源ノ義仲(木曽義仲・木曾義仲)の家臣団と軍団、各地の源氏家臣団のページです。

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平安期 平ノ清盛 年表と家人    源ノ義朝・義平の軍団      越の城氏、坂東大庭氏、出羽由利氏   平安期 奥州 藤原氏の軍団

 清和源氏の系譜 その2 清和天皇、貞純親王の子孫。摂津国多田庄に土着し有力武家として勢力を持つ。

のちに八幡太郎義家がでた河内国の源ノ頼信流河内源氏が本流になる。

源ノ頼朝の家臣団と年表  源ノ頼朝の鎌倉御家人軍団

「北国を打ち開き、上洛せん!!」 -源ノ義仲- 談

 「旭将軍」源ノ義仲(木曾ノ義仲)公のつもり

 

 

鎌倉期 九州・四国・中国の豪族  鎌倉期 近畿・東海の豪族  鎌倉期 北陸・中仙・関東・奥州の豪族

 

源ノ為義公 肖像のつもり。

╂ぢ緻棔檗ゝ祖と敵対する兄弟。為義の次男。 

源ノ義賢 (*〜1155)多胡・帯刀(たてわき)・先生(せんじょう)。源ノ為義の次男。藤原宗季の娘婿。秩父重隆の娘婿。義朝と父・為義との対立の中で、父の依頼で関東、上野国多胡に進出するが、1155年武蔵比企郡大倉(大蔵)館にて義朝の息・源ノ義平に秩父重隆とともに誅殺される。息子・義仲は畠山重能・斎藤実盛により逃がされる。息に仲家、義仲。<源ノ仲家は、京都で源ノ頼政に養育される。><先生の「生」は、地方官の官位「掾」の省略で生まれたものでしょうか。前(さき)の「掾」だった、みたいな。>

藤原宗季 (*)周防守。娘婿に源ノ義賢。<悪左府・藤原頼長の家司か。>

秩父重隆 (*〜1155)平ノ重隆・次郎大夫。武蔵国総検校職。武蔵国秩父郡の豪族。兄・秩父重弘の息・畠山重能と惣領職を争う。1155年源ノ義平の襲撃に戦死。息に葛貫能隆、山田隆綱、師岡重仲。娘婿に源ノ義賢。跡職は孫・河越重頼が相続。<先祖は源ノ義家に従い奥州に出陣。>

葛貫能隆 (*)平ノ能隆・(河越)・葛貫別当。秩父重隆の嫡男。上野国にて新田義重、藤姓足利氏と勢力抗争。息に葛貫盛重(和田合戦に戦死)、河越重頼、師岡重経。娘婿に小代行平。<新田義重は義朝の長男・義平を娘婿に迎え秩父・葛貫氏に対抗。>

大胡* (*)多胡・おおご。藤原秀郷流足利家の庶流。上野国赤城山、勢多郡大胡の豪族。当初、義朝の弟・源ノ義賢に従う。「平治(1159)の乱」に活躍。義賢滅亡のち義朝に従う。<もと源ノ義賢の家人。子孫は上泉氏。足利(淵名)成行の庶子・足利重俊が始祖。淵名兼行の孫。>

≪個人的感想≫ 上野国に蟠踞する藤原秀郷流の藤原氏には大胡(上泉)氏のほかに、佐位、那波、林、薗田、山上氏あり。

戦国時代に那波氏が台頭。

<悪源太 義平方> 源ノ義平の軍団 TOP

秩父重弘 (*)平ノ重弘・太郎大夫。秩父重綱の息。実弟・秩父重隆と惣領を巡り対立。義弟に秩父行重、行高。息に畠山重能。娘婿に千葉常胤。

秩父行重 (*)有道・児玉・平太。児玉経行の息。母は秩父武綱の娘。兄に児玉保義。秩父重綱の養子。義兄・秩父重弘に従う。息に大類行弘、行村、行時。

秩父行高 (*)有道・児玉・平四郎。児玉経行の息。母は秩父武綱の娘。兄に行重。秩父重綱の養子。義兄・秩父重弘に従う。娘は源ノ義平の乳母。息に小幡行頼、高重、(倉鹿野)高俊、秩父高義。

▽小幡行頼 (*)有道・小幡郡司。秩父行高の息。義平の乳兄弟。上野国甘楽郡小幡の領主。<武蔵七党のうち児玉党・有道遠峯の子孫。有道経行の代に秩父武綱に婿入りし、息の行重・行高が秩父氏を名乗る。>

≪個人的感想≫ 戦国時代に「上州の赤(朱)武者」といえば小幡氏。児玉党つながりでいくと、織田家の重臣の丹羽長秀にたどりつきますが・・。「長篠の合戦」に、同族あい戦う状況だったということでしょうか。

(源平天下分け目の合戦 両雄激突)

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 源ノ(木曾)義仲の家臣団と軍団 <義平がその勢力に危惧を抱いたという父・義賢(*〜1155)の縁者を基盤とするか>

〔攸週礎 (*1154〜1184)源ノ義仲・駒王丸・次郎・木曾冠者・「旭将軍」。О抖舛亮〇匍糎の次男。源ノ頼朝の従兄弟。信州木曾の中原家で育ち、1180年に「以仁王」の令旨に応え、「依田城」に挙兵し、平家方の旗頭・笠原頼直を倒す。1181年に越後の豪族城長茂を破る。平泉・藤原秀衡から名馬を贈られる。1183年倶利伽羅峠に平家の大軍を破り入京する。1183年後白河法皇と対立し「法住寺の合戦」。1184年に征夷大将軍「旭(朝日)将軍」に就任するが、源ノ範頼と義経の大軍が上洛し、迎撃にでるが近江粟津にて自害した。<「力も世に勝れて強く、心もならびなく剛なりけり。」『平家物語』と評価されている。>

<木曾の御由緒家・義仲一門衆>

清水義高 (1173〜1184)源ノ義高・清水冠者・義基・義重・義守。木曾義仲の嫡子。1183年3月信濃に侵攻した頼朝との同盟のため、鎌倉に人質(頼朝長女・大姫との婚約)。鎌倉を脱出するが武蔵国入間河原で捕縛され殺害される。12歳。<源氏姓にすると河内源氏の義高と同名。>

海野幸氏 (1172〜1260)小太郎・左衛門尉・(行氏)。海野(中原)幸親の息。幸広の弟。兄達の戦死により家督を継承。1183年清水義高に従い鎌倉入り。頼朝に従い、1193年曽我兄弟の仇討ちに巻き込まれ負傷。1202年越後・城資盛の反乱鎮圧軍。<先祖は源ノ義家に従い奥州に遠征。>

中原兼遠 (*〜1180)信濃権守・入道円空。信濃安曇郡木曽を本拠とする豪族。諏訪明神下社の祠官家。仁科盛宗、高梨高信は娘婿。1155年畠山重能・斎藤実盛の依頼で、義仲(駒王丸)を匿い、後見人となり義仲を養育する。平家の追及に林昌寺に出家。後事を根井行親に託す。<中原兼遠の兄は海野家の養子となり海野幸親と称する。>

▽東ノ* (*)十郎。木曽中原党。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。

根井行親 (*〜1184)滋野・望月・根ノ井・太郎・大弥太。木曽四天王のひとり(北陸探題として番外か)。信濃の豪族。義仲の養父・中原兼遠が、後見人兼参謀として招聘し義仲の後事を託した。越前の稲津実澄、平泉寺斎明を調略する。1181年「水津の合戦」に平通盛・平経正を破る。1184年「宇治川の合戦」に六条河原にて討死する。<『源平盛衰記』では河口源三・船越小次郎に討たれる。>

[巴御前] (*)中原ノ巴。中原兼遠の娘。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。水巻四郎を与力に1000騎を率いる。「最後の戦(いくさ)して見せ奉(たてまつ)らん。」<越後城氏の「板額御前」に並ぶ女傑。>

依田信実 (*)余田・芦田(葦田)・次郎・二郎。信濃小県郡依田荘の豪族。依田為実の息。母は源ノ義賢の妹(娘とも)。近隣の丸子氏とともに義仲に従う。1180年木曽義仲に居城を提供し木曽軍の信濃の拠点とする。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。宮崎、向田を与力に信濃軍3000騎を率いる。弟に四郎・為継、伊那源八・為基。息に(手塚)信行、(飯沼)行俊。<安土桃山時代に勢力を増す衣田氏の先祖でしょうか。>

<木曽四天王>

今井兼平 (*1154〜1184)中原兼平・四郎。信濃国西筑摩郡今井領主。木曾四天王のひとり。本姓中原、信濃守・兼遠の息(四男)。義仲の乳兄弟。1183年3月信濃に侵攻した頼朝軍に和議の使者。1183年4月仁科軍に合流し呉羽山在陣。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。石黒光弘を与力に2000騎を率いる。「篠原の合戦」に第二陣。藤原忠清軍と合戦。平ノ盛俊を破り、入京。1184年に近江粟津にて義仲の自決の時間を稼ぐため奮戦。<義仲戦死を知り馬上にて「これ見給え、東国の殿ばら。日本一の剛の者の、自害する見本よ」と、太刀を口から突き刺す。>

樋口兼光 (*〜1184)中原兼光・次郎。信濃国西筑摩郡樋口谷領主(上伊那郡樋口とも)。木曽四天王のひとり。本姓中原、兼遠の息(次男)。義仲の乳兄弟。1183年林光明、富樫泰家を与力に3000騎を率いる。「倶梨伽羅峠の合戦」に軍功。平ノ維盛を破る。「篠原の合戦」に先陣。畠山重能軍と合戦。京都守護。1183年後白河法皇の籠城する「法住寺の合戦」に軍功。1184年源ノ行家を紀伊に追う途中、京都にて義仲・兼平が討たれる。縁戚の武蔵児玉党の勧めにより降服するが、後白河法皇の命により討たれた。

根井行忠 (*〜1184)楯ノ行忠・滋野・望月・小弥太・行近。信濃佐久郡の豪族。行親の息(嫡男)。木曽四天王のひとり。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。蟹谷次郎を与力に2000騎を率いる。「篠原の合戦」に第六陣。平ノ景高と合戦。1184年「宇治川の合戦」に六条河原にて討死する。<父・行親が北陸経営の為、馬廻りから外れた際の四天王。><のち鎌倉・南北朝室町期に出羽国由利郡に同族あり。>

楯ノ親忠 (*1162〜*1184)根井親忠・滋野・望月・根井・六郎。根井行親の息(六男 or 次男)。年少の為、義仲の傍に仕えるという。木曾四天王のひとり。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に軍功。平家との「倶梨伽羅峠の合戦」に軍功。「篠原の合戦」に第三陣。平ノ景家軍と合戦。1184年「宇治川の合戦」に六条河原にて討死する。<一族を率いて落ち延びたとも。>

<木曾義仲の家人>

落合兼行 (*〜1184)中原兼行・(滋野・望月・根井)・五郎。中原兼遠の息(根井行親の息とも)。樋口・今井の兄弟。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に樋口兼光とともに別働隊の将。「篠原の合戦」に第四陣。平ノ盛俊軍と合戦、続けて樋口兼光とともに高橋長綱と合戦。

⊃硫弊更 (*)平ノ盛弘・太郎・守弘・守広・盛直。高梨盛光の息。高梨家から養子に入る。木曾義仲に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。平泉寺・斎明威儀の離反により敗北。4月今井軍に合流し呉羽山在陣。息に次郎・盛家。<一門の仁科盛宗は中原兼遠の娘婿。>

高梨高信 (*〜1183)源ノ高信・次郎。北信濃の豪族。高梨盛高の息。中原兼遠の娘婿。木曾義仲に従い上洛。備中「水島の合戦」に戦死。<戦国時代に上杉謙信と深い係りをもつ高梨家の先祖さん。>

高梨忠直 (*〜1184)源ノ忠直・兵衛。北信濃の豪族。高梨高信の従兄弟。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。木曾義仲に従い上洛。義仲四天王のひとりとも(番外か)。鎌倉軍を迎え撃ち「宇治川の合戦」に佐々木高綱と一騎打ち。敗北し戦死する。

<信濃軍>

村山義直 (*)源ノ義直・井上・七郎。信濃の豪族。信濃井上源氏。村山家平の息。1180年義仲挙兵に応じ「市原の合戦」に笠原頼直を破る。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。のち義仲から頼朝に従う。<子孫は戦国時代に長尾為景と親しい信濃村山氏でしょうか。>

井上光盛 (*〜1184)太郎・九郎・光基。頼季流清和源氏。信濃国高井郡井上荘を領する。1180年当初、平家方の笠原氏を後援する。のち義仲に従い越後の城助職を撃退した「横田河原の合戦」で奇襲戦に大功があった。義仲滅亡後、頼朝の意向で誅殺される。<井上九郎・光基と二人の事跡が混同されているのかもしれない。>

片桐子為安 (*)1180年木曽義仲の挙兵に応じる。「市原の合戦」に平家方・笠原頼直を破る軍功。

栗田範覚 (*)栗田寺別当・大法師。信濃善光寺の僧侶。1180年木曽義仲の挙兵に応じる。「市原の合戦」に平家方・笠原頼直を破る軍功。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<源ノ義寿とも。子孫は信濃善光寺別当となる栗田氏でしょうか。この頃から村山氏と仲良かったんですね。>

岡本成時 (*)次郎。木曾義仲の挙兵に従う。1183年「篠原の合戦」に平家方に寝返った平泉寺斎明を捕虜とする軍功。

諏訪豊平 (*)太郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<鎌倉時代に執権・北条家と深い係りをも諏訪家。><依田(芦田)為実の息に豊平あり。依田信実と兄弟か。>

諏訪* (*)二郎・次郎。諏訪上宮。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥河原の合戦」に従軍。<鎌倉時代に執権・北条家と深い係りをも諏訪家。>

手塚光盛 (*〜1184)金刺光盛・諏訪・太郎・別当。諏訪下宮。諏訪明神下社家大祝、諏訪武士団頭領・金刺盛澄の弟。木曽軍の中核戦力として諏訪軍を率いる。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1183年北陸路加賀にて「篠原の合戦」に斎藤実盛を討取る武功。1184年義仲討ち死にの際に、義仲に従う最後の四騎となる。<依田信実の息・信行が跡職を継承するようです。>

千野光広 (*〜1184)茅野光弘・太郎・光弘・光義。諏訪上宮。諏訪明神上社家。弟、七郎・光重は平家方。木曾義仲の挙兵に従う。義仲戦死後に討死。息に頼近、光昌。

海野幸親 (1142〜1184)滋野・宇野・太郎・左馬頭・左衛門尉・信濃守・幸直。海野15世。1156「保元の乱」に義朝に従う。木曾義仲の挙兵に参陣し、「横田河原の合戦」に軍功。義仲とともに戦死。弟に祢津甚平・通直、望月広重。息・幸氏は清水義高とともに鎌倉人質。<いつの時代も苦労する滋野一門。>

海野幸広 (1163〜1183)滋野・中原・宇野・小太郎・弥平四郎・行広。信濃の豪族。海野幸親の息(長男)。木曽軍の中核戦力として滋野党を率いる。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家追討の一手の将として活躍するが「水島の合戦」で、平知盛・重衡・通盛・教経に敗北する。弟に蔵人・幸長、幸氏。<いつの時代も苦労する滋野一門。>

太夫坊覚明 (1144*1150〜1234)藤原通広・海野通広・幸長・最乗坊信救。興福寺の僧侶。信濃の豪族・海野幸親の息(庶兄か)。源ノ行家と行動を共にし、その縁で義仲の右筆となる。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。比叡山を義仲軍に取り込む等、入洛に活躍する。のち義仲との確執があり辞職する。<いつの時代も苦労する滋野一門。>

望月秀包 (*)太郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。一門に次郎、三郎。<戦国時代に甲斐・武田一門に。1193年望月三郎は頼朝に従い富士鹿狩りに参加。>

祢津泰平 (*)甚平。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。息に祢津次郎・貞行、三郎・信貞。<戦国時代に真田党に。1193年祢津二郎は頼朝に従い富士鹿狩りに参加。>

小諸光兼 (*)小室・太郎・義兼。信濃の豪族。滋野一門。木曾義仲の挙兵に従う。のち源ノ頼朝に出仕。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。

大諸直光 (*)大室・太郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。

小林真光 (*)次郎・二郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

長瀬重綱 (*〜1184)判官代・義数。信濃の豪族。木曾義仲の家人。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。「宇治川の合戦」に先陣。畠山重忠に敗れ討死。

池田親忠 (*)次郎・二郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

岡田親義 (*)岡田冠者。信濃源氏。源ノ義光の息。平野(大内)盛義と一族。木曽義仲に従う。1181年「横田河原の合戦」に井上光盛とともに参陣。

▽岡田重義 (*)太郎。信濃源氏。平野(大内)盛義と一族。木曽義仲に従う。

桜井行晴 (*)太郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。

志賀* (*)七郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。一門に八郎。

矢島行忠 (*)矢嶋・八島・四郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。<後裔は出羽国由利郡に滋野(根井)氏を頼り移住。在地の大井氏と結び、同族化するか。>

平原景能 (*)次郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。

塩田高光 (*)八郎。信濃の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。<信濃、塩田といえば・・。>

   越の城氏、坂東大庭氏

 木曾義仲の軍団 その2(経歴その他、の不確定人物。)

新庄則高 (*)次郎左衛門。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

藤山兼助 (*)左衛門尉。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

三河頼重 (*)次郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<東海道の侍も参加してたのでしょうか。三河ということは大伴氏族の富永・設楽氏か。>

中村忠直 (*)太郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

藤原中貞 (*)太郎・左衛門・中定。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

丸子秀資 (*)小忠太・秀助。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<義家の奥州征伐に参陣した丸子氏の子孫か。>

進ノ親直 (*)次郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

保科* (*)太郎・権八。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<信濃の保科家でしょうか。>

更級清澄 (*)源吾。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

津田* (*)三郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

津波田* (*)三郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

高山重遠 (*)三郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<上野国高山党の一門?。>

松本忠光 (*)次郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<戦国・越後の松本氏と関連ありでしょうか?>

金田茂吉 (*)次郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

吉田* (*)四郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

稲問* (*)三郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

茅野光弘 (*)太郎。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

<信濃衆ながら越後平家・城氏の家人> 平安期 越後平氏 城家TOP

小沢景俊 (*)左兵衛・左平衛。信濃海野一族。木曾義仲に従う。のち越後城氏の侍大将。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。<海野氏も源平に分裂するか。>

富部家俊 (*〜1181)三郎。信濃海野一族。木曾義仲に従う。のち越後城氏の侍大将。1181年越後軍との「白鳥横田河原の合戦」に参陣。木曽方と戦い戦死する。<海野氏も源平に分裂するか。>

<上野軍> 名和太郎・物井五郎・小角六郎・西(佐井)七郎。

佐井弘資 (*)藤原・西・七郎。上野国人。秀郷流藤原氏。上野高山党。木曾義仲の挙兵に従う。「横田原の合戦」に軍功を挙げるが戦死。

那波広澄 (*)大胡・名和・太郎。上野多胡(大胡)の豪族。父・源ノ義賢の家人。上野国の親義仲党。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。<義仲にとって親子二代で世話になる恩人ですね。>

多胡家包 (*)大胡・次郎。木曾義仲の挙兵に従う。<義仲にとって親子二代で世話になる恩人ですね。>

<能登軍>

土田* (*)能登の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。

関ノ* (*)能登の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。<戦国・尾張、伊勢の関に関係があるのでしょうか。>

日置* (*)能登の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。<戦国・伊勢の日置に関係があるのでしょうか。>

≪個人的感想≫ 藤原秀衡の「吉次」、柏崎の問丸ノ花蔵が、賄い方を引き受け、北陸諸勢力の同盟を成立させたようです。

<奥州からの上洛加勢派遣軍>

野沢* (*)藤原氏財方。奥州藤原軍、軍兵300人派遣の頭目のひとり。木曾義仲に加勢。京から奥羽への道中の治安維持を秀衡に託される。

富田* (*)藤原氏財方。奥州藤原軍、軍兵300人派遣の頭目のひとり。木曾義仲に加勢。京から奥羽への道中の治安維持を秀衡に託される。

山県* (*)藤原氏財方。奥州藤原軍、軍兵300人派遣の頭目のひとり。木曾義仲に加勢。京から奥羽への道中の治安維持を秀衡に託される。

 

 

<越中軍> 北陸宮=以仁王王子。讃岐前司重季が擁立。

野尻* (*)太郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。<野尻・・・、越中の侍か。>

河上* (*)太郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。

石黒光弘 (*)太郎。越中の豪族。林光明の娘婿。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に負傷。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。高楯光延とともに今井与力。

福光* (*)五郎。越中の豪族。石黒光弘の弟。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に負傷した兄・石黒光弘を救出。

宮崎長康 (*)佐美・太郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。依田軍与力。<孫の宮崎定範は「承久の乱」に宮方に属し幕府軍に敗北する。>

別府為重 (*)南保・次郎・家隆。越中の豪族。宮崎太郎の弟。木曾義仲の挙兵に従う。「篠原の合戦」に甥・為直と軍功争い。高橋長綱を討取る。

入善為直 (*)宮崎・小太郎・安家・行重。越中の豪族。宮崎太郎の息。木曾義仲の挙兵に従う。「篠原の合戦」に叔父・為重と軍功争い。

疋田俊平 (*)二郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。<越前の名門・疋田斉藤家と関連ありでしょうか?>

疋田俊弘 (*)小太郎。俊平の息。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。

水巻安高 (*〜1183)太郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に戦死。

水巻* (*)四郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。小太郎とともに巴御前与力。

高楯光延 (*)次郎。越中の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。石黒光弘ととも今井与力。

≪個人的感想≫

頼朝政権下には、北陸道の番頭となる比企朝宗に従い、比企氏の滅亡とともに旧勢力の地盤は一掃されてしまったのでしょうか・・。

 越中では石黒、宮崎が、豪族の中でも跳びぬけた勢力のようです。

藤原秀衡の「吉次」、柏崎の問丸ノ花蔵が、賄い方を引き受け、北陸諸勢力の同盟を成立させたようです。

 林ノ光明 公のつもり

<加賀軍>

林ノ光明 (*)藤原光明・六郎。藤原利仁流。加賀の豪族。林光家の息。一門分家に倉光成澄、板津成景。越中・石黒光弘は娘婿。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。「篠原の合戦」に従軍。梯川の渡河を木曾全軍に披露。息に光平、(安田)惟光、家朝、(山上)光隆、(横江)基光、(近岡)利明。

今城寺光平 (*〜1183)藤原光平・林・太郎。加賀の豪族。林光明の息。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。「三条野の合戦」に斎藤実盛に討たれる。息に光在。

野宮光宗 (*)石黒・八郎。越中・石黒氏の一族。母方は林光明の一門。木曾義仲の挙兵に従う。武蔵有国を討取る。

倉光成澄 (*)林・太郎・次郎・六郎。加賀の豪族。林成家の息(次男)。兄に(板津)成景。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。1183年義仲に従い北陸での合戦に平家の家人・瀬尾兼康を捕虜とする。美濃・尾張の徴兵に派遣され別働隊を率いて入京。「近江勢多の合戦」に平家軍を破る。

▽倉光成氏 (*〜1183)林・三郎。加賀の豪族。林成家の息。弟に(宮永)国員。林家一門。木曾義仲の挙兵に従う。兄・成澄から平家の家人・瀬尾兼康を預かる。備中の自領を案内すると瀬尾兼康に導かれ瀬尾村にて騙し討ちされる。<太郎・次郎・三郎・五郎・六郎など他にも兄弟がいて事跡が二人にまとめられているかもですね。>

富樫家通 (*)(藤原)・太郎。加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

富樫家経 (*)(藤原)・次郎。加賀の豪族。富樫泰家の父。木曾義仲の挙兵に従う。<入道仏誓はこの方のこととも。>

富樫泰家 (*)(藤原)・六郎・入道仏誓。加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に参陣。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。

安江盛高 (*)二郎。加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に参陣。

井家範方 (*〜1183)加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。撤退の「安宅の合戦」に戦死。

都幡* (*)津幡多・津波田・三郎。加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。<津波田庄司大夫・宗親は越後城氏の侍大将。>

下田* (*)加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。

太田兼定 (*)次郎。加賀の豪族。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1183年倉光成澄とともに美濃・尾張に派遣される。「近江勢多の合戦」に平家軍を破る。息に入江親定。

入江親定 (*〜1183)太田・冠者・小次郎・親貞。加賀の豪族。太田兼定の息(嫡男)。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。「近江勢多の合戦」に戦死。

<加賀林家一門衆>

大桑利光 (*)林光家の息。林光明の兄弟。

豊田光成 (*)林光家の息。林光明の兄弟。

松任範光 (*)林光家の息。林光明の兄弟。

≪個人的感想≫ 林、富樫、安田、山上、横江、近岡、倉光、板津、白江、宮永、大桑、佐貫、石浦、豊田、飯河、藤井、弘岡、松任の21家が同族。

加賀では林と富樫が、跳びぬけた勢力を持つようです。

藤原秀衡の「吉次」、柏崎の問丸ノ花蔵が、賄い方を引き受け、北陸諸勢力の同盟を成立させたようです。

<越前軍>

稲津実澄 (*)新介・新助・親忠。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1181年北陸に侵攻した平家軍(平ノ通盛)に反抗。

斎藤* (*)太。木曾義仲の挙兵に従う。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」。

斎明威儀 (*)白山平泉寺・長吏(ちょうり)。木曾義仲の挙兵に従う。1181年北陸に侵攻した平家軍(平ノ通盛)に反抗。平家の北陸遠征軍撃退のため越前に出陣。燧ヶ(ひうち)城に籠城。1183年3月「燧ヶ城の合戦」に従軍。のち平家方に内通。<白山長吏に富樫(斎藤)家があります。一門でしょうか。>

本庄* (*)木曾義仲の挙兵に従う。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。

 

   越の城氏、坂東大庭氏

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<源氏一門・源氏他流衆>

足利義清 (*〜1183)源ノ義清・矢田・上西門院・判官代。源氏の一族、下野国の豪族・足利義康の庶子(長男)。信濃国矢田荘を領す為、矢田判官代と呼ばれる。1180年以仁王の挙兵に参加するが敗北し潜伏する。1183年木曽義仲の挙兵に参陣。義清は義仲、弟の義兼は頼朝に属す。義仲軍の一手の大将として活躍するが「水島の合戦」で、弟・足利義長(義良)とともに討死する。<弟・義兼の息子が、北条氏の娘婿となり、一門安泰。>

足利義長 (*〜1183)源ノ義長・上西門院蔵人。足利義康の息。義清の弟。1183年木曽義仲の挙兵に参陣。義清は義仲、弟の義兼は頼朝に属す。義仲軍の一手の大将として活躍するが「水島の合戦」で、兄・足利義清とともに討死する。<源氏姓にすると、甲斐源氏の河内義長と同名。>

⇔↓志田義広 (*〜1184)源ノ義広・信太・三郎・義憲・義弘・義範。源ノ義朝・義賢の弟、義朝の養子。常陸国志太に土着する。1180年頼朝軍に参軍するが、1181年頼朝に叛意。常陸国で源ノ範頼・八田四郎・小山朝政・小山宗政と激突。1183年、足利忠綱、小山朝政とともに反頼朝の挙兵。1183年源ノ行家とともに木曾義仲に合流する。1184年逃亡先の伊勢国にて波多野盛通、大井実春に討たれる。

大内盛義 (*〜*1220)源ノ盛義・平賀・大内・平賀冠者・刑部四郎。信濃源氏。佐久郡の豪族。源ノ義光の息。1159年「平治の乱」に源ノ義朝に従う。のち木曽義仲に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。息に平賀義信(1143〜*)。

佐竹忠義 (*〜1180)源ノ忠義・常陸介・太郎。新羅三郎義光の息・佐竹昌義の息。義忠暗殺事件から、河内源氏とは反目する間柄。平家の恩顧を受ける。1156年「保元の乱」には源ノ義朝に従う。1180年頼朝配下の上総広常の攻撃を受け戦死。

↓▽佐竹秀義 (1151〜1225)源ノ秀義・四郎。隆義の息、叔父・昌成とともに頼朝と戦うが敗北。奥州に逃れるが、のちに罪を許され出仕。1189年奥州遠征に参加、御家人に列せられる。親・頼朝派。<源氏姓にすると佐々木秀義と同名。>

村上信国 (*)源ノ信国・太郎。信濃の村上家。木曾義仲の挙兵に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。

泉ノ重光 (*)源ノ重光・山田・三郎・重満。1181年木曾義仲に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。源行家に従い「墨俣川の合戦」に戦死。<尾張源氏、山田一族か。義仲入洛に付き添った将に泉ノ重忠。

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≪個人的感想≫ 木曾義仲の話しでは、斎藤実盛との関係(幼い頃命を助けてくれた恩人(実盛)を、源平の定めゆえに討ち果たしてしまう)、巴御前との別れや、乳兄弟・今井兼平との絆が物語り的に心に響くかんじです。一番いいときは倶利伽羅峠で平氏の大軍を撃破し、京に上洛していく頃でしょうか。一瞬の栄華とその強さが、儚さが、中国の楚の項羽のようです。

「気は世を覆い、力は山を抜く」、けど天が味方しなかったです(哀。

 戦国時代「手取川の合戦」で織田軍団を破った上杉謙信達の気分は、きっと源平の頃の「倶利伽羅」と同じような、気分上々だった事でしょう。

鎌倉、南北朝、室町、戦国と同じ場所で繰り返される戦い。歴史は不思議と繰り返されるですね。

<京都入洛・後鳥羽上皇 参院12将> 院にとっては 銑義仲と同格扱い。

 尾張(注)戦国期の要所図です。

高田重家 (*)四郎。尾張源氏、満政流。<八島冠者の一門。>

泉ノ重忠 (*〜1221)源ノ重忠・山田。尾張源氏。頼朝に冷遇される。「承久の乱」に宮方として参戦。<八島冠者の一門。木曽義仲の旗揚げに参陣した泉ノ重光の一門でしょうか。>

葦敷重隆 (*)源ノ重隆・山田・佐渡守。尾張源氏。木曾義仲に従い厚遇される。のち頼朝により常陸に配流。<八島冠者の一門。>

⇔▽山田重弘 (*)源ノ重弘・浦野・次郎・六郎・大和守。美濃源氏分派・尾張源氏。山田(浦野)重遠の三男。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1185年源ノ範頼に属し中国遠征軍。軍功により備中英賀郡を拝領する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。息に駿河守・重英。

安田義定 (*〜1195)源ノ義定。信義の弟。甲斐遠江源氏。遠江守護。1180年以仁王の「令旨」を得て、工藤景光・工藤行光・市川行久を率いて駿河目代の橘遠茂を破る。1183年木曽義仲軍と別部隊として上洛。平家を追った軍功により遠江守護に任官。1184年義仲から離反し、範頼・義経軍に参加。頼朝の鎌倉幕府からは当初、甲斐源氏の勢力を分散するため武田家から独立的な扱いを受けるが、のちに頼朝に誅殺される。

⇔↓山本義経 (*〜*1183)源ノ義経・山下・兵衛尉。近江源氏。1180年「以仁王」の挙兵に応じる。勢多・野路を抑える。近江鎮定の平ノ知盛に敗戦。1183年木曽義仲と合流し入京。義仲の命で京都を守備する。以降消息不明。<義高・義広(錦織冠者)は一門。源氏姓にすると源ノ義経と同名。>

⇔↓柏木義兼 (*〜*1183)源ノ義兼・山本・甲賀入道。近江源氏。山本義定の息。山本義経の弟。1180年「以仁王」の挙兵に応じる。近江鎮定の平田家継の攻勢により撤退。1183年木曽義仲と合流し入京。義仲の命で京都を守備する。以降消息不明。

源ノ有綱 (*〜1186)右衛門尉・判官。検非違使。摂津源氏。渡辺党。源ノ頼政の孫。源ノ仲綱の息。1180年以仁王の挙兵に生き延びる。1182年土佐国に蓮池家綱・平田俊遠を討伐。1183年木曾義仲に従う。頼朝に従う。源ノ義経の婿となる。1185年義経の西国落ちに追従するが逸れ、平ノ時定に追撃され大和国にて自害。

源ノ行家 (*〜1186)新宮・義盛。為義の十男。義朝の弟。以仁王の令旨を諸国の源氏にふれ回る。志田義広とともに頼朝、義仲と反目し、義経と結ぶ。河内で平ノ時定に討たれる。

⇔土岐光長 (*〜1183)出羽・判官・右衛門尉。頼光流、美濃源氏。北面の武士・土岐光信の息。1181年平家軍に敗北。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。1183年後白河法皇の籠城する「法住寺の合戦」に法皇方。義仲に討たれる。<1183年別働隊・倉光氏に従い入洛か。>

↑村上為国 (*)源ノ顕清の息。弟・盛清の養子となる。信濃源氏。藤原通憲の娘婿。信濃更科郡村上郷を領する。1156年「保元の乱」に祟徳上皇・源ノ為義方で参戦。領地にて蟄居。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。義仲と確執し、頼朝軍。1184年「一ノ谷の合戦」に源ノ範頼軍。

↑▽村上信国 (*)太郎。村上為国の長男。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。洛中警護にあたる。<木曽義仲の旗揚げに参陣しています。>

村上基国 (*〜1183)三郎・判官代。村上為国の息。1156年祟徳上皇・源ノ為義方で参戦。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。1183年後白河法皇の籠城する「法住寺の合戦」に法皇方。

⇔▽渋谷重助 (*)五郎・馬允・重資。河島(河崎)。相模の豪族。渋谷重国の息(長男)。1180年頼朝挙兵時は平家方。木曽義仲に従う。1184年「宇治川の合戦」義経軍。近江佐々木家の親戚。1185年義経とともに官位任官し叱責を受ける。<頼朝にかなり嫌われている様子です。><1180年の動乱当時から、渋谷家代表として京都に大番役でいたのかもしれませんね。戻るに戻れなかった結果か。>

 

坂東の源氏勢力

<若狭・武蔵源氏> 武蔵 飯富

源ノ季貞 (*〜*1185)飯富庄司・右馬少允・右衛門少尉・大夫判官・右衛門尉・判官・検非違使。源氏の源ノ満政流を継承。若狭の豪族で平ノ忠盛の家臣・源ノ季遠の息。若狭国の豪族。上総飯富荘を領する。平ノ清盛の側近。「滝口武者」。平ノ宗盛の側近。後白河院「北面の武士」。稲沢盛経とともに河内源氏・源ノ義基(義忠弟の子孫)を討伐する。1180年平ノ盛澄とともに河内国の石川義兼を討伐。1181年平ノ盛澄とともに九州に下向し菊池隆直、緒方惟義、臼杵惟隆と抗争。1185年宗盛に従い西国落ち、「壇ノ浦の合戦」に捕虜となる。1185年平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。兄弟に豊後守・光季。息に宗季、宗遠。<息子達は鎌倉御家人、子孫は武田家臣。><平家方の源氏旗頭のようです。>飯富宗季 (*)源太。元・平家の家人。信濃の豪族。1189年「奥州征伐」に従軍。は飯富一門か?>

<上野新田党:義国流>

新田義重 (1135〜1202)太郎・大炊助・左衛門尉。義国の息。天下を傍観したため頼朝に冷遇される。娘婿に源ノ義平、足利義清(矢田判官代)。

山名義範 (*)次郎・伊豆守・教義。新田義重の嫡男。早くから頼朝に臣従し、義経軍に参加。1185年、頼朝から足利義兼とともに名国司に推薦される。親・頼朝派。<足利義清の実子とも。>

里見義俊 (*)新田義重の庶長子。上野国里見の豪族。新田の一族が傍観するなかで、いち早く臣従する。親・頼朝派。

新田義兼 (*)大炊助・蔵人。下野の豪族。義国流上野源氏。新田義重の息。頼朝政権下では冷遇される。1189年「奥州征伐」に従軍。実朝の代に新田荘12ヵ郷の地頭に補される。

 

 

<下野足利党:義国流>

足利義康 (1127〜1157)蔵人判官・右衛門尉・陸奥守・陸奥判官。源ノ義国の嫡男。母は藤原有房の娘。室は熱田大宮司・藤原季範の娘。鳥羽院北面の武士。1156年「保元の乱」に軍功。義朝とは熱田大宮司を通じ同盟関係(義兄弟)。

↑足利義房 (1151〜1180)判官代・季邦。源ノ義国の三男。新田義重・足利義康の弟。摂津源氏の源ノ頼政に、甥・足利義清とともに従う。1180年「以仁王の挙兵」に従い京都で戦死。<摂津源氏に協力して挙兵。>

⇔↑足利義清 (*〜1183)源・矢田・判官代。源氏の一族、下野国の豪族・足利義康の庶子(長男)。信濃国矢田荘を領す為、矢田判官代と呼ばれる。1180年以仁王の挙兵に参加するが敗北し潜伏する。1183年木曽義仲の挙兵に参陣、「篠原の合戦」に別働隊。義清は義仲、弟の義兼は頼朝に属す。義仲軍の一手の大将として活躍するが「水島の合戦」で、弟・足利義長(義良)とともに討死する。

足利義兼 (*〜1199)三郎・義称。義康の息。八条院蔵人。兄・義清は木曾軍に合流するが、義兼は1180年の挙兵から頼朝に従う。北条時政の娘婿。1185年、頼朝から山名義範とともに名国司に推薦される。親・頼朝派。

 

<常陸佐竹党:義光流>

佐竹忠義 (*〜1180)常陸介・太郎。新羅三郎義光の息・佐竹昌義の息。義忠暗殺事件から、河内源氏とは反目する間柄。平家の恩顧を受ける。1156年「保元の乱」には源ノ義朝に従う。1180年頼朝配下の上総広常の攻撃を受け戦死。

佐竹隆義 (1118〜1183)常陸介・四郎。1180年の争乱時には京洛に滞在。兄・忠義の死により家督継承。頼朝と敵対する。

佐竹昌成 (*)義政・義弘・義昌。隆義の弟。上総広常の調略により、頼朝に寝返る。のち、頼朝に不義を疎まれ、追放される。

↑▽佐竹秀義 (1151〜1225)四郎。隆義の息、叔父・昌成とともに頼朝と戦うが敗北。奥州に逃れるが、のちに罪を許され出仕。1189年奥州遠征に参加、御家人に列せられる。親・頼朝派。

 源ノ義経の軍団  源ノ範頼の軍団

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 甲斐源氏 甲斐国に土着した源氏。1180年「以仁王」の令旨を得て美濃源氏、近江源氏と共同作戦を展開。

武田信儀 (*〜1186)源ノ信義。武田氏総領。源ノ清光の息。逸見光長の弟。1180年駿河目代・橘遠茂を打倒。駿河守護。弟の安田義定は遠江守護。一族を次々と頼朝に殺害され憤死する。

逸見光長 (1142〜*)源ノ光長・太郎・上総介。源ノ清光の息。武田信義と兄弟。1180年源平争乱には中立。武田家が勢力を伸張する。息に基義(義経)。<平ノ重盛家人として出頭した武田有義を養子に迎えるか?><土岐光長と源氏姓にすると名前まで同じ。>

河内義長 (*)源ノ義長・田井・五郎・小二郎・長義。源ノ清光の息。甲斐源氏。武田信義と兄弟。1180年以仁王の挙兵に呼応し軍事蜂起。1185年対馬守護に就任。<河内源氏との関係が気になる苗字です。由来はなんでしょう・・。平氏の時代に平氏方・河内判官がいますが、その跡職を継承したのでしょうか。摂津源氏の郎党には松浦党もいますし、河内源氏も九州北部に何か影響力をもっていたかもしれませんね。> 鎌倉期 九州の豪族 TOP

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<武田家一門衆> 武田信義の息子達

一条忠頼 (*〜1184)源ノ忠頼・次郎。信義の嫡男。頼朝から誅殺される。武田の実力者。1180年以仁王の挙兵に呼応し軍事蜂起。<戦国時代も武田家で活躍しますね。>

板垣兼信 (*〜1190)源ノ兼信・三郎。信義の次男。頼朝の陰謀で隠岐に配流される。<戦国時代も武田家で活躍しますね。>

武田有義 (*〜1199)源ノ有義・逸見・兵衛尉。信義の三男。平家の家人。平ノ重盛の側近。1184年源ノ範頼の「西海遠征」に従軍。1199年頼朝急死による幕府の混乱により「梶原景時事件」に巻き込まれ誅殺される。<甲斐源氏嫡流の逸見を継承したのでしょうか。>

石和信光 (*)伊沢。信義の四男。親・頼朝派。兄弟を追いやり武田の惣領となる。<鎌倉幕府守護のページ、甲斐守護を参照してください。>

<武田御由緒家> 武田信義の弟の家系

加賀美遠光 (*)源ノ・小笠原。信義の弟。親・頼朝派。信濃の国人となる。当初から、甲斐源氏の勢力を分散するため武田家から独立的な扱いを受ける。

⇔▽加賀見長清 (1162〜1242)源ノ・小笠原・次郎・小笠原長清。甲斐源氏。遠光の息。母は和田義盛の娘。元・平ノ知盛の家人。当初から、甲斐源氏の勢力を分散するため武田家から独立的な扱いを受ける。「宇治川の合戦」範軍。1186年信濃国伴荘の地頭。「承久の乱」に東山道大将軍として上洛。阿波守護となる。

南部光行 (*)源ノ。遠光の次男。陸奥国に派遣される。

⇔↑安田義定 (*〜1195)源ノ。武田信義の弟。遠江守護。1180年以仁王の「令旨」を得て、工藤景光・工藤行光・市川行久を率いて駿河目代の橘ノ遠茂を破る。1183年木曽義仲軍と別部隊として上洛。平家を追った軍功により遠江守護に任官。1184年義仲から離反し、範頼・義経軍に参加。頼朝の鎌倉幕府からは当初、甲斐源氏の勢力を分散するため武田家から独立的な扱いを受けるが、のちに頼朝に誅殺される。

安田義資 (*〜1194)源ノ。安田義定の息。遠江国の支配を目指す。当初、甲斐源氏の勢力を分散するため武田家から独立的な扱いを受けるが、のちに頼朝に誅殺される。

工藤景光 (*)荘司。1180年市川行房とともに安田義定に従い駿河目代・橘ノ遠茂の軍を「波志田山の合戦」に撃破。息に(厨川)小次郎・行光。

市川行房 (*)1180年工藤景光とともに安田義定に従い駿河目代・橘ノ遠茂の軍を「波志田山の合戦」に撃破。

加藤光員 (*〜*1221)太・大夫判官・検非違使・伊勢守。加藤景員の息。1180年当初頼朝軍の蜂起に参陣。「石橋山の合戦」の敗戦で甲斐に逃走。のち安田義定に従い「愛鷹山の合戦」にて駿河目代・橘ノ遠茂と俣野(大庭)景久の連合軍を破る。平家打倒に抜群の軍功あり。伊勢に所領。「承久の乱」に京都方に与し所領没収。

加藤景廉 (1166〜1221)藤次・光員の弟。1180年当初頼朝軍の蜂起に参陣。1180年「石橋山の合戦」の敗戦で甲斐に逃走。安田義定に従い「愛鷹山の合戦」にて駿河目代・橘ノ遠茂と俣野(大庭)景久の連合軍を破る。1193年安田義資を誅殺。遠江に所領を得る。兄・光員の失脚に伊勢の所領を得る。

源ノ頼朝の挙兵に参陣するが「石橋山の合戦」に敗北し甲斐に落ちる。

<相模源氏> 山県

源ノ頼清 (*)山県。相模の豪族。田所目代。1144年義朝の命で相模大庭領を襲撃する。義朝の名代・清原安行とともに大庭景宗館を襲撃。<義朝とは同格、または同盟者の関係のようです?><頼朝配下、義経与力の田代冠者・源ノ信綱に血がつながるか?。>

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 信濃源氏

⇔▲大内盛義 (*〜*1220)平賀・大内・平賀冠者・刑部四郎。信濃源氏。佐久郡の豪族。源ノ義光の息。1159年「平治の乱」に源ノ義朝に従う。木曽義仲に従う。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。息に平賀義信(1143〜*)。

平賀義信 (1143〜1207)源ノ・大内・四郎・武蔵守・義宣。義光流信濃源氏一門。佐久郡平賀郷を領する。義光流の平賀(大内)盛義の息。義光の孫。義朝の従兄弟。源ノ義宗の養子。源ノ義朝からの累代家人。一門衆筆頭。「平治(1159)の乱」に参戦。平治の乱に敗戦後、義朝とともに都落ち。1180年頼朝が挙兵すると直ちに参じた。1184年(元暦元)年に頼朝の推薦で後白河院から武蔵守を拝領。1189(文治5)年の「奥州征伐」に従軍。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。<信濃に進出した源ノ義賢との関係は定かではありません。><八島重成とともに源ノ義朝の信頼の厚い武士のようです。>

 

村上為国 (*)源ノ顕清の息。弟・盛清の養子となる。信濃源氏。藤原通憲の娘婿。信濃更科郡村上郷を領する。1156年「保元の乱」に祟徳上皇・源ノ為義方で参戦。領地にて蟄居。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。義仲と確執し、頼朝軍。1184年「一ノ谷の合戦」に源ノ範頼軍。

↑▽村上信国 (*)太郎。信濃の村上家。村上為国の長男。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。洛中警護にあたる。<木曽義仲の旗揚げに参陣しています。>

村上基国 (*〜1183)三郎・判官代。村上為国の息。1156年祟徳上皇・源ノ為義方で参戦。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。1183年後白河法皇の籠城する「法住寺の合戦」に法皇方。

≪個人的感想≫ 甲斐源氏は戦国時代の武田信玄が一番輝きを放ちました。信玄の二家老に板垣信形甘利虎康がいるのですが、板垣家が武田にとって重要なものであることがわかります。

一族では信玄の代に一条信龍とかいますし、とにかく家門が続いててよかった感じです。

信濃を巡って争った小笠原(加賀美)氏が、もとは一族だったので、驚きです。頼朝に引き離されなければ、一族仲良かったのでしょうか。不思議な運命です。

 

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近江の源氏勢力

<近江>

八島重実 (*)源ノ重実・八島冠者・佐渡源太。源ノ満政流、八島重宗の息。美濃源氏。多田満仲の曾孫。美濃国八島を領する。句当大夫・宗成の娘婿。鳥羽院西院の武士。「鳥羽四天王」のひとり。1079年源ノ国房と合戦。1109年源ノ義忠暗殺の疑惑で捕縛される。「保元(1156)の乱」に活躍。息に重貞、重成、重遠。<近江・美濃・尾張に勢力を持つ豪族のようです。山田・安食氏の祖。>

源ノ重時 (*)八島重時・左衛門尉・信濃守・相模守・大和守・「無髪判官」。源ノ満政流、八島重宗の息。美濃源氏。重実の弟。多田満仲の曾孫。白河・鳥羽院の「北面武士」。1114年源ノ為義と抗争。1135年大和興福寺と抗争。息に季遠、重俊。<1109年父と兄の逮捕により家督か?>

源ノ季遠 (*)左衛門尉・(判官)。源ノ満政流、重時の息。美濃源氏。平家の家人。忠盛・清盛親子に出仕。息の季貞は平家の侍大将として忠節。<美濃源氏嫡流か。>

平ノ重遠 (*1100〜*)源ノ重遠・浦野・四郎・出羽守・前出羽守(出羽前司)・信濃守。近江の豪族。源ノ満政流。美濃源氏。源ノ(八島)重実の息。源氏累代の家人。源ノ義家の娘婿。1185年京都に乱入した木曾義仲軍の不法を頼朝に訴える。息に重直、重弘、重房。<頼朝に挨拶に訪れた時に85歳頃といいますから、年齢的に重実本人なのかもしれませんね。><平家の姓となっているのは清盛に従ったということなのでしょうか。>

八島重成 (1140〜1159)源ノ重成・佐渡式部大夫・大炊助・兵部少丞・式部丞・近江守。源ノ満政流。美濃源氏。近江国に本拠を移す。重実の三男(嫡子とも)。「保元(1156)の乱」に70余騎を率い活躍。「平治(1159)の乱」に従軍。平治の乱に敗戦後、義朝とともに都落ち。美濃国青墓宿にて義朝の影武者(身代わり)となり戦死。29歳。<平賀義宣とともに源ノ義朝の信頼の厚い武士のようです。年齢的には義平と同世代です。><のちに近江源氏の武士がが佐渡判官と名乗ったりするのはこの人物の影響でしょうか。>

源ノ重貞 (*)八島重定。源ノ満政流。美濃源氏。八島重実の息。八島重成の弟。のち平家家人。源ノ為朝を捕縛する軍功。息は頼朝に誅殺される。

⇔↑山本義経 (*〜*1183)源ノ義経・山下・兵衛尉。近江源氏。1180年「以仁王」の挙兵に応じる。勢多・野路を抑える。近江鎮定の平ノ知盛に敗戦。1183年木曽義仲と合流し入京。義仲の命で京都を守備する。以降消息不明。<義高・義広(錦織冠者)は一門。源氏姓にすると源ノ義経と同名。>

⇔↑柏木義兼 (*〜*1183)源ノ義兼・山本・甲賀入道。近江源氏。山本義定の息。山本義経の弟。1180年「以仁王」の挙兵に応じる。近江鎮定の平田家継の攻勢により撤退。1183年木曽義仲と合流し入京。義仲の命で京都を守備する。以降消息不明。

 

 

 

美濃・尾張の源氏勢力

<美濃>

源ノ則清 (*〜*1185)美濃守・(左衛門尉?)判官・検非違使。美濃源氏。平家の家人。1585年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される。1185年平ノ宗盛とともに鎌倉に護送される。<義朝の家人・八島冠者との関係が気になります。>

土岐光長 (*〜1183)源ノ光長・出羽(出羽守?)・判官・右衛門尉。頼光流、美濃源氏。北面の武士・土岐光信の息。1181年平家軍に敗北。1183年木曽義仲の挙兵に従い入京。1183年後白河法皇の籠城する「法住寺の合戦」に法皇方。義仲に討たれる。<1183年別働隊・倉光氏に従い入洛か。>

<尾張>

高田重家 (*)四郎。尾張源氏、満政流。<八島冠者の一門。>

泉ノ重光 (*)山田重光・源ノ・三郎・重満。1181年木曾義仲に従う。越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。源行家に従い「墨俣川の合戦」に戦死。<尾張源氏、山田一族か。>

↑▽泉ノ重忠 (*〜1221)山田重忠・源ノ。尾張源氏。頼朝に冷遇される。「承久の乱」に宮方として参戦。<八島冠者の一門。木曽義仲の旗揚げに参陣した泉ノ重光の一門でしょうか。>

葦敷重隆 (*)山田重隆・源ノ・佐渡守。尾張源氏。木曾義仲に従い厚遇される。のち頼朝により常陸に配流。<八島冠者の一門。>

↑▽山田重弘 (*)源ノ重弘・浦野・次郎・六郎・大和守。美濃源氏分派尾張源氏。山田(浦野)重遠の三男。1181年越後城氏との「横田河原の合戦」に参陣。1185年源ノ範頼に属し中国遠征軍。軍功により備中英賀郡を拝領する。1194年頼朝主催の北条泰時元服式に列席。息に駿河守・重英。

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 摂津の源氏勢力 摂津国に土着した源氏(元嫡流)。

<渡辺党> 頼光流

源ノ頼政 (1104〜1180)兵庫頭・三位・入道。摂津馬場源氏。渡辺党。摂津国多田庄を本拠とする頼光系の摂津源氏、頼政(五代・孫)の代には渡辺を根拠地とする。「保元・平治の乱」に参戦、義朝側から清盛側に走る。1180年に挙兵計画が発覚し「以仁王の挙兵」に参加。討たれる。文武両道に優れた。<源ノ義賢の息、源ノ仲家(木曾義仲の兄)の養父となり、八条院蔵人の地位まで育て上げる。>

源ノ仲綱 (*1126〜1180)隠岐守・伊豆守。摂津馬場源氏。渡辺党。頼政の嫡男。平ノ宗盛との不仲から、以仁王とともに1180年の挙兵に至るという。嫡男・宗綱とともに平等院にて自害する。

源ノ宗綱 (*〜1180)左衛門尉・肥後守。摂津馬場源氏。1180年「以仁王の挙兵」に参加。宇治平等院にて自害。<子孫は親鸞の弟子となり石山合戦に活躍する下間氏となるらしい。>

源ノ有綱 (*〜1186)右衛門尉。摂津馬場源氏。渡辺党。仲綱の息。1180年の挙兵時、伊豆の本領にいたため生き残る。源ノ義経の婿となる。頼朝の命で土佐国に蓮池家綱、平田俊遠を討伐。義経謀反に連座し平ノ時定に追われ自害。源ノ義経の軍団

摂津広綱 (*)駿河守・弘綱。摂津馬場源氏。頼政の息、兄・仲綱の養子。のち源ノ頼朝に臣従し一門衆として遇される。1189年頼朝の「奥州征伐」に従軍。1190年頼朝とともに上洛。その後は出家し上醍醐に隠居する。

源ノ兼綱 (*〜1180)(大河内)大夫判官・中宮少進・左衛門尉・検非違使。源ノ頼行の息。叔父・頼政の養子。1180年「以仁王の挙兵」に参加。宇治平等院にて戦死。息に鳥羽冠者・兼隆。

源ノ仲家 (*〜1180)八条院蔵人・六条院蔵人。源ノ義賢の息。母は藤原宗季の娘。源ノ頼政の養子。木曽義仲の兄弟。1180年「以仁王の挙兵」に参加。宇治平等院にて仲光とともに戦死。息に仲光、仲賢。<運命の分かれ道、木曾義仲の兄弟です。>

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<渡辺党>

渡辺ノ省 (*〜1180)播磨次郎。渡辺党。右馬允・満の息。源ノ頼政に仕え「保元の乱」に従軍。1180年「以仁王の挙兵」に参加。宇治平等院にて兼綱とともに戦死。息に学、授。息の学は義経に従い「屋島の合戦」に従軍。

渡辺ノ授 (*〜1180)薩摩兵衛。渡辺党。渡辺省の息。1180年父に従い「以仁王の挙兵」に参加。

渡辺ノ連 (*)源太。渡辺党。

渡辺ノ興 (*)右馬允。渡辺党。

渡辺ノ競 (*〜1180)瀧口・源三。渡辺党。平ノ宗盛の飼い馬を奪取し、主・仲綱の恨みを晴らす。三井寺に参陣し奮戦する。

渡辺ノ丁 (*)七唱。渡辺党。

遠藤持遠 (*)上西門院武者所。摂津渡辺党。息に盛遠(文覚上人)。

遠藤盛遠 (*)文覚上人。上西門院武者所。

 

<多田党> 頼光流

源ノ行綱 (*〜1185*)六条・伯耆守・蔵人。多田源氏嫡流・多田党。頼盛の息(長男)。1177年「鹿ケ谷の陰謀」を平ノ清盛に密告。1183年に反平氏の挙兵。1183年後白河法皇方で「法住寺の合戦」に望み、木曾義仲と争い敗れ、頼朝に味方する。1184年義経軍に加わり「一ノ谷の合戦」に活躍。義経帷幕にあり、頼朝に疎まれる。

源ノ高頼 (*〜1180)手嶋・冠者・豊島・三郎。多田源氏嫡流・多田党。頼盛の息。1180年「福原港」に放火。平家家人・平田家継に討伐される。

<坂東源氏:下野足利分流>

↓足利義房 (*〜1180)源ノ・判官代・季邦。矢田判官・足利義康(*〜1183)の弟。1180年「以仁王の挙兵」に参加。宇治平等院にて戦死。

<三河武士団>

兵藤政職 (*〜1180)藤原・刑部太夫。三河渥美の豪族。源氏累代の郎党。源ノ頼政に従い平家に挙兵。「宇治山田」に戦死。<先祖は源ノ義家に従い「奥州征伐」に活躍。><孫の正之は頼朝に出仕。>

≪個人的感想≫

 もともと清和源氏の嫡流であり、いつのまにか河内源氏が勢力を伸ばしていく姿をみて、危機感を募らせた末に平ノ清盛と手を組む事になったのでしょう。

美濃土岐家に、摂津源氏のその血は受け継がれていきます。

 建武期の土岐頼遠、安土期の明智(土岐)光秀で輝きを放ちます。幕末の坂本(明智)竜馬も土岐源氏末裔を称しています。

摂津源氏は、時代の節目に先陣をきる一族なのでしょうか。歴史は不思議に繰り返されるものですなぁ〜〜(しみじみ。

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 河内の源氏勢力 

<河内源氏> 嫡流・源ノ義忠の系統 <平ノ清盛の軍団を参照してください。>

河内経国 (*〜*1156)河内藤太・河内御曹司。源ノ義忠の息。母は平ノ正盛の娘。母方の平ノ忠盛に養育される。鳥羽天皇内舎人。叔父・源ノ義国が後見。関東に移住し、源ノ義国と義朝の対立を仲介する。息(養子)に平家家人となる稲沢盛経。

稲沢盛経 (*)源ノ・藤原・散位・小源太・兵庫大允。源ノ頼清流。藤原(源)仲家の息(または河内経国の息(養子とも))。後白河院「北面の武士」。源ノ季貞とともに河内源氏・源ノ義基(義時の息)を討伐する。1183年木曾軍との「篠原の合戦」に戦死。<河内秀国の一門か。><検非違使になったてなら河内判官と呼ばれてもおかしくない人物です。歴史から抹消された源氏嫡流でしょうか。河内源太・経国(*〜1156)の子孫かもしれません。>

河内秀国 (*〜1183)判官・検非違使・季国。1180年「以仁王の乱」鎮圧に参陣。北陸遠征に従軍。1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に戦死。<源氏の嫡流家で。平ノ正盛の婿だった総領・源ノ義忠の子孫が、河内判官と代々尊称されていたらしいです。>

▽源ノ義高 (*)左兵衛尉・左馬允・兵庫助・左兵衛権佐。源ノ義忠の息(次男)。母は平ノ正盛の娘。母方の平ノ忠盛に養育される。河内経国の弟。河内国石川郡壷井香炉峰館に居す。平家に従い河内に拠点を置く。「北面の武士」。息に河内守・義成。<源氏の嫡流家で。平ノ正盛の婿だった総領・源ノ義忠の子孫が、河内判官と代々尊称されていたらしいです。>

↑▲源ノ義時 (*)石川・陸奥六郎・左兵衛尉。源ノ義家の息(5男or 6男)。河内国石川荘を相続。惣領・義忠の死後、家督を為義に奪われる。息に石川義基、孫に義兼。

石川義基 (*)源ノ義基・判官代。石川義時の息。河内石川源氏。1180年平ノ清盛と対立し、大夫判官・源ノ季貞、摂津判官代・平ノ盛澄の討伐軍と抗戦。

石川義兼 (*)源ノ義兼・判官代。石川義基の息。河内石川源氏。1180年平家と抗戦し捕虜となる。木曾義仲の京都占領の機に脱出。石川で挙兵し源ノ頼朝に従う。<頼朝曰く「河内随一の源氏」。>

紺戸義広 (*〜1180)河内石川一門。源ノ義時の息(四男)。甥・義兼とともに平家軍と抗戦。

二条義資 (*〜1180)判官代。河内石川一門。1180年平家の侍大将・源ノ季貞の攻撃により鳥羽にて戦死。

<河内(常陸)源氏>

⇔↑源ノ行家 (*〜1186)新宮・義盛。為義の十男。義朝の弟。以仁王の令旨を諸国の源氏にふれ回る。志田義広とともに頼朝、義仲と反目し、義経と結ぶ。河内で平ノ時定に討たれる。源ノ義経の軍団

⇔↑志田義広 (*〜1184)信太・志太・三郎・信濃守・義憲・義弘・義範。義朝・義賢の弟、源ノ義朝の養子。常陸国志太に土着する。1180年頼朝軍に参軍するが、1181年頼朝に叛意。常陸国で源ノ範頼・八田四郎・小山朝政・小山宗政と激突。1183年、足利忠綱、小山朝政とともに反頼朝の挙兵。木曾義仲に合流する。1184年、逃亡先の伊勢国にて波多野盛通、大井実春に討たれる。

 ≪個人的感想≫

 源ノ行家は素晴らしい行動力を持っていて、諸国の源氏を旗揚げさせて源氏の世の中を招聘した一番の功労者だと思います。いかんせん、ここ一番の合戦に弱かったのが、甥達に遅れをとった理由でしょう。同時代の源氏では新田系の人達は不遇です。のちに足利尊氏に従って山名家が一番飛びぬけた感じでしょう。里見、佐竹は戦国時代までよく所領を守りきった感じです。

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