=第4章=
その日は、月のない夜だった。真に新月なのは翌日のはずだが、糸のように細い月は雲に覆われ、今にも降り出しそうな空が海上に広がっていた。
そんな鬱陶しい天気の日には、酒場が賑わう。外にいても気分が晴れることはないから、飲んで憂さでも晴らそうという輩があちこちの酒場から溢れ返っていた。
「ねぇさん、こっちに火酒をくれ!」
「おい、こっちもだ!」
あちらこちらで声が上がり、店の看板娘が忙しなくその間を行き来する。そんな騒々しい店の一角で、静かにグラスを傾けるテーブルがあった。座っているのは、男ばかりが三人。
一人は色黒の引き締まった身体に、短く刈った黒髪。腰には大降りのカトラスを下げた、眼付きの鋭い男。
もう一人は赤毛の髪を後ろに撫で付け、鬱陶しそうに店内に背を向けている。腰にはやはり、大きなカトラス。
三人目は、ひと際目を引く風貌だった。珍しい灰色の髪を背に垂らし、色素の薄い切れ長の双眸で見るとはなしに店の中を眺めている。
その灰色は、見紛うことない大空賊。同業者すら一目置く、先鋭集団の頭領だった。人数こそ少ないが、その戦闘能力の高さと行動の迅速さはさながら軍隊のよう。狙った獲物を決して逃すことのない周到さは、猛禽とも大鷲とも言われる。そうしてその頭領は、その容姿から「白鷲」と形容されていた。
同業者すら恐れをなす、冷酷無比な空賊集団。
それ故に、酒場の空気に逆らって静かに飲んでいる三人に声をかけるものなどいない……、はずだった。
「よ。アーヴェンじゃないか」
不意に背後からかけられた声に、赤毛の男はグラスを持つ手を止めた。そのあまりに馴れ馴れしい口調に、険悪な視線で振り返る。だが、振り返った先に見知った顔をみつけ、彼は表情を緩めた。
「これはこれは。久しぶりだな、那夜」
「おぅ、ハガート。それにキーラも。元気か?」
臆すでもなく構えるでもなく、軽い調子で近づいてきたのは、まだ若い一人の女だった。鍛え抜かれた細身を黒衣で包み、さらりと流れる黒髪は肩口で綺麗に切り揃えられている。にこやかな、だが底の知れない笑みを浮かべるのは、珍しい夕闇色の双眸。
女だてらに荒くれ男達をとりまとめ、数ある空賊団の中でも最速を誇る飛行船、『琅碧号』で空を駆ける。その団員の人数も群を抜いて多い、『グッドスピード』の頭領・那夜だ。
最速の空賊と最強の空賊、といえばやや言い過ぎかもしれないが、世間を騒がすビッグネーム二人であることに変わりはない。酒場の一角と他の客を隔てる壁が更に厚くなる。
「おねーさん、ラムをボトルで頂戴」
軽く手を上げて注文をし、那夜はアーヴェンの向かいに腰掛けた。
「最近は、随分と大人しくしているようだな。コンドルにでも目を付けられたか?」
色素の薄いアーヴェンの眸が、薄く笑んで那夜を見る。対する彼女はさてね、と軽く応えて、隣の赤毛の火酒を煽った。赤毛の青年がひでぇ、と抗議するが、聞こえないふりをする。
「コンドルに目を付けられるなんて、今更だろう? うちはどうしたって地上待機組がいるから、拠点を襲われるなんてしょっちゅうさ。それに、別段大人しくしているつもりもないしね」
横から差し出されたラムのボトルを豪快に開け、那夜は夕闇色の眸を愉しそうに輝かせる。
「ほぅ? なんだ、何を企んでる」
「企むなんて人聞きの悪い。ただちょっと、大きなエモノを追っかけてるだけさ」
にやりと那夜は口の端を持ち上げた。
「大きなエモノ? へぇ、どんなお宝よ、それ」
興味津々の赤毛の青年にラムを注いでやりながら、那夜はちらりと辺りに目を走らせた。酒場の客は酔うことに夢中で、彼らのやり取りなど気にしてはいない。それを確かめて、那夜は一段声を落とした。
「狭間(はざま)の秘宝」
瞬間、正面に座るアーヴェンの顔が盛大にしかめられる。両脇のハガートとキーラは、きょとんと訳が分からぬ様子だ。
「狭間の、て……そいつぁ伝説だろ?」
なぁ、とハガートに問われ、キーラは困惑気味に頭領に視線を向けた。彼らの灰色の頭領は顔をしかめたまま、ただ那夜の顔色を読んでいる。
しばらくしてようやく口を開いたアーヴェンは、真っ先に大仰なため息をついた。
「那夜……狭間は伝説にすぎん」
「と、言われているだけだよ。あんたも知ってる通りね」
探るような視線がテーブルの上を行き来する。那夜は相変わらずの不敵の笑み。対するアーヴェンは無表情を決め込んで、手元のグラスを傾けた。
「……ま、いいけどさ。おっと……」
何かを思いだしたように黙り込んだアーヴェンから視線を外し、那夜は小さなボトルのラムを煽る。一息にそれを空にすると、彼女はおもむろに立ち上がった。
「出航準備をさせてるんだった。それじゃ、お先に」
「出航? 今からかよ」
まだ朝の気配すらない真夜中、それも、今にも嵐が来そうな天気の中での出航。ハガートが訝しげに問い返す。
「あぁ。明日を逃すと次がないんでね」
返す那夜は飄々と応え、それじゃぁ、と三人に背を向けた。その背に、アーヴェンが声をかける。
「那夜、あれは追うものじゃない。夢みたいなものだ、止めておけ」
忠告めいたその言葉に、那夜は背中越しに軽く笑う。
「追いかける夢はでかくなくちゃ、つまらないだろ」
忠告有り難う、と一言残し、彼女は軽く手を挙げた。そうしてそのまま、酒場の雑踏の中に消えていく。
それが、『グッドスピード』の那夜が目撃された、最後の夜だった。
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