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転職

「転職」という語は、職業を変えること、と説明されることも多い。

ただし、現在の日本では、一般的には、被雇用者がこれまでの雇用契約を解消し、別の雇用主と新たな雇用契約を結び雇用されることを指す。 つまり必ずしも職種を変更することは意味しない。むしろ、職種は変更せず雇用主だけを変更することを意味することも多い。

「転職」の語で、独立や開業、すなわち自営業を始めることなどを含めることもある。

雇用形態は、明治時代は引き抜き等により職人の転職が活発であったが、大正時代頃から終身雇用が一般的となっていた時期もある。終身雇用は第二次大戦後の日本企業の特徴のひとつと言われるが、印刷会社などでは、戦後でも職人の転職は頻繁であった。

その後、バブル崩壊以降は、大企業においても終身雇用を厳格にとりつづけることは止め[1]、状況に応じて従業員をそれなりの数、解雇する企業が増えたため、(労働者全体に占める割合は少ないものの)、転職は増加傾向にある。


総務省「労働力調査年報」よりしかし、転職をキャリアアップのチャンスととらえるアメリカに比べれば、日本の労働移動率は依然として低く、雇用が流動化してきていると言われているものの、長期雇用の伝統が残るヨーロッパ諸国のそれに近い。

 

 


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コンスタンツ公会議

教会分裂に終止符を打つべく行われたピサ教会会議(1409年)では、アレクサンデル5世を新教皇として選出したが、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世とローマ教皇グレゴリウス12世が退位しなかったため、3人の教皇が鼎立するという異常事態を招いて失敗に終わった(アレクサンデル5世は翌年に急死、ヨハネス23世が後を継いだ)。ここにおいて影響力を強めようとした神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱によってコンスタンツでの公会議の開催が宣言された。ジギスムントはヨハネス23世を説得してこの会議に参加させ、その呼びかけによって多くの参加者を得る事に成功した。

ヨハネス23世は自らの正統性がここで確認される事を期待していたが、会議の流れでその望みが果たされないと悟ると支持者の枢機卿たちと共に逃亡を図った。「教皇」を失った公会議はここにおいて崩壊の危機に瀕したが、公会議主義者であった神学者ジャン・ジェルソンらが「教皇さえも公会議の指導に従うべきである」と唱え、会議を主導したことで持ち直した。ここにおいて採択された教令「ヘック・サンクタ」(Haec Sancta)は公会議主義の精神をよく表しているもので、公会議に次の3つの目標を打ち立てた。

1.教会分裂を収拾する
2.教会の改革(いわゆる頭と肢体の改革)を行う
3.教会内の異端を一掃する
その後、ヨハネス23世は捕らえられ廃位された。グレゴリウス12世はここに至って、1415年に自ら退位を宣言した。残ったベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、1417年7月に廃位が宣言された。こうして教会大分裂収拾の準備は整った。

1417年10月、公会議は画期的な教令「フレクエンス」(Frequens)を採択した。これは公会議を定期的に行うことで、教皇権の暴走に対する抑止力とすること、公会議を以後5年目、さらに7年後、以降は10年ごとに定期的に開催することをうたっていた。






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助郷

初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。そのため村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。

制度としては、明治5年(1872年)に廃止されるまで継続していた。

助郷は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。

また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。