興長禅寺(滑川)

創建等については詳しい情報はないのですが州山芳伊禅師の開山、当地の地頭加藤喜左衛門の開基により創建した曹洞宗のお寺です。

  


数年前の秋の夕方に訪問したのですが、民家もほとんどない場所に建っているので静かで

いいお寺です。

その時は焚き火をしていて木の焼けるパチンという音が陽の沈む前の静かな

寺内に響いて何か心地よかったです。

今はどうか分かりませんが,その時は参加無料の座禅会を開いていました。

この静かな山深い場所で座禅をすれば私でも何か変われるかも、なんて思ったりして。
山門 本堂

古田重然(織部)という戦国武将がいます。

織田信長(後豊臣)の家臣だったわけですが、武将というより茶文化人や茶器の製作者としての方が有名でしょうか。 この織部が歴史秘話ヒストリアで放送された時に

確か斜面を利用した器製造用の窯が紹介され、それが戦国時代に日本に伝わったという様な紹介をされていたと記憶しています。(違ったらスミマセン)

その斜面を利用した同様の窯跡がこの興長禅寺のすぐ近くに残っています。

   

右写真がその窯なんですが、説明看板を要約すると

この窯は須恵器という焼物を製造したもので、出土した遺物から6世紀から7世紀初頭

に使用されたと推測されます 登り窯と呼ばれるもので斜度15度位 幅2〜2.5m

高さ1.5〜1.7m 残存している長さ15m  下部の焚口で火を燃やし1150度程の高熱

を使用していた様。 出土した物は 高杯 蓋  堤瓶 平瓶 壷 高台付壷 他です。
            窯跡内部           五厘沼窯跡

斜面を使った窯は戦国時代より遥か昔からあったと考えられるのかな?それともヒストリアで紹介した物とここにある窯は全く違う形態なのかな?

   

お寺の開基である加藤喜左衛門ですが、正次そしてその孫である正之と二人いるんですね。 開山の州山芳伊禅師は天正13年三月朔日にお亡くなりになっていますが

正之はその時はまだ生まれていないし、でも正次がこの地を領地としたのは開山の卒する後なので正次とも微妙に合わない・・・・

しかし新編武蔵風土記稿では慶長十八年八月十七日死去になっているので正次としています。

また一応ここを菩提寺としたのは正之からでそれ以前は桑子の妙源寺なんですよね(墓残ってるのかな?)実際墓も正之からが残ってるし・・・・・・

ただ正之だったら寛永10年頃(20歳位)以降でないと開基としては少し無理があるかな・・・・・今までの経験からですが新しい領土を賜った場合、最初の領主が菩提寺を造ることが

多いので正次がここ興長禅寺とは限りませんがこの地区のどこかのお寺を開基(または中興)した可能性は高いと思います。



   

さてこの加藤家と武田家との関係ですが、家臣ではありません。

ただ小話としてなんですが、(開基?)加藤正次の父である正信が

元亀三年十二月二十二日の三方が原に参戦し討死しています。

で戦後に武田軍より正信の遺体が運ばれ、子である正次が

それを受け取ったという事です。

後正次は関が原では御使番を勤め、同年京都警護の任を賜っています

慶長十八年八月十七日卒

妙源寺には上二人の墓残ってるのかな? 行ってみたいな〜
    加藤喜左衛門正之     加藤彦右衛門正顕     加藤伝八朗正英


    
上写真正之は開基の可能性のあるもう一人の方です。

元和八年十歳で徳川秀忠に拝謁し寛永十年十一月朔日に家を継ぎます。慶安二年正月二十七日(品川の?)東海寺の修繕奉行

を賜ります。承応元年十二月十五日四十歳にて卒。 室は島田幽也利正の娘で墓に合葬されています。

正顕は正之の子で次の当主です。慶安元年七月十九日徳川家光に拝謁し 二年三月二十五日家を継ぎます。

天和二年正月八日卒、墓は他数名の方と共に眠っています。

正英は正顕の次の当主です。 享保十七年十二月七日卒、室は島田八郎左衛門利広の娘で共に葬られています。
          謎の宝篋印塔
    
上右写真の宝篋印塔の頭部が気になります。上の当主達と同等大きさで、歴史のある物の様に感じます。

まさか正之の先祖、正次や正信の墓の一部だったりして、違うかな?

     


                                                                                             (14 2.27 アップ)

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