ホーム  今週のハナマル メッセージ 初めての方へ 教会紹介 子どもページ おまけ リンク



                     

                 2017年の御言
礼拝メッセージ 「共に働かれる主イエス
聖書 : ローマの信徒への手紙8章28節

 

 

本年、戸畑高峰教会に与えられた御言葉はローマの信徒への手紙828節のみことばです。かつて、この教会にもおいでくださってメッセージを取りついで下さったY牧師は、夢の中で、だったでしょうか、「ロマ書818節、28節、38節」という声を聞いてその御言葉に生かされて歩まれたということを話されたことがあります。私は夢の中で何かを聞いたわけではないのですが、今年のこの聖句は同じような形で、与えられました。どうしてこの御言葉なのか、私には説明がつきません。けれどもそこにこそ、神様の御計画がある、とそのように導かれています。一年の初めにあたり、わたしたちに与えられたこの御言葉から、神様の御計画、とそのために共に働いていてくださる神様について聖書に聞いて参ります。

 

機タ斥佑慮羞弉

今、申し上げたことを早速ひっくり返すようなことから申し上げるのですが、一体、神様の御計画、というのはどのようなものでしょうか?この朝から、週報を一新いたしました。ちょうどこの元旦が1200号というキリの良い数字だったこともあります。そういうことを感じると、「ああ、ちょうど1200号と新年が重なる。これも神様の御計画だ」とそのように考えます。神様はすべてを支配しておられ、すべての事をご存じの神様で、どんな些細なことをも御心に留めていてくださいますから、そのような理解を間違いとは言えないかもしれません。プロテスタントの教会でも特にカルヴァン派と呼ばれる教会の方々はそのような考え方をなさるのではなかろうかと思います。しかしながら、ウェスレーという人は違うのですね。とてもユニークと言いますか、しかし、的を射たことを言うのです。そして、私もこのことに関しては、ウェスレーさんよく教えてくださいました。と感謝したいのです。

というのは、神様の御計画、それも神を愛する者たちに与えられているご計画とは何か、神様の究極の御計画は何か?ということです。神様の御心と言っても良いでしょう。「神は、全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ一24とあります。今は、クリスマスです。先週、1225日、クリスマスの午後、S姉がクリスマスの品を買いにスーパーに出かけた所、もうクリスマスの品は片づけられていてお正月用品が並んでいたと言っていました。日本の一般社会ではそういうことなのでしょうが、教会では今はまさにクリスマス真っただ中です。来週まではクリスマスです。いえ、本来ならば一年中クリスマスで、イエス様がおいでくださったことをお祝いしている。私たちが毎週礼拝するのは、いわば、毎週クリスマスをお祝いしているようなものです。どうして毎週、お祝いするのか、というと、それは、イエス様が、私たちの身代わりとなって、十字架に架かってくださり、私たちを救い出すために人となって来てくださったからです。神様の御心が地の上に始まり、十字架と復活によってその御計画が完成した、そのことを喜びお祝いして、私たちは毎週礼拝に集っているわけです。ですから、神様の御計画というのは、イエス様の十字架の贖いです。

現実の私たちの歩みには、良い事も悪いことも起こります。苦しいことも痛みを伴うようなことも深い悲しみに襲われるようなことも起こります。しかし、それらは神様の御計画ではないのです。神様の御計画は、そのような苦しみの中にいる私たち、悲しみに打ちひしがれそうになる私たちを救い出してくださることです。そしてそれらの悲しみや痛みさえも良いものとしてくださるところにあります

 

 供ザΔ貌かれる主イエス

 第一のこととして神様の御計画はイエス様を地上にお遣わしになり、私たちの身代わりとして十字架にかけられ、死と罪の支配を打ち破って復活される、ということであり、決して私たちに災いを下すお方ではないこと。現実に起こる苦難から救い出すことこそ神様のご計画であることを聖書に聞きました。第二のことは、その十字架と復活のイエス様が、私と一緒に苦しみや悲しみを歩んでくださっている、ということです。

この28節には「万事が益となるように共に働く」とあります。元々のギリシャ語で読みますと、ここの所は「すべてが良い方へとなるように一緒に働いてくださる」というニュアンスです。共に働く、この教会を設計してくださった事務所はスネルゴイ設計事務所と言いますが、そのスネルゴイというのは、この「共に働く」という語です。一緒にやりましょう。ということです。この御言葉が私たちに告げているのは、神様は、上から目線で、私の計画は最後はうまくいくようになっているんだから、頑張って着いてこい。最後まで文句を言わず従ってきたら、いいことがあるぞ。ということでは決してないのです。

どんなに辛い事があったとしても、悲しみの中を一人ぼっちで歩んでいるように見えたとしても、決して神様は見捨ててはおられない。私と一緒にその辛いところを通っていてくださる。厳しいところを一緒に、言え、寧ろイエス様の方が先だって、進んでくださる。

私たちは神様をどのような方とイメージしているでしょうか?たとえば皿洗いをするときに、全部きれいに洗いなさいよ。と命令するだけの方でしょうか。「頑張ってますね。」と声をかける方でしょうか。しかし、私たちを愛していてくださる神様は、「私も手伝いましょう。私が洗いますから、あなたは拭いて下さいますか」と言うようなお方です。私たちは、現実の苦しみや痛みの中で、一緒におられて一緒に苦しみ、一緒に笑い、一緒に歩まれるイエス様とであうのです。ですから、起こって来る出来事がどれほど最悪と思えることであったとしても、その中でイエス様の愛を経験する私たちは万事が良い事だということを知るのです。

本日は28節だけをお読みいたしましたが、段落としては26節からが一つの段落になっています。そして26節とこの28節は表と裏の関係になっています。26節では、私たちはどう祈るべきか知らないと言います。苦しい時、本当に困った時に、祈りの言葉も出てこない。もう祈ることさせできない自分がいる。けれども、この28節では、そういう祈ることさえできない。信仰もあるのかないのか分からなくなるような私だけれど、神様が一緒にいて、私と共に歩んでくださっている事だけは知っている。と告白しています。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」とあります。これは確かに一言でいえば「クリスチャン」ということになるでしょうが、ではクリスチャンという人はどういう人のことか、といえば「神を愛する者」つまり「神様に愛されていることを知っている人たち」のことだ、ということです。形式的な信仰というのはイエス様が最も警戒なさったことでした。神様の愛を知っている人。十字架の命がけの愛を経験した人たちなら、いつもイエス様が一緒にいて共に歩んでいてくださることを知っているでしょう。ということです。

初めに申し上げましたが、今年の御言葉は何故、この箇所なのか、わたしにも分からない、と申し上げました。本当はもっと別の御言葉を考えていました。けれども、それは私の考え、私の人間的な意思が優先されている、だからそういう御言葉を選んではいけませんよ。と神様がストップをかけられた。そして、本当にお前が神を愛する者、私の愛を知っている者なら、心配しないで、歩みなさい。とこの御言葉を示してくださったのです。そして、多分今年一年の歩みも、そしてこれからの戸畑高峰教会の歩みもそのような歩みだろうと思います。私たちには何が起こるかわからない。目の前に起こっていることに振り回されてどこに信仰があるのかさえわからないような歩みをするかもしれない。けれども、そうした私たちと一緒にイエス様が歩んでくださり、一緒に苦しんでいてくださることを経験するのです。そして、心の底から「ああ、神様が共にいて同じように苦しんでくださっていた」と自分の独りよがりな思いから解き放たれて、神様の愛に心が向けられていく。それこそが、わたしたちに必要なただ一つのことと信じます。何が起こるのかはわかりません。けれども、それは素晴らしいことだと私たちは知っています。なぜなら、イエス様がそのために、人となって来てくださり、私たちを愛し抜いて下さったからです。

神様に期待して、この一年を歩んでまいりましょう。

 

<祈祷>

天の父なる神様。

新しい主の年2017年をありがとうございます。あなたの御言葉によってこの年も歩み出しました。あなたが私たちと一緒ですからありがとうございます。あなたの愛をいっぱいいただいて、悲しみの中でも、苦しみの中でも、あなたのなさる良い事に気づかせてください。信仰の目を開いて永遠の命の喜びに生かしてください。地上に満ちた不安や不満の世界から自由にしてください。私たちを縛り付けているすべての鎖を解き放って愛にあって生きる自由に導いて下さい。あなたのなさる良い事を感謝いたします。

尊き主、イエス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。  アーメン。

 

 



ホーム  今週のハナマル メッセージ 初めての方へ 教会紹介 子どもページ おまけ リンク