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仕事

仕事(労働)とは、奴隷制の一形態として人間が肉体や道具を用いて対象にはたらきかけ、人間や動物にとって有用なものをつくりだす行為である。

また、商品としての労働力は、肉体や頭脳を提供する代わりに、賃金を得る行動であるとも定義され、賃金奴隷制度ともいわれる。賃金を得ない活動はボランティアと呼ばれる。

道具・機械・建物・交通・通信(労働手段)を用い、土地・森林・水域・地中資源・原料(労働対象)に対して行なわれる。労働手段と労働対象を合わせて生産手段という。

国際労働機関では、望ましい労働の形としてディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現を目標に挙げている。また、フィラデルフィア宣言において「労働は商品ではない」という原則を掲げている。

 

 


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キリキア

キリキアはアケメネス朝ペルシアの建国者キュロス2世によって紀元前6世紀に征服され、それから紀元前334年から始まるマケドニア王国のアレクサンドロス3世によるペルシアの征服までペルシア領であった。アレクサンドロス3世が東方に遠征する途中、紀元前333年にアレクサンドロス一行はキリキアに立ち寄った。そしてこの年にペルシアのダレイオス3世と戦って勝利し(イッソスの戦い)、その3年後にダレイオス3世の死とともにアケメネス朝は滅亡する。しかし、まもなく紀元前323年にアレクサンドロスが急逝すると、その後継をめぐって激しい争いが繰り広げられる(ディアドコイ戦争)。

争いの末キリキアはセレウコス朝シリアの支配域となる。セレウコス朝の初代王セレウコス1世は、このキリキアの西部沿岸地にセレウキア(現トルコ・シリフケ)という名の街を建設する。しかししばらく支配は安定したものではなく、まもなくプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス2世との領土争いが起き、キリキアを含むアナトリア半島の南岸部を失う(第1次シリア戦争など)。しかしその後セレウコス朝のアンティオコス2世はマケドニアのアンティゴノス2世と同盟を結んでエジプト戦いを挑み、小アジア海岸地域の奪還に成功する(第2次シリア戦争、紀元前260年〜紀元前253年)。その後シリアは領土拡大に動き、小アジアの西・南沿岸部をすべて制圧する。しかし、当時シリアはハンニバルを亡命者として受け入れていたためにローマと対立し、ついにはローマと戦って敗れてしまう(前192年〜前189年マグネシアの戦い)。この敗戦による賠償でシリアはトロス山脈西部より以西をすべて失い、キリキア地方西部はロードス領となる。

これを境にセレウコス朝は衰退に向かう。 前1世紀には東方のパルティア(イラン)に圧されすっかり弱体化したシリアは、そのころ力をつけてきたカフカスの大アルメニア王国により壊滅的な被害を受けることになる。アルメニアのティグラネス2世(在位前95年〜前55年)はそれまでパルティアに奪われていたアルメニア台地(現在のトルコ東部)を奪還した勢いでついでにキリキアとシリア本土をも制圧した。






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荘官

荘園の支配・管理は、現代のように明確な法規定があった訳ではなく、荘園領主の権威に依存する不安定なものだった。そのため、他の荘園の荘官や国衙との間に、荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が発生することも多く、荘官がその対処に当たっていた。当時、中央の官職にあぶれた武士身分の下級貴族が多数、地方へ下向してきており、荘官たちは荘園を巡る紛争解決のために、それらの武士貴族と主従関係を築いていき、中には武士となる荘官も現れた(全ての荘官が武士化した訳ではないことに注意)。

鎌倉時代になると、鎌倉幕府によって御家人や地頭として認められる荘官も出てきた。このことは、荘園領主による地位保全では十分とは言えなくなり、新たな権威として台頭した幕府を頼り始めたことを意味する。荘官は次第に荘園領主(本所)を軽視していき、本所の権益を奪うようになっていった。室町時代に入った頃から、荘官は在地領主としての国人へ変質した。それでも荘官は荘園制とともに戦国時代まで存続したが、荘園が解体した太閤検地により荘官も消滅した。ただし、江戸時代も荘官の名残として「庄屋」や「名主」などの呼称は残った