍功。1582年4月一揆に包囲された信濃飯山城に稲葉直政を救援。美濃国稲葉一族、変後、親秀吉派の一族と対立する。<稲葉家の嫡流系(良通の兄)が、刑部を名乗っている様子です。> ⇔高木貞久 (*)丞介・直介・彦左衛門・無楽。斉藤旧臣、安藤守就の元与力。安藤失脚後は織田信忠の与力。駒野城、今尾城主。 ▽高木貞利 (*)美濃出身。高木貞久の息、弟に貞秀、貞友。 |
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