『凛白』
── 人じゃ
── 人が落ちておる
囁くような声が、男の耳元で交錯した。それは童の声のようで、その声とやや固い口調の間の違和感に、男は僅かに眉をしかめる。
── 動いた
── 動いたぞよ
おぉ、と小さな感嘆の声が、男の耳元をかすめた。それに続くように、ゆっくりと男の五感が戻ってくる。
冷たい、ただひたすらに冷たい感覚。
凍るような四肢の冷たさに、男の意識はぼんやりと生命の危機を感じた。
── 生きている
── けれど このままでは死んでしまう
── どうするか
── どうするか
耳元の会話は相変わらず、つかず離れず、囁くように交わされている。その言葉の通り、男の命は今まさに、その灯火を消そうとしていた。再び意識を失ったなら、二度と戻ってくることは無いだろう。
けれど、まだ死ぬには早すぎる。
その一心が、男の最後の気力を奮い起こす。
「っ……」
僅かな男のみじろぎに、声の主たちは小さな悲鳴を上げて遠ざかった。
薄らと霞のかかったような意識の中で、男は声の主たちに懇願する。
どうか、置いていかないでくれ。どうか助けてくれ、と。
── しぶとい
耳元に、先ほどより少し遠くから声が届いた。やはり童の声で、その声はひどく小さい。
その声のうちの一つが、男の意識をしかりと捉えた。
── この男 なんぞ 面白いものを持っているぞよ
がさごそと、何かを引きずり出す音が続く。男の感覚は鈍り、声の主たちが何をしているのか定かではない。けれど、その声のさす「面白いもの」は、大方の見当がついた。
それは、筒に収めた幾枚かの絵に違いなかった。男が旅の道すがら、心の赴くままに描き散らした墨絵だ。
月下の狐に、夜咲く朝顔。済んだ空に浮かぶ明けの月。
── ほぅほぅ これはこれは
── これは夏じゃな 夏の絵じゃ
夏じゃ、夏じゃ、と喜ぶような声が足下から聞こえる。それは朝顔だ、と言ってやりたいが、男の身体はいうことをきかない。身体を動かそうと力を込めても、獣のような呻きが漏れるだけだった。
── 夏の花と主さまなら どちらがお美しかろか
── そんなもの 主さまに決まっておろ
── うむ 主さまじゃ 主さまじゃ
なんのかんの、と言いあっていた童の声が、不意に男の耳元で大きく響いた。
── やい 男 主さまを描け
── そうじゃ 主さまを描け
突然の大音声に、男の頭は割れるように痛む。そんなことにはお構いなしに、童の声は主さま主さまと、繰り返す。
五月蝿い、という男の叫びは声にはならず、割れるような頭の痛みに、ただただ呻きが漏れるだけだった。
このままでは、凍死してしまう。それでなくても、大事な絵筆をもつ指先が凍傷にでもなれば、男にとってこれほど苦しいことは無かった。
描かねばならないのだ。男は、その一心で薄れゆく意識にすがりついていた。
絵師、幽然。それが、この男の雅号だ。
東の都でも西の都でも、幽然の名を知らぬものは無い。
諸国を旅歩き、行く先々で絵を描く絵師。彼の独特な筆致は、見るものを捉えて離さない程の生命力を絵に与える。
墨の濃淡だけで描かれたとは思えない、不可思議な程の生命力。見るものに残す、奥深い余韻。そして描かれる、「姿なきもの」「この世の理の外に生きるもの」たち。
他の追随を許さない、不可思議な画力をもつ絵師。それが、幽然。
幽然は眉間に力を込めて、意識を指先へと集めた。
「くっ……」
指先に渾身の力を込める。ぐっと、土を掴む感触が掌に伝わった。薄らと開いた瞼の隙間からは、ちらつく白い綿毛が見える。意識を総動員させて目を開けば、その綿毛が雪片であることが知れた。掴んだはずの土は、手の中で白く固い氷へと変ずる。
幽然の身体は、一面の白い雪に覆い尽くされていた。
果てのない大地が全て白一色に染め上げられて、空さえもぼんやりと白い。どこまでも白い、冬の平野。その中に一人、ぽつんと倒れている己の身を思う。 これはとうとう、駄目かもしれない。そんな弱気な思いが、彼の胸中に広がった。
── しぶとい男じゃ
── しぶとい しぶとい
そう言ってまとわりつく童の気配は、まるで姿なき声。きゃらきゃらと笑う気配はすれど、その姿を幽然の目が捉えることはない。
それは、声の主がこの世の理の外に生きるものであることを物語っていた。
ちらつく雪の気配と、童の気配が入り乱れる。憔悴しきった幽然は、動かない唇を諦めて、意志だけを童へと向けた。
(後生だから、助けてはくれまいか)
心からの叫びに、応える声は無い。
(頼む……どうか……)
すーっと辺りが暗くなるように、幽然の意識は再び深く落ち沈もうとしていた。四肢の冷たさを感じる感覚も、ゆっくりと失われていく。
薄れゆく意識の中で、幽然は吹き荒れる風の音を聞いた。轟々と平野を駆ける、刃のように冷たい疾風は、ざぁっと幽然の脇を駆け抜ける。
── 主さま
童の声がそう叫んだのを最後に、幽然の意識はぷつりと途絶えた。
夢を見ていた。冬の晴れ間に覗いた真っ青な空と、春を感じさせる穏やかな風の夢。平野には色鮮やかな花弁が舞い、雲はゆったりと空を流れる。
しかし、己が夢の中にいることに気づくと、途端にその風景は様相を転じた。凍る大地に吹き荒れる、研ぎすまされた冬の風。身体が、風に攫われて宙に舞う。
凍えるような風の冷たさに、幽然ははっと我に返った。自分は今、どこにいるのだったか、思い出そうとして瞼を開く。
開いた眸に映ったのは、薄ぼんやりと明るい石の壁だった。雪は無く、先刻のような四肢の冷たさも感じない。ぎりぎりと音を立てる関節に鞭打って、幽然はゆっくりと上体を起こした。辺りを見回せば、自分が洞穴の中に仰向けに横たえられていたことが知れる。幽然の少ない荷は、全て揃えて壁際に並べられていた。
「助け、られたのか?」
喉の奥から絞り出した声は、擦れて酷く耳障りだった。いくつか小さな咳をして、幽然は軽く頭を振った。それだけで、幾分か頭の芯がすっきりとする。
そうして意識がはっきりとするにつれ、幽然は、辺りを覆う耳が痛くなる程の静寂に気づいた。りぃんと玻璃の鈴を鳴らすような音が、絶え間なく耳の奥を揺さぶるようだ。先ほどまで聞こえていたはずの、童の声はどこにも無い。小さな風の気配さえ、まるで感じられなかった。
「一体……」
何がこれほどまでの静けさをもたらすのか。
首を巡らせると、外へと開いた洞穴の口が、ぼんやりと白く光っているのが見える。幽然はその光に誘われるように、ぎこちない身体を引きずって洞穴の口を目指した。
洞穴の外には、一面の銀世界が広がっていた。
比喩ではない。積もりに積もった新雪を、月明かりが銀色に染め上げているのだ。
雪は止み、風も止み、雲一つない空にかかった大きな月と、一面に銀の衣を被った果てのない大地が、どこまでも幽然の眼前に広がる。その中で、幽然の視線はある一点に吸い寄せられた。感嘆の声よりも先に、息を飲む。
一目でこの静寂の主と知れるそれは、白銀の世界に臆すること無く凛と佇む、一人の武人の姿をしていた。
「これは……」
幽然の漏らした呟きに、壮年の武人はゆっくりと振り返る。結い上げた銀糸の髪が、月明かりをうけて抜き身の刃のように煌めいた。燻したような渋銀の甲冑を着込み、腰には黒光りする太刀を佩いた戦装束の美丈夫。所々に鏤められた黒と朱が、この白銀の世界でよりいっそう、男の存在感を引き立てる。
「気がつかれたか」
ゆったりとした足取りで幽然へと向き直ると、男はそう言って微かに表情を緩めた。冷たさを感じさせる整った容貌に、思わず惹き込まれそうになる。幽然は知らず、男に対して頭を下げていた。
「お助け頂き、有り難く存じます」
「構わぬ」
軽く言い放たれて、幽然は視線を男に戻す。見遣った男は、銀糸の髪を月光に煌めかせながら、遠くの空を眺めていた。
「童たちが、そなたの絵を大層気に入ったようだ。あれらは夏が珍しいから、ひとつ持っていってしまった。……すまない」
「いえ」
夏の絵と言うことは、きっとあの朝顔の絵なのだろう。冬しか知らない雪ん子たちが、気に入るのも無理はない。彼らが喜んでくれたおかげで、自分は今こうしていられるのだ。感謝こそすれ、謝られるのは過分とさえ思えた。
「まだ夜明けまで一刻ほどある。少し休まれるがよい」
男はそれだけ言うと、再び幽然に背を向けた。
凛とした冬の空気を纏い、月の光を浴びながら、男は静かに佇んでいる。まるでその男そのものが冬であるかのように、冷たく静かな時間が男の周辺を取り巻く。幽然は息を詰め、ただひたすらその様をみつめていた。
翌朝、いつの間に眠っていたのか、幽然は再び洞穴の中で目を覚ました。絵具は一揃い壁際に並べられ、絵筒の中には幾枚かの絵がきちんと丸めて収められている。
その中に朝顔の絵がないことを確かめ、幽然は小さく笑みを浮かべた。
おもむろに、まっさらな紙と絵具を取り出してそれを並べる。
眸を閉じれば、昨晩の情景がありありと瞼の裏によみがえった。
「月光に満ちる白銀の平野、凛と佇む、冬将軍か」
呟いて、眸を開く。そうして勢いに乗った筆を、幽然は紙面一面に走らせた。
どこまでも広がる白銀の世に、冷たい空気を纏って立つ戦人。
闘志ではなく、強い意志を秘めた切れ長の眸。ただそこに居るだけのことが、ひどく人の目を惹きつける、不可思議な存在感。
奢るでも高ぶるでもなく、静かに、けれど力強く、遠くの空を射るように見つめている。
照らし出す月の光に、燦然と煌めく銀の大地は果てなく広く、澄んだ夜空も終わりなく広い。
描き出された絵はまるで、絵そのものが温度をもつかのように、冷たく澄んだ空気を纏っていた。
幽然は、描き上がった絵を洞穴に残すと、荷をまとめて立ち上がった。軽く一礼して、洞穴を後にする。
洞穴の外は、雪の後の澄み切った空気に満ちていた。
穏やかな冬の陽射しに照らされて、溶けかけた雪がきらきらと輝く。
さくりさくり、と雪を踏みしめながら、幽然は遠くに昇る幾筋もの煙に目を細める。日暮れまでに、人里につかなくてはいけない。深い雪に足を取られても尚、不思議と足取りは軽かった。
幽然が歩く度、粉雪が風に舞う。さらさらと軽やかな音を立てて。
その軽やかな音に、時折童の笑い声が混じる。雪ん子の戯れる姿を垣間みながら、幽然は雪の平原をゆっくりと歩んだ。
― 了 ―
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