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| 東漸寺は法雲山地蔵院と称し見性院の供養塔のある平林寺の末寺で天正三年にこの地の地頭、城和泉守昌茂による開基 樵南紹能禅師の開基により開かれた臨済宗のお寺です。 |
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このお寺開基城和泉守昌茂ですが上杉家臣でもあり武田家臣でもありました。 祖父貞茂は上杉為景謙信父子に仕え後上杉を離れ武田信玄に仕えます。 子の景茂も謙信と折合いが悪く父と共に越後国を去り会津で浪人していたところ、信玄が伊勢の幸福太夫を使者として送り召し抱えた といい、興津で討死した本郷八郎左衛門の足軽二十騎を貰い足軽大将となります。 長篠合戦では深沢城代を努めています。 景茂の指物は白地に“無”と書いたものだったのですが、これは上杉謙信が工夫した物であった為謙信は怒り、合戦の度に景茂を 討取ろうとし、また指物を奪うよう命じたが出来なかったという話も残っています。 長野業盛の箕輪城落城にて矢嶋久左衛門と二度槍を合わせ、二度目の時矢嶋が曲がった矢を直して景茂が射取られています。 その景茂の子が開基和泉守昌茂です。彼も父達と共に10歳の頃(1560年頃かな)に甲斐に来て武田に仕え後に徳川に仕えます。 武田時代天正八年の北条との水軍合戦では敗色濃厚な武田水軍の中で一人敵船に向かおうとする向井兵庫に対し勝頼は城昌茂を 使いとして送ります。 浪打際に馬で乗りつけた昌茂は兵庫の舟を呼び 『一人で戦うのは無理だ。船を棄てて早々に陸に上がるように』という伝言を伝えます。 兵庫は 『船戦は陸での戦と違い船で致します。船を棄てて陸へ追い上げられたなどど人に言われますと末代までの恥辱、それがしは船は すてませぬ』 と返答し、劣勢を覆し北条に勝利したと言われています。 徳川家臣となった天正十二年頃この地熊谷、忍に七千石の地を賜ります(天正三年の寺開基と合わないな・・・・) 関ヶ原では勝山の陣と大垣城の間に陣をかまえこれを守り、大阪両陣では松平武蔵守利隆に属し軍監七人の一人に選ばれています。 元和元年(大阪の陣での?)軍令を犯した罪により改易され近江国石山寺にて謹慎、寛永三年七月二日許されて江戸に向かう途中 信濃国にて没七十六歳。 室は長尾義景の娘です。 彼の弟が玉虫を称した重茂で玉窓寺を菩提寺としています。 |
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右端写真の東漸寺中興開基?としたのは大変古い墓の在る方の墓所で宝篋印塔に東漸開基の文字がありました。 最後ですが上で書きましたが城昌茂がこの地を賜ったのは天正十二年頃で、お寺の創建が天正三年なんですよね。 もし昌茂が天正三年の時点でこの地の地頭であったのなら武田家臣でも上杉家臣でもツジツマが合わなくなってしまいますね。 この地が上杉謙信家臣であった成田氏の領地であった時期もありますが天正以前ですし(天正年間成田家は上杉と対立してます) まあこの辺の疑問は私のサイトでは毎度お馴染みの事ですので、お許し下さいね。 |
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| (11 9.22 アップ) | ||||||||
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