|
=第一章=
雲一つなく晴れ渡った空を、ゆっくりと進む影があった。否、地上から見ればゆっくりと進んでいるように見えるその影は、実際はかなりのスピードで空を滑っている。もし航路警備局の人間がその姿を見付けたなら、大慌てで本部に報告したに違いない。
「ドゥーズに空賊が出た!!」
と。
「おー。見えてきたね、ドゥ−ズ諸島。あれが秘宝の眠るヴェルソー島かぁ。奇麗な島だねー」
その『空賊』の一人であるカルは、海図片手にのんきな声をあげていた。操舵室からの眺めを堪能しながら、海図とは逆の手で三角形のコンパスを操っている。導き出された数字を見て、彼女は隣の人物に向き直った。
「尚、航路ずれてるよ。右に30°もどして。ヴェルソーの岬に降ろすから」
「岬? 人目につくんじゃん?」
ゆっくりと舵を右に切って、尚は眉を顰めた。肩を過ぎる長い髪を、邪魔そうに後ろで束ねている。年の頃は、カルとさして変わらない十代後半といった所だ。その尚の問いかけに、カルはふるふると首を横に振った。
「町があるのは岬の反対側だし、まぁ大丈夫でしょう。つーかむしろ、そこしか降りられないし」
「え、そこだけ?」
「うん、そこだけ。頑張れ〜」
無責任な声援を送って、彼女はにこっと笑った。
「失敗したら怪我じゃ済まないからね。ほらほら余所見しない」
「わかってるよ!」
尚が自制心を総動員して前面に集中し始めた時、不意に大きな音を立てて後ろの扉が開いた。無風状態だった操舵室に、一瞬風がなだれ込む。その風は、どんっと扉の閉る音と共に途切れた。入ってきた少女は、風で乱れた髪を後ろへやってバンダナをきつく締め直した。
「どしたの翔?」
そう問いかける声より早く、翔はつかつかと操舵室の奥まで歩いてきた。
「尚、ちょっとカル借りてくよ」
コンパスを置いたばかりのカルの手を掴んで、翔が椅子から引っ張りあげる。うにゃっと妙な叫び声をあげて、カルは床に滑り落ちた。
「ほらほら、自分で立つ。『宝瓶宮の地図』が変なの。直ぐ行ってくれる? ナビはあたしがやっとくから」
「ほーい。地図は宮の部屋?」
腰をさすりながら立ち上がったカルに、翔はこくりと頷く。その翔に海図を渡して、カルは操舵室を出た。南南西からの風が、彼女達の乗る飛行船の追い風になっている。前方からの風に上着をはためかせながら、カルは外廊下を進んだ。幸いにも、宮の自室は操舵室に近い。ノックするのもそこそこに、カルは扉の中に身を滑り込ませた。
「うわぁー、凄い風。帽子が飛んじゃうよ」
「あ、カル。これなんだけどさ、タカそっち押えて」
入ってきたカルに椅子を勧めて、宮は机の上に大きな紙を広げた。それは多様な記号の書かれた地図だった。『宝瓶宮の地図』である。破れたものをつなぎ合わせた様な継目が多く、その構成は地図と言うより見取り図に近い。平面に限らない立体的に描かれた地図で、描かれた場所が三層に分れているのが判る。ただその見取り図は、半分と少ししかピースが揃っていない上に、至る所焦げ痕だらけだった。その地図の一点を指して、宮が口を開いた。
「カル、ここ。うちにはよく分んないんだけどさぁ、何かあるっしょ」
「んーと、タカ虫眼鏡取って」
「おう」
片手で紙を押えたまま、タカは虫眼鏡を放って寄越した。眼帯をしているにもかかわらず、視野の狭さを感じさせない動きだ。銀細工の重たい虫眼鏡をなんとか受け止め、カルは宮の指す一点を覗き込んだ。焦げて黒くなった部分とは別に、明らかに人為的な痕がついている。
「翔は文字じゃないかっつってたぞ?」
タカの声に、そだね、と頷いて、カルは一旦顔をあげた。
「何でこんなの現れてんの? 今までなかったよ?」
「いや、それが……」
言い淀んで、タカが視線を外した。カルの視線が宮に向かう。タカを軽く小突いて、宮は淡々と口を開いた。
「この馬鹿が銀桃館の柘榴酒ぶちまけたから」
「……は?」
「いや、弾みだって弾み。翔が肩凝ったってゆーから出して来たんだけどよう、船が揺れた拍子に肘が当ったんだよ。そんでドバーッと」
タカの言い訳を、もはやカルは聞いていない。水文字も炙り出しも試したのに、何で銀桃館の柘榴酒だと出てくるんだ? などとぶつぶつ呟いている。そして唐突に、彼女はタカに向き直った。
「タカ、今度銀桃館に行ったら奢る! だから残りの柘榴酒頂戴。紅桃酒でも可!」
「お、おう」
カルの気迫に押されたタカは、取って来る、と言いおいて部屋を出ていった。その背中に、ついでに『解読シエル・エトワレ』持ってきて! と頼んでカルは再び虫眼鏡を覗き込む。
「でもさ、何で柘榴酒なの。紅桃酒でも可って、果実酒じゃなきゃ駄目なわけ?」
「駄目だろーね。アルコールの問題だろうから」
上着のポケットから取り出した手帳にメモを取りながら、カルは答えた。虫眼鏡を一度置いて、自分の眼鏡をはずす。それからもう一度虫眼鏡を覗いたカルに、宮はからかい半分の声をかけた。
「老眼鏡買ったら?」
「……歳じゃないもん」
地図から目を離さずに、カルは力ない反論を返す。そこに折よくタカが戻って来た。
「うわっ、すっげぇ風。カル、柘榴酒ねーから紅桃酒な。それと、本ってこれか?」
「あ、それそれ。サンキュ」
一瞬舞い込んだ風が、天井に吊られたランプを揺らす。ゆらゆらと明かりが揺れる中で、カルはタカの持ってきた薄紅色の壜を受け取った。グラスに注いでから、『宝瓶宮の地図』に振り掛ける。しばらくすると、甘い香と共に薄茶色の文字が浮かび上がってきた。草の蔓のように踊った文字は、シエル・エトワレの古代文字に良く似ていた。宮やタカにはさっぱり分らない。大急ぎで、カルはそれを手帳に写し取った。
「あ。タカ、サンキュ。その本かして」
分厚い革表紙の本を開いて、カルは眼鏡をかけ直した。ぱらぱらとページを繰りながら、彼女はペンを走らせる。両側からその様子を覗き込んでいたタカと宮は、カルの字があまりに細かいので読むのを諦めざるを得なかった。
「やーっ、これシエル・トワレじゃない!」
おもむろにカルが身を起こした。頭を抱えて、うーとかなーとか唸っている。宮が問いただそうとした瞬間、飛行船ががくりと傾いだ。三人とも慌てて壁に手をつく。グラスが転がり、ランプが揺れ、部屋の中を明かりが舞った。
「ッ尚! どういう操縦してんだ!」
「そーだ! もっと船を労れ!」
宮とタカが続けざまに、伝声管に向かって怒鳴り声をあげる。ざわざわがっこん、と雑音が入った後、翔の声がそれに答えた。
『着陸したよ。……取り敢えず食堂集合ね』
|