写真集・千里川の風景

箕面市の萱野方面を源流とする千里川は、千里丘陵の西側を南下、豊中市西北部を縦断して、園田競馬場の東側、利倉西あたりで猪名川と合流する一級河川である。
千里川から供給される水は、古来より勝部の住民のみならず、その流域に生活を営む多くの人たちにとってかけがえのない、文字通り命の源であった。
特に流域の米作農業にとって千里川の水は不可欠なもので、江戸時代にはこの水をめぐっては度々争いが起きている。
天明、天保期に起きた渇水期の飢饉には、近隣の村人たちの水争いで、流血の惨事が起きたことが古い記録に残っている。
また、度重なる洪水、氾濫で多くの財産を失った歴史もある。
我々の子供の頃(昭和30年頃)は、この千里側の水辺には希少にはなっていたがホタルも生息していていたほど水も澄んで、橋の上からも魚の群れをなして泳ぐ姿も見ることが出来た。
春先には土筆やレンゲやクローバーを摘んで遊び、夕暮れ時には犬の散歩に訪れる人も多く、四季を通じて地域の憩いの場であった。
戦後は堤防の補修も施され、さらに昭和40年代の大阪国際空港拡張事業にともない、その流れも変えられて今は昔の面影はなくなった。

千里川堤防補修工事・神明橋付近
昭和10年6月の集中豪雨による決壊のあと、神明橋付近から南高橋の辺りまでを石垣の堤防にする
補修工事がなされた。その工事中の模様を写した写真。
撮影年月日および撮影者は不明。
堤防補修後の神明橋
石垣の高さは3メートル程、川の西側の堤防はそのままで雑草をかき分けて河原に下りることができた。水遊びをする子供の姿が写っている。
昭和30年頃の撮影

昭和10年6月千里川の決壊(写真上)
時代は遡って昭和10年6月29日午前6時、前々日から降り続いた集中豪雨で千里川の堤防が決壊した。川のどの辺りが決壊したか、また被害状況はどの程度であったかなど、詳しい状況は不明である。当時の新聞にも市の公の資料にも詳しい状況について記されたものは見つかっていない。呆然と眺める村人に混じってネクタイ姿の人物が写っている。被害状況を検分するために派遣された役所の職員か。当時勝部は豊能郡南豊島村大字勝部で、豊中市もこの翌年の昭和11年に市の施行となり、勝部を含む南豊島村が豊中市に編入されるのは、さらに後の戦後の昭和22年のことである。
戦時中堤防の補修工事に従事する勝部の婦人たち(写真上)
戦時中千里川堤防の修復土木作業に駆り出された勝部の女性たちが写っている。白い割烹着に「大日本國防婦人会」と書かれたタスキをかけての逞しい婦人たち。堤防の向こうには民家の屋根や立ち木が見える。祖母の姿も写っているが、この頃はまだ元気だったようだ。写真には見覚えのある顔も多い。
日本国防婦人会について

昭和7年3月(1932)大阪の主婦らにより結成された国防婦人会を母体に、軍の指導により同年12月全国組織に発展した婦人団体。高度国防国家体制に即応するため、20歳未満の未婚者を除くすべての婦人は強制加入させられ、軍部・政府の指導下で大政翼賛会の一翼を担い、貯蓄増強・廃品回収・国防訓練・兵士送迎・慰問・遺族の援護など、銃後活動の国家奉仕に動員された。
戦争真っ只中の昭和17年2月、大日本國防婦人会より祖母が表彰を受けた賞状。南豊島村分会で組長を務めていた彼女は、このとき次男を戦地へ送り出していた「銃後の母」でもある。

祖母辻村ミヤは維新後新政府による方針で「秩禄処分」が実施された明治9年の5月、旧狭山藩(大阪狭山市)の下級士族である浅田駒蔵の長女として生まれました。彼女が勝部に嫁いできたのは明治30年頃と推測しているが正式な記録は残っていない。実際の戸籍に記載されるのは二男が誕生した後の大正2年11月である。当時の下級士族のほとんどがそうであったように彼女の両親も生活に困窮していたようで、彼女が嫁ぐ頃には親戚の家に居候生活を余儀なくされていたようである。だが、農家に嫁いだ身ではあっても「士族」という意識が強く、気位の高い気性の激しい女性だったと聞いている。終戦から5日後の昭和20年8月20日、69歳でこの世を去った。奇しくもその日は彼女の次男の戦死公報が届いた日でもある。


雑草に覆われた千里川の堤防
千里川に架かる南高橋と梨高橋との丁度中間地点あたりに写真のような渡しが作られていた。堤防の西側の田圃へ農作業に出かける人々にとっての近道をするために渡された小さな橋。地図にも細かく書かれている。橋には名前はない。(下の地図のAの地点)
堤防は一面の雑草に覆われ、細い流れの中で小魚が群れ泳いでいた時代。昭和35年頃の撮影。
昭和30年代半ば頃の勝部の地図。千里川の流れの形、橋の名前など当時の様子が描かれている。また当時の集落の状況も克明に描かれています。
堤防で凧揚げを楽しむ子供たちの姿。写真奥に小さく写っているのは梨高橋

雑草に覆われた堤防へ散歩に訪れる人は多い。写真右奥に写っているのは南高橋。水の流れも細く穏やかである。
堤防の西側の田園地帯から写した風景。堤防の向こう側(東側)の勝部の家並みが見える。
その後この辺りから弥生時代の遺跡が見つかり、発掘調査が始まる。現在は大阪空港の滑走路となり
立ち入ることは出来なくなっている。昭和30年代半ば頃の撮影。
昭和42年7月の北摂地域を襲った集中豪雨による千里川の増水。勝部の東側の堤防から撮影。
右上に写っているのは南高橋
濁流渦巻く千里川。遠くに送電線の鉄塔が見える。
激しい流れは様々な漂流物を飲み込んで行く。
写真右奥に見えるのは南高橋。橋のたもとで心配そうに流れの様子を見るのは川の西側の住人たちか。すでに西側の田園地帯は冠水している。このときの増水では梨高橋下流の猪名川との合流地点付近の猪名川の堤が決壊氾濫した模様。