『心に余裕を求めて九月』

 

 ──カランカラン……


 扉を開けると、目の覚めるような赤が飛び込んできた。
 外界の、まだ暑さの残る空気を閉め出して、僕は店の中に身体を滑り込ませる。店内の涼しさに人心地ついてもう一度赤をみやれば、それは色とりどりに色づいた紅葉の赤だった。

「どうしたんですか、これ」

 カウンターのいつもの席に腰掛けて、マスターに尋ねる。マスターは水の入ったコップを用意しながら、困ったように苦笑した。

「たまにいらっしゃるお客様が、持ってきて下さったんですよ」

 どっしりとした墨色の花器にさされた、数本の紅葉。よく見れば、枝ごとに黄色、橙、緋色に深紅と、さまざまな色に色づいている。墨色の花器には風情があって、やや色むらがある辺りはいわゆる「景色」とでもいうのだろうか。
 JAZZの流れる店内に、違和感なく溶け込む日本の秋の風景だ。
 ただ、少しばかり枝振りが良すぎる気がしなくもない。マスターが困った笑みを浮かべたのは、その紅葉によってカウンターの一角が完全に塞がれているからだろう。

「この辺のじゃないですよね」

 まだまだ緑の濃い並木を思いだして、僕は言った。

「そうですね。東北の山に行かれたのだとかで、花器ごと貸して頂いてしまいました」

 それはまた、豪気なお客がいたものだ。東北の山の上から、今年最初の紅葉をわざわざ担いできてくれたというんだから、僕は感心するしかない。
 たまに来る客ということだから、僕とは多分面識はないんだろうな。

「どんなお客さんなんですか、その人」

 なんとなく、興味が惹かれて聞いてみる。マスターは少し悪戯っぽい笑みを浮かべて即答した。

「この店の、一番初めのお客さんです」

「へぇー。えー、なんか凄い感じしますね、それ」

 僕はこのお店がいつからあったのかすら知らないけれど、その開店当初、それも一番目のお客さんとは……なんだか僕とは格が違うような気すらしてしまう。僕なんて、このお店を知ったのがたかだか三ヶ月前なのに。

「お客さん第一号で、それで今でも常連さんなんだ。なんかいいなぁ」

 そういうのって、ちょっと羨ましいなぁと思うのは僕だけじゃないと思う。羨ましくてしきりに感心している僕を見て、不意にマスターが声を立てて笑い出した。マスターが声を立てて笑うなんて珍しいことで、僕はあっけにとられてしまう。
 その僕の顔が可笑しかったのか、マスターはますます愉しそうに笑った。

「すいません……そんなに感心することだとは思わなくて……。実を言えば、私の大学時代の友人なんです。善くも悪くも、悪友というかなんというか」

 だから、開店第一号のお客さんというより、古い友人なんですよ。と言って、マスターはいつものにこやかな笑みを浮かべた。

「なんだぁ」

 ちょっとがっかり。運命的な開店第一号のお客さん、という僕の勝手なイメージは、いとも簡単に崩れ去った。
 この歳で「運命的」とか考える自分にも、ちょっとげんなり。

「子供らしさというか……遊び心のある人ですよ」

 紅葉の赤を柔らかい表情で眺めやりながら、マスターはそんなことを言った。その表情から、きっと凄く仲がいい友達なんだろうな、と僕は思った。

「ちょっと、一樹君に似ているかもしれません」

「それは、羽目を外して困るところがですか?」

 すかさず聞いた僕に、マスターは応えず笑った。
 自由奔放な常識人である--と僕が勝手に思っている--一樹を思い起こして、僕も思わず苦笑する。なるほど、確かに彼みたいな人なら、おもむろに紅葉の枝を持って現れても驚かない気がする。彼の場合は、遊び心というよりも子供っぽさの方が上のような気がするけれど。

「その友達の人は、この辺に住んでらっしゃるんですか?」

「いえ、東京からわざわざ車で一時間かけて珈琲を飲みにくるんですよ」

 変わっているでしょう、と言って、マスターは肩を竦めてみせた。マスター曰く、時々ふらりと珈琲を飲みにきては、大して話すでもなく帰っていくらしい。
 一体、その人はこの店に何を求めてくるのんだろう。
 JAZZの流れる大人な雰囲気に癒されるのか、美味しい珈琲を飲むためだけに来るのか、それとも、旧友の顔を見るためにくるのか……
 まぁきっと、全部なんだろうな。落ち着いた空間で気心知れた友人と、特に話すでもなく、ゆっくり美味しい珈琲を飲む。格好いいなぁ、そういうの。

 ──カランカラン……

 物思いに耽っていた僕は、扉が開く音で戸口を振り返った。
 そこには見知った青年が立っていて、数分前の僕と同じように目を丸くして紅葉を見つめている。

「どうしたのこれ」

 彼に問われて、マスターはさっきと同じ説明を繰り返した。

「へぇ、遊び心のある人だね」

 一樹はマスターと同じ感想を口にする。

「そういう人って、心に余裕が感じられるよね。見倣いたいもんだ」

 そう言って、彼はカウンターに落ちた紅葉を一枚拾い上げた。見倣いたいなんて言いつつ、とうの本人は飄々としてて余裕なんて持て余していそうに見える。切羽詰まってきりきりしている一樹なんて、想像もつかなかった。
 一通り紅葉を眺めて、彼はその隣に腰を下ろした。彼の前に紅葉色のメニュが置かれる。そういえば、僕はまだメニュも開いていないんだった。

「あの氷菓は無くなったの?」

 一通りメニュを眺めた一樹は、眉をしかめて顔を上げた。

「えぇ、夏限定のつもりでしたので」

「でもまだ暑いよ」

 そう言って、彼はアイスの欄を、眉根を寄せて眺める。
 外はまだまだ、夏の名残の暑さが幅を利かせていた。今年は残暑がきついとかで、九月に入ってもなかなか涼しくならない。

「そういえば、ここのコーヒーフロートて飲んだことないかも」

 ふと目に入ったフロートの文字に、僕は思わず呟いた。隣で一樹が頷く。

「フロート系って、子供の頃は凄く飲みたいんだけどさ、ある程度大人になると急に飲まなくなるよな」

「うん。なんか恥ずかしくなるんだよね」

 この歳でメロンソーダにアイスを浮かべて飲むのは、気が引ける。自分で作るなんて手の込んだことは到底しないし、店で注文するのは気恥ずかしい。なんだか、フロートは「子供の飲み物」というイメージがあるのだ。中学から高校に上がる頃に、自然と飲まなくなって随分経つ気がした。

「うーん。暑いし、アイスコーヒーは散々飲んだからフロートにしてみるかな」

 パタリ、と隣でメニュが閉じられる。つられて僕もメニュを閉じた。

「じゃあ、僕もコーヒーフロートお願いします」

「はい」

 マスターがカウンターの後ろの冷蔵庫へ向かう。僕らは何となくその背を眺めた。
 暑い盛りの八月は、べたべたするアイスより氷の方が断然惹かれたけれど、氷菓が無くなった今はコーヒーフロートの売れ行きも好調なんじゃなかろうか。なんて、考えてみる。けど、そもそもこの店の客層は少し年配の社会人層か、もしくは僕らみたいな大学生だ。コーヒーフロートの需要は、果たしてあるのかな……
 クラッシュアイスで満たしたグラスに、濃いめのアイスコーヒーが注がれる。いつものグラスと違って、少し口の広いグラスだった。その上に丸く抜いたバニラアイスをのせる。それは普通に丸く抜いたアイスより、断然大きい。普段のグラスだったらはみ出しそうだ。そんな大きなバニラアイスも、広口のグラスならしっかり盛りつけられる、ということらしい。仕上げにミルクを少しかけ、ミントを飾ったら出来上がり。細くて長ーいスプーンといつものストローがついて、グラスは僕らの前に置かれた。

「おおー。アイスだ。フロートだ」

 子供そのままの表情で、一樹がスプーンを持ち上げた。まずアイスから一口食べて、冷たい、と目を細める。僕はブラックの珈琲を楽しんでから、少しづつアイスを溶かして食べる。

「美味しいや。なんか、ひさしぶり」

 一樹が満足そうに呟いた。

「フロートって子供みたいなイメージがあったけど、これは大人でも食べたいよね」

 いくつになっても、アイスが浮いた飲み物はちょっとわくわくした気持ちになれるような気がして、僕は隣の一樹に同意を求める。一樹は盛大に頷いて、また一口アイスを掬った。

「コーヒーフロートは大人の飲み物だって。珈琲がブラックなところが大人成分。珈琲にガムシロ入れたら駄目」

 妙な一樹のこだわりに、うんうん、と僕も頷く。
 二人して、大きなバニラアイスをぱくりぱくりと掬っては食べた。珈琲と一緒に掬ってみたり、時々苦い珈琲を飲んでみたり、アイスの表面で冷やされてシャーベット状になった珈琲を食べてみたり。

「風流な花器に入った紅葉を眺めながら、JAZZを聞きつつ、コーヒーフロート。なんか超大人だよな」

 なにが「超」だか知らないけれど、一樹は機嫌良さそうに、ストローをくわえて紅葉を眺めやった。
 日本の秋の風情と大人な雰囲気の渋いJAZZ。そして、少しだけ「子供心」をスパイスにして、手には甘くて苦いコーヒーフロート。

「毎回飲みたいメニュってわけじゃないけどさ、たまにはいいよな、コーヒーフロート」

 見直した。という一樹に、マスターは笑って「ありがとうございます」と律儀に応える。きっと僕らのやり取りなんて、この人からみればまだまだただの子供なんだろう。でも、それでいいんだろうな。子供心を無くした大人より、子供心を持った大人になりたいものだ、と思うから。
 子供心、というよりは、遊び心の方が正しいかもしれない。言い換えれば、あれだ。「心の余裕」。
 心に余裕のある大人って、格好いいよね。
 僕はそこでふと、紅葉の枝を手折ってきたマスターの友人を思いだした。
 彼もきっと、心に余裕のある大人なんだろうな。そうしてその余裕はきっと、この空間で作られるんだ……。なんか、納得。

 まだまだ暑さの残る、秋。甘くて苦いコーヒーフロート。
 それは、子供と大人の間を生きる僕たち学生にぴったりのような気がして、僕は最後の珈琲を啜る。
 アイスが程よく溶け込んだそれは少し甘くて、ほのかにバニラの香りがした。

 ─了─

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