羽柴秀吉(木下秀吉・豊臣秀吉)の略年表と、羽柴秀吉・羽柴秀長・蜂須賀正勝、宮部継潤、黒田孝高、浮田忠家の家臣団と軍団のページです。 

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織田信長の家臣団と軍団 top (街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、 直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}

羽柴秀吉 肖像のつもり。

「 羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。 」 -織田信長- 

秀吉が織田家準一門として迎えられる要因となった、養子縁組の織田秀勝(信長5男)については、

別の羽柴(織田)秀勝の軍団 ページを参照してください。←仙石秀久など中国方面軍の若手武将もこちらです。

<惟住長秀の頁でも書きましたが、「本能寺の変」の陰に、羽柴秀吉の養父となった近衛前久の影ありです。1585年秀吉の藤原家養子入りと、長秀の切腹のタイミング、何か繋がりがあるとは考えられませんか。>

 

織田信長の近衛軍  原田直政・佐久間信盛の軍団  織田信忠の家臣団

織田家組織図  織田信長一門(連枝)衆・織田家の系譜  

柴田勝家の軍団  瀧川一益の軍団    丹羽長秀の軍団

 尾張国要所図

明智光秀の軍団   徳川家康の軍団   織田信長年表と織田水軍  

黒田孝高の家臣団    

足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団   

  羽柴秀吉(木下・豊臣秀吉)の略年表 (1537〜1598)

(1537)日吉丸(藤吉郎)誕生

 <遠江尾張守護・斯波義達の今川完敗事件によって、織田家の地侍が今川家に出仕することは、この頃はあたりまえの事だったのかもしれませんね。>

7歳(1543) 父、弥右衛門が病没

15歳(1551) 今川家・松下之綱に奉公 <信長が家督を継承した頃です。>

 松下家はけっこう勢力の大きい豪族です。

19歳(1555) この頃、信長に出仕か 

20歳(1556)

21歳(1557)

22歳(1558)

23歳(1559)

24歳(1560) 「桶狭間の合戦」。

25歳(1561) 浅野長勝養女(北の政所)と婚姻。浅井長政とお市婚姻。

26歳(1562) 尾張小口城に勲功、「足軽鉄砲百人組頭」。与力、川筋衆。

27歳(1563)

28歳(1564)

29歳(1565) 信長の奉行となる。坪内利定宛てに知行安堵の副状。美濃墨俣築城。<丹羽長秀、東美濃攻略に軍功抜群。>

30歳(1566) 稲葉山攻略に殊勲。

31歳(1567) 

32歳(1568) 9/12:六角氏の南近江箕作城落城(木下秀吉に殊勲)。9/28:足利義昭を奉じて信長入洛。京都奉行のひとり。

33歳(1569) 8/*:但馬、播磨、北伊勢に転戦。(この頃から、毛利家との対外交渉役)

34歳(1570) 正月禁裏警護。4/*:朝倉攻め。4/27:浅井長政離反。金ヶ崎の殿軍に殊勲。

6/28:「姉川の合戦」。小谷城の抑えとして、横山城在番。<この頃、丹羽長秀与力か?>

 <元々は惟住長秀の与力小名だったものが、秀吉が天下人となったことにより経歴が捻じ曲がったのではないでしょうか。勝者の歴史というやつです・・。>

35歳(1571) 9/12:「比叡山焼き討ち」

36歳(1572) 7/29〜12/3:朝倉義景と対陣。この頃から「羽柴秀吉」と名乗る。

37歳(1573) 7/18:室町幕府崩壊。8/13:越前乱入。8/24:朝倉義景戦没。

                   8/27:浅井長政戦没。北近江3郡拝領(伊香・浅井・坂田)。

近江長浜城(想像図w)

長浜城を築城。9/10:伊勢乱入。12/*:毛利家と足利義昭の処遇について堺で交渉(安国寺恵瓊)。

38歳(1574) 1/19:越前一向一揆に備え出陣。この頃、石田三成を召抱える。

39歳(1575) 3/21:「長篠の合戦」。7/3:筑前守任官。8/13:越前一向一揆攻め。8/23:加賀乱入。

40歳(1576) 1/*:安土築城工事開始。2/*:信長安土入り。5/14:対毛利水軍「木津川河口の海戦」織田水軍敗北。

                  10/14:実子木下秀勝没し。のち信長の四男・織田秀勝(於次丸)を養子とする。

        織田家準一門に加わる。 <織田一族となった秀吉のプライドが勝家との衝突につながるか・・。>

41歳(1577) 2/28:紀伊雑賀攻め。8/8:加賀出征。柴田勝家と争い戦線離脱。<この頃、軍団長として自立か。>

                  10/10:信貴山城攻めに参陣。10/23:播磨攻め、黒田孝高と結ぶ。11/27:上月城に尼子氏支援。

                  12/4:播磨加古川に布陣。12/*:信長から「乙御前の茶釜」を拝領。

42歳(1578) 2/23:播磨出陣。4/*:毛利両川、30000播磨出兵。6/21:上月救援、毛利家に敗北。

                  7/5:毛利により上月城落城。12/11:別所攻め。

 <秀吉・秀長兄弟の中国地方攻略に影響を及ぼしたであろう尼子氏の遺臣達。>

43歳(1579) (1/*〜3/*:毛利家内紛・杉重良の乱)2/*:摂津出陣。5/*:播磨在陣。6/13:竹中重治病没。

                  6/*:宇喜田直家、臣従。11/19:有岡城落城。

44歳(1580) 1/17:三木城落城。4/24:姫路城築城。6/6:因幡出陣。

45歳(1581) 6/25:鳥取城攻め。9/8:堀秀政に長浜を譲る。10/25:鳥取落城。宮部継潤を配置。11/17:淡路出陣。

<羽柴兄弟が惟任光秀の領土拡張先を封鎖>

46歳(1582) 4/4:岡山入城。5/7:備中高松城包囲。6/2:本能寺の変。高松城落城。

                  6/14:惟任光秀を「山崎の合戦」で破る。

47歳(1583) 4/20:余呉庄で対陣。「賤ケ岳の合戦」。4/24:柴田勝家自害。6/4:大阪入城。9/1:大阪築城。

48歳(1584) 4/9:「長久手の合戦」

49歳(1585) 3/21:紀伊根来・雑賀攻め。5/15:僚友・丹羽(惟住)長秀の自害。7月近衛前久の養子(猶子)となる。7/25:長曽我部元親降服。12/10:織田秀勝病没(18歳)。

50歳(1586) 九州出征。

54歳(1590) 3/*:小田原出征。7/*:後北条家降服

55歳(1591) 1/*:弟・豊臣秀長死去。11/*:秀次養子。

56歳(1592) 朝鮮出兵。羽柴秀勝病死

59歳(1595) 7/*:秀次切腹。

62歳(1598) 8/18:秀吉死去。

《個人的感想》 畿内を席捲した三好家の官位が代々「筑前守」なのは気のせいでしょうか。本当に九州を意識してのものだったのか あやしいのではないかと最近は考えてしまいます(畿内の政権交代を象徴するものだったのでは?妄想)。

東美濃攻略の中で、丹羽長秀の片腕として、川並衆との取次ぎを務め、近江攻略についても長秀与力として横山に在番していたと考えれば、改姓の際に、直の上司である丹羽の「羽」の字と、越前の御番役となった織田家筆頭の柴田勝家に領地的には中継地として挟まれて、両方に気を使って「柴」を貰うのは筋が通ると思います。

 それに改姓は、信長様が必ず介入する事項のはずですから(笑、信長様の意向が反映されているはずです。別喜、原田、惟住、惟任、団など、すべて信長様の意に沿って名付けられている事でしょう。 名付けが趣味の信長様に「どうだ俺のネーミングセンスは!!!」と、ドヤ顔で誇らしげに名を与えられたら、柴田・丹羽の字の前後が どちらが前であろうと柴田さんでも有無は言えないでしょう。

信長様は家中の競争相手(ライバル)創出で、役職を双璧にするのも好きそうですから、林・森、 徳川・瀧川、 惟任・惟住、 堀・団とか、丹羽・羽柴か、柴田・羽柴かで単純にペアを作ってみたらおもしろいかなと、遊んでみただけかもしれません。

 秀吉が、みずからを卑下する(下賤のものという意味)姓を意識して名を付けたとすれば、丹羽・柴田の姓の当て字をされることこそ、柴田勝家さん的には「武士の面目」にとって恥辱と感じたのでは?。もし、下賎という意味で「羽柴」を名乗り、柴田の「柴」の字が使われたと知ったら、名前を大切にする柴田さん的に、最大の侮辱と感じて、即座に秀吉さんを切り捨てているんじゃないでしょうか。柴田勝家さんは「我が名をあげよ やまホトトギス」という詩を残す程に名前を大切にしていますから。

  あと気になるのは、「手取川合戦」前の戦線離脱問題と、別所氏の荒木氏の動向です。主力軍団として瀧川・丹羽が向かい、方面軍軍団の指揮官・柴田との主導権争いがあり、最近の「雑賀攻め」で指揮官として別所氏を率いた経緯もあり、秀吉が瀧川・丹羽に次ぐ主力軍の尊厳を持って、柴田の下風に立ちたくないと、主力軍⇔方面軍の対立の構図の中での無断撤退だったのでは??。

 そして、中央の主力軍から外されての左遷人事の「播磨攻め」、主力軍中核の丹羽軍団から外されるという罰則だったのでは?(死地に送られ活路を開くというのは、佐久間信盛折檻状にある、「この上はいずこの国へでも攻め込んで汚名を晴らして参れ!」という信長様のもう一度チャンスを与える部下活用法なのでは)。 そして、別所・荒木の謀反。主力から外され地位の低下した秀吉ごときに、なぜ我々が従わねば?というプライドの戦いがあったのではないでしょうか(妄想。

 そして「本能寺の変」前に、「武田攻め」に織田主力軍を率いて一時トップに立った光秀が、秀吉の与力となって、更に地方方面軍の山陰方面の前線(出雲)に立てとの通達を経て、左遷人事と受け止めたからの謀反とも考えられなくもないです。ここでも秀吉が「手取川」の前に起きた主力軍⇔方面軍の「指揮権争い」状態に近い、他軍団に対しての我が大将と所属軍団への忠誠心とプライドの戦いが光秀家臣団の中に起きてしまったのでは。

 

 1573年頃:北畿(東)方面軍。

1577年に秀吉軍団は山陽道方面軍に転属。ある意味死地に送られたのは、佐久間信盛への折檻状のように「このうえは何処の国へ攻め込んで切り取ってこい!」的な事を、信長様が秀吉に命じたのではないでしょうか。秀吉の思考は「道が開けた」と逆転の発想だったのかもしれません。

黒田孝高の家臣団

加藤光泰、田中吉政、堀尾吉晴、一柳直末、中村一氏など中堅達の活躍もお見逃しなく。  

足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団   

  木下秀吉(羽柴秀吉)の家臣団と軍団 (1575〜1582頃) *縁戚 1540年頃の秀長世代

秀吉家臣は1540年代生まれが多い(30〜40歳の働き盛り)。 

信長直参、補強の為に付与された与力  △秀長補佐役  ▼(元・御次秀勝)秀次補佐役  ▽陪臣

木下(羽柴)秀吉の一門(連枝衆)   ○与力「城持ち」、部隊長格。

木下秀吉 (1536〜1598)羽柴秀吉(1574年改名)・木下・藤吉郎・筑前守。尾張愛知郡中村出身。1554年頃織田信長に直仕。尾張の農民・野侍の代表として重臣に抜擢される。1565年に信長の書状に副状を発給。1568年上洛に丹羽長秀とともに軍功。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1574年近江国長浜城を築城。播磨国国主。「(仮称)山陽方面軍大軍団長」。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。次男となる養子・羽柴秀勝は織田信長の息。

↓○木下秀長 (1540〜1591)羽柴秀長・小竹・小一郎・「小市殿」・美濃守・大和大納言・長秀。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年横山城留守居。1577年但馬国竹田城主。1580年但馬国出石城主。惟任光秀との「山崎の合戦」に軍功。姫路・但馬を領する。姫路城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。柴田勝家戦、1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。根来征伐に軍功。のちに大和・紀伊・和泉100万石の太守。大和郡山城主。四国征伐、九州征伐にも軍功。秀吉の天下統一に大貢献した。<下記↓羽柴秀長の家臣団を参照してください。足利直義のように兄と対立することなく、誠の宰相とはこの方のことだと思います。><北畠攻めから伊勢長島にかけて活躍し、信長様にも一目置かれていた人物かと思われます。惜しい人を早くに亡くしました。><秀吉が天下人となれたのは、ひとえに秀長という、できた弟がいたからでしょう。他の軍団長が、信長様から独立軍団長に認められるような有能な肉親や兄弟を、誰も持っていなかった分、秀吉が圧倒的に有利だったといえます。>

*杉原定利 (*〜1593)(木下)・助左衛門・道松・(木下祐久?)。杉原家利の娘婿。秀吉の正室「北の政所」の実父、羽柴秀吉の舅。<最近では、出家した時期と名乗りの違いで木下祐久とは別人とされるようです。とすれば杉原は杉原でしかなく、木下祐久の一門は秀吉とは何の血縁関係もなく、ただの与力家臣となりますが・・。><「つゆとおち」の松という署名は・・。>

木下祐久 (*〜1584)助左衛門尉・入道助休。織田信長家臣。越前北ノ庄三奉行。1573年朝倉家滅亡後、織田信長により越前三奉行(津田元秀・溝尾茂朝)に抜擢される。越前一向一揆により退散し失脚。秀吉与力。のち三好秀次の後見人となり、秀吉の臣下となる。1584年徳川家康・織田信雄との「長久手の合戦」に討死。但馬城崎(木崎)城主。<杉原定利と同一人物と想定されてきたが別人説。><もし杉原一門との関わりがあるとすれば、杉原利匡の義兄ということでしょうか。>

*木下利匡 (*〜1584杉原利匡・勘解由左衛門・利国。杉原定利の弟。(木下祐久の義弟?)、「北の政所」の叔父。1582年「山崎の合戦」、1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。兄・木下祐久とともに羽柴(三好)秀次の家老・後見人を務める。<室が安藤守就の娘ならば竹中重治とは相婿。><木下祐久の弟と言われていますが・・。>

▽*木下家定 (1543〜1608*1611)林 家定・杉原・孫右衛門・孫兵衛・肥後守・中納言・二位法印。杉原定利(木下祐久)の息、北の政所の実兄。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1587年播磨に1万石。1595年姫路城主。以降「北政所」の守護。息に木下勝俊。

*浅野長勝 (*〜1568*1575)又右衛門尉。織田信長の弓衆。北の政所(杉原高台院)の養父、羽柴秀吉の舅。1568年上洛軍にて「箕作城攻略」に戦死。娘婿の安井長継(浅野長吉)が跡職継承。

*▽浅野長吉 (1547〜1611)安井長継・弥兵衛・弾正少弼・長吉・長政。安井宗次(安井重継)の息。羽柴秀吉の義兄弟。北の政所の妹が妻の縁で、浅野長勝の養子となる。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年正月禁裏警護。1570年洛中警護隊。1573年上洛軍。1575年桑山重晴とともに琵琶湖船手奉行。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。のちの五奉行のひとり。16万石。

安井重継 (*)弥兵衛・長兵衛。安井長継(浅野長政(長吉))の実父。蜂須賀正利は娘婿。蜂須賀正勝の叔父。1567年伊勢桑名攻略に従軍。<蜂須賀党と木下秀吉を結びつけるパイプ。>

浅野忠吉 (1546〜1624)右近大夫。浅野家家老。浅野長忠の息。養子に忠長。浅野長吉の従兄弟。のち備後三原城主。

*杉原家次 (1531〜1584)木下・弥七郎・七郎左衛門・家継。木下家利の長男、北の政所の母方の叔父。兄弟に定利、義正。1570年洛中警護隊。1573年上洛軍。1576年近江長浜城の留守居役を一柳直次、木下昌利と勤める。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。備中高松殿軍、播磨姫路城留守居、京都奉行。3万石。息に長房。

*小出秀政 (1540〜1604)甚八郎。甚左衛門尉・播磨守。小出政重の息。母は秀吉の叔母。1582年播磨姫路城留守居。のち和泉岸和田城主。3万石。聚楽第普請奉行。

*三好吉房 (*〜1612)三輪吉房・弥介・弥助門・武蔵守・長尾常寛・一路。三輪治部兵衛・宣政の息。羽柴秀吉の姉婿。羽柴秀次の実父。1567年伊勢「桑名城攻略」に従軍。尾張清洲11万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。

▽三輪吉久 (*)越中守。三輪治部兵衛・宣政の息。三好吉房の弟。<1595年の秀次事件に連座か。>

三輪吉高 (*)五郎左衛門。元・北畠具教の家臣。三輪敦成の息。三好吉房の従兄弟(兄とも)。犬山城主。息に吉英。娘婿に小坂孫九郎・雄吉、蜂須賀正勝。<1595年の秀次事件に連座か。>

*↓青木一矩 (*〜1600)勘兵衛・勘七・紀伊守。青木重矩の息。尾張犬山出身。秀吉の従兄弟。1570年正月禁裏警護。秀長補佐役。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1583年秀長が播磨・但馬守護となったさいに但馬出石城主となる。後に越前北ノ庄20万石を領する。<武功夜話では草創期から秀吉与力衆。1569年の伊勢出陣に与力として付属されます。尾張国丹羽郡寄木郷住人。><秀長の一門とされるのは何故でしょうね。秀長奥さんの兄弟とかでしょうか。><青木一重は美濃出身の為、別系統か。>

*↓木下昌利 (*)将監。羽柴秀長の一族。1576年近江長浜城の留守居役を杉原家次、一柳直次と勤める。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。但馬出石城主。

*木下秀定 (*)助兵衛尉。元・織田信長直参。秀吉の縁戚。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。茶の湯に通じる。変後に丹波木崎城主。のち宮部継潤の但馬豊岡城の後職を継承。

木下(羽柴)秀吉の一門(第2世代)

↓○織田秀勝 (1568〜1585)羽柴秀勝・於次。織田信長の息(「兼実卿記では末子」)、秀吉養子。1580年長浜八幡宮に次・秀勝と署名。杉原家次の後見で播磨国を統治。1582年備前「児島城攻略」に従軍。1582年備中「高松城攻囲」に一軍の将。「山崎の合戦」に従軍。丹波亀山城主。「小牧長久手の合戦」に岐阜城留守居。病を経て1585年12月死去。 羽柴(織田)秀勝の軍団 

羽柴秀次 (1568〜1595宮部吉継・三好信吉・豊臣秀次・次兵衛・孫七郎・信由・「殺生関白」。秀吉姉婿・三好(三輪・長尾)吉房の息、宮部継潤養子、三好康長養子、秀吉養子。織田秀勝の跡職を継承。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。1593年秀頼誕生。1595年5月「秀次事件」で失脚。

三好秀勝 (1569〜1592)豊臣秀勝。秀次の弟、秀吉養子。秀吉姉婿・三好(三輪・長尾)吉房の息。1590年「小田原征伐」に関東遠征に一軍の将。一柳直末の遺領を継承し近江勢多城主。のち丹波亀山を継承する。「九州征伐」に従軍。1592年朝鮮渡海。陣没する。

 

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木下(羽柴)秀吉の譜代家老衆

(尾張・美濃の野党) 川並衆 ○城持ち、部隊長格。初期に信長から付属をゆるされた武将

(蜂須賀党) 先祖は斯波義達に出仕。

蜂須賀正勝 (*1528〜1586)小六・彦右衛門・修理大夫。蜂須賀正利の息。父・蜂須賀正利の室は安井弥兵衛の娘。兄・八右衛門は生駒家宗の娘婿。生駒家長と義兄弟。室は益田氏の娘。美濃国斎藤秀龍、犬山城主・織田信清、岩倉城主・織田信賢に仕える。1559年岩倉落城後に生駒氏との縁で織田信長に直仕とも。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年佐保山城攻囲。1571年阿閉攻略に軍功。1573年、近江長浜に所領。播磨龍野城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。中国大返しに備中高松城で毛利の抑えを果たす。<津島社の大橋家とも縁戚関係有り。南朝勢力の子孫。斯波義達の遠江攻略にも関連するか。><大橋家を通して、川口(福富)、大河内(長沢松平)、井伊、長田、中根、千秋、斯波家と繋がり。>

蜂須賀* (*)田川・又十郎。蜂須賀正勝の異母弟。父・蜂須賀正利の後室は大橋氏の娘。1567年伊勢桑名攻略に従軍。海東郡蜂須賀村出身。のちに田川氏を称し阿波藩士。初期の蜂須賀党は国老となる稲田氏の他、日比野、長江、岩田、梶田、河口、三輪氏を輩出する。

蜂須賀* (*)甚右衛門。蜂須賀正勝の弟。のち出家する。

蜂須賀正元 (*〜1571)七内。蜂須賀正勝の弟。伊勢「長島一向一揆征伐」に従軍し戦死。17歳。<「武功夜話」の小十郎カ。>

稲田種元 (1545〜*)大炊介。修理亮・貞祐の三男。父・貞祐は前野宗泰とともに岩倉三家老。前野宗康の娘婿。稲田家は岩倉織田氏の家老を勤める家柄。元・川並衆。1567年伊勢桑名攻略に従軍。阿波蜂須賀筆頭家老。

*蜂須賀党=稲田大八郎・日比野六太夫・長江半之丞・岩田七左衛門・梶田隼人介・三輪若・牛田権之丞・兼松惣左衛門・森五郎兵衛。

(前野党) 先祖は尾張上郡守護・岩倉織田家家臣。

前野勝定 (1516〜1609)富樫・坪内・藤七郎・惣兵衛・為定。前野又五郎・忠勝の養子。加賀出身。安井弥兵衛らと生駒家に出入りする。

↓○前野長康 (*1528〜1595)勝右衛門・将右衛門・但馬守・光景。前野宗泰は稲田とともに岩倉織田氏の三家老。坪内勝定の息、北畠信雄の守役・小坂雄吉の弟。最初岩倉織田信安の臣。1570年正月禁裏警護。1570年比叡山攻囲に参加。1570年洛中警護隊。金ケ崎退き口で前野九郎兵衛に援けられる。1573年上洛軍。羽柴秀長の補佐役。別所滅亡後、播磨三木城主。後、但馬国出石城主。羽柴秀次の後見人となる。1595年5月「秀次事件」で失脚。<下記↓羽柴秀長の家臣団を参照してください。>

前野義詮 (*)清助。前野家一門。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年洛中警護隊。

前野忠康 (*)舞・兵庫。前野家一門。1570年洛中警護隊。

*前野党=武藤清左衛門・兼松又七郎・前野三太夫(宗隆)・児玉左右衛門・小野木清兵衛・板倉四郎兵衛・厩権九郎。<波の家紋は山内一豊がパクルようです。>

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木下(羽柴)秀吉の軍団 第一期

(尾張与力衆) ○城持ち、部隊長格。 初期に信長から付属されたと推測される武将。

1570年金ヶ崎の殿軍に与力。近江横山城在番に譜代家臣化。

<岩倉織田家旧家臣団(犬山衆を含む)を中心に与力が付属させられている。>

生駒親正 (1526〜1603)土田甚助・雅楽頭・左近大夫・正成・近世・近規・近親。三中老。信長の信任厚い生駒一族。嫡子・一正は信長直参。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。淡路渡海組(水軍衆)。15万石。<武功夜話では草創期から秀吉与力衆。><その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。>

<1581年9月「生甚」、明石則実とともに阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。>

寺沢広政 (1525〜1596)藤右衛門・藤左衛門・越中守。1567年伊勢桑名攻略に従軍。近江時代に信長直参から秀吉の与力となる。8万石。息に広高。<武功夜話では草創期から秀吉旗本。><織田信秀の馬廻衆(もしくは与力)だった寺沢家の一門でしょうか。><岩倉・犬山衆に寺沢あり。>

古田重則 (1529〜1579)吉左衛門。美濃出身。播磨三木城攻めに討死。子息は丹羽長秀の婿、古田重勝。<丹羽家との重要なパイプ役。重勝は美濃本巣郡の古田織部の甥と伝わる。>

⇔↓桑山重晴 (1553〜1606)彦次郎・修理大夫・重勝。元、丹羽長秀家臣。羽柴秀長の直臣。1575年浅野長政とともに琵琶湖船手奉行。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。山陰方面軍、但馬竹田城主。<丹羽家との重要なパイプ役。>

堀尾吉晴 (1544〜1610)美濃出身。父は尾張岩倉織田家家老。幼くして秀吉に仕える。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。1582年「山崎の合戦」前に丹波亀山の木村吉清を降す。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。のちに豊臣三中老。17万石。<武功夜話では草創期から秀吉与力衆。><1580年の「鳥取城攻囲」の陣中に信長様軍監の長谷川秀一、与力・仙石秀久、一柳直末とともに在陣。><竹生島奉加帳に登場しないようですが、信仰上の問題で登場しない家臣もいたりするんじゃないでしょうか・・。逆にどう考えても秀吉家臣じゃない近隣の武士も詣でているし、よく検討すべきだと思います。信長様が詣でているんだから織田家家臣というくくりじゃないでしょうか。すべて秀吉家臣と考えるのが危険なように思えます。>

↓山口正弘 (1545〜1600)左馬助・玄蕃頭・宗長。山口光広の息子。羽柴秀秋の後見人になる。<尾張鳴海城主、今川に内通し信長に討たれた山口教継の一族カ><その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。織田秀勝付き家老か。>

津田盛月 (1534〜1593)織田・中川・四郎左衛門・信勝・隼人正・左馬允。中川重政の弟。元・黒幌衆のひとり。「小牧長久手」に従軍。「九州島津征伐」に従軍。息に信任。<柴田勝家の代官を斬って出奔。兄・中川重政は改易。1582年頃、中国陣に従軍しているのは、前戦の「陣借り」で武功を立て信長の勘気を赦免される機会を待ってのことか。同様の行動は前田利家や、小田原陣での仙石秀久等にみられ当時の習慣だろうと推測されます。>

立木直治 (*)伝助。小次郎・久左衛門とともに秀吉の与力。<『武功夜話』では1569年伊勢出陣に与力として付属される。草創期から秀吉与力衆。尾張国丹羽郡高屋郷の出身。><立木小次郎、立木久左衛門(丹羽郡寄木郷)それぞれ部隊を率いる将のようです。天下布武の過程で人知れず散っていったのでしょうか。>

↓○神子田正治 (*〜1587)半左衛門・道清。肥前守の息。秀吉古参の臣「四天王」のひとり。1570年佐保山城攻囲。1573年上洛軍。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。上月城救援の先手武将。秀吉「黄幌衆」のひとりぁ1580年鳥取城攻囲に一軍の将。のち秀吉の勘気により追放される。<武功夜話では1570年金ケ崎退き口にて秀吉与力衆となる。>

蒔田広光 (1533〜1595)久勝・相模守・宗古。織田信長家臣。羽柴秀吉与力。当初一万石のち四万石。63歳。

<1580年代 付与与力>

伊東長久 (1533〜1585)(堀江)・七蔵・祐久。伊東若狭守・祐元の息。信長の元・赤幌衆のひとり。岩倉に所領を与えられる。堀田・城戸と三人で「槍三本」と呼ばれる達人のひとり。兄に信長母衣衆の伊東武兵衛。息に長実。<佐々・前田等と同じバリバリのエリートです。その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。山陽方面軍の軍監か(柴田勝家に対する前田利家・佐々成政的な役割か)。>

木下嘉俊(*〜1584)織田・雅楽助・周防守。中川重政・津田盛月の弟。元・赤幌衆のひとり。秀次の後見人となる。長久手の合戦に討死。<佐々・前田等と同じバリバリのエリートです。織田周防として1581年の京都馬揃えに参加していた場合、秀吉与力となったのは1582年の中国陣からか(柴田勝家に対する前田利家・佐々成政的な役割か)。>

↓○山内一豊 (1546〜1605)猪右衛門・対馬守。尾張岩倉織田信安の老臣・山内盛豊の息。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に初陣。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。秀吉「黄幌衆」のひとり。1582年高松城攻囲に一軍の将。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。7万石。のち羽柴秀次の家老となる。<その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。織田秀勝付き家老か。><「高松城」での吉川軍との睨み合いに、前線に居るのは新参として力量と忠誠を試されているのでしょうか・・。>

森 高次 (1528〜1597)(六角)・三井・鯰江・九郎左衛門。元・六角家家臣。鯰江定秀の息。鯰江定春の弟。近江国愛知郡鯰江出身。1568年鯰江本家は六角義賢を匿い織田軍の攻撃により滅亡。織田信長に出仕し、羽柴秀吉の与力。息に重政、高政。

毛利高政 (1559〜1628)森高政・(六角・三井・鯰江)・勘八郎・民部大輔・伊勢守・友重。尾張中嶋郡出身。森高次の息。兄に毛利重政。木曾義昌の娘婿。1582年備中「高松城攻囲」に従軍。毛利家への人質となる。毛利家より毛利姓を与えられる。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍し負傷。息に高成、高定。<毛利勝信とともに毛利家への人質。>

毛利重政 (1551〜1597)森重政・(六角・三井・鯰江)・兵吉・兵橘・豊後守。尾張中嶋郡出身。森高次の息。弟に毛利高政。室は大神親長の娘。1582年備中「高松城攻囲」に従軍。毛利家への人質となる。毛利家より毛利姓を与えられる。1587年「九州島津征伐」に軍。1592年朝鮮渡海、舟奉行。従切支丹大名。<毛利勝信とともに毛利家への人質。>

坪内利定 (1539〜1610)喜太郎・玄蕃頭。前野勝定の弟。美濃松倉城主。宇留間城主大沢基康の調略に活躍。美濃攻略の際に坪内党が信長に手厚く恩賞を与えられた為、蜂須賀・前野は織田信長直参から秀吉の陪臣に降るという。信長の馬廻衆から、変後に秀吉直参。<相性の悪さから、「本能寺の変」までは信長様直参のままか?それ以降は天下人となった秀吉に出仕するしかないかと・・。>

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 美濃国要所図

 木下(羽柴)秀吉の軍団 第二期

(美濃与力衆)  (旗頭)竹中重治 

○城持ち、部隊長格 初期に信長から与力に付属された武将  △秀長補佐役  ▼(元・御次秀勝)秀次補佐役  ▽陪臣

 <竹中重虎の名乗りのほうが好きだあ・・> 「その言うところ 凛然として 秋霜の如し」−前野長康−半兵衛評『五宗記』

竹中重治 1544〜1579)半兵衛・重虎。竹中重元の息。元美濃斎藤の臣・菩提山城主。安藤守就の娘婿。1561年に斎藤家家督を相続した龍興と反目。1564年2月稲葉山城を攻略。7月29日美濃国西庄内に禁制公布。8月浅井氏の客将となる。「軍略にかけて当代随一」。1570年横山城留守居。

平塚為広 (*1565〜1600)孫九郎・因幡守。浮田家の福原城攻略に、先手衆の竹中重治・小寺孝高に従い、城主を討ち取る勲功。「小牧長久手」に秀吉馬廻衆。<相模出身で明智光秀に出仕し本能寺変後に秀吉に仕官とも。>

古田重則 (1529〜1579)吉左衛門。美濃出身。播磨三木城攻めに討死。子息は丹羽長秀の婿、古田重勝。<丹羽家との重要なパイプ役。重勝は美濃本巣郡の古田織部の甥と伝わる。>

谷 衛好 (1529〜1578)(福田・谷野)・大膳亮・大膳大夫。美濃出身。元美濃斎藤の臣。福田正之の息。谷野綱衛の養子。1576年石山本願寺戦に軍功。秀吉与力となり、1578年播磨平田城主。播磨三木城攻めに戦死。息に衛友。

加藤光泰 (1537〜1593)作内・遠江守・景教。元美濃斎藤の臣。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。秀吉の横山城在番期に奮戦する。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。秀吉「黄幌衆」のひとり。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「高松城攻囲」に一軍の将。秀長の補佐役。<武功夜話では草創期から秀吉旗本。>

仙石秀久 (1551〜1614)千石・(荻原)・於勝・孫次郎・権兵衛・越前守。土岐氏族。美濃出身、千石久盛の次男。荻原国満の養子。<出世の異常な早さから、もともと信長直参か。同じような立場の山内一豊は1546年生まれの5歳年上。>

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 近江国要所図

<羽柴秀吉の軍団 第三期>

(近江与力衆) 長浜時代 1573年頃に編成される。○城持ち、部隊長格

初期に信長から与力に付属された武将、のち宮部継潤軍団として山陰地方に分立。

宮部継潤 (1528〜1590)孫八・善祥坊・中務卿法印。もと比叡山宗徒、浅井長政に出仕。秀吉の横山城在番期に臣従。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。因幡鳥取城主。一時、羽柴秀次を養子とする。8万1千石。

○▽田中吉政 (1548〜1609)(国友)・久兵衛・筑後守・宗政・バルトロメヨ。近江高島出身。宮部継潤の家老。のち羽柴秀勝、秀次の家老、36万石。<三好秀次が一時、宮部継潤の養子となることから、宮部の与力だった家臣達を自然に継承したかもしれない。>

中村一氏 (*〜1600)滝・多喜・孫平次・式部少輔。近江甲賀の豪族。中村一政(または一成)の息。池田恒興の娘婿。瀧川一益の縁戚。上月城救援の先手武将。1577年「石山本願寺攻め」に天王寺在陣。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「山崎の合戦」に軍功。1583年岸和田城主。1585年近江水口岡山城主6万石。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。豊臣三中老のひとり。のち岸和田城、17万5千石。息に一忠。<その家柄から、織田信長様の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。1579年頃には仙石秀久とともに一軍を率いる将。><竹生島奉加帳に登場しないようですが、信仰上の問題で登場しない家臣もいたりするんじゃないでしょうか・・。逆にどう考えても秀吉家臣じゃない近隣の武士も詣でているし、よく検討すべきだと思います。信長様が詣でているんだから織田家家臣というくくりじゃないでしょうか。すべて秀吉家臣と考えるのが危険なように思えます。>

中村一栄 (*)彦右衛門・氏次。一氏の弟。

成合利忠 (*〜1600)平右衛門。中村一氏の臣、のち木村吉清に出仕。

○木村定重 (*)隼人佐。近江出身。木村重茲の父。中国遠征軍に従軍する。<1590年「小田原征伐」には木村重茲が軍を率いる。>

木村重茲(*〜1595)隼人正・常陸介・重高・定光。近江出身、木村定重の息、「大阪の役」で豊臣方旗頭となる木村重成の父。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。羽柴秀次の家老職、山城淀城主18万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。<武功夜話では1570年金ケ崎退き口にて秀吉与力衆となる。>

小堀政次 1540〜1604)新助。浅井氏旧臣。羽柴秀長の臣。

速水守久 (*〜1615)勝太・時之・種久・種之・甲斐守。浅井長政旧臣。元・磯野員昌与力。近江長浜時代に秀吉に出仕、近習頭。1570年一柳勘左とともに木下勢鉄砲隊隊長。1571年阿閉攻略に軍功。

増田長盛 1545〜1615)仁右衛門尉・右衛門尉。近江出身。1580年「鳥取城攻囲」に包囲陣内荷駄奉行。1582年「高松城攻囲」に一軍の将。1582年から秀吉奏者。「九州島津征伐」に従軍。「小田原征伐」に従軍。朝鮮渡海。のち五奉行のひとり。20万石。

(その他、関係者)

 新庄直頼 (1538〜1612)新三郎・駿河守。浅井氏の旧臣朝雲城主。<中国陣での活躍が不明なので、長浜留守居もしくは、丹羽長秀配下かもしれませんね。>

新庄直忠 (1542〜1620)刑部左衛門・東玉斎。<中国陣での活躍が不明なので、長浜留守居もしくは、丹羽長秀配下かもしれませんね。>

樋口政武 (*)次郎・彦右衛門・淡路守・雅兼。1577年頃秀吉の中国征伐の与力となる。別所治定を討取る軍功をあげる。のち羽柴秀長臣。<『武功夜話』にみえる樋口四郎右衛門は、堀次郎と離れて、蜂須賀・神戸田と同陣とすることから樋口直房ではなくて政武さんのことと推測しています。><のちに秀次の鉄砲隊隊長に樋口助三郎あり。>

佐藤直清 (*)主計頭。

佐藤* (*)隠岐守。

真野助宗 (*)左近。

服部正栄 (*)土佐守。尾張中村出身。「小田原攻め」に従軍。「大阪の陣」のち前田家客将。

石田正澄 (1556〜1600)弥三・木工頭・重成。石田正継の息。秀吉に仕え近江高島郡の代官。弟に三成。息に朝成。

 

 マスコット 羽柴にゃん吉ニャン。  このページTOP   羽柴(織田)秀勝の軍団

  羽柴秀吉の親衛隊、黄母衣衆・奉行  長浜時代 1573年頃に編成される(初期名) 部隊の隊長格。

 五畿のうち三畿の要所図 

(羽柴軍団 黄幌衆) ○信長の意向で付属された与力か  △秀長補佐役  ▼(元・御次秀勝)秀次補佐役  ▽陪臣

宮田光次 (*〜1578*)喜八郎。秀吉古参の臣「羽柴四天王」のひとり。1573年長浜城主秀吉から所領を与えられる。大幌衆のひとり。1578年播磨三木城攻めに戦死(1577年上月城攻めとも)。<秀吉にとって、曹操の悪来典偉のような存在っ?>

戸田勝隆 (*〜1594)三郎四郎・民部少輔・駿河守・氏繁・氏知・政信。秀吉古参の臣「羽柴四天王」のひとり。1573年上洛軍秀吉馬廻衆。秀吉「黄幌衆」のひとり。「小牧長久手」に従軍。「四国長曾我部征伐」に従軍。「波木津城攻略」に軍功。「九州島津征伐」に従軍。「小田原征伐」に兵1500を率いて従軍。伊豆「韮山城攻略」に軍功。伊予大洲城主。7万石。1592年朝鮮渡海。陣没する。<弟は丹羽長秀の家老。交友関係ひろし。>

神子田正治 (*〜1587)半左衛門。肥前守の息。秀吉古参の臣「羽柴四天王」のひとり。1570年佐保山城攻囲。1573年上洛軍。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。上月城救援の先手武将。秀吉「黄幌衆」のひとりぁ1580年鳥取城攻囲に一軍の将。のち秀吉の勘気により追放される。<武功夜話では1570年金ケ崎退き口にて秀吉与力衆となる。>

尾藤知宣 (*〜1590)甚右衛門・左衛門佐・十二兵衛・知定。尾藤源内・重吉の息。1570年越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。1570年洛中警護隊。秀吉古参の臣「羽柴四天王」のひとり。秀吉「黄幌衆」のひとり 1575年安土築城に対の城・観音寺城の石切場奉行を務める。のち羽柴秀長の直臣、但馬国豊岡城主。のち秀吉の勘気により追放される。<森可成の与力・尾藤源内の息。宇多頼忠は弟らしい。><将来的には信忠さん側近の森長可とのパイプ役ですね。>

小野木重次 (*〜1600)清次郎・重勝・縫殿介・縫殿助。尾張出身。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。1573年長浜城主秀吉から所領を与えられる。秀吉「黄幌衆」のひとり◆山城淀城に在番し、1584年5月佐久間道徳の反乱を鎮圧した。杉原家次の遺領を継承。<『武功夜話』では前野党に小野木清兵衛がいる。のちに直参となるのでしょうか。>

一柳直末 (15461590)<稲葉・林>・熊・市介・市助・伊豆守・末安。近江出身。土岐家旧臣、稲葉一族、一柳直高の嫡男。秀吉「黄幌衆」のひとり。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。織田秀勝、羽柴秀次の家老となる。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。<武功夜話では草創期から、弥左衛門とともに秀吉与力衆。><その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。>

一柳直盛 (*)<稲葉・林>・監物。直末の弟。1582年備中「宿毛塚城攻城戦」に敵将・真野十右衛門を捕虜とする。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。

一柳* (*〜1595)<稲葉・林>・弥三右衛門尉・右近将監・可遊。近江出身。秀吉「黄幌衆」のひとり‘。伊勢桑名城主。小田原征伐、朝鮮の役に従軍する。1595年5月「秀次事件」で失脚。秀次事件に連座し切腹。<『武功夜話』では弥三衛門、尾張葉栗郡の住人とされる人物でしょうか、1569伊勢出陣に与力で付属されます。>

一柳直次 (*)<稲葉・林>・弥左衛門・勘左衛門尉・勘左。秀吉の馬廻衆。速水勝太とともに木下軍鉄砲隊の隊長。1585年寺社奉行、京都一円の寺社を検察。<武功夜話では草創期から秀吉与力衆。><その家柄から、織田信長の意向があって羽柴秀吉の与力となったものと推測されます。>

中西守之 (*)弥五作・弥五郎。秀吉「黄幌衆」のひとりァ1573年近江長浜に250貫を賜る。1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。<『武功夜話』の堀次郎の与力の中西弥太郎は同一人物か。>

大塩正貞 (*)金右衛門。近江時代からの家臣。秀吉「黄幌衆」のひとりΑ

毛利勝信 (*〜1611)森吉成。秀吉「黄幌衆」のひとりА6綵J芯蠍紂∨前小倉城主、6万石。朝鮮出兵に際し四番隊隊長。「関が原の合戦」に失領。<毛利高政とともに毛利家への人質。>

多賀* (*〜*1580)文蔵。秀吉「黄幌衆」のひとり。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。侍大将として吉岡定勝の拠る防己尾城を攻撃するが戦死。<近江の多賀貞能の一族か。><多喜と多賀の誤記とかで。中村一氏が多喜(滝)から中村に姓を変えたことと関係ないかなあ〜(笑。>

中島氏種 (*)秀吉「黄幌衆」のひとり。

伊東祐時 (*〜1586)掃部助・祐実。近江時代からの家臣。秀吉「黄幌衆」のひとり。「腰幌衆」。1586年紀伊熊野の一揆征伐に戦死。遺領は加藤光泰が継承する。

(羽柴家 金切裂指物使番)

蒔田広政 (*〜1607)正次・主水正・政勝。広光の長男。金切裂指物使番のひとり。

(羽柴家 奉行衆)

伊藤秀盛 (*〜*1600)太郎左衛門尉・加賀守。秀吉古参の臣。近江時代からの家臣。1582年山城国検地奉行。秀吉直轄領代官として財務を担当する。京都三条の邸宅は秀吉の仮宿として利用される。1600年「関ヶ原の合戦」に西軍。

副田* (*)甚右衛門。各種奉行を務め、佐久間盛政を護送する任をおびる。

桑原貞也 (*)次右衛門尉。初期京都奉行。のち九州、名護屋城在陣。

 

 1577年:中国方面軍成立〜1582年頃。

羽柴秀長を中心とする(出生)40年代組のネットワークも注目ですw。

 <羽柴秀吉の軍団 第四期>

 毛利家の家臣団 TOP ←毛利家の部将配置

中国山陽地方の外様衆 その1(播磨)  黒田家のページTOP  黒田孝高の家臣団

(旗頭)竹中重治(〜1579)・蜂須賀正勝(1579〜)  △秀長補佐役  ▼(元・御次秀勝)秀次補佐役  ▽陪臣

 播磨国要所図

黒田孝高 (1546〜1604)小寺・万吉・官兵衛・。洗礼名シメオン。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。淡路渡海組(水軍衆)。1590年「小田原征伐」に関東遠征一軍の将。<1581年9月黒田孝高、仙石秀久とともに淡路渡海。三好在保の救援に出動。>

黒田利高 (1554〜1596)小一郎・兵庫頭。黒田職高の次男。

黒田利則 (1561〜1612)甚吉・修理亮。黒田職高の三男。

黒田直之 (1564〜1609)惣吉・惣右衛門・図書助。黒田職高の四男。羽柴秀長に出仕。

明石元知 (*〜1595)与四郎・則実・則春・全豊・左近将監。黒田孝高の従兄弟。淡路渡海組(水軍衆)。阿波に遠征し、各地で戦功をあげる。但馬城崎2万石。1595年5月「秀次事件」で失脚。秀次事件に自殺。<一門から離れた軍事行動を行っているのは、信長様に将才を認められてのものか。><1581年9月「明与四」、生駒甚助とともに阿波木津城・篠原自遁の救援に出動。>

栗山利安 (1550〜1631)善助・四郎右衛門・備後守。赤松旧臣。黒田家家老。

井上之房 (1554〜1634)弥太郎・九郎右衛門・周防守・政国。黒田家家老。

別所重棟 (*〜1591)孫右衛門・重棟・長棟。親織田派。信長に重用される。播磨別府城主。

赤松氏満 (*)石野・小六郎。別所旧臣。1579年籠城戦時、秀吉側の古田重則を討ち取る。のち秀吉・前田利家に出仕。

(播磨与力衆)

有馬則頼 (1533〜1602)九郎三郎・中務少輔。赤松氏庶流・有馬重則の息。播磨三木淡河城主。1万石。

赤松則房 (*〜1598)次郎・上総介。赤松義祐の息。赤松晴政の孫にあたる。置塩城主。羽柴秀吉に仕えて阿波国板野郡住吉に1万石。1585年に死去し後嗣なく赤松嫡流が断絶する。<南北朝以来の名門、幕府の四職家、貴種です。>

糟谷武則 (*〜*1600)加須屋・助左衛門・内膳正・真雄。播磨出身、別所長治の臣。黒田孝高に出仕。「賤々岳の合戦」に拝郷家嘉に一番槍。負傷し、福島正則が討ち取る。七本槍のひとり(出世せず)。印「金の角取」。

 

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 <羽柴秀吉の軍団 第五期>

中国山陽地方の外様衆 その2(備前・備中・美作) 浮田家のページTOP 

浮田直家の軍団 1578年以降、織田家に従属。 1582年安土城に家老衆出仕、秀家の家督相続を認可される。

浮田直家 (1529〜1582)浦上氏家老。1573年、備前岡山城築城。1578年、主家の浦上宗景を攻め滅ぼす。播磨三木城落城の際に、織田方に内通する。1582年正月、51歳で死亡。<宿敵・浦上一門を攻め滅ばしてから、冷静にタイミングを伺って、最大級に恩を売れる時に織田家に転じるところは、謀将として面目躍如といったところではないでしょうか。>

(浮田一門御由緒衆)

浮田忠家 (*)直家弟。兄の代官として各地で戦功。1582年高松城攻囲に一軍の将。<織田家に臣従してからは、病床の兄に替わり、実質的に浮田軍団の旗頭。>

浮田春家 (*)直家弟。松田氏滅亡後、金川城主。

江原親次 (*〜1598)浮田・又四郎・兵庫助。浮田直家の娘婿。美作国の豪族。美作国、中山手城主。

明石景親 (*)備前八幡山城主。浦上宗景の臣。浮田家と同盟。1578年、竹中重治の調略に応じる。

(浮田家譜代家老衆) 浮田三家老。

岡家利 (*〜1592)平内丞・豊前守。浮田家「三家老 廚里劼箸蝓G鮴仂觴隋Bに利勝。1573年に岡山城築城の普請奉行。朝鮮の地で没する。

⇔▽長船貞親 (*〜1588*1591)又佐衛門・越中守。浮田家「三家老◆廚里劼箸蝓8誉扈┛属退後に筆頭家老。のち身内に暗殺される。

戸川秀安 (1333〜1592)平介・平右衛門・肥前守・正利。浮田家「三家老」のひとり。浮田詮家は娘婿。児島城主。息に達安。

(美作国人先方衆)

花房職秀 (1549〜1616)助兵衛・職之。花房職勝(職治)の息。浮田家客分。1567年足軽大将。1569年毛利元清と抗争。1570年以降美作国の荒神山城主として、美作平定戦。1577年天神山城主・浦上宗景を滅ぼし残党を鎮圧。1579年美作の国人・後藤勝基を討取る。1582年備中「高松城攻囲」に従軍。1583年毛利軍に奪取された美作国沖構城を奪取する軍功。美作荒神山城主。織田秀勝の与力。1599年浮田家の内紛に退散、1600年東軍に参加。<秀吉に臆することなく対等の立場で対処しているので、織田家に臣従し信長様の直参という立場にあったのでしょうか。>

(第二世代・宇喜多秀家家老)

⇔▽花房正成 (1555〜1623)弥三衛門・志摩守。正幸の息。秀吉に寵用される。備中高松城主。<職秀が秀吉に従わない分、分家の正成が重く用いられたとか・・。>

岡利勝 (*〜1615)越前守。家利の息。長船貞親の没後、筆頭家老。1600年に浮田家を出奔、徳川家康に出仕する。<父と子の事跡が混同され入れ替わっているらしい。>

(備中国人与力衆)

荘* (*)三村・駿河守。元・備中国人。三村家親の息で荘氏の養子となった荘元祐の息。1567年父の戦死により家督。元・備中猿掛城主。

荘* (*)市助。1581年荘氏は秀吉に従う。9月信長より忠勤に励むよう督促される。

戦国中国地方の豪族家臣団 

<個人的感想> 美作に武威を張る「花房職秀(1570年から美作の経営を任されている)」は織田家直属の与力的な立場で秀吉にしたがっていたのでは。なので秀吉が天下を取っても反骨的な態度で「天下人」を困らせたのでは・・。

 東海道における家康与力の大須賀や、奥平なども花房さんと同じ立場だったのでは?。「本能寺の変」で方面軍のリーダーの立場が強くなっただけで、それ以前は織田家家臣として同等の立場だったのではないのでしょうか。

秀吉の家臣団も、古参とかいわれてる連中も、もともとは織田家の家臣で与力的立場で付属させられていたと考えられます。

近江時代の佐和山の丹羽長秀と、横山城の羽柴秀吉の主と副の関係。 羽柴秀吉と竹中重治や蜂須賀正勝の主と副の関係。

秀吉が「天下人」となったことで、後世の人達からみれば、主従の感覚がおかしなことになったのだと思います。

 

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    羽柴秀吉 肖像のつもり。 羽柴(織田)秀勝の軍団 

<羽柴秀吉の軍団 第六期>

中国山陰地方の別働隊 (但馬) 1577年成立 ○信長より付属された与力。

羽柴秀長の軍団 但馬国、出石城主。 1580年頃、秀長の親衛隊は「白幌衆」のようです。

 但馬国要所図

↓○羽柴秀長 (1540〜1591)小竹・小一郎・美濃守・大和大納言・長秀。羽柴秀吉の弟。1567年伊勢桑名攻略に従軍。1570年横山城留守居。1577年但馬国竹田城主。1580年但馬国出石城主。惟任光秀との「山崎の合戦」に軍功。姫路・但馬を領する。姫路城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年高松城攻囲に一軍の将。柴田勝家戦1583年「賤ケ岳の合戦」に従軍。、根来征伐に軍功。のちに大和・紀伊・和泉100万石の太守。大和郡山城主。四国征伐、九州征伐にも軍功。秀吉の天下統一に大貢献した。<下記↓羽柴秀長の家臣団を参照してください。足利直義のように兄と対立することなく、誠の宰相とはこの方のことだと思います。信長様にも一目置かれていた人物かと思われます。惜しい人を早くに亡くしました。>

<羽柴秀長の一門御由緒衆> <大切な弟の為に、厳選して用意された重臣と思われます>

*↑青木一矩 (*)勘兵衛・勘七・紀伊守。青木重矩の息。秀長補佐役。尾張犬山出身、羽柴秀吉の従兄弟。羽柴秀長の腹心として活躍する。1577年羽柴秀長の但馬侵攻に従軍。朝倉城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1583年但馬国出石城主。<青木一重と同系譜カ。>

*↑木下昌利 (*)将監。羽柴秀長の一族

<羽柴秀長の譜代家老衆>

(尾張与力衆)

↑前野長康 (*1528〜1595)勝右衛門・将右衛門・但馬守・光景。前野宗泰は稲田とともに岩倉織田氏の三家老。坪内勝定の息、北畠信雄の守役・小坂雄吉の弟。最初岩倉織田信安の臣。羽柴秀長の補佐役。1577年羽柴秀長の但馬侵攻に従軍。但馬国岩洲城主。別所滅亡後、播磨三木城主。後、但馬国出石城主。羽柴秀次の後見人となる。1595年5月「秀次事件」で失脚。<下記↓羽柴秀長の家臣団を参照してください。 「武功夜話」では1582年当時、前野長康は播磨三木城主となっている。秀吉直参に召還されたか。>

桑山重晴 (1553〜1606)彦次郎・修理大夫・重勝。元、丹羽長秀家臣。1570年金ケ崎の殿軍に与力。羽柴秀長の直臣家老。但馬竹田城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1585年紀伊和歌山城主。<もともとは羽柴秀長軍団の与力として、信長から付属された武将か。>

↑尾藤知宣 (*〜1590)甚右衛門。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。秀吉「黄幌衆」のひとり。のち羽柴秀長の直臣、但馬国豊岡城主。<もともとは羽柴秀長軍団の与力として、信長から付属された武将か。><『武功夜話』では1569年伊勢出陣に与力として付属される。尾張国日々津の住人。>

↑樋口政武 (*)次郎・彦右衛門・淡路守・雅兼。別所治定を討取る軍功をあげる。羽柴秀長臣。

羽田正親 (*〜1595)六蔵・長門守。羽柴秀長の直臣。のち秀保に仕える。1595年5月「秀次事件」で失脚。

横浜正勝 (*〜1596)一庵・大蔵卿法院。秀長・秀保二代の家老。

桜井家一 (*)左吉・佐吉。羽柴秀長家臣。渡辺勘兵衛、浅井喜八郎、浅野日向とともに「賤ヶ岳合戦」に軍功。早世する。

(美濃与力衆)

↑加藤光泰 (1537〜1593)作内・景教・遠江守。元・美濃斎藤家の臣。1570年、越前朝倉攻略「金ヶ崎の殿軍」に与力。秀吉の横山城在番期に奮戦する。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。秀吉「黄幌衆」のひとり。秀長の補佐役。

(近江与力衆)

小堀政次 1540〜1604)新助。浅井氏旧臣。羽柴秀長の臣。

一柳* (*〜1595)<稲葉・林>・弥三右衛門・右近将監・可遊。近江出身。秀吉「黄幌衆」のひとり‘。伊勢桑名城主。小田原征伐、朝鮮の役に従軍する。秀次事件に連座し切腹。<中国方面軍の信長様軍監として一軍を率いる一柳一族から、秀長軍団与力として分かれたのかもしれませんね。>

(播磨与力衆)

伊丹* (*)甚大夫。羽柴秀長の臣。弓衆組頭。<摂津伊丹氏の一門か。>

黒田直之 (1564〜1609)惣吉・惣右衛門・図書助。黒田職高の四男。羽柴秀長に出仕。<兄・孝高から離れて山陰方面軍、策略家の孝高の指示か。>

(但馬国人与力衆) (旗頭)羽柴秀長

山名尭熙 (*)慶五郎・氏政・右衛門佐。但馬守護。山名誠豊の養子・祐豊の息。兄・棟豊(氏熙1549〜1566)。父は1580年に秀吉降伏、以後配下。出石城主。家老の太田垣氏が但馬銀山を抑えて実権を持つ。

垣屋豊続 (*)河内守・駿河守。元・山名家家臣。宵田城主、摂津守家。但馬国人・田結庄是義を討つ。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。のち宮部継潤の与力。<垣屋光成と同一人物とも。>

垣屋光成 (*〜1592)小治郎・新九郎・平右衛門・播磨守・重興・宗管。但馬国人・山名四天王。続成の息。1560年頃から文書に登場。山名誠豊を補佐し但馬を支配。国人・田結庄是義と争う。1580年秀吉軍の但馬侵攻に降服。羽柴秀長軍団与力。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。宵田城主、越前守家。

垣屋恒総 (*〜1600)新五郎・隠岐守。光成の息。羽柴秀長軍団与力。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。因幡国住木山城主、1万石。越前守家。

高野* (*)駿河守。羽柴秀長軍団与力。1580年「鳥取城攻囲」に垣屋とともに従軍。

《個人的感想》 山陰道に羽柴軍団の楔が打ち込まれた事も、惟任(明智)光秀の領土拡張の出口に蓋をしてしまったのではないのでしょうか。

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 <羽柴秀吉の軍団 第七期>

中国山陰地方の外様衆 その3(因幡・伯耆

宮部継潤の軍団

宮部継潤 (1528〜1590)孫八・善祥坊・中務卿法印。もと比叡山宗徒、浅井長政に出仕。秀吉の横山城在番期に臣従。1575年安土城の築城に際し街道の往還の警備奉行を務める。1577年羽柴秀長の但馬侵攻に従軍。宿南城主。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。一時、羽柴秀次(宮部吉継)を養子とする。因幡鳥取城主。8万1千石。

▽宮部* (*)肥前守。宮部継潤の義弟。1573年山内一豊の軍功を織田信長に取次ぐ。

(宮部与力衆)

↑田中吉政 (1548〜1609)久兵衛・筑後守。宮部継潤の家老。のち羽柴秀勝、秀次の家老、36万石。

↑荒木重堅(*〜1600)木下・平大夫。摂津出身。元、荒木村重の小姓。実力を買われ宮部継潤の与力となる。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。因幡若桜城主。

(因幡国人与力衆) (旗頭)宮部継潤

−山名豊国 (*〜1626)入道禅高。因幡守護。親織田派。山名豊定の息。鳥取城主、山名豊数の弟。家老・武田高信の謀反により兄が死去し家督継承。武田氏を討ち旧領を回復するが毛利氏の侵攻により降服する。織田家羽柴軍の西進に従うが、国人の中村春続・森下道誉に追われ堺に移る。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。

亀井茲矩 (1557〜1612)湯・新十郎・真矩・武蔵守・琉球守。元・尼子衆、湯永綱の息。因幡鹿野城主。

福屋隆兼 (*)石見国の豪族。元・尼子家家臣。のち毛利家家臣。小笠原家と石見の領地をめぐり抗争。反乱を起す。のち織田家客将。「本能寺の変」後は蜂須賀家客将。

(伯耆国人与力衆) (旗頭)宮部継潤

南條元続 (*〜1591)勘左衛・左衛門・直秀・光明・伯耆守。吉川元春与力の羽衣石城主、南條宗勝の息。宮部継潤の与力となる。6万石。

南條元忠 (*〜1614)虎熊・忠勝・光成・政忠。南條元続の息。

山田重直 (*)南條元続の臣。

小鴨元清 (*〜1614)左衛門。伯耆国の国人。南條元続の庶兄。伯耆国岩倉城主。

<織田水軍与力> 織田信長年表と織田水軍

吉川平吉 (*〜1580)1580年鳥取城攻囲に一軍の将。防己尾城の攻略戦に戦死。<事跡は平助と混同されているんでしょうか。>

⇔吉川平助 (*)伊勢神宮の門前湊として栄えた伊勢大湊(二見浦)の船奉行。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「本能寺の変」に際しては徳川家康を三河へ逃す。<平吉の跡職か。>

吉川* (*)三蔵。平助の弟。紀伊国新宮北山の代官。1588年一揆に攻撃される堀内氏善を救援。

⇔松井康之 (*)丹後衆。1580年鳥取城攻囲に一軍の将。

《個人的感想》 山陰道に羽柴軍団の楔が打ち込まれた事も、惟任(明智)光秀の領土拡張の出口に蓋をしてしまったのではないのでしょうか。

「変」以前から、光秀からの自陣営ヘの勧誘があったかもしれません。だから宮部さんのもとに羽柴秀次が先に養子に出されていたのでしょう。

秀吉的には、この優秀な軍団長をキープしたかったに違いありません。

 近江野武士からすれば、織田家の外様として出世頭というか、希望の星だったんじゃないのでしょうか。近江の家柄のよい阿閉や、多賀さんなどは信長様直属の安土軍となっていますので、野武士軍団は前線にでて軍功をあげて活路を開いていたのでしょう。

宮部さんは、旗頭となるまでは、立場的に東海道の奥平、大須賀と同じような感じだった武将ではないでしょうか。

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羽柴秀吉の親衛隊

(秀吉小姓頭)

蒔田広定 (*)権佐。秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。

別所吉治 (*)豊後守。秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。

長谷川* (*)式部大輔。秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。

宮木* (*)右京亮。秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。<のち右京進・宮城頼久か。>

中江* (*)式部少輔。秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。<のち式部大輔・中江直澄か。>

福原直高 (*)秀吉小姓頭。1592年名護屋出陣。

(秀吉馬廻組頭)

石川光元 (*)紀伊守。

長束直吉 (*)次郎兵衛尉。

桑原貞也 (*)次右衛門尉。

中井* (*)平右衛門尉。

堀田盛重 (*)図書助。1600年反石田派、伏見城に出奔。「秀頼馬廻七手組頭」。

伊東長次 (*)丹後守。1600年反石田派、伏見城に出奔。「秀頼馬廻七手組頭」。

河井* (*)九兵衛尉。

真野助宗 (*)蔵人。

佐藤* (*)隠岐守。

尼子* (*)三郎左衛門尉。

速水守久 (*)甲斐守。

(秀頼馬廻七手組頭)

青木一重 (*)「秀頼馬廻七手組頭」。のち徳川家家臣。

郡 宗保 (*)「秀頼馬廻七手組頭」。

中嶋氏種 (*)「秀頼馬廻七手組頭」。

野々村雅春 (*)「秀頼馬廻七手組頭」。

真野頼包 (*)左近丞・蔵人頭。秀吉古参の臣。「小牧長久手の合戦」に従軍」。「小田原征伐」に従軍。名護屋城在陣。「秀頼馬廻七手組頭」。

 

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羽柴秀吉(豊臣秀吉)の生ことば 

 

 「 つゆとをち つゆときえにし わがみかな

 

                             なにわの事も ゆめの又ゆめ −松(秀吉)-  

<個人的感想> 織田信長が死んでから、というか、晩節の秀吉は嫌いです。

なので「本能寺の変」以降の武将の事績を書く意欲が湧きません(笑。

 「小田原征伐」にて頼朝木像になんか言ったらしいですが、

身内を討ち、滅び行く様は、繰り返す歴史のようです。

曹操のように主家を立てて天下を抑えた方が、羽柴一族は安泰だったのではないでしょうか。

 徳川家をも、室町時代の管領・細川家のように押さえ込めたかもしれません。

信忠さんの子孫を担いで、「織田幕府」の天下を創るべきだったんじゃないでしょうかね〜。

 

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昔は秀吉が好きでしたが、大人になるにつれ、「本能寺の変」のちの秀吉は・・・。家康も・・・。

光秀が二人を変えてしまったかもしれませんね。

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