足利高氏(足利尊氏)の家臣団と軍団・一門衆、室町幕府の創業に貢献した武将。

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「 我生命を縮めて、三代の後に天下を獲らせたまへ。 」

 −足利家時−

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 足利高氏(足利尊氏)の家臣団と軍団 後醍醐天皇と南朝の軍団

足利高氏 (1305〜1358)足利尊氏・又太郎・治部大輔・武蔵守・左兵衛督・鎌倉権大納言・征夷大将軍・大御所。足利貞氏の息。母は上杉頼重の娘。三河・上総守護。1331年9月「元弘の乱」に笠置山に籠城した後醍醐天皇を討伐する大仏貞直軍に従軍。1332年再び挙兵した後醍醐天皇を征伐するため名越高家に従い従軍。1333年丹波篠村にて鎌倉幕府から離反する。1335年「北条時行の乱」に関東出征。1338〜1358年征夷大将軍に在位。京都室町に幕府を開く。1350年「観応の擾乱」に弟の直義と対立。

足利直義 13061352)兵部大輔・左馬頭・相模守・右兵衛督・征夷副将軍・関東鎌倉府執事・忠義・高国・下御所・三条殿・錦小路殿。尊氏の実弟。1333年後醍醐天皇軍討伐、足利家上洛軍編成。1335年「北条時行の乱」に敗走。1350年「観応の擾乱」に一時南朝に降る。配下の有力大名に、桃井直常、斯波高経、山名時氏、上杉憲顕、石塔義房、石塔頼房。別働隊の桃井直常が宇都宮氏綱に敗戦。遠江「薩垂(さった)山の合戦」に、畠山国清に破れる。1352年尊氏の命により鎌倉にて毒殺される。

<(義氏流)足利一門衆>第二世代

足利 (*〜1333)竹若丸。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質となる。1333年伊豆走湯山蜜厳院別当の叔父・宰相法印覚遍(良遍)と脱出の際、伊豆にて死去。

足利直冬 (1326〜*1400)新熊野。中国探題。尊氏の庶子(長男)。直義の養子。鎌倉東照寺の僧侶。直義により一門に加えられる。1348年紀伊征伐に軍功。1349年中国八カ国の探題職に就任。山名時氏(中国山陰地方)、少弐頼尚(北九州地域)と結ぶ。1350年今川直貞を肥前に乱入させ平定。一色範氏を豊後に敗走させる。1351年養父・直義が高兄弟を討ち、直冬は九州探題就任。高家の家人・杉原又四郎の襲撃を受け、磯部左近将監が応戦。家人・川尻幸俊の所領九州肥後に落ちる。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年養父・直義は鎌倉にて畠山国清に毒殺される。石堂頼房・吉良満貞の協力で南朝と和睦。桃井直常・山名時氏・斯波高経に擁立され1353年京都乱入。一色範氏と大友氏泰に大宰府を奪取される。石見国を根拠地とする。1355年山名時氏・師氏、桃井直常、斯波高経と次男・斯波氏頼と結び入京。1363年細川頼之に敗北し備後・安芸を失う。1366年以後消息不明。

⇔▽足利義詮 (1330〜1367)千寿丸・鎌倉大納言・坊門殿・左馬頭・左近中将・征夷大将軍・権大納言・足利宰相。尊氏の嫡子。母は北条(赤橋)久時の娘。渋川義季の娘婿。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇討伐に父・尊氏が出陣。人質として鎌倉に入府。1333年新田義貞の後見で鎌倉幕府を討幕。鎌倉を実質的に占拠し、新田義貞は上洛する。1349年尊氏の意向で上洛。1358年父の死により家督。1358〜1367年二代目征夷大将軍に在位。1365年ごろ足利幕府の安定をみる。

⇔▽足利基氏 <鎌倉公方1349〜1367>(1340〜1367)亀若丸・鎌倉公方・入間川殿。尊氏の息。母は北条(赤橋)久時の娘。1349年兄・足利義詮の上洛により、関東公方として鎌倉に下向。高ノ師冬・上杉憲顕を執事とする。1350年「観応の擾乱」に上杉憲顕が新田義興・義宗と結び反乱。「武蔵野の合戦」に撃破。畠山国清を執事とする。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義派敗北。1358年新田義興を謀殺し鎮圧。1363年専横する畠山国清を罷免。上杉憲顕を再び執事とし関東管領にする。「宇都宮氏綱・芳賀高名の乱」を鎮圧。鎌倉府10カ国を平定する。病没。28歳。息に足利氏満。

 足利将軍家の変遷

 

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  征夷大将軍足利高氏(尊氏)公 肖像のつもり(地蔵似らしいです)。

後醍醐天皇と南朝の軍団

 

足利尊氏曰く、

 

「 我らが天下を獲りしは、この置き文の志による。 」

 - 今川貞世 談 -

  室町 今川貞世の家臣団

   足利尊氏(足利高氏) (1305〜1358)略年表 

15歳(1319) 高氏元服。

20歳(1324) 9/19:後醍醐天皇の倒幕計画発覚「正中の変」。

21歳(1325) 8/*:佐渡配流、、日野資朝。

27歳(1331) 5/*:再び後醍醐天皇倒幕計画。8/27:笠置山に篭城。9/*:楠木正成挙兵。幕軍高氏、笠置山城攻囲。9/28:笠置落城。

 東海道に足利系、中仙・北陸道に新田系。尾張・三河武士の全国展開。

28歳(1332) 3/*:後醍醐天皇隠岐配流。11/*:護良親王・楠木正成挙兵。

29歳(1333) 1/*:赤松則村挙兵。2/24:後醍醐天皇隠岐脱出。4/*:幕軍高氏上洛。丹波にて挙兵。5/7:六波羅襲撃。5/29:新田義貞鎌倉攻略。「元弘の乱」

        6/*:尊氏拝命。12/*:成良親王・足利直義、鎌倉下向。

30歳(1334) 建武の新政。11/*:足利直義、護良親王鎌倉に幽閉。「建武の争乱」へ。

31歳(1335) 7/25:北条時行「中先代の乱」。鎮圧のため関東下向、8/19:尊氏叛乱・天下とりへ。12/11:箱根、「竹の下合戦」、新田軍撃破。

32歳(1336) 1/11:京都制圧。1/27:北畠顕家に敗北。2/*:九州上陸、「多々良浜の合戦」、5/25:「湊川の合戦」。

        6/3:京都制圧、比叡山攻囲。執事・高ノ師重の戦死。10/*:後醍醐天皇降伏。11/*「建武式目」制定、北朝成立。「南北朝の対立」

 関東方面軍の成立と、西国の要所に一門有力庶家を配置。

33歳(1337) 3/*:高ノ師泰軍「金ヶ崎攻囲」攻略落城、尊良親王・新田義顕自害。12/24:北畠顕家南下し鎌倉、斯波家長討死。

34歳(1338) 2/*:斯波高経・家兼、新田義貞に敗北。5/*:高ノ師直軍「天王寺・石津の合戦」北畠顕家、和泉にて戦死。7/*:新田義貞、越前「藤島の合戦」にて戦死。8/11:「征夷大将軍」任官。京都室町足利幕府

35歳(1339) 8/*:後醍醐天皇崩御。

36歳(1340)

37歳(1341) 12/*:遣元使「天竜寺船」。

38歳(1342)

39歳(1343) 11/*:北畠親房、吉野帰朝。結城親朝を誘降。

40歳(1344)

41歳(1345) 8/29:「天竜寺供養法要」

42歳(1346)

43歳(1347)

44歳(1348) 1/*:「四条畷の合戦」

45歳(1349) 4/*:足利直冬、長門探題任命。9/*:足利基氏、鎌倉公方任命。

46歳(1350) 10/*:足利直冬挙兵。11/*:足利直義出奔。「観応の擾乱」。尊氏出陣、直義追討のため発京。

47歳(1351) 2/*:尊氏降伏。高師直・師泰誅殺。8/*:足利直義出奔。10/*:南朝和睦、直義追討令。「足柄山の合戦」に勝利。

48歳(1352) 1/*:足利直義没。2/*:南朝軍京都占領。7/*:北畠顕信の多賀城落城。

49歳(1353) 後光厳天皇を奉じ入京。

50歳(1354) 4/*:北畠親房没。足利直冬に敗北し近江に退避。

51歳(1355) 懐良親王、博多占領。直冬を破り入京。

52歳(1356)

53歳(1357) 

54歳(1358) 斯波高経を誘降。4/30:足利尊氏没。細川頼之軍、足利直冬追討へ。

 

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足利高氏(尊氏)・直義 兄弟の御由緒家一門家臣団

 1336年九州から上洛。「湊川の合戦」に、新田義貞に勝利し入京。

 1345年天竜寺供養に従軍、一番隊山名、六番隊斯波、七番隊天童、八番隊一門衆序列は吉良・渋川・畠山・仁木・細川。

 一門衆(第一世代1200〜1320)  青文字=直義派。 赤文字=尊氏派。

(尾張足利) 尾張家

 

斯波高経 (1305〜1367)尾張弥三郎・尾張修理大夫。北陸探題。直義派。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。1336年高氏西国落ちに、守護・厚東太郎(武実)とともに長門を守備。1349年「観応の擾乱」に直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1355年足利直冬・桃井直常と結びに応じて京都乱入。1362年7月足利義詮の代に幕府管領職に就任した斯波義将を後見、室町幕府に安定をもたらす。1363年一門の石橋和義を失脚させる。1366年興福寺と争い失脚。1367年義詮の追討軍との陣中に病没。62歳。<九州落ちに西国に配置されるか。>

細川孝基 (*)出羽守・孝元・高元。細川出羽守と兵庫助は斯波家の両大将と呼ばれる軍事的旗頭。1338年新田義貞の越前統一に対し、斯波高経・鹿草兵庫助とともに「足羽の攻防戦」に安居にて軍功。総大将・高ノ師直に従い細川頼春軍として、若狭表に出陣し「藤島の合戦」にて鹿草彦太郎とともに新田義貞を討取る。<鹿草一門が与力か。><斯波家に仕える細川とも、細川庶流なのでしょうか。それとも斯波家が特別な一門ということか。>

大崎家兼 (*1295〜1356)斯波・彦三郎・式部大夫・伊予守・時家。奥州管領。斯波高経の弟(庶兄か)。若狭守護職。1337〜1338年新田義貞と抗争。1347年奥州探題に就任。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1351名生城を築城。名生城主。1351年「観応の擾乱」に尊氏派の奥州探題・畠山国氏が滅亡。1353年足利直義派の奥州管領・吉良満家を追討するため、次男・最上兼頼(1315〜1379)を出羽国に派遣。家督は長男・直持が継承する。<生誕年が変。>

↓▽大崎直持 (*1327〜1383)斯波・彦三郎・左京大夫。大崎家兼の嫡男。1352年若狭守護代として若狭衆を率い足利義詮を救援。1354年奥州管領の父に従い奥州入り。1354年幕府から正式の奥州管領職。中新田城を拠点とする。息に大崎詮持。<「直」の字は足利直義が下賜したものか。生誕年が変。>

最上兼頼 (1315〜1379)斯波・竹寿丸・修理大夫・出羽大将。大崎家兼の次男。1337〜1338年新田義貞と越前に抗争。1347年頃父とともに奥州に移住。1356年日本海側の抑えを任され出羽国山形に居を構える。新田(里見系)天堂氏に弟・義宗を養子に送り従える。兄・大崎直持とともに奥州を支配。

石橋和義 (*〜*1386)尾張三郎・左衛門佐・三河守・左近将監・氏義・尾張親衛。足利家の御一家、斯波氏一門。石橋義博の息。三河国吉田を領する。宗家の斯波高経に従い従軍、1336年西国落ちの際に、松田盛朝とともに備前三石城を守備し脇屋義助を抑える。備前国大将。尊氏の上洛に山陽方面の武家を率いる。1337年伯耆国、1339年備後国・若狭国の守護を歴任。幕府引付頭人・評定衆を勤める。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年以降後半期に尊氏派、山名時氏と抗争する。1363年斯波親子と対立し失脚。息・棟義は奥州探題。<九州落ちに西国山陽道に配置されるか。>

石橋宣義 (*)尾張・治部大輔。石橋和義の息。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。

↓▽石橋棟義 (*〜*1386)斯波・尾張。石橋和義の息子。斯波家一門。2代将軍・義詮から奥州の軍事指揮権を与えられ、吉良満家の弟・治家を討伐する。その後も奥州に留まるが1386年に没落。<斯波同族・大崎直持の援軍として奥州に派遣されるか。>

 

斯波家の家老となる織田家のページ↓

織田信長の家臣団と軍団 top (街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、 直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}

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(下野足利)

渋川義季 (1314〜1335)刑部大輔。足利家の御一家。上野国渋川荘を領する。渋川貞頼の息。姉は直義の室。将軍・足利義満は娘婿。1334年関東厩番、一番頭人(六番編成の一番隊隊長)。鎌倉にて渋谷氏の反乱を鎮圧。1335年「北条時行の乱」に武蔵国「女影原の合戦」に敗れ自害。娘は将軍・義詮の室。<関東の重鎮。>

石堂義房 (*)四郎・宮内少輔・四郎入道・入道秀慶・義慶。三河党。石堂頼茂の息。1333年駿河分郡守護代。1334年から駿河国・伊豆国守護を歴任。1335年西国落ちに紀伊に派遣される。紀伊旗頭。斯波家長の戦死後、1338年二代目奥州総大将になる。北畠顕信を擁する伊達家と抗争。東北経営が難航したため、1345年吉良貞家、畠山国氏(吉良・畠山両家とも嫡流)が下向し解任される。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1355年足利尊氏と兵庫で合戦。息に頼房、義憲。息の頼房は1364年頃義詮に降服する。<初期、東海道の重鎮。>

荒川頼直 (*)仁木。仁木家と同系統。1337年一時、丹後国守護。1337年越前金々崎城攻囲に参加。1349年「観応の擾乱」に有力な直義派。のち石見国守護。息に荒川詮頼。<九州落ちに西国に配置されるか。><戸賀崎義宗の子孫らしい。>

畠山高国 (*〜1351)上総介。奥州管領。畠山嫡流。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏軍に従軍。1336年1月山城国宇治を吉見三河守と守備。1336年伊勢守護。1346年足利尊氏の命で吉良氏とともに奥州に派遣される。多賀城を占拠。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1351年直義派の吉良貞家に「岩切城の合戦」に討たれる。執事に遊佐氏。<血統的には岩松氏に近い。>

畠山国氏 (*〜1351)中務大輔・左馬頭・奥州管領。畠山嫡流。畠山高国の息。1345年奥州探題となり留守・宮城氏の協力を得る。1347年南朝方の霊山城、宇津峯城を攻囲。1348年南朝方に勝利。尊氏派。1351年直義派の吉良貞家に「岩切城の合戦」に討たれる。1354年息・国詮が挙兵するが敗北し二本松に拠る。

畠山直泰 (*〜1351)畠山嫡流。畠山高国の息。国氏の弟。1347年南朝方の霊山城、宇津峯城を兄・国氏とともに攻囲。尊氏派。1351年直義派の吉良貞家に「岩切城の合戦」に討たれる。<惣領家・畠山高国の系統は奥羽にて滅亡する。>

畠山家国 (*〜1335)二郎・次郎・治部大輔・入道西蓮。畠山庶流、畠山貞国の息。畠山国清・義深の実父。関東公方・足利基氏は娘婿。<1335年畠山安房入道は箱根「竹ノ下の合戦」後の追撃戦に戦死する。>

畠山宗義 (*)美濃、仲北庄の畠山氏。息に畠山直顕。

畠山直顕 (*〜*1358)亮七郎・修理亮・治部大輔。美濃畠山氏。畠山宗義の息。畠山義生の曾孫にあたる。足利尊氏に従い九州に下向。1336年島津貞久とともに薩摩・大隈・日向に転戦。1336〜1337年日向守護。1340〜1359年再び日向守護。1349年「観応の擾乱」に。足利直冬と結び直義派、薩摩守護・島津貞久と抗争する。1353年以降唯一の北朝方として、南朝の懐良親王に対抗。1358年少弐頼尚、大友氏泰の弟・氏時が寝返り没落する、以降消息不明。<南九州の重鎮。>

畠山国頼 (*)宮内少輔。畠山家国の息。畠山国清の兄弟。足利基氏は義兄弟。畠山家庶流。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。弟に畠山義輝。

⇔▽畠山国清 <関東執事1353〜1361>(*〜1362)左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫・関東執事職・道誓。畠山家国の息。足利基氏は姉妹の婿。足利直義の側近。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。1335年新田義貞を三河矢矧川で防戦。1336年足利尊氏に従い九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。1337〜1351年紀伊国守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。高兄弟と対立する直義を河内石川城に匿い、南朝軍に降る。細川顕氏の仲介で北朝に復帰。直義を遠江「薩垂(さった)山の合戦」に破る。1352年尊氏の命により鎌倉にて直義を毒殺する。関東公方・足利基氏の執事に就任。1359年12月関東軍を率いて上洛。細川清氏と結び、仁木義長を失脚させる。1360年「紀州征伐」。京都にて「仁木義長の乱」。関東に下向。1361年専横により執事職を罷免される。伊豆で挙兵するも敗北。<初期の関東、南近畿の重鎮。>

(上野足利)

桃井直常 (*〜1376*1368)駿河守・播磨守・刑部大輔・弾正小弼。幕府引付頭人。上野国桃井の領主・貞頼の息。弟に直信、直弘。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。1335年「北条時行の乱」に関東追捕の高氏軍所属。1337年北畠顕家の軍勢を追って上洛、「青野原の合戦」、大和「般若坂の合戦」にて北畠討伐に勲功。北畠顕信の篭城する八幡山城を高ノ師直に従い攻囲。若狭・(越中)・伊賀の守護を歴任。1349年「観応の擾乱」に直義派。1350年南朝に降服した直義に応じて京都に乱入する。別働隊として兵1万を率い関東の宇都宮氏綱討伐に向かうが氏綱・益子貞正に敗戦。1351年遠江「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1355年足利直冬・斯波高経と結び京都乱入。のち鎌倉公方・足利基氏の下に蟄居。1371年姉公路家綱の後援で越中乱入。能登守護・吉見氏頼と抗争。息に直和、直知、養子に直弘。<1336年足利家執事・高ノ師重に従い比叡山を攻囲する桃井は、直常のことか。>

桃井直信 (*〜*1368)修理亮。直常の弟。1336年高氏西国落ちに、小早川一族とともに安芸を守備。1337年大和「般若坂の合戦」に直常とともに出陣し北畠討伐に勲功。北畠顕信の篭城する八幡山城を高ノ師直に従い攻囲。1349年「観応の擾乱」にはじめ尊氏派、のち直義派。1367年(越中)守護。斯波義将と死闘を繰り返す。<九州落ちに西国に配置されるか。>

桃井義盛 (*)兵部大輔・布川・近作。桃井惣領家。新田党。桃井直常の従兄弟。桃井尚義の息。1336年高氏西国落ちに、安芸を守備。1337〜1338年但馬守護。新田義貞に従い越前に下向。名越時兼を討伐し越中守護。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派<桃井直信と、事績が混同されているか・・。1338年父・尚義、兄・義通とともに「藤島の合戦」に戦死か。もしくは、父・兄と袂を分かち家名存続のため北朝に降るか?。>

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<下野足利家門葉御内人>

仁木義勝 (*)日記。三河額田郡仁木郷を領する。足利義氏の代からの家老家。下野・三河党。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。

上地義連 (*)日記・仁木。三河党。仁木一族。仁木義勝の息。弟に頼章、義長。

⇔▽仁木頼章 <幕府執事1351〜1358>(1299〜1358)日記・二郎三郎・兵部大輔・周防守・伊賀守・左京大夫。下野・三河党。足利家執事<1351〜1358>。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派。仁木義勝の息。上地義連の弟。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。1336年の「西国落ち」に従い、丹波に戻り丹波旗頭。丹波・但馬で朝廷(新田義貞)軍を阻止する。京都入京に越前国「金崎城の合戦」、河内国「四条畷の合戦」に軍功。関東厩番。丹後・丹波・下野・武蔵守護を歴任。尊氏・義詮に忠実に仕え、直義を追い落とし将軍の実権奪還を成功させた。61歳。息に頼夏。

仁木義長 (*〜1376)日記・二郎四郎・越後守・右馬権頭・修理亮・右京大夫。下野・三河党。仁木義勝の息。頼章の弟。鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。西国から上洛の際、九州の抑えとして残る。後、上洛。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利義詮の補佐役。伊勢・志摩・伊賀・三河守護。1342年「小手指原の合戦」新田義宗・義興兄弟に敗北した将軍・尊氏を救援。九カ国の守護をとなるが管領細川清氏・畠山国清と対立し失脚。1360年畠山国清の「紀州征伐」の際、京都にて「仁木義長の乱」。佐々木氏頼・土岐頼康に攻撃される。伊勢にて南朝に降伏し領国を失う。足利義詮に降伏し赦免される。

仁木頼勝 (*)弾正少弼・讃岐守。頼章・義長の弟。1349年貞和8月、師直邸に参じる。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353〜1360年丹後守護。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1362〜1365年但馬守護。

仁木義氏 (*)修理亮。頼章・義長の弟。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。足利義詮の補佐役。1342年「小手指原の合戦」新田義宗・義興兄弟に敗北した将軍・尊氏を救援。

仁木義直 (*)伊賀守護。頼章の叔父・仁木頼直の息。弟に義有、義基。1337〜1339年伊賀国守護職。<北畠顕家対策で伊賀に配置されたか。>

仁木義有 (*)頼章の叔父・仁木頼直の息。義直の弟。1337年越後国松山保郷の地頭職。1339年摂津守護職。

仁木義基 (*)頼章の叔父・仁木頼直の息。義直の弟。1338年播磨表に新田軍と抗争。

 

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(三河足利) 吉良足利家 所領、三河富永荘。

 

一色公深 (*〜1330)足利・七郎・一色太郎・阿闍利・宮内卿律師・左京大夫。足利泰氏の息。室は今川国氏の娘。一色氏の祖。三河国一色郷を領する。

⇔▽一色範氏 (*〜1369)九州探題・太郎・宮内少輔・少輔二郎入道・道猷。三河党。公深の息子。足利家武蔵国守護代。仁木義長とともに九州の抑え、のち初代探題として大友・少弐・島津等を牽制する。1336〜1347年肥前守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1351〜1352年尊氏派として足利義冬と抗争する。大友氏と結んで大宰府を奪取。1353年少弐頼尚を古浦城に追い詰めるが、菊池武光が救援に出動し、「針摺原の合戦」に敗北。1357年九州の経営に失敗し隠居。<九州落ちに西国に配置される。>

一色頼行 (*〜1353)太郎・右馬権頭・武者所。三河党。一色公深の息。弟に一色範氏(範氏の弟とも)。1333年丹波篠村での挙兵の願文奉納役(相方の今川範氏は18歳)。関東厩番四番人。足利尊氏に従い九州に下向。九州探題に就任した一色範氏を補佐する。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353年肥前守護。のち肥後に進出し、1353年南朝方の菊池武重、阿蘇惟澄に「犬塚原の合戦」で敗北し戦死。跡職は甥・範光が相続。息に一色行義。<九州落ちに西国に配置されるか。1336年「犬塚原」に戦死説も。>

上野頼兼 (*〜1351)上野・左馬助。足利一門。三河一色党。上野頼遠(頼勝)の息。弟に氏勝。1336年3月筑後黒木城攻略に大将。4月尊氏の西国落ちに石見を守備、周防に転戦。丹後・石見守護。1343石見都野城攻囲。村井城攻囲。1348年石見三隅城攻囲。1351年但馬守護。但馬にて戦死。息に上野直兼、詮兼。<血統的には一色氏に近い。><幕府創業期、山名時氏を従えて山陰地方を制圧していたかもしれない。>

吉良貞家 (*〜*1394)修理権大夫・右京大夫。三河党。東条・吉良経家の息。鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。幕府引付頭人、のち1346〜1394年にかけて奥州管領。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年岩切城を攻撃し畠山親子を討つ。のち国府を南朝方の北畠顕信に奪取される。<血統的には今川家に近い。>

吉良貞経 (*)上総・宮内少輔・宮内大輔・左近大夫・左京大夫・左近将監。東条・吉良経家の息。貞家、氏家の兄弟。吉良家庶流。1336年足利尊氏の西国落ちに三河に派遣される。三河旗頭。1336年新田義氏の乱入に三河吉良荘にて防衛戦。配下の細川頼種、仁木頼高は戦死。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派。1367年足利義詮により大崎直持とともに奥州管領。冶家を討伐する。

▽細川頼種 (*)1336年足利尊氏の西国落ちに三河に派遣される。三河旗頭の吉良貞経配下。1336年新田義氏の乱入に三河吉良荘にて防衛戦。仁木頼高とともに戦死。

▽仁木頼高 (*)1336年足利尊氏の西国落ちに三河に派遣される。三河旗頭の吉良貞経配下。1336年新田義氏の乱入に三河吉良荘にて防衛戦。細川頼種とともに戦死。

吉良氏家 (*)左馬介。東条・吉良経家の息。貞家、貞経の兄弟。吉良家庶流。足利直冬の側近。周防守護。

吉良貞義 (*)西条・弥太郎・左京亮・上総介・上総入道・省観。三河党。西条・吉良満氏の息。弟に貞氏。父早世の為、祖父の西条・長氏(1211〜1290)から家督を譲られる。一門の長老として足利尊氏の相談役。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。1335年「北条時行の乱」に関東追捕の高氏軍所属。1337年忽那水軍の内紛に介入。土居、忽那義範に敗北。1338年今川氏兼に所領を割譲し吉良今川両家の抗争を解消する。

吉良満義 (*〜1356)西条・三河三郎・右兵衛督・左京大夫・中務大輔。足利家の御一家。三河党。西条吉良氏・貞義の息。弟に有信、貞弘(貞義の養子か)。1335年足利直義とともに鎌倉府守備。1336年高氏西国落ちに従軍。1336年今川氏兼に三河に所領宛行。1349年貞和8月、直義邸を守備。「観応の擾乱」に直義派。関東厩番。息に吉良満貞(*〜1384)。<初期、東海道の重鎮。土岐頼遠、佐々木道誉を率いる吉良・左兵衛佐と同一人物か?>

吉良時衡 (*)兵庫允。吉良満義の代官として信濃守護代。1335年北条時行の「中先代の乱」に小笠原貞宗とともに鎮圧にあたる。

吉良有信 (*)左馬助・弥三郎。三河党。吉良満義の弟。

吉良貞弘 (*)荒川。三河党。吉良満氏の息(吉良満義の息とも。)<家系図混乱。吉良満義の一門であることは確実です。>

▽勝間田* (*)吉良家の将。遠江の豪族。1336年上洛する小笠原貞宗に合流し京洛の戦いに参陣。

▽吉川* (*)吉良家の将。遠江の豪族。1336年上洛する小笠原貞宗に合流し京洛の戦いに参陣。

▽船越* (*)吉良家の将。遠江の豪族。1336年上洛する小笠原貞宗に合流し京洛の戦いに参陣。

⇔○今川範国 (1295*1304〜1384)五郎・上総介・五郎入道・入道心省。三河党。今川基氏(1261〜1323)の息。今川範氏・貞世の父。1333年後醍醐天皇により遠江守護に補任される。1335年北条時行の「中先代の乱」に兄弟が相次いで戦死。1335年入京戦に「瀬田橋の合戦」に足利直義、高ノ師泰とともに名和・結城軍と対陣。1336年遠江・駿河守護。遠江井伊家と抗争。北畠顕家軍と美濃「青野原の合戦」。のち仁木義長、千葉貞胤が遠江守護となり失領。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。1352年再度遠江守護。<血統的には吉良家に近い。>

▽高橋茂宗 (*)彦六。摂津多田院の御家人。今川範国の与力。1335年新田軍との矢矧川での戦闘に参陣。1336年範国に従い京洛の合戦に転戦。

▽三和光継 (*)長尾・次郎右衛門尉。遠江の豪族。今川範国の与力。1336年井伊道政との抗争「三方原の合戦」に軍功。<1336年長尾次郎・国資の子孫。ということで今川範国から先祖の地を宛行される。>

▽松井助宗 (*)八郎・兵庫丞。山城の豪族。今川範国の与力。1336年井伊道政との抗争「三方原の合戦」に軍功。北畠顕家軍と美濃「青野原の合戦」。京洛に追撃転戦。範国とともに駿河安部城・狩野貞長を攻撃。

▽朝比奈* (*)五郎。今川範国家臣。1336年横地治部丞とともに、松井助宗の軍功の証人。

今川範氏 (1316〜1365)五郎・上総介・中務大輔。三河党。今川範国の嫡子。弟に貞世。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。丹波篠村での願文奉納役を務める。1349年「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派。1350年頃家督を父から譲られる。1352年遠江守護、のち父と交代。代替地に駿河守護。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。50歳。<三河支配を巡り、狩野家や中条家と実はライバルだったかもしれない。>

今川国満 (*〜1335)二郎・刑部少輔・範満。三河党。今川基氏の息。今川範国の庶兄。鎌倉府所属。1335年北条時行の「中先代の乱」に「小手指ケ原(相模川)の合戦」にて戦没。

今川頼基 (*〜1335)三郎・式部大輔・修理大夫・入道・頼国・頼元。三河党。今川基氏の息。今川範国の庶兄。鎌倉府所属、足利直義の補佐役。1335年北条時行の「中先代の乱」に従軍。「小夜中山の合戦」に名越高邦を討つ軍功。「小手指ケ原(相模川)の合戦」にて、戦没。

○▽今川頼貞 (*)掃部助・駿河守・駿河前司。今川頼基(頼国)の息。今川(蒲原)氏兼の従兄弟。弟に今川頼兼。1336年京都落ちに東播磨にて殿軍。1336年高氏西国落ちに、備中を守備(丹後・但馬に派遣されるとも)。京都入京に仁木頼章とともに先鋒。その後但馬・丹後守護。越前国「金崎城の合戦」に従軍。金ヶ崎救援の里見伊賀守を破る。瓜生保を討取る軍功。1348〜1349年但馬守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1350年因幡守護。1351年磯部城を南朝方の長尾彦七郎に攻略される。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。足利直冬に従う。直冬党。

今川頼周 (*〜1335?)三郎。三河党。今川基氏の息。今川範国の弟。鎌倉府所属、足利直義の補佐役。1335年北畠顕家に対して京都守備。1336年高氏西国落ちに従軍。<1335年中先代の乱に頼基とともに戦死とも。>

今川俊氏 (*)入野・三郎。今川一門。今川基氏の弟。今川範国の叔父。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。<九州落ちに西国に配置される。>

今川政氏 (*)木田・四郎。今川一門。今川基氏・俊氏の弟。今川範国の叔父。1336年高氏西国落ちに、備中を守備。<九州落ちに西国に配置される。>

今川経国 (*)関口・五郎。今川国氏の息。今川基氏の弟。今川範国の叔父。息に顕氏、貞国。

今川親氏 (*)石川・六郎。今川国氏の息。今川基氏の弟。今川範国の叔父。

《個人的感想》 江戸時代に徳川家が源氏を称するうえで、三河足利氏と関連深い冨永(設楽)氏の存在がどうしても邪魔で、江戸300年の間に事跡を抹消せずにいられない一族とされたのかもしれませんね。

 源氏の歴史をみていると、義家の時代から源氏に仕え、源氏嫡流を支え続け、三河吉良氏の家老となり、三河の土豪で清康の跡、斜陽の松平氏を保護した蜜月の時期があったにもかかわらず、主の吉良氏を守るために独立志向の家康と対立し力を失った冨永氏の姿が浮かんできます。

 織田信忠の嫡男・秀信の側近に冨永氏が取り立てられ、のち徳川軍と戦っていることも、徳川家の心象を悪くしているかもしれませんね。

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足利 義昭/asikaga,yosiakiの家臣団   

<四国阿波> 足利家所領、阿波秋月荘。

細川和氏 (1296〜1342)阿波守・知氏・入道道倫。引付所。三河党。細川公頼の長男。47歳で死去。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。建武新政に阿波国守護。足利直義を補佐して鎌倉府所属。1335年「北条時行の乱」に敗走。箱根「竹ノ下の合戦」に軍功。1336年高氏の西国落ちに、四国を守備(領国の阿波か)。1336年「湊川の合戦」に勝利。引付頭人。1337年足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する。1342年阿波に隠居。息に清氏、頼和、将氏、家氏。<九州落ちに西国に配置される。>

細川頼春 (1299・*13041352)源九郎・源蔵人・讃岐守・刑部大輔。侍所。三河党。細川公頼の次男。足利高氏の側近旗元衆。1337年足利直義に従い北畠顕家を迎撃。1338年阿波国守護。(備後守護とも)。1342〜1349年伊予国守護。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。足利直冬に属した河野通盛を討つ。足利義詮の補佐役。越前国を巡り、直義派の斯波高経と激しく対立。1352年南朝軍の入洛に義詮を守って京都で戦死。息に細川頼有、頼之、頼元、詮春、満之。

細川師氏 (1305〜1348)彦四郎・掃部助・掃部介・淡路守。三河党。細川公頼の三男。1335年足利直義に従い関東の抑えとして鎌倉に残り、北条時行と戦う。1336年四国に派遣される。幕府成立後、淡路国守護。淡路の国衆・宇原氏と抗争。息に細川氏春。44歳。

細川頼貞 (*)義阿。1335年「中先代の乱」に巻き込まれ、相模川村山自害。<もともと細川家惣領だったりするかもしれません。>

細川定禅 (*〜*1338)鶴岡若宮別当・卿律師・卿公。細川頼貞の息。顕氏の弟(庶長兄とも)。1335年鎌倉府守備。1335年比叡山攻囲軍。1336年高氏西国落ちに、四国讃岐を守備。1336年足利尊氏の関東からの上洛に呼応し、西国軍を率いて京都に乱入。再度四国に戻り、1336年「湊川合戦」に四国軍を率いる。土佐守護。以降消息不明。<九州落ちに西国に配置される。><実は細川家の惣領にして、細川軍の指導者だったのではと思えるほど大活躍です。顕氏より長兄なのではないのでしょうか。>

細川皇海 (*〜*1340)三位律師・権律師・鶴岡若宮別当・三位公。細川頼貞の息。顕氏の弟。兄・定禅の跡職を継承する。1337〜1338年紀伊大将。1339年土佐守護。土佐「大高坂城攻撃」。1340年以降消息不明。<畠山国清とともに南近畿の重鎮。>

細川顕氏 (*〜1352)小四郎・兵部少輔・兵部大輔・陸奥守・引付所頭人。細川頼貞の息。細川和氏の従兄弟。1335年鎌倉府守備。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。河内・和泉・讃岐守護。侍所頭人。1337年高ノ師直軍とともに上洛した北畠顕家に対抗し勝利する。のち土佐守護。1337〜1352年讃岐守護。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年「観応の擾乱」に直義派。のち幕府に復帰。1352年「男山の合戦」の大将として南朝軍に勝利。その後病死。息に細川繁氏。

細川直俊 (1319〜1337)帯刀先生・民部少輔。細川頼貞の息。顕氏の弟。1334年後醍醐天皇の賀茂神社行幸に随兵。1336年2月細川顕氏とともに四国に渡る。1337年河内国にて南朝軍の大塚惟正・岸和田治氏に敗北し戦死。19歳。

細川政氏 (*)大夫将監。細川頼貞の息。顕氏の弟。1335年比叡山攻囲軍。1336年高氏西国落ちに、四国讃岐を守備。<九州落ちに西国に配置される。>

上池義俊 (*〜1335)細川。細川一門衆。足利直義に従い鎌倉府在番。1335年「中先代の乱」に駿河「手越河原の合戦」に戦死。

 

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 準一門衆・御由緒家(外戚)

上杉憲房 (*〜1336)杉谷・兵庫頭・兵庫禅門。上杉頼重の息。足利高氏の叔父。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。雑訴決断所奉行。1335年尊氏謀反に従う。上野国守護。1336年入洛軍に従い、京都四条河原にて新田軍と戦い討死。

⇔▽上杉憲藤 <関東執事1337〜1338>(1318〜1338)中務少輔・修理亮。犬懸上杉氏の祖。上野守護・上杉憲房の息。1337年、関東執事。上洛し、1338年摂津にて北畠顕家軍と合戦し討死。<早く戦死したため、マイナーです。>

上杉憲顕 <関東執事1340〜1351>(1306〜1368)関東執事職。山内上杉家の祖。上杉憲房の息。足利尊氏の従兄弟。弟に憲藤。1337年足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する。直義派。師直養子の高ノ師冬に勝利する。足利尊氏の次男・基氏が古河公方となり、その執事として越後国の守護兼、関東管領<1338>。1349年「観応の擾乱」に直義派として鎌倉入り先陣。小笠原政長に敗北する。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。以降山内家は上野・武蔵・伊豆に勢力を張る。63歳。息に憲将、憲賢、憲春、憲方、憲栄、憲英。<重能の死後、名前がよく現れてきます。>

上杉重能 (*〜1350)詫間・伊豆守。引付所・内談頭人。関東管領、上杉憲顕の養子。上杉(二橋)朝定の義兄弟。副将軍・直義の執事。1336年高氏西国落ちに従軍。1336年九州に上陸、菊池武敏との「多々良浜合戦」に武功。1336年高氏西上軍に従軍。1345年天竜寺供養に従軍、五番隊6人衆のひとり。畠山直宗とともに高師直と対立する。1349年越前の幽閉先にて暗殺された。<上杉憲房戦死後、けっこう大活躍しています。>

 

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新田系 一門衆(第一世代)  青文字=直義派。 赤文字=尊氏派。

山名時氏 (1303〜1371)小二郎・弾正少弼・伊豆守・伊豆前司・修理大夫・引付所・侍所頭人。上野出身。新田一族。山名政氏の息。伯耆国守護として名和長年の一族を討伐する。のち丹波守護。1345年天竜寺供養に従軍、一番隊を率いる。出雲守護職を巡り副将軍・佐々木道誉と対立。摂津にて楠木正行に敗北する。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に当初は尊氏派、のち直義派直冬党。1353年6月南朝軍として楠木正儀・石堂頼房とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1363年細川頼之の管領職就任により和平が成り上洛。家督はに山名師義が継承。伯耆国田内山城を本拠地とする。<血統的には仁木氏に近い。><同じ山陰方面で働いていた上野頼兼との間柄はどうだったのか興味のあるところです。>

山名兼義 (*)新田一族。山名時氏の弟。兄・時氏、細川顕氏とともに摂津表に出陣し、南朝方の楠木正行との「天王寺の合戦」に戦死。

岩松経家 (*〜1335)新田・飛騨守・頼円。岩松政経の息(孫とも)。1333年新田義貞の鎌倉乱入に従う。直義の鎌倉府に所属。1335年「北条時行の乱」に武蔵国「女影原の合戦」に敗れ自害。息・泰家は早世。<血統的には畠山氏に近い。><初期、関東の重鎮。>

岩松頼有 (*)禅師。岩松経家の弟。1336年高氏西国落ちに従軍。(1336年近江旗頭に派遣されるとも。)1340〜41年伊予国守護、1351〜1352年備後国守護。<新田(田島遠江守)又五郎・経政と同一人物とも。><1336年足利家執事・高ノ師重に従い比叡山を攻囲する岩松は、頼有のことか。>

岩松直国 (*)三郎。岩松経家戦死後、岩松一族の惣領。息は岩松満国。娘婿に新田義宗。<岩松頼有と同一人物とも。>

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大島盛真 (*)讃岐守。新田一族。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。1349年貞和8月、師直邸に参じる。「観応の擾乱」に尊氏派

大島義政 (*)新田・兵庫頭。里見一族。大島義員の息。1336年高氏西国落ちに、守護・大内長弘とともに周防を守備。<九州落ちに西国に配置される。>

里見* (*)民部少輔。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり

里見* (*)安芸守。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり

里見* (*)山城守。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり

▼里見家基 (*〜1439)民部少輔。里見義秀の子孫。里見家兼の息。足利持氏に出仕。「結城合戦」に戦死。安房里見家の祖。息に孫三郎・満氏、竹林三郎・家成。

 

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ホームTOP    足利家執事  足利尊氏の家臣団(譜代)・外様大名(東日本)    足利家外様衆その2(西日本)

 

 足利高氏(尊氏)の譜代家臣団 幕府成立後

 1345年天竜寺供養に従軍、一番隊山名、六番隊斯波、七番隊天童、八番隊一門衆序列は吉良・渋川・畠山・仁木・細川。

 一門衆(第二世代1320〜1400)

上杉朝定 (1321〜1352)二橋・左近将監・弾正少弼・道禅。引付所・内談頭人。扇谷上杉重顕の息。上杉頼重の孫。1337年丹波守護。1338年丹後守護兼任。1344年幕府引付衆。1345年天竜寺供養に従軍、五番隊6人衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に直義派。両者の和解に尽力する。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年信濃にて死去。32歳。<初期、山陰道の重鎮。>

上杉朝房 (*〜1391)四条・三郎・左馬助・中務少輔・弾正少弼。犬懸上杉憲藤の息。妻は山内憲顕の娘。上杉(二橋)朝定の養子とも。1338年父の戦死後家督。1345年天竜寺供養に従軍、五番隊6人衆のひとり。1364年上総国守護。1349年「観応の擾乱」に直義派。1349〜1350年但馬守護。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1368年上杉能憲とともに関東管領職。1377年上洛する。

上杉能憲 (1333〜1378)三郎・左衛門・修理亮・兵部少輔。山内憲顕の息。叔父・上杉重能の養子となる。直義派。1351年高ノ師冬を甲斐に滅ぼす(17歳)。軍を率い上洛し足利尊氏、高ノ師直と抗争。高兄弟を仇討ちする。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年駿河蒲原にて足利尊氏に敗北。流罪。1368年上杉朝房とともに関東管領職に復帰。武蔵・上野・伊豆守護。養子に憲孝。

渋川直頼 (*)太郎・中務大輔。渋川義季の息。上野国渋川出身。足利直義の室、足利義詮の室は渋川氏。弟に時直。1335年父・義季の戦死により家督継承。息に義行、義宗。<血統的には斯波氏に近い。>

渋川義行 (*)九州探題職。足利一門。渋川義季の孫。母は高師直の娘。1366年19歳にして九州管領に抜擢される。今川貞世解任後、息・満頼が九州探題職を継承。大友・大内氏の援助で肥前国入り。少弐氏と抗争する。息に渋川満頼(1372〜1446)。

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(元・尾張足利)

 

⇔○▽斯波家長 (1321〜1338)尾張・志和・弥三郎・孫二郎・陸奥守・関東執事・奥州総大将。斯波高経の息。足利直義の鎌倉府の跡、1335年「中先代の乱」後に関東執事職。足利義詮を後見して北畠顕家に対抗する。1335年鎮守府将軍・北畠顕家の南侵に敗北。1336年小早川宗平に殿岡七郎跡を宛行。再び北畠顕家に対抗して奥州総大将<1337>に任ぜらる。1338年鎮守府将軍・北畠顕家の南侵。2戦して2度敗退、討死する。奥州には石堂義房が派遣される。<血統的には石橋氏に近い。>

⇔▽斯波氏経 (*〜1367)尾張・民部少輔。斯波高経の次男。1349年「観応の擾乱」に直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。直冬党。1361年九州探題に任ぜらる。「長者原の合戦」に敗北し出家隠遁。

斯波氏頼 (*)尾張・左近将監。斯波高経の息。1345年天竜寺供養に従軍、六番隊10人衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。直冬党。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。父・高経から足利執事の資格も才能もないと評価され、弟・義将が幕府執事に就任。

天童義宗 (*)里見・斯波・民部少輔。斯波高経の甥。斯波家兼の三男。出羽の新田氏族・里見義景の養子となる。1345年天竜寺供養に従軍、七番隊外様500騎衆のひとり。1349年「観応の擾乱」に直義派貞和8月、直義邸を守備。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。

⇔▽斯波義将 (1350〜1410)足利。斯波高経の四男。吉良満貞の娘婿。室町幕府三管領の筆頭。斯波高経の後見で室町幕府に安定をもたらす。

↑▽大崎直持 (1327〜1383)斯波・彦三郎・左京大夫。大崎家兼の嫡男。1352年若狭守護代として若狭衆を率い足利義詮を救援。1354年奥州管領の父に従い奥州入り。息に大崎詮持。

⇔▽石橋棟義 (*〜*1386)斯波・尾張。石橋和義の息子。斯波家一門。2代将軍・義詮から奥州の軍事指揮権を与えられ、吉良治家を討伐する。その後も奥州に留まるが1386年に没落。<血統的には斯波氏に近い。>

 

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「汝に一子(足利義満)を与える。」

「汝に一父(細川頼之)を与える。その教えに従え。」 -足利義詮-

 

(元・三河足利)

 

一色直氏 (*〜*1357)宮内少輔・右京権大夫・少輔太郎入道。範氏の息子。1346年九州探題を世襲する。1347年筑後守護。1348〜1351年肥前守護。太宰少弐頼尚と抗争。1353年筑前国「針摺原の合戦」に敗北。1357年南朝の征西将軍懐良親王と菊地武光に九州を追われる。京都に帰還。1356年再度、九州に上陸するが筑前国「麻生山の合戦」に敗北し京都に戻る。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。<血統的には石塔氏に近い。>

一色範光 (1324〜1388)五郎・右馬権頭・修理権大夫・入道信傅。範氏の息子。1348年から九州各地で転戦。1353年肥前守護。1357年九州落ち後、三河国・若狭国守護。1369年若狭一揆を鎮圧。1371年若狭を統一し幕府四職家のひとつとなる。64歳。

吉良満貞 (*〜1384)三河三郎・上総三郎・治部大輔・左兵衛佐・入道省堅。西条・吉良満義の息子。西条吉良氏の祖。1545年天竜寺供養に従軍、先陣12人衆のひとり。1349年貞和8月、直義邸を守備。「観応の擾乱」に直義派として、越前で戦い、鎌倉入り先陣。尊氏派の小笠原政長に敗北する。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年直義の死後は足利直冬に従う。直冬党。尾張、近江瀬田に転戦。尊氏の死後、義詮に降伏する。内談頭人として幕府の重鎮。弟に尊義。<血統的に今川氏に近い。>

吉良有義 (*)一色・三河四郎・左馬助。西条・吉良満義の息子。満貞の弟。

吉良尊義 (1348〜*)中務大輔・義貴。満義の四男。新東条吉良氏の祖。嫡流東条家は奥州に移住する。1356年満義の死没を機に、尊氏派として独立する。以降、西条吉良満貞と対立する。

吉良満家 (*)東条吉良氏。奥州探題を世襲する。吉良貞家の息子。弟に吉良治家。父・貞家とともに直義派。1353年南朝勢力を一掃する。1354年頃家督継承。弟・治家は叔父・吉良貞経が新奥州探題として派遣され討伐される。

今川直貞 (*)足利直冬の側近。1349年「観応の擾乱」に直義派直冬党。1351年大宰府攻略。直冬は九州探題就任。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1352年足利直義は鎌倉にて畠山国清に毒殺される。尊氏方の一色範氏と大友氏泰に大宰府を奪取される。<血統的に吉良氏に近い。>

▽今川氏家 (*)中務大輔。今川範氏の息。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。早世する。

今川泰範 (1334〜1409)左馬助・上総介・入道仲高。今川範氏の息。1365年兄・氏家が早世したため家督継承。駿河・遠江守護。1378年足利義満の侍所頭人。幕府軍の中核として働く。息に範政、泰国、範信。

▽今川家氏 (*)越後守。今川範氏の息。泰範の弟。

⇔▽今川貞世 (1326〜*1420)左京亮・伊予守・了俊。今川範国の息。弟に氏兼、仲秋(国泰)。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1360年畠山国清に従い「紀州征伐」。京都にて「仁木義長の乱」勃発」。1367年幕府引付頭人、侍所頭人、山城国守護を歴任。1370年、九州探題。1381年九州を統一する。1395年勢力を恐れた足利義満により解任され、遠江・駿河半国を宛てがわれる。

今川氏兼 (*)庵原・九郎・修理亮・弾正少弼・越後守・直世。今川範国の三男。貞世の弟。蒲原氏の祖。1335年足利直義に従い鎌倉府防衛。

荒川詮頼 (*)三河守。足利一門。仁木氏と同系統。荒川頼直の息。1337年越前金ヶ崎城攻略に軍功。1349年足利直義党として高ノ師直と抗争。1349年「観応の擾乱」に直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1552年直義の死後は幕府に復帰。1352年石見守護職。大内弘世に守護職を奪われるが1376年再び石見守護。1379年細川頼之の失脚に連座し罷免される。

⇔細川清氏 <幕府管領職1358〜1361>(*〜1362)弥八・左近将監・伊予守・相模守・元氏。細川和氏の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年伊賀守護。若狭守護。引付頭人。1358年ニ代将軍・義詮に執事に任命される。1359年12月上洛した畠山国清とともに河内南朝軍・楠木正儀の赤坂城を攻略。1360年畠山国清と結び、仁木義長を失脚させる。1360年7月仁木義長と抗争。佐々木道誉とも対立。政敵が多く1361年義詮により追討される立場となる。若狭に逃れ南朝の楠木正儀と結ぶ。のち讃岐に逃れるが一族・細川頼之に討たれる。弟に頼和、信氏、将氏、家氏、業氏。息の正氏は南朝軍として抗争。<細川和氏の家門は没落する。>

細川家氏 (*)細川清氏の弟。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1360年畠山国清に従い「紀州征伐」に従軍。

細川頼之 <幕府管領職1367〜1379>(1329〜1392)弥九郎・右馬助・右馬頭・武蔵守・頼行・中国管領・上屋形。三管領のひとり。細川頼春の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年頼春の討死により阿波軍を率いる。弟・頼有とともに「男山の合戦」。阿波守護を継承。のち伊予守護を兼任。中国地方の足利直冬を追討する中国管領に就任し、備前から安芸の山陽四カ国を支配。1362年南朝に降伏した従兄弟の細川清氏を讃岐に討つ。尊氏の指名でのちに足利義詮の執事となる。義詮からの遺言により義満の後見人。室町幕府の将軍権力を強化する。64歳。息に基之、頼元(養子)。

細川詮春 (1330〜1367)阿波屋形・下屋形・岡屋形・九郎・讃岐守・左近将監。細川頼春の息。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。兄の管領職就任により、阿波守護家の祖。息に義之。讃岐細川の祖。勝幡城を本拠地とする。<のちの三好長慶と阿波守護代・三好義賢のような関係か。>

細川頼有 (1332〜1391)讃岐十郎・掃部助・宮内少輔・右馬頭。細川頼春の息。頼之の弟。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1352年頃から畿内で南朝軍と抗争。父・頼春戦死後も讃岐軍を率いる。兄・頼之とともに「男山の合戦」。備後守護。兄の中国管領・細川頼之を補佐する。兄の管領在任中は四国を代理統括。南朝軍の河野氏と抗争する。1390年山名時煕追討に軍功。60歳。和泉細川の祖。息に頼長。

細川頼元 <幕府管領職1391〜1393>(1343〜1397)聡明丸・三郎・右馬助・右京大夫・頼基・幕府管領。細川頼春の息。頼有の弟。兄・頼之の養子。義季流・六代目。「京兆家」。摂津・丹波・讃岐・土佐四カ国守護。1369年河内に出陣し幕府に通じた楠木正儀を救援。1378年紀伊守護・細川業秀を救援。1379年兄・頼之とともに四国に撤収。のち幕府に復帰。1391年幕府管領職。「明徳の乱」鎮圧に軍功。息に細川満元。55歳。

細川満之 (*1350〜1405)細川頼春の息。兄の管領在任中は四国統治の補佐。1392年備中守護。のち備中守護家の祖。息に頼重、基之(和泉半国守護家)。

細川氏春 (*〜1387)法師丸・彦四郎・兵部少輔・左衛門佐。細川師氏の息。1348年淡路守護職継承。1349年「観応の擾乱」に一貫して尊氏派。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1361年細川清氏の南朝降伏に従い、清氏とともに讃岐に上陸。清氏の死後は幕府に復帰し淡路守護。1373年河内南朝軍攻撃の大将。

細川繁氏 (*〜1359)式部少丞・伊予守・兵部大輔・鎮西大将。細川顕氏の息。1336年高氏西国落ちに従軍。1352年南朝軍を和泉にて撃破。父・顕氏の死により家督相続。讃岐・土佐、摂津守護。1356年四国土佐にて南朝軍と抗争。1359年讃岐国にて死去。弟に業氏(養子)、政氏。<四国方面担当。>

▼細川業氏 (*)兵部大輔。細川和氏の息。細川顕氏の養子。兄・繁氏の跡職を継承するが、四国所領の讃岐国は頼之が継承する。1352〜1359年和泉守護。1360〜61年再度、和泉守護。南朝軍の蜂起に和泉国より逃走。所領を失う。<南近畿担当。>

 

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 (元・下野足利)

石堂頼房 (*)右馬頭・中務大輔。石堂義房の息。足利直義の側近。1335年頃から東国に転戦。1349年貞和8月、直義邸を守備。「観応の擾乱」に直義派直冬党。1349年から伊勢・志摩両国守護。直義派。1351年播磨光明寺城に篭城。尊氏を破り吉良満貞とともに京都を占拠する。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。1353年6月南朝軍として楠木正儀・山名時氏とともに京都を占拠し将軍・義詮を追う。義詮を救援に赴いた丹後守護・高ノ師詮を破り自害させる。1361年再び京都を攻撃。のち幕府に降参する。

石堂頼直 (*)左馬頭。石堂義房の一族。1349年貞和8月、直義邸を守備。「観応の擾乱」に直義派1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。

▽石堂義憲 (*)義元。斯波家長の跡職を継承した石堂義房の息。自称・奥州管領。

仁木頼夏 (*)仁木惣領家。頼章の息。父・頼章は1359年に死去。1359〜1360年丹波守護職。細川清氏との間柄から、佐々木道誉と対立。<血統的には山名氏に近い。>

▽仁木義尹 (*)二郎・左京大夫・兵部少輔・丹波守・伊予守。仁木惣領・頼章の孫(実子)。仁木頼夏の息(兄の養子)。1360〜1363年叔父・頼勝の跡職の丹後守護。1364年足利直冬に奪取される。1362年頼夏の跡職の丹波守護。1368年伊予守護。

仁木満長 (*)仁木義長の息。義員の兄。

仁木義員 (*)伊勢守・和泉守。義長の息(次男)。満長の弟。「応永の乱」で大内義弘討伐後、1399年から伊勢・和泉守護。

畠山直宗 (*〜1349)大蔵少輔。畠山宗国の息。畠山直顕の甥。足利直義の側近。上杉重能とともに高ノ師直兄弟と対立する。1349年「観応の擾乱」に直義派。のち越前の幽閉先にて暗殺された。<血統的には岩松氏に近い。>

畠山義深 (1331〜1379)三郎。畠山家国の息。畠山国清の弟。1335年「北条時行の乱」に足利尊氏の関東出征に従軍。兄・国清の関東執事就任に従い関東にて奮戦。1362年兄と袂を分かち、京都に戻る。1366年足利義詮に属し越前国守護に就任。元守護・斯波高経と抗争、高経に勝利する。のち(尾張)・能登・越中・河内・和泉・紀伊・伊豆守護を兼任。49歳。

▼畠山基国 (1352〜1406)右兵衛督・幕府管領職。畠山義深の息。山城・河内・能登・越中守護。1391年山名氏討伐の「明徳の乱」に武功。1398年管領職就任。1399年「応永の乱」に軍功。55歳。<畠山家から初の管領職。>

▼畠山満家 (*)左衛門督・尾張守・幕府管領職。畠山基国の息。山城・紀伊・河内・越中守護。1399年12月「応永の乱」に大内義弘を討つ。将軍後継者問題に足利義教を将軍職に据えた。62歳。

 

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 (元・上野、新田衆)

山名師義 (1328〜1376)小太郎・右京亮・右衛門佐・左馬権頭・師氏。山名時氏の嫡男。1349年「観応の擾乱」に直義派。1351年「薩垂(さった)山の合戦」に直義敗北。直冬党。父とともに赤松氏と抗争する。1363年北朝に帰順し丹後・伯耆・但馬守護。管領・細川頼之と対立する。1371年に父が死去し惣領職。伯耆国打吹山城を本拠地とする。1379年病没。49歳。兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。息に義幸、氏之(氏幸)、義煕(時煕)、満幸。<血統的には二木氏に近い。>

山名時義 (*〜1389)六郎・弾正少弼・伊予守・左京権大夫・時幸・侍所頭人。山名時氏の五男。師義・氏清の弟。兄・師義の跡職を継承する。伯耆・但馬守護。のち備後守護。息に山名時煕(1367〜1435)、師義の実子・氏之(氏幸)が勢力を持つが、氏清・満幸が不満を持ち1390年に家中が分裂する。

山名氏清 (1344〜1392)陸奥守。山名時氏の息。娘婿に山名満幸。丹波・和泉守護を継承する。惣領職を継承した弟・時義と対立。1389年時義の死去により、家督争いが勃発。1391年甥・山名満幸とともに「明徳の乱」を起こす。

 

《個人的感想》 足利家が源氏の嫡流に自らの先祖を結びつけるために、いろいろと系図を操作した痕跡が伺えると目にするのですが、実際どういうとこなのか私の所有する資料からは解りません。

 暗殺された源ノ義忠の兄・義国が、暗殺者の黒幕で叔父の義光を追って、「荒加賀」を名乗り関東に下向したのが足利の祖とするというのが、実際は荒加賀が別の源氏の人物でそこからむりやり義国とむすびつけ嫡流に近くしたということなのでしょうか。

 なかなかに史実というものは難解であります。

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