『宵桜』
── あんた絵師かい。そだら、この山の奥にそらぁ見事な桜があるで、行ってみんしゃい
茶屋で行き会った旅人に勧められるまま、山に入ってからもう大分経つ。辺りは陽が暮れ始め、自分の行くべき道も、定かではなくなりつつあった。
「これは参った」
森の奥に獣の気配を感じる。もともとふらりとあてのない旅ではあるが、こんな山の中で野垂れ死ぬわけにはいかない。
立ち止まり、戻るか否かと迷う彼の頬を、尾根を渡る風がそっと撫でて通り過ぎて行く。その中にひとひらの花弁を見つけ、彼は顔を上げた。
淡い、限りなく白に近い小さな花弁。
「近いか」
よし、と意を決して、彼は再び山道を先へと進んだ。
ゆっくりと、山を登る。生い茂る木々の枝を払い、下草をかき分け、もうほとんど獣道としか呼べないような道を、ひたすら登る。そうしてふと視界が開けた時、その光景は、息をのむ美しさで眼前に広がっていた。
「ほぉ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
ただ一本だけ立つ桜は悠然とその枝を広げ、満月の月明かりに照らされて淡く、白く、輝いていた。
山の頂き近く。辺りの木々は桜に遠慮するように、その周りに空間を作り出している。桜の幹は太く節立ち、樹齢の長いことが知れる。闇に浮かぶその白い姿は、「孤高の」と呼ぶに相応しい。そんな気高さを秘めているように、彼の目には映った。
「立派な桜だ」
彼は桜の後ろに月のかかる場所を選び、腰を落ち着けた。背負っていた包みから、紙と筆を丁寧に取り出す。
さらりさらりと筆を運ぶ彼の周りには、ただ、涼やかな風だけが吹いていた。
桜の端にかかっていた月が、その樹上を越える頃。彼は、背後に気配を感じて筆を持つ手を止めた。
「見事よの」
振り返った彼にそっと笑んで、気配の主が言う。銀糸のように輝く髪を、括りもせずに腰まで垂らしている。そんな異様な風体の男だった。肌は抜けるように白く、白い単衣の上には淡い色合いの帯を締めている。その妖麗な姿に、彼は思わず眼をみはった。
彼のことなど気にも止めず、男は繰り返す。
「実に見事よ」
「……あ、あぁ。見事な桜だ」
やっと返した彼の頭上から、くくっ、と小さな笑いが漏れた。
「絵のことよ。樹ではない」
月明かりに、男は桜と同じように、白く淡く照らされている。その美しい顔を桜へと向けて、男は僅かに目を眇めた。
「この樹はもう駄目じゃ……次の春には咲けぬ」
「こんなに美しく咲いているのに、か」
問う絵師に、男は小さく頷く。
「だからよ。今生に別れを告げておるのだ。……悔いを残さぬように」
一瞬、男の顔に影が落ちる。だが、彼はすぐさまそれを振り払い、美しく柔和な笑みを浮かべて絵師の手元に視線を転じた。
「かように美しく描かれるならば、桜も本望じゃろ」
他人事のような口調とは裏腹にその表情は満足そうで、絵師にはそれが、何故だか痛ましく思えた。
「……そなたは、桜の化生か」
「然らば、如何する」
絵師の言葉に驚きもせず、男はただただ、楽しそうに応える。
「どうもせぬ」
応えて、絵師は微かに眉根を寄せた。どうもせぬのではなく、どうにもできぬのだと気づいたからだ。
人と同じく、生きとし生けるものには全て、定められた寿命がある。それは、草も樹も獣も、人成らざるものにも、等しく定めらた“命”だ。今その天寿を全うしようとしている命を前に、一介の人間ができることなど何もない。
桜の化生は、その銀糸の髪を風にそよがせ、穏やかな笑みを口元に浮かべている。
「そなた、今生に未練はないのか」
重ねて問われ、化生は穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと桜を仰ぎ見た。
「潔きことこそ、我が美しさなれば」
「……そうか」
それきり、暫しの沈黙が降りた。風が梢を揺らす音だけが、さやさやと辺りを渡る。その風に、桜はひとひら、またひとひらと、花弁を散らす。辺りを照らすは、丸く輝く月明かりのみ。
風に舞う花弁をひとひら掌で弄び、化生はすい、と顔を上げた。
端正な顔が月に照らし出される様は、息を飲む美しさだった。
「良い月じゃ。……逝くに相応しい」
呟かれた言葉に、絵師は思わず眼を閉じ、眉根を寄せた。その様子を、化生は声なき声で笑う。
「左様な顔をするな。我はそなたに会うて、満足ぞ」
「……そうか」
ならば己にできることは、望まれるままに絵を描くことか。
そう思い、絵師はそっと瞼を開くと、描きかけた絵と筆を再び手に取った。それを見て、化生は満足気に頷く。
「然らば……しかと描いてもらおうぞ」
化生はゆっくりと眸を閉じ、そうして、風の中へと掻き消えた。
口元に、満足気な笑みを残したまま……
一陣の風が、駆け抜けた。
闇夜に浮かぶ、白く仄かな桜が咲き乱れ、辺り一面、淡い花吹雪に包まれる。
儚く、けれど力強い。生命の最後の灯火を力の限り掻き立てて、桜は咲く。
絵師はその様を、ただひたすら紙へと描き続けた。
++++++++++++++++
「お。兄さん、いい絵は描けたかね」
太陽が中天を過ぎた頃、茶屋には絵師の姿があった。
店主の求めに応じ、彼は包みから一枚の桜の絵をそっと取り出す。
「ほぉ。こりゃまた……綺麗だねぇ」
力強い筆触で描かれた、桜の古木。それを照らすは、丸い月。
花吹雪の舞う様は、見るものに風を感じさせるほどの躍動感に満ちている。それでいて、何処か静かで壮麗な、桜の佇まい。
── 潔きことこそ、桜の美しさなれば
そう言って消えた、化生の言葉を思い出す。己の絵は、あの化生の魂を満足させるに足る絵だっただろうか。
「なんとも、いっそ清々しい絵だね」
ふと言われた茶屋の店主の言葉に、絵師は小さな笑みを漏らした。
「兄さん、この絵に題はないのかい」
「題、か……」
訊かれ、絵師は暫し宙を睨んで考える。そして、軽く頭を振ると店主から絵を受け取った。
「物事の、終に近きを“黄昏”という。ならばこれは、黄昏よりも更に先。……宵の桜、だな」
店主は一瞬ぽかんと口を開け、感心したようにため息をついた。
「難しいことはわからんども、『宵桜』たぁ、良い名だねぇ」
しきりと褒める店主に礼を言い、絵師は茶屋を後にした。
風は暖かみを帯びて、彼の背を追い越して行く。
彼の旅は、まだ終わらない。見えない終わりを追い求めながら、彼はただ歩き続ける。
当て所ない旅の中で、まだ見ぬ“絵”と出会うために。
── 宵桜 舞い散る様こそ 美しき
ー 了 ー
|