立行寺



   寛永7年(1630年)天下のご意見番大久保彦左衛門忠教によって六本木に創建された日蓮宗の寺院です。その為、別名大久保寺

   と呼ぶ様です。1668年火災の為白銀(現在の白金)に移転しています。 大久保彦左衛門は天正9年の高天神城攻めでは岡部

   丹波守長教をつきふせ、家臣の本多主水に首を取らせています。  彦左衛門は寛永16年2月1日に亡くなっています。


    実は大久保彦左衛門忠教の室が武田

   逍遙軒信廉の娘という説があるのですよ。

   馬場信成(馬場信春の子孫、下記に)

   に養われて大久保彦左衛門室となって

   います。(であって欲しい・・・)
        山門というより玄関かな              本堂
   

   馬場家は信保が武田信虎に仕え武川の根小屋城に住んでおり、その子が信春(若宮八幡宮)です。信春には二男に信頼がおり

   和泉国淡輪に隠居しその子に信久がおります。信久は信玄勝頼に仕えやはり根小屋城に住んでいます。慶長15年10月

   (または文禄元年)に亡くなっており、その子が武田逍遙軒の娘の養父信成です。

   ちなみに馬場信春の娘は武田家臣初鹿野昌久の室となっており萬年寺に墓もしっかり残っています。


       
  大久保家の墓所は屋根着きです
  歴代の大久保家の方が眠っています
   架空の人物とされている一心太助の墓       忠教の墓は真中の木造の
       お堂の中にあります。
       (墓所は通路が狭くて写真が
       上手く撮れないのですよ。)
 

    忠教の後に大久保家の当主になったのは忠名という人ですが、母は武田逍遙軒の娘です。ちなみに大久保彦左衛門忠名の妻は

    駒井高白斎の孫で玉窓寺(又は宝憧院)に眠る駒井親直の娘です。 これも忠教の室が武田逍遙軒の娘である事の可能性の一つ

    の理由になるかな? 江戸の初期、武田家臣の子孫は同じ武田関係者と婚姻関係を結ぶ事が圧倒的に多いからです。

    左写真の右は忠名の墓で左は忠教の妻、武田逍遙軒の娘の墓です。

    その左に微かに見えるお堂は忠教の墓です。忠名は萬冶2年3月9日亡くなり法名は

    日悦ですが、墓にしっかりと刻まれておりすぐ分かりました

    問題は母の墓ですよね。墓の戒名が“秋桂院殿日香禅尼”と女性であること

    施主が大久保彦左衛門忠名となっている事で間違いは無いであろうと思っていたの

    ですが、たまたま住職が通りかかったので確認出来ました、しかし武田家の姫で

    あるかは分からないようでした。(1年以上前の話です)
 武田逍遙軒の娘と忠名の墓    
  右の写真は武田の姫の墓に刻まれた永眠された月日だと思うのですが

  正月12日又は22日と分かります(12日に見えますが実際は微妙です)

  年号は承応4年ですね。年代的には長生きしたと思えば問題ないか・・・W。

  姫の墓は結構新しく見えるのですが施主が大久保彦左衛門忠名と

  記されているのでその当時の物でしょう。墓石の種類で保存状態が

  全く違ってくると聞いた事があります。
    
 もう一人、政雄という人が武田逍遙軒の娘の子供なのですが、その人は大河内正勝の養女を

 室とし大河内家の養子となっております。 正勝の父が大久保彦左衛門忠教の姉を室に

 しているので以前から付合はあったのでしょうね。その大河内正勝の墓も立行寺にあります。
 
 大河内家は代々吉良家に仕えていたようですね。(子孫はあの吉良上野介)  立行寺を菩提寺に

 していますが、最初に菩提寺と定めたのが(多分)正勝です。 寛永17年6月24日に亡くなって

 います。正勝の墓は立派な五輪塔で正勝の次の当主は(武田逍遙軒の娘の子)政雄なので、

 この墓は政雄が中心となって建てた物でしょうね。
     大河内正勝墓
    

    ちなみに武田逍遙軒信廉の他の子の縁の史跡としては開善寺 永岳寺で紹介していますのでよろしかったら見てくださいね。





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武田逍遙軒信廉娘の法名は“秋桂院殿
日香禅尼”です
   最後にもう一枚。中央が
   武田逍遙軒娘の墓です


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