
名古屋駅前は、今、高層ビルの建築ラッシュだ。何十階もあるビルが林立している中に、さらに、その倍もあるような高さのビルが建ちつつある。
しかし、駅から少し歩けばビルの谷間の中に昔ながらの長屋が残っている。町内の心のより所であったお地蔵さまも厨子の中で鎮座している。
名古屋駅前のビルの谷間から離れて、俗に下町と呼ばれている円頓寺界隈に向けて歩いてゆく。下町は、名古屋を代表する商家が建ち並んでいた碁盤割の町が上町と呼ばれていたのに対し、堀川端より西の地域を指していうことばだ。堀川をはさみ上町と下町では、生活習慣から言葉づかいまで違っていた。
その下町情緒が濃厚に残っているのが、替地町だ。現在は四間道の沢井町とともに、町名変更によって那古野一丁目に含まれている。
替地町の町名由来について『尾張徇行記』は、次のように記す。
替地出来町、此彊域、北は上畠町通りを界とし、南は中橋筋より南の方元円頓寺筋を界とし、東は新道筋を界とす。即是信行院町通り也。西は江川通りを界とす。されば此地は元禄六酉年(一六九三)比、瑞龍公退隠し玉ひし後、大曽根村の内、元出来町の地、郭内となりし故に、其換地として今の所に地子を賜はり町屋を造立す。因てここを替地出来町と称せり。
瑞龍公とは、二代藩主光友のことだ。隠居した光友の屋敷を大曽根の出来町(現在の東区)に造ることになった。出来町の土地を召しあげる代わりに、替地として与えられたのが、この土地だ。
江戸時代は替地出来町、あるいは新長屋と呼ばれていたが、明治九年に替地町と名称が変わった。
『尾張徇行記』が述べている替地町の北の堺の「上畠町通り」とは、現在の円頓寺通りのことだ。南の堺の「元円頓寺筋」は、享保九年(一七二四)五月の大火によってこの寺が炎上した時、中橋の南に一時的に移ったので、このように呼ばれた。東の堺の「新町筋」は、享保十五年(一七三〇)の火事の時、新しく造られた道だ。信行院、すなわち専修寺愛知別院が、この筋にあるので信行院筋とも呼ばれた。西の堺は、現在の江川線の走っている通りだ。
地下鉄国際センターを降りて替地町にゆく。通りは格子づくりの家並がつづく。しっとりとした落着いた感じの通りだ。
しばらく歩くと屋根神さまが祀られている。屋根神さまの世話をする人がいなくなり、一つ、二つと地上におろされる。そして消えてゆく。しかし、替地町の屋根神さまは、通りにとけこみ、今も町内の人々により丁重に祀られている。屋根神さまの下には賽銭箱も置かれている。
替地町は、下町情緒が濃厚にただよっている町だ。
『尾藩世記』は、元禄十三年(一七〇〇)二月七日の項を、次のように記す。
城下大火。巾下信行院高田専修寺本坊辺より出火。町奉行支配町数五十三町、戸数七百三十六、国奉行支配町数百三十一町、戸数九百三十三。堀川通橋三架を堕す。外に諸士邸二十一、社寺十二(五)宇を焼く。借家鍵数壱万八千九百八十三戸、土蔵百六棟。
四間道ができるきっかけとなった元禄十三年の大火は、専修寺辺より出火し、多くの人家を焼き尽くした。しかし、専修寺は燃えることはなかった。
専修寺は、昔ながらの家並がつづく替地町の通りにある。『尾藩世記』は、この寺を「巾下信行院高田専修寺本坊」と長い名前で紹介している。
信行院は、もともとは皆戸町にあった、この寺の旧号である。正保四年(一六四七)の春、専称院義越玄恕が創建した。明暦三年(一六五七)に現在地に移ってきた。享保九年(一七二四)五月の大火で、この寺は焼失する。元文三年(一七三八)十二月、無住となった寺を、松渓巍堂が再興した。松渓巍堂は、三重県河芸郡一身田村(現津市)の専修寺の別院に、変えようとした。専修寺第十七世歓喜心院宮円猷に頼み、元文四年六月八日、高田本坊と改め専修寺の別院となった。
下野専修寺の本尊の一光三尊仏の出開帳の時には、たいへんな騒ぎとなった。
安永六年(一七七七)の出開帳は七月十五日から八月十四日まで行なわれた。
『猿猴庵日記』は、出開帳の初日の騒ぎを次のように記している。
十五日卯の刻より開扉故、参詣輩、七ツ前より門前に透間なく、門の明を待、びっしりと詰かけ居申候に付、同行達見付、余り大勢故、若、怪我杯有りては如何と門を開き候へば、我先と押込へし込、どっと一度に数多の参詣、庭一盃に成候に付、目明し、宵より相詰居、是を見て同行衆、なぜに門を開れた。六ツ前に明る事堅くならぬと呵り候故、又、門を閉候へ共、境内へ入し参詣人、中々外へ出不申、夫なりに致置故、内も外も一盃づつに成候。既に卯の刻に至りて、尊像御戸開有、門を明候へば、内外に詰居候大勢、我もと堂内へ内陣を目懸、并ひに押合い付倒されてころび候も有。
まだまだ、この日の様子を詳細に記している。すりが、混雑にまぎれて財布をすりとろうとした。腰に大きな瘤がある人がいた。すりは、かっこうのかもとばかり、この瘤を着物の上からさわり、財布とまちがえてかみそりで切ってしまった。瘤を切りとられた男は、血だらけになり目をまわしてしまった。
高力猿猴庵は、日記ばかりでなく『高田山開帳参案内記』という戯文も書いている。
案内記では、とろくさいとおりすけの二人が二人で六文を払って内陣に入り開帳を拝観する。猿猴庵は、絵とともに見世物の数々を紹介している。
玉娘、曲持、水からくり等さまざまな見世物が出た。エレキテルも、見世物として出た。
円頓寺通りに面して、二つの寺が建っている。ひとつは通りの名前になっている円頓寺だ。円頓寺の東側にある寺が慶栄寺だ。
慶栄寺は真宗大谷派の寺で、山号を阿原山と呼ぶ。この寺が春日井郡の阿原村(西春日井郡新川町)にあったからだ。創建は遠く永正八年(一五一一)にさかのぼる。開基は善正上人である。三世壽玄のときに寺は阿原村から皆戸町(現中区)、そして享保九年(一七二四)の火事により、現在の地に移ってきた。
境内に文化元年(一八〇四)に住職義諦が建立したとされている太子堂がある。
『尾張名所図会』は、太子堂について次のように記している。
太子堂は往昔、南都元興寺に太子御基立ありし宝塔の古材を以て造営せし所にして、すなはち堂内に太子御自作の尊像を安じ奉れり。
聖徳太子自作といわれる太子像が祀られている太子堂は、奈良の元興寺の五重塔の古材を用いて作られたものだ。太子堂は、二畳台目の茶室として使われていた。
慶栄寺には、太子堂のほか松涛庵と呼ばれる茶室もあった。足利義政が銀閣寺を建立した時に建てた茶席を、移したものだという。六畳台目、棧瓦葦の数寄屋造りであった。
風雅な茶の世界とは、まったく異質な見世物が慶栄寺で行なわれていた。
細野要斎は「感興漫筆」の巻二十二の中で、安政六年(一八五九)に慶栄寺で行なわれた見世物のことを記している。見世物は「力持足芸、女角力、女陰を露して吹管にて吹くもの二ケ所」だ。「女陰を露して吹管にて吹く」見世物は、ヤレフク、ソレフクの名で呼ばれていた。
小寺玉晁の『見世物雑志』の文政五年(一八二二)の三月の条に、次のような記述がある。
三月、石山寺開帳にて、十日ごろより軽業興行。
同月、同所にて、女陰を火吹竹にて見物に吹かせる見世物あり。木戸代四文にて入り、笑はず真顔にて吹けば何やらくるるとやら。その囃子に、ヤレフク〳〵、ソレフク〳〵〳〵、ドジコドジコ〳〵。
右しばらくの内有之候処、御停止に相成る。
石山寺は、守山の矢田川の北にある寺だ。安政五年に禁止になり、また息を吹き返し、安政年間の慶栄寺での興行となった。
ずいぶん馬鹿〳馬鹿〵しい見世物もあったものだ。
慶栄寺の近くに、今はあとかたもなくなってしまったが、開慶座という小屋があった。昭和のヤレフケ、ソレフケとばかり、裸女の踊り見物に多くの男性がおしかけた所だ。
円頓寺は大須の万松寺と並ぶ名古屋を代表する盛り場であった。「である」でなく「であった」と過去形で書かざるをえないところに、円頓寺の現況が如実に現れている。
円頓寺から人影が少なくなったのは、そんなに遠い昔のことではない。瀬戸電が景雲橋の際の堀川駅まで通じていた頃は、瀬戸や尾張旭から円頓寺で食事をしたり映画を見るために、多くの人々が押しよせて、賑わっていた。
昭和五十三年、瀬戸電が栄に乗り入れられた。大津橋と堀川駅の間は廃線になった。それと同時に円頓寺に遊びに来る人々の数も極端に少なくなってきた。
地下鉄の丸の内駅も、国際センター駅も、円頓寺からかなり離れている。交通の便の悪いことが円頓寺が大須に遅れをとった最大の要因である。
円頓寺通りから、一本南の道に入ってゆく。円頓寺通りが、買物客で賑わう商店街ならば、この道は飲食店が立ち並ぶ、男性が遊ぶ場所であった。円頓寺が昼の顔ならば、この通りは円頓寺の夜の顔であった。
円頓寺が衰微したのは、瀬戸電の堀川駅への乗り入れが廃止されてからだ。では、いつ頃から円頓寺は繁盛するようになったのだろうか。
江戸時代、水の大動脈堀川の流れによって、数々の品物が名古屋の町へ運ばれてきた。
他国から海路はるばる運ばれてきた塩、茶、漢方薬などは堀川を上り、五条橋の際から荷揚げされた。荷を運んできた人夫や商人たちの遊ぶ場所が円頓寺であった。
江戸時代からの盛り場である、この町は円頓寺の門前町として栄えてきた。
円頓寺は承応三年(一六五四)普敬院日言によって、広井村八間屋敷(西区替地町)に創建された寺だ。
享保九年(一七二四)の大火により、堂宇はすべて焼失してしまう。六世住職日養は、志水八郎左衛門の屋敷跡を二百両で買い求めた。二百両といえば大金だ。とても一人の僧侶の手で、まかなえる金ではない。地代金を調達することができない。
円頓寺は、住職の権限のない上り寺となった。このままでは、寺は人手にわたってしまう。日養は必死になって金の工面をした。
日養が円頓寺の住職として、再住することができたのは享保十一年(一七二六)のことだ。
寺の境内に入ってゆく。本堂の脇に鬼子母神堂がある。堂内には、鬼子母神像が祀られている。この像は、天守閣の棟木の余材で刻まれたものだという。
鬼子母神は王舎城の夜叉神の娘で、千人の子を生んだが、他人の子を奪って食べたので、仏は彼女の最愛の末子愛奴を隠して、彼女を戒めた。鬼子母神は、安産、育児などの祈願を叶えてくれるという。
江戸時代以来、毎月十八日の鬼子母神祭は多勢の参拝客で賑わった。
江川線をはさみ東側には円頓寺商店街が、西側には円頓寺本町商店街がある。二つの商店街には、それぞれの商店街の守り神のようなかたちで、円頓寺商店街には金刀比羅神社が、円頓寺本町商店街には多賀宮神社が鎮座している。
二つの神社に共通しているのは、明るさであり、はなやぎである。重苦しい神社特有の雰囲気は、二つの神社からは漂ってこない。
二つの神社に共通する明るさ、はなやぎは二つの商店街の活気がもたらすものだ。商店街の繁栄と発展を二つの神社に祈る。その点では、神社は商店街の人々の心の頼り所だ。
祭りは神社を中心として、くりひろげられる。商店街の祭りはイベントだ。円頓寺商店街は、金刀比羅神社前で、イベントを展開している。円頓寺本町商店街の事務所は、多賀宮神社の社務所のようだ。事務所は、鉄骨をくみたてた二階にある。一階は、通りぬけになっており、多賀宮神社の参道だ。
二つの神社は、商店街の中心にある。商店街のイベントは、二つの神社を中心として、くりひろげられる。二つの神社の明るさ、はなやぎは、円頓寺商店街との密接なつながりがあるからだ。
金刀比羅神社は、三の丸の大道寺邸に祀られていたものだ。安政六年(一八五九)に、この地に遷座したという。石柱に刻まれている商店街の名前によっても、この神社と円頓寺通りとの関わりの深さをうかがわせる。
地元とのつながりといえば、この神社の近く塩町の出身の伊藤万蔵が、鳥居を寄贈している。伊藤万蔵は、何百という灯籠を全国の社寺に寄贈した人だ。
万蔵が単独で寄贈した灯籠などが多いなか、この神社の鳥居は、西側に万蔵の名が、東側には替地町と上畠町の寄進した人の名前が刻まれている。三人で共同で寄贈した鳥居だ。地元の鳥居だけに、知人との共同で寄贈したのであろうか。
円頓寺は変りつつある。金刀比羅神社の前の道を南に向って歩いてゆく。円頓寺通りの南側は広い空地だ。空地は円頓寺劇場が建っていた所だ。五十五年間の歴史をほこる映画館がとりこわされ、円頓寺からは興行関係の小屋は一館もなくなってしまった。映画館と併設されていた日本初のビデオレンタル店も消えてしまった。
とりこわされるのは、円頓寺劇場だけではない。通りの裏にある長屋が、次から次にとこわされてゆく。狭い路地の中にシャベルカーが入り、無惨にも木造家室を破壊してゆく。
とりこわされた長屋の彼方には、現在の名古屋の街を象徴する名古屋駅前の何十階もある高層ビルが建ち並んでいるのがみえる。
とりこわされた長屋の路地は、ビルやマンションに変わるであろう。
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円頓寺通りを歩いてゆく。商店街のなかに空地が日に日に目立つようになってきた。ここに、何が建てられるのであろうか。マンションや高層ビルが、商店街のなかに建てられたら、アーケードのつづく南の大須、北の円頓寺と称せられた円頓寺商店街の面影は、消えてしまうに違いない。裏通りの民家が、取り壊されてゆくだけではない。商店街までもが、今は空洞化されつつある。
江川線を越えて、円頓寺本町商店街に入ってゆく。二本目の筋を南にゆくと、この辺りがかつての志摩町だ。格子づくりの二階建ての家がつづく、下町の風情が濃厚にたちこめていた一帯だ。閑所の上に家が建っている。閑所を通り抜けると三軒長屋がある。かたくなに、昔のままの生活と習慣を守っているのであろう。
円頓寺通りで、年老いた婦人が店番をしている。「志摩町は、すっかり変ったね」と話しかけたら「私の所は上畠町だ。北の通りばかりを見て商売をしているから、南側の変り方はあまり気づかない」という。老婦人のように地域に対する愛着と頑固さが、円頓寺商店街を守ってきたのだろう。
円頓寺通りを抜けると、すぐ前に那古野町市バスの車庫があった。北側に赤いレンガ塀が続いている。車庫の中は立入り禁止になっている。高くて、頑丈な塀だ。ところどころが黒く焦げている。戦前から建っていた防火壁だ。空襲で、焼けた部分が黒く焦げた跡だ。しかし今はあとかたもない。
食堂に入り、奥さんに防火壁の事を話した。
「昔、新聞に載りましたよ。車庫の敷地が、東京の人にずいぶん高い金で売れたそうです。立派な高いマンションがたち、防火壁はみっともないと取り毀されてしまいました。」
こんなに長い頑丈なレンガ塀は、名古屋市では、ここに残っているだけであった。
名古屋は駅前の開発で、今、日本でいちばん活気のある町といわれている。軒なみ古いものを毀し、その上に高層ビルやマンションを建てるのが、開発といえるのであろうか。二度と建てることのできない、歴史的遺産は、残すことが必要であろう。
車庫の南側に桂芳院がある。桂芳院について『お地蔵さん見つけた』(中日新聞社刊)は、次のように記す。
桂芳院はもともと栃木県にあり、一九〇九(明治四十二)年に、現在の場所に移って入仏式が営まれた。愚痴聞き地蔵(高さ七十五センチ)の開眼供養は九六(平成八)年十月十日。同じ日に、延命息災、子育て健康、身がわり、守護水子、合格満願、厄よけ交通安全地蔵尊の六体(それぞれ高さ約90センチ)が、道路に面した場所にまつられた。
愚痴聞き地蔵に、愚痴を聞いてもらおうと境内に入ってゆく。柔和なお地蔵さまが、耳に手をあてて、こちらを見ている。愚痴をじっくりと聞いて頂けるように、コンクリートの腰掛けがある。座って、お地蔵さまに、「駅前の開発により、町はすっかり変ってしまいましたよ。お地蔵さまも、どこに移されるかわからないですよ」と語りかけた。
優しい柔和な表情が、一瞬、憂い顔になったように思った。