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                 2018年の御言

聖書:ミカ書61~8

題:へりくだって神と共に歩む

序)

今年、戸畑高峰教会に与えられている御言葉はミカ書68節の御言葉です。ご一緒にお読みいたしましょう。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」この御言葉は、旧約聖書の中で最も明確に宗教の本質を記していると(旧約聖書略解に)ありました。神様が私たちに求めておられることが3つある、それは、\亀舛鮃圓Δ海鉢∋しみを愛すことへりくだって神と共に歩むこと、ということです。昨年は、ローマの信徒への手紙828節から「共に働かれる神」という御言葉をいただいて一年を歩んだわけです。神様がわたしと共にいて導いてくださる。ということでした。今年は、その共におられる神様の恵みにお応えして、私たちが歩んでまいりましょう。ということです。ですから、この御言葉の中心は「へりくだって神と共に歩むこと」です。そこで、このへりくだって神と共に歩むことについて、〇しみを愛する心、⊆尊櫃凌斥佑悗留答として正義を行うこと、という2つのことを共に御言葉に聴いて参ります。

 

機セしみを愛する心

ミカという預言者は、11節で「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」とあります。大体紀元前の730~700年くらいの時期ですが、それはちょうど北王国イスラエルが滅びる時期に活躍した南王国の預言者で大体イザヤと同じころの人だそうです。「モレシェトの人」とありますがエルサレムから南西30キロほどの田舎の人で家は農家でしたから、本人も農民だったようです。北王国が滅ぼされ、南王国もアッシリアの属国として厳しい状況にあって、農民や一般の人たちは苦しい生活を余儀なくされている。ところが、そういう時に味方になってくれるはずの預言者や祭司といった宗教家が、支配階級の人たちにくっついて貧しい人たちを顧みない。それでいいのか?というのがミカが神様から選ばれ、預言者として立ち上がった理由のようです。今お読みいたしました67節にも「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか」とありますように、ささげものとしては十分ささげている。礼拝も守っている。けれども、それは形式だけのことではないか、というのです。35節には「わが民を迷わす預言者たち」という表現もあります。本来なら、困難な時に人々を導くべき宗教家が人々を迷わしている。恐ろしい状況です。そういう状況の中で、「へりくだって神と共に歩むこと」こそ主なる神様が、私たちにもとめておられることではないですか!とミカは私たちに告げるのです。「へりくだって」という事は、今申し上げましたようなことを踏まえますと、それは「自分好みの」とか「流行りの」の信仰の仕方ではなく、というニュアンスだと言うことが分かります。

私たちにとって礼拝が型ぐるしいものであってはならないと思います。けれども、同時にそれが自分にとって都合の良い、自分の宗教的満足のためになってしまっても間違いだという事は当然のことです。この6章3〜5節には「わが民よ。/わたしはお前に何をしたというのか。/何をもってお前を疲れさせたのか。/わたしに答えよ。/わたしはお前をエジプトの国から導き上り奴隷の家から贖った。…」と続いて行きます。神様は私たちと共に働き、万事を益としてくださった。それなのに!ということです。旧約聖書の時代でも神様は、慈しみの神様でした。だとしたら、新約聖書を知っている私たちにとってはなおさらのことです。神様は、私たちを罪と死の呪いから解き放ち、永遠の命をお与えくださるために独り子なるイエス様をお下しになり、十字架に身代わりとなって死んでくださいました。命をかけて私たちを救い出して下さったその恵みこそ、私たちの喜びの源です。この世の楽しみならすぐに消えてしまいます。けれども、本当の喜びは決して消えることがありません。神様の慈しみに応えて生きることこそ、クリスチャンの生き方です。そこに本当の喜びがあります。

先週、平戸に行ってきました。小さな島ですがたくさんの教会が建っています。勿論、それらの教会は明治以降のものですが、信仰は江戸時代もずっと守り続けられてきたのです。平戸の奥に生月島という更に小さな島があるのですが、そこの資料館にも隠れキリシタンの人たちの生活の様子が紹介されていました。生月島のクリスチャンたちは、更に近くにある島に洗礼式のための水をこっそりと汲みに行くのだそうです。汲んで来たら、洗礼を授ける人が水をかぶって身を清めて、子供たちに洗礼を授けるのだそうです。そうやって信仰を守り抜いていったということでした。資料館を出て、島の中ほどにある教会を目指しましたが、狭い道に何台もの車が路上駐車してありました。どうしたのだろうか、と教会の方まで向かいましたが、ちょうど、お葬式でした。クリスマスに召されたのだろうと思いますが、家族や親せき、島の人たちがたくさん集まっている様子でした。召された人の悲しみを思いながら、洗礼式があり、お葬式があり、そこに生きている教会の力強さを感じて戻って参りました。

信仰は、譬えどんな困難が外側から押し寄せて来てもそれでは無くならない。恐ろしいのは、私たちが神様の愛を形式的に捉えてしまうことです。イエス様の十字架の贖いと復活にしっかりと目を留め、神様の慈しみを愛することが、私たちの信仰の基礎あることを日々、確認しつつ、喜びの礼拝をささげてまいりたいと願います。

 

供ゼ尊櫃凌斥佑悗留答として正義を行う事

第一のこととして、神様の十字架の愛と慈しみこそが、私たちの信仰生活の喜びの基礎だ、ということを御言葉を通して聞きました。第二のことは、その喜びが実際の生き方の中に現されていく、ということを聞いて参ります。

「正義を行い」とありますが、ミカが言う「正義」というのは正義の味方だ、悪い者を退治する、というような正義ではないようです。先ほども少し触れましたが「わが民を迷わす預言者」たちは「平和を告げるが/その口に何も与えない人には/戦争を宣言する」(3・5)とあります。預言者が神様の恵みを語るわけです。神様の愛や平和を語るのです。けれども、それを聞いた人たちが、良かった、感謝だ、と言っても、お礼がなかったら、滅ぼされるぞ、と脅すというのです。自分勝手で、生活のためだけに神様に仕えている宗教家たちです。そういう在り方に対してミカは「正義を行い」なさい。というわけです。ここで用いられている正義という語はミシュパート(裁き)という意味の語です。自分に都合の良い解釈ではなくて、正しい神様の御心を伝えなさい。ということです。神様の御心に適った礼拝、生き方をしなさい。ということです。形式的でなく、いのちに満ちた礼拝です。けれどもそれは同時に、自分の好みではなくて、神様の定められた方法に従うことによって現される喜びです。相反するようなことです。型にはまった礼拝は命を失います。ところが命に満ちたはずの礼拝は、ともすると自分の喜びを優先するような曲がった礼拝に陥りやすいことです。

日曜の朝、復活の主を覚えて礼拝をします。一つ心になって、パンを裂き、祈ります。そこに日々仲間に加えられる者たちが起こされていく神様の御業が起こります。そういう喜びに満ちた礼拝を守って行きたい言う願いがあります。

どうしたら、そういう喜びに満ちた礼拝を神様の定められた方法で守っていくことができるのか?正解はないのだろうと思います。この通りやったら大丈夫、というやり方は有りません。けれども、一つの在り方として、考えさせられていることは、生きることと信仰する事とを一致させていく、ということです。具体的に申し上げれば、これまで以上に、私たちの生活の中心に礼拝があり、礼拝の中に生活がある、ということ。来週の月曜日は成人の日です。またすぐにセンター試験が来ます。そういう一つ一つの事柄を私たちの礼拝の中で共に体験していくこと、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く。そういうことが礼拝の中で、祈りの中で起こっていくそういう年になることを願っています。

そこにこそ喜びといのちに満ちた神様の御心に適った礼拝があると信じます。

 

<祈祷>

天の父なる神様。

新しい年2018年を感謝いたします。私達と共に歩んでくださるために小さくなってくださった御子の慈しみを感謝いたします。その愛にお応えして喜びと感謝の礼拝をささげることができますように。悲しみを半分に喜びを二倍にすることのできる礼拝として私たちの教会の礼拝を祝福してください。救われ、仲間に加えられ、共に御国を仰ぐ民が起こされ続けていきますように。

尊き主、イエス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。  アーメン。


 

 

 

 

 



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