『雨中の藤』
──雨の夜 森で笛の音が聞こえたら、決して近づいてはならない
──魂を 獲られてしまうよ……
霧雨が降っていた。
陽はとうに傾き、辺りには月もない。
己の手足さえ見失いそうな闇の中、男はただひたすら薮を漕いでいた。
「参った……陽が出るまでどうしようもないか……」
大木の下のやや開けた場所に出て、男は漸く歩を緩める。日暮れ時から降り出した雨で、体力はすっかり失われていた。山の中、どこをどう歩いているのかも、もはや判断がつかない。笹薮を掻き分け続けた両腕には、無数の切り傷が走っていた。
背に担いでいた荷を下ろし、男は大木に身を寄せた。大きく張り出した枝が笠となり、雨脚が幾分凌げる。
雨の当たらない一角を選んで、男は下ろした荷を解いた。雨に濡らさぬよう細心の注意を払って、中を改める。
「濡れてはいないな。よかった」
油を染み込ませた布で包まれた竹の筒の中には、数枚の絵が丁寧に丸めて収められていた。
月下に鳴く狐、優美で力強い夜桜、雪原に散る椿……
どの絵も色を載せていないにも関わらず、その場の情景が目に浮かぶような生々しさをもっている。
それは、この男のもつ独特の筆致だ。生きとし生けるもの、時には「姿なきもの」「理の外に生きるもの」までも、真摯に描き出す不思議な画力の持ち主……。
男は、雅号を「幽然」といった。
京の都では名の知れた絵師──「幽然」──だが、男がこれほど若いことを知るものは少ない。
諸国を旅歩き、時折ふらりと何処かの隠居の宅に立ち寄っては、絵を売って去っていく。その旅の目的は誰も知らず、目的があるのかさえ、誰も知らない。
いつから絵を描いていて、次はどこに現れるのか、幽然に関することは何一つわかっていない。
謎めいた彼の絵は、独特の筆致とその不思議な生命力も相まって、京では大層な値がつけられていた。しかし、ふらりと何処かに絵を売りにくる彼は、路銀以上の代価を決して受け取らない。
そんな噂が、また人の好奇心を掻き立てる。そうして幽然の名は、雅を好む京人から粋を好む江戸にまで、広く知れ渡っていた。
「冷えるな……」
呟いて、彼は手近を見回した。大木の根元には、まだ湿りきっていない枝や枯れ葉が大分ある。それらをかき集め、苦労の末に火をつける。頼りないながらもぱちりぱちりと爆ぜる緋色の火が灯り、彼はほっと息を吐いた。
冷え込む雨の夜。緋色の灯りの及ぶ域は狭く、そこから先はただひたすら闇が広がっている。墨色一色に塗り込められた闇に、さぁさぁと霧雨の音だけが満ちる。
幽然は、霧雨の音に身を委ね、大木に背を預けて目を閉じた。
どれ程の時間、そうしていただろう。
ふと、彼の五感がざわめいた。
辺りは月のない霧雨の夜。焚いたはずの火は、いつしか消えて跡形もない。どこまでも暗く、雨音だけが支配する世界には獣の気配すらない。けれど、彼の耳は確かに微かな音を捉えていた。
ヒョーロロ、ヒョー、と、途切れ途切れの微かな音が彼の耳に届く。風の音にも聞こえるそれは、不思議な引力をもって、彼の五感を引きつける。さめざめとなく女子のような、悠然と舞う舞姫のような……時に悲しさを、時に優美さを感じさせるその音に、彼はゆっくりと辺りを見渡した。
「笛、か?」
その音は、暗く深い闇の奥から聞こえてくる。
彼は荷をまとめ、その音に導かれるように歩みだした。
下草生い茂る薮が続く。時折、何かの刺が腕を裂く。雨に打たれて濡れそぼり、行く手には果てない闇が広がる。
それでも、彼は音を頼りに歩き続けた。
無性に心が駆り立てられる。その音の元へ行かなくては、速く、速く……。
己にも、何故そんなに気が急くのかは理解できない。それでも、身体だけは前へ前へと、音に引き寄せられるように進んでいく。
(近い)
徐々に、笛の音が大きくなる。それは今まで聞いたことのない不思議な旋律で、更に彼の心を掻き立てた。自然と、足が速まる。
不意に、深い闇にぼうっと光る何かが浮かび上がった。月の光のような、淡く白い光に霧雨が輝く。
銀色の雨だ。
その光景に、幽然は息を飲んだ。
(これは、美しい)
描きたい、という衝動が彼を襲う。だが、彼の足はひたすらに音の元へと向かい続ける。笛の音が聞こえる先へ、銀色の雨の中へ……、幽然は下草を掻き分けた。
「……これは……」
目の前に開けた光景に、彼は思わず感嘆の声を漏らした。
一抱えはあろうかという立派な巨木が、辺り一面に枝を広げる。その幹に、枝に、まるで大蛇のような蔦が、絡み付くように這っている。そうしてその大蛇から垂れ下がるのは、鈴なりに咲いた見事な藤。
そこだけ涼やかな風が吹いているかのように、藤の花房はさやさやと、微かな音を立てて揺れている。
花房は、玻璃のように透けた淡い紫。銀の雨に照らされて、美しく輝く。
それとも、藤自身が燐光を発しているのだろうか。
その異様な美しさに、幽然は我を忘れた。笛の音は、いつしか激しい旋律を奏で始める。駆られるように、彼は更に一歩を踏み出した。
シャラリと下がる玻璃の藤に、手を伸ばす。後ほんの少し伸ばせば指が触れる、というところまで近づいて、ふと、幽然は手を引っ込めた。
そこから渾身の力を込めて、数歩後ろへ退く。自身の意志にも関わらず、足は思うように言うことを聞かない。やっとの思いで藤の枝から離れた時には、額にじんわりと脂汗が浮かんでいた。
(これは、まずい)
気を抜くと、身体は藤に引き寄せられる。幽然は神経を研ぎすまし、更に数歩を下がって腰を下ろした。
(これは、人の魂を喰らう妖だ)
魅せられ近づく生き物の、生気を糧とする妖。世の理の外に生きるもの。
幽然は荷を解き、中から紙と筆を取り出した。
最早、雨を気にする余裕はなかった。ただ「描く」という衝動だけが、この妖に魅せられた己の唯一抗う方法であると、彼は本能で知っていた。
幽然の筆が走る。一心不乱に、玻璃の藤を描き続ける。銀の雨に輝く美しい藤。
勢いを増す笛の音に抗うように、幽然はただひたすらに描き続けた。
闇に浮かぶ玻璃の藤、大蛇のような太い蔦。
幽然が描く間にも、燐光と笛の音に誘われた生き物たちが、藤の花房へと消えていく。
藤の花房に群がる夜蛾、美しい淡紫に映える橙の……
ふと、幽然の手が止まった。
「何故、手を止める」
「……」
幽然の背に、冷たい汗が流れ落ちる。数瞬が、恐ろしく長く感じられた。
「何故、手を止めるか」
再び問われ、幽然はゆっくりと顔を上げた。橙の衣の裾が目に入る。更に顔を上げるとそこには、藤の狩衣に橙の打ち掛けを羽織った、一人の妖が佇んでいた。
藤の花房と同じ、玻璃のような薄紫の長い髪に、冷たく鋭い双眸。額の両の脇には短く鋭い角が生え、そのものが異形のものであることを物語っていた。手には笛……否、細工の込んだ小刀が握られている。
藤夜叉。
そんな言葉が、幽然の脳裏を過った。
「……そなた、この藤の妖か」
幽然の問いに、妖は微かに口の端をあげる。
「いかにも」
その冷たい笑みに、幽然は緊張する。だが、先刻程の引力は感じない。そこで漸く、彼は笛の音が止んでいることに気がついた。
「主は、不思議な絵を描くな」
冷たい笑みをたたえたまま、妖は幽然の手元を覗き込む。
闇に浮かぶ玻璃の藤に、引き寄せられる夜蛾。燦然と輝く花房と、角をもつ美しい妖……
黒々とした墨だけで描かれた絵は、不思議と玻璃の輝きまでも映し出している。
その絵を眺め、妖はふっと目を細めた。
「面白い。主の命、返してやろうぞ。その絵と引き換えに」
硬質な整った顔に冷ややかな笑みを浮かべ、妖が言う。
次の瞬間、幽然の視界の全てが掻き消えた。
気がつくと、幽然は藤の巻き付く古木の根元に横たわっていた。雨はとうに上がり、鬱蒼とした森の中にも陽の光が届いている。身体を起こすと、節々が痛む。幽然はゆっくりと身体を起こし、己の五体満足を確認した。
それから、横に放り出されている荷へと視線を移す。
筆、紙、墨、路銀に僅かばかりの所持品。書き上げた幾枚かの絵……
その中に、昨晩の藤の絵は、ない。
「絵に命を救われたか」
己の命程価値のある絵を、描いたとも思えないが……、と、幽然は心の中だけで独りごちる。
「何はともあれ、急ぐに越したことはなし」
一度は救われた命。二度目に出会えば、命はない。
散らばる荷を手早くまとめ、彼は道を求めて薮へと分け入った。
葉上の露は陽光を浴び、美しい金色に輝いていた。
──雨の中、人を誘う夜の藤
──今も尚、何処かで笛を吹き続ける……
─了─
|