織田信長家臣団と軍団。織田家軍団長格の大名(諸侯)と小名。織田信長の家臣団と軍団TOPページ

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貴公は織田家家臣団の一員 番目の武士(もののふ)で御座候(平成26年10月20日カウンター設置。奉行:登美ノ勝也)。

 カウンターにカーソルを合わせる↑と、本日の信長様御前を固める馬廻衆、貴公の侍番付けがわかりもうす(目指せ!幌衆筆頭)。

内裏(朝廷)も、公方(将軍)も気にするには及ばぬ。

 全ては余(信長)の権力の下(もと)にある。

 信長談 -『日本史』 宣教師ルイス・フロイス記- 

   織田信長公肖像画のつもり

事績は織田信長年表と信長親衛隊のページをご覧ください↓

 織田信長の年表(1534〜1582)

 自称、第六天魔王/dairoku tenmaou(みずから王権神授説! とゆうか後年は神そのものだとおっしゃってます)

 父・織田信秀により、「最強戦争オタク」として育て上げられ、戦国乱世を統べた麒麟児です(信長の花押は麒麟の「麟」の字)

 <名付け好きの信長様が頑として自分の名前を変えなかった理由は、天下人・三好範長(長慶)の名前を意識しているからかもしれません。父・信秀さんが畿内を志向して、意図して畿内の覇者・三好家当主代々の通字の「長」をつけたのではないでしょうか。

 もしくは覇者・三好家の側から、六角・北畠氏との対立関係も有って、領地的に挟み撃ちににできる尾張の織田家と結ぶ外交的な心積もりで、織田信秀への接触があったのでは(妄想)。例えば、浅井長政の「長」の字も六角家からの独立のタイミング的に天下人・三好範長(長慶)の偏諱・へんき(範長からの「長」の一字恩賜)のような気がします。三好政権が地方にも与党大名を作り上げようと動いていたのでは?

 1559年の信長も、美濃の義龍と仲の良い落ち目の将軍「義輝」に会うことよりも、当時絶頂の畿内の覇者・三好家に憧れて上洛していたのでは?。はたして、26歳のお忍びの上洛に範長(長慶)、信長二人の対面はあったのでしょうか・・。 三好長慶の1553年芥川山城改築。1560年飯盛山城築城。松永久秀の1559年信貴山城改築。1560年多聞山城築城。相次ぐ三好系城郭の築城ラッシュ。畿内の新型城郭の築城現場を織田弾正忠家の家臣達も視察していたのではないでしょうか。危険な情勢にあっても、信長様の好奇心が関西行きを熱望したのでしょう。>

 足利将軍家の変遷(京都室町と鎌倉)。

 <将軍・足利義輝が足利一門・斯波氏を「下克上」した信長を簡単に許すでしょうか、朝倉氏が越前守護職を認められるのにも大変な苦労がありましたし、(斯波義銀が吉良家と結んで謀反した時期が気になります。1560年以前なのか、以後なのか。服部友貞や石橋義忠の没落や、吉良義昭の台頭と没落の時期からして、今川義元が死してからのことだったりしないでしょうか?H29年4月初旬の思い付き)

 父・織田信秀・信広親子の目指した「三河守」任官しかり、この信長上洛には織田弾正忠家が目指した政治的な意味で、尾張の「力による実効支配」を認めてもらう件や、美濃の継承者としての正統性を認めてもらう動きや、「天下の覇者」三好家や朝廷への働きかけなど様々な目的があったのでは。更に堺の繁栄を見ること、鉄砲や最新鋭の武器を見ることなど「百聞は一見にしかず」の姿勢を貫いていたのでしょう。>

 

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戦国の織田家 組織図(1582頃)     織田家の系譜、信長一門(連枝)衆、織田家の「御由緒家」婚姻関係 

織田信長の親衛隊=赤幌衆・黒幌衆(馬廻五隊長・五奉行)

織田家一門 三大将 (大軍団長の上位権力者) 1582年の信孝「御名代」就任後の体制。

大敵に対して複数の軍団(大軍団、遊撃軍団)が集合したときの旗頭。 戦場に信長様が不在の場合の「御名代(織田軍総帥)」。

 

織田軍 総帥 (山陽道・畿内(西)・中山道・東海道・北陸道の統括者) <要するに信長近衛軍(安土軍)を除いた、ほぼ全軍を率いる権限を持つ。>

織田信忠 /oda,nobutada ←織田信忠の家臣団と軍団を参照してください。 <織田家の姓を引き継ぐものとして、「天下人」として、誰も率いた事のない規模の織田大軍団を統べる総大将として、「最強戦争オタク」の父・信長により幼少の頃から戦場を連れまわされ、実戦の中で鍛えられた(10年間戦場でほぼ生活したのではないでしょうか)。初名は信重。1576年以降に松永・雑賀・畠山・本願寺・三好・別所・荒木・波多野・浮田(帰順)・吉川・小早川・毛利を相手に奮闘。1579年からは東国に転じて武田領を圧迫。1582年信忠軍団を率い信濃・甲斐国を制圧し勝頼を討つ。そして、西国に転じて毛利輝元討伐の為、信長代理「御名代(おんみょうだい)」へ。信長の作り上げた最高傑作として、武将・信忠が存在したと・・。信忠の「忠」への改名は東西日本を大将軍として平らげた藤原忠文の「忠」にあやかる思いだったかもしれませんね。秋田城介の先の大将軍の地位をみていたかもしれません。><本能寺の変後、東(岐阜)に向かうは敵中突破で絶望的、西(大坂)に向かうは高山右近や、筒井順慶の動きが不可解で警戒したのではないでしょうか。というか、京都の豪族である津田重久や御牧兼重など元幕府衆の動きで、革嶋城や堅固な勝龍寺城にも行けない状況が京都市街内で既に起きてたかもしれませんね。足利義昭が本圀寺で三好勢を相手に持ちこたえた前例が、二条籠城を選択させたのかもしれません。包囲網の外側の準一門・塩川氏や、中川清秀に池田恒興の救援を信じていたと思います。信忠が最後の判断を誤ったとか安易に言い切れるものでしょうか?><隣接する関白・近衛前久邸が光秀に差し抑えられて?高いところから狙撃されたことが致命的でした。伊勢貞興勢が突撃してくるのも織田家転覆を狙う陰謀が感じられます。><武田松姫との縁はどうなっていたことでしょう。武田が無くても正室として迎えたのでしょうか。>

  

直轄地、尾張国・美濃国。

 

織田軍 副総帥 (南畿(西)伊勢方面の統括者) <伊賀攻略に「御名代(総帥・信長代理の意味)」。次は紀伊熊野攻略へ。>

北畠(織田)信雄 /kitabatake(oda),nobukatu ←北畠(織田)信雄の家臣団と軍団を参照してください。 <伊勢国司・北畠具房の養子。信長様が足利幕府創業期に足利家を苦しめた勇将・北畠顕家の姓がほしかったのかもしれません。領地的には平家流の織田家として伊勢平氏を踏襲したかったのかもしれません。><過保護的に心配されながら、名門への養子入り。甘えんぼ的な性格は弟ゆえでしょうか。>

 直轄地、南伊勢国。

織田軍 副総帥 (南畿(東)南大和・紀伊、南海道(四国)方面の統括者) <高野山攻囲旗頭、四国征服に「御名代」。阿波へ。>

三好(織田)信孝 /miyosi(oda),nobutaka ←三好・神戸・(織田)信孝の家臣団と軍団を参照してください。 <四国出兵直前に三好康長の養子。足利将軍に取って代わり天下人となった、一世代前の英雄・三好長慶(範長)の姓がほしかったのかもしれません。領地的には織田家の天下となったのち、室町幕政初期の細川管領家のような働き(四国からの兵力投入)を期待したのかもしれません。織田家家臣団の官位名も前三好政権の官位(政権継承)を意識しての任官のような気がします。><幼くして親兄弟と引き離されて育った境遇。ある意味、那古屋城で育った信長様と似た境遇を再現させられたテストパターン的な子育てです。激しい性格はその影響でしょうか。>

 摂津国「大坂城」・和泉国「堺」にて四国征伐軍、出航待ち。

《個人的感想》 大軍団長の上位権力者の「信長公御名代(おんみょうだい、上様陣代)」出現は、

1576年対・摂津石山本願寺での原田直政の敗戦、救援に赴いた信長本人の戦場での負傷。

1577年対・上杉謙信との柴田勝家の敗戦が教訓なのだろう(船頭多くてまとまらないことに反省)と思います。

有無を言わせない絶対権力者・信長が 戦場に不在の時に、決戦を前に軍団長達(終生にわたり出世のライバルの関係である)の中から、

日本各地から結集した各軍団を、一つにまとめて指揮できる「総大将」を決めることは困難であり、

 (各方面軍の軍団長・旗頭として軍団の威信を背負う各将は、プライドも高く、互いに「武士の面目」にかけて牽制しあう間柄だったことでしょう。

 仮定の話ですが、東海道方面も小笠原長忠が健在でいれば、家康は出世を阻止されたかもしれないですし、

 北陸道も別喜がいれば柴田が、山陽道も荒木がいれば羽柴が、山陰道も一色がいれば長岡が。南畿東方面では信孝と信雄兄弟で、

 織田家中の領土拡張体質もあり、各遊撃軍団長達の主導権争いはきっと苛烈だったことでしょう。

 優勢なときは「おれがっ、おれがっ!」って感じで。 長篠では家康よりも目だった酒井忠次もいますし<晩年家康に冷遇される>。

 戦線が危ないときは同じ方面担当どうしでも 協力ではなく「見捨てる」が多発していたのでは・・。)

選ばれた大将が織田一門(兄・織田信広、弟・信治など)であってもかなり信長様に近い「分身」の間柄でないと、

兵士全軍の士気もあがらず、 勲功を挙げる為の必死の気持ちがついてこないで、「敵前逃亡」足軽の逃散がある(堅田の敗戦、長嶋の敗戦など)

ということが判ってきていたのでしょう。

 嫡男の織田信忠が、1576年信長様の対石山の戦場での負傷後、「命大事に」と方針を変えた信長様に代わり、

雑賀征伐以降の畿内(対・石山)と西方(対・毛利)と東方(対・武田)の織田軍の軍事行動を纏めてきたということを、

信長公の「御名代(陣代・総指揮官)」という役割を堅実に果たしてきたということを 忘れてはいけないと思います。

    → 織田信忠の家臣団と軍団 その1 信忠の親衛隊(織田家 次期近衛軍)

      織田信忠の家臣団と軍団 その2 信忠主力軍(織田家 準方面軍・次期主力軍)

 政治的には、家臣たちに「上様」と尊称される信長と、「殿様」と敬愛される信忠の二人三脚の軍事政権です。

後世の学者により付属された惟任光秀に対する、「畿内管領」という評価は、とんでもない歴史的誤解を生み出す言葉だと思います。

 ここでは短い期間ですが戦国の世に名を馳せた信長様の子息、

織田三兄弟を地方方面軍の大将よりも上位権力者として扱っていきたいと思います。

また、局地戦的な地方方面軍の戦いよりも、畿内の統一につとめた織田主力軍のあゆみを、これからは探求していくべきではないでしょうか。

 ・信長直属の軍団→織田信長の親衛隊=赤幌衆・黒幌衆(馬廻五隊長・信長五奉行)

              織田信長の近衛軍 (安土衆・子飼衆) 畿内(東)方面は、信長婿の惟住(丹羽)長重、蒲生氏郷が次代を担う。

  ・主力軍として投入される遊撃軍団の集合体→  織田信長の動員主力軍=(信長直属の他国先方衆達と、その旗頭 惟住・瀧川)

 織田家の主戦場で、地方方面軍に対して、本軍として戦場に投入される、織田主力軍。その本軍の旗頭として、柴田・佐久間があり、二人の地方出向後は、瀧川・惟住が両職を勤めていたと考えられます。

 <信長本隊>惟住長秀、惟任光秀の揃い踏み。

 瀧川の関東出向後は、惟住・惟任が着任するかと思いきや、その流れは成長した織田信忠の兄弟、北畠信雄と三好信孝が相続する、織田家一門登用主義が見え隠れし、二人の存在が光秀の未来への失望へも繋がったのでは・・。

 一門主義に対して、信長側室の義妹(妻木殿)が亡くなり、織田家から遠い縁戚となり始めていた、

惟任光秀の焦りも「本能寺」への加速に繋がったのではないでしょうか・・。

もしも、ですが、

 光秀を遠隔地の関東の御番役に任命していれば、三宅氏の配置とともに事が上手くまとまって、本能寺は先延ばしというか、謀反を回避できたかもしれませんね。

近くに置いていたのは、「信長は光秀を信頼していた」ということでしょうね。

 

 各軍団長の地方方面軍が外方へ発展していくことで、

逆に畿内を織田一門(連枝)と側近で固めようとしていることが解ります。  ホームTOPへ  

戦国時代の人々の織田家重臣の評価

 1568年の上洛以前に宿老の森可成と坂井政尚の仲があまりに悪くて、信長様が両家の縁談を取り持ったと伝わります。

織田家中のライバル関係は半端じゃないのでしょう。「清洲同盟」が成立する前の「西三河乱入」に、史書に伝承の薄い森・坂井・佐久間・柴田等の初期重臣の活躍があったのではないでしょうか。信長の年表と 信長初期家老(森 可成・坂井政尚の軍団)

「木綿藤吉(秀吉)、米五郎左(長秀)、かかれ柴田(勝家)に、退き佐久間(信盛)」 1568年入京した頃に流行したらしいですが、織田家の畿内周辺へのPR活動の唄かもしれません。若手の木下秀吉、丹羽長秀に、重鎮の柴田勝家と、佐久間信盛を評しています。織田家四天王の小唄といったところでしょう。

「攻めるも瀧川、退くも瀧川(一益)」1567年北伊勢攻略の旗頭として早くから活躍していた瀧川一益の評判です。上の四天王とあわせて、織田家の五虎将といったところでしょうか。織田信忠さんの軍事的後見人として次代の宿老筆頭の座は揺るぎないところまできていたかもです。

「甕割り柴田」、「鬼柴田(勝家)」1570年頃入洛後に南近江で柴田勝家が、六角残党と力戦していた頃の評価です。強力な武将がいるという宣伝を全国的に展開することで戦わずして勝つという信長の戦略かもしれません。織田家ほど各地で色々な武将と戦った軍団はないので、当時の日本で彼らの名前を聞かないことはなかったでしょう。

 佐久間と柴田は近江の中でも京に近い場所の支配を任され、畿内の中心軍として位置づけられていたのでしょう。東海道は伊勢長島に対する備えで瀧川が西方面、徳川が東方面の分担だったのではないでしょうか。信雄が北畠に入り南紀東方面の担当として熊野に備え、各地域で分担が進んでいたと推測されます。六大軍団となる前に、それぞれの細かな方面軍が実はあったのだと考えています。

「さりとてはの者(秀吉)」1573年毛利の外交僧(安国寺恵瓊)が実務に秀でた秀吉と接して毛利家に伝えた評価です。秀吉さんは本当に仕事の鬼だったのでしょう。指している意味が「覇の者」だったら、この予言すごい!と心の底から思います。

 「人は城、人は石垣」配下武将の剛勇の名前が世間に通っている事は、戦いの抑止力にもなったと考えられます。

 

織田信長の「天下の奉行衆」、戦国の商人衆

織田信長の側近(親衛隊)=赤幌衆・黒幌衆・(馬廻五隊長)信長五奉行

織田信長の旗元・近衛軍(安土衆・子飼衆)

織田信長の動員主力軍=(信長直属の他国先方衆)

 織田家の大軍団長(織田大老衆)

注:軍団長という名称は当時ありません。柴田勝家は自分の立場を「北国表警固(伊達輝宗家臣宛手紙)」「北国御番役(神保長住宛手紙)」と表現しています。

 

 最初に軍事的独立軍団の形成を許可されたもの、桶狭間合戦後の三河進攻以降、

1561年に佐久間信盛は三河国北西部に指揮権ありか。与力に水野信元や、高橋衆(三河に原田氏あり)。

そして外様の松平元康(徳川家康)は1563年の吉良家滅亡に台頭。石川数正や、酒井忠次の下に与力が編成される頃に指揮権か。

その間に柴田勝家・丹羽長秀を中心に、尾張の末盛衆・清洲衆・(守山・岩崎衆)、岩倉衆・犬山衆・品野衆の再編成が行われるか。

1567年頃美濃攻略の際には、森可成・坂井政尚は東美濃に指揮権ありか。火薬の原料、硫黄の産出地を目指しての進出だったのでは。

 森・坂井軍団<信長軍団初期の両旗頭の軍事活動圏>

信長初期家老衆(森 可成・坂井政尚の軍団)、小笠原長忠の軍団、織田水軍衆(松井康之・九鬼嘉隆)

1568年上洛の際には、留守居を担った北伊勢の滝川一益が、東海道の東西を睨んで徳川家康と対になる感じです。

<佐久間・坂井・森と違い、独立軍団の軍団長となっていない柴田が入京時に主要四武将に数えられるのは、美濃三人衆や尾張(小牧)軍の指揮権を持ち、常に信長様の中核となる主力軍を率いていたからなのではないでしょうか(のちの安土城お膝元の豪族達の集合体、安土(近衛)軍を率いる福富秀勝的な立場でしょう)。>

 

1570年代の新領地・南近江の六将の森・坂井・佐久間・中川重政(黒幌衆)・丹羽長秀・柴田勝家。

森・坂井の戦死、中川の失脚により抜けた穴は美濃は川尻秀隆(黒幌衆)・池田恒興、近江は明智光秀・蜂屋頼隆(黒幌衆)を抜擢。

 織田信長の側近(親衛隊)=赤幌衆・黒幌衆(馬廻五隊長・信長五奉行)

1573年朝倉・浅井の滅亡後は畿内の新支配体制を敷き、近江の宿老分割支配が発展し、のちの地方方面軍の成立への土台とし、

1574年北近江を手中にし丹羽・明智軍団を強化し若狭・丹波に向ける。

近江を中心に近畿四分割、北畿内(東・西)、南畿内(東・西)としてブロック分けし、

   北畿西=惟任(明智)、北畿東=惟住(丹羽)、南畿西=原田(塙)→のち佐久間、南畿東=瀧川→のち信雄

という編成が試されていたのではないでしょうか。

 原田・佐久間軍団

 対→六角義賢の家臣団 → 池田・別所・荒木の軍団TOP → 三好長慶(範長)の家臣団 → 本願寺顕如の軍団

   1576年柴田・別喜広正を北陸に派遣。飛騨は金森長近(赤幌衆)の管轄か。

原田直政(赤幌衆)を柴田の抜けた畿内に抜擢、戦死後は1580年まで佐久間信盛を南畿西司令官にという流れ方かと推測されます。

 1576年以降の「信長御名代 織田信忠」を総帥としての畿内平定戦には、佐久間信盛や瀧川一益、惟住長秀、蜂屋頼隆が補佐役として常に戦場に有り、特に織田家の主力として畿内の各戦場に向った瀧川一益(南畿東)、惟住長秀(北畿東)は織田家のお膝元近くに領地を与えられ、畿内先方衆の旗頭として準近衛軍(織田家主力軍)的な役割を果たしていたと考えられます。

  織田信長の動員主力軍=(信長直属の他国先方衆) ・ 織田信長の旗元・近衛軍(安土衆・子飼衆)

 畿内で「戦場常有(常在戦場)」だからこそ「米五郎左・攻めるも引くも瀧川」という異名をとったのでしょう。見方を変えれば、辺境に出された柴田、羽柴、徳川は地方前線の辺境攻略軍団の指揮官に過ぎないのかもしれません。

<地方軍団長は遠征に送られるローマの将軍達のようなイメージです(遠征から帰還しローマに入るときは軍を解体し身ひとつというスタイルに近いのでは)。1580年の佐久間信盛さんの追放時は、軍団を解体させ、その身ひとつで追い出した姿でしたし。>

 秀吉が天下を取れたのは、堀秀政が近衛軍の先遣部隊を率いて中国陣にいたこと、秀吉の兄弟・羽柴秀長が山陰方面の強力な軍団長であったこと、毛利決戦前で兵力が集中していた事という、有利な条件が揃っていたからで、地方軍団長が出世の頂点という今の認識は、どうかと思います。

 という前提で以下を御照覧ください。

 

 

(畿内) 旧 大軍団長

 複数の地方遊撃軍団長を臨時に統率する権利を持つ旗頭を大軍団長とします。六道の大将(六大軍団長)が選定される前の大軍団長です。↓名前をクリックすると、各大軍団長のページに入れます。

<南畿(西)方面軍> 対 石山本願寺・雑賀一揆、三好・松永家 

<初代・塙(原田)直政、二代目・佐久間信盛は没落し、南畿軍団は信長様の近衛軍と、信忠軍団に分割編入され解体。>

  塙 直政 /ban,naomasa(*〜1576原田直政/harada,naomasa(1575年7月任官改名)・九郎左衛門・備中守・直正・正勝。尾張春日井郡比良村出身(大野木村とも)。大和国国主。信長の親衛隊、(元)赤幌衆。1569年伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に尺限廻番衆。1574年5月山城国守護に就任。初代「(仮称)南畿内(西)方面軍軍団長」。1575年3月大和守護職に就任し筒井順慶ら国衆を与力とする。1575年5月「長篠の合戦」に鉄砲隊を率いる。1575年7月改姓。8月「越前平定戦」に従軍。1576年5月石山本願寺の「三津寺攻撃」に討死。織田信秀、織田信長は塙(はなば)家の婿。養子に森忠政。<織田信秀、信長様、柴田勝家と婚姻縁戚。信長様の親衛隊卒で強力な血縁的パイプを持つ武将です。大野木の塙義元が一門ならば、森・林家との繋がりも持ちます。><1568年の上洛以降、出世街道を驀進し与力の三好、松永、筒井、(荒木も?)等を率いる。その動員力から大軍団長としたのですが、信長様が想定していた「職権」を超えて外様衆を糾合し、石山本願寺との「決死の合戦」を勝手にしてしまったから、敗戦により一族が追討されたのでしょうか。><祖が大神・大蔵の原田氏を意識しての改姓ならば、家紋は九州原田氏と同門でしょうか。松永家も自称・原田末裔のようです。三河の高橋近辺に原田氏が所領をもっていますが。奥三河支配を意識しての原田姓受領だったのでは?><松永長頼は丹波内藤氏を継いで、松永勢力圏は丹波に達しているようですから、それを踏襲する方面軍を編成していたならば、もし原田直政が戦死しないでこのまま出世していたならば、光秀はただの与力のままだったかもしれませんね。>

 

<元・織田主力軍旗頭 →南畿内(西)方面軍> 対 石山本願寺・雑賀一揆、三好・松永家 

   ⇔佐久間信盛 /sakuma,nobumori(*〜1582)(作間)・半羽介・右衛門尉。三浦系。尾張譜代の宿老。愛知郡山崎城主。弟に信直。1560年「桶狭間の合戦」に善照寺砦を守備。1568年9月の上洛戦に「箕作城攻囲」に武功。大和に乱入し諸城を攻略。1570年5月近江永原城在番。1571年近江野洲・粟太2郡を与えられる。1572年徳川家康の援軍に出動。1573年7月将軍追放後に河内国・三好義継を攻撃。松永久秀を降す。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆筆頭。1576年5月原田直政の戦死後、二代目「(仮称)南畿内(西)方面軍大軍団長」。1580年石山和議後に失脚。三河刈屋城主。紀州熊野十津川に没す。息に信栄。<与力の荒木、三好、松永、筒井、水野等を率いる。それにしても佐久間半羽介って、「さくまはんぱのすけ」って呼ぶのでしょうか。若い頃はかなり(ばさら)な名前です(はばのすけと読むらしいです)。最初の頃は信長様を温かい目でみてたとか、意外と気が合ってたのかもしれませんね。><結局は石山方面軍(攻囲だけしてればいい)という任務理解が職務怠慢に受け止められたんじゃないでしょうか。本願寺に対峙するだけで、南畿(東)方面(紀州)への領土拡張の意識を失っていたので、南畿(西)担当の本当の方面軍の意味を理解していないと判断されての失脚かと・・。><奥三河の支配を巡って、原田と佐久間はライバルだったのでは?>

対→ 徳川(松平)家康の軍団 → 吉良一揆の軍団 → 今川義元の家臣団 → 斎藤道三、義龍の家臣団 → 六角義賢の家臣団 

 北畠具教の家臣団 → 三好長慶(範長)の家臣団 → 朝倉家の軍団TOP → 本願寺顕如の軍団

 <「石山合戦」を勝利とするならば、勲功者には褒賞を与えなければなりませんが「元寇」の時の鎌倉幕府のように、恩賞の土地がない場合、鎌倉幕府宿老・安達家が潰されて遺領が御家人に配分されたように、織田家重臣筆頭・佐久間家を潰す事が、恩賞の配分の容易な方法だったかもしれません。上げて落とされる三浦一門の悲しい宿命・・・。><信長様が西洋社会のしくみを宣教師から学習していたならば、現状は勲功に対して「土地」配分の段階で、まだ「現金給料制」へは転換していない状況であり、ゆくゆくは、土地を与えすぎた宿老の領地を、召し上げて 「御恩(土地)⇔奉公」の関係を「リセット」 しようとか、考え始めていたかもしれませんね。>

≪大軍団長 個人的感想≫ 佐久間「右衛門尉」も公式の官位となってるんじゃないでしょうか。検非違使・「佐久間(判官)」でよいのかな(妄想。1568年足利将軍を奉じての上洛にきっと宿将衆は褒賞で任官していたことでしょう。後に将軍を追放したことで『公記』では伏せられたのでは。

 1575年「長篠」に武田を破ってから、やっと惟任日向やら筑前守やらの準レギュラーが任官できたんじゃないでしょうか。惟住五郎「左衛門尉」は、準レギュラーが任官する以前にすでに官位を得ていたのでは?というか義経ファンなら左衛門尉で充分嬉しいはず。酒井忠次だって左衛門尉です。官位任官で丹羽長秀が出世から遅れたというのはどうでしょうか・・。

 また、滝川伊予守と、稲葉伊予守が重複するとか、当時の感覚であまり関係ないかもしれません。実際に伊予の国主となってるわけではなく名目上のものなのですから。筑前や日向も支配してるわけでないので、惟任日向の他に柴田日向守がいても変ではないのでは。>

 

       佐久間信盛・塙(原田)直政の軍団   大須賀胤高(康高)の軍団   天下布武に散った武将

六大軍団長 (六道御番役大将・六道衆) 1582年南海道方面軍の成立で六道(六海道)の大将・旗頭が成り立つ。

  辺境独立軍団 六道地方方面軍 <御番役軍>

< ‥豎ぁΝ中山・K摸ΑΝせ獲曄Νセ咳◆Νζ邀ぁ>

 

  1575年以降成立。複数の遊撃軍団(組下大名)に対して動員指揮権を与えられた旗頭を大軍団長と仮称しました。大軍団長の上位をいく指揮権を保有するのは、信長の三人の息子である嫡男・信忠、次男・信雄、三男・信孝のみで、彼らの軍団は六大方面軍とは切り離して考えたいと思います。

日本統一の為の六大方面軍(大軍団の担当地域)があり、その六大軍団の旗頭となるもの 銑Δ六大軍団長と仮称しました。徳川家康は松平信康を殺害した時点で同盟者という立場ではなく、圧力に屈して確実に従属しているものと判断しました。軍団長の名前と官位、軍団配置(担当先)のそれぞれで信長様の遊び心がみられます。>

 

<元・織田動員主力軍旗頭 →北陸方面軍(北陸道御番役軍)> 対 越前・加賀・越中一向一揆、越後上杉家  <対の将・梁田(別喜)広正が没落し、柴田勝家が旗頭として一本化。> (*年号=生没年あやしい印)

   ⇔柴田勝家 /sibata,katuie(*1525〜1583)権六・修理亮。斯波系。最初の室は飯尾尚清の妹。尾張譜代の宿老。織田信勝の後見人。1553年7月「海津の合戦」、1554年「清洲城攻略」に軍功。1556年8月林秀貞と結び、織田信長の失脚を謀るが「稲生の合戦」に敗れる。以降、信長に忠節を尽くし、1568年上洛に従う。1570年5月近江長光寺城主。6月佐久間信盛とともに「落窪の合戦」に六角氏残党を撃破。1573年将軍義昭との抗争では京に出陣。<この間、明智光秀の出世に嫉妬>1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1575年から越前国主として八郡を領する。「(仮称)北陸方面軍大軍団長」。1577年加賀攻略に瀧川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉を率いる。1580年加賀平定。1581年「京都馬揃え」に参加。与力の佐々成政に越中、前田利家に能登が与えられる。1582年には越中魚津城まで進出、「松倉城攻囲」の陣中で「本能寺の変」を知る。原田直政は婿(直政は同世代のようなので勝家の姉妹か?)。息に勝里、勝敏。<与力から前田利家、佐々成政、佐久間盛政、柴田勝豊が(組下)遊撃軍団長に出世。><瀧川、丹羽、羽柴、池田、明智なにかしら信長様と縁戚のようです。柴田、佐久間が織田家と一切かかわりがないとは思えません・・。秀吉の時代に敗者は織田との接点を消されたのでしょう。><お市の方以前の妻には、やはり飯尾氏の娘だったようです。越前の本に記されているようです。>

 柴田軍団<大軍団が分裂して新たな軍団長が生み出される様子は、秀吉軍団の成立を踏襲している事例ではないでしょうか。金森長近は第二の秀吉とも言えるかと。>

 対→ 今川義元の家臣団 → 斎藤道三、義龍の家臣団  六角義賢の家臣団  北畠具教の家臣団 → 三好長慶(範長)の家臣団

 → 朝倉家TOP → 浅井長政(賢政)の家臣団 → 本願寺顕如の軍団 → 上杉家の軍団TOP

東海道(西)・南畿(東)方面軍・「織田動員主力軍旗頭」・中山道方面軍 →関東・陸奥方面軍(中山道御番役軍)第一軍> 対 上杉家(北条家)*信長甲州入りから威嚇行為で挑発。「本能寺の変」により越後表から撤退。) <瀧川一益軍団が上野国にて成立し、北条・上杉の楔となる。>

   ⇔瀧川一益 /takigawa,kazumasu(*1525〜1586)(冨永)・左近将監・入庵。上野国国主。近江大伴系冨永氏(家紋の木瓜から伴氏)。近江の甲賀の野侍の代表として重臣に抜擢される。信長の乳兄弟・池田恒興と親戚。織田信長の婿(信秀の娘か)。1567年北伊勢攻略の旗頭として活躍。1568年2月北伊勢の長野・神戸両氏に織田一族を養子縁組に和平。伊勢長島一向一揆の抑えとして敢闘。1572年頃からは京畿の行政に係る。1573年義昭との起請文では林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家と連署。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。一揆鎮圧後、北伊勢五郡を長島城で統括。伊勢長島城主。この頃から織田信忠の軍事行動に遊撃軍(織田動員主力軍の一角「東翼」)として従軍。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。荒木村重謀反に際し摂津に出動し有岡城を攻略。1582年の織田信忠の「甲斐乱入」では、信忠の後見として従軍。武田勝頼を天目山まで追い詰め討取る軍功。上野国と信濃2郡を拝領する。「関東八州の御警固番役、東国取次ぎ役」「(仮称)関東・陸奥方面軍大軍団長」。「本能寺の変」前は北信濃の森長可を援護して越後表に出陣。娘婿に柴田勝敏。<織田家と婚姻関係、池田家とは親戚関係にある。与力に津田秀政、道化、真田、内藤、小幡等。><家康は上洛中、一益は越後上杉家に向っていたということは、関東の北条は川尻秀隆が一人で抑えていた、ということで一益さんは東北に睨みをきかせる任務だったのでしょうか。><一益の取次ぎで奥州の諸大名がこぞって馬・鷹を献上しています。><大和から柴田勝家が去ったあと縁戚の原田直政が「旗頭」に抜擢されたように、摂津は、瀧川一益が関東に去ったあとを、縁戚の池田恒興が留守番として配置されたのでは。そして「清州会議(瀧川に代わり池田)」への伏線が出来たのでしょうか。><のち秀吉の時代、蒲生氏郷が瀧川一益軍団の遺臣を多く抱えていたので、経験値をあてにされて陸奥に配置されてしまったってことはないのでしょうか。> 織田信長の動員主力軍=(直属の他国先方衆)

 瀧川軍団<瀧川一益軍の畿内での主体的な軍事活動圏>

 対→ 今川義元の家臣団 → 北畠具教の家臣団 → 本願寺顕如の軍団 <織田主力軍(東翼)→浮田・池田・別所・荒木の軍団TOP 武田家(晴信・義信・諏訪勝頼)家臣団 →<「甲州攻め」に信忠の後見>→ 上杉家の軍団TOP  北条家(北条氏政・氏直)家臣団

北畿(東)方面軍・「準近衛軍・織田主力軍旗頭」 →南海道方面軍(南海道御番役軍)・織田家執事

北畿方面: 対 若狭武田家 越前国一向一揆 安土城普請

南海道方面: 対 四国・長曾我部家 <雑賀一揆(土橋家) 高野山> <南海道方面軍は*三好信孝を総指揮者として、惟住長秀が後見。>

   ⇔丹羽長秀 /niwa,nagahide(1535〜1585惟住長秀/korezumi,nagahide(1575年7月改名)・五郎左衛門尉。児玉系丹羽氏。尾張譜代の宿老。信長兄・織田信広の娘婿。1568年上洛戦に従い、「箕作城攻略」に武功。京畿の行政に係り、明智光秀・中川重政・木下秀吉とともに奉行。1570年「姉川の合戦」では徳川家康軍の与力となり奮闘。1571年2月「佐和山城攻略」。近江佐和山城主。犬上郡を領する。「(仮称)北畿内(東)方面軍大軍団長」。1570年頃から若狭を伺い、1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1573年朝倉滅亡以降、若狭国国主。1574年越前一向一揆の蜂起に対して、不破光治を加えた北畿(東)方面軍が機能。1575年7月改姓。越前守は辞退。1575年8月の越前国「一向一揆征伐」に北畿方面軍が機能。1576年安土城普請総奉行。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。石山本願寺開城後は蜂屋頼隆とともに大阪の軍事に携わる(織田動員主力軍の一角「西翼」)。四国出征予定。「(仮称)南海道方面軍*軍団長」。甲州攻めの瀧川的な立場では」。<馬揃えの『公記』の記事に記入される五郎「左衛門尉」が官位として公式に認められていれば、検非違使の「惟住判官」と呼ばれてもおかしくないということでしょうか、義経の様にOO判官と呼ばれるのが照れくさくて「五郎左でけっこう」といっての惟住五郎左だったりして・・(妄想。

 惟住軍団<美濃の池田郡・不破郡の部将も浅井領と面し、警戒態勢にあったはずで、横山城在番の木下秀吉が一人で浅井軍団を抑えきったとは考えられません。勝者(天下人秀吉)の歴史の中での「歴史改ざん」なのでは。>

 対→ 斎藤道三、義龍の家臣団 → 六角義賢の家臣団 → 三好長慶(範長)の家臣団 → 浅井長政(賢政)の家臣団 →<織田主力軍(西翼)→ 浮田・池田・別所・荒木の軍団TOP>→ 長宗我部元親の家臣団

 長秀管轄の若狭国は室町初期に一色家富裕の収入の根源といわれた重要な国です。経済に明るい丹羽長秀にかかる期待が伺われます。筆頭・佐久間信盛軍団に匹敵する7ケ国の人工を集めて安土城を築城し、そこから織田家の中心をなす常備軍の人材や、内政に関わる才能(官僚)などの人材発掘にも多大な貢献をしたことでしょう(美濃侵攻に秀吉及び浪人の集う川並衆を活用したのも実は長秀さんでは・・)。敦賀の武藤、和泉の蜂屋が湊を抑える役割を果たしていたなら、長秀さんの軍団は畿内の豊富な資金を抑えた織田家主力の「常備軍」足りえたのでは・・。

常備軍(遊撃軍団の集合体)→ 織田信長の動員主力軍=(信長直属の他国先方衆達 その旗頭 惟住・瀧川)

 甲斐乱入で信忠に瀧川一益が副えられた様に、信孝の四国征服戦では、惟住長秀が後見人として実質的な責任を担っていたと考えています。 なので私の偏見で「(仮称)南海道方面軍大軍団長にします。与力軍団長に縁戚の蜂屋頼隆、津田信澄 等。顕如の退去後、大阪城(石山本願寺)本丸に入り、熊野水軍の杉若無心との婚姻関係からして西国を睨む人事だったのでしょう。石山撤退後の大坂では次の拠点となる本願寺跡地の整備を行っていたのかもしれません。「大坂城」は秀吉が建設する前に既に長秀・信澄達がおこなっていた可能性もあるのでは・・。>

<* 信孝は信忠さんと同じく地方軍団長の地位よりも、もっと上位「信長御名代」の地位にいるような気がしています。一門衆NO.3なので。嫡男・信忠を方面軍軍団長とは呼びませんので、兄弟である信孝をただの方面軍軍団長とすることに自分の中では抵抗感があります(ただの一武将として育てられたとしても、この時点では将才を認められたのでは?)。ここで信孝を南海道方面軍軍団長とする通説とは認識が違ってしまいますので、HPを読んでいる方はご理解下さい(自分の妄想ですw)。 ということで、六大方面軍の南海道代表は惟住長秀さんで推します(謎)。

 その後のことを想像していくと、信忠さん(または北畠信雄さん)が東方征服担当、三好信孝さんが西方征服担当の軍事指揮者となり、頼朝兄弟達のように天下統一に向かい役割分担して望むことはありえないのでしょうか。 織田政権の歴史が続いていたなら、どう織田軍団が発展していったのか、信長様の死後、2人が織田に復姓し信忠さんの織田家継承のライバルとなってくことはないのか、「下剋上」をより楽しめたことでしょう。>

 

北畿(西)方面軍・準近衛軍 →中国(北)方面軍(山陰道御番役軍)> 対 一色家 波多野家 赤井家(長曾我部家とは同盟::::対 三好家) 

(織田家内部抗争 対 秀吉) 秀吉配下、羽柴秀長・宮部継潤軍団の山陰道進出により、領土拡張域を分断される。

  明智光秀 /akechi,mituhide(*1528〜1582惟任光秀/koretou,mituhide(1575年7月任官改名)・土岐・十兵衛・日向守。美濃土岐系。妹・妻木殿(*〜1581)が織田信長の側室。1568年9月頃から歴史の表舞台に登場、美濃衆・越前衆・幕府衆の織田方の最右翼として重臣に抜擢される。1571年近江国坂本城を築城。「(仮称)北畿内(西)方面軍大軍団長」。1573年には旧主・足利義昭が追放される。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。北畿の平定に軍功。1580年赤井・荻野・波多野氏を攻略、1581年丹波国国主。「(仮称)山陰方面軍大軍団長」。丹波亀山城主。没年には55歳 or 67歳説がある。養女の娘(妻木氏)婿に村井貞成。息に光慶。<後醍醐帝の頃から天皇に献身的な土岐源氏。>

<琵琶湖制圧に「大筒」が登場しますが、光秀が「囲舟」とともに製造し導入したものでしょうか。信長様に買われたのはそういう「新兵器」を導入する才能かもしれません。><経歴については明らかでない部分が多いですが、立身出生ぶりから濃姫や土田氏つながりで美濃国主・斎藤道三や織田信長に近い縁があったのでしょう。妹(妻木殿)が信長側室だったならば、妹死亡で1581年に準一門の地位があやうくなっています(『多聞院日記』)。>

<摂関家の九条・近衛家の家人は姓に「惟」を含める様なので、上杉家から織田家に鞍替えした武家伝奏の近衛殿あたりから名字を送られたのではないでしょうか。武家に横領された貴族の荘園に居座る戦国大名を討伐することの大義、伝統を尊重する謙信に対して「近衛(摂関家)」を楯(大義)として、信長様が宣伝情報合戦に利用できるものは利用しようという合理的な選択をしたのかもしれません。近衛家と秦氏との関連から、山城丹波は秦氏系の武人を意識し、若狭は惟宗(島津)家の武人を意識してのものだったのではないでしょうか。>

<変後、光秀が吉田兼見等の後押しで征夷大将軍に任官されていた、という説もありますが。鞆ノ浦から再び将軍を擁立しようとした手紙はなんだったのでしょうか?。まったく別に朝廷(近衛?)は光秀を擁立しようとしていたのでしょうか。ということであれば、光秀は操り人形であり、光秀を謀反に誘う計画を立てた主体者は、信長の政権を望まなかった京都貴族達だったということになるかもしれません。>

  惟任軍団

 対→ 朝倉家の軍団TOP → 足利 義昭の家臣団    三好長慶(範長)の家臣団 → 戦国中国地方の豪族家臣団 → 長宗我部元親の家臣団  

<「甲州攻め」従軍、信長本軍。惟住・惟任軍団が揃い踏み。><瀧川一益が関東の御番役になり、自分は動員主力軍の旗頭になったと勘違いしたのかもしれませんね。>

<惟任さんは本能寺直前に南條氏の下にいる元尼子家臣で石見の豪族・福屋隆兼とも連絡していることから、山陰道で頑張ろうという気持ちはあったようです(カモフラージュかなあ・・・)。信長様的には、やはり山陰道方面軍の主力を任される予定だったのでは。><天下統一後の構想を、もし信長様と宿老が語り合っていたとすれば、自ら「天主(生き神)」を目指す、何もかもを突き抜けたところへ「イッテ」しまっている発想の信長様の考えを聞いて、光秀さんなりに全力阻止したくなるほどの恐怖(伝統秩序の崩壊と、日本の行く末の恐ろしさ)を感じたのかもしれません。「本能寺の変」の原因は光秀の思い描く「常識的な美しい秩序の天下」と、信長様の思い描く先駆的「絶対君主的な天下」へのズレが、根底にはあるのかもしれませんね。光秀からの長岡藤孝への手紙の文面から考えると、光秀の思い描く「天下」の方が正しくおもい、それをつくりたくなったのかもしれません。 信長様がよく言う「天道」的に、今回は私が正しいと・・。いろんな細々とした要因と、実行を決断する「大義」とが、光秀の中で重なりあったのが1582年6月2日なのでしょう。>

 

北畿(東)方面軍与力・準近衛軍 →中国(南)方面軍(山陽道御番役軍)> 対 毛利家 (浮田・別所・荒木・山名)

(織田家内部抗争 対 光秀) <弟・秀長の軍功により山陽道→山陰道に戦線拡大し、同じ軍団長格の惟任光秀の領土拡大を阻止。> 

   ⇔木下秀吉 /kinosita,hideyosi(1536〜1598)羽柴秀吉/hasiba,hideyosi(1574年改名)・木下・藤吉郎・筑前守。弟に秀長(長秀)。尾張愛知郡中村出身、生駒家に寄食。1554年頃織田信長に直仕(津島堀田家で仕官とも)。尾張の農民・野侍の代表として重臣に抜擢される。1565年に信長の書状に副状を発給。1568年上洛に丹羽長秀とともに軍功。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1574年近江国長浜城を築城。播磨国国主。「(仮称)山陽方面軍大軍団長」。弟・秀長が山陰方面に進出し、兄弟で中国方面軍。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。次男となる養子・羽柴秀勝は織田信長の息。<信長様の人材登用の象徴です。下層の階級から天下を取りました。><三好家当主が代々「筑前守」です、本願寺との対立もしくは三好家を意識して畿内に高名な「筑前守」を選んだのでは?><与力軍団長の荒木、別所に離反されるが、支配を強め宮部継潤(養子に秀次)、羽柴秀長、浮田忠家(直家の弟)、黒田孝高等が台頭。秀吉の跡は養子・織田秀勝が継承予定となり準一門衆の出世安泰コースを作る。><九州制圧戦にて長崎の湊の光景を見て恐怖し、伴天連禁止・南蛮貿易禁止に走ったそうですが、信長様なら同じ光景を見てどう反応したことでしょう。秀吉ではなく信長様が天下統一して九州まで行ってほしかったです。>

 羽柴軍団:羽柴兄弟が光秀の領土拡張先を分断。

 対→ 斎藤道三、義龍の家臣団 → 六角義賢の家臣団 → 朝倉家の軍団TOP → 浅井長政(賢政)の家臣団 → 浮田・黒田家の軍団TOP → 三好長慶(範長)の家臣団 → 毛利家の家臣団 TOP   長宗我部元親の家臣団

東海道(東)方面軍→関東方面軍(海道御番役軍)> 対 (北条家)*信長甲州入りから威嚇行為で挑発。 

<徳川家康軍団は対今川・武田の役割を終え、対北条家への次段階へ進む。先祖・松平長親は(主筋の?)伊勢早雲と争う。>

   ⇔松平元康 /matudaira,motoyasu(1542〜1616)徳川家康/tokugawa,ieyasu(1566年に改称)。母系は吉良家重臣の大河内氏。織田信長の同盟者。嫡男・信康は信長の娘(徳姫)婿。今川、武田の西進を抑えきった。「(仮称)元・東海道方面軍大軍団長」。「(仮称)関東方面軍大軍団長」。1567年息子・岡崎(徳川)信康は織田信長の娘婿となり織田一門化。三河守の官位、徳川姓を得る。1568年上洛戦には藤井・松平信一が旗頭。信長の命で娘(亀姫)婿に奥平信昌。秀康、秀忠誕生により対立する嫡男・信康を自害させる。<祖父・松平清康さんの偉業により、生まれながらに三河の戦国豪族。先祖が無名(押大臣・日野勝光や伊勢貞宗と結びつきのある松平氏後裔か?)の勢力から天下を取りました。度重なる火事場泥棒、一番油断ならない御仁です。東海道方面軍旗頭の地位を争うライバルである小笠原長忠も家康が見捨てたということでしょう。><息子の信康とは深刻な対立関係にあったようです。長じるに及び疎遠というか、武田信玄と義信のような戦国時代の親子関係なのでしょう。>

<家康を殺すつもりだったんじゃないかと書いてる書は、信長在命中の頃のものなのでしょうか?「本城」という下端兵士が、謀反軍に参加した自分を納得させるため、もしくは自分は謀反と関係ないと、処断されず生き残るために、知らなかったと嘘をついているのでは?。

実行犯が第三者を装っているのでは?。犯人の言い訳を鵜呑みにして良いものでしょうか?。>

 徳川軍団

 対→ 今川義元の家臣団   武田家(晴信・義信・諏訪勝頼)家臣団 → 北条家(北条氏政・氏直)家臣団

<1582年「本能寺の変」がなければ、北条家に対して川尻秀隆と徳川家康どちらが主導権を握ったでしょう・・。伊勢氏の代官だった松平氏、その子孫の後北条氏と徳川の関係・・。もう少し「本能寺の変」が後だったら、その辺がはっきりしたことでしょう。上洛した家康を殺害する予定だったのではという話も、今まで忠節を尽くしてる家康相手にどうしてそのような話がのぼるのか。それは、当時の人たちは後北条(伊勢)と徳川(松平)の、昔の主従関係(朝倉と浅井のような)を知ってたからじゃないでしょうか。><秀吉の天下で徳川家康が「関東移封」に素直に従ったのも織田信長在命中の規定路線で既にあった話しだったからかもしれませんね。>

<武田滅亡後も駿河・甲斐・上野の土地を、武田攻めの協力者・北条家に一寸たりとも恩賞としてあたえなかったのは、「本能寺の変」後の北条家のあっさりとした離反ぶりから、信長様はのちに敵対関係となるのは明白なくらいの圧力を、北条に対しかけていたのではないでしょうか。やっぱり滅ぼす予定だったのでしょう。信忠さんのもとに婚約者の「武田松姫」が迅速に送り届けられないことは、「人質」という意味だったんでしょう。> 

 

《六大軍団長 個人的感想》

 畿内の制圧と治安維持を主目的とし、お膝元を支える軍団こそ織田家の主力軍といえるのではないのでしょうか。佐久間信盛→瀧川一益→惟住長秀は、織田領縁辺に飛ばされた地方方面軍軍団長よりも格上ということじゃないのでしょうか?。

(のちの石田三成に対する福島正則、加藤清正のような、中央と地方の関係。地方(福島・加藤)が中央(石田)に嫉妬する関係。)

 本社の(総務)部長と、地方支社の(営業)部長と、どっちがエリート?みたいな感じです。当時も中央の事情に通じる人の方が何かと有利なんじゃないでしょうか?今もてはやされる柴田、羽柴、徳川、明智は所詮は地方の司令官でしかないのではないでしょうか。

 秀吉が信長側近の長谷川秀一に腰を低くして、数々の贈り物攻勢をしていたことは有名な話です。

「本能寺の変」後の結果論から求める今の歴史認識は、先学の先入観から離れられてない硬直したものなんじゃないでしょうか。

昔の歴史家が情報の取捨選択により知らず知らず自分のイメージを反映してしまい、後世の我々が、先代の歴史家のその手のひらの中で踊らされていることもありえるのでは?

それに、いつの時代も、権力者に都合よく情報の隠蔽、抹消、捏造が行われているのでしょう。勝ち残った秀吉や、家康による情報操作のやりたい放題です。

 このHPで、なにかが変わって、これから先の日本史好きな方々の織田家の家臣団を考える中での瀧川、惟住の評価が向上していけばと思います。

本来は、惟住(丹羽)長秀は織田家随一の武将だったと思います。 

 → 織田信長の動員主力軍=(信長直属の他国先方衆達と、その旗頭 惟住・瀧川)

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織田信長の近衛軍(近江衆を直轄化し安土衆と呼ぶ)と、準近衛軍<遊撃(方面軍)軍団長> 注・近衛軍という名称は当時ありませんからっ(汗。

   信長直轄軍団

赤色旗元(旗本)馬廻衆=直轄近衛軍 *在安土衆。 ピンク色黄色=準近衛軍・遊撃軍団 *馬廻他国衆(直轄地派遣型)。

黄土色=瀧川一益旧領、関東移封により収公予定地。

* 在安土衆と他国衆=1582年正月安土惣見寺参拝の区分。「平が天下統一の本営ですね。さすが信長様、まさに「神の軍団」w。

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   織田信長の動員主力軍=(直属の他国先方衆達 その旗頭 惟住・瀧川)

 織田信長の近衛軍<旗元(旗本)馬廻衆>

 *五奉行(福富・菅屋・堀・長谷川・矢部)は軍団長の上を行く指揮権を持ち別格の立場。

近衛軍隊長→ 織田信長の親衛隊=赤幌衆・黒幌衆(馬廻五隊長・五奉行)のページへ

<右近衛大将・織田信長の率いる軍団ということで、任官とともに「近衛軍」成立と考えてもいいのかな(妄想。朝倉義景との決戦に信長様の旗元衆が単独で大獄砦を強襲、この部隊が育って「安土衆(近衛軍)」として編成されたとしたいと思います。大獄強襲に間に合わなくて急いで駆けつけた佐久間・柴田の率いる織田家主力部隊、これが形を変え育って、瀧川・惟住の率いる「織田家主力軍(準近衛軍)」となると理解しました。>

信長直属 遊撃軍団長(織田家中老衆・(遊撃)軍団長格)

信長直属の与力(馬廻衆から)選ばれ、旗頭(軍団長)として指揮権を与えられた(直轄軍の)指揮官。

<元・信忠軍団与力→東海道方面軍・中山道方面軍→関東方面軍(海・山道軍)第二軍・兼 織田信忠軍団>

 対 北条家 <川尻秀隆軍団が甲斐国にて成立し、北条への抑止力となる。>

*信長甲州入りから威嚇行為で挑発。「本能寺の変」後の明確な敵対行為は織田と北条の間柄が良好ではなかったということでしょう。)

川尻秀隆 /kawajiri,hidetaka(*1527〜1582)河尻・与兵衛・(鎮吉・重遠?)・肥前守。愛知郡岩崎村出身。信長の親衛隊、(元)黒幌衆筆頭。1542年信長の父・織田信秀に従い「小豆坂の合戦」に軍功。信長弟・織田信勝を誅殺。1560年「桶狭間の合戦」、美濃「堂洞城攻略」、近江「佐和山城攻略」に従軍。1575年美濃岩村城主。信長の嫡男・織田信忠を補佐し武田家に隣接する東美濃の重鎮として国境線で敢闘する。1580年4月安土城下に馬廻衆として屋敷を与えられる。「(仮称)元・中山道方面軍(副)軍団長」。1582年信忠の「甲斐乱入」に従い、のち甲斐国主、府中城主。「(仮称)関東方面軍(副)軍団長」。「本能寺の変」後徳川家康煽動の国人一揆に敗北し戦死。56歳。息に吉治、秀長。<もと清洲衆。信長の親衛隊(黒幌衆)卒。瀧川一益が上野国人を与力としていたごとく、甲斐国人も川尻与力となっていたはずです、本能寺後の徳川の領土搾取により史実が歪められているかと思われます。与力(組下)に毛利秀頼、木曽義昌、穴山信君が配属されていたとすれば、甲斐口からの相模・北条氏への威圧と、徳川家に対する圧力もその役割のうちであったかと想像されます。川尻軍団も池田恒興軍団と同じで、織田信忠さん付属の信忠軍団副軍団長のままなのか、信長様の遊撃独立軍団長となったのかは以降の動向からも不明です。><高木清秀が甲府にて家康に臣従とあるので川尻与力として在国か。><1580年4月安土城下に馬廻衆として屋敷を与えられる。=息子が与兵衛と名乗り馬廻衆か? 織田信長の親衛隊(赤幌衆・黒幌衆)旗元衆

<元・惟住長秀軍団与力→北畿(東:若狭)方面軍→南畿方面軍=南海道方面軍第二軍> 

北畿方面: 対 若狭武田家 越前国一向一揆。

南畿方面: 対 紀伊雑賀衆(土橋) 毛利水軍 高野山。 南海道方面: 対 長曾我部。

 蜂屋頼隆 /hachiya,yoritaka(1534〜1589)(土岐)・(般若助)・兵庫頭・出羽守。美濃出身。土岐、斉藤家の旧臣。元・黒幌衆のひとり。丹羽長秀の妹婿。河内・和泉衆の旗頭。近江国肥田城主。斎藤道三を支持し加治田衆の佐藤忠能に追われる。早くから信長に出仕し、1551年今川家との「赤塚の合戦」に先手足軽衆・蜂屋般若介の名が見られる。<1556年道三に従った美濃蜂屋氏は義龍に討伐される。>1569年8〜10月伊勢「北畠氏攻略」に従軍。1570年「姉川の合戦」に従軍。1572年織田信忠初陣の「江北出兵」に従軍。1573年4〜7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍、9〜10月北伊勢「長島一向一揆」攻撃に従軍。1576年4〜5月「本願寺攻囲」に従軍。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1578年4月「石山本願寺攻囲」に従軍。1578年5〜7月播磨「三木城攻囲」に従軍。1578年10〜1579年11月荒木村重の「有岡城攻略」に従軍。1581年2月京都馬揃えに与力衆を率いる。1582年「甲州乱入」に従軍し、信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。和泉国岸和田城主(高野山方面の担当として神戸信孝を補佐するか)。<美濃衆ともされますが、金森長近は美濃在住ではないので、同郷の侍なら近江金森に在住だったことがあるのでしょうか。><蜂屋般若助・金森五郎八は信長様同世代の かぶきもの仲間のような関係でしょうか。初上洛の時「異形の者おおし」と書かれるほど目立つ集団だったのでしょう。><蜂屋頼隆は南河内・紀伊方面(高野山方面か?)から南海道・四国阿波方面に、織田信張は紀伊雑賀方面担当として淡輪方面の軍事や、雑賀の鈴木孫市を支援するか。><蜂屋般若助は1569年伊勢大河内城攻略に戦死とも。一門の別人だったのでしょうか。>

 織田信長の親衛隊(赤幌衆・黒幌衆)旗元衆

 

<元・信忠軍団与力→東海道方面軍・中山道方面軍→中国方面軍(山陽軍)第二軍・兼)織田信忠軍団>

 対 毛利家。

*池田恒興 /ikeda,tuneoki(1536〜1584)(瀧川)・勝三郎・紀伊守・経与・経興・勝入・(信輝)。愛知郡荒子出身。木田城主。尾張譜代衆。池田恒利の息。織田信長の乳兄弟。信頼厚く旗本の中核となる一族。縁戚の瀧川一益を信長に仕官させる。1561年美濃「十四条の夜合戦」に佐々成政とともに軍功(敵将・稲葉某を討つ)。1563年美濃「新加納の合戦」では敗北。1569年対北畠氏の「伊勢侵攻」に従軍。与力の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死。1570年「姉川の合戦」に従軍<惟住長秀とともに徳川軍の加勢にまわり朝倉軍を撃破したとも、これが江戸時代の脚色なく真実か?>。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1574年2月織田信忠に従い川尻秀隆(神箆城主)とともに東美濃の「明智城救援」に従軍し小里城主。1574年7〜9月「伊勢一揆平定」に従軍。1575年「長篠の合戦」に従軍。1578年荒木支城の「花隈城攻略」に軍功。荒木村重討伐後の摂津の支配者に抜擢される。羽柴秀吉の与力として中国陣に加入の予定。摂津国有岡城主。息に之助(元助)、輝政。<一時、東美濃で織田信忠の後見人的な役割をしていたと考えられます。畿内で信忠軍団が松永久秀征伐、雑賀征伐、別所、荒木征伐に活動し、次に武田攻略に動きはじめたので、畿内の抑えとして信忠軍団から、旗頭として抜擢され、武田攻めには畿内の留守番をしていたのかもしれません。><信忠領内の準方面軍・軍団長。織田家と縁戚関係となることが約束された中川清秀、信忠さんと縁戚関係である塩川長満、摂津は織田家色が浸透していきます。><それにしても恒興さんが稲葉良通の一族を討ち取っていたとは、「小牧長久手」は、秀吉・稲葉ラインで仕組まれた「信忠軍団排除」の敗戦だったかもしれませんね。>

 

美濃旗頭=南畿(西)方面軍>

 南畿方面:対 高野山 毛利。

*稲葉良通 /inaba,yosimichi(1515〜1588)(河野・新治)・林良通・彦六・一鉄・右京亮・伊予守。美濃出身。通則の六男。5人の兄が戦死した為、美濃国崇福寺の僧侶から還俗(1525)。斉藤道三の西美濃三人衆のひとり。永禄10(1567)年頃斎藤龍興を見限る。天正7年に家督を貞通に譲渡し清水城に引退。信忠軍団と息子の後見人的役割を勤めたと考えられる。1569年8〜10月伊勢「北畠氏攻略」に従軍。1570年「姉川の合戦」に従軍。1570年三好三人衆の「野田・福島城攻撃」に従軍。1570年9〜12月朝倉勢と近江「坂本の対陣」に従軍。1571年5月伊勢「長島一揆攻撃」に従軍。1572年織田信忠初陣の「江北出兵」に従軍。1573年4〜7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年朝倉「大づく砦攻略」先手衆。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1574年7〜9月伊勢「長島一向一揆」殲滅戦に従軍。1575年5月「長篠の合戦」に従軍。1575年8月「越前一向一揆征伐」に従軍。1576年4〜5月「本願寺攻囲」に従軍。1578年荒木村重の「有岡城攻略」に従軍。本能寺以降は美濃を統一する野心を持つとされるが、惟任勢(美濃土岐一族)と対決するための足場固めを行っていたと推測される。秀吉に仕え73歳で没する。息に重通、貞通。娘婿に斎藤利尭、丸茂兼利。<美濃の道三側近の林家、尾張の信秀宿老林家は分家。森家は林家の縁戚。><斉藤利三や那波の件で多大な迷惑をかけています。信忠の下で勢力を伸ばす稲葉一族に、明智一族が危機感をもっていたのでしょうか。>

 

<南畿(東)方面軍第二軍=中伊勢・伊賀旗頭・兼織田信忠軍団>

 南畿方面: 対  高野山 熊野

長野(織田)信包 /nagano,nobukane(1543〜1614)織田長兼・平・(工藤)・三十郎・上野介・信良。信秀四男または六男、信長の弟。長野(工藤)藤定の娘婿となる。1569年北畠具教の息子、長野具藤を追い北伊勢の豪族長野家に養子に入る。伊勢長野城主。織田信忠を補佐し畿内を転戦。のち1580年津田一安に代り伊勢上野から安濃津(津)城主へ。1581年9月「伊賀平定戦」に加太口大将。副将に瀧川雄利。伊勢衆を従え乱入。伊賀山田郡を拝領する。<細野・雲林院氏など、旧家臣を次々放逐。信澄も養父・磯野員昌を追っているので、信包さんの器量が(汗)・・・とかではなく、養子乗っ取り政策の一環なのでしょう。><細野氏の追放など、信雄による北畠氏の粛清のような事件が、長野氏でも信包により起きていたようですね。><信忠領内の準方面軍・軍団長。>

 

南畿(西)方面軍=和泉旗頭>

 南畿方面: 対 本願寺(荒木) 高野山 雑賀(土橋)

織田信張 /oda,nobuharu(1527〜1594)津田寛廉・又六郎・(藤左衛門)・太郎左衛門・左兵衛佐・(信純?)・信弘。大垣(大柿)織田氏。清洲三奉行・藤左衛門系の織田氏。室に織田信康(信秀の弟)の娘。織田信直の父。尾張小田井城主。1570年近江国比叡山攻囲に参陣。1577年2月紀伊「雑賀攻略」に従軍。戦後、佐野城城主。信長の軍団長として活躍、和泉衆を率いる。1582年1月蜂屋頼隆の四国渡海に備え和泉岸和田城主。和泉岸和田城にあって、紀伊国の攻略、紀伊衆の支配を担当。変後、信雄に仕える。68歳。孫に信氏。<大垣城主の藤左衛門家分家の織田播磨守の系統。><清洲三奉行、藤左衛門家の分家出身のようです。前田利家のように信長様の圧力で本家を相続するか。><一時、織田越前守とも・・。幌衆だったのでしょうか。><蜂屋頼隆は南河内・紀伊方面(高野山方面か?)から南海道・四国阿波方面に、織田信張は紀伊雑賀方面担当として淡輪方面の軍事や、雑賀の鈴木孫市を支援するか。><徳川家康さん以上に良き同盟者であり、部下だったのかもしれません。>

北畿(西:丹波・丹後)方面軍・中国方面軍(山陰道)第二軍>

 対 一色家 波多野家。

 ⇔長岡藤孝 /nagaoka,fujitaka(1534〜1610)三淵藤孝・細川藤孝・興一郎・兵部大輔・幽斎・玄旨。山城国出身。1573年長岡に改称し長岡藤孝。三淵晴員次男、細川元常養子(足利義晴の落胤とも)。幕臣・三淵晴員の長子、藤英の兄弟。沼田光廉の娘婿。1565年将軍・足利義輝が下克上され落命。一乗院覚慶(足利義昭)を伴い各地を流浪。足利義昭の家老。1568年上洛。山城青龍寺城主。蒲生賢秀とともに信長と同年生まれ。天正元年から信長に臣従する。1573年3月上洛した信長に忠節を誓い臣従。光秀とともに畿内旧勢力の対抗馬として抜擢され山城西岡を与えられる。1573年、長岡と改姓。1573年4〜7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1575年5月「長篠の合戦」に従軍。1576年4〜5月「本願寺攻囲」に従軍。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1577年織田信孝の一手の将で大和国信貴山城攻略。1578年正月安土万見邸にて信忠とともに信長茶会に列する重臣12人のひとり。1578年播磨「三木城攻囲」に従軍。<貴種です。信長様と同年生まれということで親近感をもたれていたのでしょうか。>1580年惟任光秀とともに丹後を平定、丹後国国主。宮津城主。山陰方面軍(副)軍団長。のちの細川幽斎。息子・長岡忠興は明智光秀の婿。<もと幕臣。南北朝時代のバサラ大名・佐々木道誉的な雰囲気をもつ戦国大名だと思います。和歌を通じて上杉謙信と親しく1577年頃から連絡が密なのは謙信の上洛に備えての事でしょうか、怪しい。><修験者を飼い情報戦に通じたらしいですが、1580年頃から織田家と険悪となる修験の総本山・高野山との係わりが気になるところです。><丹波・丹後を平定した時点で北畿方面軍はその役割を終え、山陰道方面軍へと移行するものかと推測されます。><藤孝養女の娘婿に松井康之。>

 

南畿(中央)方面軍=大和旗頭>

 南畿方面:対 本願寺(荒木) 高野山

筒井順慶 /tutui,jyunkei(1549〜1584)興福寺・藤勝丸・六郎・陽舜房。大和出身。三好家の同盟者・筒井順昭の息。大和国添下郡筒井を領する豪族。代々興福寺一乗院衆徒。1550年父の死により叔父・筒井順政の後見で家督。大和平定を狙う松永久秀と抗争。三好三人衆と結び松永を追い詰めるが、1568年織田軍の上洛により、足利義昭の直臣として松永久秀が君臨する。1571年から松永久秀の織田家に対する謀反の兆しあり。筒井家は織田に通じる。1574年美濃国岐阜にて織田信長に拝謁、直参となる。1575年3月大和守護・原田直政の与力となる。1576年5月大阪石山本願寺表で旗頭・原田直政が戦死。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1577年松永久秀の「信貴山城攻略」に従軍。1580年佐久間信盛追放後に大和国の旗頭となる。1581年京都馬揃えに惟任光秀に従い入場。1581年「伊賀平定戦」に大和衆を率いて「大和口」従軍。1582年「甲斐乱入」に従軍。信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。<すさまじき縁戚関係です、恐るべし筒井勢力。1582年「本能寺の変」の際、在京し急報を聞き急ぎ脱出した(多聞院)。惟任光秀とは同心というわけでもなく別行動予定の様子です。><信長様は信孝や信澄の大和守護志願をけっているので、信長様的には筒井家を婚姻で織田家に取り込む予定だったんじゃないでしょうか。ひょっとしたら淀殿とか、三姉妹の誰かを養女にして縁を結んでいたかもしれんせんね。>

<北河内・南畿(西)方面軍=南海道方面軍第一軍・阿波旗頭>

 対 土佐・長曾我部。

三好康長 /miyosi,yasunaga(*〜*1584)孫七郎・山城守・康慶・咲岩。阿波出身。三好長秀の息。三好長慶の叔父、三好家の長老。三好三人衆と同盟し、松永久秀と対立。河内にて久秀与党の畠山高政と抗争する。1568年の織田軍の入京に際し阿波に渡海とも。1569年1月山城本圀寺に足利義昭を攻撃。1570年本願寺と結び摂津野田・福島城に拠って織田軍と戦う(織田方・野村越中を戦死させた)。松永久秀、三好義継が織田に反すると、これと結び河内高屋城を占拠し挙兵。1575年4月に高屋城を攻略され降服。その後、織田信長に出仕。1576年4〜5月「本願寺攻囲」に従軍。一族の安宅信康を織田方に勧誘。息子の式部少輔を信長に帰属させる。畠山氏没落後、南河内をも支配。織田信孝を養子に迎え、阿波守護とされる。のち秀吉に仕え羽柴秀次を養子とする。河内国高屋城主。<貴種です。>

 三好家勢力図。←康長の知る三好家全盛期

 → 三好長慶(範長)の家臣団

 織田信長の旗元・近衛軍(安土衆・子飼衆)

 大軍団長付属(組下・与力の大名・小大名)、

 各方面軍に振り分けられ信長直属の度合いが少ない武将。しかし命令優先度は信長様に勝るものなし。長篠合戦の独立部隊、酒井忠次・金森長近など。軍団長よりも信長の命令優先。

 織田領内の軍団の総大将は織田信忠。信忠の下で次世代の軍団が編成されてゆく。

1582年時点では、信忠の直参衆は中山道軍、与力に東海道東方面軍。

織田家主力軍団・織田信忠の近衛軍(尾張・美濃)と準近衛軍(西三河・信濃・飛騨)→ 信忠領内 準方面軍・軍団長  

畿内に残した信忠の軍団、準近衛軍(摂津・北伊勢)→ 池田恒興・長野信包の軍団 

遊撃軍団的な織田水軍(志摩・堺)→ 織田水軍衆(九鬼嘉隆) 

 

 <↓信長直轄軍?>

旧・東海道西方面軍(織田主力軍・近衛軍)→発展(信忠援軍<武田攻め>)→中山道・関東・陸奥方面軍>

瀧川一益の軍団  ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。瀧川姓を与えて疑似一門衆を増産。

瀧川益氏 /takigawa,masuuji(一益甥) <1582年越後、春日山城にむけて進軍>

佐治益氏 /saji,masuuji(一益甥)

津田秀政 /tuda,hidemasa(一益娘婿、織田一門衆でもある。)

瀧川一忠 /takigawa,kazutada(一益実子、真田昌幸の娘婿)

⇔本多正重 /honda,masasige(三河国衆) <織田に従う本多家>

⇔本多正晴 /honda,masaharu(三河国衆)

⇔関 盛信 /seki,morinobu(伊勢国衆) <伊勢平氏の末裔>

《個人的感想》 娘婿の山城・河島、南大和・秋山、伊勢の木造・木全氏との縁は畿内主力(準近衛)軍時代に有効だったことでしょう。

 

 <↓信忠軍団>

東海道東方面軍→発展→関東方面軍> 

徳川(松平)家康の軍団   ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。

松平信一 /matudaira,nobukazu(三河国衆・藤井松平)<1568年家康の代わりに三河衆を率いて上洛。>

酒井忠次 /sakai,tadatugu<三河一揆(吉良家臣団)首領・酒井党の分家。「長篠の合戦」に独立部隊。>

石川数正 /isikawa,kazumasa<三河一揆(吉良家臣団)首領・石川党の分家。家康息・岡崎信康の処分後は遺領の旗頭。>

奥平信昌 /okudaira,nobumasa(三河国人・山方衆)<父・貞能は1550年代後半に織田家に通じて討伐されています。><東三河の牧野氏と血縁の奥三河の領主。「長篠篭城」の活躍で「信」の字が与えられ、家康長女の娘婿となることを信長に命じられる。家康よりも織田家に近い気がしますが。>

 1582年後北条氏に対して配置された、三河の豪族たち、

⇔松井康重 /matui,yasushige(東条松平家の陣代の家柄)<力量で下剋上か>

⇔三宅康貞 /miyake,yasusada(幅広い基盤をもつ三宅氏)

⇔牧野康成 /makino,yasunari(戦国時代三河東部の英雄家)

大須賀康高(千葉胤高)の軍団  /ousuga,tanetaka<三河一揆(吉良家臣団)首領の家柄。榊原家と親戚。本来は信長様が認めたうえでの与力としての付属でしょう。軍団は流浪の吉良家旧臣団で構成されるか。「上杉禅秀の乱」に千葉家配下の大須賀氏従軍。>

《個人的感想》 駿河攻略により三河・遠江の有力者が本貫地から切り離されて北条家との国境に配置されています。牧野・松井・三宅・久能・戸田など将才のあるものに信長様の引き立てがあったと考えてもいいのじゃないでしょうか。

<畿内(織田主力軍)→中山道方面軍→次期・近衛軍>

斎藤長龍 /saitou,nagatatu(信忠の御名代として飛騨・越中乱入、河田長親を破る。)

団 忠正 /dan,tadamasa(尾張譜代・信忠側近)

金森長近 /kanamori,nagachika(元・美濃土岐家、近江浪人)織田信長の親衛隊(赤幌衆 <織田信長と相婿(斎藤道三娘)。越前衆ながら柴田軍団からは別行動。「甲州乱入」に信忠軍団。><信忠領内の準方面軍・軍団長。>

毛利秀頼 /mouri,hideyori(旧・斯波家臣団) 織田信長の親衛隊(赤幌衆

森 長可 /mori,nagayosi(林家縁戚)<父・森可成の貢献度で、織田家宿老の家柄として重んじられるか。1582年越後春日山城に進軍。>

川尻秀隆 /kawajiri,hidetaka(旧・斯波家臣団)<信忠領内の準方面軍・軍団長。>

 

<↓秋田城介・信忠軍団に編入予定か>

北陸道方面軍→発展→出羽方面軍> 前田・佐々・(小名、不破・原)は信長直属の場合もある。

前田利家 /maeda.tosiie(佐久間氏与力)南畿(西)方面軍にも従軍。 織田信長の親衛隊(赤幌衆

佐々成政 /saxtusa,narimasa(余語氏縁戚) 織田信長の親衛隊(黒幌衆

不破勝光 /fuwa,katumitu(父は元・美濃衆)甲州征伐に従軍。

原 長政 /hara,nagamasa(父は元・美濃衆)

柴田勝家の軍団  ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。

⇔織田順元 /oda.nobumoto(尾張譜代・織田氏)幼少の蒲生氏郷に請われ自身の名馬を譲った織田金左衛門。

⇔拝郷家嘉 /haigou,ieyosi(尾張譜代)

⇔亀田宗俊 /kameda,munetosi(加賀国衆・溝口家と縁)

佐久間盛政 /sakuma,morimasa<叔父・佐久間盛重の貢献度で、織田家宿老の家柄として重んじられるか。>

柴田勝豊 /sibata,katutoyo<叔父・柴田勝家の貢献度で、織田家宿老の家柄として重んじられるか。>

⇔松平康定 /matudaira,yasusada(三河国衆)

《個人的感想》 金森長近は、1575年長篠にも参戦し、1582年甲州乱入にも従軍。北陸軍団とは別働隊のようです。斎藤道三を通して信長様とは相婿でもありますし、別格なのでしょう。

 

<↓信長直轄軍>

旧・北畿(東)方面軍(織田主力軍・近衛軍)→発展→南海道(四国地方)方面軍>

惟住(丹羽)長秀の軍団  ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。

溝口秀勝 /mizoguchi,hidekatu(信長直参に抜擢)

青山宗勝 /aoyama,munekatu(尾張譜代)

粟屋勝久 /awaya.katuhisa(若狭守護代家)

武田元明 /takeda,motoaki(若狭守護家)

武藤康秀 /mutou,yasuhide(元・若狭国衆、旧一色家(若狭守護)家臣か)<美濃道三家臣に武藤氏あり。高力氏の祖は熊谷家。>

⇔松原直元 /matubara,naomoto(越前国衆)

⇔成田重政 /narita,sigemasa(尾張譜代)

⇔江口正吉 /eguchi,muneyosi(尾張譜代)

織田水軍衆(松井康之) (信長側近・松井友閑の甥)

《個人的感想》 人材の宝庫。

 

<↓信長直轄軍>

旧・北畿(西)方面軍→発展→(準近衛軍・主力軍<武田攻め>)→格下げ?→山陰道方面<追加>

 <1582年以降、山陰方面軍の羽柴秀長・宮部継潤と、本格的に旗頭の上下関係を競うこととなるか。>

惟任(明智)光秀の軍団 ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。 明智姓を与えて疑似一門化。

明智(三宅)秀満 /akechi(miyake),hidemitu<三河出身とすれば佐久間家に恨みあり。1580年の信盛追放に関連ありか。>

明智(猪飼野)秀貞 /akechi(ikaino),hidesada(近江堅田衆)

明智(川勝)継氏 /akechi(kawakatu),tuguuji(丹波豪族)

明智(小畠)伊勢千代丸 /akechi(obata),isechiyomaru(丹波豪族)

明智(三沢・溝尾)秀次 /akechi(misawa・mizoo),hidekatu<信長から与力として付属させられるか。>

《個人的感想》 惟任軍団が甲州乱入に織田主力軍を形成する「準近衛軍」と昇格したのに、1582年山陰道方面軍にまわされ、しかも山陽道方面軍の配下に位置づけされそうな雰囲気に、軍団内に失望感が漂ったのでしょうか。

⇔伊勢貞興 (1571年に足利義昭の政所執事。兄・貞為も健在)

⇔革嶋秀存 (山城西岡衆、瀧川・長岡・溝尾と婚姻関係、佐竹氏は同族)

<↓信長直轄軍>

山陰・山陽統括、中国地方方面軍

<山陽道方面軍> 

羽柴(木下)秀吉の軍団 /hashiba(kinosita),hideyosi ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。

羽柴(織田)秀勝 /hasiba(oda),hidekatu(信長実子・息)

蜂須賀正勝 /hachisuka,masakatu(尾張国衆)<本来は信長様が採用を認めたうえでの与力としての付属でしょう。>

浮田秀家 /ukita,hideie(備前国衆)

黒田孝高 /kuroda,yositaka(播磨国衆)黒田孝高の家臣団

花房職秀 /hanafusa,motoide(美作国衆) <後年、秀吉と対立するのも、信長から付属された対等な立場という意識が強かったためか。>

<山陰道方面軍>

<この軍団は1580年以降、丹波を平定した惟任光秀と山陰道旗頭の上下関係を競うこととなるか。信長様の息子が軍団の中にいたということが有利に働きました。>

羽柴(木下)秀吉の軍団 ←詳しくはこちら

↓注目したい与力大名。  

羽柴(木下)秀長 /hasiba(kinosita),hidenaga(独立した軍団長)<伊勢攻略に、兄の名代として予想外に活躍し、将才を信長様が認めていたようです。>

宮部継潤 /miyabe,keijyun(独立した軍団長)<信長死後、秀吉が心を砕いて機嫌を損ねないようにしています。立場は対等な武将だったのでしょう。羽柴秀次は信孝が三好康長の養子になった後に宮部家入りか。>

前野長康 /maeno,nagayasu(尾張国衆)<本来は信長様が採用を認めたうえでの与力としての付属でしょう。>

《個人的感想》 秀吉が天下を取れたのは、実弟が軍団長の地位にいたということで、他の軍団長より兵力的にも2倍有利だったということでしょう。

 

 織田信長の旗元・近衛軍(安土衆・子飼衆)

直属 遊撃小軍団長(子飼若頭衆) 独立小部隊で単独行動を許された指揮官。

 四国方面に第二世代(信長の子飼衆)登場。

浮田・池田・別所・荒木の軍団TOP 新風に飲み込まれる中国方面の小名。

 <池田元助、生駒一正のコンビ>

信長の嫡男・織田信忠世代の若手武将 畿内摂津表で稼動。他方面では森長可、蒲生氏郷、細川忠興など着々と次世代武将が成長・・。

惟任光秀や稲葉、柴田、瀧川、川尻などの老将達も焦るほどの、下からの突き上げがあったかもしれません。

南海道方面軍 第三軍・淡路方面軍・兼織田信忠軍団>

 対 土佐・長曾我部。

*池田之助 /ikeda,motosuke(1559〜1584)(瀧川)・勝九郎・紀伊守・元助。尾張譜代衆。恒興の嫡子。伊勢貞良の娘婿。塩川長満の娘婿、織田信忠の義兄弟。池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中きっての若手将校。武に秀でる。1574年2月織田信忠に従い東美濃の「明智城救援」に従軍し、川尻秀隆(神箆城主)とともに小里城主の父・恒興を助けて東美濃にて武田家との前線を支える。1578年摂津有岡城の付砦・倉橋砦守将。荒木元清の籠る「花隈城攻略」に貢献。1581年京都馬揃えに父に代り参加、弟・輝政を従え入場。父と行動を別とし旗頭として軍事活動、1581年11月淡路島に上陸、岩屋城を制圧する。安宅清康を降し安土に同行する。1582年甲州征伐に従軍。信長本軍として諏訪に在陣、人数もち諸将に名を連ねる。摂津伊丹城主。変後、美濃大垣城主。長久手に散る。26歳。<四国征伐組で動くと推測される。羽柴隊とは協力しつつ信長様直属として別行動のようです。池田家の子孫に之の字を用いる人が多いのですが、元助じゃなくて池田之助がほんとは正しいのでは・・。><西の之助(元助)、東の長可といった感じの若手の猛将の両雄です。><池田輝政の家臣団に瀧川旧臣が多くいるかもしれませんね。瀧川から池田に改姓しているとか。><蒲生氏から、真田氏に流れて、「大坂の陣」に滅んだ、アウトロー系の瀧川衆もいるかもしれませんね。突拍子なく付けられた真田幸村(信繁)の「幸」の名も、瀧川家の婿、親戚・池田繋がりで、「之」の字からの流れなのかもしれません。>

*生駒一正 /ikoma,kazumasa(1555〜1610)(土田)・三吉・正俊・讃岐守。尾張譜代衆。生駒本家は尾張の商人。秀吉の臣・親正(近規)の息。信長小姓の大塚又一郎と義兄弟。信長の室・生駒殿(尾張の豪商生駒氏の娘)の縁戚で、信頼厚く旗本の中核となる一族。1570年惣領・生駒家長が「越前攻略」の陣中で信長の盾となり負傷し、代役として戦場での活躍が期待された。将才あり、信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中きっての若手将校。父と行動を別とし旗頭として軍事活動、1577(天正5)年3月紀州雑賀攻め、荒木村重の有岡城攻囲にも参戦。摂津の高槻城在番。中国攻めの与力の父(生駒親正)とは別行動。のちに讃岐国で17万石。<羽柴秀吉の水軍として淡路に派遣されたりする生駒親正、仙石秀久組とどう関わっていたのか謎です?><父親の親正は秀吉さんの古参与力なので四国より中国地方に働くのではないでしょうか。生駒一正が独立して淡路に派遣されていたのなら、父とは別に一正が四国組だったので豊臣天下で生駒家が四国の大名となるのも、本能寺以前からの流れ的に自然だったのではないでしょうか。讃岐国の領地は父・親正よりも、世代的には息子の一正に与えられた気がします。彼の事績も父親の名に埋もれてしまった感じがします。>

 

北畿(東:若狭)方面軍・南畿西方面軍=南海道方面軍 第三軍>

 北畿方面: 対 若狭武田家 越前国一向一揆。

 南畿方面: 対 紀伊雑賀衆(土橋) 毛利水軍 高野山。 南海道方面: 対 長曾我部。

*津田信澄 /tuda,nobusumi(1557*1558〜1582)織田信澄・(柴田・磯野)・坊丸・七兵衛。織田家一門衆。織田信勝(信行)の息。父・信勝は1558年に暗殺された為、柴田勝家の元で養育される。越前一向一揆征伐に参陣。1576年頃、浅井家家老・磯野員昌の養子にだされ近江大溝城主。1578年近江国高島郡の領主。明智光秀の娘婿に迎えられる。1580年石山本願寺と和睦ののち摂津国石山城主(二ノ丸在番とも)。大阪城城下町の都督。三好信孝の与力として四国に出陣予定。「一段の逸物也」。<ゆくゆくは惟任光秀の跡職や、西国平定の軍団長として重用されたことでしょう。>

南畿方面軍=南畿方面軍(高野山攻囲軍)>

 南畿方面: 対 本願寺(荒木) 高野山 雑賀(土橋) 熊野。

岡田重孝 /okada,sigetaka(*〜1584)助三郎・小三郎・長門守・直景・直孝。尾張星崎城主。岡田重善の息。父・重善は織田信秀の郎党で小豆坂の七本槍の一人。織田信長直参馬廻衆。1573年朝倉追撃戦に軍功。1581年10月「高野山攻囲」に神戸信孝に従い、松山新介とともに一手の将。紀の川口。1582年1月大和口から高野山に侵入し敗退。のち織田信雄に仕え信雄三家老(津川・浅井・岡田)のひとり。<森長可よりも、池田元助よりも、更にマイナー武将ですけど、すごく重要人物だとおもいます。><本能寺の変ののちに信雄の家臣となったようです。信孝の指揮下にもいたので信頼されなかったのでしょうか。><岩倉織田家の分家の娘婿が岡田姓ですが、関連ありでしょうか。>

 

南畿方面軍=京都治安維持軍> 織田家臣にとって京都と安土どちらが首都だったか・・。

 南畿方面・北畿方面後詰:対 本願寺(荒木) 高野山 雑賀(土橋)。

村井貞成 /murai,sadakatu(*〜1582)作右衛門・(貞盛)。尾張譜代衆出身。上山城衆の旗頭。京都の都督(警察長官)。京都所司代・村井貞勝の息、織田(原田)信正と従兄弟(名乗り村井重勝とも)。母が織田一族(準織田一門)。明智光秀娘(妻木氏から養女)の婿。1569年伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に尺限廻番衆⇔織田信長の親衛隊。1573年将軍追放後、父・村井貞勝が京都所司代に抜擢される。1578年8月安土相撲に奉行。1578年11月摂津「有岡城攻囲」に従軍。高槻城在番。のち有岡城在番。1581年2月馬揃えでは根来衆・上山城衆も率いる。1582年「本能寺の変」に二条御所にて討死。<父親は織田家の雑掌だったといわれていますが、彼は立派な武人に成長したようです。惟任光秀軍団の侵入を許した責任は京都の警察長官である貞成の責任でもあるわけですが・・・。信長様、信忠さんも油断していたし、ここは光秀の軍略を賞賛すべきなんでしょう。><室町幕府の所司代、伊勢伊勢守・貞孝のような立場に将来はあったかもしれません。>

第二世代の武将たち、彼らがその先に見据えていたものは→ 大友義鎮の家臣団     竜造寺隆信の家臣団     島津義久の家臣団

 《個人的感想》 歴史の闇に埋もれてしまってますが武田家との前線を維持した、初期の隊長で元今川家臣・小笠原長忠の率いる高天神衆(のち離反)、後期の隊長で元吉良(酒井)家臣・大須賀胤高(康高)の横須賀衆(のち川尻秀隆を陥れる)、どう扱ってよいのか悩むところです・・。家康の与力ではあっても、部下じゃないのでは?。一門の松平家忠でさえ日記では「家康」と呼び捨てです・・。西三河の高橋衆も家康配下ではなく佐久間信盛の与力だったのではないでしょうか。

 川尻秀隆、池田恒興も長年、東美濃にて武田を相手に旗頭(遊撃軍団長)。野々村正成(雑賀攻め)、松井康之(鳥取城攻め)、九鬼嘉隆(対毛利)、金森長近(飛騨乱入)、斎藤長龍(越中乱入)、福富秀勝(能登平定)、菅屋長頼(能登平定)もただの部隊長に留まらず、臨時に一手の軍団長としての活動が見られます。

 

朝倉義景の家臣団    斎藤道三、義龍の家臣団   武田信玄の家臣団 その1   今川義元の家臣団

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 *軍団の編成は歴史の通説とは違うところにいっていますが、理解の仕方は人それぞれ、「我考えるゆえに我有り」 勝手に放談というHPなので、ご容赦ください。 

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織田家の系譜、織田一門・一族(連枝)衆

信長の年表と 初期家老(重臣)森可成・坂井政尚、遠江旗頭・小笠原長忠(今川家旧臣)の家臣団と軍団

信長の親衛隊(側近)=黒幌衆と赤幌衆(馬廻五隊長・五奉行)、小姓衆

織田信長の旗元(馬廻衆)・近衛軍(安土衆(城下集住武士団)・子飼(人質育成・j第弐世代)衆)

織田信長の本軍を形成する織田動員主力軍=(信長直属の他国先方衆)

織田信長の「天下の奉行衆」、戦国の商人衆

畿内管領の佐久間信盛・塙(原田)直政の家臣団

織田信忠の家臣団 その1 信忠の親衛隊(次期近衛軍)

織田信忠の家臣団 その2 信忠領内準方面軍(次期動員主力軍)・軍団長

東海道方面軍先陣・大須賀康高(千葉胤高)の軍団

山陽道方面軍先陣旗頭・浮田直家の家臣団と軍団   

山陽道方面軍の先陣旗頭・尼子勝久の軍団

黒田孝高の家臣団  引用参考文献は主に谷口克広さん、小和田哲男さんの著作です。特に『織田信長家臣人名事典』は、のめりこみますよ。

趣味で「小説家になろう」に信忠さんの冒険小説も書き出してみました、よろしければご笑覧ください。→ 織田信忠ー奇妙丸道中記ー

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