|
『猫と牡丹』
ゆるりと続く長い坂には、膝丈程の下草が生い茂っていた。心地よい風が渡るその坂を、男は一歩一歩踏みしめながら登る。
人が通らなくなって久しい道。
かつては確かに道であった、草原。
「この先に村があったはずだが……」
この分では今宵も野宿かな、と、男は茜に染まった空を見上げた。ぽかりと浮かんだ鴇色の雲が、風に乗って流れてゆく。緩やかに流れる時間に目を細め、男は再び歩き出した。
徐々に深くなる草を掻き分け、坂の終を登りきる。ひと際涼やかな風が、汗ばんだ肌を優しく撫でる。
大きく一つ息を吸って、男は顔を上げた。目の前に広がるは、どこまでも続く空と開けた大地、そうして処々朽ち果てた小さな集落。
そこに、人の住まう気配はない。
「飢饉か、天災か……」
沈みゆく陽に照らされて、捨てられた村は緋色に染まる。放り出されたままの鍬、荒れ果てた畑に咲く名も知らぬ花、ひび割れた釣瓶……その全てが、今はただ朱に輝く。
忘れ去られた時間が揺蕩っている、そんな村。
痩せた三毛猫が一匹、ふらりと姿を見せて、消えた。
刻一刻と変わる赤をしばし眺めて、男はふと視線を辺りに転じる。人里でないとはいえ、以前は里であった場所。今宵一夜の宿を、せめて夜露に濡れぬ処に求めようと、男は朽ちた家屋へと足を向けた。
崩れ落ちそうな雨戸を開き、男は黴臭い畳の上に腰を据えた。
眺めやった庭は、かつては美しく整えられていたのだろう。けれど、今そこにかつての面影はない。
暮れなずむ空が紫紺へと色を変えていく中、男は下ろした荷から一揃えの絵具を取り出した。
この男、雅号を「幽然」という。本当の名を知る者は、ない。
だが幽然という名は、絵師の名としてよく知れている。京の都然り、江戸の都然り。
彼の描く絵は、その場の情景を彷彿とさせる、不思議な生命力に満ちていた。色を載せずに、ただ墨だけで描く風景画。時には「姿なきもの」「理の外に生きるもの」までも、真摯に描き出す不可思議な筆致。そのどれをとっても、他人に真似の出来ない特有の絵だ。
時折ふらりと人里に現れては、隠居老爺に絵を売ってまた旅に出る。
彼の旅の目的を知る者はなく、目的があるのかさえ、知る者はない……
そんな彼が目を留めたのは、主を失い荒れ果てた庭の、一株の牡丹だった。季節柄、牡丹の株に花はなく、ただそこに枯れかけの枝を広げるだけ。かつてはきっと、それは見事な花をつけたのだろうに……
その姿を偲んで、幽然は筆をとる。
ゆっくりと目を閉じれば、幽然の瞼には、鮮やかな庭が生き生きとよみがえるようだった。
「青々しい葉に、赤い斑入りの白牡丹」
呟いて、幽然はそっと目を開く。
まるで在りし日の庭を見るように、幽然はさらりさらりと筆を走らせた。
残照に赤く染まる庭。緋に染め上げられた、白牡丹。
牡丹を見上げるは、先ほど行き会った三毛の猫。
幽然の絵に色はない。けれどそこには、確かに鮮やかな世界が描き込まれていく。
ひとしきり筆を振るった幽然は、ふと、傍らに気配を感じて手を止めた。柔らかな、ひっそりとした気配。
「誰か、いるのか」
沈みかけた陽の光は、部屋の奥までは届かない。部屋の奥の薄暗がりには、まるで小さな影が淀んでいるようだ。辛抱強く、幽然はその影に目を凝らす。儚く頼りない気配に、じっと神経を研ぎすます。
そこには、一人の女が座っていた。
ほとんど影と同化した、透けるように白い女だった。
その揺らめく陰のような存在感で、幽然は女が人ではないことを知る。
「お前……弱っているな」
近づけば消えてしまいそうな儚い女に、幽然はそっと向き直る。着物の色は今様で、その赤色がまた、女の白さを際立たせる。女は切れ長の眸を細め、憂いを帯びた表情を浮かべて幽然をみつめていた。何かを訴えようにも、もう言葉を発する気力もない。そんな、弱々しさが感じられる気配だ。
その女が、ふわり、と揺らめくように立ち上がる。陽炎のように揺らめいて、微かな輪郭だけを残し、女は幽然の傍らをそっと通り過ぎた。
投げかけられる視線があまりに切なくて、幽然は思わず視線で女を追った。
陽が落ち沈み、夜の闇が覆う庭に、女はするりと滑るように降り立つ。女の歩む先に視線をやって、幽然は思わず息を飲んだ。
そこにいたのは、落日の王。
何者にも染まらぬ白い衣の背に、はらりと墨を流したような髪が舞う。こちらもまた、透き通るように白い、美しい男。その双眸は苦し気に閉じられているが、匂い立つような気品は隠しようもない。
その男の纏う気高く清らかな気配に、幽然は思わず居住まいを正した。
紛れもなく、そこにいるのは「王」だった。他に言葉がない程に。
命の灯火がまさに消えんとする、そんな儚さに包まれてすら、気品と風格だけで場を圧する、王。
荘厳な空気を纏う男の傍らに、女がそっと寄り添う。気遣わし気に身体を支え、そうして女は幽然を振り返った。眸は、悲し気に潤んでいる。
「……そうか、家主がおらぬから……」
こくり、と小さく女が頷いた。弱々しく、唇だけが動いて言葉を紡ぐ。
(どうか、お力を……)
皆まで言えず、女は首を垂れた。
「……引き受けよう」
最早目を開けることさえ叶わない男は、首だけを動かして幽然の方へと向き直った。そうしてゆっくりと礼をする。その微かな動作でさえ、男は苦し気に眉を寄せた。
それまで隠れていた月が、雲間からゆっくりと姿を現す。
理の外に生きるものたちを、美しく照らし出す月影。けれど、弱り切った二人にはその光すらも毒となる。赤い衣の女は恨めし気に天を見上げ、もう一度だけ幽然に切ない視線を向けた。
白々しい月の光に、夜の庭が照らされる。二人の陰は揺らめく陽炎のように輪郭を失い、後にはただひっそりと、牡丹に寄り添う三毛猫がいるだけ。
− にゃぁん
三毛猫は一声鳴くと、そのまま夜の闇へと消えた。
翌日、幽然の姿は寺の境内にあった。
「これは、これは。都で名高い絵師どのが、こんな山奥の寺にお越しとは」
立派な松の植わった庭を眺めていた幽然の背に、寺の和尚の声がかかる。
「突然お邪魔してしまい、申し訳わりません」
「なんの。して、なにか御用がおありとか」
取り次ぎから話を聞いたのであろう、無駄話もほどほどに話は本題へと移る。
幽然は境内の端に置いた大きな牡丹の株を、和尚に示した。
「実は昨晩、無人となった村であれを見つけまして」
「ほぉ、見事な百花王ですなぁ」
「よろしければ、こちらで引き取って頂けないかと。……差し支えなければ、あの三毛も」
牡丹の株に近からず遠からず、庭の端にちょこんと鎮座した三毛がいる。
「牡丹に猫とは、縁起がいい。富貴と長寿の吉祥図ですな」
和尚はそう言って、目を細めた。
「お引き受けいたしましょう」
和尚の言葉に、幽然はほっと胸を撫で下ろす。
「実は、吉祥図の方も、奉納させて頂きたく……」
下ろした荷から幽然が取り出したのは、昨晩描いた猫と牡丹。鮮やかな斑入りの白牡丹と、それを見上げる三毛の姿は、まるで生きているかのような暖かさをもってそこに描かれている。
「ほぉ、これは。噂通り、なんとも生命力に溢れた絵をお描きになられる」
ひとしきり感心した和尚は、ふと、幽然のもつもう一枚の紙に気がついた。問われて幽然は、その紙を開いてみせる。
そこに描かれていたのは、寄り添う男女の姿。一人は透けるように白く、儚い印象の美しい女。もう一人は、荘厳な空気を身に纏った、盲目の男。その絵のもつ空気はえも言われぬ静謐な空気に満たされている。男の口元には悠然とした笑みが浮かび、寄り添う女は幸せそうに微笑んでいる。
「これは……」
小首を傾げて絵を眺める和尚に、幽然はゆったりと笑む。
「うまく牡丹が根付けば、いずれ逢うこともありましょう」
そう言って、彼はその絵をくるりと丸めた。
「よろしければ、こちらもお収め下さい」
「えぇ、えぇ。承りました」
和尚は丁寧に二枚の絵を受け取った。
牡丹は、参道に程近い庭の一角に植えられる。無事根付けば、それは立派な花をつけることだろう。
花の季節には、また足を運んでみようか。
そんなことを考えながら、幽然は寺を後にする。和尚と三毛に見送られ、彼は再び当て所ない旅へと足を踏み出す。
一度だけ振り返った彼の目に、晴れやかに笑む美女の姿が見えた気がした。
― 了 ―
|