柴田勝家の略年表と家臣団と軍団、佐々成政、前田利家、佐久間盛政、柴田勝豊の軍団のページです。

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上洛の主力軍を勤めた最強の大将。北陸平定に送り出された最初の地方方面軍大軍団長。

    柴田勝家公 肖像のつもり。

「 かならず先陣をつとめ、城を攻め、

         兵を返す時は その退き口大切の場合、  

              勝家が最後をたてまつる。 」

                                                    『武家事記』  

 

 織田信長の近衛軍   原田(塙)直政・佐久間信盛の軍団  織田信忠の家臣団    織田信忠の軍団その2

織田家組織図  織田信長一門(連枝)衆・織田家の系譜   瀧川一益の軍団    丹羽(惟住)長秀の軍団

 羽柴秀吉の軍団  明智(惟任)光秀の軍団   徳川家康の軍団   織田信長年表と織田水軍

 柴田勝家の略年表 (*1522〜1583)の略年表。 北陸方面軍軍団長 越前国主。

尾張国愛知郡出身。上社村を領する。

<生年については1522〜1530説があるので、だいたいこれくらいという感じで・・。54・57・58・60歳説があります。57歳の瀧川一益さんに「老齢なのに遠国においてスマナイ」と信長様はいたわっているので、1575年に勝家さんが北国御番役を申し渡された時の年齢は、57歳に比べてもう少し若い頃なのかもしれませんね。>

30歳頃(1551・1552) 織田信秀の葬儀に列席「柴田権六」。「萱津の合戦」に信勝に従い出陣。

                  中条家忠とともに坂井甚介を討ち取る巧名。

33歳(1554) 斯波義統が下克上される。弔いの為に信勝の命令で出陣

        (先手足軽衆、安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎)。

        対・織田彦五郎(信友)配下の清洲衆、柴田軍の「清洲城攻撃」。

34歳(1555) 織田秀孝殺害事件、弔いの為に信勝の命令で津々木蔵人とともに出陣。織田信次の「守山城攻撃」。

35歳(1556) 8/*:織田信勝を擁して信長に叛す。織田信長・森可成との

                  「稲生の合戦」に敗れる(信長側の佐々孫介山田治部を討つ)。

36歳(1557・1558) 11/*:信勝暗殺される。織田信長に臣従する。

 <信勝の跡職、尾張国末盛城主に抜擢され、信秀遺産の末盛衆の旗頭に。>

39歳(1560) 5/*:「桶狭間の合戦」。

                  6/*:織田軍の「美濃侵攻」、丸茂兵庫頭・市橋・長井甲斐守に破れ殿軍を務める。

40歳(1561) 5/14:斉藤義龍が死亡した機会に「美濃侵攻」。

                  「森部の合戦」に勝利(長井甲斐守・日比野下野守を討つ)。

42歳(1563) 春:「美濃侵攻」、「新加納の合戦」に敗北し、森隊とともに殿軍。

45歳(1566) 西美濃「河野島の合戦」に織田軍敗北。

46歳(1567) 4月瀧川一益が北伊勢に派遣される。8〜9月西美濃出陣、「稲葉山城攻囲」西美濃三人衆降伏。

                  9月織田信長「北伊勢侵攻」。

47歳(1568) 9/*:近江箕作城攻略の先陣。柴田・森・坂井・蜂屋が南近江鎮圧。<黒幌衆の蜂屋頼隆は軍監か。>

        9/*:織田軍の主力として上洛。岩成友通の「勝龍寺城攻略」。

        10/*:堺に進駐。森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、佐久間信盛と河内富田林に禁制。

        12〜1569年1月:三好三人衆が阿波軍を率いて上洛。

                  幕府衆・和田惟政、野間長前、結城忠正、竹内秀勝とともに軍事行動。

48歳(1569) 2/*:堺に進軍、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、佐久間信盛と制圧。

                  4/*:堺に「軍事費」賠償金を要求。

        8/*:伊勢の北畠具教「大河内城攻略」。大河内包囲与力、不破光治佐々成政

        ルイスフロイス、柴田勝家を「信長の副将」と評す。11/*:京都付近で森、坂井、蜂屋と連署で禁制。

        近江志賀郡に森可成配置(1570年3月城砦完成)。

                  南近江に柴田(長光寺)・佐久間(永原)・中川(安土)配置、

        1570年5月に各地で籠城戦。

49歳(1570) 4/*:朝倉攻め「手筒山攻略」。浅井氏反乱のため撤退。六角家残党蜂起。

        6/4:近江「長光寺城守備戦」で六角義賢軍を撃破「甕割り柴田」伝説。

                  6/28:「姉川の合戦」従軍。9/*:摂津に三好三人衆撃退。9月宇佐山城表にて織田信治、森可成戦死。

50歳(1571) 1/*:明智光秀、志賀郡配領。2/*:近江佐和山城主・磯野員昌の降伏。

                  5/*:伊勢長島一向一揆攻囲、長島退却戦にて敗退。

       <伊勢一向一揆で退き口を勤め負傷する。馬標を奪取されるほど崩れ苦戦した>

        9/1:佐久間信盛と、浅井配下「志村城攻略」。9/12:比叡山延暦寺焼き討ち

51歳(1572) 同僚・中川重政と対立。重政の弟・津田信重が勝家の奉行を殺害。

52歳(1573) 2/*:将軍・義昭謀反。近江、石山・今堅田の二城に籠城。柴田・明智・丹羽・蜂屋の鎮圧軍出陣。

        4/3:上京放火、柴田・蜂屋・中川・佐久間・明智・長岡・荒木軍。

        4/*:摂津、三好義継攻め。伊勢長島攻囲。7/*:将軍・義昭再度謀反。

                 南山城「槙島城攻略」、柴田与力に蒲生賢秀・永田景弘。

        8/17:越前乱入、朝倉義景自害。8/28:浅井家滅亡。

        9/*:柴田隊が六角義治の拠る近江「百済寺」、「鯰江城攻略」。

                  9/*:佐久間隊が六角義賢の拠る「菩提寺城」、「石部城攻囲」。

        12/26:松永久秀降伏。

54歳(1574) 3/9:大和国多聞山城の城番。3/27:原田直政とともに東大寺「蘭奢待」切り取り奉行。

                  4/*:近江国「石部城攻略」。越前一揆。

        上杉謙信越中侵攻、河田長親を配置する。6/*:伊勢長島一揆征伐に従軍。大鳥居城を攻略。

            冬、勝家病気の為に京都にて療養。

55歳(1575) 4/*:三好康長の拠る高屋城攻囲に出陣。5/21:長篠の合戦。

                  7/*:越前侵攻、三国湊の森田三郎左衛門に七日間の湾口封鎖を指示。

        8/18:勝家「鳥羽城」攻略。越前一揆鎮圧、府中(今立・南條・丹生の一部)に

                 佐々成政、前田利家、不破光治を配置。

        秀吉加賀乱入、能美・江沼郡を平定。

        8/*:越前国主拝領(支配領土は丹生・吉田・足羽・坂井の四郡)「北ノ庄城」築城開始。

                 柴田勝豊、越前豊原寺城主。

        12/*:和泉国の松浦肥前守の取次ぎ。

越前 北ノ庄城(想像図w) 

 1575年 「北陸道方面軍」の成立。遠隔地の前線に配置される(出世か左遷か・・)。

<1575年柴田勝家が「光秀出頭(出世)」と嫉妬を記す。>

 「北国表警固として越前に据え置かれ候。」「北国御番役仰付儀」−柴田勝家−『川辺氏旧記』。

 

56歳(1576) 「北ノ庄城」城郭拡大。柴田勝豊「丸岡城」築城。利家、越前一向衆弾圧。

                  5/3:伊達輝宗家臣・遠藤山城守に音信。

        1576年4月〜1577年9月能登国「七尾城の攻防」、1577年9月織田派の長続連・綱連親子討死。

57歳(1577) 8/10:加賀豪族・柴山長次郎の取次ぎ。8/*:瀧川、丹羽、羽柴等、越前救援。

                  9/*:羽柴と対立。上杉謙信、能登制圧。

        9/*:上杉軍との「手取り川の合戦」にて敗北

                  柴田監物・義宣が谷城を攻囲するが七山家一揆に撃退され戦死

58歳(1578) 3/13:謙信没し、上杉家内紛。加賀制圧。柴田義宣養子・柴田(佐久間)勝安が加賀の谷城を攻略。

                  能登、越中乱入。

        9/*:美濃国からの織田信忠配下の援軍・斎藤長龍佐藤秀方森長可坂井越中毛利秀頼が、

        上杉の旗頭・河田長親と合戦し是を破る。

        10/*:「越前衆」佐々、前田、不破、金森、原が「荒木村重討伐軍」として山陽に派遣される。

59歳(1579) 3/*:北条後援の上杉景虎を、武田後援の上杉景勝が制し家督相続。加賀牛首組・加藤藤兵衛が降服。

        4月「荒木村重討伐軍」佐々、前田、不破、金森、原が帰還。

                  8/9:「加賀征伐」安宅、本折、小松町口を火攻めし、帰陣。

60歳(1580) 3/9:「加賀征伐」柴田勝家・拝郷家嘉・徳山則秀・佐久間盛政(1500)、「金沢(尾山)御坊の合戦」。

        末森城主・土肥親真を撃破。<北陸道方面軍の稼動。>

        8/*:林秀貞、佐久間信盛が追放される。越中富山攻囲で勝家、佐々成政と対立。

                 佐々成政、越中守山城の神保長住救援。

        11/*:一揆首領の若林長門・坪坂新五郎等、19名の首級を信長に献上。

        <北陸道方面軍の稼動。加賀平定。>

61歳(1581) 2/*:柴田勝家、不破光治、前田利家、上洛。京都馬揃え」に参加。

        3/*:「京都馬揃え」の隙をつき加賀一揆蜂起、留守居の将、

        吉原次郎兵衛、毛利九郎兵衛、徳山少左衛門戦死

        3/1:上杉景勝が「越中進軍」。河田長親の拠る松倉城入城。織田方小出城の攻防。

        佐々成政「越中乱入」。

        加賀方面は佐久間盛政が一揆鎮圧。<北陸道方面軍の稼動。>

        9/*:越中「荒川の合戦」佐々成政(3000)対・河田長親(2500)、丹羽権平の横槍で勝利。

        1581年菅屋長頼(七尾城)、福富秀勝(富来城)が能登平定後の政務。

         9/*:伊賀制圧。 10/*:前田利家、能登拝領。佐々成政、越中富山城主。

        12/*:前田利勝、信長娘と婚姻。

 <北陸道方面軍の拡大。>

62歳(1582) 2/*:総大将・織田信忠に従い飛騨口より金森長近軍団が「甲州乱入」。

        不破勝光原長頼(原長政)、信濃国の諏訪高遠の信長本軍に召集。

                  3/11:武田勝頼自害。3/*:一揆方・富山城落城。佐々成政軍団、越中平定戦。

        6/3:越中魚津城奪取。

        清洲会議に出席。

63歳(1583年) 越前北ノ庄城にて自害。<1585年に丹羽長秀も北ノ庄にて自害・・・。>

<越前支配の後半、金森・原・不破は柴田勝家指揮の北陸軍団から切り離された行動をしている様子です。柴田軍団は養子・勝豊、拝郷や毛受、甥の佐久間盛政など粒ぞろいの武将が育ってきていたので、与力なしで独力でも上杉と真っ向勝負できる威容を備えていたのかもしれません。>

 柴田勝家 評 「甚だ勇敢なる将軍にして、全生涯を武道に委ねた。」 -ルイスフロイス-

 

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 柴田勝家与力衆 (その1)尾張末盛城「織田信勝(信行)」家臣時代

⇔↓柴田勝家 (*1525〜1583)権六・修理亮。斯波系。尾張譜代の宿老。織田信勝の後見人。1553年7月「海津の合戦」、1554年「清洲城攻略」に軍功。1556年8月林秀貞と結び、織田信長の失脚を謀るが「稲生の合戦」に敗れる。以降、信長に忠節を尽くし、1568年上洛に従う。1570年5月近江長光寺城主。6月佐久間信盛とともに「落窪の合戦」に六角氏残党を撃破。1573年将軍義昭との抗争では京に出陣。<この間、明智光秀の出世に嫉妬>1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1575年から越前国主として八郡を領する。「(仮称)北陸方面軍大軍団長」。1577年加賀攻略に瀧川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉を率いる。1580年加賀平定。1581年「京都馬揃え」に参加。与力の佐々成政に越中、前田利家に能登が与えられる。1582年には越中魚津城まで進出、「松倉城攻囲」の陣中で「本能寺の変」を知る。原田直政は婿(直政は同世代のようなので勝家の姉妹か?)。

<1550年代、「織田信勝(信行)」末盛城家老時代の先手足軽(末盛)衆>

安孫子* (*)右京亮。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

藤江* (*)九蔵。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

太田* (*)牛一・又助。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。のち信長直参。『信長公記』を世に残す。<織田信勝の先手足軽衆か?>

木村* (*)源五。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

芝崎* (*)孫三。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。<織田信勝の先手足軽衆か?>

山田* (*)七郎五郎。信長弟・信勝の末盛衆。1554年柴田勝家に従い「清洲城攻撃」。<織田信勝の先手足軽衆か?地味に尾張に勢力をもつ山田一族。>

 織田信長一門(連枝)衆

 

 柴田勝家与力衆 (その2)

<1571年 伊勢長島一揆征伐戦「大田口の合戦」 柴田軍団与力衆>

塚本* (*)小大膳。尾張譜代。柴田軍団の目付け、軍監か。<のち信忠軍団配属。>

市橋長利 (*)九郎右衛門。美濃衆。早くから織田家に通じ信長奉行。<のち信忠軍団配属。>

氏家直元 (*)卜全。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<戦死。子息は信忠軍団配属。>

安藤守就 (*)伊賀・平左衛門。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<失脚。>

稲葉良通 (*)伊予守・一徹。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<のち信長直属。>

不破光治 (*)河内守。美濃衆。「西美濃四人衆」のひとり。<のちも柴田勝家与力。>

丸毛光兼 (*)兵庫助。美濃衆。美濃の侍大将として数々の合戦で織田軍と抗戦。<のち信長直属。>

飯沼長継 (*)勘平。美濃衆。美濃の侍大将。<のち信忠軍団配属。>

《個人的感想》 20年後には美濃衆を率いる旗頭に成長していたということですね。

織田信忠の家臣団

1560年「桶狭間の合戦」に今川義元、討死。

下社の柴田家は西三河方面の重鎮。 岩崎丹羽氏の抑え、守山、末盛の監視。落合の戸田氏は品野城にて離反した桜井松平家次の抑え。

 柴田勝家の家臣団と軍団 1575年成立。○与力衆(目付)  織田信忠(1557〜1582)世代

柴田勝家 (*1525〜1583)権六・修理亮。柴田土佐守・勝義の息。兄弟に勝直。織田信秀の重臣。信長弟・織田信勝(信行)の後見人、のち信勝に替わり末盛城主。姉妹は原田直政の妻。信勝の息・津田信澄(信重)を養育する。近江長光寺城主。1571年伊勢長島一揆征伐に佐久間信盛とともに軍団旗頭。1575年8月越前一向一揆を滅ぼし、八郡支配を任される。1577年「手取川の合戦」に上杉謙信に敗北。1578年加賀国を制圧。1580年越中侵攻。1581年京都馬揃えに上洛。越前国北ノ庄城主。息に勝敏、養子に勝豊、勝政、勝久、(勝忠、勝里とも)。娘(養女)婿に高城(千葉)胤則。<個人的には斯波氏の家老の家柄の島田氏(越前侍)との関係が気になります。本当に斯波家の庶流なのかな・・。><裏付けがとれませんが、前妻は幌衆・飯尾信宗(尚清:1528〜1591)の娘(年齢的におかしいので飯尾定宗の娘(信宗の姉妹)か。><織田信長早期の重臣・森可成、坂井政尚が、勝家はどうして矢玉の飛び交う戦場で伏せない(身を隠さない)で指揮を執るのだと戦話の話題にあげていたといいます。猛将に驚嘆される猛将。危険を楽しむ破滅願望が信長様と通じる部分だったのでしょうか。><家紋的には北信濃の武家がよく使う紋章らしいです。斯波家が信濃守護となったときに在地の豪族と縁を結んで尾張に連れてきたのかもしれませんね。><息の柴田勝忠という系統は最近勝家肖像画がでてきた子孫の方の家系なのでしょうか。詳細不明です。>

<柴田勝家の一門(連枝衆)> *柴田一門

柴田勝義 (*)平・土佐守・勝成。土佐守・勝重の息。息に柴田勝家、勝直。柴田家一門衆惣領。愛知郡上社城主。娘婿に佐久間盛次、瀧川一益。<柴田氏の別系図から。土佐守・勝義と同一人物か。?><瀧川一益と柴田さんが関連するところが面白いです。どうなんでしょう。>

柴田勝直 (*)土佐守・勝成(勝義?)の息。柴田勝家の弟。柴田家一門衆。下社城主。<柴田義宣と同一人物か。?><勝直といえば、信長様の肖像画と関連する余語勝直とかもいますけど・・。柴田=余語なのか、佐久間=余語なのか、佐々=余語なのか、混同されただけなのか。ややこしい関係です。>

柴田勝仲 (*)十兵衛。勝直の息。柴田家一門衆。のち福島正則家臣。下社城主。<十兵衛というところが、美濃の明智系柴田を臭わせます(笑。>

柴田* (*)宮内少輔。柴田勝家の兄弟。柴田家一門衆。<柴田勝直と同一人物か。>

▽柴田勝春 (*)柴田勝家の兄弟の息。勝家の甥。柴田家一門衆。1583年九州に落ち、立花家に出仕。

*吉田* (*)(柴田)・次兵衛。柴田勝家の一門衆。柴田勝家の姉婿、柴田勝豊の実父。1575年越前国丸岡城主。4万5000石。<草履取りからの出世で名高いらしい、秀吉の様な・・。勝家も実力主義者なので秀吉とは相性が悪かっただけか。>

渋川* (*)(柴田・吉田)・弥左衛門・八左衛門。吉田一門。柴田勝家家臣。<??吉田次兵衛の養子で、柴田勝豊の実父とも??。>

↓▽*柴田勝豊 (*)吉田勝豊・(渋川?)・伊介・伊賀守。柴田勝家の一門衆。吉田次兵衛の息。稲葉貞通の娘婿。柴田勝家の姉の息、勝家の甥。勝家が養子に迎える。1573年京都の治安維持に勝家配下の将として従軍。1575年越前丸岡に入城。1581年京都馬揃えに上洛。<柴田家を、斯波家を継承した足利の名門・渋川氏に近づけようという系図操作でしょうか。>

↓▽*柴田勝久 (1568*〜1583)権六。柴田勝家の一門衆。柴田勝家の妹の息。養子に迎える。1583年「賤ヶ岳合戦」に出陣。<柴田勝家の姉妹は佐久間盛次、瀧川一益に嫁いだらしいですが・・。佐久間(柴田)勝政も妹の子ですが・・。>

*柴田勝政 (1556〜1583*)佐久間勝政・三左衛門・勝成・(勝安)・実政。柴田勝家の一門衆。父は佐久間盛次。母は柴田勝家の妹。佐久間盛政の弟。勝家の養子。日根野高吉の娘婿。弟に勝之。1580年3月「加賀侵攻」に先陣を務める。1581年京都馬揃えに上洛。のち蒲生家に出仕。息に勝重、勝次。勝山城主?。<勝安は別人ということらしい。勝山城も勝安が城主らしい。義宣の養子なら、勝家の養子というのは誤りになりますし・・。>

山本* (*)猪右衛門。柴田勝政の郎党、側近。

*↓柴田勝之 (1568〜1634)佐々勝之・佐久間勝成・源六郎・大膳亮・安之。柴田勝家の一門衆。佐久間盛次の息(4男)。母は柴田勝家の妹。佐久間盛政・勝政の弟。1582年織田信忠に従い、信濃高遠城攻略に軍功。佐々成政の娘婿。佐々家に養子に迎えられる。のち蒲生家に出仕。

↓▽*柴田勝敏 (*1568〜1583)於国丸・権六・宮内少輔・(勝久)。柴田勝家の一門衆。勝家の息(実子)。1575年「越前侵攻」に従軍。1577年7月菅屋長頼から織田剣神社の宛がいを指示される。1583年「賤ヶ岳合戦」に出陣。捕虜となり近江佐和山にて斬首。<佐和山城は死刑執行場なのでしょうか・・・。*活躍期間のわりに生年が怪しい。>

⇔↓○*佐久間盛政 (1553〜1583)(柴田)・理助・修理亮・鬼玄蕃。五器所・佐久間家。柴田勝家の一門衆。父は佐久間盛次、大学・盛重の甥。母は柴田勝家の妹。1575年「越前侵攻」に従軍。1580(天正8)年3月「加賀侵攻」に先陣を務める。豪勇で天下に知られる。加賀(金沢御坊)尾山城主。石川・河北の二郡を支配。1581年京都馬揃えに留守居。1583年「賤ヶ岳合戦」に不覚。↓下位の佐久間盛政軍団を参照してクダサイ。<本家・佐久間大学盛重(盛次の兄)の嫡男・佐久間盛昭は信長馬廻(北畠攻略に尺限番衆)から、丹羽長秀の与力となって奥山と改姓するようです。><秀吉政権下で一門の佐久間道徳は京都でクーデーターを起す。>

佐久間* (*)(柴田)・帯刀左衛門。五器所・佐久間一門衆。盛政とともに1575年「越前侵攻」に従軍。

*柴田義宣 (*〜1577)監物。柴田勝家の一門衆。加賀侵攻に七山家一向一揆の拠る谷城を攻囲し戦死。<越前の勝山城主?>

柴田勝安 (*〜1583)佐久間勝安・勝成。柴田勝家の一門衆。柴田義宣の養子。佐久間盛次の息。佐久間盛政、柴田勝政の弟。義宣戦死の翌年、谷城を攻略。越前勝山城主。<その活躍年代からして佐久間盛政の庶兄でしょうか。勝山城主となる原長頼との関係が気にかかるところです。><原さんは名前が勝胤・勝根とめまぐるしく変わるので、一時柴田義宣の養子となっていたりするのでしょうか・・・。>

*柴田勝全 (*)次左衛門尉。柴田勝家の一門衆。1575年「越前侵攻」に従軍。のちに堀秀政に仕える。越後青木山城主。<花押が勝全と勝定は別物らしいです。次左衛門、源左衛門も別々の人名ということでしょうか。>

*柴田勝定 (*)源左衛門尉・佐渡守・安定。柴田勝家の一門衆。1575年「越前侵攻」に従軍。越前領内の寺社奉行。1578年北ノ庄城城代、丸岡城救援。<明智光秀臣下の柴田勝定(源左衛門が重複する)は別人でしょう。同じ源左衛門なので混同されたのでは。美濃侍の柴田角内の系統など、美濃柴田氏の結びつきではないでしょうか。><明智・柴田両家とも滅亡した影響で残された資料が少ないのでしょう。現在では明智秀満(弥平次)と光春(左馬介)が別人ともいわれるくらいですから・・。>

<柴田勝家の御由緒家> ※家臣ではない。*準一門

⇔※*原田直政 (*〜1576)塙。柴田勝家の婿。姉は織田信秀側室。妹は織田信長側室。元・赤幌衆。「長篠の合戦」に旗元鉄砲衆の指揮官。1575年任官、原田改姓。山城守護・大和守護兼任。畿内織田軍の旗頭。<原田直政の姉妹は織田信秀・信長親子の側室でもあり、信長様と柴田を結ぶ重要人物。><息子のひとりは柴田家の養子とかになってないのでしょうか。謀反人の息・信澄を育てた勝家ですから、ひきとりそうな気がしますが。>原田(塙)直政の軍団 

⇔※*佐久間盛次 (*)柴田勝家の婿。五器所城主、佐久間盛重の弟。佐久間盛政兄弟の父。織田の重臣・佐久間家と柴田家を結ぶ重要人物。<佐久間盛政が父の戦死後、若年で家督を相続し軍功をあげ「鬼玄蕃」と呼ばれたとされるので、早く戦死しているようです。>

⇔▽*保田安政 (1555〜1627)佐久間安政・久六郎・久右衛門・備前守・安次。父は佐久間盛次。盛政の弟。畠山昭高臣、紀州保田若狭守・知宗の養子。のち蒲生家に出仕。<紀州勢として畿南に所在したか。1582年「山崎の合戦」以降に北陸軍に合流か。><高野山攻めに神戸信孝の軍団が紀州方面に存在したようなので、その配下となっていたか?>

⇔※▽津田信澄 (1557〜1582)織田信澄・坊・坊丸・信重。織田信勝の嫡男。*柴田勝家に養育される。浅井家重臣・磯野員昌の養子となり、大溝城主。<勝家の主筋です。><末盛の足軽衆は信澄に従うか。>惟住(丹羽)長秀の軍団

⇔※▽*高城胤則 (1571〜1603)源次郎。関東衆・下総の原(千葉)家の家老職、高城胤辰の息。柴田勝家の養女(中村文荷斎の娘)と婚姻。12歳で父の死により家督。1585年千葉邦胤が死去、以後は北条氏政の七男・千葉(北条)直重に出仕。佐久間安政を匿う。下総小金城主。<柴田勝家在命中の婚礼だと思います。本能寺以前か、以後か。秀吉との対立の中での同盟ということもあるかもですが、それなら北条家一門と結ぶだろうし・・・。織田家の勢いをみて、主家からの独立を目指す胤辰が、中央勢力と結びたいと思い息子の嫁にと柴田勝家に懇願したかもいれませんね。>

<尾張衆 由緒ありか?

⇔※*飯尾信宗 (1528〜1591)織田・隠岐守・尚清。織田一門。飯尾定宗の息。織田信秀の娘婿。娘は長谷川秀一の室。元・赤幌衆<裏付けがとれませんが姉妹が柴田勝家の前室とも。信長様側近の長谷川秀一とも繋がるパイプの人物です。信長と柴田を結ぶ重要人物。>

⇔※*飯尾敏成 (*〜1582)織田・茂助・毛助。飯尾尚清(信宗)の息子。準織田一門。信長側近・長谷川秀一と義兄弟。1582年「本能寺の変」に新二条御所にて討死。<代々、幌(母衣)を背負って武門の誉れ高い一族だったのでしょう。><柴田・原田・飯尾・長谷川の血脈も、織田家と深い係わりがあるようです。>

⇔※*長谷川秀一 (*〜1594)織田・可竹・御竹・貞長・藤五郎。長谷川嘉竹の養子or実子。赤幌衆・長谷川橋介の甥。飯尾信宗(尚清)の娘婿。織田信秀の庶子とも。1575年「長篠の合戦」に従軍。1575年12月信忠に家督譲渡後の側近。翌年、二条御所・安土城築城開始。伴天連屋敷造営奉行。矢部家定と安土宗論の奉行を務める。秀吉との関係良好。接待中の家康と伊賀越え。東海道・関東方面担当(徳川・穴山目付け)。越前敦賀11万石。<一門代表の側近として、同じく一門の万見さんの跡職を継承したのか。><1581年〜本能寺前は近江比田(肥田?)城を与えられていたようです。比田=肥田ならば、蜂屋頼隆の和泉半国守護栄転により与えられたものでしょうか。>

織田信長の親衛隊

<美濃衆? 由緒ありか?

柴田角内 (*〜1556)信長公記の尾張守護代家の家人に柴田角内あり、尾張守護・斯波義統を襲撃する。その後に斎藤道三の家臣・柴田角内あり。道三息子の斎藤義龍の軍勢との前哨戦に道三軍の代表として「一騎打ち」に勝利する。清洲織田家滅亡後に斎藤道三のもとへ行くというのも不思議。斯波・武衛家を道三が滅ぼしたくて、あらかじめ送り込んだ刺客なのか、美濃「長良川の合戦」後は登場してこないので、ここで道三に殉じたのでしょうか。柴田勝家との関係は一族?それとも別系?なのかはっきりしません。 とにかく気になる人物なのですw なので家臣ではないですが掲載しました。><明智光秀に与し、斉藤利三と縁戚である柴田氏は美濃の柴田なのではないでしょうか。明智家と縁戚である美濃の柴田とはこの角内の一門を指していて、尾張の柴田とは関係ないのかもしれません。>

<近江衆 由緒ありか?

新庄直頼 (1535〜1612)新三郎・駿河守。琵琶湖の要所、朝妻湊の領主。坂田郡朝妻の土豪、新庄直昌の息。佐久間盛重の娘婿。1549年に父が戦死し家督。1570年「姉川の合戦」に第4陣を務める。1573年六角残党とともに西近江・新庄城籠城。浅井滅亡直前に織田家に臣従する。木下秀吉の与力。朝雲城主。息に直定、直綱、秀信、直房。娘婿に柴田某。養女に佐久間盛政の娘。<同じ坂田郡の今井家との関係がきになるところです。><柴田・佐久間とただならぬ関係。><秀吉に従わない新庄家・・。柴田、羽柴の加賀遠征の喧嘩別れの原因となる人物だったりして。>

<三河衆 由緒ありか?> 瀧川に仕える本多、柴田に仕える松平、徳川家臣というのはあやしすぎる。

柴田政之 (*)息に久則、重久、重次、政忠(康忠)。<詳細不明。徳川の功臣のはずなのに話題にものぼらない事が不思議です。>

柴田康忠 (1538〜1593)七九郎・孫七郎・重政・政忠。柴田政之の息。兄に久則、重久、重次。三河一揆では改宗し家康派。その時の武功により「康」の字を与えられる。1571年「味方ヶ原の合戦」、1575年「長篠の合戦」に先鋒を務める。本能寺の変後、諏訪郡高島に陣し、信濃佐久衆を支配。娘婿に神保氏勝。<柴田家の家紋からたどると戦国以前に信濃の武将に「二つ雁鳥」の家紋が使用されており、柴田氏の出自が信濃に関連するものとすれば、家康の信濃平定に柴田政忠が抜擢されるのは自然な成り行き。ただ政忠の「忠」の字が誰の名付けたものなのか(信忠直参じゃないの?)。柴田勝家が家康は織田領を維持しようと頑張ってると誤解したのは、北陸との国境を挟んで、この柴田さんが縁戚だったからとか。それが家康の抜擢の着眼点だったのでは?><子孫が織田家と婚姻を結べたり、川口家と婚姻を結んだりするのは、三河柴田家がそれなりに高い地位の血筋なのだからでは?。子孫は「天下人」をはばかって、敵対した血筋なのを隠しているのでは?もしくは、徳川家の不利な歴史の真相が発覚しないように隠滅させられたとか。><本当に家康の三河譜代なのでしょうかねえ・・。柴田氏の勢力は上社・下社だけでなく佐久間氏のように三河にも及んでいたのではないでしょうか。>

徳川家康の家臣団(岡崎譜代

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 柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の(尾張)譜代家老衆、柴田家内衆・旗元(旗本)衆> * 縁戚・御由緒

*柴田* (*〜1583)弥右衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。<柴田勝全の身内か。よく似た名前の、柴田勝家の一門で柴田勝春の息・弥左衛門は、のち尾張徳川家家臣。>

*中村宗教 (*〜1583)文荷・文荷斎・聞下斎。柴田家家老。娘は柴田勝家の養女となり関東北条氏の与力・下総の高城氏(高木胤則)と婚姻。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。<斯波義達に従い遠江に遠征した中村氏の子孫でしょうか。><北庄殉死の衆に中村与左衛門あり、息子か。><娘が柴田勝家の養女となるからには何か血縁関係が・・。>

中村* (*)与左衛門。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。<中村文荷斎の一門か。>

*佐久間* (1568〜1583)十蔵。柴田勝家の小姓。前田利家の娘(摩阿姫)婿。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<室は秀吉の側室に・・。>

⇔○織田順元 (*)津田順元・金左衛門・対馬守・信元。織田順俊の息。若年より信長に仕え、後・柴田勝家の家老。1583年勝家死後、溝口秀勝に出仕。67歳で京都に没す。<津田対馬守と名乗ってたらツんだらけです。臣下に下るというよりも、勝家の与力なのでしょうか。>

拝郷家嘉 (*〜1583)五助・五左衛門・久盈。1575年「越前侵攻」には直参足軽大将として従軍。勝家の北陸討伐軍の将として活躍し、1580年加賀大聖寺城主。のち柴田家中でも「最も剛の者」として知られる侍大将。能州荒山合戦第2陣。1583年「柳ケ瀬」にて戦死。息に治太夫、孫十郎。<勝家が認めた、柴田配下の勇将です。>

戸波* (*)隼人。拝郷家嘉の家臣。鉄砲隊隊長。1583年「賤ヶ岳合戦」に戦死。

加藤景利 (*)次左衛門。1570年代初頭に柴田勝家の奉行として諸政にあたる。<尾張熱田の加藤氏か。熱田と上社柴田氏は親しかったということか。>

一瀬* (*)一ノ瀬・新左衛門。柴田勝家の足軽大将。1575年「越前侵攻」に従軍。

毛受* (*〜1583)免受・(水野・三井)・茂左衛門。毛受照昌の息。毛受勝照の兄。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に弟とともに戦死。<室町時代に近江に毛受家あり。勝家が長光寺城主となってからの家臣でしょうか・・。><勝照、家照、なぜか勝助に集中するいろいろな名は兄弟二人の名なのでは?>

毛受勝照 (*〜1583)免受・(水野・三井)・勝介・勝助・荘介・吉親・照景・家照。柴田勝家小姓。1571年伊勢長島一向一揆で本陣が崩れた際に馬印を死守した勇将。1575年「越前侵攻」に従軍。小姓頭として所領1万石。1580年加賀平定報告の使者を勤める。1583年「賤ヶ岳合戦」に勝家の影武者をつとめる。兄・茂左衛門尉とともに戦死。<勝家、叩き上げの武将です。><「家」の字も与えられていて家照ともよばれるそうです。本来は兄弟それぞれに「勝」・「家」を与えてたかもしれませんね。>

小島* (*〜1583)若狭守。備後出身の侍。1554年小早川隆景の攻撃により父・祐直が戦死。大和に落ちる。織田家に仕官。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の留守居役。息の行栄(行円)が出家し備後三原に戻る。<備後小島氏と関連があるようです。><六角義賢の長男、六角若狭守との関係も気がかりです。広島浅野家藩士に伝わる様子です。>

杉江* (*)彦四郎。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。

徳山* (*)吉右衛門。柴田勝家家臣。秀現とともに1575年「越前侵攻」に従軍。<徳山一族。>

井上* (*)久八郎。柴田勝家の侍大将。1575年「越前侵攻」に従軍。

井上* (*)清八。柴田勝家の侍大将。久八郎とともに1575年「越前侵攻」に従軍。

村本* (*〜1583)甚五兵衛。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。

大屋* (*〜1583)兵衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<三河・尾張国境地帯の地元豪族として度々名が出る大屋氏。意外な勢力をもつかも。><池田恒興の家侍と、大屋の家侍が抗争し、信長様が仲裁したという、あの大屋さん一門か。>

松浦* (*〜1583)九兵衛。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。<近江時代、中川重政との抗争で代官・松浦弥助が殺害される。><和泉の松浦一門でしょうか。>

* (*〜1614)蒲生郷成・源次郎・源左衛門。尾張出身、坂勝則の息。柴田勝家に仕える。のち関小十郎、蒲生家に出仕し、鉄砲大将。4万石。息に(蒲生)郷舎。<神戸信孝の母上の実家・坂氏との関係がきになるところです。><のちの柴田⇔信孝ラインのパイプ役だったのでしょうか・・・。><上坂左門さんと同じコースです。>

富永* (*)新六郎。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。浅井長政の三娘を警護し、秀吉陣中に送り届けた『賤ヶ岳戦記』。<お市の方の三娘(茶々・お初・お江)を守るという大役、三河設楽長篠の津島天神牛頭神社系列の神官・富永一門か。><三河衆(吉良家家臣系統)も参加にしていたということでしょうか。><織田信忠の嫡男・三法師秀信の家老に冨永勝吉という人物がいます。織田信忠と柴田家を結ぶ冨永の縁です。><足利将軍を守ったのも富永氏。天下人にとってなにか特別な家系でしょうか。>

上村* (*〜1583)六左衛門。柴田勝家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に敗戦後の北庄城の守備隊。柴田勝家の姉を警護する。<吉田次兵衛の室のことか?>

安井家清 (*〜1583)左近。もと柴田勝家直参。のち佐久間盛政の家老。加賀和田山城主。1581年に三堂山城主とも。<佐久間盛政の臣下ながら城持ち大名に抜擢されている。><立場的には盛政と同格ではなく、佐久間領の支城主として配置されたものか。>

近藤無一 (*)右近。もと柴田勝家直参。1575年越前侵攻に従軍。のち佐久間盛政与力。1583年「賤ヶ岳合戦」に中川清秀を討取る。

 

 柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の軍団・尾張与力(軍監)衆> ○与力「城持ち」大名→後に組下大名(遊撃軍団長)に発展。

府中三人衆は今立・南条の両郡を支配。

○↓佐々成政 (1539〜1588)内蔵助・陸奥守。佐々盛政の息、または成宗の息(五男)で成吉の養子とも。信長の元・黒幌衆。1575年柴田勝家の与力。府中三人衆のひとり。比良城主。のち越中国の軍団長に就任。<下記↓佐々成政の家臣団参照してください。>

○↓前田利家 (1538〜1599)犬千代・又左衛門・孫四郎。前田利昌の四男。信長の元・赤幌衆。信長の意向により前田家家督、荒子城主。のち越前府中三人衆のひとり。「槍の又佐」と天下に名をはせる、隠れなき武辺者。「長篠の合戦(1575)」に武田武者と組み討つ、鉄砲より槍が好きな古風さも持つ。1575年柴田勝家の与力。のち能登国の軍団長に就任。<下記↓前田利家の家臣団参照して下さい。>

▽↓前田利勝 (1562〜1614)犬千代・孫四郎・肥前守・利長。利家の嫡子。織田家一門に迎えられる。父とともに各地に転戦。のち秀吉に従い、父の死後は豊臣5大老のひとり。<信長様の娘、相婿・丹羽長重がライバル。>

松浦* (*)弥助。柴田勝家家臣。近江常楽寺代官。中川重政の代官、建部寿徳・春田与右衛門と対立。津田隼人・信正に殺害される。<母を置いて逃走したとも。>

鈴木* (*)孫右衛門。柴田勝家家臣。近江常楽寺代官。中川重政の代官、建部寿徳・春田与右衛門と対立。津田隼人・信正に殺害される。

丹羽秀友 (*)溝口秀朝・久助。丹羽秀盛の息。柴田勝家家臣。のち溝口秀勝に出仕。<どこの丹羽一族でしょう。岩崎・丹羽氏勝の分家に丹羽氏秀という人物がいるのですが、その系統でしょうか?・・・。><丹羽と溝口の深い関係はいったい何なのでしょう。>

毛利* (*〜1581)九郎兵衛。柴田勝家の与力。加賀二曲城主。京都馬揃えの隙をついた一向一揆の反抗により落城。<第一次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。>

吉原* (*〜*1581)次郎兵衛。柴田勝家の与力。加賀鳥越城主、別宮城主。一向一揆の反抗により落城。佐久間盛政が奪還する。<第一次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。>

⇔平野* (*)津島・小法師・甚右衛門。尾張津島の武士。信長に直訴して家臣となる。信長馬廻衆。先駆け殿軍に励む。のち軍令違反をしたため追放される。上杉家に出仕。<上杉家臣となるところなど、前田慶次とよく似た生き様。ひょっとして師匠?>

佐久間* (*)七右衛門。柴田勝家家臣。賤ヶ岳合戦に本陣後ろ備え。<北庄殉死の衆に、小姓・佐久間十蔵あり。>

 

 *北陸軍団の中で有力与力武将が組下大名(遊撃軍団長)へと成長発展する中で再編成される。

柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の軍団・美濃与力(軍監)衆> ○与力「城持ち」大名

金森・原で大野郡を分割支配。

⇔○不破光治 (*〜1580)太郎左衛門・彦三・河内守。美濃西保城主。元・斎藤家重臣。不破道直の息。稲葉・氏家・安藤と西美濃四人衆のひとり。1575年柴田勝家の与力。かつ越前府中三人衆のひとり。10万石を領する。次男・彦五郎は本能寺で討死。嫡男の嫁に瀧川一益長女に縁談を申し込むが断られ、瀧川屋敷に討ち入った。次男・兼光は佐々成政の養子・佐々成光。<1582年頃まで美濃に在命とも。>

⇔▽不破勝光 (*不詳)彦三・直光・家光・全忠。不和光治の嫡男。1575年柴田勝家の与力。府中三人衆のひとり。老齢の父に代わり早くから部隊を率いる。越前府中で3万3千石を領す。1582年信長の信州諏訪在陣の衆にみえる彦三は、光治の後継・勝光。1582年越中富山城の攻防に軍功。越前龍門寺城主。<津田秀政もしくは瀧川雄利あたりに縁談をとられたのでしょうか。><柴田軍団の中でも特別な動きをみせます。信長様と直接の主従関係が存在するのかもしれません。>

原 長頼 (*〜1600)彦二郎・隠岐守・勝胤・勝根・政茂。原頼房の息。弟に可永。美濃、斎藤家旧臣。本巣郡花木城主。武勇で知られる。1575年柴田勝家の与力。摂津荒木攻めに別働隊として参加。加賀国境の越前勝山城主。のち太田山城主。1583年「賤ヶ岳合戦」に先陣を務めた。<柴田軍団の中でも特別な動きをみせます。信長様と直接の主従関係が存在するのかもしれません。>

原 可永 (*)勘兵衛。原頼房の息。兄に永頼。1575年柴田勝家の与力。のち浅野家家臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に先陣を務めた。のち日根野家、浅野家家臣。

⇔▽原 長政 (*〜1614)彦作・彦次郎。原長頼の息。1575年柴田勝家の与力。1590年三河に所領を得る。1600年「関ヶ原の合戦」に失領。稲葉家に出仕。<1582年信長の信州諏訪在陣の衆にみえる彦次郎は、長頼の後継・長政か。><柴田軍団の中でも特別な動きをみせます。信長様と直接の主従関係が存在するのかもしれません。><高遠攻めに柴田勝之も参加していたみたいですから、北陸軍団の若手が多数、武田攻めに従軍している様子です。>

青木正玄 (1561〜1632)新兵衛・所右衛門・阿房斎。美濃衆・原長頼の直参。佐久間盛政・中村一氏・蒲生氏郷・上杉景勝・結城秀康に出仕する。槍先に生きた。

⇔○金森長近 (*1524〜1608)五郎八・可近。大桑定近の息。信長の元赤幌衆。斎藤道三の娘婿(信長と義兄弟)。蜂屋頼隆と同郷。1575年柴田勝家の与力。越前大野城主。後年、飛騨に乱入し、独力で姉小路家を滅ぼす。のち飛騨高山城主。息子の忠次郎・長則は織田信忠に仕え「二条御所」で討死。<柴田軍団の中でも特別な動きをみせます。信長様と直接の主従関係が存在するのかもしれません。>

金森可重 (1558〜1615)長屋・(長尾?)・喜蔵・出雲守。美濃板取の田口城主・長尾景重の息、人質として長近の下に送られる。金森長近の養子となる。1592年父・長重は佐藤秀方に討たれる。飛騨増島城主。息に重近。

長屋長光 (*)金森・(長尾?)。金森可重の弟。美濃出身。<金森長近の実子とも。重近と長光で何かあったのでしょうか。竜造寺と鍋島のような感じですね。>

徳山貞孝 (*)少左衛門。徳山則秀の父。先祖は朝倉貞景に仕えた事がある。柴田勝家の与力となり加賀御幸塚城主。<第一次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。><国枝少兵衛・古泰とともに織田信長に通じた美濃揖斐谷の領主・徳山次郎右衛門との関係が気にかかるところです。徳山の別流で、美濃守護土岐氏の越前落ちに従い越前武士となった徳山かもしれませんね。>

徳山秀現 (1545〜1606)孫三郎・五兵衛・則秀・直政。土岐家庶流。徳山少左衛門(貞孝)の息。兄に四郎兵衛。先祖は朝倉貞景に仕えた事がある。柴田勝家与力、佐久間盛政の与力、加賀国小松城主(松任城主とも)、父は加賀御幸塚城主。のち丹羽・前田・徳川に出仕。<1564年6月に織田信長から反斎藤ぶりを賞されているので美濃に在住していたようです。明院良政・瀧川一益が取次ぎ。>

野々村宗玄 (*〜1584)三十郎・主水正・幸政。斎藤家旧臣。1569年伊勢北畠「大河内城攻囲」に尺限廻番衆のひとり。柴田勝家与力、のちに佐々成政の与力。前田家の能登末森城攻撃に戦死。<信長様の旗本・野々村正成とよく誤認される人物として有名。><犬山の織田広良を討ったのは正成、幸政のどちらか。黒幌衆の成立年代的に・・。>

野々村雅春 (*〜1615)伊予守・吉保。宗玄の弟。柴田勝家与力。羽柴秀吉に出仕し幌衆。「小田原の役」に従軍。

 

 柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の軍団・近江衆> 柴田勝家・長光寺城主時代からの家臣

(北近江衆)

⇔浅見景親 (*)大学助。浅見対馬守貞則の息。浅井氏の旧臣。北近江尾上城主。小谷城焼尾丸郭の守備。1573年8月織田軍に降伏。信長軍を引き入れ小谷落城に協力。柴田勝家の与力。のち蒲生氏郷に出仕する。<京極氏への江北諸豪族の下克上の際、浅見家が盟主だった。もとは浅井と対等以上の国衆。><織田に通じますが江北の所領を没収されたことになっています。浅井家滅亡後、江北三郡は秀吉に与えられたことになっているのですが、浅井郡・伊香郡の武将配置が不明なのですが、ひょっとして秀吉の全支配ではなくて、柴田さんの与力も点在していたかもしれませんね。変後に柴田勝豊領となって、更に柴田勝家の滅亡で織田家の江北支配の歴史が消えてしまったかもしれませんね。>

⇔上坂* (*)蒲生郷可・左文。浅井家の旧臣、上坂兵庫助(後藤播磨守の息)の養子。郷治の兄。柴田勝家に出仕する。のち蒲生家に出仕。<坂源次郎「蒲生郷成」さんと同じコースです。>

上坂* (*)蒲生郷治。浅井家の旧臣、上坂兵庫助(後藤播磨守の息)の養子。郷可の弟。柴田勝家に出仕する。のち蒲生家に出仕。

(南近江衆)

六角* (*)若狭守。六角義賢の長男。柴田勝家家臣。<義賢の庶長子か。北庄留守居の小島若狭守と同一人物?>

⇔小川祐忠 (*〜1601)孫一郎。土佐守。近江神崎郡小川の豪族。1571年9月織田家に降伏。1573年槙島城攻略に従軍。柴田勝家の与力から、北陸方面軍には加わらず在地の武将として、織田信長馬廻衆配属。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に一時臣従。のち柴田家臣に復帰。柴田勝豊の家老として長浜に出仕。勝豊の降伏に従い秀吉家臣。

⇔山中長俊 (1547〜1607)橘内。山城守。六角氏旧臣。長光寺城主の柴田勝家与力となり、のち柴田家の家老職。

毛屋武久 (1554〜1628)田原・虎千代・金十郎・主水正。近江国神崎郡出身。和田、六角、山崎、柴田、前田、池田、佐々家に出仕。槍先に生涯を懸ける。

 

 *北陸軍団の中で有力与力武将が組下大名(遊撃軍団長)へと成長発展する中で再編成(分配)される。

柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の軍団・伊勢衆>

山路正国 (1546〜1583)将監。北伊勢の豪族。神戸一門。山路正幽の息(次男)。柴田勝豊家老。柴田家に忠節厚い。1583年「賤ヶ岳合戦」勝豊の侍大将として出陣。柴田勝家軍に帰参するも、加藤清正に討たれる。38歳。兄弟に山路弾正、山路正国、長尾一勝(種常)。

関 盛吉 (*)勝蔵・十兵衛・主馬首・政盛・一利。北伊勢の豪族、神戸一門。関盛信の息。柴田勝豊家老。息に蒲生家家臣の氏盛。

大木兼能 (1552〜1611)青木・弥介・土佐守・織部。元・伊勢国大木城主。伊勢長島一向一揆に属し、織田信広を討取る。柴田勝家に仕える。のち加藤清正に出仕。

<柴田勝家の軍団・摂津衆>

⇔高山友照 (*〜1596)図書・飛騨守。摂津の豪族。松永、和田、荒木村重旧臣。家督を重友に譲渡し、柴田家客将。<信長様の怒りで追放され勝家預かりとなっていたとも・・。>

<柴田勝家の軍団・三河衆>

⇔松平康定 (*〜1620)伊保・久兵衛・伯耆守。三河伊保城主、松平紀伊守・康元の次男。柴田勝家、佐々成政に出仕。1585年前田利長に臣従し、武者奉行。子孫は前田家家老。<三河伊保城は佐久間信盛の居城となったと伝わります。1561年織田軍の西加茂郡占領に通じた一族でしょうか。>

やはり柴田康忠の父、柴田政之の血筋は・・。

 

 柴田勝家の家臣団と軍団

<柴田勝家の軍団・越前衆>

徳永寿昌 (1549〜1612)権之助・昌時・下総守・石見守。徳永昌利の息。越前の豪族。のち柴田勝豊家老。親羽柴派。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。息に昌重。<越前衆・朝倉景鏡の一門とも。>

野治* (*)宗八。元・越前朝倉家の臣。のち越前大野城主の金森家の与力。

諏訪* (*)三郎兵衛。越前衆、朝倉家旧臣。のち佐々成政の与力。<越前朝倉家の初期、敏景と氏景の二代に従い活躍した神一族が、諏訪神を正式の姓としています。その末裔でしょうか。>

富田景政 (*)与六郎・次部左衛門。朝倉家旧臣。のち前田利家与力。のちに羽柴秀次剣術指南。

富田重政 (1554〜1625)与六郎・六左衛門・越後守・下野守。富田景政の養子。のち前田利家与力。

有賀直政 (*〜1603)泰六・宗元。朝倉家旧臣。のち前田利家与力。

斉藤宗忠 (*〜1611)刑部・中務。六獄城主。朝倉家旧臣。のち前田利家与力。

大鐘貞綱 (*)藤八郎。越前衆。柴田勝豊の家老。丸岡城城代。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。1597年遠江に隠居。<加藤清正と対立し帰農。>

<柴田勝家の軍団・加賀衆>

亀田宗俊  (*)小三郎・大隈守・岳信。元・石山本願寺家臣。加賀国の河北郡森下の豪族。加賀一向一揆の指導者のひとり。1573年加賀入りした上杉謙信に抵抗。のち1581年柴田勝家に降伏臣従。<養子に勝家家臣・溝口半左衛門の息・高綱を迎えて和睦とも。>

亀田高綱 (1564〜1633)溝口・半之丞・権兵衛・大隈守。加賀国の豪族、亀田宗俊の息(養子?)。実父は溝口半左衛門。柴田勝豊家老。柴田家に忠節厚い。のち浅野長政に出仕。<一揆はすべて撫で斬りではなく。加賀一揆の指導者・亀田岳信とは和睦ということなのでしょう。>

柴山* (*)芝山・長次郎。のち佐久間盛政の与力。加賀の豪族。1577年5月信長より所領安堵。8月柴田勝家から加賀国の山中氏を誘降するように指示される。

<柴田勝家の軍団・能登衆>

加藤* (*)将監。長家家臣。1580年加賀侵攻に従軍。観光坊と槍合せ。

小原* (*)十郎左衛門。長家家臣。1580年加賀侵攻に従軍。小竹十郎と槍合せ。

上野* (*〜1580)甚七郎。長家家臣。鉄砲に当たり戦死。

浦野* (*)孫右衛門。能登国人。長連竜家臣。1583年殿軍に軍功。

石山本願寺の勢力圏とその他の寺院勢力。北陸の一向一揆との戦い。

  「 柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ候。 」 甕割り柴田出陣!!

≪個人的感想≫ 柴田勝家が越前支配の旗頭に抜擢されたのは、第一の重臣であるとともに、越前の名門・斯波家の末裔という血筋で住民感情に配慮した人事が考えられます。越前攻めに利用しようとした信長様の深慮遠謀でしょう。朝倉氏に追われた旧国主家が戻るのなら、大義があり抵抗感も少ないということでしょう。

 「斯波、朝倉、織田」の因縁は複雑だなあと思います。

 柴田勝家の印象は、「根っからの武士」、「武士の中の武士」という感じで、なりあがりの羽柴秀吉とあわない「尊厳」とかあったんじゃないでしょうか。

 信長はその「侍」の自尊心の部分を刺激して、古くからの家臣達に、より一層の奮闘を期待したのでしょう。反対に秀吉は姓名に「柴」の字を貰うほどの憧れと怖れを抱いていたと思われます。

 越前支配の時には、民政家として、治世の部分での評価も高いですが、北国の雄・上杉家と睨み合い続け、着実に支配領域を拡張していった、堅実的な”軍団の指揮ぶり”が、派手さはないですが見事だと思います。

 羽柴秀吉や佐々成政と、陣中で喧嘩する原因も、着実に固めてから動こうというこういう部分なんでしょう(前線に立てば「懸かれ柴田」の熱い侍なのでしょうが)。それが後手になってしまって若手に侮られることもあったのかなあと・・。

 「手取川の合戦」敗退は、戦神・上杉謙信が相手だから、しゃーないw と思います。

 しかし、敗戦後も領域を保持・拡大していくのは、戦に負けて政治で勝つという、柴田勝家の粘り強さの本領ではないでしょうか。 柴田勝家の胆力も、信長が信頼を置いた部分なのでしょう。

織田家の武将はけっこう各地で派手に敗戦しているけど、次は勝つぞっていう打たれ強さが魅力ですね。

 それにしても、柴田勝家の「我が名を天にあげよ」の言葉は、勝家の名誉を尊ぶ孤高の 「さむらいたますぃー」 を感じずにおれません。  (>o<)b”「真の侍じゃ。」

<柴田勝家調略、越後国人衆> 上杉家に対して反逆した上杉家臣。

「御館の乱」1578〜1579

柿崎晴家 (*〜1578)平三郎・左衛門大夫。越後の有力国人・柿崎景家の息。1570年から北条氏で人質時代を過ごす。1575年父・景家の織田家への内通が発覚し、景家は謙信に誅殺されたため家督を継承する。1578年「御館の乱」で景虎を支持し、景勝に誅殺される。<幼年期に人質生活を送ったため、親北条派ということか。>

北条景広 (*〜1579)弥五郎・丹後守。高広の息。上野国厩橋城主。謙信の死後、1567年父・高広の北条家内通のための失脚により、家督を継承し関東計略の中心となる。上杉景虎を支援して、主力として活躍するが上杉景勝に討たれる。

長尾景直 槍50丁・81名 (*〜1581)椎名・小四郎。旗本衆。長尾一族。1560年関東出征に春日山城留守居役。1575年「上杉家軍役帳」に長尾小四郎で登録。81名を負担。越中国の豪族・椎名康胤の養子となる。越中新庄城主。1577年「上杉謙信直筆将士録」(関東遠征動員名簿)に登録される。1578年一時景虎派に属し、所領を減封される。河田長親与力。のち織田に通じる。1581年越中小出に戦死。越中小出城主。

「新発田の謀反」1581〜1587

⇔新発田重家 (*〜1587)源太・因幡守。越後の有力国人。1581年上杉景勝から離れ信長に通じ居城で謀反。揚北衆。

⇔五十公野信宗 (*〜1585)長沢甚五郎。能登出身、謙信に抜擢される。新発田重家の義兄弟。重家に従い叛乱。

<その他、取次ぎ国人領主>

(信濃)小笠原貞慶

小笠原貞慶 (1546〜1595)喜三郎・右近大夫。信濃衆。小笠原長時の三男。1553年父とともに越後に落ちる。1579年奥州葦名領にて父から家督相続。1582年武田家滅亡後、深志(松本)城主に復帰(木曽義昌の与力となったと推測されます)。「本能寺の変」後は越後上杉の後援された叔父・小笠原信種に一時、信濃深志城を奪われるが、徳川家康の後援により旧領に復帰。<織田信長の下で軍功に励み、信濃に旧領の一部を与えられている様子です。当初から家康配下というのは嘘では?>

(武蔵・下総)高城胤辰。息の高城胤則は柴田勝家の娘(養女)婿。

高城胤辰 (*〜1590)千葉・下野守。下総国の豪族。原家の家老。松戸小金城主。柴田勝家と縁戚。

▽↑高城胤則 (1571〜1603)千葉・下野守。胤辰の息。柴田勝家養女(中村文荷斎娘)を妻にする。佐久間安政を匿う。<婚姻の時期が諸説あるようです。縁がなければ安政も頼らない気がしますが・・。>

《個人的感想》 美濃に鎌倉時代から鎮座する千葉家の分家で幕臣の東(千葉)氏との縁があって、下総小金城の高城氏と柴田家が縁を結ぶことになったのでしょうか。将軍・義政の命で古河公方と戦った東常縁(1401〜1484)の伝説と柴田家の何かが結びついたのでしょうか。

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 加賀国(丸岡)・柴田勝豊の軍団 (第2期旗頭) 1576年成立。

柴田勝豊 (*〜1583)伊介・伊賀守。柴田勝家の姉婿・吉田次兵衛の息、勝家の養子。稲葉貞通の娘婿。1576年丸岡城築城。加賀平定戦に佐久間盛政、佐々成政との先鋒争いに敗れ遺恨を残すという。

<柴田勝豊の(尾張)譜代家老衆>

野村* (*)勝次郎・庄次郎。柴田勝豊の臣。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。のちに堀尾吉晴に出仕。

木下一元 (*)半右衛門・美作守・利久。柴田勝豊家老。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。「小牧合戦」に従軍。羽柴秀次組下。

<柴田勝豊の軍団・北伊勢衆> ○与力「城持ち」大名

↑○*山路正国 (1546〜1583)将監。北伊勢の豪族。柴田勝豊家老。柴田家に忠節厚い。

⇔↑○*関 盛吉 (*)勝蔵・十兵衛・主馬首・政盛・一利。北伊勢の豪族、関盛信の息。柴田勝豊家老。

<柴田勝豊の軍団・越前衆>

↑○*徳永寿昌 (1549〜1612)権之助・昌時・下総守・石見守。徳永昌利の息。越前の豪族。柴田勝豊家老。長浜城代。親羽柴派。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。のち徳川家に従い美濃高須5万石。<越前衆・朝倉景鏡の一門とも><近江神崎郡伊庭の豪族とも。>

↑▽大鐘貞綱 (*)藤八郎。越前衆。柴田勝豊の家老。丸岡城城代。1583年「賤ヶ岳合戦」に羽柴方。1597年遠江に隠居。<加藤清正と対立。子孫は帰農。>

<柴田勝豊の軍団・加賀衆>

↑○*亀田高綱 (1564〜1633)溝口・半之丞・権兵衛・大隈守。加賀国の豪族、亀田宗俊の息。柴田勝豊家老。柴田家に忠節厚い。のち浅野長政に出仕。<一揆はすべて撫で斬りではなく。加賀一揆の指導者・亀田岳信とは和睦ということなのでしょう。>

《個人的感想》 勝豊の軍団は、各地域の新参衆を中心に構成されている。

1582年頃:北陸道方面軍。 

柴田勝家の軍団(拝郷・佐久間)を、佐々・前田・不破が監察官。

金森長近は別働隊(飛騨方面の搦め手軍)かもしれません。

 加賀国(尾山)・佐久間盛政の軍団 (第2期旗頭) 1580年成立。 佐久間盛政  ○与力 ▽陪臣

*⇔↑佐久間盛政 (1553〜1583)理介・修理・玄蕃充・信政。五器所佐久間の系統。佐久間盛重の娘婿。同じく娘婿・新庄直頼は義兄弟。徳山秀現とも縁戚関係。1580年石川・川北2郡の支配者、尾山城主となる。1583年「賤ヶ岳合戦」に不覚。尾山はのちに金沢。<[おやま]の大将とは、このひと!>

<佐久間盛政の御由緒・一門衆>

*⇔↑保田安政 (1555〜1627)佐久間・安次・久六郎・久右衛門・備前守。父は佐久間盛次。盛政の弟。畠山昭高臣、紀州保田若狭守・知宗の養子。のち蒲生家に出仕。

⇔※保田知宗 (*〜1576)佐介。紀伊八幡山城主、保田長宗の長男。1570年頃柴田勝家の与力となり、佐久間安政を養子に迎えた。<1583年「賤ヶ岳合戦」に戦死というのは一門の別人か。>

↑*柴田勝政 (1556〜*)佐久間勝政・三左衛門・勝成・勝安・実政。五器所佐久間。父は佐久間盛次。佐久間盛政の弟。勝家の養子。1580年3月「加賀侵攻」に先陣を務める。1581年京都馬揃えに上洛。のち蒲生家に出仕。勝山城主。

↑▽山本* (*)猪右衛門。五器所佐久間。柴田勝政の郎党。

↑▽*柴田勝敏 (*1568〜1583)於国丸・権六・宮内少輔・(勝久)。勝家の息(実子)。1575年「越前侵攻」に従軍。1577年7月菅屋長頼から織田剣神社の宛がいを指示される。1583年「賤ヶ岳合戦」に出陣。捕虜となり近江佐和山にて斬首。<佐和山城は死刑執行場なのでしょうか・・・。*活躍期間のわりに生年が怪しい。>

(五器所佐久間嫡流)

⇔佐久間家勝 (*)与六郎・盛明・政明。五器所佐久間。佐久間盛重の一族か。尾張に残った佐久間氏。尾張五器所城主。<尾張の留守居役といったところか。それとも佐久間嫡流?。盛重の嫡男・佐久間盛昭は奥山に改姓。>

佐久間政実 (1561〜1616)河内守。五器所佐久間。佐久間政明(家勝)の息。のち徳川に出仕し伏見町奉行。

<佐久間盛政の(尾張)譜代家老衆>

↑安井家清 (*〜1583)左近。もと柴田勝家直参。のち五器所佐久間・佐久間盛政の家老。加賀和田山城主。1581年に三堂山城主とも。<佐久間盛政の臣下ながら城持ち大名に抜擢されている。盛政と同格ではなく、佐久間領の支城主として配置されたものか。>

↑近藤無一 (*)右近。もと柴田勝家直参。1575年越前侵攻に従軍。のち五器所佐久間・佐久間盛政与力。1583年「賤ヶ岳合戦」に中川清秀を討取る。

楢村* (*)四郎三郎。能州荒山合戦に先陣を勤める。

<佐久間盛政の軍団・美濃衆> ○与力「城持ち」大名

*○*↑徳山秀現 (1545〜1606)孫三郎・則秀。五兵衛。美濃出身。加賀小松城主。佐久間盛政と縁戚関係。1583年「賤ヶ岳合戦」に敢闘し、高野山に逃走。<第二次加賀支配の城主。信長から付属された与力か。のちの小松城主・村上義明は留守居として残り、丹羽長秀に降服臣従したものだろうか。>

○▽吉竹* (*)壱岐。1581年加賀鳥越城主。吉原氏の跡職を継承。

<佐久間盛政の軍団・加賀衆>

*○柴山* (*)芝山・長次郎。五器所佐久間・佐久間盛政の与力。加賀の豪族。1577年5月信長より所領安堵。8月柴田勝家から加賀国の山中氏を誘降するように指示される。

 

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  越中国・佐々成政の家臣団と軍団 越前府中1575年〜 越中1580〜82年(旗頭)佐々成政 (軍監)野々村正成

 ⇔佐々成政 (1539〜1588)内蔵助・陸奥守。佐々盛政の息、または成宗の息(五男)で隼人・成吉(政次)の養子とも。元・黒幌衆のひとり。比良城主。1560年柏井衆とともに桶狭間出陣。鳴海表にて佐々隼人討死により家督。越前府中三人衆のひとり。1580年2月神保長住救援に越中に派遣される。1581年越中境川に進出。<代々、幌を継承する飯尾家のように佐々家も兄弟が黒幌で、兄達が相次いで戦死し成政に降りてきた気がします。年齢的に。それか地力のある武士団(寄子がたくさん)で信長様が一目置いて幌を与えたのでしょうか・・・。佐々成政の母は余語氏の娘であることから、余語家を通じて坂井政尚とは縁戚。>

<佐々成政の一門(連枝衆)>

佐々信宗 (1541〜1625)八郎・太郎・信守・宗綱。佐々成宗(盛政)の息、佐々成政の実弟。佐々党。

佐々長治 (*〜1586)勝右衛門。佐々成政の一族・佐々宗長の息。越中小出城主。<義兄弟に佐々成之。詳細不明。>

佐々長成 (1558〜1625)喜三郎・信濃守。佐々長治の息。父とともに成政を支え、越中小出城主。

<佐々成政の御由緒・養子衆> 佐々成政と同世代なので養子というより義兄弟か。戦死した兄達(隼人・成吉、孫助・成経)の娘婿となったか?

佐々政元 (*)丹羽政元・喜藤次・平左衛門。尾張岩崎・丹羽勘介・氏勝の息。母方の血縁(宗長系)、佐々成政の養子。佐々成政の鉄砲隊。1560年柏井衆とともに桶狭間出陣。1581年喜右衛門とともに小出城を守備する。<丹羽氏勝の息なら1545年頃の生まれでは?成政の七歳年長ともあり、それで養子でいいのか疑問。子息は織田信忠の側近として、織田信忠軍団に。><佐々平太、弥三郎兄弟は平左衛門の息か。>

佐々成之 (1546〜1587)前野宗継・与左衛門・藤左衛門・宗能。尾張の豪族・前野宗直の息。佐々成政の養子となり佐々党。佐々成政の鉄砲隊の隊長。越中戸川城主。<宗長の養子となり成之か>

⇔松原直元 (*)五郎兵衛・「鬼松原」。佐々隼人・成吉(政次とも1560年没)の娘婿。甥に佐々清蔵(1582年没)。のち佐々成政家老。肥後にて国人の掃討に軍功をあげ「鬼松原」と呼ばれる。のち秀吉に出仕。のちに佐々政次の孫・重勝を養子に迎える。<越中国人・三善一守と同一人物説もありますが、松原直元がもとから越中出身とは考えられないので、越中入りした現地で三善家と縁を結んだのでしょうか。><丹羽長秀の妹婿に越前豪族・松原伊賀守と系図にありますが、同一人物でしょうか。一門の人でしょうか。>

<佐々成政の御由緒・養子衆(次世代)>

佐々直勝 (1561〜1630)前野直勝・久三郎・備前守。佐々成之(前野宗継)の息。佐々成政の養子となる。

*↑佐々勝之 (1568〜1634)(柴田勝之)・佐久間勝成・源六郎・大膳亮・安之。柴田勝家の一門衆。父は佐久間盛次。佐久間盛政の弟。佐々成政の養子に迎えられる。のち蒲生家に出仕。

佐々成善 (*)与三郎・与右衛門。佐々信宗(成政の実弟)の息。のちに松平忠吉、徳川義直に出仕。

佐々成光 (*〜1587)不破兼光。西美濃四人衆・不破光治の息。佐々成政の養子となる。

佐々* (*)丹羽・平太。弟に弥三郎。信長馬廻衆。1568年信長から秀吉・長秀・島田秀順・明院良政の奉行で、兼松正吉とともに所領を与えられる。1577年弟・弥三郎にも所領が与えられる。<丹羽氏勝の息、丹羽平左衛門(佐々政元)が初名・平太。親子か?>

<佐々成政の譜代家老衆>

前野勝長 (*〜1585)小兵衛・加賀守・忠勝。岩倉織田家家老・前野宗康の三男。羽柴秀吉の老臣・前野長康の弟。佐々政元の養子。佐々家に仕える。佐々成政の鉄砲隊隊長。息子に前野吉康(忠康)。越中国栃波郡を拝領する。越中国井波城主。前田家の今石動城を攻撃するが撃退される。15000石。佐々成政のさらさら越え(アルプス越え)に従う。

前野直高 (*)新蔵・道高。秀吉の老臣・前野長康の一族。佐々家に仕える。1560年柏井衆とともに桶狭間出陣。

桜木* (*)甚介。佐々党。佐々成政の鉄砲隊隊長。1560年柏井衆とともに桶狭間出陣。<1582年荒山合戦、1584年末森合戦に前田家家臣として桜井勘介あり、同一人物の誤記か?>

脇本* (*)甚介佐々成政の家臣。鉄砲隊隊長。秀吉の越中攻めに木船籠城。1585年「木舟城表の夜襲」に丹羽軍・寺西正勝陣に突撃。<鉄砲衆の隊長で、甚助・・。桜木との係わりが気になります。>

栗山* (*)宗左衛門。佐々成政の家臣。鉄砲隊隊長。秀吉の越中攻めに木船籠城。1585年「木舟城表の夜襲」に丹羽軍・寺西正勝陣に突撃。「栗山宗左衛門覚書」を遺す。

杉山隆重 (*)小助・主計。杉山小左衛門の養子。越中一乗寺城主。越中松根城主。

丹羽* (*)長田・権平。佐々成政の与力。長田三十郎の息。1581年馬揃えの隙を衝いた上杉方の河田長親軍の進軍に対して出撃し、成政の本軍の別働隊(横槍を入れる将)として役割を果たし佐々軍が快勝する。越中宮崎城主。

<佐々成政の軍団・伊勢衆>

大木兼能 (1552〜1611)青木・弥介・土佐守・織部。北伊勢の豪族。一揆に属し織田信広を討取。のち加藤清正に出仕。元・伊勢国大木城主。<父の代に梅戸氏から「北方一揆」の首領の座を譲られるほどの勢力を持つ様子です。>

 

 <佐々成政の軍団・越前衆> 1575年越前入府。

*諏訪* (*)三郎兵衛。越前衆、朝倉家旧臣。佐々成政の与力。<越前朝倉家の初期、敏景と氏景の二代に従い活躍した神一族が、諏訪神を正式の姓としています。その末裔でしょうか。>

<佐々成政の軍団・越中衆> 1580年与力に加えられる(1578年上杉謙信死去。 ○与力「城持ち」大名

小笠原貞慶 (1546〜1595)喜三郎・右近大夫。小笠原長時の三男。1553年父とともに越後に落ちる。1578年信長の後援で越中にて旧家臣を招集。柴田勝家に慰労される。に1579年奥州葦名領にて父から家督相続。1582年徳川家康により旧領に復帰。<織田信長の下で軍功に励み、信濃に旧領の一部を与えられている様子です。当初から家康配下というのは嘘では?>

神保長住 (*〜*1583)越中守。元・越中守護代、神保長職(*〜1572)の息。神保家嫡流。親武田派の椎名康胤と協力し、上杉派の父・長職、小島職鎮と対立し出奔。家督は弟の総二郎・長城が継承する。1578年から弟・長国らと越中に入国し旧臣を従える。富山城主。1580年柴田軍に救援される。1582年小島職鎮・唐人親広に幽閉され失領する。その後の事跡は不明。<織田信長の妹婿は神保長住で、1582年の失領の不手際で稲葉家に再度嫁入りしたのでは?>

▽二宮長恒 (*〜1582*)余五郎・左衛門大夫。越中豪族。神保長職の旧臣。1573年上杉謙信に従い「富山城攻囲」に従軍。1578年上杉謙信没後、織田家に臣従。当初は神保長住の与力、のち佐々成政の与力。上熊野城主。

○神保氏張 (1528〜1592)惟宗・宗五郎・安芸守・氏晴。神保氏重の息(能登畠山一族出身とも)。織田信長の妹婿(離縁後は稲葉貞通の室)。宗家神保氏の家臣。上杉輝虎臣に臣従する。1577年は上杉謙信方。1578年謙信の死後、神保長住が佐々長秋とともに越中に乱入。これ以降に織田家に降り、佐々成政の与力となる。守山城主。嫡男・氏興は佐々成政の養子となる。のちに徳川家旗本。

▽神保孝続 (*)治部少輔。長住の補佐役。1578年から長住の弟・神保長国らと越中に入国し旧臣を従える。

菊地武勝 (*)右衛門。越中の国人。1578年謙信の死後、神保長住が佐々長秋とともに越中に乱入。これ以降に織田家に降り、佐々成政の与力。能登国境の越中阿尾城主。前田家と佐々家の抗争の中で離反。1585年前田家に臣従。

屋代* (*)十郎左衛門。菊池家家臣。

三善一守 (1547〜1615)小浦・石見守・松原斎安。越中豪族。能登畠山旧臣。上杉謙信没後、織田家に臣従。佐々成政の与力。池田城主。

小島国綱 (*)槻尾・秀安・甚介・甚助。寺島盛徳の兄。上杉家に属し、1577年上杉家の動員に応じる。1578年上杉謙信没後、織田家に臣従。1581年に上杉景勝が越中に侵攻した際は内応し滝山城に篭城するが、降服し佐々成政の与力。大道城主。

寺島盛徳 (*〜1605)牛介。小島国綱の弟。1562年上杉軍撃退に武功。のちに上杉家に属し、1577年上杉家の動員に応じる。1578年上杉謙信没後、織田家に臣従。のち佐々成政の与力。

斉藤信利 (*)越中の国人。佐々成政の与力。

土肥正繁 (*)政繁。越中の国人。佐々成政の与力。弓之庄城主。対上杉氏(魚津城)の前線。

有沢* (*)図書助。土肥家家臣。

栃屋* (*)縫右衛門。

若林* (*)宗右衛門。越中国人。織田家に臣従。1578年柴田勝家の指示で上杉家の将・河田長親に降服を即す。

山田* (*)修理。越中国人。織田家に臣従。1578年柴田勝家の指示で上杉家の将・河田長親に降服を即す。

小島職鎮 (*)六郎左衛門。親上杉派の中心。神保長住を追い、実権を掌握する。1578年謙信の死後、神保長住が佐々長秋とともに越中に乱入。これ以降に織田家に降り、佐々成政の与力となる。1582年神保長住を幽閉する。1582年の変後は独立に走る。越中火宮城主、石動山城主。

唐人親広 (*)加老人・式部大輔。越中神保旧臣。上杉謙信に従い能登甲山城主。1578年頃織田家の越中侵攻に通じる。1582年神保長住を幽閉する。変後、独立に走る。

石黒成綱 (*〜1581)左近。越中の豪族。謙信に属す。1578年謙信死去後は織田家に出仕。1581年信長の命により、丹羽長秀に近江長浜で処刑される。木舟城主。

寺崎盛永 (*〜1581)1581年信長の意向で、菅屋長頼により子息とともに粛清される。願海寺城主。

 

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天正年間、織田主力軍の変遷

 地方方面軍への移行。

 能登国・前田利家の家臣団と軍団(旗頭)前田利家

  (軍監)菅屋長頼 1581年菅屋長頼(七尾城)福富秀勝(富来城)が平定後の政務。

 前田利家 (*1538〜1599)犬千代・孫四郎・又左衛門。元・赤幌衆のひとり。越前府中三人衆のひとり。1580年8月能登平定に派遣される。1582年神保長住の事件で、佐々成政と柴田勝家が対立、利家が仲裁する。

<前田利家の一門(連枝衆)>

前田利勝 (1562〜1614)犬千代・孫四郎・肥前守・利長。前田利家の嫡男、室は信長の娘、織田家一門となる。

▽横山長隆 (1539〜1583)半喜。美濃多芸郡の豪族。横山時隆の息。杉弥左衛門の娘婿。元・稲葉家家臣。人を切って出奔、金森長近に出仕する。のち前田利長の旗奉行に迎えられる。1583年「賤ヶ岳合戦」に殿軍を勤め戦死。息に横山長秀、長知、長忠、常隆。娘婿に横山易英。

前田利政 (1578〜1632)孫四郎。利勝の弟。佐々成政の養子に迎えられる予定。

前田利久 (*)蔵人。前田利春の長男。信長の命で隠居し家督を弟・利家に譲る。弟に利玄、安勝。

前田利大 (*)瀧川利益・慶次・宗兵衛・利治。利家の兄・前田利久の養子。瀧川益氏の息。信長、利家、上杉景勝に出仕。

前田安勝 (*〜1594)五郎兵衛。前田利家の兄。能登入国に際し、高畠定吉とともに小丸山城を守備。小丸山城主。利家の信任厚く能登支配の重鎮。末弟に秀継。

前田秀継 (*〜1585)右近。前田利昌の六男。越前府中に入封した頃から利家の家老。越中木舟城主。1585年越中今石堂(今石動)城主。佐々成政を撃退する。1585年越中地震により落命する。<内ケ島氏が滅亡した地震と関係ありか。>

高畠定吉 (1536〜1603)前田・孫十郎・孫次郎・織部・石見守。定光(吉光)の息、定良の兄。利家室の甥、前田利家の妹婿。府中前田家家老、利家七人衆。能登攻略戦に武功。前田安勝とともに小丸山城を守備。1582年「石動山攻略」に従軍。

篠原一孝 (1561〜1616)佐脇・前田・出羽守。利家の外戚・篠原長重に養育される。16歳で出仕、信長の元赤幌衆で利家弟・佐脇良之(*〜1572)の娘婿となる。佐脇家は清洲斯波家とつながる名門。

<前田利家の譜代家老衆>

奥村永福 (1541*1542〜1624)助十郎・助右衛門・伊予守・家福・快心。荒子前田家家老。奥村宗親の息。本家・前田利久の臣として利家と対立出奔。1569年頃朝倉氏攻略の際に再出仕。1582年能登「石動山城攻略」に従軍。のち「末森の攻城戦」に城を死守し武名。84歳。<前田利家が信長様の勘気を受けたとき、熱田西加藤家の養子となっていた奥村家唯(前田利家の相婿)さんのところで食客となっていたらしいです。その奥村家と何か縁があるのでしょうか。>

村井長頼 (1543〜1605)長八郎・又兵衛・豊後守。府中前田家家老、利家七人衆のひとり。村井長忠の息。1556年「稲生の合戦」の頃に利家に出仕。「又」の字を拝領。利家の各地の合戦に常に傍で武功。金沢町奉行。

太田長知 (*〜1602)喜藤次・但馬守。利家、利長二代に仕える。

中村* (*)次郎兵衛。前田利家家臣。のち浮田秀家に出仕。浮田家の大坂屋敷家老。浮田家内紛に出奔。前田家に復帰する。

 

 

<前田利家の軍団・越前衆> 1575年越前入府。

○*↑富田景政 (*)与六郎・次部左衛門。朝倉家旧臣。のちに羽柴秀次剣術指南。

▽*↑富田重政 (1554〜1625)与六郎・六左衛門・越後守・下野守。富田景政の養子。

○*↑有賀直政 (*〜1603)泰六・宗元。朝倉家旧臣。前田利家与力。

○*↑斉藤宗忠 (*〜1611)刑部・中務。六獄城主。朝倉家旧臣。前田利家与力。

<前田利家の軍団・能登衆> 1581年菅屋長頼(七尾城)福富秀勝(富来城)が平定後の政務。 ○与力「城持ち」大名

※長 続連 (*〜1577)長谷部・九郎左衛門・対馬守。1566年政権を畠山七人衆から取り戻すため本願寺証如と通じた守護畠山義続・義綱親子を追放する。1569年家督を嫡子・綱連に譲渡する。反上杉を貫く。1577年9月遊佐続光・温井景隆の裏切りで、嫡男・綱連とともに討死。穴水城主。

※▽長 綱連 (*〜1577)長谷部。1569年家督継承。1574年主・畠山義慶を毒殺し、春王丸を擁立する。温井景隆が加賀一向一揆と結び、遊佐盛光は上杉謙信と結び、国内は混乱する。1577年9月遊佐続光・温井景隆の裏切りで、父とともに討死。

長 連竜 (1546〜1619)長谷部・万松・九郎左衛門・好連。元・守護畠山家老、長綱連の弟。1577年城を脱出。信長に忠節を尽くし旧領を回復する。前田利家与力。能登国福水城主。

土肥親真 (*)但馬守。能登国人。加賀国境に近い末森城主。1580年3月勝家の「加賀征伐」に敗北。

遊佐続光 (*〜1581)美作守。能登畠山重臣筆頭。能登守護代遊佐家。畠山義続、義綱、義慶、春王丸の四代に仕える。「一宮の合戦」で温井総貞に破れ越前に落ちる。1555年義綱が温井氏を打倒したため越前から能登に帰還する。1566年政権を畠山七人衆から取り戻すため本願寺証如と通じた守護畠山義続・義綱親子を追放する。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが、菅屋長頼に討たれる。

遊佐盛光 (*〜1581)四郎右衛門。畠山義慶の臣。能登畠山重臣筆頭。能登守護代遊佐家。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。上杉家の河田長親に従う。謙信の死後、鰺坂長実を追放し、織田軍に降服して七尾城を開城するが、菅屋長頼に討たれる。

×温井景隆 (*〜1582)能登畠山重臣。奥能登の有力国人。能登畠山七人衆のひとり。1555年温井総貞が畠山義綱に誅殺された為、能登を退去する。1566年義綱が近江に追放され、能登に帰還する。加賀一向一揆と結び1574年主・畠山義慶を毒殺したともいわれる。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが赦免されず越後に出奔、変後能登に侵入するが佐久間盛政に討たれる。天童城主。

×三宅長盛 (*〜1582)備後守。能登畠山重臣。能登畠山七人衆のひとり。温井景隆の弟、三宅総広の養子。1555年温井総貞が討たれた際、兄とともに加賀に出奔。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。1577年長続連一族を討ち上杉家に臣従。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが赦免されず越後に出奔。1582年変後、能登に進軍するが佐久間盛政に撃退される。

×平 尭知 (*)新左衛門・加賀守・喬知。守護・畠山義綱、義慶に仕える。1575年河田長親に通じ謙信の能登出兵を要請。のち上杉謙信に臣従。謙信の死後、織田軍に降服し七尾城を開城するが赦免されず越後に出奔。

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 柴田勝家の生ことば

   「 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす  」 辞世の句

 

  マスコット 柴にゃ勝家ニャン。

1583年「賤ヶ岳合戦」「赤母衣衆」 「賤ヶ岳合戦」図屏風、柴田軍に赤幌・黒幌武者多数あり。信長様に使用を許可されるか。図屏風は後世のものですから、なんともいえません。

水野* (*)助三。1583年「賤ヶ岳合戦」に柴田方「赤母衣衆」。秀吉方の七本槍と戦う。

安彦* (*)弥彦左衛門。1583年「賤ヶ岳合戦」に柴田方「赤母衣衆」。秀吉方の七本槍と戦う。

小原* (*)新七。1583年「賤ヶ岳合戦」に柴田方「赤母衣衆」。秀吉方の七本槍と戦う。

浅井* (*)吉兵衛。1583年「賤ヶ岳合戦」に柴田方「赤母衣衆」。秀吉方の七本槍と戦う。

宿屋* (*)七左衛門。1583年「賤ヶ岳合戦」に柴田方。秀吉方の七本槍と戦う。<宿屋でなく大屋さんでしょうか。>

≪個人的感想≫ 信長・勝家ともに新世代の佐久間盛政に大きく期待していたんじゃないかと思います。

 山崎流・佐久間信盛・信栄の血統が追いやられたのも、こちらの五器所流・佐久間盛政が台頭してきたからと考えられます。

 越前衆の金森長近、不破光治らが年齢的に老化し、北陸柴田軍団結成時からの世代交代が進み、軍団の中の

徳山秀現、、不破勝光ら二代目が活躍し始めていますから、

信長様の北陸柴田軍団への期待も大きかったと考えられます。着実に若手が伸びてきている軍団だと思います。

 北陸軍団が織田信忠の畿内の戦闘に時々召還されるのは、畿内での近代戦の戦闘経験を積み重ね、北陸での上杉戦に還元させるためだったのではないでしょうか。

 1578年越後の謙信没後の跡目争いから、越後の国人・新発田氏と、上杉景勝の関係がしっくりこないのは、織田側の調略が浸透していたからではないでしょうか。

 柴田の援護のため、斎藤長龍(利治)森長可らが盛んに上杉領に圧迫をかけますし、信長様は武田家を滅ぼし毛利家を叩いたあとは、北条家との様に和平条約を結んでで妥協するのではなく、確実に上杉家を叩くつもりだったと考えられます。

 本能寺の変後、勝家の敵は、秀吉の味方ということで、秀吉と景勝との同盟が結ばれますが。景勝の敵となっている国人が、

ようは勝家が調略した、織田家に通じた越後の武将と考えられます。

あと柴田軍団で気になるところは、柴田勝家が配下武将に勝の字、家の字を譲り渡しているようなところが注目されます。

 「勝」の字を拝領した人:前田利勝・不破勝光・柴田勝全・原勝胤(長頼)・毛受勝照

 「家」の字を拝領した人:拝郷家嘉・安井家清 というところでしょうか、偶然なのかなあ・・。

 丹羽(惟住)長秀軍団の中にも「勝」がたくさんいるので元服の際、柴田勝家が烏帽子親とか務めたでしょうか。

 軍団の中で親しみを込めて「親父殿」と呼ばれていた勝家は、人情味のある人物だったのではないでしょうか。

 北陸軍団で気になるところは、越前の前田利家の領地が、信長側近の菅屋長頼に譲られ、利家は能登を拝領していたり、羽柴秀吉の近江長浜の領地が堀秀政に譲られたり、川尻秀隆の美濃岩村城は団忠正に譲られたりで、大名の配置替えは普通に行われているので、惟任(明智)光秀が近江坂本を森蘭丸(成利)に譲り渡す抵抗感から「本能寺」が起きたということはないと考えられます。

 金森長近の存在ですが、斎藤道三の娘・濃姫を通じて信長様の義兄弟でもあり、北陸軍団でも特別な身分なのではないでしょうか。織田信忠の側近として子息がこぞって仕えていること、柴田勝家よりも信忠への気遣いが感じられます。

 越前大野から飛騨方面へ、柴田軍団とは別個に活動していたのではなかろうかと思います。1575年「長篠の合戦」では酒井忠次とともに別働隊の旗頭をつとめているし、「甲州乱入」にしても、それ以前に織田信忠軍団に配置換えがなされていたとしても過言ではないんじゃないでしょうか。

飛騨経営には誰が専任として関わっていたのか?大きな謎です。

 ちなみに、犬山の家老となった菅屋長頼さんの兄・小瀬清長(*〜1574<織田・三郎五郎・三郎次郎・長清。織田造酒佐の息、菅屋長頼の兄。小瀬家の養子となる。守山城主・織田信光の息・津田信成の家老>さんを柴田勝家が盛んに引き抜こうとしたことが知られています。

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