瀧川一益(滝川一益)の略年表と家臣団と軍団のページです。

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織田信長の近衛軍  原田(塙)直政・佐久間信盛の軍団  

織田信忠の家臣団と軍団    織田信忠の軍団その2

織田家(1582)組織図  織田信長一門(連枝)衆・織田家の系譜

北畠(織田)信雄の家臣団         三好(織田)信孝の家臣団

織田家畿内主力軍 二大軍団のひとつ瀧川軍大将。 のち東国・関八州警固役。

    瀧川一益 肖像のつもり。

 「 先駆けは瀧川、 殿軍も瀧川。 」   

柴田勝家の軍団   丹羽(惟住)長秀の軍団   羽柴(木下)秀吉の軍団  明智(惟任)光秀の軍団   徳川(松平)家康の軍団  

 織田信長年表と織田水軍     大須賀康高(胤高)の軍団

瀧川一益の略年表 (*1525〜1582)略年表 仮称・関東方面軍軍団長。

 近江国甲賀郡大原出身。近江五反田城主、伴(大原・富永)資清の息。池田恒興の縁戚。<南近江出身なのは間違いないようです。近江佐々木・大原一族と縁があるとのことですが、近江には佐々木(源氏)より古く、先に大伴氏族が土着しているので、地元有力者に迎えられる形で近隣名族は全て、たび重なる婚姻により血縁関係が存在していたのではないでしょうか。一益自身が旗印として伴氏の家紋を使用しているので、血統を自己主張している通り、先祖は大伴氏族だと思います。織田方について大原一族から除名されたとかでなく、最初からある程度の距離感を持った地縁なのでは・・。その地縁の「つて」で故郷の豪族の調略の為に書状を送ることはあると思います。池田・瀧・中村等の縁戚も含めて一益の先祖を考えたいと思います。冨永(設楽)氏も大伴氏ばかりでなく佐々木(富永荘)の血が入ってるといわれます。母方か父方か、古代からの大伴の(荘園)地盤に佐々木(源氏)が根を降ろす中で婚姻関係がきっと結ばれたのでしょう。><一益の先祖が大伴系のほうが、軍団長として東北に派遣される事に、古代からの理由(大伴家持とか)があっておもしろい感じはします。神主の織田家は神道に通じているでしょうし、織田家の行動パターン的に信長様はきっと古代史や歴史の事情通だったと推測されます。周りにも「天道」を説くアドバイザーがいたのだと思えます。>

30歳(1555) この頃、六角義賢に追われ、信長の美濃攻めに加わると伝わる。

*年 7/18:津島天神祭りの踊り御張行にて瀧川左近衆を率いて「餓鬼」役を務める。

<自分の部隊をもつ程の役職にあったようです。>

35歳(1560) 永禄3年。「桶狭間の合戦」に先駆けを務める。

36歳(1561) 三河国松平氏との同盟交渉に功あり。

<吉良家重臣・富永(松平清康と富永忠安が義兄弟)の旧縁か?設楽・瀧川一族のつてか。>

39歳(1564) 織田家に内通した美濃国・徳山則秀の元に明院良政とともに使者として派遣される。

        11/*:北伊勢の長野家老・分部光嘉が音信。

<1566年瀧川彦右衛門、美濃国境へ出陣。>

1567年北伊勢を攻略するための「東海道(西)方面軍」の成立。

42歳(1567) 永禄10年。2/*:北伊勢に侵攻。上木・木股・持福氏を調略し員弁郡、

                  桑名郡を攻略、木造氏の瀧川(木造)雄利を養子に迎え調略。

        木造具政の弟・瀧川雄利が傘下に加わる。8/*:伊勢長島に斉藤(一色)龍興が逃走し追撃。

43歳(1568) 永禄11年。2/*:宇野部・蘆生氏を従え北伊勢に侵攻。信長「桑名」に後詰。「楠木城攻略」楠木十郎を従える。

                 高岡城・山路弾正と抗戦し敗北。伊勢国蟹江城を拝領。

<安濃津城に津田一安入城。>

1569年南伊勢を攻略するための「南畿(東)方面軍」の成立。

44歳(1569) 永禄12年。2/*:高岡城攻囲。神戸城の神戸具盛と婚姻、同盟。

                 峯氏、鹿伏兎、国府も従う。瀧川(木造)雄利の兄・木造具康を調略。

        長野家老・細野藤敦の「安濃城攻囲」。細野藤敦の養子に瀧川八麿。

                 長野城の長野(北畠)具藤が家臣に追放される。織田信良(長野信包)が養子入りし家督相続。

         8/*:北伊勢侵攻、具康の父・木造具政(北畠具教の弟)が内通。家老・柘植三郎、「阿坂城攻略」。

         9/*:南伊勢進攻、北畠具教の「大河内城攻囲」城下を焼き討ち・兵糧攻め。

         10/4:南伊勢・北畠具教、長野具藤、北畠具房の拠る「大河内城」を奪取(和睦するとも)。

<1569年瀧川彦右衛門、伊勢「大河内攻略戦」出陣、尺限廻番衆。津田一安が武田家に使者として派遣される。>

45歳(1570) 元亀元年。南近江、甲賀攻め。1570年伊勢長島一向一揆蜂起、小江木城主・織田信興が討死。

46歳(1571) 1/*:近江日野に蒲生賢秀の計略で神戸具教を幽閉。神戸家内部粛清、山路弾正殺害。伊勢長島一向一揆勃発。

                  顕正寺証意、長島城主・伊藤長時を追放。

<瀧川彦右衛門、信長より勘当される。>高岡城に小島兵部が入城。

                 5/12:第1次「伊勢長島一向一揆征伐」柴田・佐久間両大将。氏家卜全戦死。

47歳(1572)

<1572年11月北近江浅井戦で瀧川彦右衛門、武功をあげ赦免される(伊予守就任?)。>

<1572年12月徳川援軍、瀧川伊予守参陣。> 12月22日武田対徳川「味方ケ原の合戦」。

48歳(1573) 天正元年。近江日野に蒲生賢秀の計略で関盛信を幽閉。4/*:足利義昭に対し和睦の奉行。8/*:浅井・朝倉戦従軍。

<瀧川彦右衛門(伊予守?)、北近江大高城攻囲。>9/*:第2次「伊勢長島一向一揆征伐」林通政・加藤次郎左衛門が戦死。

49歳(1574) 天正2年。7/*:第3次「伊勢長島一向一揆征伐」。九鬼嘉隆、伊勢志摩水軍動員。長島(顕正寺)一向一揆殲滅。

                  関一門の峯、鹿伏兎の当主が戦死。

        北伊勢・五郡を領有し長島城城主となる。峯城に岡本良勝が入城。

伊勢長島城(想像図w)

50歳(1575) 天正3年。5/21:「長篠の合戦」に武田勝頼を撃退。6/*:北畠具房から北畠(織田)信雄が家督相続。

<12月瀧川伊予守、伊勢金剛寺から訴訟される。>

1576年信忠を補佐し畿内を平定するため「東海道(西)方面軍」から「準近衛軍」への発展。

惟住軍とともに畿内平定戦の為の織田家中核軍・主力軍団を形成。

<後半の動因率の低い惟任・佐久間軍団は主力としては一時格下となるか。>

51歳(1576) 天正4年。4/*:摂津石山攻囲。第1次「木津川河口の海戦」で毛利水軍に敗退。

 <6月瀧川伊予守、山科言継の取次ぎ。興福寺別当の件で丹羽長秀と上洛。>

        11/*:信雄が北畠具教を暗殺(瀧川雄利・長野左京・軽部左京)。

        田丸城にて長野具藤、北畠親成、坂内具義、大河内教道、波瀬具祐を誅殺。津田一安、誅殺される。

52歳(1577) 2/*:紀伊国「雑賀攻略」。細野藤敦出奔。具教の弟、「北畠具親の乱」。伊賀・吉原氏と抗争。

                  8/*:加賀国援軍。10/*大和信貴山城攻略。

53歳(1578) 天正6年。信長宿老10人に安土で茶を持成す。3/*:北畠信雄、天正伊賀の乱「丸山城落城」)。

        4/*:丹波・播磨出陣。7/*:「神吉城攻め」。10/*:荒木村重謀反、「有岡城攻囲」。

                 11/6:第2次「木津川河口の海戦」で、鉄甲船で毛利水軍に勝利。

        12/*:「有岡(伊丹)城攻囲」、中西新八郎を調略。

54歳(1579) 天正7年。(7/*:柘植三郎、伊賀乱入)。池田(荒木)久左衛門を調略、尼崎城・花隈城を抜く。

                 11/19:摂津「有岡城攻略・奪取」。

55歳(1580) 大和国検地。関東北条氏政調略。

56歳(1581) 天正9年。9/3:織田軍・第二次「伊賀乱入」、平定。

57歳(1582) 天正10年。2/2:「甲州征伐」信濃・甲斐に乱入。信濃大島城、下条九兵衛・熊谷玄蕃調略。

                  嫡男・瀧川一忠と真田家娘との婚姻。

1582年東国を平定するため「準近衛軍」から「関東方面軍」への発展。

                  3/23:上野国、信濃二郡(小県郡・佐久郡)を領す。

                 信長から一益に「山東制法15章」。「東国警固役(実質・関東管領職とも)」

        4/*:上野国箕輪城に入城、つづいて上野国厩橋城(前橋)城主となる。

<瀧川儀太夫・益重、1582年2月「甲州乱入」に活躍し、上野国沼田城主。1582年5月上杉方の「宮野城攻囲」敗戦。>

<佐治新介・益氏、1582年5月「上杉征伐」に先陣。>

(中略)

61歳(1586) 9/9:没。

 当時を記すものとして、『勢州四家記』=神戸良政の先代執筆・『勢州軍記』・『勢州兵乱記』=神戸良政(1624〜1644に成立)、『木造記』・『北畠物語』に詳しい。

 <「味方ケ原」に出陣した瀧川伊予守は、一門のうちの誰か別人の事だろうと思います。 瀧川伊予守は一益の一族で、且つ一益の代理人を務められる地位の人物と考えられる事から、一益の一族で本当の長男の(某)さんじゃないでしょうか。「本能寺の変」の後に羽柴秀吉と最後まで争った息子の一忠は次男だったと伝わりますので・・。>

  1576年頃:東海道(西)方面軍。

瀧川一益の家臣団と軍団 ○信長与力(目付) 織田信忠(1557〜1582)世代  (*=生年怪しい)

 北伊勢、東海道(西)方面軍旗頭。<東海道(東)方面軍の徳川とは対照となるか。>

 のち畿内平定戦に織田信忠の後見人。大和国に対して惟任光秀とともに「城割」を実施。

 1581年伊賀平定戦に信雄の後見人。1582年「甲州乱入」に川尻秀隆とともに信忠後見人。

 瀧川一益 (*1525〜1586)<大伴・富永・池田>・(久助?)・左近将監。近江甲賀郡大原出身。近江五反田城主、伴(大原・富永)資清(一勝)の息。父が池田恒興の縁戚で、織田家の女婿(信秀の娘か?)として迎えられる。1557年頃には側近として登場。1567年北伊勢侵攻の旗頭として軍功を重ねる。1571年伊勢の茂福盈豊を長島に誘殺。1572年畿内京洛の政務も担当。1573年4月足利義昭との起請文に織田家重臣として名を連ねる。1574年伊勢長島一向一揆を殲滅。北伊勢五郡を支配する。長島城主。1575年「長篠の合戦」に従軍。1575年「伊勢浜田の合戦」に浜田元綱親子を破る。1578年10月摂津の荒木村重の離反に対して織田信忠に従い鎮圧に出動。1578年播磨「神吉城攻囲」に出動し負傷。1582年織田信忠の「甲州乱入」に補佐役として従軍。武田勝頼を討つ。上野一国と信濃国小県・佐久二郡を与えられる。関東上野国にて箕輪城主から厩橋城主。のち桑名城主。<最初の遊撃軍団長です。><東条吉良家の家老・富永(大伴)一族が同祖の親戚とすれば、三河国にも由緒があり瀧川さんが尾張・三河同盟を結ぶことに一役買ったというのも納得がいくような気がします。三河(吉良)衆がけっこう瀧川氏の配下となるのにも、牛頭天神神官・富永(大伴)氏との縁がからんでいるのかもしれませんね。「味方ケ原」等に瀧川一門が派遣されるのもその縁かと(設楽の瀧川助義が参加)。それに三河「長篠の合戦」武田撃破の戦場、長篠・設楽は富永・瀧川氏にとっては地元・・。><伴氏ということで羽柴家の中村一氏も親戚。伊勢方面の鳥屋尾氏とも関係があるかもしれません。家康の父・松平広忠が「守山崩れ」に吉良家老・富永氏を頼り、伊勢大湊に逃してもらったという伝説があり、松平/瀧川が富永氏を通して三河・伊勢への線がつながります。一益さんが伊勢方面担当となるのも伊勢での大伴氏族の知名度が高かったからでしょうか。>

<瀧川一益の一門衆(連枝衆)> *縁戚 ○織田信長直参家臣。一益の家臣ではない。

▽瀧川 (*)八麿・八丸。一益の息(長男・庶子?)。瀧川一門衆。1568年細野藤敦との和議の為に、細野家に養子。1577年長野信包の攻撃により細野藤敦の出奔。<この人なら伊勢に領地もあるだろうし、伊勢金剛寺に訴えられた瀧川伊予守の可能性があるのでは。>

瀧川一忠 (1553〜1615)三九郎。一益の息(2男・嫡男扱い)。瀧川一門衆。上野国の豪族・真田昌幸の娘婿。真田信之、信繁(幸村)と義兄弟。織田信忠の「忠」拝領か。「甲州攻め」、その後、関東攻略に活躍。厩橋城城代。のち秀吉と激しく対立する。伊勢長島城主。息に一積。<年齢的には次男の一忠にしても佐久間信栄や信忠さんと同世代でもあるので、長男さんが早くから親とは分立して部隊を率いて第一線(三河「味方ケ原合戦」に出陣したり)で活躍していてもおかしくはないです。><妻は真田昌幸の娘、その子は真田信繁(幸村)の娘婿。真田家と秀吉との関係もかなり複雑かもですね。>

瀧川一時 (1568〜1603)八郎・久助。一益の息(3男)。瀧川一門衆。1582年北条家との「神流川の合戦」に従軍。北条家の捕虜になりかける。のちに秀吉の命で嫡男・瀧川一忠が追放されたため、瀧川家家督。息に一乗。

↓▽古市* (*)九郎兵衛。北伊勢の豪族。伊勢神戸出身。瀧川軍団所属。一時の臣。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。北条軍の捕虜となった一益の次男・瀧川一時を救出する。<松永久秀に仕える古市家あり。越智氏と結び筒井氏と抗争。この一門か。>

⇔↓*滝川雄利 (1543〜1610)木造・三郎兵衛・下総守・一路・友足・源浄院主玄。伊勢の豪族。木造具康の息。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益の養子となる。1577年「北畠具親の乱」に伊勢「森城攻略」。1578年伊賀の下山甲斐と丸山城築城。「伊賀の乱」に敗走。1581年伊賀平定戦に長野信包の副将。息に正利。<北畠信雄の与力(組下)大名。><木造氏は信忠の息・秀信の家老に。>

*滝川忠征 (1558〜1635)木全・彦次郎・豊前守。尾張中島郡出身。木全忠澄の息。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益の養子となる。<戦功により瀧川姓を与えられたとも。>1578年播磨「神吉城攻囲」に従軍し負傷。尾張蟹江城主。のち秀吉に出仕。「小田原征伐」に活躍。<木全氏の祖が伴氏ならば、瀧川家とは同祖。>

*津田秀政 (1546〜1635)織田秀政・小平次・正秀。織田家一門。織田信秀の叔父、織田秀敏の孫。津田(織田)秀重の息。瀧川一益の婿。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。織田信長の命により、瀧川一益の与力となる。のちに徳川家に出仕し、江戸幕府の奉行として、西尾吉次(東国担当)とともに各国の地域図を作成。上野国松井田(松枝)城主。

瀧川* (*〜1582)孫平。信忠馬廻衆。「本能寺の変」に明智軍と戦い戦死。<瀧川一益の一門か。>

<瀧川一益の一門衆(連枝衆) 同一人物?編

瀧川一勝 (*)(伴・大原)・瀧・豊後守・資清。貞勝の息。兄弟に高安範勝、池田恒利。息に一益。<設楽富永(伴)荘の瀧川と同族ということは大伴氏の系列でしょう。>

瀧川範勝 (*)(高安)・池田・三四郎・紀伊守。貞勝の息。瀧城主。<一益が、高安某を殺害して出奔した・・。>

瀧川詮益 (*)儀大夫。瀧川一門。弟に権三郎。<一益と兄弟か。><詮益の息は益重か。それとも同一人物か・・。>

*瀧川益重 (*)<大伴・富永・池田>・儀太夫・義大夫・益氏・(詮益?)。瀧川一益の弟(または甥とも)。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。儀太夫益重は天正10(1582)年〜15年にかけて活躍が伝わる<それ以前の事跡が不明瞭>。1582年2月「甲州征伐」に活躍し上野国沼田城主。1582年5月上杉方の「宮野城攻囲」敗戦。「本能寺の変」後、伊勢峰城主。津田盛月、松下之綱とともに津田宗及茶会に度々参加。息に辰政。辰政は池田家に出仕。<一益の長男が彦右衛門と仮定すれば、家督ではないのは庶流の為か、もしくは1571〜72年に信長様に一時「勘当」されているので廃嫡され次男・一忠が嫡子になったとか・・。更に、一益「甥」の佐治益氏と、「益重・益氏」で名が重複し同名、同じ「甥」ということで立場的にも事績が混同されている可能性もありえます。><前田慶次・利益の父とも。佐治益氏か滝川益氏か、どちらかが父親のようです。>

○瀧川* (*)彦右衛門。織田信長直参家臣。瀧川彦右衛門は信長の馬廻りとして活躍し、1566年佐久間信盛とともに美濃出征。1569年大河内攻略戦。1571〜72年織田信長に一時「勘当」追放される。1572年11月浅井七郎との合戦で軍功。1573年8月大高城攻めに参加後、消息が不明。<瀧川一益の長男か?もしくは、自分の中では、彦右衛門=伊予守=儀太夫で、「瀧川益重」と同一人物説です(笑。><なので前田慶次の父親も瀧川益重か佐治益重か、どっちのことなのか不明。父親が武辺は確かな方なのですが、彦右衛門が失態と勲功を繰り返す奔放な方なので、そんな親の元ではということで、息子の慶次は前田家で育てられたとか・・・。>

○瀧川* (*)伊予守。織田信長直参家臣。1572年一益の名代として三河・徳川家康の援軍。1572年12月徳川家康「味方ケ原の合戦」佐久間信盛とともに出陣し敗走。1975年伊勢に所領を持つ。<1572年からの瀧川伊予守は一益の長男に与えられた官位では?。>< 1575年伊勢金剛寺からの横領を朝廷に咎められているという事件もあるらしいので、横領の罪でなんらか処分があったのかも・・『京都御所東山御文庫記録』。><不破光治が息・勝光の嫁を瀧川氏(一益娘か、長男の娘か)から貰う約束をしていたことが反故にされ、面目を失い瀧川館を襲撃したとかいう話もあるようなので、なにかしら瀧川家関係にて、まずい事件があって存在が薄くされたんでしょう。>

*佐治益氏 (*1527〜1635)(前田・瀧川)・新介・氏益・(益重?)。一益の従兄弟(or 甥)。瀧川軍団所属。瀧川一門衆。天正10(1582)年5月、先鋒として越後国人を三国峰に撃退。関東撤退のち伊勢亀山城主。息に(前田)利益。<前田慶次・利益の父と考えられる。><尾張知多半島の豪族・佐治氏の一族か。佐治嫡系は織田弾正忠家と婚姻を繰り返し繋がりが深い。><瀧川儀太夫・益重さんも、名が重複する「益氏」なので、同じ「甥」の関係ということで事跡が混同されているかもしれません。><1579年信忠小姓衆の争いで、佐治新太郎が金森長近の長男・甚七郎を生害して切腹しますが、「佐治」ということで関連をもつ人物なのでしょうか・・。>

(尾張 池田家)

池田恒利 (*〜1538)瀧川恒利。瀧川貞勝の息(次男)。室は池田政秀の娘。池田家を継承。室(養徳院)は織田信長の乳母。息に恒興。

*池田恒興 (1536〜1584)勝三郎・紀伊守・経与・(信輝)・勝入。愛知郡荒子出身。恒利の息。尾張譜代衆。織田信長の乳兄弟。信頼厚く旗本の中核となる一族。縁戚の瀧川一益を信長に仕官させる。1561年美濃「十四条の夜合戦」に佐々成政とともに軍功(敵将・稲葉某を討つ)。1563年美濃「新加納の合戦」では敗北。1569年対北畠氏の「伊勢侵攻」に従軍。与力の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死。1570年「姉川の合戦」に従軍<惟住長秀とともに徳川軍の加勢にまわり朝倉軍を撃破したとも、これが江戸時代の脚色なく真実か?>。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1574年2月織田信忠に従い川尻秀隆(神箆城主)とともに東美濃の「明智城救援」に従軍し小里城主。1574年7〜9月「伊勢一揆平定」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1578年荒木支城の「花隈城攻略」に軍功。荒木村重討伐後の摂津の支配者に抜擢される。羽柴秀吉の与力として中国陣に加入の予定。息に之助、輝政、長吉、長政。摂津国有岡城主。<一時、東美濃で織田信忠の後見人的な役割をしていたと考えられます。信忠軍団が松永久秀征伐、雑賀征伐、別所、荒木征伐に活動しはじめたので、畿内の抑えとして信忠軍団から抜擢だったのかもしれません。それにしても稲葉良通の一族を討ち取っていたとは、小牧長久手は仕組まれた敗戦かもしれませんねえ。>

*池田元助 (1559〜1584)勝九郎・紀伊守・之助・(信輝)。尾張譜代衆。恒興の嫡子、塩川長満の娘婿、織田信忠の義兄弟。池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中きっての若手将校。武に秀でる。1574年2月織田信忠に従い東美濃の「明智城救援」に従軍し、川尻秀隆(神箆城主)とともに小里城主の父・恒興を助けて東美濃にて武田家との前線を支える。1578年摂津有岡城の付砦・倉橋砦守将。荒木元清の籠る「花隈城攻略」に貢献。1581年京都馬揃えに父に代り参加、弟・輝政を従え入場。父と行動を別とし、1581年11月淡路島に上陸、岩屋城を制圧する。安宅清康を降し安土に同行する。1582年甲州征伐に従軍。信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。摂津伊丹城主。変後、美濃大垣城主。長久手に散る。26歳。<四国征伐組で動くと推測される。羽柴隊とは協力しつつ信長様直属として別行動のようです。池田家の子孫に之の字を用いる人が多いのですが、元助じゃなくて之助がほんとは正しいのでは・・。><「信輝」を名乗るとすれば恒興よりも元助の方ではないのかなと思いますが。同じ紀伊守ですし。>

▽瀧川* (*)万五郎。池田家家臣。<一益の息とも。瀧川一門なのでしょう。>

*池田輝政 (1564〜1613)古新・三左衛門・照政。池田恒興の次男。中川清秀の娘婿。尾張清洲城の生まれ。池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。1580年荒木村重征伐に初陣16歳。1581年馬揃えに兄と共に出場。摂津尼崎城主。1584年美濃大垣城主。<兄「信輝」の跡職を継承したから「輝政」なのではないでしょうか。>

*中村一氏 (*〜1600)多喜・滝・孫平次・式部少輔。近江衆。中村一政(または一成)の息、瀧川一益の縁戚。上月城救援の先手武将。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。豊臣三中老のひとり。岸和田城、17万5千石。瀧川一忠の息・一積が中村家に出仕。<その家柄から、織田信長様の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。1579年頃には仙石秀久とともに一軍を率いる将。><竹生島奉加帳に登場しないようですが、信仰上の問題で登場しない家臣もいたりするんじゃないでしょうか・・。逆にどう考えても秀吉家臣じゃない近隣の武士も詣でているし、よく検討すべきだと思います。信長様が詣でているんだから織田家家臣というくくりじゃないでしょうか。すべて秀吉家臣と考えるのが危険なように思えます。>

*中村一栄 (*〜1604)多喜・滝・彦右衛門・氏次。近江衆。一氏の弟。瀧川一益の縁戚。兄の死により、甥・一忠を後見。家老・横田村詮(元・三好康長の臣)とともに中村家を支える。息に栄忠。<1600年関ヶ原の前哨戦に島左近に敗北するとも。>

<瀧川一益の御由緒家(畿内)> *縁戚 ○織田信長直参家臣。※一益の直参家臣ではない。

木全忠澄 (1534〜1610)紀忠澄・又左衛門。征詮の息。父の代に浅井政高に降伏臣従。苅安賀城主・浅井政貞の家臣。のち瀧川一益に出仕し家老職。美濃国境の一揆鎮圧に軍功。息に瀧川一門に加えられた瀧川忠征、木全河内守・木全兵部、友田新右衛門。<先祖は大伴氏族とも。とすれば瀧川家とも同祖の縁となります。>

⇔○↓*秋山家慶 (*〜1600)次郎・右近太夫・右近将監・直国。北畠四管領。大和宇陀三人衆のひとり。秋山宗丹の息、秋山遠江守の弟。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。北畠信雄に出仕し、1579(天正7)年第一次伊賀乱入に参加、殿軍を勤める。1582(天正10)年「本能寺の変」に際して、伊賀国の一揆を鎮圧する。のち信雄から離反し羽柴秀吉、蒲生氏郷、福島正則に仕える。<北畠信雄の与力(組下)大名。>

⇔○革島一宣 (1509〜1581)河島長成・新五郎・越前守・左衛門尉・就宣。南山城衆。藤孝の古参の与力。瀧川一益は縁戚。1534年家督相続。足利義昭の上洛に細川藤孝の与力。のち所領を没収される。1572年織田家に出仕し所領安堵。藤孝与力に復帰する。<山城国の河島家が瀧川家と縁を結んだのは、一益が畿内の平定軍として長島平定後から関東移封までの期間に織田家の中心軍として活動していたということを証明するものではないでしょうか。><一門衆として一益に通じる「一」の字を名をしたのでしょうか。>

⇔▽*革島秀存 (1528〜1582)河島長俊・犬坊・市介。南山城衆。一宣の息。弟に忠宣。藤孝の古参の与力。瀧川一益の娘婿。瀧川一門衆。1570年越前朝倉攻めに従軍。1574年家督相続。<長岡藤孝の与力からは外れる様子です。京都「馬揃え」には丹羽長秀に従い行進。><「本能寺の変」により存在が掻き消されてしまいますが、重要人物だったんじゃないでしょうか。><「長」の字を信長様から与えられていたりして・・。>

《個人的感想》 秋山、革島家との繋がりは、瀧川一益が畿内の織田主力軍大将として、摂津方面でも君臨していたことの証拠となる縁組なのではないでしょうか。

<遠い縁戚(大伴氏族)> 三河の武士。 ※直参家臣(部下)ではない

富永忠元 (1537〜1561)伴・五郎・忠元。東条吉良義昭の家老職。上野城・松平好景を討つ。1561年「西尾城の攻防」に敗戦。続いて東条城表「藤波畷の合戦」に本多広孝・酒井正親に討たれる。<吉良家の勇将。松平元康を度々破る。のちの天下人の徳川家康を苦しめすぎて歴史上封印される源家ゆかりの富永家。><富永の祖・大伴氏族は瀧川一益、池田恒興、中村一氏と同祖先。北畠の家老・鳥尾屋氏も伴一門。松平広忠が伊勢に逃れたとき、伴の縁でお世話したかもですね。>

滝川助義 (*〜1575)冨永・四郎・源右衛門・定雄。三河設楽、滝川郷の領主。滝川助近の息。設楽貞通の家臣。のち瀧川一益家臣。瀧川一門衆。1575年「長篠の合戦」に従軍。滝川一益隊に属し追撃戦に勝頼側近、笠井満秀と組討戦死。<味方ケ原に従軍した滝川伊予守という人物も元々・三河に所領を持つ人かもしれませんね。><北条家の軍奉行の富永家が近江・三河の富永一門の出身ならば、瀧川一益が関東管領として北条家に対した時に、信長様にはその血縁(大伴系)関係に何か期待するところがあったかもしれませんね。>

<遠い縁戚(大伴氏族)> 伊勢の武士。 ※直参家臣(部下)ではない

鳥屋尾満栄 (*〜1577)富永・鳥屋野尾・とやのお・石見守。外様の沢・秋山氏、水谷氏とともに北畠四家老のひとり。伊勢富永の領主。1569年「大河内城の攻防」に主家に従い活躍。織田家に降伏臣従。1574年信雄に従い大湊衆を率いて「長島一揆討伐」に参加。1577年北畠具親とともに蜂起。飯南郡。福本城主。<甲賀・大伴姓の富永氏とすれば、三河東条吉良家の家老職・富永忠元と遠い縁戚?>

鳥屋尾* (*〜1577)富永・右近将監。満栄の息。北畠家老家。1574年信雄に従い大湊衆を率いて「長島一揆討伐」に参加。1577年織田信雄の攻撃をうける。伊勢富永の領主。

⇔▽富永勝秀 (*〜1592)冨永・(松田)・久兵衛・式部太夫・筑後守・冨知。北伊勢衆。員弁郡の豪族。富永勝知の息。三河設楽富永家分家。1568年瀧川一益に降伏臣従。のち加藤清正に出仕し朝鮮にて客死。員弁郡長深城主。息・勝吉は織田信忠の息・織田秀信の家臣。<先祖に池田入道という人物あり・・。><北伊勢国人・大木兼能と縁があるようです。柴田勝家の北ノ庄落城の際に勝家家族を護衛する富永氏があります。><織田家嫡流の家臣となったことも家康の気分を害したかもしれません。>

伴 盛兼 (1547〜1584)(関?)・五郎兵衛・若狭守。伊勢亀山城主。「本能寺の変」に家康の帰還を援助。1584年「小牧長久手の合戦」に戦死。<居城の立地と、大伴子孫の姓から一益の縁戚に間違いないでしょう。><伊勢亀山城をめぐり、伴氏と関氏の関係が気になるところです。おそらく血縁的につながりがあるのでしょう。>

伴 長信 (*〜1582)太郎左衛門。信長馬廻衆。近江甲賀21家のひとり。1582年「本能寺の変」に明智軍と戦い戦死。<一益と同郷の侍。古参の織田家臣です。><長信って名前が最近挙がってきましたが・・、>

 

瀧川一益の家臣団と軍団 関東上野旗頭 

○信長与力(目付) 織田信忠(1557〜1582)世代  (*=生年怪しい)

<瀧川一益の奉行衆>

瀧川安吉 (*)瀧川一益の側近。瀧川一益の文書に副状を発給する。

瀧川* (*)荘左衛門。瀧川一益の奉行。1582年「甲州乱入」に際し、武田惣領・諏訪勝頼の首級を瀧川一益の命で織田信長本陣に届け披露する奉行『常山紀談』。<『信長公記』では使者は関与兵衛と、桑原助六。>

瀧川* (*)新左衛門。瀧川一益の奉行。1572年伊勢羽津城主・羽津近宗が、茂福家家老・山口氏に暗殺され羽津城奪取。跡職を相続し羽津城主。

長崎元家 (1538〜1610)弥左衛門尉。瀧川一益の奉行。1582年「本能寺の変」後に本多正重とともに徳川家康に関東の援軍要請の使者。のち織田信雄家臣。のち秀吉、小早川秀秋、家康に出仕。

 東国・関八州警固役

<瀧川一益の譜代家老衆>

○▽稲田* (*)九蔵。元・瀧川一益直参の侍大将。信長から戦功を賞される。津田秀政の与力、上野国松井田(松枝)城代。

○谷崎* (*)蒲生・忠右衛門・忠左衛門・内記。変後後事を相談した、「瀧川三家老」のひとり。瀧川一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。のち蒲生氏郷に出仕。<滝川家中の事情を一番よく知る重要人物です。のちに仕官する蒲生家とは、蒲生家と滝川家の直接の縁がちかかったのでしょうか。>

篠岡* (*〜1582)平右衛門尉・平左衛門。変後後事を相談した、「瀧川三家老」のひとり。瀧川一益直参の侍大将。一益の古くからの傍衆。1572年「味方ケ原の合戦」で軍功。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。瀧川家先陣大将。<瀧川一益本人は味方ケ原に参加していないようです。笹の才蔵さん以前の笹です。><尾張奉行・篠岡八右衛門との関係が気になります。>

津田* (*〜1582)治右衛門尉・次右衛門・治左衛門。変後後事を相談した、「瀧川三家老」のひとり。一益直参の侍大将。弟に八郎五郎、理介(修理亮)がいる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。<河内国の津田一族か、織田家庶流の津田一族か、出自が気になるところです。><『織田信長総合辞典』では、瀧川姓を名乗っています。>

津田* (*〜1582)瀧川・八郎五郎・五郎。治右衛門の舎弟。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。篠岡の依頼で瀧川一益に厩橋に撤退をそくす。<『織田信長総合辞典』では、瀧川姓を名乗っています。一門扱いだったのでしょうか?。>

津田* (*〜1582)瀧川・理介・理助・修理亮。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。篠岡の依頼で瀧川一益に厩橋に撤退をそくす。<『織田信長総合辞典』では、瀧川姓を名乗っています。一門扱いだったのでしょうか?。>

▽津田* (*)瀧川・彦次郎。八郎五郎、理助の弟か。<『織田信長総合辞典』登場。>

栗田* (*〜1582)金右衛門。瀧川一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。

垣見* (*)半兵衛。瀧川一益の親戚、池田恒興の元家臣。一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。<摂津の陣から縁があって関東についてきたのでしょうか。>

岩田* (*〜1582)市右衛門。弟に平蔵。瀧川一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。

岩田* (*〜1582)平蔵。市右衛門の弟。瀧川一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。

太田* (*〜1582)五右衛門。瀧川一益直参の侍大将。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。<丹羽長秀内衆の太田系か、関東の太田氏との係りもきになるところです。>

矢田* (*)半右衛門。瀧川一益家臣。一益の文書に副状を発給。一益を「東国御奉行」と記す。

《個人的感想》 瀧川家中の四天王をあげるとするならば、稲田・篠岡・津田・谷崎だったんじゃないでしょうか。

 

<瀧川一益の軍団・織田家尾張衆>

生駒 (*〜1578)将監。元・信長直参の侍大将。信長の勘気を受け、瀧川一益の客将となる。1578年播磨「神吉城攻囲」に従軍し戦死。<生駒家長さんの一門か。のち北伊勢の森氏も生駒姓を名乗ります。黒幌衆の生駒勝助さんとは実はこの方のことなのでしょうか。>

⇔○加藤順盛 (1514〜1588)東加藤・図書助。尾張の豪商の一族。伊勢攻略の際、瀧川一益の与力。 織田信長の親衛隊(赤・黒幌衆) 

牧 長勝 (1562〜1635)(斯波)・真木・助右衛門。斯波一門。牧長正の息。瀧川軍団所属。織田家と婚姻を重ねる名家。1577年初陣。本願寺の下間頼廉の娘婿。のち瀧川一益与力。

篠田* (*)右近。織田信長の馬廻衆。岐阜城物頭。伊勢攻略の際、瀧川一益与力。

寺西之政 (*)清左衛門。尾張荒子の出身。瀧川一益家臣。1583年浪人。浅野家に出仕する。息に利之。

<瀧川一益の軍団・三河衆> 今川義元 吉良義昭の家臣団  *吉良家老の富永(大伴)家の縁で、吉良家浪人が瀧川家を頼ったかもしれませんね。

⇔○本多正重 (1545〜1617)三弥・左衛門佐。瀧川軍団所属。本多俊正の四男、家康腹臣・本多正信の弟。三河一向一揆に参加。1570年「姉川の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原の合戦」に殿軍の功。瀧川一益につかえる。のち前田利家、蒲生氏郷に出仕。<伊勢長島に本多正信が参加していたらしいので、一揆方から降服して瀧川の軍門に属したのでしょうか。>

本多正晴 (*)三河出身。元・本多忠勝の家臣。瀧川軍団所属。瀧川一益直参の侍大将。「神流川の合戦」に先陣し負傷。「希世の勇士」と北条家から賛嘆される武功。

《個人的感想》 本多家との繋がりは、瀧川一益が織田主力軍大将として、東海道方面でも君臨していたことの証拠となる家臣なのではないでしょうか

 「瀧川(一益の本陣)、馬しるしハ 金の三ッだんご也。」

<瀧川一益の軍団・伊勢衆> 本拠地)蟹江城→長島城→*→桑名城。※一益の直参家臣ではない。

北畠具教の家臣団 *一益が伊勢方面の担当となるのは、北畠家老の鳥尾屋氏と何かの縁があったかもしれませんね。

⇔○関 盛信 (*〜1593)宗一・中務大輔・安芸守・万鉄。六角氏旧臣。神戸家とともに蒲生定秀の娘婿。六角家と結ぶ。1558年頃から国司・北畠家と結ぶ長野(工藤)家と抗争。1568年頃から瀧川一益による北伊勢侵攻に長く抵抗する。のちに降服し赦免される。1573年近江日野の蒲生賢秀の下で幽閉。1574年8月樋口直房を討つ軍功。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。伊勢亀山城主。<甲州征伐後に三好(神戸)信孝の与力に転身。><織田家により伊勢亀山城主とされた伴盛兼との係わりが気になります。>

⇔○関 盛忠 (*〜1574)北伊勢豪族、関盛信の嫡男。信長に長く抵抗する。伊勢亀山城主。

▽岩間* (*)関家家老。

⇔○関 一政 (*〜1625)四郎。右近衛太夫・永盛。長門守。関盛信の息、1574年兄・盛忠に代わり関氏家督。1574年8月樋口直房を討つ軍功。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。三好(神戸)信孝の与力。のちに蒲生氏郷与力。<甲州征伐後に三好(神戸)信孝の与力に転身。>

宇部野* (*)北伊勢の豪族。関家家老。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。

ロルテス (*)山科勝代・羅久呂左衛門・勝成・(ジョバンニ・ロルテス)。イタリア人。元、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)所属。関一政の家臣。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。のちに蒲生氏郷に出仕。氏郷死後に日本を去る。<こういう人物が実在したかどうかは伝説でしかありませんが、16世紀当時に南蛮人(南蛮商人とかも)が渡来していたと考えられ、こういう人物がひとりやふたり日本にいてもおかしくないと思うので掲載しました。>

⇔○千種* (*)北伊勢の豪族。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。

赤堀* (*)肥前守・治部少輔・(秀信?)。神戸楽三の次男。瀧川軍団所属。北伊勢三重郡の豪族。波瀬御所軍と永禄年間抗争。1568年2月頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。瀧川与力。1573年10月伊勢長島一揆に対して織田家に人質を供出。

赤堀* (*)越中守。1568年2月岐阜に出仕。高岡城攻撃に従軍。<赤堀氏は上野赤堀から移住し伊勢栗原にて滝氏に出仕したらしい。滝といえば中村一氏・・。>

稲生* (*)五左衛門尉。北伊勢の豪族。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。1582年北条家との合戦に南部とともに軍功。<津田一安の命で本田氏の船江城を攻撃し、勘解由左衛門尉が戦死。>

日置* (*)五左衛門。北伊勢の豪族。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。<伊賀の四家に日置家あり。北畠(織田)信雄の家臣。一門か。>

↑日置* (*)壁野・文左衛門。北伊勢の豪族。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。1582年「甲州乱入」に従軍。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。<伊賀の四家に日置家あり。北畠(織田)信雄の家臣。一門か。>

南都* (*)久左衛門。北伊勢の豪族。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。<関東に従軍したようです。『織田信長総合辞典』では南部姓となっています。誤記か?下記の南部と同一人物か。>

南部* (*)久左衛門尉。北伊勢の富田の豪族。瀧川軍団所属。元・神戸家臣。茂福氏の与力。1560年関氏との抗争に春日部、沼木氏とともに茂福城に籠城。1568〜69年伊勢に進出した滝川一益に従う。1582年北条家との合戦に稲生とともに軍功。<上記の南都と同一人物?><木全忠征は南部兼綱(*〜1568)の娘婿。兼綱弟に新左衛門、新五左衛門。>

↑古市* (*)九郎兵衛。北伊勢の豪族。瀧川軍団所属。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。乱戦の中で瀧川一時を救出。<松永久秀に仕える古市家あり。一門か。>

高瓦* (*)摂津守。北伊勢の豪族。元・北畠家臣。1568年頃の瀧川一益による北伊勢攻略の過程で、瀧川一益につかえる。

楠木* (*)十郎。北伊勢の豪族。北伊勢侵攻の案内役。1568〜1569年山路弾正の拠る「高岡城攻囲」に従軍。

加用* (*)北伊勢の豪族。1568〜69年伊勢に進出した滝川一益に従う。

梅津* (*)北伊勢の豪族。1568〜69年伊勢に進出した滝川一益に従う。

富田* (*)北伊勢の豪族。1568〜69年伊勢に進出した滝川一益に従う。 <関東に従軍するか。>

上木* (*)北伊勢の豪族。1567年木俣氏とともに降服。

白瀬* (*)北伊勢の豪族。

濱田* (*)北伊勢の豪族。

高松* (*)北伊勢の豪族。

持福* (*)北伊勢の豪族。1567年木俣氏とともに降服。

 本願寺顕如の家臣団

《個人的感想》 1582年以降に瀧川一益が、新領地へと国替えとなった場合に、誰が北伊勢を支配することとなっていたのか謎に思っています。

 瀧川一益が抜けた跡を神戸信孝が受け継ぐにしても、信孝は三好康長の養子となり阿波・讃岐の地を約束されていたということなので、

すぐに国替えとなることでしょう。

 織田準一門ともいえる二人(瀧川・神戸)の土地なのだからより一門に近い人物が相続する予定だったのでしょうか。のちの瀧川雄利の存在感からしてこの人物が継承予定でしょうか。もしくは織田家の宿老の家柄の岡田重孝か。他には、

・近隣の領主の蒲生氏郷、北畠信雄、長野信包で分ける予定か。

・複権した伊勢の関家が継承するのか。

・伊勢の雲林院(氏井)家に縁があり、五奉行ともいえる矢部家定に宛がわれる予定か?

・弓衆の頭が伊勢神宮再建と係ってるので、直轄領として馬廻衆に細かく分配される予定だったのでしょうか。

それとも、地侍を直参に加え近衛軍を強化するつもりだったのか、などが推測されますが・・。

伊勢に対する信長様のその後の考えが気になるところです。 

        畿内敵対勢力・宗教団体

  瀧川一益の家臣団と軍団 

○信長与力(目付) 織田信忠(1557〜1582)世代  (*=生年怪しい)

 畿内主力軍時代に傘下となった与力か。山城の革島(河島)家とは婚姻関係が結ばれる。

<瀧川一益の軍団・河内衆> 三好康長の家中からかなりの引き抜き?茶の湯つながり?

牧野成里 (1556〜1614)田三・伝蔵・伊予守。元・三好康長の家臣。河内七人衆のひとり。瀧川軍団所属。瀧川一益につかえる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。のちに織田信雄、長谷川秀一、羽柴秀次、石田三成、池田輝政に出仕。<摂津荒木攻めにて瀬戸内方面に瀧川軍が進駐した際に臣従するか。><茶の湯で交流が深いという縁とか(笑。><中村一氏の家老・横田も康長家臣。><三河守護代・牧野氏との関係も気になります。>

↓○富田* (*)喜太郎。元・三好康長の家臣。河内七人衆のひとり。瀧川軍団所属。瀧川一益につかえる。変後、北条家との「神流川の合戦」に従軍。<摂津荒木攻めにて瀬戸内方面に瀧川軍が進駐した際に臣従するか。><茶の湯で交流が深いという縁とか(笑。><富田一伯(信広)、息の信高、高定が伊勢安濃津に所領を持つことから血縁的にも何かあるかもしれませんね。>

《個人的感想》 牧野・富田家との繋がりは、瀧川一益が畿内の織田主力軍大将として、摂津方面でも君臨していたことの証拠となる家臣なのではないでしょうか。

天正年間、織田主力軍の変遷

   地方方面軍への移行

1582年:中仙道方面軍。<関東の北条家は恭順の意を示しているので、東海道の徳川・川尻に任せ奥州統一を目指すか。> このページTOP

 東国・関八州警固役

<関東上野奉行衆> (旗頭)倉賀野秀景の目付。

栗田* (*)金左衛門。瀧川軍団所属。瀧川一益直臣。対北条戦に上野衆旗頭・倉賀野秀景の補佐。<金右衛門とは別人か。>

神戸* (*)新九郎。瀧川軍団所属。瀧川一益直臣。上野衆旗頭・倉賀野秀景の補佐。<神戸家から織田信孝が離脱した場合に、重要になる人物かもしれませんねえ。>

↑○富田* (*)喜太郎。瀧川軍団所属。元・三好康長の家臣。河内七人衆のひとり。瀧川一益直臣。上野衆旗頭・倉賀野秀景の補佐。<河内衆がなぜ関東に・・。信長様の直参として軍監として派遣されるか。>

富田* (*)新左衛門。瀧川軍団所属。瀧川一益直臣。上野衆旗頭・倉賀野秀景の補佐。

 

 上野国(厩橋)・ 瀧川一益の軍団

「関東新座与力衆」 箕輪城、厩橋城を拠点に支配。 『瀧川一益事書』という書物が上野支配の様子の基本文献とされています。

 <上野衆>本能寺の変後、北条氏政の領土拡張により状況混乱。武田旧家臣は多数、北条に臣従した模様。

倉賀野秀景 50騎(*〜1590)金井秀景・淡路守。武田旧臣。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1559年武田家に臣従。1570年倉賀野城主となり改姓。1582年織田家に臣従。のち北条家に出仕。<親織田派の武将として瀧川一益に最も信頼されていたそうです。>

真田昌幸 (1547〜1611)武藤昌幸・喜兵衛・安房守・源五郎。元・武田家上野衆。瀧川軍団所属。真田幸隆の三男。1575年「長篠の合戦」で戦死した真田信綱の弟。1582年織田家に臣従する。上州入りした瀧川一益に従う。一益の嫡男・瀧川一忠(1553〜1615)を娘(世代的に姉妹?養女?)婿とする。信濃国上田城主。

真田信之 (1566〜1658)源三郎・伊豆守・信幸。元・武田家上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家に臣従する。瀧川一忠(1553〜1615)は義兄弟。

真田信繁 (1567〜1615)真田幸村・源次郎・左衛門佐。元・武田家上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家に臣従する。瀧川一忠(1553〜1615)は義兄弟。一忠の息・瀧川一積を娘婿に迎える。

小幡信貞 500騎(1541〜1592)上野守・上総介・信真。武田家と同盟関係を持つ上野国人。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。上州の赤備えで勇名。1575年「長篠の合戦」で戦死した小幡憲重の息。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。のち真田家家臣。小幡城主のち国峰城主。

内藤昌月 (*)修理亮・大和守・秋宣。武田家譜代家臣。上野衆。瀧川軍団所属。武田の副将と謳われた内藤昌豊の息。上野衆。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

和田信業 30騎(*)石見守・右衛門大夫。関東管領上杉氏旧臣。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

由良国繁 (1550〜1611)国寿丸・六郎・信濃守。瀧川軍団所属。上野国人・由良成繁の息。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

渡瀬繁詮 (*〜1595)由良・小次郎・左衛門佐・氏勝・繁勝・重詮。上野衆。瀧川軍団所属。由良成繁の息、国繁の弟。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

安中久繁 150騎(*〜1590)左近大夫・広盛。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。上杉謙信に出仕。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。<安中城は1564年に武田家領に。>

高山重成 50騎(*〜1590)彦兵衛・遠江守・定重。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。上野国高山城主。<高山満重は内藤相備え>

高山* (*)右馬助。上野国人。上野衆。瀧川軍団所属。1582年関東入りした瀧川一益に北条高広、小林松隣斎とともに所領を安堵される。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

長尾顕長 (*〜1621)新五郎・但馬守。上野衆。瀧川軍団所属。足利城主・長尾景長の養子。由良成繁の息。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。足利城主。

長尾憲景 (1511〜1583)白井長尾・孫六・孫四郎・四郎左衛門・景房・一色斎。上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。白井城主。

木部真利 50騎(*)宮内少輔(大輔)。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。<木部範虎は内藤相備え>

深谷忠秀 (*)勝兵衛・左兵衛。上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

○山上道友 (*)東上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

鷹巣信尚 100騎(*)小幡。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。のち北条氏に内通し誅殺される。鷹巣城主。

後閑信久 60騎(*)元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。<後閑信純は内藤相備え>

○大戸直光 (*)上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

那波宗元 70騎(*)上野衆。上杉憲政の旧臣、那波宗俊の弟。謙信家老・北条高広の妹婿。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。息に顕宗。那波城主。<那波宗安は河窪相備え>

浦野重次 (*〜1582)上野衆。瀧川軍団所属。浦野重成の息。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。平子丸城主。

白倉* 50騎(*)左衛門佐。元・武田家西上野先方衆。瀧川軍団所属。上野国人。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。<白倉重家は武田家内藤相備え>

⇔北条高広 (*)毛利高広・大江。上野衆。瀧川軍団所属。元・上杉家家老。元・上杉謙信家臣。嫡男の北条景広は上杉謙信の死去後は「御館の乱」に上杉(北条)景虎を擁立し上杉景勝と対立。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

小林* (*)松隣斎。上野衆。瀧川軍団所属。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。

 《個人的感想》 「甲州乱入」で生き残った武田家臣は、

 あらかじめ織田家の調略をうけて降参し赦免されていないと、信長様の性格からして小山田信茂の様に誅殺されていたと考えられます。

 後世に家名を残している武田家臣は「武田家滅亡時」に野に降ったとゆうよりも、「織田家に寝返り 生き残った」と考えた方が良いのではないでしょうか。

 一揆を起こし上杉景勝の下に逃れた信濃豪族・芋川氏の大規模な反乱に多くの武田浪人が加わっていたでしょうし、

⇔芋川正親 (*)越前守。武田家旧臣。信濃衆。1582年武田家滅亡後、信濃国にて武田浪人一揆を起こし森長可に敗北。上杉家に仕官する。1598年国替え「会津御在城分限帳」に登録される。

これに参加しないで留まった武田遺臣は織田家に従属を誓っていたのではないでしょうか。

 芦田(依田)信蕃にしても徳川領に潜んでいたという説もありますが、瀧川さんから小諸城を譲渡されたという話しがおかしい。

京都から逃げ帰る家康の帰りを待って東海の海辺にいたら、信濃国で瀧川一益とはそんなことにはならない気がしますが?。

 徳川家康が武田旧家臣を保護して匿っていたとか美談は、江戸時代に創作された「つくり話し」ではないでしょうか?。

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 <下野衆> ※ 部下(直参家臣)ではない

渋川義勝 (*〜1590)下野国人。小俣城主。

皆川広照 (*)下野国人。1581年1月から瀧川一益の「取次ぎ」で織田家に臣従。10月馬を献上。

 

 

 <下総衆> ※ 部下(直参家臣)ではない

↓○多賀谷重経 (1558〜1618)大二郎・彦太郎・修理大夫。下総結城郡下妻城主。1579年信長に名馬を進上。早くから中央の動静に敏感。

高城胤辰 (*〜1590)下野守。下総国の豪族。原家の家老。松戸小金城主。柴田勝家と縁戚。

⇔▽高城胤則 (1571〜1603)下野守。胤辰の息。柴田勝家養女(中村文荷斎娘)を妻にする。<婚姻の時期が諸説あるようです。>

 

 柴田勝家の軍団

 東国・関八州警固役 瀧川一益の侍大将、 篠岡 先陣。

かれか さし物ハ篠(ささ)也、其(その)家中の者皆 篠をしるしにさす。

 <常陸衆> ※ 部下(直参家臣)ではない

↓○梶原政景 (*)源太。太田資正(三楽斎)の息。常陸国小田城主。1582年信長の直参。瀧川一益与力。

<武蔵衆>本能寺の変後、北条氏政の領土拡張により状況混乱。武田旧家臣は多数、北条に臣従した模様。

成田氏長 (1542〜1595)下総守。成田長泰の息、弟に長忠。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。武蔵国忍城主。のちに蒲生氏郷の臣。

成田長忠 (*〜1616)左馬介・左衛門・長宗・泰高・泰親。成田氏長の弟。

上田朝直 (1494〜1582)左近大夫・能登守・案独斎・安徳斎・宗調。扇谷上杉氏旧臣。1582年織田家臣従、瀧川一益与力。武州松山城主。

上田長則 (1534〜1583)能登守・蔵人佐。朝直の嫡子。武州松山城主。

上田憲直 (*)上野介・憲定。朝直の次男。

↓○太田資正 (1522〜1591)美濃守・民部太輔・三楽斎。元・扇谷上杉臣、上杉輝虎に属し、北条氏に対抗。1582年息子の梶原政景とともに信長の直参。武蔵岩槻城主。

太田重正 (1561〜1610)新六郎・資綱。太田資正の配下武将。太田道灌の子孫。1582年信長の直参。

上記、上野衆の長尾顕長、深谷左兵衛尉は北武蔵にも所領ありか。

 

  佐竹、結城家の家臣団

 <親織田政権の東国大名> 小田原の後北条氏(氏政・氏直親子)ほか、

伊達輝宗 (*〜1585)伊達家16代当主。1565年家督相続。晴宗側近の中野・牧野氏を追討。1565年芦名氏「檜原の合戦」。1566年稙宗の孫・相馬盛胤に「金山城」、「小斎城」を奪取される。1570年「丸森城」を奪取される。1573年相馬軍に伊達・信夫郡に浸入される。1573年織田信長に通信。1574年畠山氏の「八丁目城攻略」。1574年最上氏と衝突。1577年徳川家康と通信。1578年織田信長の要請により「上杉領侵攻」。1582年田村氏と芦名・二階堂氏との和睦を斡旋。1584年11月隠居。1585年10月畠山義継に拉致され、阿武隈川で殺害される。<1573年織田信長に鷹を送る。>

秋田愛季 (*)下国・安東。秋田氏初代。出羽土崎湊城主。配下の武将・南部季賢を使者に、1575年織田信長に鷹を送る。<秋田家との取次ぎは三河の西尾(吉良)氏の婿・神忠政。>

田村清顕 (*〜1586)坂上田村・玄番。田村隆顕の息、5代目当主。隆顕は伊達稙宗の娘婿。伊達政宗は娘婿。芦名家に対抗して親佐竹派。のち伊達家と同盟。1573年頃織田信長に鷹を送る。田村三春城主。死後領地は相馬義胤に侵食される。

大宝寺義氏 (1551〜1583)武藤・四郎次郎・出羽守。出羽田川郡の領主。1574年最上義光と抗争し伊達氏と同盟。1579年織田信長に馬と鷹を送る。大宝寺(鶴岡)城主、のち尾浦城主。1583年最上義光の急襲により戦死。

遠野* (*)孫次郎。陸奥国衆。織田信長に鷹を送る。

前田利信 (*〜1582)薩摩守。出羽大曲の豪族。兄・又太郎は上洛し足利義輝に出仕。1577年織田信長に鷹を送る。大曲城主。1582年赤尾津、羽川氏に攻撃され戦死。

最上義光 (1546〜1614)斯波・大崎・出羽守。最上11世。最上義守の長男。室は大崎氏。1571〜1574年にかけて父・義守、弟・義時と家督を争う。1574年氏家の諫言により義守隠居。1577年「天童城攻略」、「東根城攻略」。1578年上山満兼を暗殺。1580年細川直元の「小国城攻略」。1580年織田信長に鷹を送る。1581年「鮭延城攻略」。1582年庄内の武藤義氏の「清水城攻略」、1583年「尾浦城攻略」義氏自害。1584年「谷地城攻略」、「寒河江城攻略」。1586年伊達家重臣・鮎貝宗信を調略。1587年「尾浦城再攻略」武藤義興自害。1588年伊達軍と「中山口」で対陣。8月越後揚北の本庄繁長の庄内侵攻に、尾山城の中山朝正自害。雄勝の小野寺義通と抗争。伊達氏に対抗する大崎義隆を援助する。

佐竹義重 (*)1566年謙信の参陣要求。2月常陸国「小田城攻囲」に従軍せず。岩城白川(結城)義親を攻撃。武田信玄と同盟を結ぶ。「鬼義重」と呼称される。織田信長に鷹を送る。

↑太田資正 (1522*26〜1591)美濃守・三楽斎・入道道誉。武蔵国岩槻城主。扇谷上杉家執事。太田資頼の息。1561年「小田原城攻囲」に従軍し先陣を務める。1562年北条家の圧力に対して謙信の遠征を要請。太田康資と結んで「国府台の合戦」に出陣。親北条派の息・氏資に居城を奪取される。織田信長に鷹を送る。

↑梶原政景 (*)美濃守。佐竹氏配下の下総豪族、梶原家を相続。太田資正の嫡子(次男とも)。1578年木田余城の小田氏治を攻め追放する。織田信長に鷹を送る。柿岡城主。

水谷勝俊 (1542〜1606)弥五郎・伊勢守・右京大夫・入道方休。結城・小山一門衆。水谷治持の次男。兄・政村の養子。1566年上杉謙信と抗争。織田信長に鷹を送る。1590年兄から家督を譲られる。

↑多賀谷重経 (1558〜1618)大(犬)二郎・彦太郎。結城・小山一門衆。下総結城郡下妻城主。政経の息。1579年織田信長に馬と鷹を送る。結城晴朝を後見。下妻6万石を領する。

宇都宮広綱 (1543〜1580)入道貞林。1550年父・尚綱の戦死により、那須高資に居城を奪取される。芳賀高定に養育される。宇都宮城主となっていた壬生綱房から居城を奪還し、宇都宮城主。織田信長に鷹を送る。息の国綱(1568〜1607)は、1589年後北条家に降服。

北条氏政 (*)1580年3月に瀧川一益の「取次ぎ」で織田家に音信、鷹・馬を献上する。1581年6月にも馬を献上。同盟を強固にするため子息・氏直の室に織田家の姫を所望し一門に加わる用意をする。

北条家にとって成田・上田の離反、太田資正・梶原政景親子の織田信長の直臣化は、関東経営の障害でしかなく、

信長様からの挑発で、北条家にとっても織田と北条の対決は目の前だったんじゃないでしょうか。

長曾我部元親のように信長様は同盟を破棄するつもりだったかもしれませんね。

古文書『瀧川一益事書』に関東の新規家臣団が記される。

南部信直の家臣団 伊達政宗の家臣団 葦名盛氏の家臣団 佐竹義重の家臣団

武田信玄の家臣団 真田昌幸の家臣団 上杉謙信の家臣団 上杉景勝・景虎の軍団  北条氏康の家臣団

  マスコット 滝川にゃん益ニャン。

  織田信忠の家臣団    織田信忠の軍団その2

 瀧川一益の生ことば

「希みもこれあるかと、お尋ねも候はば、小茄子(珠光の小茄子の茶入れ)をと、申上ぐべき覚悟に候処、さはなくて、遠国におかせられ、茶の湯冥加は尽き候。」<冥加、冥加ということも口癖のようです。蒲生氏郷は遠国に置かれては、天下を望めないと嘆いてました。節度のある一益的には、露骨な表現より、遠まわし的なニュアンスなのかもしれません。>

「我、冥加にかない大名となりたるも、あの鶴の身持ちと同じことなり。われらが昼夜の心遣いを察してみよ。汝ら鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しみたまへ」<覇道の道を選ばず、普通の道を選んだほうが幸せということです。時々、自虐ネタを言うのが一益のクセなんでしょう。>

「悪事千里を走るの諺もある。決して隠しおわせるものではない」<「本能寺の変」発生の報せをうけて、北条氏や関東の国人に情報が漏れないようにするかどうかで発した言葉です。主君を討つ行為は、一益的には「悪」ということです。一益は信長のことが、やっぱり好きだったんですね。>

「つわものの交わり たのみあるかな」『羅生門』<上野国衆に対して。感謝っ>

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