一乗寺





    一乗寺は当時この地にあった庵原氏の創建で菩提寺であった禅林寺がその元と言われています。

    庵原家の衰退とともに寺は廃寺同様となっていましたが、庵原家出身の太原崇孚和尚(雪斎)が天文年間に一乗寺に名を改め

    臨済宗のお寺として再興したと伝えられています。

    永禄初年に哉翁という僧がこの寺に寄食しましたが、実はこの方が今川義元の宿将朝比奈俊元で永禄三年に今の地に移転して

    曹洞宗に改め、血縁者である朝比奈信置が開基となり現在の一乗寺の形となりました。


            山門               本堂     文化十年に萬松院から移された寛文
    十一年の輪蔵がある蔵

   朝比奈信置は今川家の重臣で名を元置と称していましたが永禄十二年より武田家に仕え信玄の信の字を賜り信置と改名したと

   言われています。駿河先方衆として百五十騎の将で山県昌景に属しています。

   天正年中に持舟城主となり武田滅亡時はこの城を守っていましたが形勢が絶望的となり子の宗利に徳川に開城するよう命じて

   一度久能城に引いてのち庵原の館に戻ります。 そして妻子を残し武田勝頼の元へ向いますが途中身延辺りで勝頼自害の報を

   聞き庵原の館に戻ります。 そこも信長に攻められ嫡男の信良と共に四月八日自害しています。(信良は甲府で自害の説もあり)


朝比奈宗利は上記の通り滝川一益、酒井左衛門尉忠次に持舟城

開城した事により家康に召抱えられ旗本となっています。

墓所は不動院です。

信置と共に自害した信良の室は跡部勝資の娘で信良自害の時妊娠

しており兄の跡部良直に身を寄せ子を生みます。生まれた子は

良保と名乗り良直の養子となり良直の次の当主となっています。

この二人は紅巌寺を菩提寺(子孫は玉窓寺)としています。
    朝比奈駿河守信置  信置二百回忌建立の石塔
 (厳密にはその一年前建立)

    信置の墓は子孫で信置の曾孫にあたり深津越中守正貞の娘を室とし深津家の養子となった正国が十二月八日(年度は不明)

    建立したものです。

    正国は正徳三年三月二十八日から五年五月二十五日まで駿河の町奉行として駿河に赴任しており、その頃信置の父元長の

    菩提寺元長寺の墓所を整備していますので、この墓も正徳三年か四年の十二月八日に建てられたのでしょうね。


   ここに注目


    歴代住職の中で古そうな物が下記の物で住職に雪斎の物か尋ねた所、歴代住職墓は信置中興以降の物ですよ、との事でした

    ので俊元かな?と思い載せました。 違う可能性もありますので・・・・・・

   朝比奈摂津守俊元?                   庵原家墓             1300年代庵原家墓



    大河ドラマの中で山本勘助の大叔父として庵原忠胤という人物がおり、その忠胤に勘助が今川家への仕官を依頼していましたね。

    勘助は実際にこの付近に滞在して庵原家に世話になっていたようです。上写真はその庵原家の物と言われている墓です。

    文字は全く見えなく、唯一見える右写真の物も勘助の時代から三世代位前の古い物です。(年はハッキリしていますがメモする

    の忘れました)

    この庵原家の墓は本堂の裏にあります。お寺の本堂裏って整備されてない場合が多いですよね、庭になっていても枯山水が

    ただの枯れた庭になってたりして(正直物置場状態だったり・・・・)。 でもこの本堂裏の庭は綺麗でしたね。

    私の史跡訪問用のノートに勘助は実際は今川家でなく庵原家に世話になりながら朝比奈信置の父元長(元長寺)に仕官を依頼して

    いたのだが今川家が許可しなかったというメモが残っています。(ただし“あくまで口伝で”となっています)

    どこで聞いたのか又は見たのか忘れてしまったのですが、メモに残っているのでどこかでこの情報を入手したのでしょう。


                                                                 (10 1.22  アップ)




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