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転職

「転職」という語は、職業を変えること、と説明されることも多い。

ただし、現在の日本では、一般的には、被雇用者がこれまでの雇用契約を解消し、別の雇用主と新たな雇用契約を結び雇用されることを指す。 つまり必ずしも職種を変更することは意味しない。むしろ、職種は変更せず雇用主だけを変更することを意味することも多い。

「転職」の語で、独立や開業、すなわち自営業を始めることなどを含めることもある。

雇用形態は、明治時代は引き抜き等により職人の転職が活発であったが、大正時代頃から終身雇用が一般的となっていた時期もある。終身雇用は第二次大戦後の日本企業の特徴のひとつと言われるが、印刷会社などでは、戦後でも職人の転職は頻繁であった。

その後、バブル崩壊以降は、大企業においても終身雇用を厳格にとりつづけることは止め[1]、状況に応じて従業員をそれなりの数、解雇する企業が増えたため、(労働者全体に占める割合は少ないものの)、転職は増加傾向にある。


総務省「労働力調査年報」よりしかし、転職をキャリアアップのチャンスととらえるアメリカに比べれば、日本の労働移動率は依然として低く、雇用が流動化してきていると言われているものの、長期雇用の伝統が残るヨーロッパ諸国のそれに近い。

 

 


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マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)

経済力を手に入れたいハプスブルク家と、自身がローマ王の座につくという野望を抱くシャルル突進公の利害が一致し、マクシミリアンとシャルル突進公の娘でブルゴーニュ公国唯一の後継者マリーは婚約した。しかし双方の政治的思惑もあり、なかなか結婚に至らなかった。

1477年、シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死し、ブルゴーニュ国内は大混乱に陥った。国内では貴族が権利の拡大を画策し始め、さらにフランスもブルゴーニュに侵攻した。孤立無援のマリーは婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、1477年8月19日、ガンの聖バボ教会で挙式した。

マクシミリアンはフランドル及びブラバントから兵を召集したが、軍事展開上必要なスイス傭兵を確保出来ず、南ドイツからも傭兵を募り、スイス式の武装と戦陣の展開の訓練を施した。1479年8月、ギネガテの戦いで歩兵の密集方陣を採り、ルイ11世のフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。

マリーと共に公国内の各地を歴訪したマクシミリアンは、当時辺境の地であったウィーンと比較し、フランドルの繁栄に驚かされた。彼はフランドルの文化や制度に影響を受け、懸命に学んだという。当初、マリーとは上流階級の教養語であったラテン語でコミュニケーションを取っていたが、安定な統治のために間もなくマリーからフランス語を、宮廷付きの婦人から現地語のフラマン語を学び、それぞれの言語を母国語のように理解し、読み書き出来るようになった。マクシミリアンは後に反乱に遭ったものの、おおむね好意的に受け入れられ、統治にも卓越した能力を示した。






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助郷

初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。そのため村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。

制度としては、明治5年(1872年)に廃止されるまで継続していた。

助郷は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。

また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。