=序章=
辺り一面に、潮の香が漂っていた。どこか見覚えのある風景。上空には、青竹色のスマートな飛行船が停泊していた。
ーー 琅碧号……
見なれたフォルムに、翔は思わず呟いた。けれど声はでない。飛行船の繋留塔を辿って視線を下へと転じると、そこには見知った顔が集まっている。その中に懐かしい顔を見付けて、翔は眼を見開いた。
ーー お頭! 那夜! 戻ってきたんだ!
慌てて駆け寄ろうとするが、何故か身体が動かなかった。今直ぐ駆け寄っておかえりと言いたいのに、近付くことが出来ない。声を出して存在を主張しようにも、声も思うようにはでなかった。そこに翔がいることなど全く気付くふうもなく、那夜達は繋留塔へと歩き出す。
ーー 待って! いっちゃだめ。那夜っ!
激しい焦躁に駆られて、翔は思いきり声を上げた。けれどやはり、その声が彼女達に届くことはなかった。
ーー 那夜ーっ
「……しょ……う、翔! 大丈夫?」
眼を開けると、そこには見知った自室の天井があった。
「夢……」
呆然と身体を起こすと、室内なのに帽子を被ったおかしな格好の友人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。丸眼鏡の奥の緑がかった黒い瞳が不安そうな色を称えているのに気付いて、翔はふぅっと息をつく。その拍子に、肩を少し過ぎる長さの黒髪がはらりと顔に落ちかかった。普段は健康的な血色の頬は、今は紙の様に白い。
「ごめん、カル。大丈夫。……久し振りに那夜の夢みちゃった。多分、最後に出かけた時の……」
「……そか、那夜の……」
僅かに眉を顰めただけで、カルはそれ以上何も言わなかった。代わりに乾いたタオルをそっと差し出す。タオルを受け取って始めて、翔は自分がかなり汗をかいているのだと知った。乾いたタオルで汗を拭うと、すっと身体が冷えていく。
「もうすぐヴェ−ル・ロックだから、気流の様子を見てくれって宮が呼んでたんだけど……代わっとこうか?」
乱気流で有名な難所であるヴェ−ル・ロック島へ近付くには、気流を避けるために「風読み」と呼ばれる技術がいる。といっても、別段特殊な能力ではなく、星座から現在位置を割り出す「星読み」と同程度の航空術の一つだ。この飛行船では、「風読み」は翔、「星読み」はカルと一応の役割分担をしているが、どちらもナビゲーターとして一通りの航空術は学んでいるので、カルがヴェ−ル・ロックへの着陸のナビをしても大した問題はなかった。けれど、翔は軽く頭を振ってベッドから降りる。
「ん……、大丈夫。直ぐ操舵室にいくよ」
今は少し、別なことに集中していたかった。そうでなければ、ぐるぐると考えても仕方のないことに囚われてしまう気がする。酌み起きの水でさっと顔を漱ぎ、翔はもう一度乾いたタオルで顔を拭った。顔と一緒に、気分も幾分さっぱりする。
「さてと。カルは『戯宝館』で捌く品を整理しなきゃでしょ。ほーら、仕事仕事」
まだ心配そうなカルを追い立て、翔は外廊下へ続く扉を開けた。
扉の先には、一面の青が拡がっている。空の青と、海の青。さらに欄干から下を見下ろせば、エメラルド・アルシぺル諸島の名に相応しく、コバルトブルーの海に輝く緑の島々が点在していた。飛行船の進路の先には、その中で一際大きな島、ヴェ−ル・ロックがある。
「すっごい風。さすがエメラルド・アルシぺル」
翔は、風に煽られて乱れる髪を手早くまとめ、空に負けない鮮やかな水色のバンダナをきちっとしめ直した。自然と気持ちも引き締まる。
「それじゃあ翔、またあとでね?」
「OK」
風に煽られ右往左往していたカルが自室に引っ込むのを見送って、翔は向い風に顔を顰めながら操舵室へと向かった。
背後でドアの開く音がして、宮は僅かに肩ごしに振り返った。一瞬、操舵室に風が流れ込む。
「遅くなってごめん、宮」
翔はそういって、彼女の横に並んだ。翔の眼は真直ぐ前を向き、飛行船の前方に取り付けられた風見鶏と手元のコンパス、そして周りの雲との間を注意深く行き来している。小柄な宮は、その翔の顔を横目でちらりと見上げ、軽く眉根を寄せた。
「……顔色悪いけど、大丈夫?」
聞かれて翔は、ひょいっと肩を竦める。
「ん……まぁまぁ。ちょっとね、夢見が悪くて」
「ふーん……」
宮はそれ以上深く聞かずに、視線を前方へと戻した。鋭い黒い瞳が、真直ぐにヴェ−ル・ロックの峰を捉える。天候良好、見通し良好。その名の由来とも言えるヴェ−ルのような薄雲も、視界を遮るほどではない。風も、ヴェ−ル・ロックにしては大人しいものだ。
まもなく、ヴェ−ル・ロックへの着陸体勢に入る。飛行船の操縦でもっとも神経を使うのは、この着陸だった。宮も翔も、そこから先は無駄口は開かない。
「宮、高度下げて。前方上空に気流の乱れ」
「了解」
ぐんっと飛行船が傾き、そこからゆっくりと、地上へと近付いていく。ヴェ−ル・ロックの一際高い峰が間近に迫り、やがて彼等の飛行船はその麓の一角へと吸い込まれていった。
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