後醍醐天皇、護良親王の軍団と、楠木正成の家臣団、北畠顕家の軍団のページです。

  護良親王 肖像のつもり。

朕の新儀は未来の先例たるべし  後醍醐天皇−   ホームTOP

足利尊氏の家臣団(譜代・外様)   足利家一門衆

<後醍醐天皇の軍団> (1324〜1334)正中・元弘の乱、建武元年(1334)

 打倒・鎌倉幕府、得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

後醍醐天皇 (1228〜1339)尊治親王。第96代天皇。1318年31歳で即位。後宇多天皇の息(2男)。母は五辻(藤原花山院)忠継の娘。乳母父に吉田定房。1308年兄・邦治親王(後二条天皇)の死、花園天皇の死により家督。1321年から親政をはじめ、吉田定房・北畠親房を登用。王政を復活するため倒幕を目指す。1324年父・宇多上皇が死去。「正中の変」。1331年「元弘の乱」に失敗。大和笠置寺に。楠木正成、赤坂城に挙兵。桜山慈俊、備後一宮に挙兵。1332年捕縛され隠岐に配流される。護良親王、吉野に挙兵。楠木正成、呼応して千早・赤坂城に挙兵。伊予の土井・得能氏が北条時直を破る。1333年2月隠岐を脱出。3月九州にて北条英時に破れ菊池武時戦死。4月千草忠顕、京都に敗退。4月足利高氏反幕府の挙兵。5月京都六波羅攻略。上野国に新田義貞挙兵。「鎌倉乱入」北条高時自害、ついに倒幕。1333年6月帰京。建武新政を開始。1333年義良親王、多賀城へ。成良親王、鎌倉へ派遣。1335年公武不和のために新政が瓦解。1336年光明天皇(持明院統)に譲位するが、吉野に拠点を移し南朝を設立。1339年子息・義良親王(後村上天皇)に譲位し、京都奪還を託す。52歳で崩御。息に恒良、護良、義良(後村上)、宗良、懐良親王。

阿野廉子] (1301〜1359)安野・新侍賢門院・三位局。右近衛中将・阿野公廉の娘。洞院公賢の養女。後醍醐天皇の妻。恒良・成良・義良親王の母。護良親王と権力抗争。<源氏の阿野全成の血が入るそうです。>

 

(北条高時の時代の守護配置)

 ←意外に反乱が起きています。

安藤又太郎が先駆です。

ホームTOP    新田義貞の家臣団と軍団

 『 肥狗天驕吼 痩人地黙哭 』 −亀ケ谷寿福寺の僧 −作

 「ひく(北条家)はてんにおごってほえ そうじんはちにもくしてこくす」 ←北条政治に対する庶民の怒りです。

 

織田信長の家臣団と軍団 top (街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、 直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}

 山城国(注意)戦国期です。

  室町足利TOP  このページTOP

 <僧侶> 1326年幕府調伏祈願、延暦寺・園城寺・山科寺・仁和寺。 1333年鎌倉幕府滅亡。

文観 (*)小野・弘真。天台宗、西大寺の律僧。真言密教の僧侶。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。第二次倒幕計画で捕縛される。硫黄ケ島に配流。「元弘の変」。討幕後、東寺一長者に任命される。

玄基 (*)聖護院法庁法眼。山伏の総本山・聖護院の僧侶。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。

知暁 (*)西大寺の律僧。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。

智教 (*)上人。奈良南都の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。

教円 (*)上人。奈良南都の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。

春雅 (*)峯・峰僧正。後醍醐天皇の外戚。第二次倒幕計画で捕縛される。筑紫に流罪。建武に一時筑紫の旗頭。

遊雅 (*)伊達三位房・祐雅法師。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。幕府に内通し、第一次倒幕計画を密告。第二次倒幕計画で捕縛される。

円観 (*)法勝寺の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。

忠円 (*)僧正。浄土寺の僧侶。第二次倒幕計画で捕縛される。

祐覚 (*)道場坊。1336年比叡山籠城に従う。京都退去に従軍。

宗信 (*)吉水院法印。金峯山寺の僧坊・吉水院坊官。後醍醐天皇の吉野入りを応援。後村上天皇を補佐。

 1333年後醍醐天皇、隠岐を脱出し船上山に挙兵。

<後醍醐天皇の皇子・親王の地方配置>探題職にて分割支配。

尊良親王 (*1306〜1337)一ノ宮・一品・中務卿・将軍宮。北陸探題。後醍醐天皇の皇子。母は二条(冷泉)為世の娘。吉田定房に養育される。1326年元服し中務卿。1331年「元弘の乱」に笠置山に籠城する。1332年捕縛され土佐に流罪。1333年九州に渡り大宰府を攻略。帰京する。1335年足利尊氏討伐の上将軍。新田・脇屋を率いるが「竹ノ下合戦」に敗北。1336年比叡山籠城。1336年足利尊氏から敗走し、恒良皇太子、新田義貞とともに北国に落ちる。1337年越前金ヶ崎落城の際に一条行房とともに自害。

世良親王 (*1306〜1330)二ノ宮・太宰師。上野太守。後醍醐天皇の皇子。母は西園寺実俊の娘。24歳で死去。

護良親王 (1308〜1335)三ノ宮・征夷大将軍・天台座主尊雲・兵部卿。後醍醐天皇の息。母は源ノ師親の娘。1318年延暦寺梶井大塔宮に出家。1325年梶井門主。1331年後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応して僧兵を率いて挙兵。楠木正成の千早城に逃れ、十津川、熊野、吉野、高野山を拠点に活動する。1332年還俗。大和・吉野に籠城。二階堂貞藤に敗北する。倒幕後、足利尊氏と対立し信貴山に籠城。1334年結城親光・名和長年に捕縛され、鎌倉に配流。1335年北条時行の「中先代の乱」の混乱に暗殺される。28歳。

宗良親王 (1311〜1385)妙法院・尊澄法・信濃宮・征夷大将軍。遠江、信濃。東国探題。後醍醐天皇の息。母は二条(冷泉)為世の娘。延暦寺妙法院に出家し後に天台座主。1331年「元弘の乱」に下山し笠置山に籠城する。捕縛され讃岐に流罪。1333年幕府滅亡後に京に帰還。1337年還俗。1338年北畠親房とともに東国に向け出航するが遭難。井伊道政の庇護の下、遠江の井伊に居住する。のち越後に向かい、1344年信濃大河原に進出する。1352年南朝の征夷大将軍に任官。1374年吉野に帰還。「君のため 世のためなにか をしからむ 捨ててかひある 命なりせば。」75歳。 <「君のため」の句は、坂本竜馬が愛した詩らしいです。ただし竜馬さんの場合は尊王思想ではなく、おとめ姉さんや、恋人お竜さんの為のようですが(そのほうが竜馬さんらしい感じがします)。>

⇔恒良親王 (1324〜1338)皇太子・北陸探題。越前金ヶ崎城主。後醍醐天皇の息。母は洞院公簾の娘・阿野廉子。1331年「元弘の乱」に笠置山に籠城する。捕縛され但馬に流罪。1333年太田守延に奉じられ挙兵。千草忠種とともに六波羅攻略に参加。1334年皇太子に即位。1336年比叡山籠城。1336年足利尊氏から敗走し、尊良親王、新田義貞とともに北国に落ちる。1337年越前金ヶ崎にて、高師泰軍に敗北。1338年捕縛され京都の花山院幽閉される。

成良親王 (1326〜1344)四品・上野太守・鎌倉殿・関東探題・将軍宮。後醍醐天皇の息。母は阿野廉子。1333年足利直義に奉ぜられ鎌倉下向。1335年北条時行の「中先代の乱」に敗走。帰京し1335年征夷大将軍に任官。持明院統光明天皇の皇太子に約束されるが、後醍醐天皇が吉野に逃亡し罷免される。京都近衛基嗣邸にて死去。

義良親王 (1328〜1368)後村上天皇・憲良親王。第97代天皇<在位1339〜1368>陸奥太守・奥州探題。後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。1333年北畠顕家、顕信とともに陸奥に下る。建武新政に東北の鎮護となる。1335年、1337年の二回に亘り足利尊氏討伐のために上洛。1339年吉野に即位し京都奪還を目指す。賀名生(あのう)、住吉、河内「観心寺」を拠点とする。1352年男山八幡に籠城。息に(長慶)、(後亀山)。<ヨシヨシ親王とは呼べないから、ヨシナガ親王なんじゃないでしょうか、ということは護良親王はモリナガ親王と呼ぶか。>

懐良親王 (*1329〜1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1337年伊予国忽那島上陸。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。

満良親王 (*)花園宮・四国探題・常陸親王。後醍醐天皇の息。母は藤原氏。1338年四国に渡海。錦打入道の後見で土佐「大高坂城攻撃」。1351年周防国に挙兵。以後消息不明。

守良親王 (*)五辻・兵部卿宮。亀山院皇子。大覚寺派宮家。1333年佐々木高氏に擁立され近江太平寺城に入城、六波羅南北両探題の北条時益・北条仲時を近江息吹山で討つ。後醍醐天皇の意向で九州鎮定に派遣される。

  室町足利TOP

 『 浪合記 』 信濃国伊那郡浪合− 1709年天野信景執筆

尹良親王 (1364〜1424)宗良親王の息。後醍醐天皇の孫。

良王君 (*)後醍醐天皇の曽孫。のち尾張津島に隠棲する。

 「思ひきや 手も触れざりし梓弓 起き伏し我が身馴れむものとは」 -『李花集』宗良親王-

 

  大覚寺派貴族

日野資朝 (1290〜1331*1332)中納言・検非違使別当・左兵衛督。儒学者。日野俊光の息。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。「日野の双輪」のひとり。反幕の人材を纏める。1324年「正中の変」で捕縛され佐渡に流罪。第二次倒幕計画で捕縛される。1331年「元弘の変」に、配所で処刑される。息に日野朝光、邦光。

日野俊基 (*〜1332)蔵人・右少弁。日野種範の息。儒学者。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。「日野の双輪」のひとり。後醍醐天皇の命で全国を巡る。楠木正成を挙兵させる使者。1331年4月「元弘の変」第二次倒幕計画発覚で捕縛される。

千草忠顕 (*〜1336)六条・参議・少将・宰相中将・左近衛少将。権中納言・六条有忠の息。父親から勘当される。後醍醐天皇の側近。「三木一草」のひとり。伊勢国三重郡千草を領する。1331年大和笠置籠城に天皇に従う。1332年の隠岐配流に従った側近。笠置山に篭城。1366年比叡山に籠城。足利直義との「雲母坂の合戦」に戦死。息に具顕・長忠・忠方・顕経あり。顕経は北畠氏に従い伊勢禅林寺城主。

万理小路季房 (*〜1333)伊勢守・備前守・右大弁・中宮亮。万里小路宣房の息。1331年「元弘の変」に捕縛され、配所先の下野国にて殺害された。息は宣房に京都にて養育され、持明院党派の公家となる。

万里小路宣房 (1258〜1348)万里公路・蔵人頭・大納言・通俊。万里小路資通の息。後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1324年「正中の変」に鎌倉に赴き後醍醐天皇を弁明。1331年「元弘の変」では息子二人に連座し捕縛される。笠置山に篭城。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。息子・藤房の不出仕により傷心し、1336年出家。<三房の名の通り参謀なのでしょう。>

万里小路藤房 (1295〜1380)中納言。万里小路宣房の息。御醍醐天皇の側近。1331年「元弘の変」に大和笠置籠城に天皇に従う。捕縛され配所先の下総国にて小田治久を説得。1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。1334年建武新政に失望し北山に出家隠遁。

北畠親房 (1293〜1354)後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1338年東国に向かい神宮寺城主・小田治久に迎えられる。息に顕家、顕信、顕能、顕雄。娘婿に冷泉持定。<三房の名の通り参謀なのでしょう。>

 

  このページTOP

 <後醍醐帝側近、上流貴族> 

(摂家:摂政・関白任官階級:藤原長者家)一条・二条・九条・近衛・鷹司の5家「五摂家・執柄家」

(清華家:太政大臣任官階級)久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川の7家。

吉田定房 (1274〜1336)権大納言。吉田経房の息。後醍醐天皇の腹臣「三房」のひとり。1331年、第二次倒幕計画を六波羅探題に密告「元弘の変」。1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。吉野で病没。<三房の名の通り参謀なのでしょう。><織田信長の時代にもかかわりのある吉田家・・。>

▽吉田冬房 (*)冬方。吉田経長の息。御醍醐天皇の側近。

中御門経季 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。

中御門宗兼 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。

中御門宣明 (*)参議。1336年比叡山籠城。

中院良定 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。

九条光経 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。

⇔一条行房 (*〜1337)世尊寺・藤原・頭大夫・左近衛中将。世尊寺経名の息。弟に行尹。後醍醐天皇の側近。1331年千種忠顕とともに隠岐流罪の天皇に近侍。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。1337年越前金ヶ崎城の落城に尊良親王とともに自害。息に行実、成朝。<勾当内侍の一門。兄妹とも。>

▽一条行尹 (*)世尊寺・藤原。世尊寺経名の息。藤原(一条)行房の養子(弟)。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。1337年兄の死により家督。

花山院師賢 (*)藤原・尹大納言。後醍醐の側近。討幕の無礼講参加者。1324年「正中の変」関係者。後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。1331年第二次倒幕計画の際、陽動の為、天皇の影武者を務め比叡山に登る。

鳥丸成輔 (*)後醍醐天皇の倒幕計画に加担する。

洞院公賢 (1291〜1360)藤原・内大臣。洞院実泰の息。阿野簾子の養父。1333年後醍醐天皇の復権により西園寺公宗が失脚。再度、内大臣となる。のち北朝の光厳院の院執事、太政大臣となる。北朝における親南朝派として、1351年二条良基に代わり、左大臣に任官。息に実世、実夏。

洞院実世 (1308〜1358)藤原・権大納言・左衛門督。洞院公賢の庶子。公家侍大将。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。1324年「正中の変」関係者。1336年比叡山籠城。二条師基とともに京都に兵を進めるが敗退。1336年恒良親王に従い越前下向。金ケ崎城を脱出する。1349年伊賀国にて南朝勢力の旗頭。後村上天皇を補佐・権大納言。1351年男山籠城。1352年丹波守護代・荻野朝忠を追討する。光厳上皇、光明上皇を捕縛する。息に公行。

洞院定世 (*)左衛門監。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。

洞院実守 (*)北朝、南朝、北朝、南朝、北朝に出仕。「忠貞の志に欠ける人物」として有名人。

清原康基 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。

久我長通 (1280〜1353)右大臣・奨学院別当。久我通雄の息。1333年後醍醐天皇の復権により近衛経忠が失脚。再度、右大臣となる。1340年太政大臣。

御子左為定 (*)大納言。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

御子左為次 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。

藤原公明 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

観修寺経顕 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

藤原公光 (*)民部卿。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

竹林院公重 (*)大納言。1336年比叡山籠城。

坊城経顕 (*)中納言。1336年比叡山籠城。

葉室長光 (*)中納言。1336年比叡山籠城。

 

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

 <貴族> (五摂家には近衛・鷹司、九条・一条・二条の2流)

↓○二条師基 (1301〜1365)権大納言・太宰権帥。二条兼基の息。北朝に属した二条道平の一門。公家侍大将。尊良親王の後見人として九州に赴任し鎮西探題の太宰権帥。のち帰還し京都山陰・北陸道口の主将。1336年比叡山籠城に北陸道の兵員を率いて参戦。中院定平と河内に落ちる。後村上天皇の関白。息に教基。

二条為冬 (*〜1335)中将。足利尊氏の盟友。1335年足利尊氏追討軍の将。1335年「竹ノ下の合戦」後に討死。

坊門清忠 (*〜1338)藤原・右(左)大弁・左京大夫・坊門宰相。坊門俊輔の息。兄に俊親(1322年に出家)。「建武の新政」に大蔵卿。1336年楠木正成の和平策を一蹴し。「湊川の合戦」の死地に追いやった。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。吉野で病没。<現実を見ず。自らは動かず。楠木正成ファンから、はげしく評判の悪い貴族です。>

坊門雅忠 (*〜1336)少将・正忠。公家侍大将。1336年比叡山籠城。1336年千草忠顕に従い出陣し「雲母坂の合戦」に戦死。<伊勢湾の海賊・九鬼氏は坊門氏の後裔とも。>

藤原範国 (*)岡崎・右中弁。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

甘露寺藤長 (*)藤原・左中将・左大弁。1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

↓三条泰季 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。のち九州薩摩に派遣される。

四条隆光 (*)中将。1336年比叡山籠城。

五条頼元 (1290〜1367)勘解由次官・少納言。清原良枝の息(次男)。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年北朝の光厳上皇に従うが、出奔。のち懐良親王の後見人。九州に派遣される。阿蘇氏の南朝勧誘に勤める。

園 基隆 (*)園ノ・中将。1336年比叡山籠城。

 

 

 <後村上天皇の補佐>  (五摂家には近衛・鷹司、九条・一条・二条の2流)

北畠親房 (1293〜1354)大納言・源氏長者・宗玄・覚空。淳和・奨学院別当。北畠師重の息。後醍醐天皇の側近「三房」のひとり。世良親王の養育係り。1380年親王が没し出家。結城宗広とともに義良親王を後見して関東遠征。弟に冷泉(春日)持房。

近衛経忠 (1302〜1352)藤原・左大臣。近衛家平の息。1330年後醍醐天皇の下で関白職。近衛基嗣と嫡流を争う。後村上天皇側近。1341年京都に帰還し持明院党の公家の内部分裂工作を行うが失敗。

藤原康長 (*)法性寺左兵衛督・左近衛中将。藤原親康の息。後村上天皇側近。公卿武者。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。

日野邦光 (1320〜1363)左兵衛督・権中納言。日野資朝の息。後村上天皇側近。公卿武者。1339年新田義氏とともに中国地方に下向。石見国に挙兵する。1362年幕府から失脚離反した元管領・細川和氏とともに京都乱入。44歳。

藤原隆俊 (*)四条。藤原康長、日野邦光とともに幕府軍と抗争。1362年幕府から失脚離反した元管領・細川清氏とともに京都乱入。

 

  護良親王(大塔宮)の軍団

<貴族・公卿衆> 1331後醍醐天皇、大和笠置山に挙兵「元弘の乱」。1334年護良親王、鎌倉に幽閉される。

殿ノ法印良忠 (*)護良親王の側近。公家侍大将。1333年大和口から一手大将として京都乱入。

四条隆資 (1292〜1352)藤原・権中納言・大納言。四条隆実の息。祖父・隆顕の養子。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。護良親王の側近。公家侍大将。無礼講1324年「正中の変」関係者。1331「元弘の変」に笠置山に籠城。紀伊に落ち出家。1333年「建武新政」に復帰し恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年比叡山籠城。1347年楠木正行に呼応して東条城に籠城。後村上天皇を補佐、権中納言。1351年男山籠城。1352年丹波守護代・荻野朝忠を追討する。光厳上皇、光明上皇を捕縛する。後村上天皇とともに吉野脱出の際に討死。

中印ノ定平 (*〜1337)陸奥守・左近中将。護良親王の側近。公家侍大将。1331年挙兵の陽道の為、比叡山に登る。1333年大和口から一手大将として京都乱入。1335年西園寺公宗逮捕の部隊を率いる。1336年「湊川の合戦」に参陣。1336年比叡山籠城。二条師基とともに河内におちるが、以降消息不明。息に定清、雅平、洞院兼任。

湯浅氏光 (*)大塔宮入洛に供奉。その後は足利尊氏に従い、1337年河内国の「東条の合戦」には武家方。息の光重は楠木正行の家老和田氏を討つ。

 

 

 南朝の軍団

<宮方の武将、悪党>

足助重成 (*〜*1324)浦野・次郎・。三河賀茂郡足助出身。足助重範の従祖父。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。「正中の変」に逃亡。<勤皇に励む足助党。>

多治見国長 (*〜1324)四郎二郎。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講「正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ、「正中の変」に六波羅探題・常盤範貞に攻撃され自害。

土岐頼員 (*〜1324)十郎・左近・蔵人・頼兼。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。無礼講1324年「正中の変」関係者。六波羅に第一次倒幕計画が漏れ捕縛される。「正中の変」に六波羅探題・常盤範貞に攻撃され自害。息に土岐頼直。伊予国にも所領を有する。<もともと嫡流であったのが、後醍醐天皇に加担した罪で、家督からはずれたのでは。領地の接する伊予の宇都宮家、河野家と連合していたのかもしれませんね。>

⇔↓▽土岐頼直 (*)土岐頼員の息。惣領・頼清の従兄弟。1336年比叡山籠城。娘婿に宇津宮(武茂)泰藤。1336年恒良親王に従い越前下向。美濃里見城主。<南朝方に忠節を尽くした為に惣領職から外れるか。>

船木頼春 (*〜1324)土岐。土岐頼員の弟。1324年「正中の変」発覚の原因者。舅の斎藤利行により幕府への謀反が訴えられる。

土岐頼貞 (1271〜1339)伯耆守。美濃源氏。土岐惣領家。土岐光定の七男。母は北条貞時の娘。一族の(兄?)土岐頼員が後醍醐天皇に協力し「正中の変」で幕府の追討を受ける。建武新政に美濃守護職。1333年倒幕の際に足利尊氏に従う。1336年足利尊氏の西国落ちに従軍。<「正中の変」で討死した(兄?)頼員に代わり土岐惣領職継承。>

土岐頼清 (*)土岐頼貞の長男。頼康の父。土岐惣領家。美濃小島城主。伊予国にも所領を有する。<1336年後醍醐天皇方に与し、室町幕府下では弟・頼遠が家督を継承するか。>

⇔▽土岐頼遠 (*〜1342)弾正少弼。美濃の豪族、土岐頼貞の六男。頼清の弟。土岐惣領家。尊氏に従い父と友に各地で転戦。高ノ師直・師泰兄弟と懇意。1336年足利尊氏の西国落ちに従う。1336年「多々良浜の合戦」、1338年美濃国「青野原の合戦」で北畠顕家を迎え撃ち名を馳せる、1339年父の死により家督を継承。美濃守護職。1342年「光厳上皇狼藉事件」を起こす。<建武親政ののち土岐家は南朝派、北朝派に分裂。頼遠は足利尊氏に従い、幕府の中心的な軍事力を負担。>

土岐貞経 (*)蜂屋・近江守。土岐頼遠の従兄弟。1335年尊氏の関東下向に従う。

土岐頼康 (1318〜1387)大膳大夫・刑部大輔・入道善忠。土岐頼清の六男、土岐頼貞の孫。土岐惣領家。1342年叔父の自害により家督継承。革手城に本拠に定め、国衆・斎藤氏を従える。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。常に足利尊氏党を貫く。1352年に尾張守護職、1360年伊勢守護職。将軍・足利義満の代に管領・細川頼之と対立。1379年斯波義将と共謀し頼之を失脚させる。息に満貞、康行(養子)。<持明院党への無礼により足利直義に追放された頼遠の失脚により、嫡流家の頼康が惣領職に復権したか。>

長山頼兼 (*)土岐・明智・次郎。土岐頼康の弟。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。

揖斐頼雄 (*)土岐・新蔵人・いび。土岐頼康の弟。1349年「観応の擾乱」に尊氏派。<揖斐氏は戦国時代に土岐家一門の守護者として斎藤道三に徹底抗戦。>

伊賀兼光 (*〜*1336)山城・兼光。山城守・光政の息。文観とは子檀関係。朝廷方に通じる。後醍醐の側近。1321〜24年討幕の無礼講参加者。六波羅探題の引付頭人、鎌倉御家人。1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。1336年以降、消息不明。

 

織田信長の家臣団と軍団 top (街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、 直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}

(鎌倉幕府倒幕の過程)

  室町足利TOP  このページTOP

 <1333年船上山城籠城。後詰軍>

楠木正成 (*〜1336)楠兵衛尉・左衛門尉。河内国の土豪。1331年「元弘の乱」笠置山挙兵に呼応。備後一宮の桜山茲俊とともに反幕。「三木一草のひとり」。和泉守護代。<楠木正成の家臣団を参照してください。>

桜山茲俊 (*〜1331)品治・慈俊・四郎入道。吉備津神社神官。備後品治郡桜山出身。備前の豪族。後醍醐天皇の挙兵に呼応して、備中・安芸を勢力化に置くが、大和笠置山・河内赤坂の落城を聞き、一宮に自害する。<太平記巻3に登場。>

和田範長 (*)備後守。児島高徳の母方の祖父。伊予河野氏の一門、和田・今木・大富氏のひとつ。一貫して南朝方に属す。

児島高徳 (*)三宅・小島・今木・備後・三郎・入道志純。備前の豪族。笠置山の挙兵に呼応して、反幕の挙兵。桜山の死後、備中旗頭。<太平記の作者とも推定されている。><一族は足利直冬に従い没落とも。>

村上義光 (*〜*1333)彦四郎・義日。信濃国住人。息・義隆とともに護良親王に従う。1331年笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。吉野にて護良親王の影武者として自害。<弟の子孫に、武田信玄と信濃で抗争する村上義清が出現。>

赤松則村 (1277〜1350)次郎・入道円心。播磨佐用地頭職。赤松茂則の息。「建武の新政」に失望し、武家支配を目指す足利家家臣となる。74歳。息に範資(のち摂津守護)・貞範(のち美作守護)・則祐・氏範。<足利尊氏・北朝の家臣団を参照してください。>

赤松則祐 (1314〜*)播磨国の悪党。赤松円心の息(三男)。比叡山延暦寺の僧出身。護良親王の側近となる。1331年笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。のち足利幕府家臣。1351年兄の死により赤松家惣領となる。1361年細川清氏が南朝と結び、楠木正儀ら南朝軍が京都を占領した際、足利義満を白旗城に迎える。

赤松氏範 (1329〜1386)弾正小弼。赤松円心の息(四男)。護良親王の側近となる。1360年惣領の則祐に従い一時北朝に帰順するが、のち南朝吉野に再出仕。

 ←赤松氏の興亡。

平賀* (*)三郎。護良親王の側近。1331年笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。<村上とならび信濃の武士でしょうか。>

光林房玄尊 (*)護良親王の側近。1331年笠置山落城に、護良親王の熊野落ちに従う。

木寺* (*)相模。護良親王の側近。

岡本* (*)三河房。護良親王の側近。

岡本* (*)武蔵房。護良親王の側近。

片岡* (*)八郎。護良親王の側近。

矢田* (*)彦七。護良親王の側近。

名和長年 (*〜1336)又太郎・伯耆守。「三木一草のひとり」。伯耆国名和湊の海賊。隠岐配流の天皇を援助し、船上山に籠城。隠岐守護・佐々木清高を撃退する。1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。1334年10月天皇の命で護良親王を捕縛。1335年西園寺公宗を誅殺する。1336年1月京都に進駐した足利軍を兵糧攻め。尊氏を西国に落とす。東上する足利軍に「湊川の合戦」に敗北。1336年新田義貞とともに出陣し、仁木頼章、上杉重能軍との「六条大宮の合戦」に草野秀永に討たれ戦死。

名和義高 (*〜1338)検非違使・左衛門督・判官。名和長年の長男。三条富小路に居館を与えられる。楠木正成、結城親光と並び後醍醐天皇の親衛隊。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。跡職は義興が継承。

↓▽名和長生 (*)大井・長和・長重。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れる。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。

富士名義綱 (*)佐々木・三郎左衛門・判官。塩治一門。出雲意宇郡の土豪。佐々木高雅の息。出雲守護・佐々木清高に従う。1333年船上山の後醍醐天皇に塩治高貞とともに出仕。のちに惣領・塩治高貞と対立する。

結城親光 (*〜1336)九郎・左衛門佐・大夫判官。宗広の息。1331年「元弘の乱」に鎌倉幕府軍として上洛するが、後醍醐天皇側に走る。天皇の信任を得、寵用される。「三木一草」のひとり。1333年「建武新政」の恩賞方、一番局。東海道・東山道担当。1334年10月天皇の命で護良親王を捕縛。1336年偽って投降し大友貞載を討つ。

⇔↓宇都宮公綱 (1302〜1356)治部大輔。宇都宮第9世。宇都宮貞綱の息。母は北条長時の娘。1333年「元弘の乱」に楠木正成討伐に上洛。のち後醍醐天皇に応じ反鎌倉幕府。1335年関東足利尊氏追討軍に従軍。1335年足利尊氏軍に敗北し降服。尊氏が九州に落ちた際に後醍醐天皇方に帰参。関東に戻り、北畠顕家に従い各地を転戦する。55歳。息に宇都宮氏綱。

小田治久 (*1283〜1352)民部大輔・高知。常陸守護職。常陸国小田七世。鎌倉幕府に従い小山秀朝・佐々木高氏とともに笠置山、金剛山で朝廷軍と合戦する。万里小路藤房を囚人として預かる。藤房の説得で朝廷側に転ず。1333年藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名。常陸にて北朝方の佐竹貞義と抗争。1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を迎える。1339年10月高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。1340年高ノ師冬の攻勢に抗しきれず、1341年11月降伏。北朝政権下でも冷遇される。小田城主。

小山秀朝 (*〜1335)大夫判官・下野守・高朝。1333年幕軍として上洛。1333年新田義貞の挙兵に応じ鎌倉乱入。1335年「中先代の乱」に武蔵「府中の合戦」に戦死。<土岐家と同様に。惣領家と分家の政権交代があったようです。>

千葉胤高 (*〜1333)千田。千葉一族。千葉胤貞の嫡男。早世したため、1334年弟・胤平が跡職を継承する。<九州千葉氏。>

黒田* (*)伊勢大湊の悪党。名張郡の豪族。1333年赤松円心に呼応して挙兵。各親王の地方遠征に軍船を提供する。<戦国時代に羽柴秀吉配下となった伊勢大湊の豪族は吉川氏。鳥取城攻囲に参加している。>

高間行秀 (*)大和の豪族。1333年赤松円心に呼応して挙兵。

兵衛職政 (*)大夫判官。1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。

中原秀清 (*)1333年「建武新政」の恩賞方、二番局。北陸道担当。

石川義純 (*)河内の豪族。1331年笠置山挙兵に呼応。

錦織俊政 (*〜1331)河内判官代。河内の豪族。1331年笠置山挙兵に参陣。笠置山に戦死。<新田氏族の錦打氏と事績混同されているかも。><「承久の乱」に後鳥羽上皇の側近の武士で、藤原秀康の弟が河内判官、率いる武士団のリストに錦織氏あり。>

宇佐美貞祐 (*)宗佐美・摂津守・摂津前司。1333年武者所第六番。<楠木一門衆?>

河内* (*)左近大夫・和仁。1336年4月武者所六番。<楠木一門衆?>

高木遠盛 (*)1337年北朝方・細川顕氏の与力・土屋宗直に占領された河内国八尾城を攻囲。

和田助氏 (*)蔵人。和泉国御家人。和田助家の息。南朝方武家。1347年細川顕氏と抗争。<楠木一族の和田氏とは別系統のようです。三浦氏の流れということで、戦国時代の織田家重臣の佐久間信盛が三浦氏族なのも、前例が踏襲し畿内の支配に抜擢された理由なのかもしれませんね。>

忽那重清 (*)藤原重清。忽那水軍惣領。伊予国の豪族。元・鎌倉幕府御家人。重義の息(長男)。1331年弟・義範、一族の重明とともに後醍醐天皇に従い挙兵。長門探題・北条時直軍を撃退する。1336年北朝に従い弟・義範と抗争。吉良貞義が忽那制圧に派遣される。息に重勝、親重。

↓忽那義範 (*)藤原義範・下野法眼・下野房・下野坊。忽那水軍惣領。伊予国の豪族。元・鎌倉幕府御家人。重義の息。後醍醐天皇に早くから従い反鎌倉幕府。1336年北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣領。伊予落ちした脇屋義助を援助。1337年懐良親王を三年間、自領に匿う。

足利高氏 (1305〜1358)征夷大将軍・足利尊氏。義氏流六代。1333年丹波篠村にて鎌倉幕府から離反する。1349年高兄弟と弟・直義の政争が勃発。1350年「観応の擾乱」。

足利直義 (1306〜1352)征夷副将軍・関東管領・三条殿。尊氏の実弟。1333年後醍醐天皇討伐軍として高氏の上洛に従う。遠江「薩??山の合戦」に畠山国清に破れる。1352年尊氏の命により鎌倉にて毒殺される。

 足利幕府の変遷

 

  後醍醐天皇の軍団 京都防衛軍1336年1月〜

対:足利尊氏戦 「京中合戦〜湊川合戦」

 室町足利TOP  このページTOP

 

洞院公泰 (1305〜1364)冷泉・大納言・右大臣。左大臣・実泰の息。異母兄に公賢。後醍醐・後村上・長慶の三代に歴仕。1336年脇屋義助とともに足利軍を迎撃。息に実茂。

二条師基 (1301〜1365)関白・二条兼基の息。道平の弟。1333年太宰権帥任官。尊良親王を補佐し九州旗頭。1335年京都北西を守備。尊氏方の久下時重に敗北する。越前・加賀の軍勢を糾合し比叡山の新田義貞を救援。中院定平とともに河内に蟄居。1337年南朝に属す。後村上天皇の関白。息に教基。

海老名* (*)五郎左衛門。山科の土豪。南朝方武者。

長井* (*)九郎。但馬の豪族。南朝方武者。

松田盛朝 (*)波多野・十郎・備前守。備前守護。伊福郷地頭職。盛経の息。叔父に波多野経秀。1333年太田全職、高津入道とともに備前三石城にて反幕府。息に(鹿田)盛信、信重。1355年赤松則祐が備前守護。<金川郷の松田氏?>

▽松田元国 (*)波多野。相模松田氏。伊福郷を継承。息に元隆(元喬)。<戦国時代、伊勢新九郎とともに関東に下向し後北条氏の重臣の松田氏へと結びついたり・・。>

高津* (*)上総・入道清源。松田盛朝とともに備前三石城に入城。

高津長幸 (*)与次・播磨権守・入道道性。1333年後醍醐天皇の挙兵に応じ、長門探題・北条時直を破る軍功。息に次郎三郎。1335年北条上野四郎の反乱を鎮圧。のち石見国で守護・上野頼兼と抗争。1351年「観応の擾乱」に足利直冬に属す。

太田全職 (*)左衛門尉・判官・検非違使。南朝方武者。1333年松田盛朝、高津入道とともに備前三石城にて反幕府。持明院党を監視。1336年花園上皇、豊仁親王を比叡山に警固。

 

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

  楠木正季 「七生まで 只 同じ人間に生まれ 朝敵を滅ぼさや。」 『太平記』 

  「天王寺の妖霊星」 楠木正成公 肖像のつもり。

大千早赤坂城の推定範囲(金剛山山頂を含む)

 

 

  「水走家」 みずはや 中臣氏後裔、枚岡連

水走忠連 (*)枚岡・民部大夫。河内国豪族。枚岡神社神職。大和川水系の水運を支配し、「大江御厨」を管理する。対馬守・忠雄の息。弟に忠連、忠祐、康政。<弟二人は父の官位、対馬を名乗る。>

▽水走忠祐 (*)枚岡・対馬二郎。対馬守・忠雄の息。兄に忠連、弟に康政。

▽水走康政 (*)枚岡・対馬四郎。対馬守・忠雄の息。1331年後醍醐天皇方に属し、楠木正成を支援。「湊川合戦」後は楠木正行を支援。1348年高ノ師直との「四条畷の合戦」に敗北し、降伏する。息に忠名、忠夏。

↓平岡* (*)(水走・枚岡)・弥太郎。1331年恩智三郎とともに楠木正成に従い討幕の挙兵。枚岡神社に戦勝報告。

水走忠夏 (*)枚岡。康政の息。兄弟に忠名。息に忠武、忠康、忠光、忠重、忠弐。

 ≪個人的感想≫

 古代、天一族の「天ノ忍穂耳」東征軍を撃退した。道速振ノ命の後裔に相当する一族なのでは。

春日氏、中臣氏の祖と関わり、注意すべき家系です。

 

   山名持豊の家臣団と軍団

 楠木正成の家臣団<楠木党第壱世代> 赤坂籠城に屈強の射手200人。1336年「湊川の合戦」に玉砕。

▲楠木正遠 (*)河内入道・正康。1295年播磨国東大寺領、大部荘を強襲する。牛馬・兵糧・貸銭・農具を強奪した。<楠木正成の父親とされる。>

楠木正成 (*〜1336)楠兵衛尉・左衛門尉・河内判官。河内国の悪党。1331年「元弘の乱」に護良親王に応じて挙兵。赤坂城、千早城に幕軍を釘付けにする。1333年「建武新政」の恩賞方、三番局。山陽道・山陰道・畿内担当。「三木一草」のひとり。1336年2月新田軍に勝利した足利軍を京都洛中にて兵糧攻め、九州に敗走させる。1336年5月「湊川の合戦」に足利尊氏に破れ自害。

楠木正季 (*〜1336)帯刀・七郎・和田正氏・正景。楠木正成の弟。南朝方の楠木党。1331年楠木正成の挙兵に参加。1336年5月「湊川の合戦」に足利尊氏に破れ自害。息に和田(にぎた)賢秀・高家。

神宮寺正師 (*〜1336)太郎兵衛。楠木一門衆。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。

佐備正安 (*)佐美。楠木一門衆。

和田正遠 (*〜1336)五郎。楠家宿老。楠木一門衆。南朝方の楠木党。1331年楠木正成の挙兵に参加。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。

和田正高 (*〜1336)五郎・正隆。楠木一門衆。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。

橋本正員 (*〜1336)八郎。楠木一門衆。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。

大塚* (*)楠木一門衆。南朝方の楠木党。

恩地満一 (*)左近将監。南朝方の楠木党。河内国恩地城主。1337年7月病没。

▽恩智* (*)三郎。枚岡神社氏子。1331年平岡氏とともに楠木正成に従い討幕の挙兵。枚岡神社に戦勝報告。

↑平岡* (*)(水走・枚岡)・弥太郎。1331年恩智三郎とともに楠木正成に従い討幕の挙兵。枚岡神社に戦勝報告。

豊浦* (*)枚岡神社氏子。1331年恩智三郎とともに楠木正成に従い討幕の挙兵。枚岡神社に戦勝報告。

松原* (*)枚岡神社氏子。1331年恩智三郎とともに楠木正成に従い討幕の挙兵。枚岡神社に戦勝報告。

<楠木与党>

八尾顕幸 (*)八尾別宮八幡宮・別当。南朝方の楠木党。楠木正玄と領地争いをするが和解。1331年楠木正成の挙兵に参加。

矢尾常正 (*〜1336)八尾・新介・正春。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。八尾城主。

山本正景 (*〜1333)信貴正玄の息。南朝方の楠木党。1331年楠木正成の挙兵に参加。赤坂城の籠城戦にて戦死。

宇佐美正安 (*〜1336)河内守。南朝方の楠木党。1336年5月正成とともに「湊川の合戦」にて戦死。正成の一族16人のひとり。

箕浦友房 (*)南朝方の楠木党。

石河* (*)石川。南朝方の楠木党。<戦国時代の石川氏はどこから来たのか、気になるところです。>

松山* (*)南朝方の楠木党。<戦国時代の三好家の侍大将に松山氏あり。>

平野* (*)南朝方の楠木党。

春日地* (*)南朝方の楠木党。

八田* (*)南朝方の楠木党。

村上* (*)南朝方の楠木党。

渡辺* (*)南朝方の楠木党。

<摂津衆>

池田教依 (*)摂津源氏。源ノ頼政流。摂津の豪族。1334年「建武の新政」により摂津守護となった楠木正成に従う。1336年足利方に属し本領安堵。楠木正行の遺児・教正を養子とする。

大千早赤坂城の推定範囲図(拡大)

 

  室町足利TOP  このページTOP

 <第ニ世代>

 楠木正行の家臣団<楠木党第弐世代> 1347年挙兵。楠木党3000余騎。1348年「四条畷の合戦」に玉砕。

楠木正行 (1324*1326〜1348)帯刀・左衛門尉。楠木正成の長男。1336年父の戦死により家督。後村上天皇に出仕する。1347年紀伊国隅田荘を強襲。天王寺・住吉の幕府軍を攻撃、「藤井寺の合戦」に細川顕氏に圧勝。「住吉の合戦」に山名時氏に勝利し、1347年楠木軍3000人大将。1348年1月高兄弟との「四条畷の合戦」に討死。23歳。息に正綱。<摂津池田家養子に教正。>

楠木正時 (*〜1348)二郎。楠木正成の息。正行の弟。南朝方の楠木党。1347年紀伊国隅田荘を強襲。兄を補佐し各地に戦う。1348年高兄弟との「四条畷の合戦」に正行とともに討死。息に朝成。

楠木正家 (*〜1348)蔵人・将監・左近将監。南朝方の楠木党。1336年常陸国に派遣され佐竹貞義と抗争。1337年北畠顕家とともに上洛。1348年高兄弟との「四条畷の合戦」に戦死。<楠家の別系統か?>

和田賢秀 (*1328〜1348)新五郎・和泉守・新発智(しんぱち)・正朝・賢快。楠木御由緒家。楠木正季の息とも。和田高家の弟。楠木正行の従兄弟。南朝方の楠木党。1347年紀伊国隅田荘を強襲。河内国八尾・藤井寺にて細川顕氏・山名時氏を撃破。1348年高兄弟との「四条畷の合戦」に戦死。紀州の湯浅光重に討たれる。

和田高家 (*〜1348)新兵衛・行忠・正朝。和田賢秀の兄。楠木正行の従兄弟。南朝方の楠木党。1347年紀伊国隅田荘を強襲。1348年高兄弟との「四条畷の合戦」に戦死。

神宮寺* (*〜1348)小太郎。南朝方の楠木党。1348年高兄弟との「四条畷の合戦」に戦死。

橋本* (*)楠木御由緒家。南朝方の楠木党。

大塚惟正 (*)楠木御由緒家。南朝方の楠木党。1347年紀伊国隅田荘を強襲。

野田* (*)楠木御由緒家。南朝方の楠木党。

西阿* (*)大和国人衆。南朝方の楠木党。

開地* (*)大和国人衆。南朝方の楠木党。

 

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

  「楠木正行、和田和泉、二千余騎にて馳せ参り、皇居を守護し奉り、

誠に他事なき体に見えければ、人々みな退散の思いを翻し、山中は無為に成りにけり。」『太平記』

 「かえらじと かねて思へば 梓弓  なき数に入る 名をぞとどむる」

<楠木氏後裔>

戦国時代、伊勢楠山城に楠氏あり。楠山城は南朝方武将、諏訪十郎貞信が築城した。

八田城、平尾城、森本城など支城を築いて支配域を広げる。

楠氏の支族には、川俣、木俣、柳沼、太田など。

1567年頃から始まる織田信長配下の武将・瀧川一益の北伊勢侵攻により、北伊勢の楠木勢力は分裂した。

 

   室町足利TOP  このページTOP

 <第三世代>

  楠木正儀の家臣団<楠木党第参世代>  河内国、赤坂城・平石城・八尾城・飯盛城を防衛線。

楠木正儀 (*〜1382*1385)左衛門・河内守・左馬頭。楠木正成の息。正行の弟。息に正盛(正秀)。東条城主。1351年足利直義との和平交渉を斡旋するが失敗。1353年直義討伐に出陣した足利尊氏の留守に京都突入。細川頼春を討つ。1367年両朝講和を斡旋するが失敗。1369年和平交渉が暗礁に乗り、強硬派・長慶天皇と反目したため、細川頼之(頼春の息)の招きで幕府に降参する。河内・和泉守護。1378年南朝軍に敗北し守護を罷免される。1382年穏健派・後亀山天皇の南朝に復帰するが山名氏清に敗北。以後消息不明。<1385年紀伊三谷城に挙兵し山名義理により討たれるとも。>

和田正忠 (*〜1352)五郎。南朝方の楠木党。1152年楠木正儀とともに京都に乱入。「荒坂山の合戦」に土岐頼康を討取る。1352年後村上天皇の男山八幡籠城に、救援に赴く前に河内に病死。

和田正武 (*〜*1370)南朝方の楠木党。楠木正儀を補佐し幕府軍と抗争。1360年河内国赤坂城にて籠城戦。1362年摂津守護代・蓑浦(箕浦)俊定を攻撃。播磨の赤松光範と「兵庫多部田の合戦」。楠木正儀が北朝に降服し以降消息不明。

橋本正督 (*)南朝方の楠木党。1352年後村上天皇に従う。1353年南朝軍和泉国旗頭。和泉「土丸城攻略」。

楠木正久 (*〜1385)1360年畠山国清、義深兄弟の「紀州征伐」。1385年に楠木正儀の紀伊三谷城の挙兵に従い、大旗山に戦死。

 

 

    新田義貞の家臣団と軍団のページTOP 

 義良親王・北畠顕家の軍団<奥州軍第壱世代> 1333年8月多賀城入城。

北畠顕家 (1318〜1338)源ノ顕家・参議・陸奥守・鎮守府将軍・左近衛中将・弾正少弼。村上源氏中院流。北畠親房の嫡男。日野資朝の娘婿。弟に顕信、顕能、顕雄。1331年北山行幸の際「稜王」の舞を披露『増鏡』。義良親王とともに陸奥に赴任。伊達郡内霊山に居す。1335年奥羽・出羽の軍勢を率いて上洛し足利尊氏を九州に追い落とす。しかし、1336年関東の情勢悪化のため再度、奥州に派遣される。1337年本拠地を霊山城とする。奥州を鎮圧して1337年8月に再度上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ戦死。息に顕成。21歳。<村上源氏ということで、瀬戸の村上水軍や、北信濃の村上氏、東北浪岡の北畠氏に関連。>

▽多田貞綱 (*)源・木工助。摂津源氏。北畠顕家家臣。1334年奥州津軽に南朝方の地盤を作るため派遣される。南部師行、工藤貞行を厚遇し、曽我光高を冷遇。

▽冷泉家行 (*)北畠顕家とともに奥州軍。

▽広橋経泰 (*)(平ノ)・修理亮・右少将・肥後守・大納言。公家武人。平ノ宗経の息。兄に平ノ時経。伊達行朝の娘婿。1333年北畠顕家の奥州奉行。1335年相馬胤平とともに北畠顕家の上洛に霊山城の留守居。伊達郡、行方郡、岩前郡に侵攻。岩城の岩崎氏、石川氏を率いて常陸の佐竹義篤と抗争。伊賀盛光、小田治久と結んで常陸侵攻。1337年楢葉郡に中賀野義長を攻撃。息に経氏、泰尹。

↑▽春日顕国 (*〜*1344)侍従。公家武人。北畠顕家を補佐。のち顕信を補佐。1337年小田治久と結び常陸乱入。1337年顕家に従い上洛。1339年2月関東に下向し下野攻撃。1344年大宝城を襲撃し捕縛される。

⇔↑宇都宮公綱 (1302〜1356)治部大輔。下野国人領主。宇都宮第9世。貞綱の息、母は北条長時の娘。1333年「元弘の乱」に上洛し摂津四天王寺表にて楠木正成と対陣。1335・36年新田義貞に従い足利征伐に従軍するが敗北し降服する。再び朝廷方に帰参。1336年比叡山籠城。後醍醐党。北畠顕家に従い東国での宮方の重鎮となる。1338年紀清両党を率いて吉野に参じる。

↑結城宗広 (*〜1338)白河・孫七・上野介・上野入道。奥州式評定衆。奥州の結城氏。母は熱田大宮司・藤原範広の娘。陸奥国白河荘の領主。1333年後醍醐天皇に従い反幕府の挙兵、新田義貞とともに鎌倉に乱入。新田義貞とともに北条氏を討伐。長男・親朝は国許に残す。勲功から奥州の大領主となる。義良親王、北畠顕家に従い奥州評定衆。1336年顕家に従い上洛し、足利尊氏を破る。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり。顕家の2度の上洛戦に従う。1338年顕家が戦死し、吉野に逃れる。顕家戦死後、顕信を補佐し、南朝軍の挽回に尽力する。海路東国を目指すが伊勢津で病死。

⇔↑結城親光 (*〜1336)白河・九郎・左衛門佐・左衛門尉・大夫判官・宗朝。奥州の結城氏。結城宗広の息。親朝の弟。「元弘の乱」に鎌倉幕府軍として上洛するが、後醍醐天皇側に走る。天皇の信任を得て楠木正成とともに「三木一草」のひとり。1336年京都を占領した足利軍に降伏し、陣中にて足利の将・大友貞載を討ち果たし戦死。

結城親朝 (*〜1347)白河。宗広嫡子。父・宗広、弟・親光を奥州の地で支援。父・宗広が死去すると中立し、1344年に北朝に投降。奥州の南朝勢力が衰える。

相馬胤平 (*)奥州相馬氏。従兄弟に相馬重胤。1335年北畠顕家に出仕。標葉一門を率いて小高城の相馬光胤(重胤の息)を攻撃。1336年石川氏の松山城攻撃。1340年那須城攻撃。

⇔↑小田治久 (*1283〜1352)民部大輔・高知。常陸守護職。常陸国小田七世。鎌倉幕府に従い小山秀朝・佐々木高氏とともに笠置山、金剛山で朝廷軍と合戦する。万里小路藤房を囚人として預かる。藤房の説得で朝廷側に転ず。1333年藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名。常陸にて北朝方の佐竹貞義と抗争。1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を迎える。1339年10月高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。1340年高ノ師冬の攻勢に抗しきれず、1341年11月降伏。北朝政権下でも冷遇される。小田城主。

⇔南部師行 (*〜1338)源・岩手・又次郎。八戸南部氏第4代。建武政権の侍所国代・糠部奉行所。1333年多賀国府に出仕。朝廷方として早河禅門・岩楯曽我光高・工藤貞行とともに幕府と戦い「大光寺合戦」に軍功。1337年北畠顕家は本拠地を霊山城とする。奥州を鎮圧。1337年8月に北畠顕家に従い上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北。1338年高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。八戸根城城主。

↓▽南部政長 (*〜1350)源・岩手。師行の従兄弟・南部政行の息。八戸南部氏第5代。1335年北畠顕家の上洛には同行せず、足利方の曽我貞光を討伐。1338年父の戦死により家督。宇津峰城の北畠顕信に従う。1339年成田頼時・安保小五郎・倉光孫三郎・滝瀬彦次郎・工藤氏とともに津軽持寄城を攻撃。津軽岩楯城を攻撃。

▽成田* (*)六郎左衛門。鹿角の豪族。1336年南部政長とともに南朝方。

▽成田頼時 (*)小二郎左衛門・小次郎。1336年北朝方の浅利清連・曽我光俊と抗争。1339年南部政長に従い津軽持寄城を攻撃。1339年津軽大光楯を攻撃し曽我貞光を圧迫。大里館。

▽成田* (*)三郎左衛門。北畠顕信により北朝方に降伏した結城親朝への使者。

▽滝瀬* (*)彦次郎・入道。鹿角の豪族。1339年南部政長に従い津軽持寄城を攻撃。1341年曽我師助軍と抗争。

▽安藤* (*)四郎。南朝方安藤家。1339年南部政長に従い津軽尻八楯を攻撃。一門の安藤師季と抗争。沼楯、岩崎楯を攻撃。

南部信政 (*〜1338*)源・岩手・三郎・右近蔵人。南部師行の孫。政長の息(長男)。工藤貞行の娘婿。1335年北畠顕家の上洛に結城宗広・伊達行朝とともに従う。1337年8月に北畠顕家に従い上洛。1338年高兄弟との和泉「阿倍野の合戦」に顕家とともに戦死。息に信光、七戸政光。<1341年北畠顕信より鹿角合戦の軍功を賞されるとも。在命か。><1348年四条畷の合戦に高軍に敗北戦死というのは間違いでしょうか。>

南部為重 (*)左近将監・為長・義重。三戸南部氏。10代・南部義行の息(長男)。1335年北畠顕家の上洛に従う。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。弟・信長は足利尊氏に従う。<鹿角合戦の軍功は上洛した信政のものではなく、為重のものか。>

南部祐仲 (*)雅楽介・祐長・茂行。三戸南部氏。10代・南部義行の息(末子)。1360年南朝方から感状。

↓伊達行朝 (1291〜1348)蔵人・左近将監・宮内大輔・行宗。伊達郡領主・地頭職。伊達基宗の息、子息は宗遠。1335年北畠顕家の上洛に結城宗広・南部信政とともに従う。1337年北畠顕家を領内の霊山城に迎える。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり。伊佐城主。息に宗遠。

伊達宗遠 (*)伊達行朝の息。1380年長井氏を攻略。1381年武石行胤を撃破。亘理氏を攻略。信夫・苅田・伊具・柴田郡を領する。息に政宗。

伊達家貞 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。<鎌倉時代に但馬・備中に伊達家分家あり。>

二階堂行朝 (*)工藤・左衛門尉・信濃守・入道行珍。評定奉行。二階堂第7代。南朝方に属す。奥州八人式評定衆のひとり。1336年息・行親、娘婿・顕行が相次いで戦死。のち北朝方に転じる。岩瀬領主。

工藤貞行 (*)1336年南部師行とともに旧幕府軍の拠る持寄城を攻略し北畠顕家から賞される。1337年北畠顕家の再上洛に従軍。

▽二階堂顕行 (*〜1336)工藤。二階堂行朝の娘婿。南朝方に属す。奥州八人式評定衆のひとり。

葛西清宗 (*〜1335)(石巻)・遠江守・伊豆守・宗清・清信・胤信。奥州惣奉行家。葛西家第5代。1335年京都の攻防戦にて戦死。56歳。息に清貞。

⇔葛西清貞 (1313〜1346)(石巻)・武蔵守・貞清。清宗の息。奥州惣奉行家。葛西家第6代。陸奥国の牡鹿・桃生・登米・本吉・気仙・磐井・江刺・胆沢領主。牡鹿郡石巻を本拠とする。1336年北畠顕家に従い、南朝に忠節。1341年多賀城を奪取する軍功。石巻城主。34歳。弟に信常。息に良清。<左衛門尉・貞清とややこしい関係です。>

葛西武治 (*〜1343)対馬守・蓮阿。南朝方の柱石として伊達郡霊山城主。その死により、岩手郡雫石城に南朝方は敗退。<清貞の弟とも。>

⇔▽葛西良清 (1312〜1365)(石巻)・備前守・義清。葛西家第7代。武蔵守・清貞(清定)の息。南朝方中心勢力。蓮阿(武治)死没後、葛西家惣領。牡鹿郡石巻を本拠とする。1343年北朝方に転じる。息に満良。<清貞の弟とも。>

⇔▽葛西高清 (*)(寺池)・左衛門尉・因幡守・重清。葛西惣領・第七代。左衛門尉・貞清の息。最初、南朝・北畠顕家に従う。本家に石巻城の宗清、清貞親子あり。北朝方に寝返り本吉、気仙郡に進出。54歳。息に詮清。

留守家高 (*)三郎左衛門・美作守・作州。留守家助の息。留守第7代。北畠顕家に従い津軽、白河に出陣。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。

留守家次 (*〜1351)家冬。留守第8代。1334年建武政権に岩城郡に所領を与えられる。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。1351年「観応の擾乱」に吉良貞家、畠山高国の抗争に畠山方に従い戦死。

▽余目家任 (*)留守庶流。南朝方に出仕。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。1351年「観応の擾乱」に吉良貞家、畠山高国の抗争に畠山方に従い没落。<1352年足利尊氏から余目松法師が留守家復興を許可される。>

▽宮城* (*)留守庶流。南朝方に出仕。1336年三河矢作にて北朝方に転じる。1351年「観応の擾乱」に吉良貞家、畠山高国の抗争に畠山方に従い没落。

小笠原家信 (*)1336年北朝方の浅利清連と抗争。

小笠原* (*)孫四郎。1336年北朝方の浅利清連と抗争。船水館城主。

倉光* (*)弥三郎。1336年北朝方の曽我貞光と抗争。小栗山城主。

倉光* (*)孫三郎。1339年南部政長に従い津軽持寄城を攻撃。

安保* (*)阿保・小五郎。武蔵七党丹氏(多治見)の後裔。1339年南部政長に従い津軽持寄城を攻撃。

 

  室町足利TOP  このページTOP

1338「阿倍野の合戦」

北畠顕家の軍団

<南朝軍>

南部師行 (*〜1338)源・岩手・又次郎。八戸南部氏第4代。建武政権の侍所国代・糠部奉行所。1333年多賀国府に出仕。朝廷方として早河禅門・岩楯曽我光高・工藤貞行とともに幕府と戦い「大光寺合戦」に軍功。1337年北畠顕家は本拠地を霊山城とする。奥州を鎮圧。1337年8月に北畠顕家に従い上洛、土岐頼遠との「青野原の合戦」に打撃を受け、近江の高ノ師直軍を避けて伊勢に入る。大和から京都奪還を計画するが、桃井直常・直信兄弟に「般若坂の合戦」で敗北。1338年高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。八戸根城城主。

南部信政 (*〜1338*)源・岩手・三郎・右近蔵人。南部師行の孫。政長の息(長男)。工藤貞行の娘婿。1335年北畠顕家の上洛に結城宗広・伊達行朝とともに従う。1337年8月に北畠顕家に従い上洛。1338年高兄弟との和泉「阿倍野の合戦」に顕家とともに戦死。息に信光、七戸政光。<1341年北畠顕信より鹿角合戦の軍功を賞されるとも。在命か。><1348年四条畷の合戦に高軍に敗北戦死というのは間違いでしょうか。>

名和義重 (*〜1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。

名和義高 (*〜1338)1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れ北畠顕家とともに戦死。

↓井伊道政 (*)井伊介。遠江の豪族。宗良親王は娘婿。1336年今川範国と抗争。三和光継に一門の多くを討たれる。1336年遠江守護。駿河狩野介・狩野貞長と連携。1338年「阿倍野の合戦」に今川配下の松井軍に敗北。息に井伊高顕。

 

  

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki  室町足利TOP  このページTOP

  宗良親王の軍団 遠江国奥山城 1336〜

 「 思ふにも猶色浅き紅葉かな  そなたの山はいかか時雨る 」 宗良親王

<側近衆>

藤原則実 (*)十郎。伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。

北条時行 (*)伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。

大橋定高 (*)伊勢大湊から東国に出航。白羽湊に漂着。井伊三岳城に入城。

<国人衆>

井伊道政 (*)井伊介。遠江の豪族。宗良親王は娘婿。1336年今川範国と抗争。三和光継に一門の多くを討たれる。1336年遠江守護。駿河狩野介・狩野貞長と連携。1338年「阿倍野の合戦」に今川配下の松井軍に敗北。息に井伊高顕。

天野経顕 (*)前下野守。遠江の豪族。

天野景顕 (*)安芸守。遠江の豪族。秋葉城主。

▽天野遠幹 (*)民部少輔。遠江の豪族。天野景顕の息。

▽天野遠貞 (*)対馬守。遠江の豪族。天野遠幹の息。

奥山* (*)遠江守。遠江の豪族。奥山城主。

▽奥山朝藤 (*)六郎次郎。遠江の豪族。遠江守の息。

二俣* (*)遠江の豪族。

入野* (*)遠江の豪族。

谷津直弘 (*)駿河守。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。谷津城

▽谷津直能 (*)藤三郎。直弘の息。

岡ノ直藤 (*)弥次郎。遠江の豪族。今城城主。

岡ノ直春 (*)美濃守。直藤の息。1337年坂田山砦構築。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。

岡ノ良藤 (*)左近少監。直藤一門。

上野直助 (*)左衛門次郎・直介。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。

上野直定 (*)太郎。直助の息。

田沢直道 (*)兵衛次郎。遠江の豪族。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。田沢城主。

田沢通直 (*)大炊介。直道の息。

谷沢* (*)六郎左衛門。遠江の豪族。

赤佐俊直 (*)三郎。遠江の豪族。

石岡* (*)入道・浄覚。遠江の豪族。

藤原* (*)権三郎。元・楠家家臣。1339年高ノ師泰軍の関東下向に落城。野に降る。

 

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

 北畠顕信の家臣団<奥州軍第弐世代>

北畠顕信 (*〜1380)鎮守府将軍。公家武人。1336年伊勢国司、1338年鎮守府将軍。1338年9月義良、宗良親王を補佐し関東に渡海。多賀城攻略に失敗し、霊山城を拠点とする。1347年宇津山城に移動。吉良貞家と抗争。1358年鳥海山大物忌神社に願文を奉納。のち眼病を患い自害する。息に信親、守親、親統。<津軽浪岡氏の祖となるか。>

↑▽春日顕国 (*〜*1344)侍従。公家武人。北畠顕家、顕信を補佐。1337年小田治久と結び常陸乱入。1337年顕家に従い上洛。1339年2月関東に下向し下野攻撃。1344年大宝城を襲撃し捕縛される。

↑結城宗広 (*〜1338)新田義貞とともに北条氏を討伐。勲功から奥州の大領主となる。義良親王、北畠顕家の後見人となり、顕家の2度の上洛戦に従う。顕家戦死後、顕信を補佐し、南朝軍の挽回に尽力する。1338年9月義良親王を補佐し関東に渡海。途中遭難し伊勢吹上に病没。

↑▽結城親朝 (*〜1347)宗広嫡子。父・宗広、弟・親光を奥州の地で支援。1338年父・宗広が伊勢に死去すると中立し、南朝と距離を置く。1342年に北朝の石堂義房に投降。奥州の南朝勢力が衰える。

⇔↑葛西清貞 (*〜1343)牡鹿・桃生・登米・本吉・気仙・磐井・江刺・胆沢領主。奥州惣奉行家。牡鹿郡石巻を本拠とする。北畠顕家に従い、南朝に忠節。

↑小田治久 (*1283〜1352)民部大輔・高知。常陸守護職。常陸国小田七世。鎌倉幕府に従い小山秀朝・佐々木高氏とともに笠置山、金剛山で朝廷軍と合戦する。万里小路藤房を囚人として預かる。藤房の説得で朝廷側に転ず。1333年藤房とともに上洛。後醍醐天皇に「治」の字を下賜され改名。常陸にて北朝方の佐竹貞義と抗争。1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を迎える。1339年10月高ノ師冬を大将とする鎮圧軍が編成される。1340年高ノ師冬の攻勢に抗しきれず、1341年11月降伏。北朝政権下でも冷遇される。小田城主。

関 宗祐 (*〜1343)1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を小田治久、下妻政康とともに迎える。1341年小田治久が高ノ師冬軍に降伏。1343年8月白河の結城晴朝が北朝に降伏。北畠親房を城から落とし、1343年高ノ師冬の攻勢に息の関宗政とともに戦死。関城主。

東条* (*)1338年後醍醐天皇の腹臣・北畠親房を居城に迎える。足利方の佐竹軍に攻略され翌月に落城。神宮寺城主。<室町「応仁の乱」期に一瞬、東海道に東条国氏が登場しますが、子孫?。>

下妻政泰 (*〜1343)1338年以降、北畠親房に従い南朝方。春日顕国、興良親王を居城に迎える。1341年小田治久が高ノ師冬軍に降伏し、大宝城が南朝最後の拠点となる。1343年8月白河の結城晴朝が北朝に降伏。高ノ師冬の攻勢に戦死。大宝城主。

真壁幹重 (*)真壁城主。1338年以降、北畠親房に従い南朝方。

河村* (*)1338年以降、北畠親房に従い南朝方。

↑伊達行朝 (1291〜1348)蔵人・左近将監・宮内大輔・行宗。伊達郡領主・地頭職。伊達基宗の息、子息は宗遠。1337年北畠顕家を領内の霊山城に迎える。「奥州幕府」式評定衆7人のひとり。伊佐城主。

↑▽南部政長 (*〜1350)源・岩手。師行の従兄弟・南部政行の息。八戸南部氏第5代。1335年北畠顕家の上洛には同行せず、足利方の曽我氏を討伐。1338年父の戦死により家督。宇津峰城の北畠顕信に従う。

▼南部信光 (*〜1376)三郎・大炊助・薩摩守。信政の息。弟に政光。1350年祖父・政長より八戸根城を相続。1365年甲斐波井郷に上向。1367年神大和守を破り後村上天皇から軍功を賞される。息に長経。

益戸国行 (*)志筑城主。

 

 

   新田義貞の家臣団と軍団のページTOP 

 玉骨はたとい南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん 」 後醍醐天皇

1339年「後醍醐天皇」吉野に死去。1348年高ノ師直が「吉野焼き討ち」。賀名生行宮に撤退。

1368年「後村上天皇(義良親王)」摂津住吉行宮に死去。

長慶天皇 (*〜1394)南朝の天皇。1369年足利義満・細川頼之の勧誘で楠木正儀が北朝に降伏。住吉行宮を捨て吉野に撤退。1383年弟・後亀山天皇に譲位。南山行宮に没す。懐良親王、宗良親王も相次いで没す。

後亀山天皇 (*)南朝の天皇。

 

  室町足利TOP  このページTOP

 

北畠顕能 (*〜1383)(中院)・正二位・権大納言。伊勢北畠氏。北畠親房の息(3男)。中院貞平の息とも。野呂隆俊の娘婿。1335年伊勢一志郡多気城入城。1338年伊勢国司。1348年楠木正行に呼応して幕府軍を攻撃。1351年石塔頼房と抗争。1352年楠木正儀、千種顕経とともに京都突入。細川頼春を討つ。息に(木造)顕俊、(除野)顕相、顕泰。

▽湯川* (*)庄司。北畠顕能の腹臣。1352年男山八幡の籠城に兵糧が欠乏し幕府に降伏する。

千草顕経 (*)忠顕の息。1352年楠木正儀とともに京都突入。細川頼春を討つ。

四条隆俊 (*)中納言。1359年足利義詮の幕府軍に紀伊にて抵抗。1360年関東執事・畠山国清、義深兄弟の率いる幕府軍に抵抗。

▽塩谷* (*〜1360)伊勢守。四条隆俊家臣。1359年幕府軍と戦う。勝神山にて戦死。

▽喜志* (*)民部左衛門。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。

▽喜志* (*)大夫。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。

▽山本* (*)1359年南朝方。

▽湯浅* (*)大夫。紀州湯浅党の惣領。1359年南朝方。1360年幕府軍に降伏。

▽田辺* (*)別当。1359年南朝方。

▽湯河* (*)庄司。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。

▽八木* (*)小山・八郎。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。

▽岩田* (*)西蔵院院主・東三谷。1359年南朝方。1360年畠山国清の「紀州征伐」に降伏。1361年南朝方の反撃に滅亡。春日山城主。

各地域の南朝軍

<坂東衆>

仁科重貞 (*)信濃の堀川光継の跡職継承。1336年「建武新政」に信濃国司。1336年比叡山籠城1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。。<信濃の小笠原一族か。子孫は武田信玄の息が養子として入る信濃の名門仁科家に繋がるか。>

春日部家綱 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

江戸景氏 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。

本間重氏 (*〜1337)孫四郎。1336年「湊川の合戦」に軍功。1336年比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、足利軍に降服するが六条河原にて処刑される。<本間一族は鎌倉幕府方として、中先代に関東で蜂起。>

相馬* (*)四郎左衛門。1336年比叡山籠城に本間とともに軍功。

<東海・中部・北陸地方>

足助重範 (1292〜1332)足助七世。「正中の変」に討死した足助重成の一族。1331年「元弘の変」に後醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる。1332年落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。

⇔○狩野貞長 (*)狩野介・貞綱。建武新政に武者所。1336年関東厩番、武者所三番。1336年比叡山籠城。1340年今川家と対立し宗良親王に従う。1352年新田義宗の挙兵に足利尊氏に従い出陣。駿河安倍城主。

井伊高顕 (*〜*1386)井介。遠江井伊谷の領主。奥山城城主。井伊通政の息。1337年比叡山落ちに際して妙法院宮を奥山に匿う。白羽湊に漂着した宗良親王を天野景隆とともに救援。足利一門、今川範国と抗争する。

天野景隆 (*)遠江の豪族。井伊高顕とともに白羽湊に漂着した宗良親王を救援。

香坂高宗 (*)天竜川上流の信濃の豪族。大河原城主。宗良親王に従う。

⇔北条高行 (*)北条高時の息。南朝方に降る。信濃大徳寺城主。宗良親王に従う。

中院定清 (*〜1335)越中国司。井上(普門)利清の挙兵により戦死。

⇔○井上俊清 (*〜*1348)普門・越中守。越中の豪族。1338年武家方として越後新田軍と抗争。のち吉見頼隆に敗北し没落。桃井直常が越中新守護。

栗沢正景 (*)新田貞員の後見人。1346年貞員に従い「能登乱入」。

富来俊行 (*)能登国人。新田貞員を居城に迎える。木尾岳城城主。

<近畿地方>

長沼高秀 (*)淡路守。長沼家惣領。南朝方として抵抗。家督を長沼秀行に奪われる。

名和長生 (*)大井・長和・長重。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れる。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。

<中国・四国地方>

荻野朝忠 (*)尾張守。丹波守護代。1344年南朝方に通じ幕府軍に攻撃される。<足利方の丹波豪族・荻野尾張守とは別人らしい。宗家と分家が南朝北朝に分かれて争うか?。>

▲益田兼方 (*)石見国国人。益田惣領家。1335・36年足利方。息に兼見。

益田兼見 (*)石見国国人。益田兼方の息。益田惣領家。1335・36年足利方。

福屋兼景 (*)石見国国人。中部の豪族。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。

↓高津長幸 (*)石見国国人。西部の豪族。吉見家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。

佐波顕清 (*)石見国国人。1335・36年宮方。

工藤* (*)三郎。石見国国人。1339〜1342年新田義氏を旗頭に、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。

津野* (*)石見国国人。東部の豪族。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで三隅氏とともに最後まで抵抗。

▲三隅兼連 (*)石見国国人。中部の豪族。益田家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで津野氏とともに最後まで抵抗。息に兼知、兼春。三隅城主。

三隅兼春 (*)四郎・与一・入道。石見国国人。中部の豪族。益田家分家。兼連の息。兄に兼知。1335・36年宮方。黒沢城主。杵束城主。

周布兼宗 (*)石見国国人。中部の豪族。周布惣領家。1335・36年宮方。

周布兼氏 (*)石見国国人。中部の豪族。周布分家。1335・36年足利方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。

(伊予国)

⇔河野通治 (*)通盛。河野家惣領。河野通有の息。通増の従兄弟。朝廷方の河野一門の土居、忽那に対して、当初鎌倉幕府方として働き失領。幕府滅亡後、土居・得能氏とともに後醍醐天皇に従う。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王・新田義貞に従い越前に従軍。のち北朝方として働く。1342年土居・忽那氏に湯築城を攻撃される。息・通朝は北朝に降服し1350年に伊予守護。

河野通増 (*〜1337)土居通増・新左衛門尉。河野通成の息。通治の従兄弟。1331年護良親王に呼応して挙兵。1335年尊氏の関東下向に従う。のち新田義貞に従い「湊川の合戦」。新田義貞に従い越前に従軍。越前にて戦死。

土居通世 (*)河野通世。1337年兄の戦死後家督。南朝方として働く。1337年懐良親王を三年間後援。安芸守護・武田直信、河野通盛の攻撃を撃退。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。

▽土居通景 (*〜1342)河野通景。細川頼春軍の攻勢で伊予世田城の攻防戦に戦死。

得能通綱 (*〜1337)河野通綱。得能通村の息。河野通増と結び1331年護良親王に呼応して挙兵。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。

得能通時 (*)河野通時。1337年道通の戦死後家督。南朝方として働く。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。

重見* (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。

村上義弘 (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。1337年懐良親王を三年間後援。

祝 * (*)大山祇神社神職。伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。<後の尾張の織田家家臣、祝 重正と、血縁的に関連ありか。>

↑忽那義範 (*〜*1356)藤原義範・下野法眼・下野房・下野坊。忽那水軍惣領。伊予国の豪族。元・鎌倉幕府御家人。重義の息(次男)。1336年北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣領。伊予落ちした脇屋義助を援助。1337年懐良親王を三年間、自領に匿う。のち「観応の擾乱」に足利直冬を支援。

小林* (*)右京亮。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。「二条河原の合戦」に佐々木山内判官(山内定詮)を撃退。<道南12館の小林氏と関連あれば、おもしろい。>

小林重長 (*)民部丞。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。丹波守護代。1355年南朝方が山名時氏と同盟し、幕府軍と合戦。

 

 

 <九州>

▲菊地武時 (1192〜1333)次郎。兄に時隆。菊池家惣領第12世。肥後の豪族。1333年後醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死。のち7人の息子の間で跡職争い勃発。息に武重、頼隆、武茂、武舜、武澄、武吉、武豊、武敏、武光、武隆、武士、武尚、武義、武世。

菊池武敏 (*〜*1341)九郎・掃部助。武時の男(9男)、武重の弟。少弐貞載を討つ。1336年博多表「多々良浜の合戦」に1万騎。足利軍に敗北する。九州の局地戦で阿蘇惟直、秋月種道、蒲池武久、星野家能とともに南朝軍として活躍。兄・武重の帰国後これを助け、死後は武士を後見する。息に武本、武世(弟を養子?)。

菊池武重 (1307〜1338)次郎・肥後守。武時の男(嫡男)。弟に武敏。菊池家惣領第13世。1333年父・武時とともに鎮西探題を襲撃するが、少弐・大友の離反で敗北する。1336年新田義貞の足利征伐軍に弟・武吉とともに従軍。京都で新田義貞軍として活躍する。「菊池千本槍」を畿内に轟かせる。1336年「湊川の合戦」に敗北。弟・武吉は戦死。1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。九州に帰還し、1337年2月南朝勢力として蜂起。翌年、急死する。

菊池武吉 (*〜1336)武時の息。武重の兄弟。1336年「湊川の合戦」に楠木正成軍の与力。楠木一門とともに戦死(自害?)。

菊池武士 (*〜1401)肥後守・又次郎。菊池家惣領第14世。武時の息(7男)、兄・武重の死後に家督。武敏・武茂に補佐される。1349年合志幸隆に菊池陣城を奪取される。兄・武光に惣領を譲り、出家。

菊地武光 (*129〜1371)豊田・十郎・肥後守。菊池家惣領第15世。武重の庶子。実力で菊池家惣領となる。器がなければ兄・武隆が惣領となる条件を課せられる。九州宮方の中心勢力として後村上天皇に忠節。息に武政、良政、武教。

 

⇔↓阿蘇惟時 (*)阿蘇神社大宮司。肥後八代庄内道前郷の豪族。1335年足利尊氏追討軍。「竹ノ下合戦」に敗北。「多々良浜の合戦」にて息の惟直・惟成を失う。跡職は尊氏の意向で北朝方の坂梨孫熊丸。懐良親王の九州入りに対して中立。惟澄に討たれる。養子の惟村が相続。

▽上島惟頼 (*)阿蘇一門。惣領・惟時に従う。1335年足利尊氏追討軍。

▽阿蘇惟定 (*)阿蘇一門。惣領・惟時に従う。1335年足利尊氏追討軍。「竹ノ下合戦」に敗北。1336年「湊川の合戦」に宮方。

阿蘇惟直 (*〜1336)惟成の兄。肥後八代の豪族。阿蘇惟時の息。1336年「多々良浜の合戦」に、足利直義隊に突撃を受け負傷する。足利軍に敗北し戦死する。跡職は坂梨孫熊丸。

阿蘇惟成 (*〜1336)惟直の弟。阿蘇惟時の息。1336年「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北し戦死する。兄弟の戦死に対して宮方からは何の恩賞もなく、父・惟時は武家方に走る。

秋月種道 (*)1336年「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北する。

⇔島津貞久 (*)1333年北条英時に応じて鎌倉幕府軍。のち転じて少弐・大友氏とともに大宰府を襲撃。建武政権に薩摩・大隈・日向守護とされる。薩摩に上陸した懐良親王と抗争。のち南朝方。

 

 

 懐良親王の軍団 征西大将軍宮。

懐良親王 (*1329〜1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1351年鎮西探題・足利直冬の下向で、一色党が宮方に転ずる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。

<貴族衆> 1336年9月四国上陸。伊予国忽那島滞在。 1340年4月九州上陸。

↑五条頼元 (1290〜1367)勘解由次官・少納言。清原良枝の息(次男)。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年北朝の光厳上皇に従うが、出奔。のち懐良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。阿蘇氏の南朝勧誘に勤める。

▽五条良氏 (*)五条頼元の息。早世。

▽五条良遠 (*)五条頼元の息(三男)。家督を相続する。1339年懐良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。後村上天皇の皇子・良成親王を守護する。

冷泉持房 (*)北畠・春日。北畠親房の弟。1339年懐良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。息に春日顕国(顕時)。

↑三条泰季 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。のち九州薩摩に派遣される。懐良親王の谷山御所に出仕。

日野資舜 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。

坊城有氏 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。

洞院親弘 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。

花山院基直 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。

<薩摩侍衆> 1340年4月九州上陸。 1348年肥後・宇土津入城。

谷山隆信 (*)薩摩の豪族。1340年懐良親王を居城に迎え御所とする。足利方の島津貞久と抗争。1347年四国の水軍村上・忽那・桂、熊野水軍の協力で島津領に打撃を加える。薩摩津、谷山城主。

肝属兼重 (*〜1349)荻原。肝付兼藤の次男。兄・兼尚に代わり家督相続。肝付第8世。1335年から南朝方として働く。1349年北朝方の石井重信との抗争中に病没。息・秋兼が家督継承。

伊集院忠国 (*)島津・長門守。島津一門。当初、島津貞久に従う。1340年懐良親王に出仕。息の伊集院久氏は島津氏久に従い北朝方。<1359年「大保原の合戦」に旗頭となる島津氏は伊集院忠国か。>

島津* (*)忠澄。懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。南朝方として「大保原の合戦」に参加し、大友氏時と合戦。別働隊8000人大将。与力日向軍5500人を率いる。<伊集院島津氏の忠国の一門か?。>

<肥後侍衆> 1348年肥後・宇土津入城。

↑△菊池武光 (*1329〜1371)豊田・十郎。肥後の豪族。武重の庶子。肥後国益城郡豊田を領する。14世・菊池武士の跡職を相続。実力で菊池家惣領となる。後村上天皇に忠節。1348年居城に懐良親王を迎える。1353年「針摺原の合戦」に一色範氏を撃破。1355年一色氏は長門に落ちる。1359年「大保原(筑後川)の合戦」に少弐頼尚を撃破。1361年大宰府占拠。1373年今川貞世が奪回するまで、南朝方征西府とする。隅府城主。45歳。

菊池武豊 (*)武時の息。武光の兄弟。一色直氏方の合志幸隆救援の佐竹重義軍を筑後にて撃退する。

↑菊池武士 (*)肥後守。武時の息。武光の弟。弟に(高瀬)武尚、(深川)武義。1349年合志幸隆に菊池陣城を奪取される。出家し、兄・武光が家督相続。

菊地武政 (*〜1371)肥後守。菊池武光の嫡男。1359年「大保原の合戦」に従軍。1371年今川貞世の九州侵攻に負傷。息に武朝、兼秋、武相。<1371年今川貞世の九州上陸の前に、父・武光は戦傷がもとで死去していたとも。>

▽菊池武明 (*)菊池武光の甥。1359年「大保原の合戦」に従軍。先鋒第一陣2000人大将。与力に賀屋昌雄、見参岡高子、庄忠益、国分行喬を率いる。

▽菊池武信 (*)菊池武光の甥。1359年「大保原の合戦」に従軍。赤星武貫を与力に第二陣1500人大将。

▼菊地武朝 (*)武政の息。弟に兼秋。長慶天皇に忠節。息に兼朝、武楯、英朝。

▽赤星武貫 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の副将。

草野永幸 (*)1353年菊池武光に従い一色氏討伐に従軍。1355年一色氏退去。

木屋行実 (*)1353年菊池武光に従い一色氏討伐に従軍。1355年一色氏退去。

 

阿蘇惟澄 (*〜1364)阿蘇氏庶流。惟時の娘婿。懐良親王の九州入りに応じた、唯一の阿蘇氏。御船城主。1347年菊池武光との同盟が成立し、懐良親王を肥後に迎える。1353年武家方に離反した矢部城の惣領・惟時を討つ。息に惟武。

阿蘇惟村 (*)阿蘇社社務職。阿蘇惟澄の息。1336年惣領の跡取り惟直が多々良浜に戦死。1351年阿蘇惟時の跡職を相続。父に反して少弐頼尚と結ぶ。1353年父が惣領・惟時を討つ。のち今川貞世に従う。惟時の跡職を相続。阿蘇氏惣領。

▽阿蘇惟武 (*)阿蘇社社務職。阿蘇惟澄の息。懐良親王の征西府に出仕。菊池武光を烏帽子親に加冠元服。武光から宇土郡浦、下益城郡小河を割譲される。

 

名和顕興 (*)左衛門尉・判官・弾正大弼・検非違使。八代荘地頭職。名和氏14代。基長の息。1338年13代で叔父・義高の跡職を相続。肥後に入植。懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。右翼軍5500人大将。 1387年良成親王を迎える。1388年今川貞世に降伏。息に顕年。古麓城主。

<豊前侍衆> 1361年大宰府占拠。 1372年に奪取されるまで11年間、九州支配。

宇都宮隆房 (1329〜1359)常陸介・三河守。豊前宇都宮氏。父・頼房は筑後・豊前両国守護。懐良親王に応じて菊池武光とともに、少弐・大友氏に対抗。1359年「大保原の合戦」に少弐直資を討取る軍功。しかし、乱戦となり戦死する。31歳。

結城親明 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の与力として第二陣。討死。

加藤宗高 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の与力として第二陣。討死。

岩松盛依 (*)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。左翼軍1000人大将。

 

 室町足利TOP  このページTOP

 

 <足利直冬の軍団>

足利直冬 (1327〜1387*1400)新熊野殿・兵衛佐・長門探題・九州探題・佐殿方。足利尊氏の息。母は越前局。少弐頼尚の娘婿。直義の養子。1348年紀伊国に出陣。1349年長門探題。備中井原に所領。「観応の擾乱」により高氏と対立。備後鞆の浦にて杉原又四郎に急襲される。河尻幸俊の案内で九州に渡る。肥後河尻に拠点を置き阿蘇氏を従える。征西将軍・懐良親王と菊池氏と同盟。九州探題の一色範氏と対立。1350年少弐頼尚に迎えられる。1351年直義の復帰により九州探題。1352年直義の急死により孤立。中国長門に渡り豊田城を拠点とする。1354年桃井直常、山名時氏、大内弘世の後援で上洛。1355年京都を奪還するが尊氏・義詮に敗北。1358年大内、山名が北朝に降る。1359年少弐頼尚が菊池武光に敗北。息に冬氏。

△渋川貞頼 (*)彦三郎・丹波守・兵部大輔。義春の息。母は北条時広の娘。娘婿に足利直義。息に義季。義季は「中先代の乱」に戦死。孫に直頼。直頼は「観応の擾乱」に尊氏派。

⇔少弐頼尚 (1294〜1371)筑後守。弟に経貞。1334年豊前国・筑前国守護職。1335年肥後国守護。1336年九州落ちした足利尊氏を全面支援。「多々良浜の合戦」に菊池武敏を破る。上洛し「湊川の合戦」でも軍功。1349年直冬を支持。1350年九州探題・一色範氏と決裂。足利直冬に従い大宰府の一色氏と抗争。1352年足利直義が鎌倉にて死去し孤立。一色氏と結んだ大友氏泰に敗北。後に菊池家が勢力を拡大すると、大友氏時と同盟し菊池家に対抗。1359年菊池武光との筑後「大保原の合戦」に敗北し勢力を失う。大宰府浦之城城主。娘婿に足利直冬。

竜造寺家平 (*)又四郎。1349年直冬を支持。1350年鹿子木貞基の鹿子木城攻略に軍功。直冬から感状を得る。

河尻幸俊 (*)源ノ・肥後権力守。九州肥後飽田郡の豪族。河尻津の代官。1349年長門から九州落ちした足利直冬を迎える。大宰府の一色範氏と抗争。1352年足利直義が鎌倉にて死去。<戦国時代尾張の河尻一門や、川尻秀隆と関連有りでしょうか。>

詫間宗直 (*)大友・別当太郎。大友一門。1346年高師直の指示で筑後守備。1349年直冬を支持。筑後高樋の守護。幕府の任じた筑後守護・宇都宮冬綱と抗争。大友氏時、氏泰兄弟と決別。

後藤光明 (*)坂戸。武雄社大宮司家。藤原利仁流。肥前の豪族。立田。一色直氏に従い菊池氏と抗争。1349年直冬を支持。「観応の擾乱」に渋江橘氏とともに直冬方。息に朝明。

荒木* (*)筑後豪族。1349年直冬を支持。

三原* (*)大蔵氏。大宰府在庁官人。筑後豪族。1349年直冬を支持。

三池貞鑑 (*)鹿子木・木工助・入道道喜。中原安芸氏。筑後国人。息に貞元(親元)。

三池親元 (*)鹿子木・兵庫助・貞元。中原安芸氏。筑後国人。貞鑑の息。1335年足利尊氏を迎え菊池武敏と抗争。九州御番の仁木義長を補佐。足利尊氏に従い足利直冬と抗争。直義優勢となり降伏。息に頼親。

▽三池頼親 (*)1351年征西将軍・懐良親王に従い、足利直冬と抗争。1385年康親は今川貞世に従い、将軍・足利義満から所領を安堵される。息に康親。

合志幸隆 (*)佐々木・太郎。肥後豪族。延暦寺社家。延暦寺領合志郡を所管。1346年高師直の指示で筑後高樋の守備。1349年直冬を支持。菊池武士を攻撃。1350年菊池武光、恵良惟澄の攻撃を受ける。菊池陣城城主。

▽小代吉宗 (*)合志家家臣。幸隆に従い菊池氏と抗争。

▽小代重峰 (*)八郎。合志家家臣。幸隆に従い菊池氏と抗争。

⇔↑阿蘇惟時 (*〜1353)宇治。阿蘇嫡流。惟国の息。1333年討幕の挙兵。1336年息・惟直が多々良浜に戦死。一門の坂梨氏が北朝方として台頭。1349年九州落ちした足利直冬に従う。南朝に帰順。1352年足利直義が鎌倉にて死去。一門の阿蘇惟澄に討たれる。跡職は養子の惟村(惟澄の息)が継承。

<中国地方>

桃井直常 (*)1352年南朝軍として京都占拠。将軍・義詮を近江に追う。幕府方・細川清氏軍に敗北。1354年長門豊田城の足利直冬を擁立し上洛。京都を占拠。

山名時氏 (*)1354年長門豊田城の足利直冬を擁立し上洛。京都を占拠。

大内弘世 (*)1354年長門豊田城の足利直冬を擁立し上洛。京都を占拠。

↑高津長幸 (*)与次・播磨権守・入道道性。石見豪族。1333年後醍醐天皇の挙兵に応じ、長門探題・北条時直を破る軍功。息に次郎三郎。1335年北条上野四郎の反乱を鎮圧。のち石見国で守護・上野頼兼と抗争。1351年「観応の擾乱」に足利直冬に属す。

 

得宗家の変遷→北条 義時/houjyou.yositoki

ホームTOP  室町足利TOP  室町中国TOP  室町四国・西近TOP  室町東近・北陸TOP

室町東国TOP     新田義貞の家臣団と軍団のページTOP    山名持豊の家臣団と軍団

織田信長の家臣団と軍団 top (街道六道御番役)地方方面軍・独立軍団軍団長、 直属・旗元馬廻衆旗頭{近衛軍}