『姿なき鶯』

 

 風が、さわさわと音を立てて吹き抜けた。開け放した障子の外は清々しい青竹に囲まれて、少しばかり遅い梅がひっそりと花を咲かせている。

 時折響く鹿威しの高い音が、ゆっくりと時の流れを刻む、春の午後。

 庭を渡る風を見ていた男は、襖の開く音で居住まいを正した。

「待たせたかの」

 屋敷の主はそういって、ゆったりとした動作で上座についた。髪に白いものの目立つ、貫禄のある老人だ。皺の深く刻まれた顔で、眼を細めて客の男を眺める。

「久しいの。旅はどうじゃ、何か不足はないか」

「御蔭さまで、恙無く」

 それまで庭に向けていた眼を上座に向けて、客人の男はそっと畳に指をついた。

「それは上々。して、今日はどんな絵を見せてもらえるのかの」

 楽しそうに微笑む老人の前に、男は絵筒から取り出した数点の絵を広げた。

 月夜の狐、宵に咲く桜、凍てついた冬……。それらは、墨一色で書かれた水墨画ばかり。しかしどの絵も、ただ黒の濃淡だけで描いたとは思えない、不思議な生命力を宿している。

 それが、この男の持つ不可思議な画力。

 描かれるのは自然ばかりではない。そこに佇む影は、人かそれとも妖か。生きとし生けるもののみならず、人ならざるもの、理の外に生きるものまでも真摯に描き出す。それが、絵師──幽然──。

「ほ。さすが、さすが。都でその名を轟かせるだけのことはある」

 老人は温和な物腰に似合わぬ厳しい眼で、じっくりと幽然の絵を眺めた。

 月夜の狐の一瞬の孤独。宵に咲く桜の刹那の命。凍てついた冬の、冷たくも美しい眼差し……

 その場の場景がまざまざと浮かぶような、独特の筆致。その力強さと繊細さは、何ものにも真似ることの出来ない不可思議な雰囲気を纏っている。

「うむ、なかなかのものよの。全て買い取ろう。路銀はいくら必要じゃ」

 どれも老人の鑑賞眼に適ったようで、話題は絵の代価から旅の話へと移った。

 都では大層な値のつく幽然の絵。しかし、当の本人が受け取る代価は、旅に必要な幾ばくかの路銀にすぎない。その旅の目的を知る者はなく、目的があるのかさえ知る者はない。

 こうした謎めいた風評が人々の好奇心を掻き立て、そうしてまた幽然は、雅を好む京人から粋を好む江戸っこまで、幅広く名を広げる。

 けれど、本人にはそうした評判にも己の絵の価値にも、頓着する様子はみられなかった。

「欲のない男よ。どれ、少し待っておれ」

 よいしょ、と声をかけて、屋敷の主は腰を上げる。幽然の希望した金子をとりに、老人は襖を開けて座敷を後にする。

 一人残された幽然は、風の渡る庭へと再び視線を転じた。

 さらさらと風が通り過ぎる。庭木の葉を通して、風の道が眼に見える。幽然はそっと眼を閉じて、庭を流れる時間を感じた。

 鹿威しの高く通る音と、辺りを渡る風の囁き。遠くに聞こえる鳥の聲、屋敷を人の動く気配。

 様々な音が、幽然の中で絵となり情景を描く。色も形もない音から想い描かれる絵。それが面白く、幽然はひたすら全身を耳として、束の間の世界を楽しむ。

 やがていくらも待たないうちに、老人が襖を開けて戻って来た。手には金子の包まれた袱紗と、小さな鳥籠を手にしている。

 竹で組まれた端正な鳥籠には、茶金色のほっそりとした小鳥が収まっていた。

「鶯ですか」

 ほう、と感嘆の声を漏らす幽然に、老人はにやりと笑って頷いてみせる。

「左様。このように間近でみることはなかなか出来まい。どうじゃ、この鶯、描いてみぬか」

 金子と一緒に差し出された鳥籠を、幽然は確りと受け取った。鶯は黒い眸でまじまじと幽然を見上げる。

「随分と静かな鶯ですね」

 一声も啼かず、微動だにせず、僅かに小首を傾げたまま幽然を見上げる鶯。

 老人は、今度は幾ばくか浮かない顔で、小さく一つ頷いた。

「この春に入ってから、一声も啼かぬ」

「ほう」

 片眉を器用に持ち上げて、幽然はそっと鳥籠を畳の上へと下ろした。開いた手を伸ばし、旅の荷から紙と筆を取り出す。

「それでは、」

 呟いて、幽然は紙に筆を走らせた。

 緻密な筆致で描かれるのは、美しい庭の風景。青々とした竹林に、色を添える梅の花。風に揺れる笹の葉は、葉擦れの音さえ聞こえるよう。

 動きに溢れ、けれども静かな絵の中に、鶯の姿はない。

「どうした」

 はたりと筆を置いた幽然を、老人は訝しむように見遣った。老人が描けといい、幽然の目の前に置かれた鶯は、彼の絵の中には影も形もない。

「これはなんじゃ」

 更なる問いを重ねられ、幽然はそっと畳に指をつく。

「竹林に鳴く鶯にございます。聲すれど、姿なき。元来鶯とは左様なものかと」

 そう言って差し出された、鶯のいない庭の景色。老人は暫しその絵を眺めると、おもむろに闊達な笑い声をあげた。

「なるほど、なるほど。啼かぬは籠の鳥ばかりというわけか。面白い」

 言うや否や、鳥籠の戸を開け放つ。

 その瞬間を違うことなく、それまで頑なに動かなかった鶯は、あっという間に翼を広げた。小さな鳥はするりと籠の戸を抜けて、庭へとその姿を眩ます。

 飛び去り様、幽然の眼にはふわりと笑む青年の姿が浮かんで消えた。

──ホーホケキョ キョキョキョ 

 庭にて一声。

 それは、それは、美しい聲が辺りに響く。

「ふむ、なるほど。誠、良き聲じゃ」

 清々しく耳に響く、春を告げる聲。

 老人は眼を細めると、満足げに微笑んだ。

 

──聲すれど 姿なき 春告げ鳥

──音に聞く春は 目にも美し

 

 ー 了 ー

この作品は、『くろそうび』さまのイラスト「解き放たれた鶯」をイメージして書かせて頂きました。


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