開府400年・名古屋の歴史と文化

名古屋の歴史と文化を紹介します
堀川と本町通りを軸に開府400年の名古屋の過去現在を縦横にたずねるページ。
  

新たにホームページを開設しました。 2009/8/16




 第一回五条橋から屋形舟に乗る会の様子平成21年7月15日                                              四間道・しけみち(名古屋市西区那古野)


新着情報


展覧会と講演のご案内

35回 堀川文化講座   講演と展示

 

碁盤割  町の成り立ちとくらし

 

講演 平成23221日(月) 14時〜1530分(受付1330分より)

講師 沢井鈴一

 

会場 中生涯学習センター 2階視聴覚室(地下鉄上前津駅6番出入口南へ徒歩10分)

 

定員 80名(先着順)

参加費無料

 

展示 平成23221日(月) 13時〜16

会場 中生涯学習センター 1階美術室 入場料無料

 

名古屋の町を開くにあたり徳川家康は、思い切った英断で、町人だけの住む町づくりを敢行した。名古屋の産業は、この町人町により大そう繁栄した。名古屋の商人町の真ん中をつらぬく本町通りには、名古屋を代表する町人の大店が軒を並べた。

 俗に上町(うわまち)と呼ばれる碁盤割の町では、名古屋独特の茶道、香道、踊りなどの町人文化がつくり出された。名古屋の町をあげてのまつり「名古屋まつり」に人々はわきたっていた。

 講演と展示により名古屋の碁盤割の魅力にせまってみたいと思う。




『名古屋の街道をゆく』 定価1500円


『名古屋大須ものがたり』
 刊行

定価500円

 

好評発売中

ちくさ正文館   広小路通り 千種駅東

正文館書店本店  東区東片端

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「想いかなう広小路恋の伝説みち」       [禁無断転載]

解説  沢 井 鈴 一 

 

 

小袖掛け松 久屋大通

 

今はただ思い絶えなむ(闇路の恋) 福生院

 

  今はただ思い絶えなむとばかりを

        人づてならで言ふよしもがな

 

 『百人一首』の中の、左京大夫道雅の歌である。「今となっては、あなたのことを思いあきらめてしまおうと、人を通じてではなく、直接あなたにお話をする、よい機会が欲しいのです。せめて今一度あなたにお目にかかりたい」という歌意だ。あなたとは三条院の娘、伊勢の斎宮を勤めて、帰京してきた当子内親王のことである。

 この歌は『後拾遺集』巻十三、恋三に「伊勢の斎宮わたりよりまかりのぼりて侍りける人に、しのびてかよひけることを、おほやけもきこしめして、まもり女などつけさせ給ひて、忍びにもかよはずなりにければよみ侍りける」の前書きを受けて、三首詠んだうちの最後の歌である。

 この歌の前の二首は、

 

  逢坂は東路とこそききしかど

        心尽しの闇にぞありける

 

  榊葉のゆふしでかけしそのかみに

        押返しても渡るころかな

 

一首目の歌は、「逢坂の関は、伊勢からの道中、あなたが上ってきた道と聞いていたけれど、逢うこともできなくなった今は、逢う瀬をさえぎる関所だ。恋焦がれる気持ちを、駆り立てる関所であるなあ」の意だ。

二首目は「榊葉のゆうし(木綿(ゆう)を垂れること)を掛けて、斎戒していた斎宮の昔に、あなたが戻ったように、逢われぬときの続くこのごろよ」の意だ。

 

伊勢の斎宮を勤めて帰京した当子内親王に、道雅が密通していることを、当子内親王の父親三条院が聞き知り、激怒し監視の女官までも付けたので、逢うことが全く出来なくなってしまい、この歌を贈ったのだと前書きは述べている。

藤原道雅はこの恋愛により左遷され、不遇のうちに、従三位左京大夫の職のまま亡くなる。ひとりの高貴な女性との恋に殉じた人生だ。

 

『尾張年中行事抄』は、福生院の大聖歓喜天が、如何に霊験あらたかであるかを、斎宮と道雅の恋を例として挙げている。

 

後一条帝時、左京大夫道雅、恋伊勢斎宮、詠歌、且祈干此尊焉、有其験、斎宮通男家。道雅

  今は唯思ひ絶えなむと計を人伝ならでいふよしも哉

 

 露顕糺明之、斎宮曰、不知、我如夢、見行也。群臣議斎宮掌染墨、令押彼門、令人視之、其路中門、皆悉有形、蓋是聖天所為也。

 

 『尾張年中行事抄』は、当子内親王が伊勢の斎宮であった時代に、道雅との密通を起したとしている。伊勢斎宮との恋は禁忌だ。

斎宮は絶対に逢うことの出来ない世界の人だ。道雅はただひたすら、大聖歓喜天に祈った。その霊験はあらたかで、道雅は斎宮と密会することが出来た。この事が露見し、三条院は斎宮を糺問した。斎宮は「私は何も知らない、夢をみているような状況でした」と答える。三条院の家臣は、斎宮の掌に墨を塗った。家臣に大聖観喜天の祀られている門を開けさせた。道は中門に通じていた。墨は道雅との密会の場所まで続いていた。大聖歓喜天は、二人の恋の仲立ちをしたのだ。

 

福生院について『尾張志』は、次のように記している。

 

袋町本町より西北側にありて、如意山と号し海東郡蜂須賀村蓮花寺の末寺なり。至徳年中(一三八四〜一三八七)僧順誉、蜂須賀村蓮花寺の住職なり。建立して愛智郡中村にありしを、元和三年(一六一七)今の所に遷せり。本堂は薬師仏歓喜天の木像を相殿に安置す。

 

前記の『尾張年中行事抄』は「此尊天利益大に勝れ給ふ故、諸国に専に尊信し奉る。具に云時は大聖歓喜天と謂。凡危急の難甚疾の大病、其信に依てずと云事なし」と歓喜天のご利益を記している。

 

運命を変えた橋 納屋橋

 

 戦争は人間の運命を大きく変える。才覚のある人は、無一文から時代の変革を敏感に読み取り、時代の波に乗り財をなしていく。

 宮内京子の父親も、時代の波に乗ったひとりだ。広小路の一等地を、戦後直ぐに買い取り食堂を始めた。何しろ、食べ物なら何でも売れる、人々が飢えていた時代だ。京子の父親は昭和三十年代になり、世の中が落ち着いてくると、食堂をビルに建て替え、一階を広小路に面した喫茶店にした。最上階は家族の生活するフロアとした。

 京子は何一つ不自由のない環境の中で、のびのびと育った。父親は戦後、裸一貫で成り上がったので、京子を名門の中京財界の子息と結婚させ、自らも一流の財界人になりたいと願っていた。

 昭和三十五年、京子は大学を卒業し、花嫁修業に入った。社会勉強をしたいという京子のために、父親は広小路の商社に、一年間だけの期限付きで勤めさせることにした。

 夢中で仕事に熱中しているうちに、自分を見つめている熱い視線を感じた。自分より三歳年上の倉川節だ。

 若い二人は、直ぐに親しくなった。しかし京子の父親は、京子の結婚相手を財界人の子弟と決めており、帰宅時間を厳守させていた。

 

 節は日に日に、京子への思いを募らせていった。会社に京子が居るときは、心が満ち足りていた。しかし京子が会社を去ると、居ても立ってもおれない気持ちになった。

 節は京子の住むビルの喫茶店に、仕事を終えると出掛けた。コーヒーを飲み、タバコを吸いながら、広小路通を歩く人々を見つめていた。来る日も来る日も喫茶店に出掛け、コーヒーを飲んでいると、心が落ち着くのであった。

 街路樹が歩道に散る。篠つく雨が舗道を濡らす。小雪が散らつく。広小路の四季の移り変わりを、節は見つめ続けた。

節の家は中村区の牧野町だ。母親と二人の貧しい暮らしであった。節は納屋橋の欄干の上で、毎日堀川の流れを見つめていた。黒い堀川の淀みを眺めていると、自分の将来が、暗澹たるものに見えてきた。

節は自宅に戻る前、近くの牧野神社に、京子との恋が叶うことを祈った。

 

秋になった。京子に電話が架かってきた。節は「見合い相手からなの」と聞いた。京子は弱々しく「えぇ」と答えた。節は思わず「その人を殺してやりたい」と言った。自分でも思ってもいない言葉であった。街路樹が広小路に、しきりに散っていた。

 

京子の一年間の仕事は終わった。明日からは、逢うことは出来ない。京子は「私、家を出て東京の親類の家に出掛けます」と言った。京子がどんな意図で言ったのか、節は理解することが出来なかった。

京子は納屋橋の上で佇み、自分の家を眺めた。橋は地域と地域を繋ぎ、人と人とを結びつけるものだ。橋は人生の決断をする場所だ。京子は家には戻るまい、節のことも思いあきらめようと橋を渡った。

 

節は京子の心中を理解できず、来る日も来る日も喫茶店に座り、広小通を眺めていた。

京子に逢うことは出来ない。しかし、彼女の住んでいたビルの喫茶店に居ると、心が落ち着く。それだけが、節の大切な日課となってしまった。

節は疲労のため、三ヶ月間の入院生活を余儀なくされてしまった。

 

 納屋橋の上ではさまざまな愛のドラマが誕生した。橋の上で出逢った人、別れた人。橋は人の運命を変えるところだ。

 

紫川に身を投げて 洲崎橋

 

残菊物語 若宮八幡社

 

 今では手に入れることの難しくなった小説に、村松梢風の短編小説『残菊物語』がある。この小説を映画化したのが、戦前は溝口健二、戦後は衣笠貞之助である。衣笠の『残菊物語』はカラーで、長谷川一夫の菊之助、淡島千景のお徳であった。溝口の映画は、むろんモノクロ映画で、菊之助は花柳章太郎、お徳は森赫子が演じた。

菊之助は明治初期、九代目団十郎とともに「団菊時代」を築き、一世を風靡した五代目尾上菊五郎の養子である。梨園の御曹司で、歌舞伎界を担う人物として、将来を嘱目されていた。お徳は、菊五郎の家で子守女として、召し使われている身分の卑しい女だ。誰も御曹司の菊之助に向かい、芸の未熟さを指摘する人はいない。しかしお徳は、遠慮なく菊之助を批評する。菊之助はお徳の指摘してくれる一つ一つが嬉しい。

 いつしか菊之助は、お徳に心惹かれていく。二人の仲は人々の知るところとなり、困り果てた菊五郎は、菊之助を厳しく叱りつける。菊之助はお徳を、あきらめることは出来ない。勘当された菊之助は、単身大阪に落ち延びて行くことにする。

 明治十九年の秋の終わり、新橋駅から菊之助は汽車に乗る。見送るのはお徳ひとりだけだ。窓越しに目と目を合わせ、二人は思いを通わせた。汽車は白煙を吐いて、お徳を残し去っていく。

 

 大阪で菊之助は、尾上多見蔵を頼る。しかし、観客の評判は散々であった。菊之助は自信を喪失し、芸は荒れていく。大阪にお徳が来て、二人は共に暮らすようになる。貧しいながらも楽しい生活が続いた。しかし、後見役の多見蔵が亡くなり、二人は旅回りの一座に加わり、地方巡業を続けることになる。このままでは、菊之助は駄目になる。お徳は中村橋之助を頼り、彼に菊五郎との和解を依頼する。菊五郎の返事は、女と別れるなら東京に帰ってきてもよいとのことであった。

 お徳は自分が身を引くことを決意する。

 

 溝口健二の映画では、その場面は若宮八幡宮の境内の末広座である。末広座から賑やかな囃子の音が聞こえてくる。お徳はひとり夕暮れの境内を歩いていく。境内には連理稲荷が祀られている。連理とは一本の木の幹が、他の木の幹と連なり、木理が通じていることから、男女の深い契りをたとえて言う。お徳は聳え立つ連理の大木を眺めた。「最後まで添い遂げることは出来なかったが、あなたが幸福になり、東京の舞台に立てるなら、私はどうなってもよい」お徳は稲荷に手を合わせ、菊之助が名題役者となることを祈った。

 お徳は菊之助と別れ、大阪に帰る。菊之助は、末広座の舞台に立っている役者と共に、東京に戻る。

 菊五郎が二人の仲を許したときには、お徳は病の床に就いていた。名実共に人気役者となって成長した菊之助が、大阪の舞台に立つため、お徳を訪ねたときには、息も絶え絶えの状態であった。

 道頓堀を船乗り込みする菊之助、観客の歓声、囃子の音、それを夢うつつに聞きながら、お徳は息を引き取る。

 

マダム阿佐緒の恋 朝日神社

 

 名古屋では、原阿佐緒のことを知る人は数少ないであろう。忘れ去られた女流歌人だ。しかし彼女の生まれ故郷、仙台では彼女は有名人だ。仙台に赴任していた友人が「彼女のことをつい昨日まで生きていた人のように、町の人は懐かしそうに語る。石原純が颯爽と馬を走らせる。その後を、阿佐緒が乗馬服姿で追う」大正八年頃の話だ。仙台の町を走る二人は、人々にとってまばゆい存在であった。石原純は理論物理学者で、東北大学の教授、原阿佐緒はアララギ派の歌人である。二人は歌を通じて知り合い、道ならぬ恋に走る。日本を代表する物理学者が、スキャンダルのために消え去るのを、惜しむ人は多かった。しかし、純は家庭も捨て、東北大学教授の職も投げ捨て、阿佐緒との恋に走った。

 

  世の人の吾に負はす名のかくのみに

        ゆゆしきをいかに堪ふべき吾かも

 

 彼女は世界的物理学者の才能を潰してしまう悪女だ。世の指弾を受けて、揺れ動く彼女の心中を詠んだものだ。

 石原純とは、大正十一年から、千葉県保田海岸で同棲生活を始める。

 

  肩並めてありくに馴れし安房の海辺

        涙流れて今日は侘てるを

 

 彼女の涙は恋に勝利し、純と共に暮らす喜びの涙なのか。それとも、世を捨てて安房の海辺で暮らすはかなさ、将来に対する不安の涙であったのだろうか。

 

 彼女は恋多き女だ。明治三十七年、故郷宮城県大和町宮床を出て上京し、日本女子美術学校日本画科に入学する。入学した年、同校の教師、妻子ある小原要逸に犯され妊娠、十七歳の彼女には、あまりにも苛酷な運命であった。二十歳の七月、自殺を図るが未遂。二十一歳、小原と結婚するが、まもなく破局。

 大正三年には、洋画家庄子勇と結婚。二人の間に生まれたのが、原保美だ。モノクロ時代のテレビ「七人の刑事」で活躍し、茶の間を沸かした名優である。

 そして、三度目の石原純との生活も、長くは続かなかった。石原と別れた阿佐緒は、雇われマダムとして、東京、名古屋、大阪と渡り歩く。四十歳に手の届こうとする年齢になっていたが、彼女の美貌は少しも衰えていなかった。モガ、モボが多勢、彼女の店に押し寄せた。

 昭和初期、彼女は名古屋の広小路に店を出した。店の名前は「アサオ」だ。彼女の名前は、スキャンダルな女性として、広く知れ渡っている。阿佐緒の顔を見に、客が押し寄せた。彼女は微笑を浮かべて、彼女を目当てに日参してくる客の相手をした。カウンターに十人も座れば、一杯になろうかという小さな店だ。

 彼女の過去を執拗に尋ねる客がいる。野暮な客と思いつつ、彼女は体よくあしらう。彼女に熱い視線を注ぐ客もいる。愛だの、恋だのは昔のことと、彼女は無視してグラスに酒を注いだ。

 客がいるときは、彼女も寂しさを紛らわすことが出来た。しかし、暗いバーのカウンターで、ひとり座っていると寂しさが募ってきた。

 彼女は店に出る前、近くの朝日神社に参拝するのが常であった。知る人もいない町でのひとり暮らし。朝日神社の神様だけが、彼女を護ってくれる存在であった。

 

 わずかの滞在で、名古屋から大阪へ彼女は流れる。その後、映画に出演したり、レコードを吹き込んだりする。

 昭和十年、四十八歳のとき、彼女は故郷宮床に帰る。

 

  家ごとにすもも花咲くみちのくの

        春べをこもり病みて久しも

 

 健康に不安を抱えての帰郷であった。故郷の人は優しい。宮床には彼女の記念館が建てられ、歌碑も建っている。



堀川月見舟

                  沢井鈴一 【禁無断転載】


○伝統的な月の感じ方

○堀川月見舟

○いざよひの月見

○芋名月

○沢の観音の月

○名月やここもかつらの男山

○月に浮かれでる本遠寺の狸

○名古屋の竹取物語

○観月の名所

○夜寒の里

○冬の月

○得月楼

○牧水が賞でた月

 

 

 

伝統的な月の感じ方

 

 かつての堀川は花見の名所であり、月見の名所であった。春には川辺に、花を賞でる人がそぞろ歩きをし、秋には月見舟が川を往来していた。いつか堀川端から、桜の花は姿を消し、月見舟を見ることもなくなってしまった。四季おりおりの行楽の地でなくなった堀川は、いつか悪臭のただよう川にと変わってしまった。

 時代の推移とともに、堀川の周囲は都市化の波にさらされ、生活用水が流れこむ川へと変貌してゆく。堀川は、自然の中にとけこむ川から、都市化の中の人工の川へと変貌していった。

 日本の美しい自然を代表する言葉に「雪月花」がある。「雪月花」は、日本人の美意識を表す言葉であり、日本文化をつくってきた言葉である。

 堀川の花見も、月見も、美しい名古屋の自然への憧憬であり、名古屋文化を育成してきたものである。

 堀川端には、妙安寺、法持寺、本遠寺など月見の名所が数多くあった。これらの寺は今、人家やマンションに遮られ、堀川を眺望することができない。変わらない美しい日本の自然の中で見る月こそ、観月の名所と言えるのであろう。信州田毎の月、美濃の行基寺、近江の石山寺、昔も今も変わらぬ月見の名所は、周囲の景色が昔と変わらぬたたずまいを保っているところだ。周囲の自然の変貌、これが堀川から月見舟が姿を消し、堀川端が観月の名所でなくなった所以の一つだ。

 

 横井也有の『鶉衣』の中に『暁台を送る辞』という文が収められている。この文は、信州の更科の月を見にゆく名古屋の俳人暁台の、旅路の無事を祈る文である。観月のためには、長い旅路の苦労もいとわない俳人の心意気が、よくうかがえる文だ。

  月の色に心をきよく染ましや

     都を出ぬ我身なりせば

という歌を残して出家したのは歌聖の西行法師だ。彼の代表作『山家集』には、月を詠んだ歌が一一五首入っている。これは歌集の常識を超えた多さだ。西行が歌聖と呼ばれるなら、俳句の方の聖人は芭蕉だ。芭蕉も西行に劣らず、おびただしい数の月の句を詠んでいる。

   名月や池をめぐりて夜もすがら

   夏の月御油より出でて赤坂や

など芭蕉の全発句九三七句のうち、月の句は一〇六句に及んでいる。

 月を詠む歌人、俳人が見あたらなくなったのは、日本人の美意識の変貌があるからだ。月に対する憧憬、月に対する愛着がなくなったのである。宇宙に人間が飛行する今、月は神秘なものでも、未知なものでもなくなってしまった。

 

 名古屋の中区、百メートル道路から女子大小路にかけて、「ねずみ坂」「いたち坂」と呼ばれる坂があった。「ねずみ坂」は「寝ずる」坂であり、「いたち坂」は「待月・待月」を見るのに絶好な場所であるから付けられた俗名だ。

   居待月遅くあがりし坂の上  池上不二子

   食後また何煮る妻か寝待月  本多静江

 「居待月」は陰暦八月十八日の夜の月。立待月より月の出がさらに遅いので、座って待つという意で居待月という。「立待月」は陰暦八月十七日の夜の月。月の出を立って待っているという意である。

 ねずみ坂の下は、戦後しばらくまでは月見町という町名であった。現在は、ネオンがまばゆく輝く不夜城の歓楽街に変わっている。

 堀川から月見舟が消えた所以として、月に対する美意識の変化があげられるだろう。

 

 小林秀雄に『お月見』(小林秀雄全集第九巻所収)という随筆がある。

 たまたま月見の夜に、若い人たちが酒を飲んでいた。満月が出てくると、誰しもが月を眺めて物を言わなくなってしまった。その座にスイス人がいて、今夜は何があるかと怪訝な顔をしたという話だ。

 小林秀雄は、このことについて、

 

 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、どこからともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない。私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむづかしいなどと口走ってみたところで何かいへた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪へられない何かがあるに違いない。

 

 小林秀雄は、どんなに自然が変わろうと美意識に対する変化が起ころうと、意識できないものの考え方は変わらないとしている。

 堀川の月見という抒情は喪失したが、伝統的な月の感じ方はいつの時代でも変わらないであろう。

 堀川が浄化され、人々が堀川月見舟に興じる時、抒情は復活し、名古屋の文化がさらに飛躍するきっかけになろう。

 

 

 

堀川月見舟

 

 松尾芭蕉の弟子、山本荷兮が選した『俳諧昼寝種』(『名古屋市史』地理編所収)という句集がある。元禄七年(一六九四)刊行されたものだ。

 この文の書き出しは、次のようである。

 

 今宵は八月十五夜月いとさやかにてらして、川辺の興各々なり。いつとても月見ぬ秋はなけれど、わきて今宵のなんでいい出るより、これらの人をいざなう。それより呼続浜まで道々気色ある所々を月の光りに見とがめて、石筆ようの物にてしるし得る。人知れるところの名にもあらざれど、音曲嫌いの年寄連いやおうなしに一句づつ

 

 この書き出しに続き、荷兮の俳友たちが、それぞれ堀川の月見を詠んだ俳句を載せている。

 序文で荷兮は、堀川月見の句集を編んだ意図を記す。

 仲秋の名月が、明るく堀川の川辺を照らしている。川辺の眺めは、名月に照らされ、どの川辺もそれぞれが、趣深く感じられる。仲秋の名月を見ない年はないけれども、今宵の名月は特別に美しく輝いて見えると、ある門人が言ったので、風流を理解する人を誘いあわせ、堀川に月見に出かけた。まづ堀川の月見に出かけた理由を荷兮は記す。

 堀川から呼続浜まで、月光を浴び、美しく輝いている。その景色に深く感動した句友たちは、その眺めを俳句にまとめている。堀川の川辺は、月見の名所として誰もが知っている所ではない。歌舞音曲にも背をむけ、ひたすら友人は句作にふけっている。

 書き出しに続き、その時に詠まれた俳句が披露されている。

雙古は

 堀止(現在の朝日橋)で次の俳句を詠んだ。

   すむ月や水の落合の塩とまり

 

 海水は、この塩留で行きどまりだ。水のとどこおっている所に、名月が浮かんでいる。

 なんとも清澄な句だ。落合と水の落ちる音と名月との聴覚と視覚との組みあわせも絶妙だ。

 五条橋では、柳雪が

   開帳の札に休らぬ月夜哉

と詠む。

 名月に浮かれて出てきた人々が、寺の秘仏の開帳に次から次にと訪れるという意の句だ。

 

 伝馬橋では、永舟が

   月見舟漕わかれくる鰯かな

 月見舟が通ると大群の鰯が二つに分かれて遡上してゆくという意の句だ。鰯が大量に伝馬橋あたりまで遡上していたことが、この句によって知ることができる。

 

 天王崎では、可水が、

   いる月の森や湯立の笛鼓

と詠む。洲崎神社の湯立神事の笛を吹く音、鼓をうつ音が聞こえてくる。おりから月は、神社の森に隠れようとしている。表にいる月と湯立神事の笛鼓という視覚と聴覚との取りあわせが面白い句だ。

 古渡では、与竹が

   くらがりの森に月見る乞食哉

と詠む。

 闇森の上に出た月、今日の食事に事欠く人までもが、ひもじさを忘れ、名月に見入っている。

 沢の観音あたりでは松午が

   きのふから月見に来や茶屋の床

 昨日から月見に来た甲斐があったなあ。この茶屋の桟敷から名月を見ているとの意だ。

 白鳥では、松卜が次のような句を詠む。

   人のちからおそろしい哉木場の月

 何人もの人々が力をあわせて造営した白鳥の広大な貯木場。その上に名月が出ている。

  名月と木場。自然と人工的なものとの取りあわせが面白い句だ。

 熱田では快宣が、

   てる月や伊勢志摩三河濃美近江

と詠む。

 はてしなく続く熱田の海。この月は伊勢志摩三河濃美近江と近郊の国々も照らしているのであろうか。下二句の国名の列挙がややわずらわしい。

 堀川に月見舟が浮かび、鰯が泳ぐ。そんな光景は、いつ頃から消えたのであろうか。

 

 

 

いざよひの名月

 

 山本荷兮の著した『俳諧昼寝種』には、荷兮とその俳友たちが、堀川を熱田まで下り、さらに海岸沿いに呼続の浜まで月見に出かけたことが記されている。呼続の浜は、古来歌枕として名高い地だ。

 この呼続の浜に舟を浮かべて、月見を楽しんだのが横井也有だ。『鶉衣』所収の『十六夜賦』に、也有は次のように、そのおりのことを記している。

 

 いざよひの月みむと(ママ)田潟(熱田潟)に舟よそひするに、何がしがあるじまうけして、世帯道具もとぼしからず。巨口細鱗もまないたにひるがへれば、斗酒はもとより坡翁が妻の才覚もからず。海老煮る闇も漕ぎはなれてくまなき月の海づらにのぼれば、こよひや星崎の千鳥も月みよとは啼ならん、いでや其翁も湖水にけふのかげをめでて、成秀が門敲給ひしとか。むかしかがみの山こそなけれ。呼続の浜、松風の里、波のみるめもまよふばかり。西湖・江湖の秋風も、今宵はここに吹ざらむやと、酒ににぎはし茶にさはして、やや清興を高ぶれば、まして鳴海潟・夜寒・寝覚の里の名に、歌よむ人は衣かたしき物思ひがほなるを、いざや宮こんにやくの寝しみこそと、例の唐がらしのいらひどきに、恋ならぬ袂をぬらして、又一盃をあらたむれば、白鳥山の鐘の声、おどろくばかりにぞわたりける。

   呼つぎの名にいざよひの月見かな

 

 熱田潟に舟を浮かべ、十六夜の月を賞した、そのおりの清興を記した俳文である。十六夜の月とは、陰暦の十六日の夜の月のこと。満月よりもおそく、ためらうようにして出てくるので十六夜の月という。

 呼続の浜に十六夜の月を見に、熱田潟から舟を出すしたくをしていると、何某が主人になって御馳走をしてくれるという。

 今回の月見は、熱田潟からの舟出であるが、也有は堀川を往来する舟もよく利用した。

 先祖の墓参に京の光明寺に出かけたおりのことを記した『上洛記』にも「年は寛保元年酉八月朔日、二日よりの御暇なれども朔日の晩汐に、堀川よりの舟出よしといへば、ひそかに此日の七つ半比に出立、伝馬橋の下より舟にのる」と記している。

 也有一行はいろいろな世帯道具を舟に積みこみ料理の準備をする。「巨口細鱗」とは、口が大きくて鱗の細い魚のことで、鱸の異名。多量の酒はもとより坡翁のように、その細君の工面もわずらわせず用意してある。「坡翁の細の才覚」とは、蘇東坡の妻が多量の酒をひそかに蓄え、不時の用意をしていた故事をさしている。

 「海老煮る闇」は、芭蕉が湖南堅田で詠んだ「十六夜や海老煮る程の宵の闇」の句をふまえている。宵闇の海岸を離れると月が一面に照り輝いている。海上に出ると千鳥が月を見よと鳴いているように聞こえてくる。「星崎の千鳥」は、芭蕉の「星崎の闇を見よとや啼千鳥」の句をふまえている。

 芭蕉は、琵琶湖のほとり堅田に住む門人、竹内成秀を訪ね、湖上に浮かぶ十六夜の月を賞したことがある。そのおりの紀行文『既望の賦』に「仲秋望の日は月の浮見堂にさしむかふを鏡山といふなるよし」と記している。

 「波のみるめもまよふばかり」とは、呼続の浜や松風の里が、波のかなたに見まがうように眺められる様子。「みるめ」は見る目に「海松布」が掛けてある。「西湖・江湖」は中国の勝景の地で、文人のあこがれの地でもあった。

 「衣かたしき」は、着物の片袖を敷いてひとり寝すること。ここでは、句を作ろうとする人が横になって、考えにふけっている様子をいう。

 熱田名産のこんにゃくに、唐辛子の辛いのをつけて食べていると、つい恋ならぬ涙をこぼして、又一盃と杯をかわしていると、白鳥山法持寺の鐘の音が聞こえてくる。月見を楽しんでいるうち、いつか夜が更けてしまった。

 今は工場が建ち並び、車が絶えず走る熱田潟から呼続あたりが、月見の名所であったことは、信じられない思いである。

 「十六夜賦」は、也有が心から月見を楽しんでいる様子が、よくうかがえる文章である。

 兼好法師は「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と徒然草で述べている。

 也有が「楽老庵主像賛」の中に記している句、

   酒に待ち茶に待かへて月二夜

も、同じような境地を詠んだ句である。

 月が美しく澄めば、それを眺めて酒をのみ、もしまた月が曇ったならば茶を飲んで楽しむがよい。晴れても曇っても月二夜を楽しむ。

 也有の風雅は、ゆったりとした自由な境地がもたらすものだ。

 

 

 

芋名月

 

 お月見には、すすきや女郎花を瓶に生けて飾り、団子や芋などを供える習慣がある。どの家でも、仲秋の名月の日に芋を供えるようになったところから、八月十五日の名月を芋名月と呼ぶようになった。

 月見の習慣が広く人々の間に広まるにつれ、月を賞で、歌や俳句を詠み、歌舞管弦に興じるのは、一部の風流人たちで、民間の人々にとっては縁のない世界であり、民間の人たちにとり八月十五日は、すすき、女郎花を採りに出かけ、芋や団子を食べて月見に興じる日であった。

 

 日置橋といえば、かつては名古屋きっての花見の名所であった。江戸の隅田川、京の嵐山と並び称せられる勝景の地であった。

 その日置橋が月見に欠かすことのできない芋を売る市として名高かった。

 日置芋市について『尾張行事絵抄』は、次のように記している。

 

 日は定無し。月見前に、日置の橋より上の方の東側に、此市を立る河岸あり。諸所より芋売ども集りて、問屋を取巻、手を引ぱり、あたまに取つき、或は袖にぶらさがり、下直にもとめんとするさま、熱田の肴ぜり、枇杷島の青物市にも益りて、仰山なる賑はいなり。此日置芋といふは、名物のやうに呼んで、日置の産にはあらず。西美濃なる、百八里と称する辺の芋を此所へ出し売る故に、日置芋と号く。江戸の品川海苔を浅艸へ出し製するをば、浅艸海苔と言ひて浅草の名物とするにひとし。

 

 食品の産地偽装の問題が、ことごとしく報じられている。なりふりをかまわず収益だけを追求する商人の姿勢は昔も今も変わらないらしい。

 仲秋の名月に欠かせない日置芋は、西美濃が産地で、望月が近づくにつれ、日置芋と名を変えて売られてゆく。

 野菜に、その土地の名前を付けて販売するのは、その土地だけで限定して生産されている証拠だ。海部郡甚目寺町の方領大根、西春日井郡春日町の宮重大根、あるいは正月の餅菜として使われる名古屋の大高菜など、江戸時代から、その地域で限定して生産されている野菜であった。これらの野菜は、その土地と野菜の生育する条件とが合致して、その土地の名を付けた特産品として珍重されてきた。人々は正月に大高の餅菜を買うように、仲秋の名月には日置芋を購入した。その日置芋が、日置の産ではなくて、西濃の地で栽培されたものであるならば、これは羊頭狗肉に他ならない。

 

 仲秋の名月を芋名月といい、九月十三日の名月を豆名月、栗名月と言った。仲秋の名月を見た人は、後の月である九月十三日の十三夜も見る習慣があった。

 『東都歳時記』に「衣被(かはむかぬいも)、栗、枝豆、すすきの花等月に供す」という文がある。しかし月見の風習が民間に広まるにつれ、枝豆、栗を八月十五日までに収穫するのは、取り入れ時期が早すぎて、高価なものとなった。そこで、芋は八月十五夜に供え、栗、豆は九月十三夜に供えるようになった。

 芋や栗、豆を月見の日に供えるのは五穀豊穣を祈るためである。月見の始まりは平安朝の村上天皇(九四七〜九六七)の頃らしい。平安朝の頃は、宮廷人が歌舞管弦に興じ、詩歌をしたためる風流な遊びであった。観月の行事が民間に広まるにつれ、いつしか芋や栗を月に供える宗教的行事となった。

 十六夜、十三夜と人々は、月の神に対して供物をし、五穀豊穣を祈る。それは、月に対する畏敬の念であり、感謝の気持ちの発露であった。

 アポロ十三号が月に到着し、月が未知の世界でなくなった現在、団子や芋を供える月見の行事は、形式的なものとなってしまった。

 

 

 

沢の観音の月

 

 かつて、風光明媚な地を三箇所選び、名古屋三景と称していた。三景とは沢の観音の妙安寺、大曽根の関貞寺、不二見原の三箇所のことを指していう。三箇所とも、現在では高層建築にさえぎられ、見る影もない状態である。かつては関貞寺からは美濃、近江、三河などの八ヵ国の山々が見えたという。桂太郎は、関貞寺からの景色を賞で八層関と名づけた。不二見原からは、富士山が見えたという。葛飾北斎には、樽の中から見える富士を描いた斬新な『富嶽三十六景』のうちの「尾州不二見原」の図がある。

 沢の観音近く尾頭船局(堀川を上り下りする船を監視するところ)で、横井也有が半月ほどくらしていたことがあった。彼はその時、ここからの眺めを『尾頭船局記』の中に、次のように記している。

 

 此局の四方を詠暮すに、西は濃州、勢の山つらなり、其行程は、ふみもらうねど、さわる物なき眼下に近く、村里よき程にへだたり、田野の眺望いふべくもあらぬに、北に佐屋路の並松つづき、千本松の桜も物数とせず、白雲ならねど帯にも似たり。法雲寺の峯に遠目鏡もかからねば、津島の浦風もなどかは、ここにとらざらむ。雲雀啼時は畑打の笠、万歩に満ち、蛍飛ころは田植の歌子まちにつづく。まして秋の錦、冬ざれの景色は、さこそとまで思ひやりぬ。

 

 沢の観音の眼下の景色を叙したものだ。

 名古屋三景に共通しているのは、高台にあり、眺望がきくことだ。三景に共通している点は、また月見の名所と呼ばれている地にも共通している。観月の名所として名高い西濃の行基寺、信州の姥捨山、そして近江の石山寺。いずれも高台にあり、眺望のすばらしいところである。

 眼下を堀川が流れ、はるか彼方には、美濃や伊勢の山々を見わたすことができる。そこに満月が煌々と輝いている。

 沢の観音は、観月には絶好の地で、多くの文人墨客が訪れてきた。

 この寺には、多くの句碑が建っている。そのうち月を詠んだ句碑は、井上士郎とその門人岳輅のものだ。

 「尾張名古屋は士郎(城)でもつ」と呼ばれるほど俳名が世上に高かった井上士郎は、文化・文政に活躍した俳人で、産科医。人徳があり多くの弟子が彼のもとに集った。

 沢の観音の句碑は、彼の代表作の一つ「万代や山の上よりけふの月」である。

 いついつまでも続く人の世の営み(万代)と一期一会のものであるけふの月との取りあわせの妙が、この俳句を奥深いものにしている。

 句碑は、士郎在世中の文化元年(一八〇四)弟子の岳輅が建立したもの。

 

 岳輅の句碑は「満月の其まま出たり十六夜」である。

 

 ためらうように出る十六夜の月が、昨日の満月とかわらずに今日はでているの意。

 この句碑は、岳輅が亡くなった文政四年(一八二一)五月に、彼の弟子たちによって建てられたもの。師の句碑と並ぶようにして弟子たちは、彼の句碑を建立した。

 風光明媚な沢の観音、そこに建つ二つの句碑、師弟の絆の深さと妙安寺から眺める月のすばらしさを表すものだ。

 

 

 

名月やここもかつらの男山

 

 東照宮の名古屋祭、那古野神社の天王祭、泥江縣神社の笠鉾祭、この三つの祭を称して名古屋三大祭という。祭の時期ともなれば、町はわきたち、熱気につつまれた。泥江縣神社の祭は、八月十五日に行なわれた。空には仲秋の名月が輝いている。町々の人家の軒には祭提燈が飾られ、まばゆい光を放っていた。その華やかな様子を『尾張年中行事絵抄』で高力猿猴庵は、次のように記している。

 

 当社は、氏子がおほければ、町々よりの献燈、屋形挑灯、懸行燈、八幡町の、屋敷??の門外迄に数の神燈をかかげ、辻うりの諸商人等が店の燈し火、今宵の月のあかきに照添ふさま、実も和光の影きよく、幾千万の群集に、たちつつきたる砂ぼこりの芥にまじわる神慮を、いさめ申と恐れみ恐れみ、いらぬ無陀を書ちらしぬ。

    名月や爰もかつらの男山  蓮阿坊白尼

 

 蓮阿坊の俳句は、天上の光と地上の光とにより、一面に光り輝いている町の情景を詠んだものだ。「かつら」は、中国で、月中にあるという想像上の樹、転じて月のことをいう。

 「男山」とは、字義からいえば、けわしい山の意だが、ここでは勇壮な、男性的な笠鉾祭のことをいっている。山は、山車のこと。

 仲秋の名月に照らされた堀川端。ここも月の世界の祭のように見えるの句意。

 蓮阿坊の句は、芭蕉の弟子杜国の

   蓬莱や御国のかざりひの木山

の句を念頭に入れて詠んだものだ。

 杜国は、空米売買事件により死罪になるところを、二代藩主光友の鶴の一声により、死罪をまぬがれ伊良湖岬へ配流されることになった。

 光友は、杜国が尾張の国を祝った「蓬莱や……」の句を詠んだ作者であることを忘れてはいなかった。芭蕉の名句、

   鷹一つ見付てうれしいらご岬

は、弟子の身を案じ、伊良湖岬の杜国を訪ねた時に詠まれたものである。

 「蓬莱や」の句も「名月や」の句も、いずれも堀川端の材木店の建ち並ぶ木挽町界隈を詠んだ句である。材木が山と積まれている堀川端。八月の祭には、泥江縣神社から、お宿所である白山神社まで、飾りたてた笠鉾を先頭にたて、祭行列がぎょうぎょうしく繰り出してゆく。

 「御国のかざりひの木山」の中を、「男山」が練り歩いてゆく。満月が皓々と輝く、まばゆいほどの世界だ。

 堀川端の町内の人家には、おびただしい神燈が光を放っている。軒には緋縮緬、紫縮緬、その他さまざまに染めあげられた水引が張ってあり、多くの小鈴が、どの人家にも、つりさげられている。それが秋風にそよぎて、清澄な音色を響かせる。鈴虫、松虫の音もどこからか聞こえてくる。

 

 幻想的な堀川端の八月十五日。それはまるで月の世界の出来事のようだ。

 

 

 

月夜にうかれでる本遠寺の狸

 

   しようしよう證城寺

   證城寺の庭は

   つつ月夜だ みんな出てこいこいこい

   おいらの友だちぁ ぽんぽこぽんのぽん

 

 誰でもがよく知っている「證城寺の狸囃子」の童謡だ。證城寺は千葉県の木更津市にある寺である。この寺に江戸時代から伝わっている民話がある。名月の夜、狸がいずこともなく集まって来て腹鼓を打って踊りに興じたという話だ。

 狸は、なんとなく愛嬌のある動物で、人によく悪さをするが憎めないところもある。

 證城寺のように月をよく見晴らすことができる寺。堀川端にも、狸が腹鼓をうって出てきそうな月見に絶好の寺がある。熱田区の本遠寺だ。本遠寺は七里の渡しから町並を少し神宮に向かって歩いて行ったところにある寺だ。町並が尽きたところから石段を上ると本堂がある。境内からは町並に眺望がさえぎられ、堀川も、熱田の海も現代では見晴らすことができない。かつては眼下に堀川が流れ、遠く沖ゆく舟も、見晴らすことができた。

 海上に満月が輝いている。堀川の流れが、熱田の海に注いでいる。満月の本遠寺は、

  つつ月夜だ みんな出てこいこいこい

と狸が出てきてもおかしくない世界だ。

 

 『熱田風土記』(中巻)の中に「聞き書き郷土巷談」が載っている。これは熱田に伝わる民話を古老から聞き書きしたものだ。その中に「本遠寺の狸枕返しの話」が出ている。

 それによれば、本遠寺の住職は、寺で寝泊りをしないで、弟子や番僧が、寝泊りをしたという。住職がぐっすりと寝込んでいると狸が夜中に枕返しをするからだ。枕返しは、右枕で眠っていると、いつのまにか左枕に、左枕で眠っていると、右枕に変えられてしまうことだ。

 本遠寺の狸は、なかなか義侠心にとんでいる。明治の中頃、本遠寺から狸が姿を消してしまった。日清戦争、日露戦争と二つの日本の国運をかけた戦役に、本遠寺の狸が一族郎党を引きつれて従軍したのだ。ここの狸は化けるのがうまい。時には、清軍やロシア軍の上等兵に化けて、敵軍を撹乱したかも知れない。

 

 仲秋の名月の前日、八月十四日の月を待月、あるいは小望月ともいう。名月を明日に控えた宵の意である。

 この待月の日に、本遠寺では船施餓鬼(海や河川の船上から行なう施餓鬼)が行なわれた。これは享保六年(一七二一)八月の津波で、流死した人々の霊を慰めるためになされる法会である。

 この享保年中の津波を「おふやれさ」と呼んだ。「おふやれさ」とは、「(おほき)に津波して、人家海上へながれやぶるる」の意である。この津波の後、「おほやれさ」の唄が、たいそう流行した。その歌は

   冨士の白雪朝日に解て、とけて流て三島へ落て、三島女郎衆の化粧の水

   おふやれさ おふやれさ

という歌だ。

 宴会の席で、かつて盛んにうたわれた農兵節の原典は、この「おふやれさ」の歌であるかも知れない。

 

 狸も出て来ない、「おふやれさ」の歌も聞こえてこない、人家に囲まれた現在の本遠寺は、満月の夜も、ひっそりとたたずんでいる町中の寺の一つにすぎない。

 

 

 

名古屋の竹取物語

 

 月の妖しい魅力にとりつかれ、思わぬ行動を起こす人がいる。堀川に何人の人が月夜に身を投げたことであろう。川面に浮かぶ月、その月の美しさに惹かれるようにして、川に飛び込んでゆく。

 幾多の悲劇が月夜の晩に堀川端で起きている。

 昭和二十九年頃の話だ。伝馬橋から、身を投げた人がいた。橋の際にある食堂の主人が川に飛び込み、投身者を助けた。しかし、食堂の主人は川に流され、亡くなってしまった。

 川面にすい込まれるように、身を投げる人。それは、現在も後をたたないようだ。

 月の魅力に惹かれ、月をあかず眺める。それは、日本固有の文化風土のようだ。

 「フランスでは、月にうつつを抜かす者を気が触れていると解するのが一般的である。道化のピエロに、月があかるいからお前のペンを貸してくれと頼むのは尋常の人ではない。(『月・花・牛祭』 杉本秀太郎)

 外国では、省りみられることのない月。それは忌むべきものであった。

 

  ながむればこれしもやがてほだしなり

       見じや浮世の秋のよの月

 

 ながめるほどに、秋の夜の月は、この世の未練となってゆく。いっそ見もしないほうがよいものを。太田垣蓮月の歌だ。月はこの世へのほだしとなってゆく。外国では、月にうつつを抜かす人は狂者であるが、日本では、この世への絆となってゆく魅力的なものだ。

 

 月の世界へのあこがれは、多くの文学作品に結晶している。平安初期の『竹取物語』は、月の世界の姫君、かぐや姫が、犯した罪により、地上に降下してくる。竹取の翁に育てられ、かぐや姫は、この世のものとは思われない美しい美女に成育してゆく。五人の貴公子が、かぐや姫を妻にしたいと言い寄るが、難題をふきかけられ断念する。八月十五日、月の世界から迎えに来た兵士により、かぐや姫は月の世界に帰ってゆく。

 『竹取物語』は、月の美しさ、月へのあこがれを描いた作品だ。

 

 名古屋にも『竹取物語』と類似の話が残っている。『尾張霊異記』に載っている話だ。主人公はかぐや姫のような美女ではなく、むくつけき大道寺家の鑓持ち、斧右衛門だ。大道寺家は、現在の愛知県立図書館の辺りにあった。

 斧右衛門は、悲願をかなえるために、毎日垢離をとり、七日のうち一日は断食をした。彼の悲願は、天上に昇り、雷になることであった。仲秋の名月の前日、十四日、彼は家財全部を売り払い、酒を買ってきて、仲間にふるまい酒をした。大道寺家の当主には「長いことお世話になりました。私は、明日、天上に昇り雷になります。今までの御厚志に対して、私の名前を書いたお札をお渡しします。このお札があれば雷が落ちることはありません」と丁重に挨拶をして、暇乞いをした。

 十五日、すさまじい雷鳴とともに、斧右衛門は、天上に昇っていった。

 大道寺から発行する、斧右衛門の名前を書いた雷除けの護符を張ると、その家には雷が落ちることはなかったという。

 『竹取物語』と違い、こちらの話は、あまりロマンチックではない。昇天するのは、どちらも十五日である。天上へのあこがれをかもしだすのは、満月であったろう。

 人間が月の世界へ到着した現在、月の世界への魅力、神秘が薄れてしまった。

 

 

 

観月の名所

 

   かへるさは三味線も有涼舟

 

 納涼舟が堀川を下ってくる。三味線のにぎやかな音も聞こえてくる。江戸時代、月見舟が、納涼舟が何隻も堀川を往き来していた。堀川は、名古屋の人々の行楽の中心地であった。

 この俳句は、冬央が『俳諧古渡集』に載せた古渡八景のうちの一つ「新橋帰帆」を詠んだものである。新橋とは尾頭橋のことだ。古渡の名月の名所として、冬央は八景の一つとして榊森をあげている。榊森は、金山にある白山神社一帯のこと。

   制札の背中にすこしもりの月

 制札は、禁令の箇条を記して、神社の境内に立てる札である。札の後ろ、森の上に名月が浮かんでいる。堀川の水面に映る月、森の上に出る月。名月はどこから眺めても美しい。

 享保年間(一七一六〜一七三六)に発刊された『釜月亭記』に選ばれた古渡八景のうち、月の名所として「富士見原春月」をあげている。

   餅搗てかつら男も菜つみかな  菊兎

 「かつら男」は月の世界の男。

 暖かな色をした春の月が、大きく上り始めた。月の世界でも、蓬搗をしているだろうか。月を見ていると、さまざまな想像が浮かんでくる。

 堀川は、「堀川帰帆」の題詠とともに

   船頭のみやけに河岸の嫁菜哉  五文

をあげている。

 

 その土地の名所を八箇所とりあげ、漢詩や俳句に詠む。あるいは絵画として残す。名所八景は、文人たちが楽しむ恰好の地であった。

 古渡八景に選ばれた富士見原の近く、前津に隠棲していた横井也有が選んだ月見の名所は、「東嶺孤月」だ。東嶺は、富士見の高台から東の方にそびえ立っているのが見える猿投山のことだ。猿投山の頂に浮かぶ満月、それを也有は、ことのほか愛した。

 

 堀川を下り、熱田に着くと、この地にも数々の八景が選ばれている。安政年間(一八五四〜一八六〇)に選定された『文学小編』にある熱田八景には、月の名所として、星崎秋月をあげ、次の歌を記している。

 

  澄空のひかりもみちてほしさきや

     ほしとけさるる秋の夜の月

 

 天保元年(一八三〇)の序文をもつ『天保会記』には、津金胤臣が選定した熱田十二景が載っている。そこには、月の名所として呼続浜月をあげ、次の歌を記している。

 

  旅人はやとりもとはて夕月夜

      よよしと通ふよひつきの浜

 

 現在は宅地化され、すっかり情景の変わった星崎や呼続であるが、かつては海岸で、月見の名所として名高かった。

 

 観月の名所として、文人のあこがれの地であった堀川も、熱田の浜もすっかり様相が変わってしまった。

 今はかつての情景を、俳句や和歌の中にしのぶより、その情景を思い描くよすがはなくなってしまった。

 

 

 

夜寒の里

 

 江戸時代、堀川端の名だたる観月の名所であった地が、現在は、人家が建ち並び、高層建築により見るも無残な地へと変貌している。

 ましてや、堀川開削以前の月見の名所は、すさまじい変貌をとげているだろう。

 細野要斎は、江戸時代以前の月の名所として、夜寒の里をあげている。夜寒の里を『感興漫筆』の中に、次のように紹介している。

 

 はたやの東のかた、高蔵森の南の方なり。今は里なく田畑のみ其旧名のこれり。夫木抄の顕仲の歌きのせたる条に、よさむの里未勘国とあれども、古き紀行及び藻塩草・松葉集等に、尾張の名所なるよし見えたれば疑なし。鳴海の里老は、夜寒里をなるみあたりの名所なるよしいへども、さだかならねば、しばらく先賢の定めによりて、ここを其旧里とす。

 

 歌枕として名高い夜寒の里が、江戸時代になり、いずこの地であるかも不明であったことがわかる文章だ。要斎は旧記等により、高座結御子神社の南側の地を夜寒の里であるとしている。現在でも、神社の南側にある公園は、夜寒公園と名付けられている。神社と道をはさみ、東側、旗屋小学校の南西には夜寒の里の碑が建っている。町名も、小学校の界隈の町名は夜寒町だ。

 夜寒の里の夜寒の名は、現在では町名や公園として残っているにすぎない。

 要斎は、夜寒の里の地、考察の後に、この地で詠まれた数多くの歌を紹介している。その中に、衣をうつ情景を詠んだ句が数首みられる。

  さくままにあらし吹そふ秋とてや

    よさむの里の衣うつらん  式乾門

  吹風も音すさまじき月かげに

    夜寒の里は衣うつ也  阿闍梨

 この歌は『続門葉集』に所収されており、「月前擣衣といへる心をよめる」という前書が載っている。

  天津風いとど夜寒の里人や

     月をも霜と衣うつらん  元司法師

 

 「衣うつ」とは、槌で布を打ちやわらげ、つやを出すことである。紹介した歌は吹く風の中、月の光をあびて、硯をうっている情景を詠んだものだ。

 浮世絵の画題に「六玉川」がある。古来歌枕として詠まれた六箇所の玉川を画題として、とりあげたものである。摂津(現大阪府高槻市の南部)の玉川は、硯の玉川とも呼ばれ、月夜の河畔の硯うちの画に添えて、『千載集』の源俊頼の「松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里」の歌を添えてあるものが多い。

 

 松の風がすさまじく聞こえる夜寒の地。松の樹の上では満月が輝いている。硯を一心に打っている女性。その情景は、今はしのぶべくもなく、ただ人家の灯のもとからは、テレビの音が聞こえてくるだけだ。

 

 

 

冬の月

 

 川はさまざまな役割を担っている。堀川は名古屋の歴史とともに、歩んできた川だ。名古屋の文化を育ててきた川だ。その役割も、軍事的、経済的、政治的、行楽的と多方面の役割を担っていた。特に名古屋の街に物資を運び、町づくりに果した舟運の役割は大きい。

 江戸から、関西から大量の物資が名古屋の街に運ばれてくる。船底一枚下は地獄といわれた江戸時代、大海をわたり、名古屋の街に荷を下ろすのは、難事業であった。

 

 堀川に面した高台に、住吉神社がある。住吉神社は、大阪の住吉神社から表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神を勧請して創建された神社である。住吉神社は航海の神、あるいは津(船の碇泊する所)をつかさどる神とされている。境内のいたる所にある灯籠、コマ犬、手水鉢などには、名古屋の有力回船問屋である柏屋市兵衛、桑名屋長右衛門等の名が刻んである。名古屋ばかりでなく石段を上りきった右側にある石灯籠には、明和元年(一七六四)寄進の大坂船問屋、木津屋甚七、淡路屋利右衛門の名が刻まれている。本堂の前には寛政五年(一七九三)野間一色村講中と刻まれた灯籠が、さらにその奥には安永八年(一七七九)寄進の大坂廻船、名護屋荷主中と刻まれた灯籠がある。享保十九年(一七三四)創建といわれる住吉神社は、大坂や名古屋の廻船問屋や荷主から厚い信仰をあつめて、改築、改装がなされてきた。

 

 航海の神も祭った住吉神社の境内に、小さな石碑が建っている。その石碑は「夜の雪見んと暮雨叟に具せられて」と前書きのある暮雨巷師弟三吟句碑である。前書きにつづき、

   月と雪と大地のたらぬ今宵哉  圃暁

     この蘆原に川千鳥啼  暁臺

   たのみある一木は松にあらはれて  士郎

の師弟三人の句が載っている。

 発句を詠んだ青山圃暁は、暮雨巷暁台の文学活動を支え、財政的援助を行なった古渡に在住していた富豪。

 一面の雪景色、その白一色の世界に、冬の月が光を落としている。雪に月の光が反射し、きらきらと輝き、神秘的な雰囲気をかもし出している。雪、月とくれば一つ足らないものがある。大地に咲く花だ。日本人の美意識は雪月花によって創り出されてきた。

 堀川は物を運ぶ船運、そして雪月花の風流の心を育ててきた川であることを、この発句は語っているようだ。

 圃暁の発句をうけて、彼の師暁臺は、雪におおわれた芦の原っぱからは千鳥が聞こえてきますよと詠み、さらに、暁臺の師である士郎が「たのみある一木は松にあらはれて」と付けている。月をあびての師弟三人の雪見の宴。兼好法師が「世にすさまじきもの」と評した冬の月も、なかなか高雅なものだ。

 石碑の裏には、この碑を建立したのが享和三年(一八〇三)であると刻まれている。

 

 

 

納屋橋川畔 得月楼

 

 ビルが建ち並ぶ納屋橋川畔に、料亭鳥久の木造建築がひときわ異彩を放っている。明治初期に刊行された宮戸松斎の『尾張名所図絵』にも、この建物は描かれている。この建物は、明治時代から何度も改装されているが、外形は絵に描かれている当時の建物と現在もあまり変わっていない。

 絵に描かれている得月楼を明治初期、よく訪れたのは坪内逍遥だ。逍遥は、岐阜県美濃加茂市太田町に生まれた。明治二年、住み慣れた太田を離れて、逍遥の一家は名古屋に移ってきた。逍遥の一家は、得月楼から船を出し、花見に魚釣りに興じた。逍遥の思い出の地、名古屋。その心の風景として、文学者として大成してからも浮かんでくるのは堀川であった。

 堀川は、逍遥にとって郷愁の川であった。後に逍遥は、『私の寺子屋時代』の中に、その思い出を、次のように記している。

 

 水といっては、海こそは約一里の南に伊勢湾へ続く尾張湾を控えていたが、河は堀河の名にしおふ人工のものがたった一流あるばかり。けれども名古屋としては、それがその街を貫いて流れる、最大の水であったので、そのやや河下の両岸に植え付けられて年を経た桜の老木はなかなか見事で、堀河の花見といふと、江戸の向島のそれ扱ひ、私が十一、二から十四五頃までは、折々父母と共に屋形船なぞに乗って、見に行ったのを思い出す。また沙魚釣りが父の年中行事の一つであったので、年に少なくとも二度以上、同じくその河を、家族一同が暗いうちから家を出て、多勢の時は近親、縁者、出入りの者を合わせて、二艘仕立てで、昼夜の仕度をして、船で下ったのを思い出す。

 堀川は逍遥にとって忘れることのできない川であった。

 早稲田の教師となった逍遥は、その演劇仲間、市川春城、岡田兼吉と「三友会」を結成し、その会を得月楼でよく催した。

 その思い出を記したものに市川春城の『得月楼の追憶』という随筆がある。

 春城は、初めて得月楼を訪れた印象を「連れ立って案内された酒楼が即ち得月楼で、ここに鰻の蒲焼きを下物に、杯をあげて款晤したのが、吾等の旅行中最も愉快に感じたことである。」と記している。

 さらに、街中にあるのに、得月楼とはどういうことかと店名の由来に興味を持った。

 二階に上がり、川にもやっている船を眺める。川の上には満月が出ていた。

 

 この夕べは、あたかも月夜で、月の光は水に映じてキラキラしてえもいわれぬ風情があるので、私は覚えず手を打って得月の二字虚しからずと初めて楼名の謎を解いた。

 

 得月楼の名づけ親は頼山陽だ。この名は、「水は近きところ必ず月を得るの高殿あり」という唐詩選の句からとられたものだ。天保二年(一八三一)のことである。得月楼は橋本屋与八が文政十一年(一八二八)のことだ。

 江戸時代は頼山陽とその仲間、明治時代は坪内逍遥とその仲間たちが得月楼をよく利用した。そして、大正時代に入ってからも店の経営者寺田栄一を訪ねて、小島政二郎、菊池寛、久保田万太郎などの文人が、この店をよく訪れた。

 得月楼は、文人に愛され、ささえられてきた店だ。

 

 

 

牧水が賞でた月

 

 堀川端の月見の名所である沢の観音、本遠寺は、いずれも高台で、眺望がすばらしい所だ。満月が空に浮かび、皓々と白昼のように、海も川も照らしている。

 沢の観音、本遠寺と同じように、白鳥山の法持寺も高台にあって、眺望がきく月見の名所であった。かつての法持寺は、二千二百七十四坪の広大な敷地を有する大寺院であった。現在は、その広大な敷地の大部分が宮中学校の敷地となっている。

 その法持寺の敷地内に、月笑軒、洗月院、梅萼院の三つの塔頭があった。現在は梅萼院のみが残っているだけだ。

 月笑軒、洗月院、いずれも寺号に月の字がある通り、月見に恰好の寺であった。月笑寺は二百九十二坪の敷地を有し、法持寺の山内にあった。天正十五年(一五八七)の創建という古い由緒ある寺だ。

 洗月院は、二百八十九坪の敷地で、弘治元年(一五五五)の創建という。

 

 月笑軒は、宮中学校の校庭の石組みの上に建っていた。眼下に堀川が流れている。堀川の流れる先には、熱田の海が見える。月笑軒の本堂の障子をあけると月の光がさしこみ、まばゆい程だ。

 この月笑軒からの眺めをことのほか愛したのが若山牧水である。月の光をあびながら、酒を飲み、歌会を月笑軒で何度も開いた。

 牧水が名古屋を初めて訪れたのは明治四十一年、二十四歳の時のことである。出版されたばかりの歌集『海の声』を手に持ち、郷里の宮崎に帰る途中、熱田に住む花岡薫の家を尋ねた時だ。

 この年、名古屋で初めての花岡薫たち同人による歌誌『八少女』が刊行された。

 『八少女』に牧水は寄稿を始め、名古屋で牧水を囲む歌会も始められた。

 『八少女』の同人の一人に鷲野飛燕がいた。熱田区の夜寒町にある飛燕の家に、牧水は二度ほど訪れている。牧水は、飛燕の家を訪れた時、彼が大正十一年三月、伊豆湯ヶ島に湯治に出かけた時に詠んだ歌、

  うす紅に葉はいち早く萌えいでて

      咲かむとすなり山ざくら花

を揮毫して与えた。その経緯について、飛燕は『牧水君の思い出』の中に、次のように書いている。

 

 大正十三年三月八日には御令息旅人様御同伴で九州へ御帰省の途中お越し下さいました。この日中林さん、前田さんもお集まりになり飲みつつ語りつ、名にしおふ酒豪ばかりの事とて随分召し上がりました。お酒がまわるにつれ三味線を弾く身振りなどして伊那節や木曽節を盛んに御歌ひになりましたが、中々お上手でした。それから衣の裾を端折りあやしい足を踏み締めて半折りを御揮毫下さいました。「日の岬」と「うす紅」と。

  ここに来てよらねばならぬここに書かせられる

     此歌ぞこれ

 此時は長く御滞在になることも出来ず、翌朝御出立つの時門口に御見送りすると幾度も振りかへりて私も春浅い朝日さす門に御姿の見えなくなる迄御見送りしていましたが、いい知れぬ寂しさを覚えて室に帰ってきた時、鉄瓶の湯がたぎり酒の香が部屋いっぱいに漲っていました。そして座布団にはまだ君の温かみが残っていました。私もいつにない涙ぐましい様な気分を覚えましたが、今から思えばこれがほんとうに永久の御別れになったのでした。

 

 牧水の亡くなった後、彼を追慕して昭和十一年十一月二十三日、月笑軒の前庭に、飛燕に書き与えた「うす紅……」の歌を彫った歌碑が建立された。

 

 戦後、焼失した月笑軒の路地に立てられた宮中学校正門の右側、築山の上に、牧水の碑は移されて建っている。

  



開府四百年名古屋の出来事

「想いかなう広小路恋の伝説みち」       [禁無断転載]

解説  沢 井 鈴 一 

 

 

小袖掛け松 久屋大通

 

今はただ思い絶えなむ(闇路の恋) 福生院

 

  今はただ思い絶えなむとばかりを

        人づてならで言ふよしもがな

 

 『百人一首』の中の、左京大夫道雅の歌である。「今となっては、あなたのことを思いあきらめてしまおうと、人を通じてではなく、直接あなたにお話をする、よい機会が欲しいのです。せめて今一度あなたにお目にかかりたい」という歌意だ。あなたとは三条院の娘、伊勢の斎宮を勤めて、帰京してきた当子内親王のことである。

 この歌は『後拾遺集』巻十三、恋三に「伊勢の斎宮わたりよりまかりのぼりて侍りける人に、しのびてかよひけることを、おほやけもきこしめして、まもり女などつけさせ給ひて、忍びにもかよはずなりにければよみ侍りける」の前書きを受けて、三首詠んだうちの最後の歌である。

 この歌の前の二首は、

 

  逢坂は東路とこそききしかど

        心尽しの闇にぞありける

 

  榊葉のゆふしでかけしそのかみに

        押返しても渡るころかな

 

一首目の歌は、「逢坂の関は、伊勢からの道中、あなたが上ってきた道と聞いていたけれど、逢うこともできなくなった今は、逢う瀬をさえぎる関所だ。恋焦がれる気持ちを、駆り立てる関所であるなあ」の意だ。

二首目は「榊葉のゆうし(木綿(ゆう)を垂れること)を掛けて、斎戒していた斎宮の昔に、あなたが戻ったように、逢われぬときの続くこのごろよ」の意だ。

 

伊勢の斎宮を勤めて帰京した当子内親王に、道雅が密通していることを、当子内親王の父親三条院が聞き知り、激怒し監視の女官までも付けたので、逢うことが全く出来なくなってしまい、この歌を贈ったのだと前書きは述べている。

藤原道雅はこの恋愛により左遷され、不遇のうちに、従三位左京大夫の職のまま亡くなる。ひとりの高貴な女性との恋に殉じた人生だ。

 

『尾張年中行事抄』は、福生院の大聖歓喜天が、如何に霊験あらたかであるかを、斎宮と道雅の恋を例として挙げている。

 

後一条帝時、左京大夫道雅、恋伊勢斎宮、詠歌、且祈干此尊焉、有其験、斎宮通男家。道雅

  今は唯思ひ絶えなむと計を人伝ならでいふよしも哉

 

 露顕糺明之、斎宮曰、不知、我如夢、見行也。群臣議斎宮掌染墨、令押彼門、令人視之、其路中門、皆悉有形、蓋是聖天所為也。

 

 『尾張年中行事抄』は、当子内親王が伊勢の斎宮であった時代に、道雅との密通を起したとしている。伊勢斎宮との恋は禁忌だ。

斎宮は絶対に逢うことの出来ない世界の人だ。道雅はただひたすら、大聖歓喜天に祈った。その霊験はあらたかで、道雅は斎宮と密会することが出来た。この事が露見し、三条院は斎宮を糺問した。斎宮は「私は何も知らない、夢をみているような状況でした」と答える。三条院の家臣は、斎宮の掌に墨を塗った。家臣に大聖観喜天の祀られている門を開けさせた。道は中門に通じていた。墨は道雅との密会の場所まで続いていた。大聖歓喜天は、二人の恋の仲立ちをしたのだ。

 

福生院について『尾張志』は、次のように記している。

 

袋町本町より西北側にありて、如意山と号し海東郡蜂須賀村蓮花寺の末寺なり。至徳年中(一三八四〜一三八七)僧順誉、蜂須賀村蓮花寺の住職なり。建立して愛智郡中村にありしを、元和三年(一六一七)今の所に遷せり。本堂は薬師仏歓喜天の木像を相殿に安置す。

 

前記の『尾張年中行事抄』は「此尊天利益大に勝れ給ふ故、諸国に専に尊信し奉る。具に云時は大聖歓喜天と謂。凡危急の難甚疾の大病、其信に依てずと云事なし」と歓喜天のご利益を記している。

 

運命を変えた橋 納屋橋

 

 戦争は人間の運命を大きく変える。才覚のある人は、無一文から時代の変革を敏感に読み取り、時代の波に乗り財をなしていく。

 宮内京子の父親も、時代の波に乗ったひとりだ。広小路の一等地を、戦後直ぐに買い取り食堂を始めた。何しろ、食べ物なら何でも売れる、人々が飢えていた時代だ。京子の父親は昭和三十年代になり、世の中が落ち着いてくると、食堂をビルに建て替え、一階を広小路に面した喫茶店にした。最上階は家族の生活するフロアとした。

 京子は何一つ不自由のない環境の中で、のびのびと育った。父親は戦後、裸一貫で成り上がったので、京子を名門の中京財界の子息と結婚させ、自らも一流の財界人になりたいと願っていた。

 昭和三十五年、京子は大学を卒業し、花嫁修業に入った。社会勉強をしたいという京子のために、父親は広小路の商社に、一年間だけの期限付きで勤めさせることにした。

 夢中で仕事に熱中しているうちに、自分を見つめている熱い視線を感じた。自分より三歳年上の倉川節だ。

 若い二人は、直ぐに親しくなった。しかし京子の父親は、京子の結婚相手を財界人の子弟と決めており、帰宅時間を厳守させていた。

 

 節は日に日に、京子への思いを募らせていった。会社に京子が居るときは、心が満ち足りていた。しかし京子が会社を去ると、居ても立ってもおれない気持ちになった。

 節は京子の住むビルの喫茶店に、仕事を終えると出掛けた。コーヒーを飲み、タバコを吸いながら、広小路通を歩く人々を見つめていた。来る日も来る日も喫茶店に出掛け、コーヒーを飲んでいると、心が落ち着くのであった。

 街路樹が歩道に散る。篠つく雨が舗道を濡らす。小雪が散らつく。広小路の四季の移り変わりを、節は見つめ続けた。

節の家は中村区の牧野町だ。母親と二人の貧しい暮らしであった。節は納屋橋の欄干の上で、毎日堀川の流れを見つめていた。黒い堀川の淀みを眺めていると、自分の将来が、暗澹たるものに見えてきた。

節は自宅に戻る前、近くの牧野神社に、京子との恋が叶うことを祈った。

 

秋になった。京子に電話が架かってきた。節は「見合い相手からなの」と聞いた。京子は弱々しく「えぇ」と答えた。節は思わず「その人を殺してやりたい」と言った。自分でも思ってもいない言葉であった。街路樹が広小路に、しきりに散っていた。

 

京子の一年間の仕事は終わった。明日からは、逢うことは出来ない。京子は「私、家を出て東京の親類の家に出掛けます」と言った。京子がどんな意図で言ったのか、節は理解することが出来なかった。

京子は納屋橋の上で佇み、自分の家を眺めた。橋は地域と地域を繋ぎ、人と人とを結びつけるものだ。橋は人生の決断をする場所だ。京子は家には戻るまい、節のことも思いあきらめようと橋を渡った。

 

節は京子の心中を理解できず、来る日も来る日も喫茶店に座り、広小通を眺めていた。

京子に逢うことは出来ない。しかし、彼女の住んでいたビルの喫茶店に居ると、心が落ち着く。それだけが、節の大切な日課となってしまった。

節は疲労のため、三ヶ月間の入院生活を余儀なくされてしまった。

 

 納屋橋の上ではさまざまな愛のドラマが誕生した。橋の上で出逢った人、別れた人。橋は人の運命を変えるところだ。

 

紫川に身を投げて 洲崎橋

 

残菊物語 若宮八幡社

 

 今では手に入れることの難しくなった小説に、村松梢風の短編小説『残菊物語』がある。この小説を映画化したのが、戦前は溝口健二、戦後は衣笠貞之助である。衣笠の『残菊物語』はカラーで、長谷川一夫の菊之助、淡島千景のお徳であった。溝口の映画は、むろんモノクロ映画で、菊之助は花柳章太郎、お徳は森赫子が演じた。

菊之助は明治初期、九代目団十郎とともに「団菊時代」を築き、一世を風靡した五代目尾上菊五郎の養子である。梨園の御曹司で、歌舞伎界を担う人物として、将来を嘱目されていた。お徳は、菊五郎の家で子守女として、召し使われている身分の卑しい女だ。誰も御曹司の菊之助に向かい、芸の未熟さを指摘する人はいない。しかしお徳は、遠慮なく菊之助を批評する。菊之助はお徳の指摘してくれる一つ一つが嬉しい。

 いつしか菊之助は、お徳に心惹かれていく。二人の仲は人々の知るところとなり、困り果てた菊五郎は、菊之助を厳しく叱りつける。菊之助はお徳を、あきらめることは出来ない。勘当された菊之助は、単身大阪に落ち延びて行くことにする。

 明治十九年の秋の終わり、新橋駅から菊之助は汽車に乗る。見送るのはお徳ひとりだけだ。窓越しに目と目を合わせ、二人は思いを通わせた。汽車は白煙を吐いて、お徳を残し去っていく。

 

 大阪で菊之助は、尾上多見蔵を頼る。しかし、観客の評判は散々であった。菊之助は自信を喪失し、芸は荒れていく。大阪にお徳が来て、二人は共に暮らすようになる。貧しいながらも楽しい生活が続いた。しかし、後見役の多見蔵が亡くなり、二人は旅回りの一座に加わり、地方巡業を続けることになる。このままでは、菊之助は駄目になる。お徳は中村橋之助を頼り、彼に菊五郎との和解を依頼する。菊五郎の返事は、女と別れるなら東京に帰ってきてもよいとのことであった。

 お徳は自分が身を引くことを決意する。

 

 溝口健二の映画では、その場面は若宮八幡宮の境内の末広座である。末広座から賑やかな囃子の音が聞こえてくる。お徳はひとり夕暮れの境内を歩いていく。境内には連理稲荷が祀られている。連理とは一本の木の幹が、他の木の幹と連なり、木理が通じていることから、男女の深い契りをたとえて言う。お徳は聳え立つ連理の大木を眺めた。「最後まで添い遂げることは出来なかったが、あなたが幸福になり、東京の舞台に立てるなら、私はどうなってもよい」お徳は稲荷に手を合わせ、菊之助が名題役者となることを祈った。

 お徳は菊之助と別れ、大阪に帰る。菊之助は、末広座の舞台に立っている役者と共に、東京に戻る。

 菊五郎が二人の仲を許したときには、お徳は病の床に就いていた。名実共に人気役者となって成長した菊之助が、大阪の舞台に立つため、お徳を訪ねたときには、息も絶え絶えの状態であった。

 道頓堀を船乗り込みする菊之助、観客の歓声、囃子の音、それを夢うつつに聞きながら、お徳は息を引き取る。

 

マダム阿佐緒の恋 朝日神社

 

 名古屋では、原阿佐緒のことを知る人は数少ないであろう。忘れ去られた女流歌人だ。しかし彼女の生まれ故郷、仙台では彼女は有名人だ。仙台に赴任していた友人が「彼女のことをつい昨日まで生きていた人のように、町の人は懐かしそうに語る。石原純が颯爽と馬を走らせる。その後を、阿佐緒が乗馬服姿で追う」大正八年頃の話だ。仙台の町を走る二人は、人々にとってまばゆい存在であった。石原純は理論物理学者で、東北大学の教授、原阿佐緒はアララギ派の歌人である。二人は歌を通じて知り合い、道ならぬ恋に走る。日本を代表する物理学者が、スキャンダルのために消え去るのを、惜しむ人は多かった。しかし、純は家庭も捨て、東北大学教授の職も投げ捨て、阿佐緒との恋に走った。

 

  世の人の吾に負はす名のかくのみに

        ゆゆしきをいかに堪ふべき吾かも

 

 彼女は世界的物理学者の才能を潰してしまう悪女だ。世の指弾を受けて、揺れ動く彼女の心中を詠んだものだ。

 石原純とは、大正十一年から、千葉県保田海岸で同棲生活を始める。

 

  肩並めてありくに馴れし安房の海辺

        涙流れて今日は侘てるを

 

 彼女の涙は恋に勝利し、純と共に暮らす喜びの涙なのか。それとも、世を捨てて安房の海辺で暮らすはかなさ、将来に対する不安の涙であったのだろうか。

 

 彼女は恋多き女だ。明治三十七年、故郷宮城県大和町宮床を出て上京し、日本女子美術学校日本画科に入学する。入学した年、同校の教師、妻子ある小原要逸に犯され妊娠、十七歳の彼女には、あまりにも苛酷な運命であった。二十歳の七月、自殺を図るが未遂。二十一歳、小原と結婚するが、まもなく破局。

 大正三年には、洋画家庄子勇と結婚。二人の間に生まれたのが、原保美だ。モノクロ時代のテレビ「七人の刑事」で活躍し、茶の間を沸かした名優である。

 そして、三度目の石原純との生活も、長くは続かなかった。石原と別れた阿佐緒は、雇われマダムとして、東京、名古屋、大阪と渡り歩く。四十歳に手の届こうとする年齢になっていたが、彼女の美貌は少しも衰えていなかった。モガ、モボが多勢、彼女の店に押し寄せた。

 昭和初期、彼女は名古屋の広小路に店を出した。店の名前は「アサオ」だ。彼女の名前は、スキャンダルな女性として、広く知れ渡っている。阿佐緒の顔を見に、客が押し寄せた。彼女は微笑を浮かべて、彼女を目当てに日参してくる客の相手をした。カウンターに十人も座れば、一杯になろうかという小さな店だ。

 彼女の過去を執拗に尋ねる客がいる。野暮な客と思いつつ、彼女は体よくあしらう。彼女に熱い視線を注ぐ客もいる。愛だの、恋だのは昔のことと、彼女は無視してグラスに酒を注いだ。

 客がいるときは、彼女も寂しさを紛らわすことが出来た。しかし、暗いバーのカウンターで、ひとり座っていると寂しさが募ってきた。

 彼女は店に出る前、近くの朝日神社に参拝するのが常であった。知る人もいない町でのひとり暮らし。朝日神社の神様だけが、彼女を護ってくれる存在であった。

 

 わずかの滞在で、名古屋から大阪へ彼女は流れる。その後、映画に出演したり、レコードを吹き込んだりする。

 昭和十年、四十八歳のとき、彼女は故郷宮床に帰る。

 

  家ごとにすもも花咲くみちのくの

        春べをこもり病みて久しも

 

 健康に不安を抱えての帰郷であった。故郷の人は優しい。宮床には彼女の記念館が建てられ、歌碑も建っている。










   開府400年 百年ごとに名古屋は挑戦する
 
 第1回  名古屋町づくり事はじめ 
                            沢井鈴一

花の名古屋の碁盤割

 作家城山三郎は、碁盤割の町の蒲焼町で生れ育った。彼は『人生余熱あり』『この命、何をあくせく』等の随筆集のなかで、自分は故郷喪失者であると語っている。故郷喪失者である理由を『この命、何をあくせく』では、次のように述べている。

 私の育った名古屋は、幾度かの大空襲で焼野原になったあと、満州の曠野で都市計画をやった役人などの手で、戦後はいわば根こそぎ違う町につくり変えられてしまい、私には故郷がなくなった。

 蒲焼町は現在の錦三丁目にあたる。ビルが建ち並ぶ、ネオンもまばゆい夜の錦三は眠らない町である。

 城山三郎の怒り、悲しみは、変りはてた故郷の光景に向けられているだけではないだろう。所狭しと立ち並ぶビルの合間を、多くの人々が通り過ぎてゆく。現在の蒲焼町は見知らぬ多くの人々が集う町だ。そして、それぞれの人が孤独な思いのなかで生きている町だ。隔離と断絶は建物だけではない。町の一体感も、心のつながりもなくなってしまい、人々も隔離と断絶のなかに生きている。

 人々は故郷に帰った時、安らぎと慰藉を感ずる。城山三郎はまるで違う町になってしまった蒲焼町に対し、強い孤独感しか抱くことができなかった。彼をして、自分は故郷喪失者であると言わしめたもの、それは外形的な町の変革ではない。文化と伝統を放棄して行なわれた町づくりに対してである。

 ましてや蒲焼町は、名古屋四百年の歴史とともに歩んできた町だ。『名古屋市史』の町名由来記によれば、名古屋城築城のおり、多くの人々が諸国からこの町に集まってきた。いつしか城普請をする人夫を相手とする茶屋、酒さかななどを売る店が多く建ち並ぶようになった。なかでも蒲焼を売る店が多かったので、蒲焼町と呼ばれるようになったという。

 町名を見れば、町のなりたちがわかる。碁盤割の一つ一つの町は、名古屋の歴史をつくり、文化を築いた町だ。名古屋文化の伝統は、碁盤割の町によって伝えられてきた。碁盤割の町の風景と生活が隔離と断絶によって喪失しても、歴史と文化を喪失することはできない。

 碁盤割の町を、過去を詠嘆する感慨と懐古の情だけでとらえていては、歴史と文化を伝えることはできないであろう。

 江南、尾西、羽島の地で、七墓御詠歌が幕末から明治初年にかけて流行した。部落の青年が七つの墓を御詠歌を歌いながら寄進をして歩く。集めた寄進の金で、橋などの掛け替え工事を行なった。その御詠歌の中に、「花の名古屋の町割りは……」で始まる歌がある。地方の人にとっては、碁盤割の町は、文字通り花の名古屋であった。この歌には、東西の筋、南北の通りが順に歌いこまれている。ちょうど京都の通りを読みこんだ「丸たけえびすにおしおいけ……」のわらべ歌のようなものだ。この歌によって、子どもたちに碁盤割の町に対する関心を持たせる。歌うことによって町に対する誉りと愛着心をうえつけることができるはずだ。「花の名古屋の碁盤割」の歌は、名古屋の歴史と文化を伝える恰好の教材である。

家康の都市計画

 現在の繁栄する名古屋の礎を築いたのは、徳川家康である。家康は、名古屋の町の生みの親であると言ってよい。

 家康は、死闘を尽くした天下分け目の関ヶ原の合戦で、勝利を手中に収めた。関ヶ原の合戦後の家康の関心は、大坂城の豊臣秀頼と豊臣恩顧の諸大名の動向であった。家康は大坂城を見据えながら、東海道の要である名古屋の町づくりに取りかかってゆく。

 戦乱の世の城下町の建設は、軍事的な目的で造成されたものだ。折れ曲がった迷路、鉤の手と呼ばれる、ほぼ直角に曲がっている道。城下町は、敵の目をくらますような迷宮都市であった。

 家康の思い描いた理想の名古屋の碁盤割の町は、軍事中心の都市ではなく、商業が栄える都市であった。商業都市の建設にあたり、家康は、町割りを巡見し、細かな指示を与える。三の丸南の堀端が広過ぎることに目を留め「広きは不繁昌にて、其上辻切悪党の類有るべし」と堀端の道幅を縮めさせ、碁盤割の町割りに組み込ませたという。家康は大坂城を攻め落とした後、戦争のない平和な商業の栄える町をつくり、尾張の国を幼児義直に託したいと考えた。その結果、かつて例をみないような大規模な四面四角に区切られた碁盤割の町はできあがった。

 家康に清須から名古屋への遷都を建言したのは、山下氏勝であった。氏勝は、初代藩主義直の生母相応院の妹壻である。氏勝は、清須城下を流れる五条川がしばしば氾濫を起こし、水害をもたらしていること、また土地は低湿で水攻めを受けやすく、非常籠城に不都合であることをあげ、強く遷都を主張した。氏勝は遷都先として、古渡、小牧、名古屋と三カ所の古城のあった地を候補地としてあげた。家康は関ヶ原の雌雄を決した合戦で、福島正則の居城であった清須城を前線基地として使用した。その時、清須城はあまりにも狭く、また東海道の防衛の中心としても不十分であることを、強く認識したに違いない。慶長十三年(一六〇八)十一月に家康は、牧助右衛門信次に移転先を調査させ、選定させた。信次は名古屋の地が遷都先として、最もふさわしい地であると進言した。

 家康は、翌年の一月二十五日、膝下で教育をしていた八歳の初代尾張藩主義直を駿河から伴い、清須城に入った。この時、名古屋城の築城と遷都を正式に決定した。

 慶長十五年一月二日、家康は名古屋に来て築城の縄張を視察した。牧助右衛門、滝川豊後守等五人を築城奉行に任命し、西国大名二十三名に築城に従事させた。九月中には、内部の大部分の普請が完成する。慶長十六年にも、家康は上洛の途次名古屋を訪れる。十七年にも家康は名古屋を訪れ、本丸御殿の造営を命じた。この年には、城下の検地と町割が行なわれた。十八年、藩士の住居地が決められた。清須と名古屋の町を掛け持ちしていた武士も、名古屋の地にやっと落ち着くことができた。碁盤割の町名古屋は、家康の平和を願う心から生まれた彼の理想を実現する町であった。

清須越

 名古屋の城下町が完成してから、約百年後の宝永四年(一七〇七)、天野信景は美濃路をたどり国府宮に参詣したことがある。その途次、清須を訪れた時の感想を『塩尻』の中に、次のように記している。

 慶長十五年、神君列国の諸侯に命じ、愛知郡名古屋庄に大城を築しめ、公官を移し給ひしより、廃城の旧墟と成けり。我曾祖父正定も、当城に仕まつりし、其旧宅の跡は、御園の辺なりと聞しばかりにて、いづくなりけんと思ふもなつかしき折節、子規(ほととぎす)音づれ侍ければ、

   荒まさる草のはらなるほととぎす

       なくねばかりやむかしなるらん

 名古屋に城が築かれ、清須の町は廃墟と変り果ててしまった。信景の曾祖父は、清須で城勤めをしていたが、今や、その旧居を探しあてる術もない。町は荒れはててしまい、聞こえてくるのは子規の鳴く音ばかりである。信景は、しばし懐古の情にひたり、荒れはてた清須の町をながめるのであった。

 清須から名古屋に移ってきたのは、信景の曾祖父正定のような武士だけではない。町人も職人も、町中をあげて名古屋に移住してきた。名古屋城の築城にともなう清須からの遷府は、人の移住だけではない。清須ゆかりの建造物も、寺社も名古屋に移ってきた。俗に「清須越」と呼ばれる、新しい町名古屋への大移動であった。

 清須越には、多大の犠牲をともなった。それは、経済的な負担ばかりではない。住みなれた町を去り、知らない土地でくらすことへの不安、新しい町にうまくなじむことができるかの心配等、心理的動揺ははかり知れないものがあった。怨嗟の声をおしつぶし、人々は住居をたたみ、名古屋へと移住していった。

 

 清須越は、いつ頃から始められたであろうか。諸説があり、詳しいことはわかっていない。慶長十六年(一六一一)一月二十五日、名古屋の新しい町に火の手があがった。火事により百五十余軒が焼失した。このことにより、町づくりは、その前年の慶長十五年から始まったと考えられている。町づくりが終った時期について『金府紀較』は次のように記している。

 

慶長十八年名古屋城諸士町人住居、去年迄は清須名古屋掛持、或は諸士御城下近郷知行所に(かり)(すまい)、今年安堵。

 

 これらの記事により、清須越という、かつて例をみないような大規模な町をあげての移住は、慶長十五年より四年間かかり慶長十八年に終ったと一般的には考えられている。『新修名古屋市史』は、慶長十八年より元和(一六一五〜二四)初年にかけて、清須からの移転が行なわれたとしている。

 清須から何万人の人が移住してきたであろうか。開府当時の名古屋の人口は、町方五万五八四九人、軒数五八二一軒であった。武士、僧侶等を含む全人口は九万人ほどであったろう。総人口のすべてが清須越の人々ではない。武士、町人等の五万人から六万人の人々が大移動したのが清須越であった。

 

武平町と大和町

 

 碁盤割の町の地割、町割の実務をこなした人物として、『蓬左遷府記稿』には、小野寺源太が地割を、三沢藤三が町割を行なったと記している。地割は社寺地、武家屋敷、町人宅地等居住区域の区画をすることである。町割は、清須越の町を、碁盤割のどこの区画にわりあてるかの作業をすることである。

 地割の小野寺源太、町割の三沢藤三に加え、『義直伝』は、松井武兵衛が検地を行なったことを次のように記している。

 

普請奉行の松井武兵衛といふ人、町割屋敷割を検地せし時、先づ此の人の宅地を賜はりしより、武兵衛町と名づけし也、新町名の始なるべき。

 

 町づくりに多大の貢献をなした小野寺源太、三沢藤三は、歴史の流れの中に、いつしかその名前は埋没してしまった。二人の名前は人々の脳裏から消えてしまい、今その事績を詳かにすることはできない。

 検地を行なった普請奉行の松井武兵衛は、武平町という町名により、四百年後もその名を残すことができた。小野寺源太、三沢藤三も町名などにより、その名が松井武兵衛のように顕彰されていたならば、その事績も歴史の中に残すことができたであろう。

 京町筋、茶屋町の西、長島町通と長者町通との間の町が大和町だ。大和町は名古屋城築城の際、大工棟梁であった中井大和守正清が、この町に居住していたので、付けられた名前だ。

 中井大和守正清は、徳川家康の側近で大工として、家康の関係した造営のほとんどすべてにたずさわった人物だ。名古屋城築城の作事奉行として、大久保長安、小堀政一、村上三右衛門等大名が家康より任命されている。名古屋城の築城にあたり、多くの人物が関係し、工事を請け負った。しかしその事績は、忘れ去られてしまった。中井大和は、町名に名を残すことにより、名古屋城築城に多大の功績のあったことを知ることができる。

 築城の中井大和守正清、町づくりの松井武兵衛は、町名により、今もその名を知られている。

 松井武兵衛の兄勘兵衛は、尾張藩の初代町奉行であった人物だ。二人の祖父は遠州の人で、桶狭間の戦いで今川義元に従い、戦死した。二人は武蔵の国、忍で松平忠吉に召しかかえられた。忠吉が清須に転封した時も、二人は忠吉に従い、清須の国に入った。清須では、勘兵衛は七百石で町奉行、武兵衛は六百石で足軽二五人を預る身となった。清須越で名古屋に移った後も、勘兵衛は名古屋の初代土奉行として活躍する。武兵衛は普請奉行として町割、屋敷割等に就き、検地を行ない町づくりに貢献する。慶長十八年洪水により、名古屋の河川の多くの堤防が破損した。この修復作業にあたったのが、普請奉行の松井武兵衛だ。

 同じ町づくりにたずさわった三名の普請奉行、町名により名を残した松井武兵衛、忘れ去られた小野寺源太、三沢藤三。運命は不思議ないたずらをする。

堀川による町づくり

 町名により、その町の成り立ちを知ることができる。町名には、その町の歴史が秘められている。堀川端の西岸の地には、水主町、納屋町、舟入町、大船町、塩町など堀川ゆかりの旧町名が残っている。これらの旧町名によって、堀川端のたたずまいと堀川が名古屋の町にはたしてきた歴史的役割を知ることができる。尾張藩の水軍、千賀氏の水夫たちが居住していた水主町。御船役の役宅があった大船町。水主町、大船町という町名により、堀川が尾張藩にとって、軍事的にいかに重要な川であったかを知ることができる。熱田の魚商人四人がこの地に移り住み、魚や野菜の類を貯える()()を建てた。その魚屋があったので納屋町。また一説には、倉庫が並んでいたので納屋町であるという。塩商人が住んでいた町が塩町。これらの旧町名からは、堀川を利用して、名古屋の商業が栄えていったことがわかる。

 堀川の東岸から久屋大通までが碁盤割の町の領域だ。堀川の東岸にも、堀川とのかかわりによってできた町名がある。

 片端筋から掘切筋(現在の広小路通)に向かって走る碁盤割西端の南北道路、木挽町通の北端に位置するのが木挽町。木挽とは、材木を大鋸で挽くことを業とする人のことだ。名古屋城を築城するにあたり、木挽小屋がこの地に建てられた。木挽職人が定住するようになり、木挽町という町名ができあがった。

 木挽町筋、木挽町の南側に位置するのが元材木町である。元材木町について『尾張志』は次のように記している。

 京町より杉の町までをいふ。(もと)清須材木町といひしを寛文五年(一六六五)北材木町と改めしが北の字は敗北の(にぐる)の字なりとて貞享三年(一六八六)今の名にあらためし。

 清須越の町名、元材木町の南は、藩の重臣成瀬隼人正と志水甲斐守の蔵屋敷が建っていた。両重臣の蔵屋敷があったので、両蔵屋敷と呼ばれていた。元禄十三年(一七〇〇)の火災により蔵屋敷は焼失、その跡地に町屋が建てられた。

 両蔵屋敷の南の地に位置するのが下材木町。木挽町通の東の南北道路に位置し、杉の町筋と伝馬町筋の間の二丁に位置するのが上材木町。

 町名からうかがえる通り、上材木町、下材木町には材木屋、竹屋、薪屋が軒を並べていた。堀川の水運を利用して、木曽の山から桧などの良材が材木町に運ばれてくる。堀川から運ばれてきた材木により、名古屋の町づくりは行なわれた。堀川は材木だけではなく、町づくりに必要なあらゆる資材が運ばれてきた。

 堀川の掘削時期については慶長十五年と十六年の両説がある。いずれにしろ築城のための石材運びには間にあわない。堀川は築城より碁盤割の町づくりに多大の貢献をなした川だ。藩では、元材木町、上材木町、下材木町の三カ町に居住する業者に限り材木屋という称号を与え、白木屋、板屋などという他の町の業者と区別し特許を与えた。鈴木惣兵衛、天満屋河村九兵衛、川方屋加藤善右衛門など巨額の財をなした材木屋が、これらの町から輩出した。

清須越の町名

 

 清須越は、清須の町をあげての移住であった。人も、物も清須から名古屋へ移住してきた。名古屋へ移ってきたのは、形あるものばかりではない。清須越の人たちが住んでいた清須の町名も、名古屋の町でそのまま使われた。人々は、名古屋の町で清須と同じ町名の下でくらした。

 

 堀川に架かる五条橋の擬宝珠も清須越のものだ。橋は異なった土地をつなぐものだ。橋を越えると、異なった世界が開けてくる。五条橋の西側の地域は俗に下町、東側の地域は上町と呼ばれる。五条橋から、ゆるやかな坂を上った碁盤割の町が上町と呼ばれていた地域だ。上町と下町では、橋一つへだてて風俗、習慣が異なっていた。言葉の使い方から、食生活までが異なっていた。

 清須越の町は、『なごやの町名』によれば、六八ヵ町ある。下町の清須越の町は、船入町と大船町、塩町、堀江町、小船町、戸田町の六ヵ町だ。塩町、堀江町、船入町、戸田町の四か町の下町への移住時期は不明だが、大船町と小船町は慶長十六年(一六一一)の清須越の町だ。二つの町名は、堀川の船役人の屋敷があったところから付けられたものだ。

 碁盤割の町の中で、清須越のもっとも古い町は慶長十四年(一六〇九)の常盤町だ。(慶長十四年説は、誤記であるという説もある。)この町には、竹を商う人が多く住んでいたので、竹屋町と呼ばれていたが、「たけや」は逆読すると「やけた」となって縁起が悪い。元禄十四年(一七〇一)竹を常盤木に変えて、常盤町と改名した。慶長十五年の清須越の町は、関鍛冶町、上畠町、和泉町、諸町、小田原町、伝馬町、袋町の七ヵ町だ。竹屋、鍛冶屋等町づくりにかかせない職人が、まず名古屋へ移住する。伝馬町、上畠町等清須からの通行の要所に町ができあがってゆく。

 慶長十六年には、本町、福井町、富田町、玉屋町、上長者町、小桜町、島田町、葭町、上七間町、下七間町、富沢町、小牧町、鍋屋町の十三ヵ町だ。本町通、長島町通、七間町通と碁盤割の幹線道路に沿って、人家が建ち並んでいたことがわかる。

 慶長十七年には、上御園町、中御園町、下御園町、御園片町、正万寺町、皆戸町、万屋町の七ヵ町が移住してくる。慶長十八年の清須越の町は両替町だ。この町は、藩の御用両替商平田家が住んでいたので両替町と呼ばれた。商人町としての碁盤割の町が、しだいに形成されてゆく。その他、年代は不詳だが、慶長年間の清須越の町には、京町、鶴重町等二十二ヵ町ある。慶長年間に、ほぼ碁盤割の町人町が成立した。

 元和年間(一六一五〜一六二四)になると、元和元年に小塚町、三年には大和町、朝日町が清須から移住してくる。

 移住時期不明な町名は、下長者町、伊倉町等の十ヵ町ある。

 

 六八ヵ町という多くの町が、清須と同じ町名を用いて、名古屋の町で生活をする。町名は住民の連帯感を生む。町名には町への誉りと愛着心がこめられている。知らない町でのなれないくらし。清須と同じ町名の中でくらすことが、どれほど人々に安らぎを与えたであろうか。

 四百年前に生まれた名古屋の由緒ある町名も、消滅してしまった。

 

町名の由来

 

 享保年間(一七一六〜一七三五)名古屋の町数は九七であった。そのうち現在の中区の領域にある町は、久屋町、上田町を含め七四であった。大久保見町、末広町、橘町、橘裏町、中須賀町の広小路以南の本町通沿いの町も、この町数に入れている。門前町、裏門前町、長栄寺門前、栄国寺門前等の寺社が租税徴収権をもつ寺社門前町は、この数からは省いてある。

 名古屋の町人人口は、享保十一年(一七二六)には、五万三七五人であった。これらの人たちが住む碁盤割の町は、大半が清須越であった。

 中には車之町、益屋町、万屋町のように、慶長以前の名古屋村の時代からの町もあった。

 車之町は、今川氏豊が那古野城城主の時代からすでに、三の丸の天王坊前で町並をなしていた。名古屋開府とともに、魚の棚筋の西端の地に移ってきた。町名は、天王祭礼車を、この町が支配していたことに由来する。益屋町は、当初は町名がなかった、あるいは名古屋町と呼ばれていたとも言われている。正保二年(一六四五)、町内の酒屋益屋彦右衛門の屋号にちなみ、益屋町と改称された。

 慶長開府と同時に誕生した町であるが、清須越でない新立の町もある。茶屋町は、豪商茶屋中島氏が居宅を構えていたので、その屋号にちなんで付けられた新立の町だ。八百屋が多く建ち並んでいた八百屋町も名古屋で初めてできた町だ。これら一部の町を除き、碁盤割の大半は清須越の町である。町名は、その地に居住する人たちの清須当時の町名がそのまま使われた。

 清須で瀬戸物屋が多く居住していたので付けられた町名が瀬戸物町。瀬戸物町のように、職業名を付けた町名が、碁盤割の中には数多くある。職人たちが、みな戸を造っていたのが皆戸町。練屋、絹屋が多数居住していたのが練屋町(一説には練飴屋が居住していたからとの説もある)。美濃の関の鍛冶職人が清須に移住し、その職人が名古屋で住んでいた町が関鍛冶町。清須で毎月、川魚、塩、野菜を売る市場が立ち中市場と呼ばれていた。その旧号を用いたのが中市場町。江戸肴屋町が小田原河岸で魚を商い繁盛していたので、その名にちなみ付けられた魚屋の多く住む町が小田原町。堀川の岸辺の葭を切り、商売をしていたので葭町。その他桶屋町、木挽町等、その地で商売をする職業名から付けられた町名が数多く碁盤割にはある。

 職業名を付けた町名とともに、多いのが清須へ移住してきた人たちの出身地を付けた町名だ。

 伊勢の桑名、長島町から清須に移住してきた人たちが多く住んでいた桑名町、長島町。遷府の時、伏見の国の人、伏見屋六兵衛が住んでいたので付けられた町名が伏見町。伏見町の南にあるので、伏見との縁で付けられた淀町。大津の国の人四郎左衛門が清須に住居を構えていた大津町。京都から清須へ移住し、呉服物、細物、太物類を扱う商人が多く住んでいた京町。

 町名には、その町の歴史が刻まれている。開府四百年、名古屋の歴史は、清須越によって始まった。

町人町  碁盤割

 名古屋城下の地割りは、武家地、寺社地、町人地に大きく分けられている。

 藩の重臣たちの広大な屋敷は、三の丸に集まっていた。城を護るようにして、成瀬、竹腰の両家老が、大きな屋敷を構えていた。両家老の屋敷前を抜けると山澄将監、渡辺半蔵などの身分の高い武士の屋敷が本町通りに続いてゆく。この通りは大名小路と呼ばれていた。三の丸の東、山口地区には中級武士の屋敷が集められていた。さらに城の西北部、深井丸の堀をへだてた幅下、碁盤割の町人地の外側の小林、広井地区にも武家地はとられていた。これらの武家地の外縁部の幾つかには、下級武士の組屋敷があった。

 東西と南の武家地の外側には、清須越の寺社を集めた寺社地が設けられた。法華寺町、禅寺町と呼ばれた東寺町には、日蓮宗、禅宗の寺が集まっていた。南寺町には、大須観音、七寺などがあり、門前町としての賑わいを呈していた。また城の西、新道町筋にも海福寺、林貞院などの六つの寺が並び、西の寺町を形成していた。これらの寺町は、それぞれ城下に通じる街道の入口にあたっている。寺は高い塀に囲まれ、いったん事が起った時には軍事的に使用されるようになっていた。

 

 武家地、寺社地に囲まれるようにして、町人地が大きく城の南に開かれていた。町人地は碁盤の目状に区切られていたので、碁盤割の町と呼ばれている。

 碁盤割の町は東西に十一列、南北に九列の正方形のブロックを基本としてできている。東西は御園町から久屋町まで、南北は片端筋から広小路筋までの範囲だ。片端筋は商家ではなく、武家屋敷と藩の役所が並んでいた。堀川から東、御園通りまでの地域も整然とした正方形にはなっていないが、碁盤割の町人地の区域に入っている。

 『新修名古屋市史』によれば、碁盤割の町中の一区画は京間の五十間(九十七・五メートル)四方であった。通りの中央部分の奥行きは二十間、左右の角に向かってだんだん短くなってゆく。筋側も中央部分で十五間、角に向かって同じように短くなってゆく。碁盤割の道は東西は筋、南北は通りと呼ばれた。

 中央部分の十間×二十間ほどの広い空地を会所といった。会所には集会所や寺院が建てられた。

 通りには、商家が店を並べていた。商家の間口は狭く、奥行きは長い。坪の内と呼ばれる庭があった。

 町内では、同じ商売をする店がしだいに軒を並べるようになった。薬種商の京町、魚屋、料理屋の小田原町、古着商の杉の町など同業者が競って商売に励んでいた 

 碁盤割の町には、閑所と呼ばれる袋小路があった。閑所は、会所がなまって閑所となった。あるいは家と家との狭い路地の間を通ることから間所が閑所と呼ばれるようになった等の説がある。狭い閑所の両側には長屋が立ち並んでいた。

 閑所も、長屋もいつしか町の中から姿を消して、碁盤割の町は今や面影の町となってしまった。

 

清須越の建造物

 

 空襲により炎上した名古屋城。焼失した名古屋城の建物の中で、西北の御深井のお堀に面して、小さな櫓が戦火を奇跡的に免れた。城が再建されるまでこの櫓は、白壁を陽光にきらめかせながら、廃墟の中、孤高の姿で立っていた。この櫓は清須城の小天守であったと言われ、別名「清須櫓」とも呼ばれている。清須城の小天守を解体し、名古屋城に移築したものであるからだ。清須越はあわただしく行なわれた。解体し、移築できるものは、すべてが名古屋城の町に運ばれてきた。

 現在は名古屋城に保管されている五条橋の擬宝珠も、清須越のものである。清須の五条川に架かっていた橋を名古屋に移し、その名も五条橋と名付けられた。碁盤割の町、上町と下町の円頓寺とをつなぐ五条橋は清須時代に、松平薩摩守忠吉が築造したものと伝えられている。

 擬宝珠には「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」と刻まれている。昭和十三年、橋を改築した時に擬宝珠は取りはずされ、名古屋城で保管されることになった。堀川に架かる数多くの橋のうち、石だたみの橋は五条橋だけである。橋を渡り、ゆるやかな坂を上ると昔ながらの閑所が残っている。戦前の上町の面影を強く感じさせる光景だ。しかし、面影の光景も、年を追うごとに変わり、いつか、どこでもみられる町になってゆくであろう。

 清須櫓、五条橋の擬宝珠は戦火を免れ、清須越当時の姿を今に伝えているものだ。

 清須越の建造物のなかには、惜しくも戦火によって焼失したものが数多くある。なかには再建されて往時の姿をそのままうかがうことのできるものも残っている。

 東区にある浄土宗の寺、高岳院の山門も清須城黒門を移築したものだ。この山門も再建され、焼失以前の姿をしのばせてくれる。

 高岳院の歴史は古い。藩祖義直の傳役(もりやく)平岩親吉が、甲斐国で六万三千石を領していた時のことだ。家康は八男の仙千代を子供のいない親吉に養子として与えた。しかし、仙千代は六歳の若さで早世する。親吉は新府(韮崎市)に教安寺を建立し、その菩提を弔った。松平忠吉の死により、義直は甲斐の国主から、尾張国主に国替えになる。幼君に代わり、親吉は清須城で国政を執ることになる。その時、教安寺を甲斐の国から清須に移した親吉は、寂誉呑宿を開山に迎え、寺号を高岳院と改めた。清須越の由緒ある寺にふさわしく高岳院は、いつも静謐なたたずまいのなかにある。

 奈良の六窓庵、大阪一心寺の八窓庵とともに、日本三名席のひとつと称された猿面茶席も清須越である。猿面茶席は、織田信長が床柱の大きな節が秀吉の顔に似ているところから名付けられたものだ。慶長十五年(一六一〇)遷府とともに名古屋城に移される。元和二年(一六一六)には、本丸から二の丸中奥に移されることになる。さらに、明治四年には名古屋城二の丸が鎮台となるので、刑部陶痴(玄)が譲り受け、末森の山荘に移建される。明治十三年、陶痴からの寄贈で、愛知県博物館(陳列館)に移ることになる。流転の茶席は、さらに昭和六年鶴舞公園に移り、惜しくも戦争によって燃えてしまう。今、名古屋城御深井丸には復原された茶席が建っている。

 

本町商人

 

 名古屋と熱田とを結ぶメインストリートの本町通りは、五間幅(九メートル)に造られていて他の三間幅(五・四メートル)の通りより広く、名古屋の中心の通りであることを際だたせていた。本町通りを、藩主は参勤交代で江戸への往来に使う。その時には見送りや出迎えの藩士で通りは満ちあふれていた。外国からの賓客である朝鮮通信使や琉球使節の一行も、本町通りを通った。享保十四年(一七二九)には、将軍吉宗に献上するための象が、唐人に引かれて江戸に向かっていった。

 名古屋城下最大の祭礼である東照宮祭は、別名名古屋祭とも呼ばれる。四月十六、十七日の祭礼当日には、各町内からくり出された華美をきわめた山車が、通りをねり歩き大勢の見物客で賑わった。

 

 本町通りの両側には、名古屋を代表する商家が軒を並べていた。名古屋に進出する商人の最大の夢は、本町通りに店を構えることであった。名古屋商人は、本町商人で代表されると言われた。

 

 清須越の町人のなかで、新しくできた名古屋の町の総町代を務めたのが花井勘右衛門だ。勘右衛門は、本町一丁目に住居を構え、唐木屋を営んでいた。唐木屋とは、紫檀、白檀、黒檀などの熱帯産の木材を商う店だ。それらの木は中国を通して渡ってくるので唐木屋と呼ばれた。香木なども、この店では商っていた。

 十二代目の勘右衛門の時代、長い年月雨露にさらされていた古い臼が庭の片隅から見つかった。薪にして燃やしたところ、えも言われぬ香りが周囲にただよい始めた。臼は世にも貴重な香木であった。香木で名をなした花井家は、代々町の総町代を務め、名古屋の町の隆盛に多大の貢献をした。

 

 本町筋と京町筋の西北角の地に、松坂屋の前身いとう呉服店が商売をしていた。伊藤家の始祖は、由緒書によれば、織田信長に近侍していた伊藤蘭丸祐広であった。伊藤家の初代は清須から名古屋の本町に移り、呉服太物業を開業した祐道だ。祐道は大坂夏の陣が始まると、豊臣方に加わるために名古屋を離れ、そのまま行方知れずになってしまう。残された七歳の祐基は、母とともに必死になって店の切りもりをする。成人した祐基は、名を伊藤次郎左衛門と変え、店を名古屋屈指の大店にした。

 伊藤呉服店と京町筋をへだてて、向かい側に建っていたのが、藩主の召服を調進する尾張家呉服所の茶屋長意の屋敷だ。茶屋家は特権町人中別格の存在で、武士であり商人であるという両属的性格を持っていた。

 茶屋町の西、大和町には清須越の町人、岡田佐次右衛門が住んでいた。佐次右衛門は、中井大和の屋敷を百五十両で買い求め、移り住んだ。四代目佐次右衛門は野水と号す俳人で、芭蕉の高弟としても名高い。

 大和町の西の益田町には、白粉の「美艶仙女香」を商う井桁屋孫右衛門が住んでいた。仙女香の江戸での販売元は南伝馬町の坂本という商人だ。文政末から天保にかけて、おびただしい数の浮世絵に、仙女香の宣伝が書かれている。

 碁盤割の町では、名古屋の隆盛の元を築いた町人が商売に励んでいた。




第二回    将軍の座をめぐる闘争              沢井 鈴一 

打死をさせます

 

 六代将軍、家宣は正徳三年に亡くなった。死去と同時に、江戸の町に、数多くの落首が張り出された。尾張藩士の朝日文左衛門は、江戸の町に張り出された落首を、何首か日記の中に紹介している。江戸の庶民は、遠慮なく家宣の死に憶測をたくましくして詠んでいる。将軍をとりまく女性だけが住むことを許される大奥は、庶民の好奇心の的である。うかがい知ることのできない、男子禁制の世界、将軍を取りまく多くの美しい女性。想像は、卑欲なかたちで肥大化してゆく。

 将軍の死は、大奥の女性たちとの乱れた生活のためである。文左衛門は、次の狂歌を日記に記している。

 

   打死をさせますなさる両すけべほんにおつねは那須の野狐

 

 おつねは、旗本の娘で、巷間、天下第一の美人と噂が高かった。和歌のたしなみもあり、書跡もすばらしい教養豊かな女性であった。多くの男性が言い寄ったが、彼女は承諾しない。家宣は、おつねの噂を聞き、なんとかして、大奥に上らせたいと思った。大奥に上ったおつねを一目見て、家宣は彼女の虜となってしまった。

 おつねが大奥に上る以前は、家宣の寵愛を独占していたのは、おまちである。おまちは、京一番の美女と言われた。京一番の美女から、江戸一番の美女に家宣の寵愛は移ってしまった。昼も夜も、家宣はおつねを離さない。行水も一緒にする。庭の散歩も、浜御殿へのお成も、おつねが、いつも付きしたがってゆく。

 家宣はしだいに精気を失くしてゆく。医師や側近の間部詮房が、さまざまに意見をするが、家宣は、おつねを離さない。家宣の容態は、しだいに悪くなってゆく。

 家宣を殺したのは、おまちとおつねの二人の美女との乱れた生活にあると詠んだ狂歌の前文として、文左衛門は十月十四日の「朝献立」という戯文を記している。

 

 御用意は有之候得共此度御献立不出物

 尾州  岐阜のあいきゃうありても宮重大こんぶとく風味よくても

 

水戸  さけ相談をもうききはりつき少かうばしくても

 

紀州  忍苳酒きつく人により嫌ふ蜜柑いまだ少ゆへ

     死ますといひし女中はよがり徳いわれし公方ひとり損霊

 

 将軍が亡くなり、適当な後継者がいない場合は、御三家から将軍が選ばれることになっている。最有力は尾張藩主の吉通だ。あいきょうは、料理の名、宮重大根は尾張の名産品だ。御三家藩主を料理に見立て、尾張の名産品は風味がよいと評価し、将軍にふさわしい人物だとしている。しかし、吉通は将軍の座につくことはできなかった。

 

味の悪さの小鍋立

 

 将軍家宣の死後おびただしく詠まれた狂歌を『鸚鵡籠中記』の中に、文左衛門は数多く紹介している。家宣の後継者として最右翼と目されていた吉通に関して詠まれた狂歌を紹介しよう。

 

   鳶が鷹たかが尾張を養はでひよこにゆずる跡のあやうさ

 

「ひよこ」は家宣の子の家継である。尾張藩主に跡目を譲らないで、四歳の子どもに将軍の座につかせる。これでよいのであろうかとの危惧を詠んだものだ。

 

   あつあつと尾張大根もりはせで味のわるさの小鍋立かな

 尾張大根は吉通、小鍋立は家継を寓したものだ

   尾張をばたてそこないて四歳らし子の書置はあはれおかしさ

   
 寅の跡うはばみでこそはからめちいさい牛は床のおき物

 

 うわばみは蛇、吉通は巳年の生まれ。先の将軍家宣は寅年の生まれ。家継は丑年の生まれだ。

 江戸の庶民が狂歌に詠むほど、吉通が将軍の座に就く事は既定の事実のように受け取られていた。しかし予想を裏切り、将軍の座に就いたのは、四歳の家継だ。

 家宣は、病が篤くなり、新井白石に次期将軍に吉通を迎えたいと相談した。白石は、幕閣が幼君を補佐すればよいと反対して、尾張藩から将軍が誕生することはなかった。吉通は、三代藩主綱誠の長男として、元禄二年(一六八九)誕生した。元禄十二年にわずか十歳で四代藩主となり、正徳三年(一七一三)二十五歳で亡くなった。

 吉通の死は、あまりにもあっけなかった。渋江正軒が、吉通の遺体を見て、医師の大野方安に死因を尋ねた。方安は「頓死です」と答えた。「頓死という事があるか。遺体を見るに、死後相当の時間が経っている。どうしてそんな胡乱のことを言うのか」とつめ寄ると、方安は蒼白となって「たいそう困ったことです」と言うのみであった。

 死因については、結局食当りということで落着した。深酒をし、女色にふけるという生活が、吉通の寿命をちぢめたようだ。吉通の母親は本寿院だ。自由奔放な気ままな生活を送り、最後は屋敷内に幽閉された女性である。

 『鸚鵡籠中記』の正徳五年、七月十八日の項に、

 本寿院様、御花見の時、酒を少にても、もてこいと被仰候へども無之。大に御機嫌損じ、引かぶり御寝と云也。御乱髪なんどにて、御屋敷の大もみの木なんどへ、のぼり玉ふ事有と云也。

と記されている評判の女性だ。

 吉通にも、彼女の血すじが色濃く流れていたかも知れない。

 

尾張大こん今は切ぼし

 

 吉通の不審な死には幾つもの謎が残った。典医が側近く控えていながらも、死後幾日も放置された形跡、遺体が引き移された様子、死因も結局、あいまいなまま食当りということで結着した。

 吉通の跡を継いだ五郎太は、正徳三年(一七一三)八月二十九日に家督相続をし、その年の十月十八日には亡くなっている。数え年、わずか三歳であった。在位わずか二ヶ月に満たず、幼名のままの死であった。五郎太の死因についてもさまざまな憶測をよんだ。六代将軍家宣の死後、最も将軍の座に近いと言われた四代藩主の吉通、そして、五代藩主の三歳の五郎太の死、二人の死は謎のままに処理された。五郎太の後、六代藩主の地位に就いたのは、三代藩主綱誠の第十二男の継友であった。

 正徳六年、四月三十日、将軍家継が八歳で夭折する。家継の死で、徳川家の直系血筋は絶え、御三家の中から将軍は選出されることになる。順番からいえば尾張の継友が、後継者となるはずであった。

 

 四月二十九日、家継は危篤になった。三十日になり、午後二時老中から尾張藩邸に至急城中に上るようにとの書面が届く。駕篭の用意が急のこととて、できず馬に乗り、継友は城中に駆け出した。供の者たちも継友の後を追って、馬を走らせる。

 

 紀州家には、二十九日には内密に家継の容態は知らされていた。三十日、朝から藩邸内はざわめいていた。出入りの魚屋、油屋までもが何事が起こったか不審がっていた。正午、いつもより供回りも多く、吉宗は登城した。家老二人も、騎馬姿で吉宗に付き従った。

 

 吉宗についで水戸侯が登城。継友は一時間程おくれて城中に入った。四時頃、尾張と水戸の侯は、しほしほと退出し、吉宗だけが城中に残った。

 

 八代将軍の座を紀州に奪われた尾州藩をからかう落首が数多く流布した。『鸚鵡籠中記』は、そのうちの幾つかを紹介している。

 

   紀の国のみかん立花葉はさかり尾張大こん今は切ぼし

   尾張にはのふなし猿が集りて見ざる聞かざる天下とらざる

   世の尾張いかに成瀬と思ひしにはやとりあへずきいの城

   公方かきを紀伊国みかん植かへて引残されし尾張大根

   けふよりは紀伊につかへて尾張殿口おし家老竹の腰おれ

 

 尾張藩の成瀬、竹腰が無能であるがゆえに、将軍の座をやすやすと紀州に奪われる。江戸の庶民が尾張を見る眼は、冷たく鋭かった。

 家宣、家継と二人の将軍の死の後を継ぐことができなかった尾張は、二度と将軍の座をねらうチャンスはめぐってこなかった。

 

間者徘徊する

 

『鸚鵡籠中記』五月三日の記事に、次のような記述がある。

 江戸の町々にて「尾張衆はこしぬけじゃ、尾張大根もくさってはくらはれぬ。岐阜のあゆのすしおしつけられて、へぼ犬山の城主もここでは声がでぬ」なんど高笑にて云。

 江戸の商人にとっては、大名は恰好のからかいの材料だ。尾張藩が、手も足も出ず紀州に将軍の座を持ってゆかれる。五月三日、継友は、前日に城中に入った新将軍の吉宗に対面する。いたたまれない気持ちであったろう。

 さっそく次のような狂歌が出まわった

 引ぬかれ尾張大根からみなしそば切ださで見ともない事

 江戸で、自分たちが虚仮にされた狂歌が流布している。名古屋の町でも張り出されたら大変だ。五月十一日、「雑説狂歌等取扱まじき廻文あり」と文左衛門は記している。

 江戸の町でも「町中へ尾張様御事とやかく評判仕間敷よし、門々にてよばり候て触廻り候。ありきらしき者、家々へ入り云渡す。」と必死になって町方が、風聞を取りしまることに躍起になっていることがよくうかがえる。

 しかし、庶民は、そんなことでは引っこまない。腰板に長々と尾張藩をからかった文書を夜中に張る。それを翌朝に取りはずすということがくり返された。目付からは、下々には、絶対に知らせてはならないという厳命が下った。

 文左衛門は、紀州藩の間者が、尾張藩邸の周囲をうかがっている様子を記している。

 頃日。町々も尾公の御やしき及び水戸御屋敷以下、諸大名の屋敷へ、紀公の間者色々の商人になり来り、様子を聞と云々。三日にも尾の御やしきへ、紀の押の者薬売に成来る。御中間之内、見知りたる者ありと云々。知る人にあひてはきもつぶしたるてい也。是も作りもの也。わざとかくしてありくと云事を、しらすべきたくみなるべしと云々。

 水戸綱篠は高齢で、御三家のなかでも三番目の分家である。尾張と紀州では、御三家の筆頭は尾張家で、継友は将軍の最も有力な候補であった。吉宗が将軍になった理由は、徳川家康に血が最も濃いからである。吉宗は家康の三世代目の曾孫、継友は四代目である。

 しかし、江戸の町民は、家継が将軍になると信じていたので、数々の狂歌となって、尾張藩をやゆしたのである。積極的に閥閣や大奥に働きかけ将軍の座をねらった紀州藩に対し、尾張藩は消極的で何の工作もしなかった。それが成瀬、竹腰の両家老の無能をそしる狂歌となったのである。

 

かかる面白き世

 

 宗春は、いつも吉宗と対比して語られる。八代将軍吉宗は、テレビや映画の世界ではたえずヒーローであり、颯爽としている。宗春は、吉宗に陰鬱なかたちで対抗する損な役割で登場する。いったん決められたイメージを払拭するのは容易ではない。しかし、実像の宗春は、時代劇のなかの宗春とは、ずいぶんかけ離れているようだ。

『元文世説雑録』は、宗春を次のように紹介している。

 

 さても尾州宗春卿、先年温知政要御著述、慈仁の二字の意味御覚悟の趣き、世こぞって希代の名君と、打寄打寄評判し、世のとなへ大かたならず、犬打つ童部までも、宗春卿は慈悲者也と知る。土民漁民までも、釈尊出世の思いをなし、周公孔子といふとも、これに過ぎじと聞伝へ聞伝へ、感涙を流し奉る事ななめならず、夫に付城下の繁昌も、他国にならぶものなし。能く宗春卿の仁徳をしたひけるに也。

 宗春は希代の名君である。釈尊の生まれ変わりであり、周公や孔子といえども、宗春には及ばないと最高級の賛辞を書き連ね絶賛している。

『遊女濃安都』も、宗春を次のように絶賛している。

 老若男女貴賤共にかかる面白き世に生れあふ事、是只前世利益ならん。仏菩薩の再来し給ふ世の中也と、善悪なしに有難し、有難しと、上を敬ひ地を拝し、足を踏締なく、国土太平、末繁昌と祈楽み送る年こそ暮行ける。

 宗春の治世下の尾張は「かかる面白き世」で、こういう面白い時代に生まれてきた幸福を感謝し、宗春は仏菩薩の再来であるとほめたたえている。

「かかる面白き世」とは、宗春が西小路・葛町・不二見原に遊廓を開いたことや、常設の芝居小屋を開いたこと、祭礼を奨励したことであろう。芝居好きの朝日文左衛門などは、編笠をかぶり、同心の目をかすめ、用心に用心を重ねて芝居見物をしている。好きな道はやめられない。それが誰はばかることもなく堂々と見物できる世になったのだ。

 名古屋の町は活気にあふれ、諸国から名古屋の町に商売人が多く移り住んできた。人が多く集まれば、金が動く。生活のための物資が必要となってくる。移住してきた職人たちにより、新しい技術が伝わる。産業は振興し、名古屋独特の技術が誕生する。

『享元絵巻』に描かれているような賑やかな町が、宗春の登場とともに登場した。宗春は、一つの意図をもって、名古屋の町を変えようとしたのである。それは、八代将軍吉宗を意識した、吉宗と正反対の治政を行なおうとするものだ。吉宗への挑戦であった。

部屋住みから藩主に

 
 吉宗と宗春とは、生活信条、政治に取りくむ姿勢、すべてが対照的であった。しかし、二人の生まれついての境遇、藩主に即位するに至る経過には、幾つかの共通点がある。

 二人とも部屋住みの子として生まれた。紀州、尾張という御三家の藩主になるとは、夢にも考えられない身の上であった。なれないはずの藩主になった。幸運が舞いこんだからには、自分は思い通りに、自分の信ずるままに藩政に取り組もうと吉宗も宗春も考えたに違いない。

 吉宗は貞享元年(一六八四)、紀州二代藩主光貞の四男として誕生した。母はおゆりという婢女であり、お湯番をしている時に、光貞の目に留まり、吉宗を身ごもった。部屋住みの庶子の苦難時代を過ごし、越前丹生三万石の藩主に取り立てられたのは、吉宗の幸運の第一歩であった。宝永二年(一七〇五)、光貞の長男、三代藩主の綱教が亡くなる。その年の九月、綱教の第四代藩主の頼職も亡くなる。光貞の三男は他界して、すでになく、吉宗に紀州藩主五十五石の地位が転がりこんできた。

 越前丹生の城主から紀州の藩主、さらに幸運が吉宗に舞いこみ、八代将軍の地位が舞いこんだのは、正徳六年(一七一六)であった。

 吉宗と将軍の座を争い、一敗地にまみれた宗春は、三代尾張藩主綱誠の二十二番目の男子として元禄九年(一六九六)に誕生した。父親の綱誠は二十二男、十八女の子供があった。兄、吉通は四代藩主、継友は六代藩主となったが、二十二番目の男子としての宗春は部屋住みの日のあたらない未来しか約束されていないように思われた。それが享保十四年(一七二九)には奥州梁川の三万石の領主に取り立てられた。

 さらに、継友の後を継ぎ、尾張藩七代藩主の地位に、その翌年に即位することができた。綱誠の二十二番目の男子の宗春が藩主の地位に就くことができたのは、継友に後継の子はなかったからである。綱誠の男子の中で成人することができたのは、藩主の地位に就き、すでに亡くなった吉通と継友の他、兄の通温と高須松平家を継いだ義孝である。義孝は病弱で、享保十七年に病没。通温は、八代将軍の座を紀州と争い、尾張が敗れたことに腹を立て、酒びたりの生活に陥り、継友に反抗的態度を取って城下で幽閉され、享保十五年、悲憤のなかに亡くなった。

 吉宗と宗春、二人とも、部屋住みの身から思ってもみない幸運に恵まれ、御三家の大名の藩主に就くことができた。吉宗は、さらに将軍の位も手に入れた。それに、憤って死んだ兄通温。そして江戸の町におびただしく張られた尾張をからかう落首の数々。

   尾張にはのうなし猿が集りて、見ざる聞かざる天下とらざる

 尾張藩士は、肩身の狭い思いで江戸の町を歩いたことであろう。藩が一つにまとまっていない。将軍の座は、棚からぼたもちが落ちてくるように、手をこまねいていてはまわってこない。宗春のプライドは、ひどく傷ついたことであろう。一敗地にまみれた新将軍吉宗に対し、ふくむ所もあり、彼とは対照的な生き方、政治的な姿勢を宗春は取りつづけることになる。

白牛に乗る宗春

 部屋住みとしての生活を生涯送らねばならない運命の星の下に生まれた吉宗と宗春に、思いもかけない幸運が待ちうけていた。兄たちが相ついで亡くなり、藩主の座に就くことができたのである。似たような境遇に生まれた二人は、生まれながら藩主の地位が約束されている大名と異なり、庶民の心が理解できたのである。人々のくらしを豊かにし、人々が安心して生活することのできる政治を行なおうと努力した。

 しかし、二人の治政に対する取りくみは、全く対照的であった。

 将軍の地位に登りつめた吉宗は、倹約を奨励し、自ら率先して、下着は木綿以外は用いず、衣服は粗末な縮帷子を好んでまとった。食事も蔬菜料理を好み、品数もきわめて少なく、酒も飲む量を決めていた。家臣の華美な服装や派手な生活態度を厳しく取りしまった。享保三年(一六三九)には、一般市民に衣服の制限を厳重にし、違反したものは、捕えるという命令を発した。衣服、食事から住居、冠婚葬祭、節句などの行事に至るまで、細かく制限をするという態度となった。

 倹約を奨励するとともに、風俗の取り締まりを厳しく行なった。絵草紙の出版を禁止し、遊女街を取り締まった。

 将軍吉宗に対抗するように、宗春の政治に対する取り組み方は全く正反対のものであった。『温知政要』に宗春は次のように述べている。

 惣じて人には好き嫌ひのあるもの也。衣服食物をはじめ、物ずき夫々にかはるもの也。しかるに我好むことは人にも好ませ、我きらひなる事は人にも嫌はせ候やうに仕なすは、甚だ狭きことにて、人の上たる者べっしてあるまじき事也。

 倹約を奨励し、尚武の気風を尊ぶ吉宗をまるで皮肉っているようである。人間には、それぞれの好みがある。人間の本性を尊重し、のびのびと人々がくらせる社会をつくりたい。宗春の姿勢が、この一文に要約されているようである。

 宗春は、禁止されていた遊所や芝居小屋を許可した。自らも白牛を買い入れ、猩々緋の羽織を着て、唐人笠をかぶり、五尺ほどもある煙管をくゆらせながら、町を練り歩いた。

 西小路・葛町・不二見の遊廓の賑やかさが『享元絵巻』の中に描かれている。人々の浮々とした姿、賑やかな町の様子、名古屋の繁盛を聞きつけた人々は名古屋に集まってくる。名古屋は空前の賑わいで、活気にわきたった。厳しい規制の享保の改革で、火の消えたようになっている各藩の中で、名古屋の町だけが、活気だっている。自分にあてつけるような宗春を、吉宗は許すはずもない。宗春は元文四年(一七三九)隠居慎を命ぜられ、幕府の役人の監視の下、椛町の屋敷に入った。

治にあってよき乱にあってよき谷

 

木曽谷が尾張藩の領治になったことは、藩が経済的に潤ったばかりではない。木曽は軍事的にも重要な地であった。

 『円覚院様御伝十五ケ条』に、次のような記述がある。

 然るに我尾張の国は四方の国中にして、他国へ討て出るには甚だ自由にして利有。引受て国中へ敵を入たてては戦ひ難し。ゆへに、信長公いつとても出かけて之合戦多し。今川義元は平押に切て上られしゆへ、不止尾張へふみこませてしかけられし。其外はみな客戦のみにて主戦なし。まづ伊勢・三河などに敵をうけては、海陸のふせぎに人数いりぬ。智多郡東浦、西浦に舟つき多く、熱田より佐屋まで之あいだにも舟つき多し。又三河から陸も入口多し。此国之便利は、美濃より木曽へとりつづけて、これを根城になすがよし。畢竟木曽へ引籠りて、開運の時節を待て窺ふは、楠が千破剣・金剛山に蟄居して時節を窺ひしに同事ぞ。依て千村、山村を始めとして、谷中の者共、下が下迄も能々恩恵を施して親附し、二心なき様になすべし。

 円覚院とは四代藩主吉通のことだ。尾張の国は、敵に攻められたら守るに難しい地だ。いったん木曽谷に退き、そこを根城地として、時節到来を待てという教えだ。そのためには千村、山村を始めとして、木曽谷の人々に恩恵を施し、藩に対する忠節心をうえつけなければならないと述べている。

 千村平右衛門・山村甚兵衛は関ケ原合戦の時、家康に味方し、功のあった武将だ。二人とも木曽義昌の家臣で、主家が秀吉によって滅ぼされた後、木曽谷に蟄居していた。関ケ原合戦が起こると石田三成の命を受けた犬山城主石川備前守が木曽谷を塞ぐという挙に出た。

 二人は家康の面前に呼び出され「この谷は長く、浪人百姓までが鉄砲をたしなみ、木曽谷に精通していない者が幾千人攻めても、とても落とすことはできない。お前たちが一族をひきつれ軍功に励んで、早々に石川備前守を追い払いなさい」と命ぜられた。

 二人は、浪人を集め、家康が加勢として遣わした小笠原靭負、今泉五助、遠山久兵衛と力をあわせ、苗木城、岩村城、犬山城を落とした。

 合戦が終わり、家康に向かって山村甚兵衛は「木曽谷は要害の地である。今度の合戦でも西軍を追い払うのに手間どりました。木曽谷は、乱世には充分に注意しなければならない地です。治世には良木があって財政を潤すよい地です」と言った。

 山村甚兵衛の木曽谷について述べた乱世には注意すべき地という評は、円覚院が木曽を根城にせよという教えと表裏一体をなすものだ。

 春姫の化粧代として、尾張藩に木曽谷を渡した家康の意図も、最愛の子ども義直に、乱世は軍事的に、治世には財政的に役立つ地を与えたいという思いがあったからではないか。

木曽谷を返せ

 春姫の化粧代として、家康から下賜された木曽の山林は、尾張藩に莫大な利益をもたらした。

 享保十五年(一七三〇)七代藩主の座に、思いもかけないかたちで、宗春が家督を継ぐことになった。将軍の座を紀州藩主の吉宗と争い、敗北した兄の継友の後を継いだ宗春は、自分が尾張藩の家督を継ぐとは夢にも思っていなかったであろう。なにしろ宗春は、三代藩主綱誠の二十男だ。将軍の座に就く機会は、四代藩主の吉通にもあった。あたらチャンスを逃がした吉通の亡くなった後、藩主を家督した五郎太は、わずか在封三カ月で亡くなってしまう。

 そして、兄の継友は無念の思いを残し、はしかにかかり亡くなってしまう。将軍による暗殺ではないかという噂も乱れ飛んだ。

 家康が、義直に木曽山林を与えた時が、もっとも江戸と名古屋とが密接に結ばれていた時ならば、宗春が藩主の時代は、もっとも疎遠な関係にあった時期だ。

 吉通は、五郎太が藩主の座に就くための教えとして、木曽は治世にあっては財政的に、乱世においては軍事的に役にたつ地だと言い残した。

 宗春は、大がかりな巻狩りを享保十八年(一七三三)に計画した。瀬戸の水野山を中心に藩士たち一万人、農民一万人を動員しての合戦の訓練をするような計画であった。計画を聞いた老臣たちは驚き、即座に巻狩りは中止された。

 中山道を渡り、江戸に攻めこみ幕府を転覆させる考えを宗春は持っていたかも知れない。

 もし、噂にあったような江戸と尾張との戦いがあったら、間違いなく木曽谷は吉通が教えたように、主戦場になっていたであろう。

 江戸と名古屋が激しく啀み合っていたこの時期に、幕府より木曽谷を返してほしいという話があった。

 『趨庭雑話』は、次のように伝えている。

 章善公の時、幕府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 

 幕府の難題に対して、返してほしければ、返してやろう。しかし、川は返すことはできないとは、なんとも見事な切り返しだ。ぐうの音も出なかった老中は、それから木曽谷を返せとは言わなくなった。

 将軍吉宗に対抗し、ことごとく江戸の意に反する行動をとった宗春は、とうとう元文四年(一七三九)家督以後不行跡であるとの名目で蟄居閉門を言い渡される。

 木曽谷を三ツ葉葵の紋のついてない駕籠に乗り、江戸四ツ谷の藩邸を出て名古屋にもどる宗春は、どのような思いで、木曽の山々をながめていたであろうか。

 

 

宗春の犬山巡幸

 初代藩主義直、二代藩主光友は鷹狩りを好み、義直は元和九年(一六二三)、寛永元年(一六二四)、光友は万治元年(一六五八)に鷹狩りを楽しみながら犬山に遊んでいる記録がある。

 犬山城主成瀬隼人正の犬山を訪れることは、四代藩主吉通以降は通例となった。

 吉通は宝永六年(一七〇九)十一月二日、午前四時に名古屋城を出発し、小牧御殿で昼食、二の宮を参拝し、午後二時に犬山に到着した。

 犬山の町は藩主を迎えるために、岐阜や名古屋から大工、左官を呼んで町家の装いを新たにしたという。

 六代藩主継友は享保二年(一七一七)に犬山にきている。犬山城主正幸は自ら犬山橋爪村大廻りまで迎えに出ている。

 質素を宗とする八代将軍吉宗に対抗するようなかたちで、名古屋の町に三つの遊郭をつくり、華美なかぎりを尽くした七代藩主宗春の犬山への巡幸は、にぎやかなものであった。

 『ゆめのあと』は宗春の享保十六年(一七三一)十一月二日の犬山訪問を次のように書いている。

 十一月朔日犬山御成に付、御供中花々敷出立思々。朔日小牧へ着御。翌二日犬山へ御成。其夜小牧へ帰御。翌四日宮田へ御越。小折村、生駒田幡屋敷へ被入、夫より追々御小休にて御帰城被遊候。小牧小折にて踊有之、御上覧。

 此節、成瀬半左衛門へ新知三千石被下置候て、諸事於犬山御首尾残所なく、毎日毎夜御道筋、小牧も踊にて大騒ぎ、賑々敷うはさ有之候。

 宗春は小牧の鷹狩りの途次、立寄るという名目の犬山巡幸であった。

 小折では村民が踊りの輪でもって宗春を迎えている。「毎日毎夜御道筋、小牧も踊にて大騒ぎ」という表現には、踊りの好きな藩主をにぎやかに迎えている村民の感じがよく出ている。「下に下に」というお触れで、畏まって殿様を迎えるのではなく踊りで迎えるという破天荒なものであった。

 白綾に花鳥を染めた派手な羽織に、濃い紅の袴を着用している宗春。白地に花鳥を様々にあしらった羽織に、花やかな織物の袴の供の武士。着ているものも派手なら、馬も紅紫の厚房、金銀蒔絵の鞍と鎧とをつけている派手なものであった。

 隼人正から宗春に献上したものは、備前光宗御刀一腰代金十五枚、御馬一匹鞍置栗毛、奈良産作り物等であった。

 立寄りであるから、犬山城には泊まらず真夜中の十二時に、宗春の一行は、あわただしく出立をした。

 総勢八百九十一人の行列が、松の丸から大手門に至る両側に二、三間置に提灯がかかげてある中を小牧に向かった。

 宗春が小牧で泊まるのは小牧御殿である。

 小牧御殿は、寛永二年(一六二五)に、義直が鷹狩りをした時、江崎善左衛門の屋敷に立ち寄り、小牧山を望む景観と蟹清水のわき出る庭園が気に入って御殿にしたという。御殿の敷地は約二三五〇坪あった。

 稲置街道は、参勤交代の道としても使われた。

 『金明録』は文政元年(一八一八)三月十三日の参勤交代を、次のように記している。

 十三日、御前御発輿、木曽路御下向。

 西鉄御門より出御、東大手より志水口へ御通行也。大御番組より小普請、御医師迄、玉置氏構へ罷出、御目見衆石河侯前ヘ罷出、当月二日御発駕之筈の処、木曽雪深故、今日に成。但し夜前より雨天。

 此度、大家衆の御供多故、殊の外、御行列見事也。雨天にて残念。

 この月の十日、紀州侯が、本町通りを行列し鳴海に泊まった。『金明録』には「近年御倹約に付、御同勢少し」と記しているが、尾州侯の「御行列見事也」とは、対照的だ。


第三回 変った殿様 困った家老                沢井 鈴一

聖聡院様御船行列之図

 

 堀川を紹介した数多くの絵画の中では森玉僊の『名古屋名所団扇絵集』のうちの「堀川花盛」が最もよく知られた絵であろう。

 遊覧船が何隻も堀川に浮かんでいる。なかには芸者が乗り込んでいる船もある。船の中から桜を愛でている、どの人の顔も春爛漫の景色を楽しんでいる様子が生き生きと描かれている。橋の上からも、何人もの人が川を眺めたり、岸辺の桜を愛でている。岸に建てられた桟敷には提灯が吊され、花見の賑やかさがうかがえる。往来を歩く人も、今を盛りと咲き誇る桜を楽しんでいる様子が表情によく表れている。武士も、町人も、老いも若きもみな満開の桜に遭遇できたことを喜んでいるようだ。筏を流している人も思わず桜の美しさに見とれているようだ。花見の季節に川で泳いでいる人も描かれている。

 この一枚の団扇絵を見ることによっても堀川の花見が、いかに当時の人々に享受されていたかがわかる。それはまた、人々の楽しみの中心が堀川であったことの証明でもある。

 堀川に桜を植えたのは御普請奉行の堀弥九郎だ。文化元年(一八〇四)に日置橋の両岸に桃と桜を数百本植えたのが、十数年後には名古屋屈指の花見の名所となった。

 団扇絵の作者、森高雅は『尾張名所図会』に「堀川日置橋より両岸の桜花を望む図」を描いている。両岸の満開の桜花を、橋の上から見入っている人々を描いた図だ。

 

  両岸日置橋より北の方、西水主町まで数町の間、数百本の桜樹ありて、弥生の頃は貴賤袖をつらね、両岸に往きかふ群衆、水には船を泛べて、上下に花を賞するさま、さながら嵐山・隅田川の春興にも劣らぬ勝地なり。文化年中、府の世臣堀氏、数百根の小樹を植ゑ並めしが、今は繁茂してかくのごとし。

 堀川の桜を江戸の隅田川、京の嵐山に比肩するものと賞賛している。

 高力猿猴庵は『尾張年中行事絵抄』に「太夫堀川並桜」を描いている。日置橋を画面の中心に置き、両岸一面に咲いている桜を描いた図だ。

 高力猿猴庵が描いたものと推定されている『堀川御船御行列之図』がある。

 これは享和二年(一八〇二)の聖聡院(從姫)の船遊びの様子を描いたものである。日置橋から納屋橋までの御船行列をする從姫の一行と、それを見物する群衆が画面一面に描かれている。尾張九代藩主宗睦は世子に恵まれなかったので、分家の高須家より養子として治行(一七六〇〜九三)を迎えた。この治行の夫人が紀州藩主宗将の娘の聖聡院(一七五七〜一八〇四)である。

 聖聡院が夫と義父の廟所参拝と気鬱の養生のために江戸の藩邸を出立したのは享和二年(一八〇二)八月二日のことであった。名古屋に到着した聖聡院を見ようと人々は、彼女の出かけるいたる所に押しかけた。その騒動が、最も高まったのが九月十五日と十月十五日の堀川での船遊びであった。

 その時の様子を高力猿猴庵は、日記の中に次のように書き記している。

  御昼時、御船藏ニ而御休息有て、夫より新田端を下へ御行列。彩鷁丸は大船故、汐干ぬ内に、空舟にて、御先へ出し、新開堤辺にかかる。御船藏よりは、御召替、常盤丸に御乗船にて、御行列也。拝見之輩、群衆せり。新田端にて、漁夫の業を御上覧有。蜆とり、穴さぐり等、いろいろの業を御覧。魚類、大分に取れ候由。此漁夫、若き者は出る事ならず。四十歳余之者計り。各、新らしき半天・じゅばん、りっぱに拵、まかり出候よし。又、御水主組之内、鯨取の真似を御覧のよし。御帰り、夜に入、四つ比、堀川御行列也。御先舟にてざいをふり、ほら貝、太鼓にて殊に賑わし。拝見之者数多、街に群衆す。

 『御船行列之図』には何隻もの警備船が描かれ、いかめしい警戒の元に船遊びがなされたことがわかる。警備船に囲まれるようにして、ひときわ華やかな飾り付けをした彩鷁丸が描かれている。船の上では、太鼓がたたかれ、賑やかなものだ。

 葵の御紋もいかめしく、幕をたらした船が朝日丸だ。

 この絵の最大の魅力は御船行列を見物している群衆だ。いったい何人の見物人が、この絵に描かれているのだろう。何百人、いや何千人の人が描かれているかもしれない。老若男女、あらゆる階層の人々が両岸より、御船行列を見物している。

 御船行列だけでなく、聖聡院の出かける所、どこもかしこも人並みであふれた。怪我人が出る騒動も起こった。

 聖聡院が名古屋に到着した十八日、この日は特に見物の人が多く街に溢れ出た。中でも本町通りは人並みで埋まった。

 桜之町西南角の煙草屋では店の下に穴蔵があった。縁の下のねだが朽ちていたのを、そのままにしてあったが、見物人が多く上がったために、縁の下が壊れてしまった。穴蔵に大勢の人が落ち、その上に店の戸棚が落ちてきた。戸棚の中にあった包丁が、運悪く見物人にあたって大騒ぎになった。

 九月十三日には、聖聡院は植田山に松茸を取りに出掛けられた。東大手より京町通りを行列し末森から蝮池に出る。そこからは歩いて山に入られた。五千本余りの松茸があった。聖聡院が山に入られるために、わざわざ入れた松茸もあったであろう。そのうちの二千本を盗んだ泥棒がいた。三人連れの松茸泥棒のうち二人は役人に捕まり、牢に入れられた。一人はどこかに逃亡した。

 文化元年(一八〇四)八月十四日、高力猿猴庵はただ一行のみ聖聡院のことを書き記している。

  聖聡院様、御葬送。

 船遊びで、名古屋の人々が浮きたったことが信じられないほどの、あまりにもあっけない死であった。

 春、屋形船の中から日置橋に咲き誇る桜を見物する日はこないであろうか。夏、涼風に吹かれながら船遊びをする日は、来ないであろうか。

 その日はまた、かつての船遊びのように、堀川が人並みで埋まる日であろう。

成瀬隼人正内尾張中納言様

 尾張藩中興の祖、九代藩主の宗睦は、子どもに恵まれなかった。寛政十一年(一七九九)、宗睦の死とともに、藩祖義直の血統は絶えてしまう。明君宗睦の後を継いだ十代藩主斉朝は、一橋家から尾張藩に養子として迎えられた殿様だ。

 尾張藩にとっては、押しつけられた、藩とはまったく関係のない殿様の入城は、面白くないことであったろう。斉朝を積極的に、名古屋に迎え入れる工作をしたのは、老中水野忠成と成瀬家六世の正典だ。

 江戸では、将軍の家斉の実父、一橋治済と水野忠成が権勢をきわめていた。二人に取り入るために賄賂が横行していた。

 成瀬家は、犬山城三万五千石城主でありながら大名ではない。尾張・三河・美濃三国のうち成瀬家より石高の多いのは、大垣(十万石)、吉田(七万石)、西尾(六万石)、岡崎(五万石)、郡上八幡(四万五千石)の五藩しかない。他の十一藩は成瀬家よりも格下の田原藩、苗木藩のような一万石か、それよりも石高の多い小藩ばかりだ。たとえ小なりといえども大名は、大名として扱われる。小藩の大名よりも石高が多く、立派な名城を持っていても家老は家老だ。なによりの屈辱は、江戸城に上っても、大名に与えられている詰席(溜)がないことだ。

 成瀬家は、御三家の他の家老、竹腰(尾張)、安藤、水野(紀州)、中山(水戸)とはかり、大名に昇格する運動を猛烈に行なった。

 大名昇格運動に、もっとも熱心だったのは、文政三年(一八二〇)に亡くなった正典の後を継いだ正寿(まさなが)だ。正寿は、水野忠成の言うことを何でも聞き入れた。文政五年には、家斉の十九男、斉温を養子にして迎え入れることを承諾する。そして、文政十年(一八二七)には、三十四歳の若さであるにもかかわらず、斉朝を隠居にさせ、わずか八歳の斉温を十一代藩主にすえた。

 斉温は、在位十二年間で、一度も名古屋の地を踏むことはなかった。そして、正寿は、頼りない藩主を補佐するどころか、大名昇格運動に、江戸で忙しい日々を送っていた。国元をまったく省みない殿様と家老をいただいた尾張藩は疲弊しきってしまう。

 『松涛棹筆』に奥村徳義は「昔は江戸往来にも家中の札、成瀬隼人正内某と書たる由。近来は尾州犬山誰某と札かく様になれり」と成瀬家が尾張藩の家老ではなく、独立した大名のような振舞いをしたことを書き記している。

 また「文政の比、時の諺に成瀬隼人正内尾張中納言様なりとぞ申ける」とも書き記している。六十一万石の藩主が、三万五千石の家老成瀬の家臣であるかのような振舞いが正寿にあったということだ。「犬山家中といへば、いかなる御役人衆も道をよきて通す有様」であった。

 正寿が、名古屋を留守にして、江戸で大名昇格運動に熱中しておれば、城主のいない犬山では、博奕が盛んに行なわれていた。『松涛棹筆』は、次のように記している。

 犬山市中に於て交易市と号し、矢来構を拵へ番所を置て、其内にて博奕を行ふ。日本中の博打悪党寄集りて、年々初夏に一度大賑合なり。犬山は御番城故、何事も村々一統の通、御勘定所より見廻も有之処、此市の事は一向、隼人正殿手限にて外の手を差事ならず。犬山近村の百姓若者共博打に負て百姓成がたき者有り、難義に及由。右市御停止候様、小牧・北方御代官へ願出といへども、手指ならぬ事なれば只行たるがあしき也。

 上が上なれば、下も下、犬山の城下は治外法権の無法地帯の様相を呈してくる。

 国許を顧みず、江戸で幕府の要職の人々に取り入り、請願をくり返すものの、大名昇格運動は功を奏しなかった。

おかしな殿様と家老

 三家の筆頭、尾張の殿様が国元に帰らず、江戸住まいのまま十三年が経過した。藩主を補佐する家老の成瀬正寿は、藩の政治を顧みず大名昇格運動で頭がいっぱいだ。

 藩主は、金にあかして造った戸山の庭園に、何度も将軍家斉を迎えて優雅な生活を送っている。国元では飢饉で、人々が苦しみにあえいでいた。

 こんな殿様はいらない。こんな家老はいない方がよい。口には出して言わないが、名古屋では怨嗟の声が、満ちあふれていたであろう。

 天保八年(一八三七)八月十四日には、大暴風雨が名古屋を襲った。疫病も流行し、餓死病死とおびただしい数の人々が亡くなった。

 天保十年、藩主斉温が、江戸市ケ谷の藩邸で亡くなった。斉朝、斉温と二代続いて尾張藩とはまったく関係のない殿様を押しつけられてきた。尾張藩では藩祖義直の血筋が絶えないよう、義直の孫義行が高須松平家、義昌が大久保松平家、友著(ともあき)が川田久保松平家を興した。直系の男子がいない場合は、この三松平家より養子を迎えて藩主とすることになっていた。高須藩には松平秀之助(後の慶勝)という英邁のほまれ高い人物がいる。この人こそ次の藩主だと名古屋では期待をして待っていた。

 しかし、名古屋の期待は裏切られた。十二代藩主となったのは、田安家から養子として迎えられた斉荘だ。

 『当てはずれの面々』(杉浦明平・岩波書店)は、斉荘を「浮世の有様」という本からの引用として、次のように紹介している。

 

 元来田安中納言(斉荘)殿と申すは、(しゅく)(ばく)の弁もなき人にて、少しも取り所なき愚人なり。その上に、衆人忌み嫌う所の蛇を寵愛し、長さは一間半ばかりより短きは尺ばかりなるをたくさん養い置き、側をはいまわらせ、膝にのせ、懐に入れ、腰に巻かせなどして、これを楽しみ、少しも余念なしという。

 近習・小姓・女中の類、御側近く召し使わるる者は、いずれもこれを取扱させ、その人迷惑なる様子なれば、蛇に命じてその者の咽喉を巻かしむ。蛇もよく馴れてその通りをなすという。

 その(田安)家を捨てて当主が外の家相続すること古今その例を聞かず。その上、田安家は御三卿にて十万石、尾州は六十一万九千五百石の知行なり。尾州のこれを拒めるももっともなり。世間の批判まぬがれがたし。……成瀬隼人正(正住)切腹せしという噂なり。

 

 成瀬正住は、父正寿(まさなが)の後を継ぎ、天保九年犬山城主となった。時の老中筆頭は、浜松城主の水野忠邦だ。斉荘は将軍家斉の十一男で、田安家に養子入りし、さらに尾張徳川家に養子入りをした。「古今その例を聞かず」とあるが、強引に尾張藩に押し込んだのは、大御所家斉の意をうかがう水野忠邦だ。水野忠邦の意向を受け入れたのが成瀬正住だ。

 「切腹せし」というのは噂であったが、藩中の風あたりは強かった。

 『松涛棹筆』は、「江戸にて隼人正殿、御老中水野越前守殿と事をはからひ玉ひ、御家を奪ひ玉ふが如き仕業とて、諸番の諸士蜂起。終に隼人正殿の御身の落日と成たり」

 切腹はまぬがれたが、正住は犬山で蟄居することとなり、天保十年八月十三日に犬山に到着した。

 蛇殿様の斉荘が一度だけ犬山を訪れている。天保十四年十一月のことだ。天保十三年の犬山大火で焼失した犬山城の修復を記念して犬山に来たのだ。犬山城に来た斉荘は、この地で二泊している。火事は前年の六月二十二日の昼に起った。余坂村の瓦屋から出火し、おりからの烈風で余坂は全焼、魚屋町から新道通に移り火は犬山城内にまで至った。一度も戦禍にあわなかった犬山城も、この大火では門や櫓を焼失した。

 火事の当日、正住は名古屋の中屋敷にいた。犬山から火事の報せが、何度も早馬で届く。しかし正住は腰を上げようとしない。さすがの斉荘も「隼人正は何として居る。犬山へは早く行ぬか」と言った。

 馬で正住は犬山に向うが、途中、馬が爪を割ってしまって、犬山に着くのが大巾に遅れてしまった。犬山では、北隣の美濃からも、多くの人々がかけつけていた。『松涛棹筆』は「犬山の北隣美濃の地より御旗本衆何れか二家程は人数被出、犬山に到て働く由。然るに本主は不被至、人望噂不宜と云々。」と記している。

 

鉄砲で討たれた殿様

 

 唐津藩の藩主松浦静山の『甲子夜話』に、次のような話が載っている。

 

 明石侯旅行の状を見しに、駕廻徒士の輩、皆脇差一刀のみ帯び、半てん股引にて野服の体なり。その陪僕は侯の槍馬の後より、各その主の刀を革袋に納れてかつぎ群れ行く。

 

 明石侯、松平斉宣が尾張領を通り参勤交代をした時の様子を記した文だ。参勤交代といえば、仰仰しい出立で、「下に下に」のかけ声もいさましく通行する姿が思い浮かんでくる。大刀を帯びずに、脇差を差し、半てん股引の装いでは、武士ではなく町人の通行のようだ。

 なぜ、このような服装で明石侯は、尾張領を通行したのか。これは酔狂でしたことではない。やむをえず、耐え難い恥辱をこらえての参勤交代であった。

 松平斉宣は、徳川第十一代将軍家斉の第五十三子であった。明石藩に養子入りし、藩主の地位を継いだ。

 この殿様が参勤交代で中山道を通り、江戸に上る途中、薮原の宿で、三歳の子どもが行列の前を横切った。大名行列の「道切り」は厳禁されている。怒った殿様は、三歳の女の子を切りすて御免とばかりに切りすてた。

 切りすてられたのは猟師源内の子どもであった。薮原の宿の人々は嘆き悲しみ、娘の死を悼んだ。

 尾張藩としても、いかに将軍の息子のしたこととはいえ、黙って見過ごすわけにはいかない。御三家筆頭の面目にかけても、決着をつけなければならない。明石藩に対して、今後、当家の領内を通行することを禁ずると申し渡した。東海道を通るにしろ、中山道を通るにしろ、尾張藩内を避けて江戸に参内することはできない。しかたなく町人の風体のようにして、尾張藩の領内を通ってゆく仕儀となった。

 弘化四年(一八四四)六月二日、明石侯は薮原の宿で、自分が切り捨てた三歳の娘の父親、喜内の放つ鉄砲によって討たれてしまった。

 

 大名行列が他藩の領内を通過するにあたっては、このような例もあるので、たいへん気をつかった。

 「下に下に」という行列の制止声も、御三家に限ったもので、他の藩では制止声はなく、道を妨げる者があれば「脇へ寄れ」と注意するだけであった。

 御三家と道中で行きあわないように、他の藩は、注意の上にも注意を重ねた。突然、御三家と出会った場合には遁走をする大名もあった。

 

 尾張藩は、中山道を通れば贄川までは、何の気がねもなく通行することができる。しかも、藩内の様子を聞くことも、見ることもできる。のどかに、気ままに江戸に向かうことができる中山道の道中は、藩主にとっても楽しいものであった。

 

まつりと殿様

 

 歴代藩主は、祭の当日の十七日、日の出とともに装束姿で、東照宮に参拝するのが習わしであった。藩主が拝殿に入るとともに管絃の音色が境内に響きわたる。拝礼が終り、裃姿に改めた藩主が上覧場所に向うのは、五時頃であった。供の家臣たちは、上覧場所の下に莚を敷き、そこで祭見物をした。

 藩主の上覧場所は、寛文年間(一六六一〜一六七三)は渡辺半蔵・成瀬隼人等の屋敷内であったが、天和二年(一六八二)に上覧のための桟敷が完成し、以降はそこでの上覧となった。

 

 歴代藩主のなかで、最も祭好きな殿様は十代藩主の斉朝である。尾張藩中興の祖と呼ばれた九代藩主宗睦は、子どもに恵まれなかった。明君宗睦の後を継いだ斉朝は、一橋家から尾張藩に養子として迎えられた殿様だ。藩祖義直の血統は、斉朝の入城とともにとだえてしまう。尾張藩にとってはまったく関係のない殿様の名古屋入りは、迷惑この上もないものであったろう。

 斉朝の亡くなった後を継いだ斉温、そしてその後の斉荘と三代にわたって、尾張藩は江戸から藩主を押しつけられることになる。藩にとっては、暗愚な殿様を迎え、不幸な、活気のない時代がつづく。

 斉朝の時代の文化二年(一八〇五)には倹約令を出すも、物価は騰貴し、家臣の生活は難渋をきわめていた。一万石の大身、石河太八郎でさえも勝手向困窮の理由で職を辞するという時代であった。斉朝は、たいそう変った殿様であった。お祭り好きの伊勢門水は、お祭り好きの殿様、斉朝の変人ぶりを『名古屋祭』のなかで、好意をもって紹介している。

 

 斉朝卿はお祭り好き様と迄蔭で申上た程の御方で、生涯婦人を寄せつけ給はず、常に大瓢箪を持たせて御出まし有り、往来に床几を召し御瓢箪の御酒盛を遊され、御意に叶ひし者は乞食に迄も御盃を下さるといふ磊落至極な御殿様で、門前町三国一の親爺の顔が大黒に似ているとて大大黒といふ名を下されたも此殿様。大久保見町の花屋の親爺の顔が非常に御嫌らひで、此町丈けは廻り道して御通行のなかった事や、其外いろいろの御奇行がある。

 

 好き嫌いの非常に激しい殿様であった。殿様お気に入りに、若宮祭の黒船の綱引をする藤四郎という美男子がいた。娘たちはお祭りよりも藤四郎の顔を見におしかけるほどであった。

 藤四郎が城の四阿家新築工事に出向いた時殿様がのこのこと出てきて「お前は小判を見たことがあるか」とお尋ねになる。「ありません」と答えると、それでは「これをお前にあげよう」と十両小判二枚を下されたという。

 鶴重町の忠兵衛という男は、大男で色が黒く、眼玉がきりきりとした容貌であった。この男も、城内の作事現場で殿様の目にとまり、「あれは弁慶じゃ、七間町の弁慶じゃ」と言って喜ばれ、ひいきにされたという。以後、弁慶忠兵衛と呼ばれ、その子孫は代々日雇頭を勤めることとなった。

 お祭り好きの殿様は、ひいきの山車には水引や大幕を与えられた。車之町は山車一台を拝領するほどであった。

 

 殿様が祭にうつつを抜かしている間に、下々の人間のくらし向きは、ますます難渋をきわめていった。大番頭小笠原三九郎が配下の困窮を救うために、国老滝川豊後守忠暁に請願をし、免職されたという事件が起きたのも、この時代であった。

 尾張様は寿命なし

 

  田安くハ百万石ハとれぬのに 大ごしよゆへに今度なり荘

  冷や飯が胸につかえて尾張米あいもないのに又もおかはり

 

 一首目の狂歌の「田安く」には、「かんたんに」の意を御三卿の一つ「田安家」が掛けてある。八代将軍吉宗は二男の宗武に、田安家、三男の宗尹に一橋家を興させ、さらに九代将軍家重の二男重好には清水家を興させた。その三家を御三卿と呼ぶ。吉宗は将軍に後継者がなかった場合、御三卿の中から後継者をたてる仕組みを作った。吉宗は、将軍の座を尾張の継友と争って勝ち取った。継友の後継者の宗春は、ことごとく自分とは対対照的な政治を行った。尾張にくし気持ちが、吉宗の胸中にふつふつと煮えたぎっていた。吉宗は自分の血筋を受けた御三卿を興し、将軍後継者を御三家からたてるのではなく、御三卿からたてる仕組みに変えてしまった。

 御三卿の屋敷は、江戸城中にあり、十万石の賄料が与えられていた。

 「百万石」は大藩の尾張を指している。いくら田安家といえども、そう簡単に尾張の藩首に就くことはできない。ところが九代藩主宗睦がなくなり、義直以来の尾張徳川家の血筋は絶えてしまった。十代藩主の地位に就いたのは一ツ橋家から迎えた斉朝であった。さらに十二代の斉荘も一橋家から迎えられた。十代藩主の斉朝は隠居して、大御所と呼ばれていた。「斎荘」には「なれた」の意と「十二代藩主斎荘」の意が掛けてある。

 斎朝は十一代将軍家斉の弟、一橋治国の子、十二代藩主斉荘は、家斉の十一男として江戸城で誕生。田安斉匡の養子となり、田安家を相続する。さらに天保十年(一八三九)に十一代藩主斉温の逝去とともに、尾張家の家督を相続した。江戸からの押しつけの藩主が、十代藩主の斉朝から斉温、斉荘、さらに慶臧と四代つづくことになる。尾張とは全く関係のない藩主に、誰が親しみを持つことができるであろう。四代藩主のうち、尾張の土を踏んだことがあるのは、斉朝と斉荘の二人だけである。斉温は藩主在位十二年間のうち、名古屋に国入りすることはなく江戸の藩邸ぐらしであった。十四歳で早世した慶臧も、在位四年のうち尾張の地を踏むことはなかった。しかも、四人の藩主は、子どもに恵まれず、後継者は将軍のお声がかりで迎えられた。

 舟橋武志『徳川宗春』に次のような記載がある。

 

 『青窓紀聞』という本は「ざんげ、ざんげ」と題し、「残念、残念。今度大変、尾張の国の六十万石、田安に奪われ、誠に日本の恥」と悔しがる。また「なしくずし」では「尾張様に寿命なし」「四ッ谷(高須)様ニハ忠義なし」など、いささか周囲に八つ当たり気味。

 

 斉朝は五十八歳と寿命に恵まれたが、他の三人は斉温は二十一歳、斉荘は三十六歳、慶臧は十四歳と早世している。「尾張様には寿命なし」で江戸からの押しつけの藩主がつづく。尾張の分家、高須四ッ谷家には英 の誉れ高い慶勝がいる。家臣たちは斉荘が尾張藩を相続したときに強く慶勝を押したが、「運がなし」で相続することができなかった。

 

 

一度も国入りしない殿様

 

  尾張人  いざ事問わん 御国には

        生きた殿様ありやなしやと

 

 『伊勢物語』のよく知られている歌を、本歌取りとして、藩主が国入りしないことを揶揄した歌である。江戸時代の名古屋、三人の藩主は、一度も名古屋に入ったことはない。五代藩主の五郎太は、五歳で亡くなり三ヶ月しか藩主の座に就いていないから、名古屋に国入りすることができなかったとしても、止むを得ないであろう。十三代藩主の慶臧も十四歳で亡くなり、藩主在任期間もわずか四年であるから、名古屋の地を踏んだことがなかったとしても仕方がないかもしれない。しかし、十一代藩主の斉温は在封年数が十三年に及ぶが、一度も名古屋に来たことがない。生きた殿様が、名古屋城にいるかと尋ねられたら、十三年間、一度もお顔を見たことがないと答えるより、答えようがないという意の歌が、冒頭に紹介した歌である。斉温が初めて国入りをしたのは死んでからのことだ、彼は天保十年三月二十日に亡くなり、建中寺に葬られるために、棺に納められて、初めて国入りした。

 斉温は文政二年(一八一九)十一代将軍家斉の十九男として江戸城で誕生した。文政五年、十代藩主斉朝の養子となり、文政十年、斉朝の隠居により家督を受け継いだ。以後十二年間藩主として、一度も国入りしていない。領民は、自分たちの殿様の顔を知らなくては、殿様に対する親しみも、愛着も持てない。斉温の時代は長い名古屋の歴史の中で、最も名古屋が落ち込んだ時代であった。

 斉温は江戸の藩邸市谷屋敷で、領民のことも忘れて、優雅に遊び暮らしていた。藩の政治はすべて家老にまかせていたが、家老は、斉温の指示に従うこともなく勝手きままにしていた。

 斉温の江戸暮らしは、尾張藩の江戸上屋敷である、市谷屋敷である。市谷屋敷は明暦二年(一六五六)に建てられたものである。広大な屋敷の中には、池、築山、数奇屋などを配した回遊式庭園があった。この庭は、名園として名高く、将軍家斉も幾度か訪れている。楽々園と称された庭は、大名家の数多くある庭の中でも屈指のものであった。

 尾張屋敷の名園としては、戸山屋敷の、戸山荘も名高いものだ。庭園は東海道の小田原宿の町並みを模したものなど凝ったものであった。

 斉温は、東海道を下った国入りをするのではなく、東海道を模した庭で道中を楽しんでいた。家斉は何度も、この庭を訪れ「すべて天下の園池は当にこの荘をもって第一とすべし」と賞賛をした。将軍を屋敷に迎えるには、莫大な費用がかかる。造園にも相当の費用をつぎこんでいるはずだ。尾張藩以外の殿様で十年間一度も国入りしなかった殿様がいたであろうか。もしそんな暗悪な殿様がいたら家臣や領民の怒りによって罷免されたであろう。家斉の子どもであるから、斉温は何をしても許されたのだ。尾張の領土や領民などは眼中にない。毎日、毎日享楽にふけり、日々楽しければよかったのだ。こんな殿様の治世下にある尾張がどのようになるかは想像してもあまりある。

 

 

宗春のたたりじゃ

 

 十一代将軍家斉には、側妾が一説によると四十人いた。そのうち子どもなした側妾は十六人、薩摩藩主島津重豪の女であった御台所ををあわせて、十七人の腹から五十五人の子が生まれた。そのうち二人が、尾張藩主となっている。十一代藩主の斉温と十二代藩主の斉荘である。家斉は尾張藩の他、諸大名に養子や夫人として、子どもを押しつけた。

 尾張藩主のなかで、最も多く子を設けたのは三代藩主の綱誠である。綱誠の母は将軍家光の娘、千代姫である。徳川美術館所蔵の初音の調度は、千代姫が輿入れをした時の花嫁道具だ。綱誠は、家斉に負けず二十二人の男子と十八人の女子があった。しかし、四十人の子どものうち成人したのは、わずかに男子五人、女子一人だけである。そのうち吉通、継友、宗春の三人が尾張藩主となっている。

 

 家斉が十一代将軍になることができたのは、田沼意次の尽力が大きかった。意次は、次期将軍になるはずだった十代将軍家治の長男家基が安永八年(一七七九)に急死したのをうけて、一橋治斉の長男豊千代を将軍家治の世子となることに成功した。家基の急死は、意次の意をうけ、御典医が毒を盛ったためであるとの噂が広まった。さらに、天明六年(一七八六)八月、将軍家治が、気分が悪くなったので、意次は田沼家出入りの医師に薬を調合させ、家治に飲ませた。家治は翌日亡くなったが、その時「毒を盛られた」と言ったという。意次は、老中を免職され、翌年には本領を没収され、居城相良城も破壊されてしまった。

 後味のよくないのは家斉だ。将軍になるために尽力した意次、そのために毒殺されたと言われる家基。家斉は二人のたたりを恐れた。恐怖におののくあまり頭病に悩まされた。病気になれば、それは家基の死霊が江戸城をさまよっているからだと言われる。

 二人の霊を慰めるための祈祷所、感応寺を家斉は建立した。

 

 尾張の藩主でも、綱誠の子ども宗春のたたりを恐れ、おののいた藩主がいた。十代藩主の斉朝である。斉朝は十一代将軍家斉の弟、一橋治国の子として寛政五年(一七九三)に誕生した。正室は、将軍家斉の長女淑姫である。

 宗春は、死して金網を掛けられた、将軍家の宗春に対する憎しみの強さをうかがわせる事件だ。

 舟橋武志の『徳川宗春』に次のような記述がある。

 

 斉温は二十一歳で、つづく斉荘も三十六歳の若さで亡くなる。後をうけた慶臧に至っては哀れにも十四歳で息を引き取る始末。隠居中の大御所斉朝は腹に腫れ物ができて死に、周りの者たちは病気になったり異変の起きるたびに、宗春のたたりではないかと恐れるのだった。

 

 斉朝は文政四年(一八二一)、宗春の霊を慰めるために山王権現社と祈祷所慶雲軒を建立した。場所は宗春の幽閉されていた現在の永平寺名古屋別院あたりである。

 義直の血筋は宗睦の代で絶え、よりによって吉宗の血をうけたものが尾張藩主となる。地下の金網でくくられた墓石の下で、宗春は怒り狂った。江戸から押しつけられた藩主に、たたらずにおくものか、死霊は藩主を苦しめる。藩主は病気になり、幻想に悩ませられる。

 死して宗春は、死後も将軍家と戦ったのだ

 

 

 

つぶすか田安か

 

 宗睦の死後、義直以来の尾張徳川家の血筋は絶えてしまった。以後五十年にわたって、江戸から押しつけられた藩主を、尾張は受け入れなければならなかった。

 押し付けられた藩主は尾張と将軍の座を争った吉宗の興した御三卿の田安家と一橋家からである。田安家からは十二代藩主の斉荘と十三代の慶臧の二人が尾張藩主となる。斉荘は将軍家斉の十一男で、田安斉匡の養子となった殿様だ。正室猶姫は斉匡の娘である。十三代の慶臧は斉匡の七男である。十代藩主斉朝は一橋治国の長男で、正室は将軍家斉の娘だ。十一代藩主の斉温は将軍家斉の十九男で、正室愛姫は、田安斉匡の娘である。斉匡は将軍家斉の弟で、田安家に養子入りした人物だ。

 宗睦以後、尾張徳川家を襲封したのは、八代将軍吉宗の血を継ぐ御三卿の出身の殿様ばかりだ。田安斉匡を軸として、その強いゆかりで結ばれた人物が尾張藩主となっている。

 尾張藩は、吉宗の血筋をひく田安家に乗っ取られたようなものだ。徳川美術館で開催された『尾張の殿様物語』の図録に、次のような記述がある。

 

 馬廻組の大橋善之丞などから相次いで斉荘の相続に強く反対する請願書が提出された。

大橋善之丞の請願書には「本家の子供を押し付けて家督を相続させると家は治まらず、乱世の基になる」とあり、この相続は幕府からの押し付けであると明確に述べている。また、大番組・馬廻組など番方の家臣四十七名が連署した請願書では、斉荘の相続は老中水野忠邦と付家老成瀬正住の共同謀議によるものであること、分家の高須松平家当主義建の秀之助が藩主になるべきであるなどと主張した。

 斉荘の相続に対する家臣の強い反発を和らげるために、幕府はかつて将軍吉宗から譴責を受けた七代藩主の名誉を回復し、従二位権大納言を追贈した。 

 

 しかし、斉荘の死後、家督を相続したのは田安斉匡の子、慶臧であった。

 舟橋武志の『徳川宗春』に次のような記述がある。

 

 年代は不明だが、こんな事件まで起きた。

こともあろうに名古屋城大手門の扉に、天下りを皮肉る張り紙が出されたというのだ。そこには、シラミの絵が描かれ「つぶすか たやすか」の文字が添えられていた。

 早速、犯人捜しが始まった。犯行に及んだのは京町で米屋を営む鍵屋善左衛門という男だった。彼は城下でその名を知らぬ人もないほどの富豪だったが、田安の就任を喜ばず、あえてこの挙に出たのだった。

 

 名古屋城下は押し付けの天下り藩主に対し、強い憤りでわきたっていた。宗春の墓石の金網をはずし、権大納言の称号を追贈しても地下の宗春の怒りはおさまらなかったようだ。

 

斉朝のおびえを癒す豪潮律師

 

 国道四一号をはさみ、豪潮寺と呼ばれる寺が東側の大杉の地と西側の柳原の地にある。柳原の豪潮寺は長栄寺のことである。

 長栄寺は、もともとは愛知郡東郷町諸輪にあった寺で、養老年間(七一七〜七二三)に泰澄が建てたものである。野間の大坊、諸輪の大坊と呼ばれ、尾張二大坊と称された。その後、廃寺になっていたが、文政六年(一八二三)、豪潮が尾張藩主徳川斉朝(なりとも)の命を受け、現在の柳原の地に移した。豪潮があまりにも有名なので、豪潮寺と呼ばれていた。

 

 豪潮は寛延二年(一七四九)六月十八日に熊本県玉名郡山下村に生まれた。宝暦五年(一七五五)の九月、六歳で得度をした。十六歳で比叡山に登り、十数年間修行に励み、故郷に帰り寿福寺の住職となった。住職となった翌日、米八十俵を出して、貧民に施した。

 安永六年(一七七七)、二八歳の時には、寺内にある酒器を集めて、臼の中に投げ入れ、すべて砕いてしまった。蚊帳を用いず、一食一菜の厳しい修行の生活をしていた。豪潮を崇敬する四国や九州の大名が数多くいた。光格天皇、聖護院宮も豪潮に帰依していた。

 尾張藩主の斉朝が病気になった。医師の治療も、修験者の祈祷も効験がなかった。

 万松寺の住職、珍牛は、豪潮と交わりがあった。藩主の病気の加持を豪潮に頼むことを勧めた。藩主は、細川候に依頼し、豪潮を招こうとした。九州の諸侯は、これを聞いてたいそう驚き、武器に訴えても止めようとした。

 近衛公と一橋公が調停をして、三年間の約束で尾張の国にくることになった。

 文化十四年(一八一七)名古屋にきた豪潮は万松寺に入った。登城し斉朝の病気の加持をして、たちまちのうちに治してしまった。

 約束の三年間、万松寺にとどまり、熊本に帰ることを願い出たが、斉朝は許さない。斉朝は、江戸の市ケ谷の藩邸にも豪潮を伴った。尾張に帰り知多郡内海の岩屋寺の住職になったが、後長栄寺に入った。

 豪潮は書画をよくした。『葎の滴』に次のような逸話が載っている。

 

  豪潮律師は、書や画を書く部屋を作り、筆や硯を置き、毛氈を敷いていた。揮毫を請う者がいるとすぐに書き始めた。誤字、脱字があっても、傍らに書いて、書き直すことはしなかった。

  律師は、淡く墨を用いた。天子より拝領した墨を生涯使おうとしたので、その減るのを恐れて淡く墨を用いて書いた。

 

 豪潮は天保三年(一八三五)七月三日、八十七歳で亡くなった。豪潮を慕う人は多く、活き仏といわれた。

 長栄寺の二代目住職は豪潮の弟子の実戒亮阿である。越後の礪波郡佐野の生まれで十八歳の年に比叡山に登った。三十歳になるまで釈迦堂の縁側に坐って修業をしたという。

 その後も金峯山で断食六十日という荒行をしたり、紀伊天川の岩の上に座って修行に励んだという。

 豪潮の後を継ぎ、名僧として尊ばれた実戒の逸話も『葎の滴』に載っている。

  明治五年(一八七二)二月、知多郡大高村海岸寺で柳原長栄寺の実戒律師の法話があった。律師が法話をしている七日間、寺の梁の上に大きな蛇がやってきて説法を聴いていた。七日間の法話が終わると蛇は、いずこともなく消えてしまった。

 

 実戒律師の説法は蛇までもが聞きにくるというエピソードである。

 

聖聡院花見の柳原御殿

 

 長栄寺の南の地に、江戸時代、八代藩主宗勝の第六子松平藤馬の豪壮な邸宅があった。世の人々は、この屋敷を柳原御殿と呼んでいた。広大な庭には、山あり、池あり、四季おりおりの花に彩られていた。とくに春の桜のみごとさは圧巻であった。

 柳原御殿の主、藤馬が寛政十三年(一八〇一)一月二十八日に亡くなってしまった。

 『高力猿猴庵日記』は、その死を次のように伝えている。

 

  廿八日、柳原御殿、藤馬様御逝去。二月三日まで物静、音曲、鳴物等御停止。ただし、普請は不苦由。

 

 藤馬の死を悼み、城下が喪に服してひっそりとしている様子がよくうかがえる記述である。

 藤馬が亡くなった後、柳原御殿は、その兄の松平掃部頭の別荘となった。松平掃部頭の夫人、聖聡院が享和三年(一八〇三)二月十三日、桜の花見に柳原御殿を訪れた時の歌が残っている。聖聡院は「やなぎはらのはな」の文字を歌の句ごとに置いて、四首の和歌を詠んだ。

   八重ひとへ咲重なれる花盛 ながき春日も忘れてぞ見る

   聞きしにも増る色香の庭桜 はる幾返りたち馴て見ん

   らんまん(爛漫)と盛の花を吹からに のき端の松も匂ふ春風

   はる毎に斯て盛を重ねなば 名高き花の庭と成なん

 聖聡院が桜の花見を楽しんだ翌年、柳原に奇妙な事件が起こった。

 『高力猿猴庵日記』の文化元年(一八〇四)の四月十七日の記述である。

 

  十七日、御祭礼渡る。聖惣院様、掃部頭様、御二方共、昨亥の年の通り、両所にて、御拝覧。

  このごろ、怪異の業にや、男女の髪を切るよし。柳原辺、去方の召遣ひ女が切られたる沙汰、慥に聞けり。男も切られたる者有、あやしき事なり。

 

 掃部頭と聖聡院が、昨年にひき続いて、那古野まつりの華やかな行列を見ている。世は泰平で、のどかで、何事もないかのように見える。

 しかし、どうにもならない鬱積した心情を髪切りという行為にかりたてた者がいる。柳原に現れた髪切り魔は、召使い女の髪を切り、男の髪も切ってしまった。猿猴庵は「あやしき事なり」と書いて、この日の日記の結びとしている。髪をどのようにして切るのか、猿猴庵ならずとも不思議な感じがする。

 

 松平掃部頭は文化八年(一八一一)に没した。別荘は日に日に廃れてゆき、文政二年(一八一九)にはとりこわされた。その跡地に柳原御側組という藩主の警固にあたる同心の屋敷ができあがった。

 

 柳原御殿のあったあたりは、今は人家がぎっしりと立ち並び、往時をしのぶよすがは何ひとつ残っていない


 

名古屋近代化のあけぼの 関西府県連合共進会

 第四回

 

 

一石二鳥の皮算用

 

 共進会は、産業を振興する目的で、農作物や工業製品を展示し、品評や審査をする目的で、明治政府が始めたものである。

 第一回関西府県連合共進会は、明治十六年に大阪府で開催された。この時には、一府十六県から七千二百八十四点の出品数があった。入場者数は一万九千二百七十人であった。第九回の共進会は明治四十年、三重県の津で開催された。二府二十県から七万五千九百二点の出品数があり、七十七万九千五百六十六人の入場者があった。第十回の名古屋での共進会では、三府二十八県の十二万九千七百六十六点の出品数、二百六十三万人という入場者数であった。この数字こそ従来の共進会と異なり、空前の人気を博した共進会であったことを表わしている。名古屋での共進会は、共進会とは名ばかりで、実際は立派な博覧会であった。

 しかし、一過性のお祭り騒ぎだけに終わる博覧会ではなかった。名古屋が近代化の街づくりを始める礎となった博覧会であった。現在の名古屋の都市計画の原型は、百年前の共進会開催によって描かれたものであると言ってよい。

 

 共進会が開かれた当時の鶴舞公園の地は、大根畑や麦畑の続く、のどかな田園地帯であった。この地を造成して公園を造る。新しくできた公園で共進会を開く。公園新設の機運はいやが上にも高まっていった。

 名古屋の町を代表する公園を造ることは、長年の懸案事項であった。明治三十八年、精進川改修工事が行なわれることになった。掘削した土砂の一部を、当時建設中の熱田兵器製造所の敷地埋め立て用に売り払う。そして、残土を公園敷地に利用する、一石二鳥の案が取り上げられた。熱田兵器製造所には八万六千円で掘削した土砂を売却することができた。当時の事情を『名古屋都市計画史 上』に所載の名古屋市が内務省に提出した文書によって知ることができる。

 

 目下工事中に係る精進川改修より生ずる不用土砂の処分を要するに際会せり。之公園設置の好機にして此機を逸せず早晩本市に合併せざるべからざる状勢を示しつつある愛知郡御器所村地内に於て土地を買収し、前陳不用土砂を以て、之を埋立て本市多年の宿望たりし公園を設置致度候。

 

 名古屋市は、共進会実施計画が正式に確定すると、次は道路を整備するという急務に取りかかった。まず公園道路の新設である。東からの道路の起点は新栄町で、東田町、白山町を経て公園に至る道路である。この道路は明治四十二年八月に竣工した。南からの起点は上前津町の東側を起点とし、前津小林、大池から公園に至る道路である。明治四十三年二月十二日には、新堀川に架かる記念橋が開通している。市電は四十三年二月から一部開通し、新栄町から鶴舞公園まで走った。

 

 共進会が開催され、名古屋市の道路網は整備された。上下水道も、この年より近代都市にふさわしく整備されるようになった。家庭における電気、ガスの普及も、大幅に増えていった。

 共進会をきっかけとして、名古屋は近代化への道を大きく踏み出した。

 

共進会と名古屋港

 

 共進会が大成功のうちに終り、名古屋が近代都市へと脱皮することができた要因は何であろうか。

 明治維新以来、先進国に追いつき、追い越せとばかりに、遮二無二頑張ってきた日本は、日清、日露の戦役で勝利を収め、形の上では先進国の仲間入りをすることができた。その勝利は、清国やロシアの国内事情に乗じた勝利であった。

 勝利にわきたつ日本は、先進国なみに国内の体制を整えなければならない。維新で変革をとげた日本は、明治の終り、近代国家への変革という大きな試練につきあたった。

 

 明治四十年、名古屋港が開港した。国際通商港としての名古屋港から、陶器など愛知県の特産品が大型船で外国に運ばれてゆく。外国からも、さまざまな産物が名古屋の街に入ってくる。

 名古屋港の開港は、世界に目を向け、産業の面でも世界と勝負をする時代になったことを意味する。農業国であった日本は、工業面でも外国に追いつく必要に迫られた。

 『名古屋新聞』(六月十四日号)は、共進会開催の意義について、次のように記している。

 

 我名古屋が外地と奈何なる関係を有するかを示し、更にその地方と我名古屋とを将来に結びつけ、我名古屋発展の材を供する者に外ならざればなり。

 

 時代の要請は、共進会の出品物にもよく表れている。今までの共進会では開設されなかったところの機械館、蚕糸館、台湾館が今回の共進会では、新設されたことである。

 機械館では、三菱造船所の起重機、川崎製工所(現在の川崎製鉄)の製材機械などが展示された。機械工業の進歩を目の前にして、人々は驚いた。さらに機械館では、当時の日本一の巨大な商船、三菱造船所熱田丸の模型が展示された。熱田丸の横には名古屋電灯株式会社の長良川発電所の模型が展示されている。

 台湾館は、砂糖、籐細工などを内地への輸出・増産を計るために、台湾総統府が力を入れて建設したものだ。蚕糸館は、日本の輸出品の中心、絹を紹介するための建物である。新設の三館は、いずれも農業から工業へと移行する生産品を紹介する場であり、名古屋港が通商開港をすると軌を一にするようにして、市場を海外に向ける役割をはたしていた。

 

 工業化への移行を最も端的に表しているのは工産区の拡大だ。農産は二区、林産は一区だ。そして工産は五区の広大な敷地を占めて建てられている。愛知県は工産第一区に、名古屋絞と有松絞とを出品している。この年、愛知県の織物は、米の二千五百万円の売上げに匹敵する年産額があった。

 帝国撚糸織物会社からは、インドや中国などに輸出する織物が展示されていた。

 

 

共進会  一日遊んでいくらかかる

 

 一日、会場を見物して、どの位、お金がかかるであろうか。まず十銭の入場料を払って会場に入る。人気のいちばんは、名古屋おどりだ。ここでは、三十銭の木戸銭を取られる。

 共進会で、最も人気のあったのは、名古屋おどりのくり広げられている舞踏館だ。舞踏館の収支決算はどうなっているだろう。まず支出の方は、大道具十人、狂言方二人等使用人の合計は七十三人。給与は書記三人で五十円、表出方一人日給七十五銭、後は全部一円であるから、これを月に計算すると二百一円、これに電灯、ガス灯が三千四五十円、衣裳の新調費が四千円、借衣裳代二千円、出演する芸者の弁当代が二十銭。

 収入の方は、一カ月一万円で三カ月三万円と計算していたが、実際は四万円近くの入場料が入った。紀念会からの補助が一万円。これは三カ月の家賃として右から左へと消えていった。その他、白粉、歯磨、香水等の会社からの寄贈品が多くあった。楽屋で使用した白粉二百三十円、口紅八十円は御園白粉からの寄贈品であった。

 華やかな名古屋おどりを楽しみ、次に十銭を払って電気館に入る。ここでは落雷の実験、幻燈の映写等が行なわれていた。

 昼時間になった。食堂街の店で、親子丼を食べる。代金は十五銭だ。

 腹もふくれたから余興館をまわることにする。最初に鰐館に入る。入場料は五銭。期間中四万三七八八人が鰐の見物に訪れた。建物は粗末、使用人もわずか十八人でお手軽にできた見世物小屋だ。安かろう、悪かろうだが、儲けはかなりあったようだ。

 次いで評判の旅順海戦館に入る。入場料は三十銭だ。新聞に大きく旅順海戦館の広告が載っていた。

  優美……驚愕……不思議

 水雷艇駆逐艦の夜襲、連合艦隊の大砲撃、閉塞船の轟沈敵艦の水雷爆発、晴雨朝暮の光景、風雲雷光、明月星斗、濃霧水煙の天候、敵艦炎焼、砲弾の爆裂、探照灯の映射、殷々たる砲声等悉く実地を現し壮烈無比偉観を観者の眼前に演ず

 

 旅順海戦の興行は、前年アメリカのシアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会の再現だ。旅順海戦を電気や機械を駆使して、実際に見ているような錯覚におち入らせる迫力のあるものであった。海戦館の敷地五百五十坪、開口百七十間、中央部には柱が一本もない大建築であった。

 旅順海戦館は、余興館の中では、最も多い三十六万一四九〇人の入場者があった。売上げは五万円以上に上がったという。

 旅順海戦館を出て、北側の天女館に二十銭の木戸銭を払って入る。

 天女館は、ニューヨークの有名な魔術師ハーマンの弟子、ヘンリの演出による余興だ。ミスケンボールという米国人の美女が壇上に登場すると、たちまち塔が現れ、空中に美女は飛んでゆく。電気を利用した観客の幻覚を誘う不思議な世界を体験させるという趣向だ。ミスケンボールの月給は百円であった。天女館は会期中十三万三一四四人の入場者を数えた。

 天女館の新聞広告は次のようである。

 

 紐育市の繁栄、ハドソン川の夜景、潜行艇の出発、不可思議の海底龍宮城の衝突、乙姫の驚愕……八名の天女雲の底より現出、歌劇を演じ観者を恍惚たらしむ。

 

 八名の美女の写真が載っている。ミスケンボールの他は日本人だ。天女とは言い難い大根足の踊子たちだ。これでは踊りの足なみもそろわず舞台も成功したとは言えないであろう。

 

 大がかりな舞台を見て、名前に惹かれて世界漫遊館に六銭の入場料を払って入る。漫遊館は六万二六四五人を会期中に集めたが、材料をすべて新調したので四百円余りの損失を出したという。

 不思議館の入場料は十銭だ。旅順海戦館に次いで入場者が多かったのは二十七万三一八九人の不思議館である。不思議館は最初五万枚の無料入場券を配布した。人が集まれば活気づく。不思議館は手軽な作りで、多くの入場者を集めて、余興館のうちでの儲け頭の筆頭であったという。

 チャリネ曲馬団の入場料は十銭だ。百六十人の曲馬師と四十八頭の馬、そして二頭のインド象、その他の動物十頭よりなるサーカスである。期間中十七万九四〇七人の観客があった。

 観戦鉄道は入場料は五銭だ。期間中二十五万三三八三人を集めた。一万円程の純利益があったという。活動写真は十銭の木戸銭で、四万九四一一人の人が入った。電灯会社への支払いが八百円、映写の内容もおもしろくなく、不評で儲けもなかった。

 これだけ見て歩いて九十五銭。場外に出て広告塔にちょっと登ると十銭。野村芳光画伯描く桶狭間の合戦のパノラマ館に入ると六銭。

 朝の九時から、夕方の四時まで会場で遊ぶと一円七十六銭かかる。喫茶店に入ってお茶を飲めば二円になる。現在の金銭に換算すれば二万円ぐらいであろうか。

 何事も金次第。金がなくては、共進会場に入っても、あまり面白くなかったに違いない

 

 

オキャーセ美人の踊り舞踏館

大日本ビールの社長であり、財界の雄であった馬越恭平は、共進会の会場を訪れて、その感想を『名古屋新聞』(三月十八日号)で語っている。

何を隠そう私は女が好きじゃ、大好きじゃ。殊に名古屋女が好きじゃ。オキャーセ美人が大好きじゃ。で、そのオキャーセ美人が唯一資本の筋肉を惜気なく働かす踊りが何より好きじゃ。そうじゃありませんか、それを好かないで何としよう。かように申すと私が馬鹿に好色漢のように聞えるかも知らんが、イヤ私は好色漢には違いない。決して好色漢でないとは言わぬ。しかし、女が好物じゃからと言って一も二もなく好色漢とは言えまい。私が名古屋女を好くのはただ色のみを漁るがための好物ではない。私がオキャーセ美人が好きというのもその色を好むのではない。色もよいでしょうッテ。そりゃ好いさあ。けれど私は、その色よりも名古屋美人の舞踏が一番好きじゃ。あの優しい、そして品のよい体の動作。それから凝りに凝ったアノ衣裳、マア何という美しい上品な舞踏ではあるまいか。私はこんなに頭が白く禿げていても名古屋美人の舞踏と聞いてはモウ性根がない。雀百まで踊は忘れぬとはこれ等をいうのであろう。

豚のように太った体を、深々と椅子にもたせて放言している恭平。恐いもの知らずの、世の中に思うにまかせぬものはないと言わんばかりの言いたい放題の発言だ。現代であったら女性軽視の問題発言で、顰蹙ものであろう。東京の新橋あたりの花柳界には名古屋出身の芸者が多かった。美人芸者が多かったので、彼女たちのことをオキャーセ美人と呼んでいた。恭平の発言にあるように、舞踏館で毎日開催された芸妓による踊りは、共進会における花であり、たいへんな評判を呼んだ。

舞踏館は会場の東南隅にある龍ケ池の西、貴賓館の東側の地に建てられた。建坪は二百九十坪、正面は十二間、奥行は十六間の二階建の劇場であった。建設費は一万五千円であった。特等席の入場料は一円、一般席は三十銭であった。

踊り子は、西川石松門下の市内九連妓の八百人の芸妓たちであった。桜町の安清院の書院を借り受けて、連日猛稽古が続けられた。昼間は二時に開始され五時半に終了するまで、二回ないし三回、夜間は七時に開始で九時に終了の一回の興行であった。

昼間の観客数は延べで、五万七千二百八十五人、夜間の観客数は三万二百九十五人で、計八万七千五百八十人もの人が舞踏館を訪れた。

今を去る三百年の其昔、(よろこび)長き慶長の治まる御代の礎に、名古屋の城を築くべしと……

伊勢門水の新作『誉の石引』の長唄が流れ始めると、並木を背景として車上の石の上に小姓二人を従えた清正が登場してくる。綱引き、大名等三十名が登場して華やかなものだ。背景を切って落とすと城普請の足代の書割りとなる。

飾る景色の石の上、綾や錦に麗わしき小姓を並べ清正は……

と華やかな舞台は繰り広げられてゆく。

踊り子の化粧を担当したのが顔師の丹羽礼山だ。顔師という職業は、現代ならさしずめメーキャップ係というのであろうか。礼山は明治四十三年三月十三日号の『名古屋新聞』のインタビューに答えて、名古屋おどりと化粧法について、次のように語っている。

名古屋おどりの顔の作り方は東京、大阪と比べて見ますと少し白い方で、一口に申すと三十年も前の俳優の化粧法をやっているという趣があります。顔の作り方でいちばん難しいのは眉の引き方で、顔の格好に応じて引かねばなりませぬ。

少し位長い顔でも白粉の濃淡と眉の引き方で短く見せる事ができます。総じて長い顔が(もっとも馬が欠伸をしたような顔では困りますけれど)作りよく、お盆に眼鼻という丸顔は難儀で、眉の引き方等、特に注意しないと変な顔ができます。

変な顔といえば、時とすると顔師ほど因果な役回りはないと思います。精々美しうと思うて作りあげた顔を、自分の顔の道具立ての悪い事は棚にあげて、不足を聞くことがあります礼山は八十人という芸妓の化粧を担当し、相当道具立ての悪い顔の踊り子も、美しい顔に仕立て上げ外国人記者も、多数、取材のために会場を訪れたけれども、彼らは会場を通り一遍廻るだけで、最大の目的はゲイシャガールのダンスであった。

名古屋おどりは、共進会の催しの中で、最も注目を浴びたもので、芸所名古屋の評判を全国に広める役割を果たした。

 

 

 

漱石先生共進会を祝う噴水塔と奏楽堂

鶴舞公園が開園したのは、明治四十二年のことである。どのような名称が公園の名前としてふさわしいか、さまざまな論議がなされた。なかには当時、人気を博していた尾崎紅葉の小説『金色夜叉』のお宮、貫一の名をもじり、貫一公園という名前も候補として挙った。結局、共進会を開催するために造成された土地の名前、鶴舞の名をとり、鶴舞公園と名づけられた。

鶴舞公園は、共進会終了後、その跡地を整備し、公園としての機能を発揮してゆく。その全体設計にあたったのは、東京の日比谷公園の計画者、本多静六と名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)教授の鈴木禎次である。

共進会開催に当たり、鈴木禎次は当初から関与していた。会場の中心にそびえる噴水塔と奏楽堂の設計を担当したのだ。この二つの建造物は、惜しくも戦災により炎上した聞天閣とともに、他の建物のように取り壊されることなく、共進会終了後も永久保存をされることとなった。

現在も、百年前、鶴舞公園で開かれた共進会の面影をとどめているのは、噴水塔と奏楽堂のみである。

鈴木禎次は夏目漱石の義弟である。禎次が名古屋に赴任してからも、二人はしばしば手紙の遣り取りをし、近況報告をしている。

漱石の小説『三四郎』の冒頭は、明治40年頃の名古屋駅の場面から始まる。夜、名古屋に停った列車から、子連れの中年女に頼まれ、三四郎は、暗い駅前の旅館に入るこの旅館は実在したものであるとの指摘がある。しかし、小説を読めば、ありふれたどの町でもありそうな情景で、とりたてて名古屋駅前という雰囲気は出ていない。漱石の記録によれば、彼は名古屋には一度も来ていない。名古屋と漱石の最も強い接点は、鈴木禎次とのつながりだ。漱石は『三四郎』筆にあたり、手紙により冒頭の駅前の場面をどのように書きあげるか相談したのではないか。名古屋駅前の場面は、漱石の小説家としての所産の産物だ。

禎次は、噴水塔や奏楽堂の設計について、漱石に手紙により、さまざまな報告をしていたに違いない。共進会の成功を、漱石は禎次のために誰よりも喜んでいたであろう。

共進会の会場設計は、曽根・中條建築事務所が担当した。設計の基本は南北に長い本館を連ねること。噴水塔、奏楽堂、本館正門は東西に一直線に並べることであった。他の展示館は、軸となる十字形に対して、四方に配置されていた。

噴水塔は二三一塔あり、建設に掛かった費用は、十八万八二六円であった。『愛知県の近代化遺産』(愛知県教育委員会刊)は、噴水塔について、次のように説明している。

青銅製の小噴水盤が最上部にあり、それを載せる繰形を複雑に施した御影石の大噴水盤を、白大理石からなる八本のトスカナ式オーダーの円丈で支える。高さ十・二メートル、大噴水盤の直径二・九メートル、高さ二・一メートル、小噴水盤の直径一・一メートル、高さ一・一メートルであり、古代ローマの円堂形式を採用して、品格のある端正な姿にまとめている。

噴水塔の基壇は西洋古典様式の彫刻を施した御影石張であるが、足回りの池には木曽川から運ばれたという自然石の巨石が配されている。内池の外には幅約六メートルのテラスを巡らし公園正面となる西側を一段と高くしている。西側のテラス外側には、さらに前池を設け、テラスとの段差を利用した壁面には、花瓶形のバルスター(手摺子)やトスカナ式オーダーなど西洋古典のデザインが施されている。

当初からそのままの姿をとどめてきた噴水塔と異なり、奏楽堂は平成七年に創建当時のままの姿に復元されたものだ。

奏楽堂は、円形のステージの上に、二本で一組になった柱を八基立て、ドーム状屋根を載せたルネサンス風の建物である。基壇周囲の手摺には五線譜が並ぶ音符で装飾され、階段の手摺には鶴舞公園にあやかった鳥がデザインされている。

奏楽堂では、名古屋音楽会により洋楽の演奏が行なわれた。楽隊は、指揮一名、楽団員十七名の構成であった。指揮者は、海軍楽隊を退職した三田正義。楽団員も海軍の楽隊を退職した人と養成員で構成されていた。

奏楽堂の建築費は七千三百五十円掛かっていて、会期中の楽団員の給与として、総計二千七十三円支払われている。楽器の購入費千二百円、服装費は四九六円、練習費二百円。これらの総計は四千二九円である。

演奏する曲目はサタン作曲『祭典大序』、ストライス作曲『洋々たるドーナウ』などであった。共進会のために結成された音楽会は、名古屋における交響楽団の走りと言えるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

密会の森 東屋

共進会場は、夜間も開場をしていた。夜の開館は当初、午後六時から午後十時までであった。昼間の午前九時から午後四時までの入場者とは区別して入場させていた。四月十三日からは夜間開場を午後五時から始めた。さらに五月十五日からは、終了時間を午後十一時までとした。昼間の入場料十銭に対し、夜間券は五銭である。

二百六十三万人の入場者中、夜間入場者は七十二万六九〇二人、一日平均にすれば八千七七人の夜間入場者があった。

公園は夜ともなれば、アベックの熱い語らいの場となる。貴賓館外庭の柵近くに据えられたベンチは、夜ともなればアベックが、一定の間隔を置いて陣取る、何人も近づけない専ともなれば家族連れや地方からの見物人は会場にはひとりもいない。若い男女が広い会場を仲よくそぞろ歩きしていた。人目をさけて、暗い森の中に入ってゆくアベックもいた。共進会が終了後の六月二十日の『名古屋新聞』に東屋の写真が載っている。写真の説明文は、次のように記載している。

共進会期間中幾多の若い男と女が無分別なる血を涌かせたる密会の森の東屋はすなわちこれ。舞踏館の東南の隅、昼間はここで仕掛け花火が作られ、夜は情に燃える火花が入り乱れる。それも今は過去となって、汚れた古池には、蛙が淋しげにガヤガヤと鳴いている。

夜の十一時の閉館だ。百年前の男女のことを心配する必要はないが、現代と異なりタクシーもない。電車もない。時間を気にせず愛を語らっていて、家に帰ることのできなくなった男女もいるだろう。

共進会では、五百人余の女看守人(女店員)が働いていた。九十日間、会場で男女が働いていれば、さまざまなドラマが生まれる。『名古屋新聞』(六月十八日号)には、次のような記事が載っている。

昨日の午後半ば壊れかかった共進会買店街の一郭、島根県の建物の物蔭で若い女看守と眼鏡をかけた男とがひそひそ話をしている。女泣いて曰く「そんな薄情な事を云って……私は貴君の種を宿して……身重になったのに、今更そんな、そんな」としまいにはしくしく泣き出して終ふ。男曰く「はらんだか、はらまんか医者にでも見せなければ判るもんか、泣いたって、己には仕様がない」と仕舞いには向ふを向いて空うそぶいて終ふ。

密会の果ての修羅場だ。密会をしていたのは、庶民だけではない。共進会の責任者、名古屋市長の加藤重三郎も、公務多忙で家に帰ることができないと、愛人の家に泊って会場通いをしていた。その結果、愛の結晶の誕生をみた。共進会は物品を共進するだけではなく、密会の会場でもあった。

 

 

 

 

 

 

桂太郎と大隈重信

共進会いちばんの呼物、名古屋おどりを多くの人々が鑑賞した。踊るのは、名古屋の西川流一門の芸者たちだ。名士たちは、競って、彼女たちに祝儀をはずんだ。東京からも皇族や明治の元勲が訪れる、外国の賓客が訪れるというように、舞踏館は、いつも賑わっていた。

西川石松と娘の花子に、気前よく祝儀百円をはずんだのは、大隈重信夫人だ。

五月三日の夜、重信と夫人は、馬車を走らせ舞踏館に来た。坪内逍遥が、共進会のために作詞した創作舞踏『俄仙人』を見るためである。坪内逍遥は、早稲田大学の教授である。重信とは肝胆相照らす仲だ。逍遥は「共進会に出掛けたらぜひ、名古屋おどりの『俄仙人』を見て頂きたい。振りも石松に助言をし、直させた程、僕が力を入れた踊りだ」と語っていた。重信は約束を守って見に来たのだ。『俄仙人』が終った後、夫人は執事に百円を紙に包んで渡した。石松親娘に「お前たちの計らいで、出演者に分け与えなさい」と伝言した。石松が特等席に参上し、礼を言うと「盛んに発展する名古屋に、このような優美な踊りを、普及させたのは感心なことだ。これからも精進しなさい」と賞めたたえた。夫人は石松の耳元に口をよせ「まことに美しくて、言葉には出せません」と言った。

祝儀百円は、重信の豪儀さを表すエピソードとしてひとしきり話題となった。

重信は名古屋で、多くの人々に囲まれ、分刻みのスケジュールをこなした。重信の宿ったのは、栄の千秋楼である。四日は朝の七時半には、伊藤デパートに出かけ、店員二五〇名を前に、一時間にわたり訓示をする。伊藤デパートは、共進会開催にあわせ、茶屋町の店から栄に引越し、呉服店から近代的なデパートに新装なったばかりの店だ。伊藤デパートを出て、共進会場に入り、一巡した後、一時四十分からは、高等工業学校で演説をする。一時間後には、愛知県の議事堂に入り、一時間の演説を満員の聴衆を前に行なう。夜は七時から商業会議所で、早稲田の校友会に出席する。

「二十年創立記念の時は、わづか千人内外の学生であったが、今や一万人を超える。名古屋の卒業生も七百名を数える」と感無量の面持で話した。

桂太郎が共進会場をカナ子夫人と訪れたのは、四月七日だ。太郎の両脇には、かつては踊りで名をはせた銭鈴と魚半の加藤信次郎の妹ひな子が座って、説明役をしていた。

太郎と名古屋との関わりは深い。明治二十三年、第三師団長となり、名古屋入りした太郎は、前津香雪軒の養女、カナ子を見染めた。毎夜二頭立ての馬車をくりだし前津通いをして、とうとうその心を射とめた。カナ子は桂太郎夫人となり、久しぶりの名古屋入りであった。

賑やかな重信一行と異なり、太郎の一行は静かであった。祝儀は一銭もはずまなかった。桂太郎の財布の口が固いのは評判であった。重信の大風呂敷で口も財布も開け放しとは対照的であった。二人の国民的人気の違いの要因は、祝儀にもよく現れている

 

 

祝へ 祝へ 開府三百年

 

 開府三百年を祝って、明治四十三年、六月七日と八日の両日にわたって盛大な仮装行列-が行われた。共進会場の奏楽堂の前に整列、集まった一行は、豪傑の部、築城大名の部、奉行の部と書かれた高札の前にそれぞれ整列をする。開会の挨拶が始まる。一行は加藤重三郎市長の挨拶を、我慢をして聞いていた。続いて、頼朝に扮した三輪喜兵衛市会議長が挨拶を始めるとわき立つ気分を抑えることができず、「やめろ」「簡単簡単」「ご苦労様」などと大声で野次り、演説を中断させてしまった。町にくり出す一行は、高張提灯、幟旗、吹貫を手に持った人を先頭に、奉行八四人、加藤清正に扮した十二名の後に続き行進する築城大名に扮したのは八十四名。市民の中から選ばれた総勢五百名の仮装部隊は正門を出て町にくりだした。

 共進会紀年会会長伊藤次郎左衛門は藩祖義直卿に扮している。その後には、白粉をべたべたと塗りたてた相撲取りのような田村観助が相応院に扮して、駕篭に揺られてゆく。

「あれは相応院ではなく滝夜叉だ」と大声で笑うひとがいる。白粉を塗った中から、髷がピンと生えているところは、どうみても歌舞伎の世界の化け物だ。

 大政所に扮しているのは小出収入役だ。白粉が、はげかかって灰汁桶を引きかきまわしたような顔だ。女中に扮した役人が駕篭を開けて「今日は、お暑うございます」と挨拶をすると、すかさず歩道の観客から「無礼者」と声がかかる。

 大池町通りから大津町筋にかけては、歩道、電車の区別なくぎっしりと群衆が押し寄せ、仮装行列を一目で見んと待っている。行列が通りかかると歓声が沸き起こり、警官の制止も聞かず一歩でも前に出て見ようとする。

 武平町の日清戦争記念碑の上では、蟻のように観客が群れをなしている。今泉動物園長が、ラクダに乗り、ひょうたんをつけ、陣羽織を着て仮装行列の中に入り込んできた。馬乗りの役人よりは楽な感じだ。観衆の中からすかさず「楽に乗ってゆくなあ」「あれはラクだ」と声がかかる。

 市役所で一行は小休止をとる。「水だ、水だ」と四方八方から声がかかる。小野道風の馬が暴れだし、頼朝の馬が面食らっている。馬も人も疲れて、大変な騒ぎだ。

 行列は市役所を出て、広小路を西へ行進してゆく。伊勢町の角で、西区の石曳きの行進と鉢合わせをする。双方とも万歳、万歳を叫び、西に東へ別れてゆく。

 二日目は、昨日の反省をふまえて、三時の出発にもかかわらず十一時頃より舞踊館の化粧部屋に入りこみ、準備に余念がない。小出収入役は禿げた頭が傷ついては大変と夫人が手拭二枚を畳んで鬘下としている。頼朝に扮して評判の悪かった榎戸助役は、名誉挽回とばかり今日は加藤清正に扮した。三時、正門を出て、今日は熱田までゆく。助役は自分の体よりも大きな烏帽子を冠ったので、動くのが思うにまかせない。手拭を両腕につけて引っ張っていたが、風にふかれ、新尾頭辺りで、動けなくなってしまった。酒が廻ってきた助役は、酔いにまかせて、折から美人を乗せて通りかかった人力車の梶棒をつかまえて、止めてしまった。「清正が車を止めた」と見物客も笑って見逃している

 熱田に到着すると、加藤市長は今泉園長のラクダを見つけて、菓子を与えた。市長の顔は細長いので、馬というあだ名がついている。「馬とラクダが仲良くしている」と観客は大喜びであった。両日で一万五千余名が県外から来て名古屋で宿泊、仮装行列を大いに楽しんだ。

共進会で大須は賑わう

 

 共進会場から二十分も歩けば、大須の繁華街に出る。大須は江戸時代から、芝居小屋がかかり、茶店が並び、多くの人々が娯楽を求めて集まる町だ。

 大須観音、七ツ寺、清寿院、遊ぶ場所にはことかかなかった。観音堂の裏には、旭遊廓があって、ぞめき客が集った。

 共進会の会期中には、他県からの遊客で大須は大変な騒ぎであった。

 大須観音では、共進会を記念して本尊の開帳を行なった。本尊の聖観音は弘法大師の作と伝えられている。明治二十五年に開帳されて以来の十八年ぶりの開帳だ。明治二十五年三月二十一日、大須に大火が起こった。本尊もこの大火により灰燼に帰してしまったとの噂がたった。生かし、本尊は奇跡的に焼失をまぬがれた。長いこと観音堂の廟は閉じられたままであったが、共進会を祝って開帳された。

 本尊は三尺余の木造で、蓮の茎を握ってたっていらっしゃる。左手には五色の絹糸が掛かっている。聖徳太子作といわれる前立は、開帳中は、正面向って左側に立っていらっしゃった。

 開帳は四月一日から五月二十日まで行われた。寺にはお賽銭や蝋燭などで、一月平均四十円から五十円の収入があった。

 本堂は新調した白緞子の水引幕が飾られ、仁王門の両側には南無観世音菩薩と赤地に黒字で書いた長提灯などが吊るされている。

 共進会が始まって四十五日間の面白い記録が、名古屋新聞五月三日号に載っている。汽車で名古屋に到着した人五十六万六千三百人。旅館で泊まった人 五十五万八千五百人。外国人は七百六十八人。これらの人々が夜となく、昼となく名古屋の町をさまよった。

 大須の宝生座、歌舞伎座、文明館、電気館等十六軒の入場者は十万八千余人。旭廓に上がった遊客は十三万二千三百二十人。うち外人は六十人であった。

 芝居小屋で遊ぶ人より、旭廓に上る人の数が多いことに驚く。空前の賑わいを呈した旭廓では不夜城となった。毎夜六時から、翌朝の六時まで、二百燭ずつのガス灯が三十カ所の辻に灯火され、真昼のような明るさであった。店の二階欄干には定紋入りの長提灯を吊るし、玄関前には十五燭の電灯が輝いていた。

 多くの遊客が集まれば線香代も高くなる。共進会の線香代は、これまで一時間四本の楼は六本に、六本の楼は九本に値上げした。土産三品までもが渡される。妻や子どもに遊郭の名前が入った土産を持って帰ることはできない。ローマ字なら読めないだろうとばかり、キャラコ地のハンカチに、真ん中に旭廓を表す朝日を描き、縁にはローマ字で廓の名前が書きいれてあった。

 遊女たちは、客から共進会の話を聞き、なんとか見たいものだと熱望した。会場は目と鼻の先だ。籠の鳥の遊女を旭廓から出すことできない。廓の主人たちは、団体の申し込むをしたが、当局からの許可は下りなかった。芸妓は舞踊館で華々しく踊っている。遊女は会場にゆくことすらできないと、世間は同情の眼で彼女たちを見ていた。

 

 

花と祭りと共進会

 

   雲間におどる黄金の  鯱にてりそう朝日影

   露も曇らぬ世々を経て 光輝くわが名古屋

    祝へ 祝へ 今日の祭日祝へ

    祝へ 祝へ 三百年祭祝へ

 

 開府三百年の記念歌を小学生たちは大きな声を張りあげ、列をなして、町の中を行進してゆく。手に持った記念旗、国旗を大きく振りながら賑やかな行進は続く。行進に参加した児童の数は一万五千人という。

 明治四十三年四月十二日、北練兵場で行われた開府三百年記念祭に参加した児童たちは、それぞれの町の目抜き通りを旗行列をしながら繰り出してゆく。旗行列をする児童たちの間を、七間町の弁慶車、和泉町の雷電車など十七輌の山車が、はやしも賑やかに繰り出してゆく。山車が東照宮から、本町通りに繰り出し、東漸寺の御旅所にゆく名古屋祭の例祭日四月十四から十七日の四日間だ。今年は開府三百年にあたる記念すべき年であるので十二日から山車揃いが行われた。午前三時には、すでに古出来町の石橋車、新出来町の鹿の子車が本町御門に並び、笛や太鼓のお囃子で祭り気分を盛り立てている。山車が勢揃いすると、順次、東照宮に参拝する。折から東照宮の桜は満開である。山車の上に桜の花がしきりに散っている。満開の桜も、開府三百年を祝福しているかのようだ。東練兵場は、この山車揃いを見物する人々に埋め尽くされた。

 夕方、提灯で飾りたてた山車は、筒井町、古出来町、新出来町の三輌の山車は、東大手門に出て、それぞれの町に、他の山車は本町御門より自町にひき返してゆく。提灯の明かりが闇にゆらめき、笛、太鼓の囃子が通りにひびいてゆく。

 町内の各家庭の軒には丸八の徽章を染め抜いた記念旗、提灯が吊るされ、こうこうと輝いている。

 市立商業学校では職員や生徒千五百余名が提灯行列をして市中を練って歩いてゆく。

 各町内では、思い思いに趣向を凝らして、記念祭を祝った。南鷹匠町(西区)では昔の邸跡に残る四本の大松の枝に町名にちなんで、籠細工の鷹を止まらせている。古渡町(中区)では子どもたちが揃いの赤い衣裳で、きれいな花笠を冠り、小さな花車を曳き出してゆく。 

 町内だけではない。竹沢伝六と竹本柳千代は弟子を引き連れ、浄瑠璃行列をする。裃を着けて門並みに唸って歩く。 

 十五日から三日間、日本全国花火大会が北練兵場で行われた。花火は午前十時から午後十一時頃まで打ち上げられた。総玉数は四千三百八十七玉である。総筒数は二百有余本。

知多郡阿久比で製造した尺の筒は、馬で運んだら三里余り行ったところで倒れた。別の馬で曳いて行ったが、馬は大高でまた倒れた。大高から汽車に乗せ、やっと練兵場に着いた。知立町の五十余貫の尺筒は馬三頭に曳かせた。

 

 開府三百年は全市をあげての祝いであった。市民のひとりひとりが、祭りに参加し、町を、提灯を手に持ち練って歩いた。自分の節目の誕生日を祝うかのように開府三百年祭を祝った。共進会が成功したのも市民ひとりひとりの熱意があったからである。




         花の名古屋の碁盤割 町名由来記




                                                   沢井 鈴一


京町筋


片端通の南、西は五条町から東は萱屋町に至る横筋である。碁盤割の町筋の北端の通りで、裕福な商家
が軒を並べていた。


五条町


京町筋の西端に位置する町である。

町域は五条橋より御園町まで。慶長年間の清須より移住した清須越の町である。移住直後は上畠町西の
切と呼んでいたが、貞享三年(一六八六)十月、五条町と改名した。

上畠町西の切から五条町と改名したのは、堀川に架かる五条橋の名に由来する。

五条橋は、慶長十五年(一六一〇)、遷府とともに清須から移ってきた。清須城の前を流れる五条川に
かかっていた橋で、別名、御城橋とも呼ばれた。擬宝珠の銘には「五条橋、慶長七年壬寅六月吉日」と刻
まれている。銘により、この橋が清須城主松平忠吉が慶長七年(一六〇二)に築造したことがわかる。長
さ十五間(約二七メートル)幅三間(約五・五メートル)、杭は八組であった。明治三十四年に改築され
た。現在架かっている橋は、コンクリート造で、擬宝珠はレプリカである。本物の擬宝珠は名古屋城で保
管されている。

五条町の町家の庭に、不思議な井戸があった。潮が満ちてくると井車は自然と止まり動かなくなる。干
潮になると動き始めるところから、この井戸は「満潮干井」と呼ばれた。自然現象を利用した、大がかり
な天体時計というべきものであった。

名古屋の町で、油を初めて商ったのは、五条町の和泉屋順正、本町の久右衛門の父子であった。この二
軒の他に、油屋はなかった。後に江戸屋十兵衛が黒油を売るようになった。寛文十年(一六七〇)まで、
油屋はこの三軒だけであった。

五条町は明治四年、上畠町とともに和泉町に合併。昭和四十一年、丸の内一丁目となる。


上畠町


町域は京町筋の御園町より伏見町まで。慶長十五年の清須越の町である。
町名由来については二説ある。一説は清須の上畠町より移住してきたので、旧名を用いて上畠町と名付
けたという説である。異説はこの地は那古野村のはずれで、岸の上に畠があったので名付けたという説で
ある。

貞享三年(一六八六)十月、上畠町西の切を五条町、東の切を和泉町と名付け分離、独立させた。

『尾張志』は「此町を万治三年(一六六〇)焼失絵図に枕町と記せる。いかがあらむとさだかならず」
と記している。

東照宮祭礼の山車雷電車は、三つの町に分離した以後も、三町が交代で車番を務めた。

明治四年、五条町とともに和泉町に合併。昭和四十一年中区丸の内一丁目となる。


和泉町

町域は京町筋の伏見町より桑名町まで。『尾張志』は慶長十五年、清須越の町である、あるいは遷府以
前の町家であると二説あるが、いずれも決しがたいとしている。

貞享三年に、上畠町から分離、和泉町となる。町内の酒屋、清水屋は、庭からわきでる泉を使い銘酒を
造っていた。その酒銘、泉富貴涌のように商売が繁盛するようにと願って和泉町と命名したという。(『尾
張名陽図会』)

明治四年、上畠町、五条町を併合。西は五条橋から東は桑名町筋までの、一丁目から三丁目までの町筋
ができあがった。

明治中期に大火が起り、二十数軒が炎上。しかし、その後は、火災の難を逃れ、第二次世界大戦でも、
東照宮祭の山車、雷神車こそ燃えたが、町はあらかた類焼をまぬがれた。戦前の碁盤割のくらしをしのば
せる閑所が、この町内には二つ残っている。慶長遷府のさい、尾州藩御用達をつとめた桔梗屋の分れが美
濃忠。店は改装されたが、現在も昔と変わらぬ場所で商売をしている。道をはさみその前の、戦前の旧家
の名残りをとどめ佇む豪邸が、米相場で一代で財をなした高橋彦次郎の子孫の住む家。

屋根神さまの祀ってあった跡なども、町内を歩けば見つけることができる。

昭和四十一年の町名変更により丸の内二丁目となる。


益屋町

京町筋の桑名町より長島町まで。名古屋城築城以前よりあった古い町である。一説によると織田信雄の
時代よりあった町であるという。益屋彦右衛門という酒屋が、長年、この町でくらしていたので、正保二
年(一六四五)より、益屋町と呼ばれるようになった。

この町の住人、井桁屋孫右衛門は、白粉の薬、美艶仙女香を商っていた。美艶仙女香について『金鱗九
十九之塵』は、次のように記している。

この薬は、享保十一年(一七二六)清朝人の船長、伊孚丸が長崎に船泊していた時、丸山の遊女近江屋
の菊野に与えた顔の薬である。清朝の女性は、いつもこの薬で顔をよそおい飾った。この白粉の製法は秘
伝で、故あって江戸坂本氏に伝わっている。

三世瀬川菊之丞の俳名を仙女という。それにちなんで付けられた名前が美艶仙女香である。坂本氏は、
南伝馬町三丁目稲荷新道に住んでいた。

仙女香やたら顔出す本のはし

と詠まれるほど錦絵、草双紙などに、この白粉は宣伝された。英泉の浮世絵「今世美女競」の白粉包の題
簽には、一包四十八銅と記されている。文政の初めから天保の中頃まで、仙女香が、おびただしい数の錦
絵や草双紙に登場している。宣伝効果は抜群であったろう。これは、仙女香の販売元の坂本氏が、この頃
の絵草紙などの検査役であったため、版元がゴマすりのために掲載したものだ。

益屋町は、明治五年、茶屋町に合併。昭和四十一年、丸の内二丁目となる。



大和町

町域は長島町より長者町まで。元和三年(一六一五)の清須越の町である。名古屋城築城の時、大工棟
梁の中井大和守正清が、この町に居住していた。大和守が元和四年、京都に帰った後、その名をとり大和
町と名付けられた。

中井大和守正清は徳川家康の側近で、大工頭として、家康の関係した造営のほとんどすべてにたずさわ
った人物だ。名古屋城築城の作事奉行として、大久保長安、小堀政一、村上三右衛門等の大名とともに任
命された。

中井大和守が京都に移った後、その屋敷を百五十両で買求めたのが、清須の長者町の住人岡田佐次右衛
門だ。中井大和守は、家を佐次右衛門に譲る時「この家を建てる時、家師匠より相伝の秘事をもって火災
除けがしてある。棟木に呪い込置いたので、いつまでもこの家は火災にあうことはない」と語った。

大和の言った通り、佐次右衛門の屋敷は、火災にあうことはなかった。引越しの時、屋敷の庭に大和は
梅の木を植えた。季節ともなれば美しい花を咲かせ、妙なる香りを発した。中井梅と称せられ多くの人々
が梅見に訪れた。

佐次右衛門は、大和町で、現金かけ値なしの呉服物を商う備前屋を開いた。この店はたいそう繁昌し、
佐次右衛門は名古屋有数の分限者となった。四代目の佐次右衛門が芭蕉の門人で、俳人として名高い野水
だ。

テレビ塔の下に、蕉風発祥の地の記念碑が建っている。芭蕉の仮宅がこの地にあり、屋主は傘屋久兵衛、
家請が野水であった。貞享元年(一六八四)『冬の日』五歌仙は、この家で巻かれた。

芭蕉の「狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉」の発句に、野水が「たそやとばしるかさの山茶花」と
脇を付けた。時に野水は二十七歳であった。

はつ雪のことしも袴きてかへる

この句は元禄十三年(一七〇〇)から十七年まで惣町代として、多忙な日々を送った野水が、おのが感
慨を詠んだ句である。

明治五年、茶屋町に合併。現在は丸の内二丁目である。



茶屋町

町域は、京町筋の長者町より本町まで。呉服所茶屋中島氏が邸宅をかまえていたので、その屋号をとり
茶屋町と呼ぶ。

『小治田之真清水』に、象が唐人に引かれて、この町を通ってゆく図が描かれている。

象は享保十四年(一七二九)、将軍吉宗に献上するために、はるばる長崎から江戸へ向かってゆく。往
来に出ることはむろんのこと、話し声ひとつもらしてはいけないという触れが出ていたので、人々は息を
ひそめて、両側の町家から、象が通り過ぎてゆくのをのぞいている。茶屋氏の物見長屋からは、藩主がお
忍びで、この象を見ていた。異国人や異国の珍獣が城下を通る時には高貴な人々は、茶屋氏の物見長屋か
ら見ていたという。茶屋氏について『小治田之真清水』は、

茶屋は中島氏江戸の御服所と同家にして、由緒のすぐれたる事は世に知るごとく、玉海集(明暦二年刊
行)にも月の発句のうちに、茶屋といふ人のもとにて、

たべて見ん代々茶屋の望月夜 直能

と見えたり。二百年以前にも、かくの如く代々と称して、いと栄えたりし旧家なる事を知るべし。

と記している。思うにかなわない事は何一つない。茶屋氏の繁栄ぶりをたたえた文だ。

茶屋氏に劣らず繁栄したのが、松坂屋の前身、いとう呉服店を開いた伊藤次郎左衛門家だ。伊藤家の遠
祖は信長の家臣伊藤蘭丸祐広。その子祐道が慶長十六年(一六一一)清須から名古屋に出てきて、本町で
呉服太物業の伊藤屋を開く。三代目の祐基から次郎左衛門を名のる。万治二年(一六五九)茶屋町に移り
呉服太物問屋となる。後に小売業に転じ「現金売り掛け値なし」の商法が大当りをして、財をなしてゆく。
延享二年(一七四五)京都に支入店の開設、明和五年(一七六八)の江戸上野の松坂屋の買収と全国的規
模な店へと転身をする。

「伊藤とかけて仙台銭と解く、心は田舎出来でも日本通用」と天保年間(一八三〇〜四四)のなぞなぞ
に、なるような店に発展していった。

いとう呉服店は明治四十三年、茶屋町から栄町へと移り、座売り形式の販売から百貨店形式の店へと変
ってゆく。

二軒の豪商が京町筋をはさみ、対峙していたのが茶屋町だ。

明治五年、益田町、大和町を併合する。現在は丸の内二丁目となっている。



両替町

京町筋、本町通と七間町通の間。『尾張志』は町名由来について「金銀両替するもの九軒を清須より移
して町の名とす。今は平田と称するもの二軒残れり。あるいは慶長年中に京の後藤庄三郎の通ひ所ここに
有しともいひ伝ふ」と記している。『名古屋町名由緒記』は、その間の経緯を次のように記している。

慶長十八年(一六一三)京都の金工家で、のち幕府の金座頭人を勤めた後藤庄三郎が、この地に通い所
を建てた。清須より移住してきた両替商九軒のうち、二軒の代表が京に行き、庄三郎を尋ねた。「尾張の
国には、まだ両替屋がないので不便だ。なにとぞ、通い所を両替屋としたいので、もらいうけたい」と願
い出た。庄三郎は「とても承知できない」と答えた。

庄三郎は、御用の筋で駿府に出かけた。二人も庄三郎の後を追い、駿府に向かう。二人は、庄三郎に再
度、願い出た。庄三郎は「遠い所をわざわざ尋ねてくれて、その熱心さに感動した。願い出の件は承知し
た」と言った。

庄三郎が承知したことにより両替屋が二軒でき、町名も両替町と名付けられた。

両替町の二軒の両替屋は西の平田所、東の平田所と呼ばれた。東の平田所を経営するのは平田惣助家、
西の平田所を経営するのは平田新六家。

両家は金銀や新札の正贋を鑑定した。真正である金銀は包装し、証印をおした。これを平田包という。
また平田所では現金を包む代りに、金銀を記載した受取手形を発行した。これを平田配布という。新旧の
貨幣の交換なども、平田所で行なわれた。

明治五年三月、京町、諸町を併合し、両替町となるも、明治十一年には京町と改称された。

昭和四十一年の住居表示により丸の内三丁目となる。



京町

京町筋の七間町より伊勢町までの間をいう。清須越の町で、清須当時の町名を、そのまま用いた。清須
へ多くの商人が移り住み、呉服物、細物、太物類を商っていたので、京町と名付けられた。

名古屋の京町は、清須の呉服物の商店が並ぶ町から、大坂の道修町に匹敵する薬種商の町へと変貌して
いった。代表的な薬種商としては、長崎から直接唐物の薬を仕入れ、販売していた生田治郎八。今川義元
の家に代々伝わる今川赤龍丹を販売する日野屋六左衛門。価銀四匁五分の山帰来という薬を売っていた山
口利兵衛がいた。

現在も京町で商売をしている中北薬品の祖、井筒屋中北伊助が、この町に店をかまえたのは寛政年間(一
七八九〜一八〇一)のことだ。

「好事魔多し」安政二年(一八五五)二月二十五日の夜、井筒屋の伊助方の風呂場より出火し、京町全
域を燃え尽くしてしまった。井筒屋だけでも八千両の薬が灰になった。

井筒屋は謝罪の意をこめて、毎月二十五日は風呂をたかないという。現在に至るも中北家では、この家
憲を護っている。

安政二年の大火をきっかけとして、京町は、さらに薬種商の町として発展していった。

明治二十年には、漢方薬にかわり、初めて船来薬(洋薬)が京町で販売されるようになった。

大正初期には薬祖神社をつくり、四十軒の問屋の守り神とした。

町内には薬種商の他、町医の蘇森子桂が住んでいた。子桂は河村秀根(著名な国文学者で尾張藩士)に
数十両の借財をしていた。借金を返すあてもない。そこで子桂は秀根が幕府討伐の密談を重ね、反逆を企
てていると幕府老中松平右近将監の用人に密告した。負債を免れるとともに、賞金を得ようとして企てた
事件だ。幕府が厳しく糾問した結果、誣告の事実が露見した。子桂は、江戸市中を引きまわしの上、獄門
に処せられた。安永七年(一七七八)のことだ。

京町は明治五年、両替町に併合された。明治十一年には再び京町の町名は復活した。

昭和四十一年、住居表示により丸の内三丁目となる。



諸町

京町筋の伊勢町と大津町の間をいう。慶長十五年(一七一〇)の清須越の町である。

清須越当時は片側だけに家が建ち並んでいたので片町と呼ばれた。元和二年(一六一六)北側に町家が
でき両側となったため諸町と改称した。

『名古屋府城志』は、町名が諸町となった年を、寛永三年(一六二六)としている。

町内には蝋燭屋忠兵衛が住んでいた。文禄三年(一五九四)泉州堺の商人納屋助左衛門が、呂宋(フィ
リピン)に渡り、帰朝の節に持ち帰ったのが蝋燭の始まりであるという。

三勝文十郎は鷹狩の時、鷹匠の使う皮、狸の皮の手袋をつくる
たかたぬきし師 として有名であった。

明治五年、両替町と併合され両替町、同十一年京町と改名になる。昭和四十一年の住居表示では丸の内
三丁目となる。



中市場町

京町筋の大津町通と久屋町通の間の町。清須越の町で、清須には北市場、中市場、西市場という市があ
った。中市場は、毎年市日が開かれ、川魚、野菜などが売られていた。その中市場が慶長十四年(一六〇
九)清須越で名古屋に移り、旧名を用い、中市場とした。

『尾張志』は、清須越の町であるというのは誤りであるとしている。「那古野に今市場、中市場、下市
場とて方八町の町家ありしよし地方古義に見えたる。其うちの中市場の残れるなり」と築城以前より中市
場は、名古屋にあったとしている。

中市場町は、明治四年、石町の一ヵ丁を合併。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。



魚の棚筋


京町筋の南の横筋、堀川より久屋町までをいう。魚の棚と呼ぶのは町名ではない。本町通の東西の辺で、
魚を売る店が多かったので、魚の棚筋と呼んだのである。

車之町

車之町は、魚の棚通の堀川より桑名町までをいう。この町は清須越以前より、今市場天王前の地にあっ
たが、慶長年間、名古屋城築城とともに、碁盤割の地に引移ってきた。町名を正保・慶安(一六四四〜一
六五二)頃までは一丁目と呼んでいたが、承応年間(一六五二〜一六五五)に車之町と、町名を改めた。

毎年六月に行なわれる那古野神社の例祭である天王祭は、名古屋屈指の賑やかな祭であった。その祭を
取りしきり、台尻車の総車元となったのが、町内に住む豪商(木綿問屋)磯谷屋忠右衛門であった。

台尻車を出す町というので、車之町と名付けられたという。台尻車とは、中心の柱に十二個の提灯を飾
り、外側に一年中の三百六十個の提灯をつけた車である。

また一説には、今川左馬之介が那古野の地を支配していた時代、この町は那古野神社南の町筋にあり、
すべての家が那古野神社の氏子であった。天王祭には台尻車が、この町から出されたので、自然に車之町
と呼ばれるようになったという説である。

磯谷屋忠右衛門の家が、三の丸中小路にあった頃、庭に大きな松の木がそびえていた。その松をアエバ
の松、俗名磯谷丸と呼んだ。松は名古屋の名木として名高く、磯谷家も名古屋を代表する木綿問屋として
栄えた。

町内には、真宗高田派の広井山至誠院がある。この寺は真光院玄爾大師が慶安元年(一六四八)、広井
村に建てた寺である。その後、爾観大師の貞享二年(一六八五)現在地に移ってきた。江戸時代には、境
内が四八九坪ある広大な寺であった。

至誠院が移ってくる以前には、この地に日蓮宗の聖運寺があった。寛永六年(一六二九)四月、日蓮宗
の慶賛上人の建立によるものである。その後、聖運寺は堀川端の日置村に移っていった。


小田原町

小田原町は、魚の棚筋の桑名町より本町までの間をいう。慶長十五年(一六一〇)清須越当時は東一丁
目と呼んでいたが、承応元年(一六五二)小田原町と改名した。一説には寛永十七年(一六四〇)あるい
は慶安元年(一六四八)に改号したという説もある。

小田原の町名由来は、江戸魚屋町が小田原河岸と呼ばれていたところから付けられたものという。

魚屋の町、小田原町に河内屋林文左衛門が料亭河文を開業したのは、元禄年間のことだ。以後、御納屋、
近直、大又と続き、この町に料亭が開業し魚の棚四軒と呼ばれた。

料理屋に芸者は付きもの。文政年間から芸者が料亭で客の取りもちを始めるようになり、しだいに、そ
の数はふえていった。明治六年には、長者町に盛栄連が誕生した。

文化九年(一八一二)のことだ。この町の鷹屋久右衛門の家で、唐から渡来の丹頂鶴が公開された。多
勢の見物人で賑わったという。その時に天通亭馬勤は、次のような歌を詠んだ。

くれなゐを頂く鶴の毛衣は白きに黒の色をかさぬる



万屋町

杉の町筋、御園町通と本町通との間。

清須越当初は、旧名の二丁目を称していた。その後、松屋町と号す。寛文元年(一六六一)将軍綱吉の
娘、松姫の松の字を使うなどは恐れ多いというので、雑多な商人が住んでいるので万屋町と改名した。

町内には禅宗臨済派の金剛寺があった。第二次大戦で焼失したので、武平町通東側に移った。開基の山
堂首座は百三十六の長寿を保った僧だ。

江戸時代、万屋町には古手物を商う店が多くあった。その町筋の六割までが古着商であった。

明治四年、万屋町を東・西と分けた。明治九年、西万町と改称した。現在は丸の内一・二丁目である。



永安寺町

魚の棚筋、本町より久屋町までの間の町をいう。慶長年間、清須の永安寺門前の町家を移したので、永
安寺町と名づけられた。永安寺は、この町には移されず禅寺町(東区)に移った。

明治四年九月、伊勢町筋を境に東の三丁を東魚の棚町、西の三丁を西魚の棚町として分割。さらに九年、
東魚町、西魚町と改称。

昭和四十四年の住居表示により東魚町、西魚町とも丸の内三丁目となる。



杉の町筋


魚の棚筋の南の横筋である。堀川より高岳院門前までの筋で、そのうち堀川より御園町までは、武家の
蔵屋敷、商家が建ち並び、御園町より本町まで五町を、万屋町あるいは杉の町と呼んでいた。久屋町まで
の町家は皆それぞれの縦町に属していた。久屋町より東は皆武士町であった。


桜の町筋


杉の町筋の南の横筋である。堀川より久屋町まで十三丁の間をいう。そのうち長島町より本町まで二丁
を小桜町と呼び、縦町の小桜町に属していた。その他の町も、それぞれの縦町に属する。


伝馬町筋


堀川より奥田町までの桜の町筋の南の横筋である。


伝馬町

伝馬橋から東、奥田町(新栄三丁目)に至る伝馬町筋の西端に位置し、木挽町筋と七間町筋との間、ほ
かに七間町筋から大津町筋との中間北側が町域である。町名の由来は、清須以来伝馬役を務めていたから
である。

清須越の町であるが、移ってきた時期については諸説ある。『尾張志』はこの町について、

慶長十五年清須の伝馬町をうつして伝馬役をつとむ事もとのごとし。旧広井の八幡山にて瓦をやきし事
ありし故桑名町より西の辺を瓦町といひしとも云伝へたり。伝馬会所本町の西南角にあり。制札同所東側
にあり。遠見櫓本町七間の間北側にあり。
と紹介している。

『尾張志』の伝えるところによれば、遷府以前桑名町筋以西の地は泥江縣神社の山林であった。築城に
あたり、ここで天守の瓦を焼いたので瓦町と呼ばれた。築城が完成し、瓦師が各地に移住した後は、瓦町
は伝馬町に属する事となった。

名古屋第一の交通の要地、伝馬町には問屋場が置かれていた。常備の人足百人、伝馬百匹で美濃路、飯
田街道、上街道、下街道をゆく旅人の便をはかっていた。問屋場の幕や提灯などには、薬研を丸で囲んだ
印が使用された。これは荷物はここで下ろせという意で用いられたものである。

問屋場には、槍や刺又、突棒が備えられ、他国からの不審者に目を光らせていた。

寛文五年(一六六五)からは、飛脚問屋が置かれ、江戸と名古屋との書状や荷物の取扱いを始めた。江
戸まで、七日間で荷物や書状は届いたという。

本町通と伝馬町筋との交差地点には、高札が建っていて、札の辻と呼ばれた。名古屋への距離の測量は、
この札の辻が起点であった。

享保十二年(一七二七)には、高さ二七間(約三七メートル)の遠見櫓(火見櫓)が建てられた。ここ
の番人に定八という親孝行者がいた。天明三年(一七八三)このことが上聞に達し、青銅三貫穴が下賜さ
れた。

名古屋第一の交通の要路であり、繁盛地であった伝馬町には、多くの名門、旧家が軒をかまえていた。
昔より今もこの地で商売を続けているのが、お茶の升半だ。升半こと升屋横井半三郎家は、枇杷島(西区)
で、小さな店をかまえ茶を商っていた。江戸後期、おりからの茶事流行のブームに乗り、消費量が大幅に
増加する。茶の産地、山城の茶師たちは、挽茶の販売を独占しており、容易に値下げの要求に応じない。
半三郎は、自ら販路を獲得し、地元で仕入れから販売までの流通経路をつくりあげた。

天保十一年(一八四〇)半三郎は伝馬町に進出し、挽茶業を創業した。

伝馬町は明治四年に、一丁目から三丁目は小伝馬町、四丁目から七丁目は大伝馬町、本町筋以東は宮町
へと三分割された。十一年には大伝馬町、小伝馬町は合併、伝馬町となる。

昭和四十一年、錦一・二丁目となる。



宮町

伝馬町筋の七間町より武平町まで。清須越の町で、慶長年間にこの地に移ってきた。清須当時の町名を、
そのまま用いて宮町とした。

『名古屋府城志』は異説を紹介している。

宮町は清須よりの旧名にあらず。宮町の内に古社(宮)一社あり。因て町の名とするなり。今堀弥九郎
の宅地宮町の界に其社あり。
『名古屋市史』は、久屋町筋と武平町との間、中程の北側の裏に古榎の大木が天保年間(一八三〇〜四
三)の頃まであった。これは昔、この辺りにあった、社頭の大木であったという。この社があったので、
宮町と名付けたとしている。

享保十二年(一七二七)火の見櫓が町内に設けられた。これは八事山大日の狼煙の見張りと城下の火災
発見に備えて建てられたものである。

町内には、大八車屋の主人で、『金鱗九十九之塵』の作者、桑山清左衛門が住んでいた。

明治四年、本町筋以東の伝馬町の一部を合併、町筋より東の区域を割いて神楽町として独立。町内にか
つて坂があった。その坂が神社の拝殿跡ということで神楽坂と呼んだ。神楽坂の町名由来は、それにちな
んで付けられたものだ。また七間町筋と呉服町筋との間の南側は杁の口町と呼ばれた。これは町屋裏に、
大杁があったことに由来する。

昭和四十一年、住居表示により錦三丁目となる。東区の部分は東桜一丁目となる。



袋町筋

伝馬町筋の横筋である。御園町より久屋町まで十一丁、そのうち長島町より本町まで二丁は、慶長十五
年、清須の小塚村袋の内から移住して袋町と呼んだ。その他の町はみなそれぞれの縦町についている。


袋町

袋町筋の長島町通から本町通に至る二丁が袋町である。慶長十五年(一六一〇)清須本町の小塚田所の
袋の内から移ってきた。旧号をとって袋町と名付けた。本来なら伝馬町筋となる所が、西方の泥江縣神社
の山が障害となって一丁北に移された。

町内には真言宗、如意山福生院がある。

福生院は大聖歓喜天が鎮座している寺として有名。お聖天さまと呼ばれ、人々から広く信仰されている。

開山は蜂須賀村蓮華寺(現在の海部郡)の五世順誉上人。至徳年間(一三八四〜一三八六)愛智郡中村
(現在の中村区)に建立された寺である。元和三年(一六一七)中村より、この地に移されてきた。


戦前は骨董屋の町、戦後は「タテの長島町、ヨコの袋町」と呼ばれた有数の繊維問屋街であった。

明治四年、八幡町と合併。町域は木挽町通から本町通までとなる。昭和四十一年錦一丁目、二丁目とな
る。



鶴重町筋


袋町筋の南の横筋である。堀川より久屋町まで。ただし武士町も入り交っている。呉服町通より鍛冶屋
町通までは鶴重町に属し、他は縦町についている。



鶴重町

伊勢町通の練屋町の南にあり、伝馬町筋から広小路までと袋町通、本重町通、蒲焼町通、広小路通の東
西へそれぞれ半町を町域とする。

清須当時は新町と呼ばれていた。新町に刃物鍛冶の丹羽三左衛門という鍛冶がいた。三左衛門は伊勢神
宮に二七度参拝し、よい刀鍛冶になれることを祈願した。ある日、夢の中で刃物の銘を鶴重に改めるよう
にとのお告げがあった。それ以後、銘に鶴を用いていた。それ以後、新町は鶴重町と呼ばれるようになる。

慶長の清須越以後も、鶴重町を用いていたが、元禄元年(一六八八)将軍綱吉の娘、鶴姫と同じ町名で
は恐れ多いというので、本重町と改めた。三左衛門の先祖の法名、道本にちなんで付けたものだ。

天保五年(一八三四)、旧の鶴重町に復した。


昭和四十一年、錦三丁目となる。


蒲焼町筋


鶴重町筋の南の横筋である。御園片町より大津町通までの九町。その中には武士町も入りまじっている。
この筋の町家はすべて縦町に属している。


蒲焼町


本重町南にあって、西は御園町通から大津町通まで。


『尾張名陽図会』は、蒲焼町の町名由来の諸説を、次のように紹介している。




清須越にあらず。万治年中の図には扇風呂町とあり。(今の風呂屋、昔はかくいふとぞ)ある記に云ふ。
飛弾屋町は今のかばやき町なるべしと書けり。ある説に、かんば焼町とて桜の皮を焼きていろいろ細工に
用ひる職人の住みし所ゆゑの名なりともいふ。また一名を梶川町と呼ぶは、梶川氏なる人の取立てし町な
る由をもいへり。


また一説には、築城手伝いの人夫を相手の茶店を並べ、蒲焼を売っていたからという。


明治四年、本町通と大津町通の間、四丁に蒲焼町を置き、九年御園町通から本町通の五丁を園井町とし
た。昭和四十一年錦一―三丁目となる。



広小路




蒲焼町筋の南の横筋である。長者町通より久屋町通までをいう。万治三年(一六六〇)の大火により、
町家を払って広小路とした。長者町通より西は、南側に悪水落の堀があり、堀切筋とも呼んだ。



御園町通

御園御門通の縦町である。片端より七ツ寺裏門の西までをいう。鶴重町より堀切まで西側それぞれ両側武士町である。



上御園町




御園町筋北端に位置し、南は中御園町に接し、京町筋と杉の町筋の間。

慶長十七年(一七一二)清須の
みす
御簾 野町を移し、旧名をとなえた。町名の表記を藩主義直の命により、
御園町と改めた。『尾張志』によれば、清須当時、町内には御園神明社があった。

御園神明社は、大神宮の御園であったところから付けられた名前であるので、町名を御園町と名付けた
としている。

『金鱗九十九之塵』には、

一説、御園町の号ハ、清須の城門の外町にありて、此所に御花畑など有し所也。故に御園といふ義を以
てミそのと名付たるよし
とある。

また『尾張国地名考』は、御園というのは延喜典薬式にみえる尾張献納の薬種の産地であるからだとし
ている。諸説があり、いずれとも決しがたい。

町内に在住する甚七という者は、たいへんな親孝行者で、元明四年(一七八四)藩主より褒美として青
銅三十貫文を頂戴したという。

貞享三年(一六八六)御園町は、上中下と分かれ、それぞれ町名を変えた。明治四年、中御園町を併合
して、上園町と改称した。昭和四十一年の住居表示により、丸の内一丁目、錦一丁目となる。



中御園町

御園町通、杉の町筋より南へ伝馬町までの間。貞享三年(一六八八)上・中・下と御園町の分割ととも
に、中御園町として独立。

『金鱗九十九之塵』は、その経緯について次のように記す。

中御園町より御願申上候ハ、御園町之儀ハ源敬様御意ニ而被出候バ、御簾野町名向御御園の文字に改替
可申候由被仰渡候、今に御園町と申候。其上百年余火災も無御坐候故、何卒唯今の通に被仰付候御願申上
候得バ、右之通被聞召、今に中御園町と申候。

藩主義直が御簾野を御園と表記を改めるように命じた。縁起のよい町名で、その後百年余も火災が起っ
ていない。御園という名を、今後も使用させてほしいと役所に願い出て聞きとどけられ、中御園町となっ
たとしている。

町内には、葺師(屋根を葺くことを業とする人)の伝兵衛が居住していた。伝兵衛の先祖は、清須で代々
葺師頭をしていた。清須越で名古屋居住後も葺師頭として、お城の御用を始めとして、碁盤割の家々の屋
根を葺くことに従事していた。当時、葺師の数は少なく年間八日間は、お城の御用を勤めることが決めら
れていた。碁盤割の町に住居する桶屋と葺師は、碁盤割以外の地で仕事をすることは禁じられていた。

明治四年、上御園町に併合。上園町となる。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目と
なる。



下御園町

御園通の伝馬町筋と本重町筋との間の二丁。上御園町、中御園町とともに、御園町を構成していたが、
貞享三年(一六八六)分離独立して下御園町となる。


町内には、名古屋の赤ひげ先生、伊藤玄沢が居住していた。


玄沢は医者のいない遠隔僻地の地まで往診に出かけ、重病人には家方の名薬、養花散を調じて飲ませた。
宝暦二年(一七五二)藩主はこの事を聞き、「これからは、毎年薬種料を与える。伊藤家は子孫に至るま
で、医者として広く施薬せよ」と仰せになった。玄沢の名は、広く聞こえ、名古屋に流れついた雲水、六
法、巡礼までも施薬を乞いに訪れた。伝手を求めて、名古屋はもちろんのこと遠国の人までもが、玄沢の
家の門をたたいた。

玄沢の家の屋上には、大きな看板が掲げられていた。看板には、次のように書かれていた。

右はその身至てひんにして病気のせつ、よるべもなく、くすりを用ひ候事も、心にまかせざる人に、近
来薬を施し来候、然処此度上よりも薬種料御めぐみ下され候条、いよいよ遠慮なく施薬のぞみの病人参る
べく候。そのうち大病あるひは歩行かなはざる病人、近き所へは見まひ可レ申候。遠方にて見せ候事なり
がたきものも、くわしくやうだいをきき、やうす次第、薬をあたへ可レ申候。

但、右のとほりのひんじや、せやくをたのみ来り候においては、小児のわづらひ、目のわづらひ、はれ
物の類にても、りやうぢいたしつかはし候事。

雲水の出家衆、并くわい国巡礼修行者のたぐひ、これまたせやくいたし候間、療治望の方は御こしある
べく候。

医は仁術であることを、玄沢は身をもって示した人物である。施薬所跡は、御園小の東側の地にあった。
玄沢は、小学生に、人間の生き方のもっとも大切なものが何であるかを教えてくれる教材であろう。

明治四年、御園片町と合併し、下園町と改称。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。



御園片町



『金鱗九十九之塵』は、御園片町の町名由来について、次のように伝えている。

町名由緒之儀、古き帳面段々吟味仕候処、委敷儀相知不申、并老人より聞伝申候ハ、清須越の節より西
側諸士屋敷ニ而、東側計町家にて御座候故、御園片町と申候。

この町は御園通、本重町筋と堀切筋(広小路)との間の二丁であるが、西側に武家屋敷があったので、
御園片町と呼ぶようになったのが、町名の由来であるとしている。

町内には舅によく孝行をしたというので、藩主より、寛政十年(一七九八)青銅三十貫を褒美として頂
戴した美那女がいた。

また書家として名をなした栗木辰助は、神童として幼少より名が高かった。

天保五年(一八三四)の辰助について、『金鱗九十九之塵』は、次のように記している。

此小児ハ為レ不レ学能書、為レ不レ習能

読 奇異の童子なり。

御園片町は明治四年、下御園町に併合、下園町と改称。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。



正万寺町通



御園通の西の縦町である。京町筋から伝馬筋までをいう。



正万寺町

御園町筋西の正万寺町北端の町で、京町筋と杉の町筋との間の二丁。慶長十七年(一六一二)清須の勝
鬘寺(三河国額田郡針崎村の勝鬘寺の通い所)の境内地にある商家を名古屋に移住させ勝鬘寺町と名付け
た。勝鬘寺の通所も同時に大津町の南に移した。

勝鬘寺に、町名は正万寺の字をあてるについて『名古屋町名由緒記』は、次のように説明をしている。


正万寺町の文字に違ひ有之候は深き来由あり。いにしへ聖徳太子日本国中に、寺四ヶ所御建立被遊て、
三州針崎勝鬘寺ハ其一ヶ寺にて、聖徳太子の御幼名ハ、則勝鬘太子と申奉る。其御名を以て寺号となし、
勝鬘寺と名付しとかや。其後遙に時代押移り御当家に至り、公義より御朱印成下され、此時此正萬寺を御
書添下し給る。去に因て、御朱印の御取扱の節は、此正万寺の文字を用ひ、又寺より取扱の時は勝鬘寺の
文字を書す。されば寺号の文字は両様共用ひ書といへり。

町内には芭蕉の高弟杜国が住んでいた。芭蕉の名句

鷹一つ見付てうれしいらご岬

は、空米売買事件によって伊良湖岬に配流になった杜国を、芭蕉が訪ねた時に詠んだ句だ。死罪と決った
杜国の刑を流罪としたのは二代藩主の光友である。杜国が尾張の国を祝い「蓬莱や御国のかざりひの木」
という句を詠んだことを承知していたので、罪を許したのであった。

明治四年、皆戸町と併合。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目となる。



皆戸町



皆戸町を『尾張志』は、次のように紹介している。

杉の町より伝馬町までをいふ。慶長十七年清須よりうつして正万寺町下の切といひしを、貞享四年今の
名に改む。ここは戸障子襖等を造る職人町にて、家毎に皆戸を作るゆゑに此名あり。

寛永年間(一六二四〜一六四四)、正万寺町下の切の戸数は五二軒であった。その中には清須越の戸商
売丸一屋吉右衛門がいた。吉右衛門は武士であったが浪人して戸屋となり、慶長十七年、清須より名古屋
に移住した。

昔は建具職は戸屋と呼ばれ、屋号も戸屋で統一されていた。

その伝統は、昭和になっても引きつがれ、オーダー・メイドの商品しか手がけず「建具の皆戸町」と呼
ばれた。既製の建具は裏門前町で多量に売られていた。「建具の皆戸町」の誉り高い伝統は、厳しい徒弟
制度によってまもられてきた。十二、三歳頃より親方について修行し、親方の許可を得て独立し、店をか
まえることができた。戦前は町内の四分の三までが建具職であったが、現在は一軒もない。

明治四年、正万寺町と合併。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。



上材木町



上材木町は、正万寺町筋の西にある南北道路の杉の町筋より伝馬町筋の間。

『名古屋町名由緒記』は、

当町は清須越に不非。慶長十七壬子歳、京都辺より数多引越来り、家並建続きて、則町名も京材木町と
号せし由。其後元和年中町内一統材木の商家故、公聴願ひ上材木町と改号す。
と町名の由来を記している。

町内には堀川の舟運を利用して、木曽の桧などの良材が運ばれてきた。藩では上材木町、下材木町、元
材木町の三ヵ町に居住する業者に限り、材木屋の称号を許し、白木屋、板屋などという他町の同業者と区
別した。

また、この町だけに許可されたものに盆中灯籠がある。毎年七月十三日ないしは二十日、あるいは盆中
だけ、大きな灯籠を、家毎に切紙灯籠をともすことが許された。ここは昔、墓所があった地で、盆に聖霊
をむかえるために灯籠をかかげたのが始まりであるという。

堀川に下る坂の上に白山神社が鎮座している。白山神社には、秀吉にかかわる伝説が残っている。豊臣
秀吉が朝鮮戦役のとき、神社の楠の大木で、兵を乗せ朝鮮に渡る船を造ろうとした。材木人夫が楠に斧を
入れようとすると負傷をするという異変が相次いだ。その夜の夢枕に出てきた童子のお告げにより、秀吉
は船を造るのを断念し、仏像を造り、寄進をした。

祭神は菊理媛命、創建年月日は不詳。かつての境内は一一三坪あり、泥江縣神社の境域に続く末社。例
祭は八月十五日で、泥江縣神社の御旅所である。

材木の町、上材木町には、材木問屋川万屋加藤善右衛門、天満屋河村九兵衛が知られている。九兵衛は
曲全斎と号し、曲全流の始祖である茶道家である。

明治になり、材木町と改称。現在は丸の内一丁目、錦一丁目に属する。



木挽町通



堀川の東岸を通る縦町である。片端より堀切筋までをいう。



木挽町

堀川の東岸、片端筋より堀切筋までを、木挽町通という。その片端筋より京町までの間が木挽町である。
この町は万治三年(一六六〇)まで上畠町西の切に属していたが、寛文元年(一六六一)より独立し、木
挽町と改名した。


名古屋城築城の時、ここに木挽小屋が造られ木挽職の者が居住していたので、町名とした。

木挽とは、木材を大鋸で挽く人、木こりのことをいう。

宝永六年(一七〇九)十一月、片端角より南へ家数四軒が御用として藩に召し上げられ、小舟町に替地
が与えられた。正徳四年(一七一四)に返還され、再び町地にもどった。木挽町は家数は十六軒、清須越
の町ではない。

明治四年、元材木町、両蔵屋敷、下材木町、葭町を併合、木挽町とする。昭和四十一年、住居表示によ
り丸の内一丁目となる。



元材木町

木挽町通、京町筋より魚の棚筋の間。

『名古屋府城志』には、この町は清須越であるので、清須材木町と名付けたとある。『名古屋町名由緒
記』は、清須越の町ではないとしている。寛文五年(一六六五)清須材木町という町名は長すぎるという
ので、北材木町と改名した。貞享三年(一六八六)、北材木町の北の字は「にぐる」と読み、敗北を意味
し縁起が悪いというので、元材木町と改めた。


元材木町、魚の棚筋より、杉の町までの間を両蔵屋敷と呼んだ。成瀬隼人正、志水甲斐守の屋敷が左右
にあったからだ。元禄十三年(一七〇〇)五月、両蔵屋敷は火災により全焼。その跡に町家が建てられ、
町並となった。

町内には豪商犬山屋神戸文左衛門が在住していた。神戸家には秘蔵の花活の籠かつら川が伝わっていた。
花活が神戸家に伝わった経緯は次の通りだ。

千利久が京の桂川を散歩していた時のことだ。釣人が腰につるしていた魚籠を花活にしたいと思い、男
から籠を買取った。

花活の籠は、利久から豊臣秀吉に渡り、さらに吉良上野介の秘蔵するところとなった。浅野浪士が吉良
家に討ち入った時、上野介の居間にあった籠に槍をつきさし、吉良の似せ首として泉岳寺まで持ち帰った。

その時の槍疵が籠に残っていたという。

その後、神戸家にこの花活は伝わった。価は三千金であるという。

元材木町は明治四年、木挽町に合併された。

昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目となる。



下材木町

木挽町通、中橋より南へ伝馬橋までの間。

材木商天満屋九兵衛、川方屋弥兵衛が、慶長年間、清須より名古屋に移住し、下材木町に住居をかまえ
た。二人は上材木町に対し、下材木町と称した。

中橋の東側の川岸で、植木、石燈籠、山海の珍石を商う商家白木屋の店は、あたかも深山のような趣を
呈していた。春ともなれば、桃や桜が咲き乱れた。秋は紅葉、冬は雪の眺めもすばらしく、名古屋の町中
にある景色とは思えないほどで、多くの見物人で賑わった。

豪商、材木屋鈴木惣兵衛は元禄十三年(一七〇〇)知多郡寺本町(現知多市)より移住し、元材木町で
材木商を始めた。二代目の時に下材木町に移った。幕末には御用達商人十人衆の一員に数えられるほどの
豪商であった。

戦後多い時には六十余軒もあった材木商も年々姿を消し、現在は数えるほどしかない。「上ものは木挽
町にかぎる」と言われた良質の木材を商っていた材木商も姿を消し、両側に立てかけてあった材木、それ
を運ぶトロッコも、堀川端から影をひそめてしまった。

明治四年、下材木町は木挽町に併合。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。



葭町


木挽町通の伝馬町筋と堀切筋の納屋橋との間の三丁。慶長十六年(一六一一)清須の東葭町がこの地に移
住し、旧号を称えた。

『尾張志』には、町名由来について「慶長十六年清須より移りて東葭町といひしを、寛文年中東の字を
畧けり。堀川の岸の葭を此町より刈て売けるゆゑしか名けしとそ」と記している。

清須で、すでに東葭町と呼ばれていた町が、名古屋移住後に葭を刈っていたので葭町と名付けられたと
いう説は、すこし無理があるようだ。清須時代、すでに葭山を与えられ、葭、かやをこの町で売買してい
たのが町名の由来とする『尾張城南陌名由緒』の説の方が正しいであろう。

承応二年(一六五三)本重町筋河岸に船番所が設けられたが、火災のため焼失。享保九年(一七二四)、
天王崎に船番所は移った。



葭町は明治四年木挽町と合併し、木挽町と町名変更。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。



伏見町通



桑名町の西の縦町である。片端より清安寺門前の西までをいう。堀切(広小路)より南は武士町である。



伏見町



『名古屋府城志』は、伏見町を、次のように紹介している。

古山城国伏見の者移住此地、因以為名。府尹志に、此町草創の年月不詳、初伏見六兵衛と云者住居せし
に仍て名とすと云。

伏見町は清須越の町ではない。いつごろ、この町ができあがったかは不明である。開府以前から伏見屋
六兵衛という商人がこの町に住んでいた。おいおい伏見から移住した人がこの町に住みつき、いつしか町
家ができあがり、伏見町と呼ばれるようになった。
町は伏見町筋北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間の二丁をいう。



伏見町は商家と医者の町であった。商家として有名なのは茶碗屋源左衛門、別号を玉香園米亭という人
物だ。庭には高さ九尺(約三メートル)、幅は二間(約三・六メートル)という白ボタンの大木があり、
初夏には二百輪をこえる花を咲かせた。


みどりなる葉に包まれて白ぼたん

寛政年間(一七八九〜一八〇一)に、松平掃部頭が詠んだ句だ。

医者では石川立安が有名だ。明国からの帰化人、張振甫も、この町に一戸を構えていた。

変った人物ではスゴ六の名人、三河屋和助。サイコロを自由自在にふりまわし、自分の思う通りの目を
出すことができたという。

幅三間の格子窓が突きでていた町が伏見町。その後、第二次世界大戦とともに建物疎開が始まり、五十
メートル道路の建設が始まった。

空襲とともに焼尽した伏見町は、かつての面影はどこにも見られない町へと変わりはててしまった。


明治四年、淀町を併合。昭和四十一年丸の内一・二丁目、錦一・二丁目となる。



淀町


伏見町通、杉の町筋と伝馬町筋との間の二丁。清須越の町ではなく、遷府後に開かれた町である。町が
開かれた当初は伏見町下の切、あるいは伏見町三丁目と呼ばれていた。

貞享三年(一六八六)伏見と淀の縁をもって淀町と命名された。

明治四年、伏見町に併合。昭和四十一年丸の内一・二丁目となる。



伊倉町

伏見町通、伝馬町筋と本重町筋との間の二丁をさす。

清須越の町で、清須では
うぐい
鯏 うら
浦 町と呼ばれていた。うぐいうらは言いにくいという理由で、承応二年(一
六五三)三月に、伊倉町と改称。

鯏浦町の由来は、はっきりとはしていない。海東郡にある村名で、その出身者が清須に移り住んででき
た町であるともいう。

町内には延命院がある。真言宗長野万徳寺派の寺で、清須北市場村にあった。開基は不詳。福島正則の
祈願所であるという。

伊倉町は明治四年、米倉町と合併。昭和十一年広小路通、四十一年錦一・二丁目となる。



米倉町


伏見町通、本重町筋と広小路通との間の二丁をさす。北は伊倉町、南は武家屋敷で碁盤割を離れる。

清須越の町で、当初は下鯏浦町と呼んでいた。承応二年(一六五三)伊倉町下の切と改称し、同町の上
の切と併せて支配した。承応三年、下伊倉町として分離。貞享三年(一六八六)伊倉町とまぎらわしいの
で、藩に願い出て米倉町と改称。



明治四年、伊倉町と合併。昭和十一年広小路通、四十一年錦一・二丁目となる。



桑名町通



片端から花屋町に至る南北道路である。



桑名町

桑名町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間の二丁。南は桶屋町に接する。

慶長年間、清須の北市場にあった桑名町を移した桑名町は、清須越の町である。『尾張志』は、「長島・
桑名の両町はもと伊勢の国より清須へ移しし町なるべし」と述べている。

桑名町には江戸時代は政治の、明治時代は経済の中枢をになう建物があった。江戸時代、長島町の片端
筋東角にあった国奉行役所跡が天明二年に焼失した。その後、桑名町、片端筋東角に新しく役所は建てか
えられた。

明治二十三年、新栄町から名古屋商工会議所が桑名町に移ってきた。

桑名町には多くの文人が居住していた。俳人では芭蕉の高弟、山本荷兮、越智越人。漢詩人では森春涛、
槐南の親子が住居をかまえていた。

明治四年、桶屋町の一部を併合。昭和四十一年には丸の内二丁目となる。



西鍛冶町

桑名町通の桜の町筋から鶴重町間の、清須越の町である。清須越の折、大工や桶師、葺師などの鍛冶た
ちがこの町に居住したので、西鍛冶町と名付けられた。鍛冶町とも呼んでいたが、東の関鍛冶町とまぎら
わしいので西の字を添えて区別をした。
町の南、袋町筋と鶴重町との間の東側は、もと武家屋敷であったのを享保十三年(一七二八)町家がで
きた。


昔、この辺は万松寺の境内であった。町内の傘屋亀二郎の屋敷の裏にある井戸は、万松寺の井戸であっ
た。


西鍛冶町と袋町との辻に塚があった。平安時代の陰陽師、安倍晴明が、この地で亡くなった秘書を葬っ
た塚である。晴明は、塚に護符を埋め、この地に火事が起らない呪いをした。そのせいか昔より、この地
には火事が起らないという。

西鍛冶町は明治四年、桶屋町に合併された。昭和四十一年には錦二丁目となる。



桶屋町

桑名町の南、西鍛冶町の北に位置し、桑名町通の杉の町筋と桜の町筋との間の一丁。

慶長年間、清須の桶屋町が名古屋に移住し、旧号を用い桶屋町と称した。町名の由来は清須時代、町内
に家持桶師孫左衛門という者が居住していたからである。

明治四年、一部を桑名町に編入。同時に西鍛冶町と、その南に続く武家屋敷地(堀切筋まで)を合併。
昭和十一年広小路通と改称。四十一年錦二丁目となる。



長島町通



京町通から杉の町までをいう。



長島町


片端から三ツ蔵通までの南北道路長島町通の北端の町で、南は島田町に接する。京町筋と杉の町筋との
二丁をさす。


慶長年間の清須越の町で、町名は清須での旧号を用いた。


伊勢長島と清須との関係は深く、多くの人が長島から清須に移り住んでいる。長島から清須に移った寺
院もみられる。それらの人々が住んでいた町なので、長島町といったのであろうか。判然としていない。


長島町には藩校明倫堂がある。明倫堂は天明二年(一七八二)十代藩主宗睦が尾張藩に学館がないのを
なげき、この町に明倫堂を建設した。翌年、総裁に細井平洲を迎え開校した。明倫堂では、武士ばかりで
はなく町人、百姓にも自由に聴講を許した。


明倫堂は、明治四年の廃藩置県とともに廃校となった。明治八年、明倫堂の跡地に東照宮が移ってくる。
東照宮のまつり、名古屋まつりは市中を熱気につつむ、盛大なものであった。



島田町


『尾張志』は島田町を、次のように紹介している。

杉の町より伝馬町までをいふ。慶長十六年清須よりうつして下町といひしを、貞享元年十一月、今の名
に改たるは北に長島町、南に田町ある故其文字を連称せし也。

清須や名古屋近辺から人々が移り住んでできたのが島田町。清須から移住してきたのは二戸だけであっ
たので、正確には清須越の町とはいえない。町並ができあがったのも遅く、元和年間(一六一五〜二四)
頃である。

貞享元年(一六八四)長島町と田町の中間にあるので、島田町と名づけたと『尾張志』は記している。

明治四年、一丁目は長島町に分離、田町と合併した。

大正十二年には、一部が新柳町となる。昭和十一年には広小路通、四十一年錦二丁目となる。



田町

長島町通の伝馬町筋と本重町筋にはさまれた二丁。ほかに本重町筋の西へ半丁と、享保十四年(一七二
九)開発の中道を支配する。

清須越の町で、清須では野田町と称していたが、移住後は野の字を省いて田町とした。

清須越の時期は、はっきりしない。

町内には、坪内逍遥が、自分を育ててくれた学校であると言った貸本屋大惣がある。大惣を開いた大野
屋惣八は知多郡大野の出身。明和四年(一七六七)、この地で貸本屋を開業した。この店は全国に名を知
られた。

多くの武士、町人が大惣ののれんをくぐった。名古屋を訪れた滝沢馬琴は、大惣の広告文を依頼され、
次のような文を書いて与えた。

古人琴書酒の三を以って友とす。しかれども酒は下戸にめいわくさせ、琴はゆるしに黄金をしてやらる。
只書のみ貴賤となく、友とするに堪えたりといへども、又書籍にも往々得がたきありて、高価に苦しむも
あり。夫れ一日雇の女房後腹をやまず、十日切りの貸本紙魚のわずらひなし。尤もかりて損のゆかざるも
の、ゆふ立の庇雨の日のかし本

大惣が倒産後、貴重な書籍は京都、東京に散逸してしまった。

田町は明治四年、島田町に併合。昭和四十一年には錦二丁目となる。



長者町通




本町通の西の縦町で片端より花屋町までをいう。そのうち広小路以南は武士町である。



上長者町

『尾張名陽図会』は「長者町通」について次のように記している。

慶長十六年、清須長者町といふ所より引きうつりなり。この地にうつりても旧名を呼ぶとぞ。一説に、
清須の長者町といへるには、金持の集り住みし故の名なりといふ。この長者町は京町通より桜之町通まで
をいふ。ここを上長者町と呼ぶ。清須の本町より一丁程西の田面にこの名ある由。

町名由来の一説に、明治中期、上長者町三丁目付近に服部権右衛門という豪商がいた。この長者が町の
象徴となり、長者町と町の名を呼ぶようになった、という説がある。

長者町は清須越の町である。名古屋移住後も、清須当時の町名をそのまま用いたので、明治になってか
ら長者町という町名ができたという説は、明らかな誤りである。

それにしても長者町とは縁起のよい町名だ。明治四年、小桜町を併合。昭和四十一年には丸の内二丁目
という何の変哲もない町名へ変更する。住民にとっては痛恨の思いであろう。

町内には那古野神社が鎮座している。那古野神社は築城以前には三の丸の地にあった。亀尾天王社、郭
内天皇、三の丸天王とも呼ばれていた。

名古屋城築城にあたり、障害になるため若宮八幡社と亀尾天王社のいずれかを移転させる必要が生じた。
家康はくじを引かせ、敗けた若宮八幡社を末広町に移転させた。明治維新のさい、須佐之男社と改め、明
治九年現在地へと移ってきた。明治三十二年那古野神社と改称。


長者町を有名にしたのは、上長者町かいわいを根城とする盛栄連の姐さんたちだ。絃歌と嬌声のさんざ
めく巷へとスタートしたのは文化文政年間(一八〇四〜一八三〇)で天保の頃が第一期黄金時代、明治六
年、盛栄連が結成されると、その名声はいよいよ高く、天下の名士は千客万来、長者町通だけでも人力車
詰所が五ヵ所もできた。芸者置屋は三十四軒八十人(大正三年調べ)、盛栄連のよき時代であった。



小桜町


清須越の町で、慶長年間、上長者町と一緒に移住してきた。当初は長者町四丁目と呼んでいたが、貞享
三年(一六八六)町内の天神社に桜の大樹があるため小桜町と改称。



天神社は、織田信秀が京都北野天満宮から菅原道真の木像を持ち帰り、その尊像を祭るため万松寺の境
内に建てたもの。万松寺は開府の際、大須に移転したが、天満宮はそのまま残った。

万治三年(一六六〇)一月十四日の大火で、天神社は焼失、桜の木も枯死してしまった。その焼跡に銭
湯ができて、桜風呂といった。銭湯が廃業になった後、その跡地に桜屋という屋号の和菓子屋ができた。

桜とともに天満宮の名物は鐘楼堂である。万治四年三月、尾張藩の釜役、水野太郎左衛門が精根をこめ
てつくりあげた大鐘が天神の境内につるされた。明治八年まで名古屋の街で万松寺の鐘は、名古屋の人々
に時を知らせつづけた。



町内には、藩に出入りすることを許された畳屋四軒のうちの一つ、畳徳があった。畳徳は明治に入って
からも、宮内省の指定店として、その古いのれんを誉った。

同じ町内に竹中藤五郎が住居をかまえていた。彼は伝統的な工法の建築に長じていた。弟の藤右衛門は、
近代洋風建築を志して神戸に出て独力で竹中工務店の基盤を築き、日本を代表する大手会社に成長させた。



昭和十二年、名古屋駅に通じる五十メートルの大道路となった桜通には、プラタナス、公孫樹が植えら
れ、かつての桜通の面影は通りから消えてしまった。

明治四年、小桜町は上長者町に編入。

桜町は明治四年、桜の町筋に新たに成立した町。桜の町筋の木挽町通から久屋通に至る町域のうち、本
町通から伊勢町通までの三町が独立したもの。桜の町ともいった。

菅原町も明治四年に、新しく成立した町。桜の町筋の木挽町通から久屋町通に至る町域のうち、伏見町
通から本町通までの四町が独立したもの。

以上三つの町の町名由来はいずれも桜天神社にちなんだものである。昭和四十一年住居表示により小桜
町は丸の内二丁目、錦二丁目、桜町は丸の内三丁目、錦三丁目、菅原町は丸の内二丁目、錦二丁目となる。



八百屋町

長者町通のうち、鶴重町筋から横三ツ蔵筋までの間をいう。そのうち広小路より南、入江町の西側と南
は両側武家屋敷であった。
清須越の町ではなく、名古屋開府以後の町屋。町名は、野菜を商う人々が多く住んでいたところから八
百屋町と呼ばれた。

明治四年、下長者町に併合。昭和四十一年住居表示により錦二丁目、栄二丁目となる。



下長者町



伝馬町筋と本重町筋との間の二丁。清須越の町であるが移転年月日は不詳。『那古野府城志』によれば、
上長者町に対して、名古屋城から離れているため下の名が付け加わったという。
明治四年八百屋町を併合。昭和十一年広小路通、昭和四十一年錦二丁目となる。

下長者町は繊維問屋の町だ。幕末、いとう呉服店、十一屋など大店の呉服問屋の番頭が本町の裏筋にあ
たる二等地の下長者町に店をかまえる。あるいは西万町の古着屋が、店の規模を拡大するために進出する。
これらの店は、大店に対抗するため、現金取引の廉価販売を行なった。

この手法が大あたりし、繊維問屋長者町の名は全国にとどろいていった。

第二次世界大戦後、焼け跡の長者町通に、いち早く数軒の繊維問屋がバラック建ての店を建て商売を始
める。商売のメッカ本町通は、米軍のジープがわが物顔に横行し、ひっそりと静まりかえっている。長者
町通が本町通に変わり、活気のあふれた問屋街へと変っていった。おりからの繊維不況とあいまって、繊
維問屋は狭い長者町通に九十五軒が軒を並べた。荷を積み下ろしする車、買物におとずれる客で、通りは
いつも賑わっていた。



本町通



名古屋城下の中央の道で、熱田から大手御門に至る大道である。



本町

名古屋と熱田とをつなぐ本町通は、多くの人々がこの道を往来し、名古屋の歴史を刻み、名古屋の文化
を育ててきた通りだ。文字通り名古屋のメイン・ストリートであった。

その本町通の京町筋より杉の町筋までの二町の間が本町であった。慶長十六年(一六一一)清須越の町
で、町名は清須で用いていた旧号をそのまま用いた。

通りの名、本町通、町の名、本町は全国の至る町でみられる。その町の幹線道路であり、中心のもっと
も賑やかな町である。名古屋の本町通も、他の通りは二間・三間幅であるが、本町通は五間幅(約九メー
トル)であった。

名古屋商人は、「本町商人」の名で代表されるように、本町通の両側には大店が軒をならべていた。

唐木屋(紫檀・白檀など中国渡来の木材をあつかう)の旧家としては、花井右衛門と花井勘右衛門。右
衛門の先祖は鳴海に住んでいたが、その屋敷に名水のわき出る井戸があった。井筒の上に神輿を飾り、井
戸を大明神と敬めていた。井戸から桔梗の花が咲き始めた。鳴海城主の安原備中守は、この奇端を賞でて、
井戸を花井と名付けられた。右衛門は苗字を花井と改正するように命じられ、井筒の内に桔梗を付ける紋
所を使用するように指示された。

安永元年(一七七二)花井勘右衛門の家から妙なる香りがただよい始めた。庭に放置してあった臼を割
り、薪として燃したのが、町中に香っているのであった。この臼は、赤栴檀の銘木であった。花井臼と名
づけられ、香の銘木として珍重された。

藩祖義直が大坂の陣に出陣するにあたり、陣羽織を作ったという革屋の市佐衛門。唐木屋の花井家とと
もに市佐衛門は清須越の商人である。菓子屋の鶴屋池田久七、桔梗屋の池田又七は、駿河越の商人である。
呉服商松前屋岡田小八郎は近江八幡から名古屋に進出した商人である。

各地から、名古屋で一旗あげたいと名だたる商人が本町を目ざして進出してきた。

いざ出でむ雪見に転ぶところまで

の句を芭蕉が詠んだのは、名古屋書店の草わけである風月堂孫助書店。この句は貞享年間(一六八四〜一
六八八)名古屋に来ていた芭蕉が、何か珍しい書籍はないかと風月堂を訪れ、おりから雪が降ってきたの
で詠んだ句。

明治五年、福井町、富田町を併合。昭和四年、御幸本町通と改称。昭和四十一年、丸の内二丁目、三丁
目となる。



福井町

福井町は本町通の杉の町筋から桜の町筋までの一丁。慶長十六年(一六一一)清須の本町を移し、上本
町と呼んでいた。万治元年(一六五八)本町三丁目と改称。貞享三年(一六八六)福井町となる。明治五
年(一八七三)富田町とともに本町に併合された。昭和四十一年丸の内二・三丁目となる。

町名由来は、貞享三年「町内之寿を取申」の意で名付けたという。

町内の住人に町方役所用達井桁屋鈴木久助がいる。二代目の鈴木孫十郎は、榊原康政の家臣で長久手の
戦いに康政に従い出陣した。その後眼をわずらったので、武士をやめ清須で百姓をしていた。清須越の時、
福井町に移住してきた。上使が名古屋に来た時は井桁屋に宿泊し、御馳走役を勤めた。

整腸薬五竜丹本舗井桁屋徳兵衛も、この町の住人であった。



富田町

桜の町より伝馬町までの間。慶長十六年(一六一一)清須越の町で、移住直後は上本町、万治元年(一
六五八)よりは本町四丁目と呼んでいたが、貞享三年(一六八六)三月、富田町と改称した。

清須時代には、刀鍛冶兼常が住んでいたので兼常町と称していた。

明治五年、福井町とともに本町に併合された。昭和四十一年錦二・三丁目となる。

町内には、府下第一の揚看板をかかげた呉服屋大丸屋があった。大丸屋の名古屋進出については、次の
ようないきさつがあった。

山城国伏見から、彦右衛門という商人が名古屋にやって来た。富田町経師弥右衛門を尋ね、店を借り呉
服屋を開きたいと頼んだ。呉服屋を開店したところ、たいそう繁盛した。周囲の店を買求め、店を拡張し
ていった。彦右衛門に店を売り渡した大鶴屋が「なにとぞ私の家の名前の一字をあなたの店の名前に加へ
てほしい」と依頼した。大鶴の大の字を加え、店の名を大丸屋とした。

大丸屋をつぶそうといろいろなたくらみを杉の町の商家が起こした。地元商人の排他的な嫌がらせにも
かかわらず、大丸屋はますます繁盛した。



玉屋町

伝馬町から蒲焼町までの間をいう。慶長十六年、清須より移住し、下本町と呼んでいた。貞享四年(一
六八七?)玉屋町と改称。

町名は「宝玉」にちなんで付けられたものだ。

明治四年、鉄砲町の一丁目を併合。昭和四十一年錦二・三丁目となる。

町内には真宗大谷派の聞安寺がある。この寺は伊勢長島の郷士杉崎正応が創建した寺である。蓮如に帰
依して法閑と称していた。正応寺と号し清須へ移転する。寛永三年(一六二六)六世浄祐の時、現在地に
移り、聞安寺と改称した。境内には表千家の茶人吉田紹和平・紹敬の記念碑がある。

町内には滝沢馬琴が『覇旅漫録』の中で「呉服屋は水口屋繁盛なり」と記した呉服屋の水口屋。丸栄の
前身にあたる十一屋小出庄兵衛家があった。本居宣長の『古事記伝』、葛飾北斎の『北斎漫画』を出版し
た永楽屋東四郎が居住していた。中風薬「烏犀丹」で有名な小宮山宗法も、この町の住人である。

町内には札の辻があり、交通の要路にあたっていた。宿屋が数軒を連ね、旅人の宿泊を待っていた。

玉屋町四丁目と下長者町との間を旅籠町あるいは天蓋町と呼んだ。遊女屋、居酒屋が軒を並べ、遊女を
置く店もあった。

扇風呂という有名な銭湯もあった。

承応三年(一六五四)日蓮宗の僧三人がこの地で遊んでいて、酔ってけんかをし、殺人事件を起した。
僧三人は市中引きまわしの上、磔にされた。

万治三年(一六六〇)の大火のため町は焼失。歓楽街もすっかり影をひそめてしまった。



鉄砲町

本町通、蒲焼町より入江町までの二丁。

慶長年間の清須越の町で、清須の町で鉄砲を製造する職人が住んでいたので、鉄砲町と名づけられた。
その後、鉄砲師たちは御園町大下に移転した。鉄砲師たちのいなくなった鉄砲町は、職人の町として栄え
てゆく。

明治四年広小路以北を玉屋町に分割。昭和四十一年、住居表示により広小路以北の地は錦二・三丁目、
広小路以南の鉄砲町は栄二・三丁目となる。

本町通が広小路と接する北側に木造三階建ての建物が偉容を誇っていた。この建物は秤屋の守随商店で
あった。尾張・美濃二国の秤は、守随家が製作した秤以外は使用することが許されなかった。

東西の通りを代表する道路の広小路、南北の通りを代表する道路の本町、昔から名古屋の一等地として
有力な商店が店をかまえていた。



七間町通



本町通の東にある縦町である。片端より花屋町までをいう。



上七間町

片端より花屋町に至る七間町通の北端にある町。京町筋から杉の町筋までの間の二丁をいう。清須越の
町で、清須時代、裕福な家七軒が三階建ての家を建てたところから七間町と呼ばれた。

慶長十六年(一六一一)清須越当初、上七間町は上の切といい、下七間町は下の切と呼ばれた。

名古屋最大のまつり、東照宮まつりの花形は橋弁慶車である。五条橋の上で弁慶がなぎなたを振りまわ
し、牛若を相手に戦うからくりに、老いも若きも熱狂した。

町内には宝飯郡小坂井村出身の紺屋新左衛門が住んでいた。大坂冬の陣では、徳川家康に従い、その軍
用旗やまといを作った。彼はその功により、駿府両替町に町屋敷を拝領した。義直が名古屋城に入るとと
もに、彼も義直に従い名古屋に来て、紺屋を開いた。俗にいう駿河越の商人である。
明治四年、下七間町と合併し、七間町となる。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。



下七間町

七間町通の上七間町の南、杉の町から伝馬町までをいう。

名古屋に移住した時期については、上七間町と同じ慶長十六年、あるいは慶長十九年以降移ってきたと
いう両説があるが、はっきりしない。上七間町と下七間町の分離は万治元年(一六五九)という。

町内には、大八車の発明者、槍師三輪小右衛門が住んでいた。初代藩主義直が二条城の普請を家康から
命じられた時、小右衛門は大八車を発見して工事に役立てた。工事は大八車のために順調に進んだ。

喜んだ義直は、槍の用は小右衛門にまかすという特権を与えた。

明治四年、七間町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目、錦三丁目となる。



富沢町

富沢町は伝馬町筋の南、呉服町筋の西、広小路の北、本町筋の東に位置し、一丁目から四丁目まである。
慶長十六年(一六一一)清須より移り、清須の馬持どもが住んでいたので、伝馬町七軒町と呼んでいた。
その後、伝馬頭の支配を離れ、町代役を勤めることになった。

貞享三年(一六八六)松本町と町名を変更。

宝永五年(一七〇八)、藩主綱誠の娘、磯姫が松姫と名を改めたので、松姫の名を避け、町名を改める
ことになった。材木屋の多いところから東材木町にしたいと願い出たが許されなかった。藩の意向に従い、
富沢町と町名を改めた。

伝馬町筋と袋町筋との中程に、石を数多く並べた溝川があった。昔、ここに大きな杁があった後である。

商人の町、富沢町が有数の歓楽街にと変ったのは、明治時代になってからのこと。明治二十九年、東雲
連という芸者置屋ができる。大正時代には中検番と合併、多くの姐さんたちが座敷をかけまわっていた。

戦後は、焼跡にキャバレーができ、芸者置屋にとって変わるようになる。今も、富沢町は、ネオンのま
たたく不夜城である。

昭和四十一年、錦三丁目となる。



呉服町通



七間町通の東の縦町である。片端より花屋町までをいう。ただし広小路より南は武士町である。



呉服町

呉服町通の北端に位置し、京町筋から杉の町筋までの二丁をさす。慶長年間、清須越の町で、清須当時
の町名をそのまま用いた。それに対し『尾張志』は、清須当時の旧名を用いたのは誤りであると、次のよ
うに述べている。

慶長年中清須より移して竹屋町といひしを元禄以後今の名にあらたむ。張州府志に清須より移し、旧に
よりて名とすとあるは誤あるべし。今清須村の田畠の字に呉服町と呼る地はなく竹屋町といふ旧名は残れ
り。
町内は、医学者であり、植物学者伊藤圭介が住んでいた。

明治四年、常盤町を併合。四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。



常盤町

呉服町の南、針屋町の北にある町で、杉の町筋より伝馬町までの二丁をさす。

清須越の町である。清須では竹を商う人が多く住んでいたので、名古屋に移った後も竹屋町と呼ばれた。
元禄年間(一六八八〜一七〇四)名古屋の市中に、しばしば火災が起った。火事恐怖症の住民はさまざま
な説をたてる。「タケヤ」をさかさまに読めば「ヤケタ」になる。縁起が悪いというので、元禄十四年(一
七一六)藩に願い出て常盤町と改名した。

町内には尾張藩最初のお時計師津田助左衛門が住んでいた。助左衛門は安芸の浪人で、京都にいる時、
家康の時計を修理した。家康の時計をモデルとして、オランダ式の時計製造を始める。

六十石で尾張藩につかえた助左衛門は、名古屋の時計産業の礎を築いた人といえよう。



針屋町

呉服町通、伝馬町筋から鶴重町筋まで。慶長年間、清須より移った清須越の町で、はじめ清須時代の旧
称針屋小路と称していた。

家数四十四戸、針屋町に住んでいた清須越の住人に畳屋弥一郎がいた。

明治四年、笹屋町を併合。昭和四十一年錦三丁目、栄三丁目となる。



笹屋町

本重町筋の半町上より広小路の二丁半をさす。清須朝日村の八重屋敷より慶長年間、移って八重町とい
う。元禄十年(一六九七)五月、将軍綱吉の養女八重姫の名を避けて笹屋町と改名した。この町の上の町
が竹屋町というので、その縁により笹屋町と名づけた。

明治四年、針屋町に合併。昭和四十一年錦三丁目となる。

栄の百メートル道路の西側に、名古屋市教育館がある。この教育館は八重小学校の跡地に建てられたも
のだ。小学校の名前は、八重町から付けられたものである。



伊勢町通



呉服町通の東にある縦町である。片端より花屋町までをいう。そのうち広小路より南は武士町である。



伊勢町

『尾張名陽図会』は、伊勢町について、次のように紹介している。

京町通より杉之町通までをいふ。清須にありし時は神明町北松原の辺に、伊勢町といふ所あり。その地
よりここにうつりしといふ。しかれども清須より引きうつりし年月詳かならず。また町の名義しらずとい
ふ。ある云ふ、神明町なれば国の名に見立てて伊勢町と呼ぶとも云へり。

清須越の町で、清須当時の旧名を名古屋移住後も称していたと述べている。

町内には、吉沢検校が住んでいた。検校は生田流箏曲家で純箏曲を多く作曲した。代表作には「春の曲」
「千鳥の曲」などがある。

明治四年練屋町と合併。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。



練屋町

練屋町は杉の町筋より伝馬町筋までの間である。慶長年間、清須より移住してきた清須越の町だ。昔か
ら、この町には練屋、絹屋などが住んでいたのが町名の由来である。

皮などをなめす練屋ではなく、練飴屋が居住していたからだという説もある。

明治四年、一部を桑名町に編入。西鍛冶町とその南に続く武家屋敷北(広小路まで)を合併。昭和十一
年広小路通、昭和四十一年錦一丁目となる。



大津町通



伊勢町通の東の縦町である。片端より清浄寺門前まで。そのうち鶴重町筋より広小路までは東側、それ
より南は両側武士町である。



大津町

山城の国大津の四郎左衛門という男が、織田の繁栄ぶりを聞いて清須にやって来て住居をかまえた。四
郎左衛門が住んでいた町は、いつしか大津町と名付けられた。清須越で名古屋に居住した後も、旧号をそ
のまま用い大津町とした。清須移住当時は、笹が一面に生い茂っている笹山であった。

大津町は伊勢町通東の大津町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間をいう。

この町の隣は、薬種問屋が数多くある関係で、医者が多く住んでいた。中でも外科医名束宗之、産婦人
科医奈倉道伯は有名。大正時代には、外科医として著名な好生館病院の北川乙次郎、佐藤勤也が大津町に
居をかまえた。

明治四年、瀬戸物町と朝日町の一部を合併。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。



瀬戸物町

瀬戸物町は元和二年(一六一六)清須から移住してきた町である。移住当時は笹山であったという。町
名の由来は天正年間(一五七三〜一五九二)清須で、瀬戸物屋が多く住んでいたからだ。

瀬戸物町は、大津町通、杉の町筋と桜の町筋との一丁と杉の町筋の東西をいう。

明治四年、大津町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。



朝日町

瀬戸物町の南、山田町の北にあり、桜の町筋と本重町筋との間の三丁と袋町筋の東の区域を含む。清須
越の町で、元和三年(一六一七)移住してきた。清須の朝日村出町から移住してきたので、旧号を用いて
町名とした。移転当時は笹山であったという。

明治四年、朝日町一丁目を大津町に合離し、山田町と合併。昭和四十一年錦三丁目となる。



山田町

『尾張名陽図会』は、山田町を次のように紹介している。

本重町より広小路までをいふ。この町は清須越にはあらず。往古は前津村の地にして、山田畠の跡なり
し故町の名とす。慶長十八年、清須より御家中ここに引越し屋敷小路となる。しかるに万治三年の大火に
焼失せしかば、その跡町家となる。この辺いまだ町並にならざる頃は、笹茂りし野にてありしといふ。

万治三年(一六六〇)の大火で、武家屋敷が焼失。東新町、西新町と移ってゆく。焼跡には広小路の拡
幅で立退かされた町人が移ってくる。山田畑のあとの意味で、山田町と称した。

山田町一丁目に、
さこ
栄 村(現在の中村区栄生町)の百姓が出店、商売をした関係で栄町の名称が生じた。



山田町は、本重町筋と広小路との間の二丁。明治四年、朝日町と併合。昭和四十一年錦三丁目となる。



鍛冶屋町通



大津町通の東の縦町である。片端より南前津田面まで。そのうち鶴重町より南は武家屋敷である。



関鍛冶町

京町筋より南へ杉の町までをいう。


美濃の国関の鍛冶職たちが、清須へ引越し移住して来ている所なので、関鍛冶町と名付けた。関鍛冶町
に居住していた有名な刀工には、福島正則の刀をあつかう藤原輝広などがいた。慶長年間、清須から移住
してきて、旧号を用い関鍛冶町とした。



明治四年、吉田町と合併。昭和四十一年丸の内三丁目となる。

第二次大戦後、焼跡と変わりはてた名古屋の中心街に百メートル道路ができた。南北の通りは久屋町と
関鍛冶町を含む広大な通りであった。



吉田町

関鍛冶町の南、小市場の北にある杉の町筋と桜の町筋との間の一丁。

『金鱗九十九之塵』は、

清須の何町より、引越来るや不詳。慶長年中此地え引越し、古名を下小牧町と称す。其後慶安五年、今
の吉田町と改正す。

と町名の由緒を記している。

清須越の時期もはっきりしない。下小牧町より吉田町へと改称した理由もはっきりしない。

明治四年、関鍛冶町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。



小市場町

吉田町の南、小塚町の北にある、桜の町筋と袋町筋との間の二丁。

慶長十九年(一六一四)清須の北市場から移り、北市場町と称していたが、いつの頃からか、小市場町
と改められた。北の字を書き違えて、小の字を使用したからだという。

現在は錦三丁目である。



小塚町

袋町より南へ一丁鶴重町までの間と袋町筋鍛冶屋町より東へ久屋町までをいう。清須越の町で元和四年
(一六一八)清須の小塚村の内から、名古屋へ移住し、旧号を用いて小塚町と名付けた。

『金鱗九十九之塵』は

又曰当所の地中に、上古より一つの古塚あり。是を小そで塚と呼。このゆへに町名を古塚町と号すよし。
然るに何の頃よりか、古の文字を小の字に書あやまりたるなるべし。

と記し、古塚が小塚となったとしている。

町名には小袖松がある。藤原師長が配流を許され、郡に帰ることになった。愛妾が跡をしたひ、小塚町

まで来て、なげきに絶えかねて入水した。小袖をかけた松を小袖松といい、その根元に小袖を埋めて塚と
したので、小袖塚とした。

現在は錦三丁目である。



久屋町通



鍛冶屋町通の東の縦町である。片端より綿屋町の西まで。そのうち袋町より南は武士町である。



久屋町

京町通より杉の町通までをいう。清須越なれども引きうつりの年月詳かならず。また何方といふ清須に
ての名もしれぬ由なり。初めの町名は干物町と言ふ。今も一丁目に干物を商ふ店多し。その後久屋町と改
む。その名は幾久しく町内の繁昌を寿て久屋町とは名づけけるとぞ。

『尾張名陽図会』が紹介している久屋町の町名由来だ。久屋町は京町筋から杉の町筋の間の二丁。旧号
を干物町という。寛永年間(一六二四〜一六四四)藩主義直がこの町を通った時、町名をお尋ねになった。
「干物町です」と答えた所「末々まで、この町は繁昌すべき所だ。これからは久屋町にせよ」とお命じに
なり、町名は改められた。

町内には、清須越の白木屋伝治郎という尺八の名人がいた。

ある日のこと、伝治郎の門前で虚無僧が尺八を吹いていた。それを聞きつけた伝治郎は「なんという下
手な吹き方だ。あの程度なら尻でも吹くことができる」と言った。虚無僧は怒り、「では尻で吹いてみろ」
という。伝治郎は、尻をまくり、尺八を逆さまにして、笛の尻より鶴の巣ごもり、六段などを吹いた。虚
無僧はほうほうの体で逃げだしていった。

戦後の百メートル道路建設により、町の大半は道路下に埋まってしまった。現在は錦三丁目、丸の内三
丁目、泉一・二丁目、東桜一丁目、久屋町一・八丁目となっている。



上田町

久屋町の南、杉の町筋から本重町筋までの三丁をいう。清須越の町で、移転年月日や清須のどこから引
越してきたかは不詳。初めは那古野町と呼んでいたが、城下の惣名とまぎらわしいというので、久屋町二
丁目と称した。その後上田町と改名する。『金鱗九十九之塵』は上田町の町名由来について、次のように
記す。

むかし開発の頃、此地に住める者には工商の類ひ一人もなく、みなみな農夫のみなりしが、其耕業を祝
して、隣町なる久屋に日のさやという訓を講て、上田ント云心に、町名も上へ田町と名付けたり。

この上田町の閑所に、一人の身寄りもない老婆が住んでいた。長屋の者たちがかわるがわるに看病をす
る。老婆に何か食べたいものはないかと尋ねると餅が食べたいという。餅を買ってきて老婆に与えると引
きとってくれという。心配で、隣家の男が破穴から覗いていると、餅の中に黄金一枚ずつを入れて、食べ
始めた。九つまで、黄金の入った餅を食べて死んでしまった。

志ん生の十八番『黄金餅』の原典ともいうべき話だ。




これまでのイベント


33回堀川文化講座

 

 

名古屋大須ものがたり

 

名古屋400年の繁栄と娯楽の中心の町“大須”は昔も今も変わらぬ人気で賑わっています。名古屋開府以来、賑わいを保ち続けた大須の魅力を、古絵画、遺物、文書などによって

構成し、その秘密に迫る“展示会”です。

会場に足を踏み入れれば“大須”の繁栄をつぶさに感じ、大須の町の成り立ちと、人々

の暮しがわかる。懐かしく、楽しい、活気あふれた大須の町を、今回の展示会で初めて

紹介する貴重な出展品から感じて戴けます。市民ギャラリー栄へ是非どうぞ!!

[展示会]期間

.20101116日火〜21日日入場無料

 

展示時間=1620日:930分〜19時 21日:930分〜17

 

主な展示品=二子山古墳出土品、初代義直・二代光友・七代継友真筆

      芝居番付、通札、市電上前津停留所表示板、写真他多数

 

会場.名古屋市民ギャラリー栄8階第7展示室

(栄地下12番出入口より東へ徒歩2分・中区役所内)

 

 

[講演会]日時.1116日火14時〜1530分 

参加費 .資料代200円   会場.中区役所6階大会議室

 

「名古屋大須ものがたり余話」

 

講師=沢井鈴一(堀川文化を伝える会顧問





32回堀川文化講座

                     

主催 堀川文化を伝える会

 

 大須は一年を通していつも多くの人々で賑わっています。

大須の賑わいは、遠く江戸の昔から今に至るまで変わることのなく続いています。

芝居、映画、食い物、買い物と大須の町は人々を惹きつける魅力があります。

 大須の魅力を多面的にとらえた『名古屋大須ものがたり』の刊行を祝し、下記要項で講演を催します。奮ってご参加下さい。

当日は、花をそえて大須にゆかりのある大正琴の琴伝流 結の会の皆さんに演奏していただきます。

 

日時 : 2010731() 午後1時〜3

 

場所 : たちばなホール(愛知産業大学工業高等学校内)

     

     地下鉄名城線 (東別院駅4番出入口から西へ徒歩6分)

 

参加費: 500円(冊子代含む)

 

定員 : 260名(当日先着順)

 

 

第1部  大正琴演奏   琴伝流  (ゆい)

 

第2部  講演「名古屋大須ものがたり」  講師 沢井鈴一(堀川文化を伝える会)

【照会先】中区役所まちづくり推進室(電話052-265-2228 fax052-261-0535



名古屋開府400年と流れる堀川展

とき 平成22年5月25日()〜6月6日()

月曜休館

会場 名古屋都市センターまちづくり広場 金山南ビル11階

講演会 5月30() 1330分〜1545分 11階ホール 先着150

     講演   沢井 鈴一

 

堀川1000人調査隊報告 529()1330分〜1530分 11階ホール先着150

 

主催 名古屋開府400年と流れる堀川展実行委員会

構成団体:堀川文化を伝える会・堀川1000人調査隊・名古屋市・財団法人名古屋都市整備公社



想いかなう
広小路恋の伝説みち


第14回 堀川文化歩こう会
名古屋の広小路界隈には源氏物語の昔からいろんな恋が芽ばえ大輪の花を咲かせた。また、哀しい
物語として今に伝わる恋も多い。広小路で生まれ、広小路に語り伝えられた恋の伝説を、
その場所にたたず
み想いめぐらしてみたい。
そして、納屋橋からわが想い
を込めた短冊を流そう。
時空を超えて伝わる気持が、
私たちを優しい心にしてくれるにちがいない。

コース
1久屋大通(小袖掛け松)
2福生院(闇路の恋)
3納屋橋(運命を変えた橋)
4洲崎橋(紫川に身を投げて)
5若宮八幡社(残菊物語)
6朝日神社(マダム阿佐緒の恋)
各ポイントで恋の物語を紹介します。


主催=堀川文化を伝える会 事務局=中区役所まちづくり推進室 TEL 052−265−2228
小雨決行。 開催の有無は当日午前8時30分以降に名古屋おしえてダイヤル(953-7584)に問い合せ下さい。  

日時  平成22年5月15日土曜日《 事前申込不要》
   10時出発〜12時解散予定( 受付9:30〜)

集合  名古屋市中区役所 公開空地
   (栄地下12番出入口より東へ徒歩1分)

参加費 200円( 資料代・短冊代、当日受付)
    水溶性の短冊に想いを書いて納屋橋欄干より流します。

第91回堀川文化探索隊

 2月20日(土)  午後2時集合    解散4時頃
 集合場所   地下鉄大須観音駅  @番出口

 大須門前の探索です    名古屋開府400年パートナーシップ 事業に参加します
名古屋開府
400年  パートナーシップ事業

 

31回 堀川文化講座  

 

名古屋広小路ものがたり

 

昔も今も変わらぬ名古屋の中心の通り、広小路は今年開通350年を迎えました。

広小路をそぞろ歩きをし、屋台をひやかし、喫茶店で憩い、映画を楽しむ。

広ブラは人々の娯楽の中心でありました。

31回堀川文化講座は、その広小路の350年の歩みを記した『名古屋広小路ものがたり』の刊行を記念する会です。

 

刊行を記念し、西川流の名手西川長秀、杵屋彌之友さんが祝いの踊りと長唄を披露してくださいます。  

 

 

日時 平成22328日(日)  13:0015:00

 

場所 橘ホール (愛知産業大学付属工業高校)

      地下鉄名城線 東別院駅下車西へ 東別院西側

 

参加費 500円(冊子代)当日申込

 

定員  150

 

内容    

T 越後獅子

      踊り   西川流 西川長秀

      長唄   杵屋彌之友社中

 

   U 娘七種

      長唄   杵屋彌之友社中

 

   V 講演  名古屋広小路ものがたり

         沢井 鈴一

30回堀川文化講座

「尾張元興寺と飛鳥元興寺」

 

名古屋で一番古いといわれる元興寺の開祖

道場法師を軸として

飛鳥元興寺との関係を考察する講座です  

 

平成2226日土曜日

2時から4時半まで

 

名古屋市中区正木四丁目5‐15

元興寺本堂  金山駅南口より徒歩5

参加費200

 

内容  1 講演「尾張元興寺と飛鳥元興寺」

      沢井鈴一

 

    2 声明「極楽の調べ」

黒亀会

第90回堀川文化探索隊

 1月23日(土)  午後2時集合    解散4時頃
 集合場所   地下鉄大須観音駅  @番出口

 西大須の探索です    名古屋開府400年パートナーシップ 事業に参加します

名古屋開府400年記念展示

「名古屋名所案内」

 

日時 2010117() 3時〜6時30会場 中京大学文化市民会館

内容 観光名古屋のルーツを探る(パネル10枚)

   観光名古屋の魅力を探る (パネル10枚)

   名古屋名所うちわ絵   (拡大版20枚)

   各種 『しゃち』を利用した商標・のれんなど

 


川文化講座

  大須路地裏ものがたり

    猫飛び横町 おから猫 


 江戸時代より大須は門前町として栄えてきました。清寿院や七ッ寺では小屋掛けの芝居がいつも
 行われて多くの人々で賑わいました。
 今回の講座では明治から現代にいたるまで、娯楽の中心であり、人々の憩いの中心であった
 大須に焦点をあて、大須の町と人々のくらしを紹介いたします。

  ◆日時 平成21年12月5日(土)   午後2時から4時まで

  ◆場所 中区役所6階 大会議室

  ◆定員 100名(先着順) 資料代100円

  ◆講師  T  清寿院芝居         村瀬 範晃 (清寿院 院主 村瀬玄中 末裔)

        U  猫飛び横町・おからねこ  沢井 鈴一 (堀川文化を伝える会)


第三回 五条橋から屋形舟に乗る会
 

 
11月20日(金)   午後2時から3時
  場所 円頓寺ホール (名古屋市西区 円頓寺内)
  会費 無料
  定員 60名 (先着当日受付)


 ■講演 「 歴史遺産を生かしたまちづくり 」
 
      講師   塩田 静雄  中京大学名誉教授
        
 ■講演 「 円頓寺のいま--------将来に向けて 」
 
      講師   飯田幸恵   下町情報誌ポゥ編集長



名古屋開府400年プレイベント 名古屋近代化のあけぼの
   関西府県連合共進会 


 名古屋開府300年を記念して、今から100年前に関西府県連合共進会が鶴舞公園を会場として開催されました。
この博覧会を契機に名古屋は近代都市へと変貌していきました。
その時の共進会の地図、絵葉書、写真などを展示します。

日時  10月11日(日)   15:30〜19:00

場所  名古屋市公会堂 2階会議室

 

○伊勢湾台風と川施餓鬼

享保7年(1772)8月14日の台風で亡くなった人々の霊を慰めるために、熱田の
本遠寺で始まった川施餓鬼。そして昭和34年9月26日、東海地方を直撃した伊勢湾
台風により5,000人余の方が犠牲になりました。あの日から50年……。かつて堀川で
行われていた壮大な絵巻、川施餓鬼を再現するとともに納屋橋から散華を行います。

日時●平成21年9月26日(土)午後2時〜4時 乗船参加費●800円

集合●納屋橋シャムズガーデン(納屋橋北角・地下鉄伏見駅G出入口よりに西へ徒歩7分

定員●44名 申込は以下の期間に中区役所まちづくり推進室窓口へ、参加費800円(乗船代と資料代:資料『堀川端ものがたりの散歩みち』
         「伊勢湾台風と川施餓鬼」を配布)

申込期間●8月26日(水)〜9月15日(火)午前9時〜午後5時(ただし定員になり次第締め切ります)
  
 《内容》 お話「伊勢湾台風と川施餓鬼」… 沢井鈴一
      川施餓鬼の再現(納屋橋から七里の渡し往復クルージング)

      散華… 参加自由 慰霊のため、水溶性の紙で作った花弁を川へ流します。
            午後2時から2時半 納屋橋バルコニー  散華代300円

主催 堀川文化を伝える会



堀川文化探索隊第87回

飯田街道をゆく 

9月19日(土) 地下鉄鶴舞線 塩釜口@出口集合 午後2時


 塩釜口から島田地蔵寺を訪ね、植田まで歩きます 解散4時頃
      
 主催 堀川文化探索隊  代表 沢井鈴一  0568-81-4955


四間道・地蔵盆たそがれウォーク
                                                             
8月23日(日)
地下鉄桜通線 国際センター駅 A出口 午後5時集合

PM5時から7時まで 四間道界隈をあるきつつ
子守地蔵の地蔵盆をみます。

 主催 五条橋から屋形船に乗る会  代表世話人 沢井鈴一 0568-81-4955
  
◎ 文章へのリンク⇒ 円頓寺界隈を歩く

 40名の皆さんのご参加がありました。ありがとうございます。

  ○朝日文左衛門の食卓

 
日時 10月17日(土)    11時〜13時

会場 名古屋グリーンホテル 2階会議室 地下鉄伏見駅10番出入口西へ徒歩3分 御園小西
定員 先着45名     会費2000円

申込 10月13日(火)・14日(水)9時〜17時に会費を添えて、中区役所まちづくり推進室まで
    申し込んでください。(先着順・定員になり次第終了します)



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