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 あの日……

 そう、あの日も、金鈴華は満開だった。夕陽に照らされ、燃えるような緋色に染められて。


 ここ程多くの樹があったわけではない。あの時、淡橙の花が咲いていたのは、平原の終わり。騎馬の民の土地と、貿易で栄えた大きな街との境界線。
 多くの誇り高い血が流れた、あの忌わしい土地。
 戦いの痕は浄められ、何事もなかったように美しい花が咲いていた。皇国の民は、その花の下で宴に興じる。その樹の下で、つい先頃まで戦があったことなど、まるで忘れてしまったかのように。
 それが、「彼女」には赦せなかった。そうして金鈴華が憎かった。何もなかったふりをして、ただ咲き続けるその花が……。

 

「翔? 翔っ」

 冷たい硝子の感触に、翔は慌てて顔を上げた。おでこに、冷えた緑色の小瓶が当たっている。

「檸檬水。気分がすっきりする」

「……ありがと」

「15 リンギル」

「……さっきの続きがしたいわけ?」

 半眼で睨むと、尚は軽く笑って首を振った。

「冗談。まだ死にたくないし」

 開けたての檸檬水はよく冷えていて、確かに気持ちをすっきりとさせてくれる。翔は有り難くそれを受け取ると、一気に小瓶の中身を飲み干した。
 清々しい香りが心地よい。長いこと甘ったるい華に埋もれていたから尚更だ。

「尚は、」

 暫しの沈黙のあと、翔は何かを言いかけて口ごもった。片眉だけを器用にあげて、尚は黙って先を促す。

「尚は、金鈴花に思い出って、ある?」

「思い出? んー。近所のガキに水飴、取られたな」

 何を期待したわけでもなかったが、尚のあまりに下らない思い出に翔は思わず呟いた。

「なにそれ、くだらな」

「自分で聞いたんじゃん」

 拍子抜けしたような、期待はずれと言いたげな翔の反応が、尚には面白くない。ぷぅっと頬を膨らませて、そっぽを向いた。
 その子供のような表情に、翔は呆れて笑うしかない。

「食べ物取られるなんて、尚にとってはそりゃー辛い記憶でしょうとも」

「あったりまえじゃん! 自分でお金だして買った飴だぞ? 取られたら腹立つしむかつくでしょーが」

「で、どうしてやったの?」

「池に突き落とした」

 育ちは悪くないはずの、黙ってさえいれば飾っておきたいような美少女が、水飴を取られた仕返しに男の子を池に突き落とす。周りの大人は、さぞ大騒ぎだったに違いない。
 その場の騒動を想像して、翔は思わず吹き出した。

「尚は昔から変わらないってことが、よーくわかったわ」

「そう言う翔は、何か変わったわけ?」

 何気なく、本当に自然とでた質問だった。けれど、問われた翔の表情は固まり、視線はやや下に逸れる。
 翔自身、何故ぎくりとしたのかわからない。けれど、なんだか後ろめたいような気がして、彼女はそっと顔を伏せた。

「……どうでもいいけど」

 話を変えようというつもりか、尚は周りの空気を払うように手を振る。

「そろそろ機嫌直しとけよ」

「別に悪くないわよ」

「いや、悪いね。盛大に悪いね。出発前より随分いいけど、それでも悪いね」

 あまりのいいように、思わず翔の腕が上がる。その軽い突きを横に流して、尚は視線を少し離れたカルに移した。

「……おかげで、カルまでなんか変だし」

「カル?」

 顔を上げれば、少し離れた屋台で魚掬いに興じるカルの姿が目に入る。腕に巻き付く薄布を何度もたくしあげながら、水槽に放たれた銀色の小魚を必死に狙っている。

「気配り担当の翔姉さんはお気付きでない? カル相当煮詰まってるぞ。それも多分、翔の所為で」

「あたし?」

「ま、気付かない程悩んでんなら、それでもいいけどー」

 嫌みたっぷりの含みのある言い肩が腹立たしい。それでも尚に手だしはせずに、魚と格闘するカルを目で追う。
 確かに、言われてみればカルの様子はいつもらしくない。なんというか、妙に空元気なのだ。周りを盛り上げようと、一人でからまわっている。魚屋の主人に対してさえ、無駄に元気よく応対している。
 気にしてみてみれば、それは一目瞭然だった。

「言われてみれば……」

 こちらに気づいたカルが、大きく手を振る。

「翔〜。尚〜」

「ほら翔。呼んでる、呼んでる」

 翔が動けずに居る間に、魚屋の主人と何ごとか話して、カルはこちらへ駆けてくる。

「どした?」

「いっぱい獲れた! あれ、香草焼きにしてくれるんだって」

「三人分あんの?」

「プロですから」

 なんのプロなのやら。苦笑する翔と尚を引き連れて、カルは再び魚屋へと駆け戻る。網で焼かれた銀色の魚は、香草の衣をまとって芳ばしい香りを漂わせていた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 夜がくる。提灯の灯りに照らされて、金鈴華が闇夜に浮かび上がる。その様は幻想的で、美しい。
 皇国に不慣れなカルやタカもさすがに慣れたと見え、今は自由に祭を堪能している。
 翔は即席の食事処に落ち着いて、甘みを抑えた氷菓子を食べていた。

「翔」

 呼ばれて顔を上げると、ひらりと手を振りながら宮が歩いてくる。

「おかえり。何かめぼしいものあった?」

「いや、特に」

 答えつつ、宮は翔の隣に腰を下ろす。注文を取りにきた店子に炭酸水を頼んで、それきり宮は黙り込んだ。視線は提灯に染められた金鈴華に向けられている。
 周りの賑わいと楽の音色が耳に心地よく、宮の沈黙も気にならない。翔もしばし黙ったまま、器に残った溶けかけの氷菓子をもくもくと口に運んだ。
 炭酸水が運ばれてきて、宮がそれを空にする間も、翔はずっと氷菓子の器を木匙でつついていた。彼女が口を開いたのは、氷菓子の器も炭酸水の小瓶も店子によって下げられた後。

「あたし、」

 いいかけて、翔は口元を微かに歪めた。

「あーあー。やっぱいいわ」

 ぱたぱたと手を振って、前言を払いのける。

「そ?」

「宮は、久しぶりの祭どう?」

 さっきも、尚に同じような質問をした。言ってから、翔はそんなことを考える。

「祭ねぇ。うちはあんま縁なかったからなぁ。祭に行った記憶とかあんまないんだわ」

「あぁ、そうか。神学校だっけ?」

「そ。カルやタカは知らないけど、これでもうち、凄いんよ?」

 にっと笑って、茶目っ気たっぷりに宮は肩目を瞑ってみせた。
 翔が彼らの育ての親、目下行方不明中のお頭・那夜に出会った時、宮は既に那夜率いる『グッドスピード』で暮らしていた。彼女がそれ以前にどこで何をしていたのか、翔も詳しいことは知らない。ただ、何かの折に、神殿の学校に行っていたことがあるとだけは訊いていた。
 詳しく訊こうと思ったこともないではないが、まだ幼かった時分はそんな余裕もなく、気がつけば知らないままで不自由なく過ごしている。
 それは、誰しもお互い様。

「ま、その『知らないこと』を、カルはやたら悩んでるみたいだけど」

 宮に言われて、翔は小さく頷いた。

「そーね」

 尚に指摘された時、ようやく翔も気がついた。自分の皇国への強いこだわりが、カルやタカに妙な気遣いをさせていることに。

「知らないことは別にいいんだけどさ。『知らない』から、何か酷いことを言いはしないか、やりはしないか、二人とも不安なんしょ」

 宮の言いたいことも今ならわかる。

「あたし、自分のことだから自分でなんとかしようと思ってた」

「翔の性格なら、そーだろね」

「正直、相談しようにも何が引っかかってるかわかんなくって」

 無言で宮が頷く。翔は一つ一つ整理するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 あの日、翔は身の丈に余る長剣を担いでいた。
 ──最後の独りになっても闘う

 それが、彼女の部族の生き方。女子供と言えども、彼らは戦士だった。
 誇り高い騎馬の民。その中でも、定住せずに狩りと傭兵で生計を立てる者は蒼騎の民と呼ばれた。皇帝の統治の枠に嵌らず、税も払わず。
 皇帝の代が代わって以降、そんな彼らへの弾圧は苛烈を極めた。
 蒼騎の民は、今はもういない。皇国は、騎馬民族の一掃のために軍を動かしたのだ。壮絶な死闘の末に生き残ったのは、たった独りの少女。

 ──闘う……

 あの時の彼女を突き動かしていたのは、騎馬の民の誇りでも、滅ぼされた恨みでもなかった。もっともっと強い、この世の全てに向けられた呪い。けれど、

 ──子供がそんなもん、背負い込むんじゃないよ

 そう言って、しっかりとした手で頭を撫でてくれる人が居た。彼女がいたから、今、自分は生きている。

 

 

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