『新しい年を迎えた一月』
── カランカラン……
扉を開けると、そこはいつもと変わらぬ空間。縦に細長い店内には、カウンターにスツールが4つと、壁際に二人かけの小さなテーブルが3つ。JAZZの流れるシックな店内は、新しい年を迎えても何も変わらずそこにある。
「明けましておめでとうございます」
いつもと変わらぬ微笑みで迎えてくれたマスターは、改まるでも畏まるでもなく、そう言って軽く頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。えと、今年も宜しくお願いします」
「こちらこそ。今年も宜しくお願いします」
僕以外に客のいない店内は、静かでゆったりとした時間に満ちている。僕は、新しい年に相応しい静かで清々しい空気を胸一杯に吸い込んで、お決まりのカウンター席に腰を下ろした。
こういう時、行きつけのカフェがあるっていうのは、すごく贅沢だなぁと思う。だって、普通はお客が自分しかいなかったら居心地が悪いものだよね。でも、そこが行きつけで顔なじみなら、むしろ貸し切りの気分を味わえるって訳。
「はい、メニュをどうぞ」
「あ、有り難うございます」
僕は季節限定メニュの書かれた、赤い縁取りの白い紙を真っ先に開いて、じっくりとそれに目を通した。
今月の限定は、抹茶カプチーノ。そして、抹茶とあずきのロールケーキ。新年らしい、という程ではないけれど、お正月らしい和物のメニュだ。
あずきのロールケーキもいいけれど、ブレンド珈琲よりはカプチーノが飲みたいかな……。
うーん、と唸りながら考える間、マスターはただ笑顔で僕を見ているだけ。このままじゃ、いつまでも悩んでしまいそうだ。案外、僕は優柔不断なのかな。
「んー、よし」
意を決してメニュを閉じると、僕は抹茶カプチーノを注文した。まぁ要するに、懐事情の勝利なんだけどね。お年玉を貰わなくなってからは、年末年始の懐はいつだって寂しいもんさ。
「抹茶カプチーノですね」
にこりと微笑むと、マスターはいつもと変わらぬ滑らかな動きで、エスプレッソ用の豆を棚から降ろす。ブレンド珈琲の時よりも細かく豆を挽くために、使うのは真鍮の金具の嵌った繊細なミル。ガリガリと豆を挽く音とJAZZのハーモニーは、この店の魅力の一つだった。
僕は黙ってマスターの手元を眺めながら、そんな時間を満喫する。
マスターが手に取った銀色のエスプレッソメーカーは、ハイテクメカみたいな角張った六角柱で、おまけのような小さな取手と注ぎ口がついていた。細かく挽いた珈琲の粉をセットして、下の段には水を入れる。そのまま火にかければ、沸騰した水が沸き出した温泉のように上の段へと流れ込み、珈琲の粉の間をぐつぐつと通って濃い珈琲を入れてくれる。
確か、特急列車のように早く入るから、エスプレッソなんじゃなかったかな。まぁ、こういう知識は皆、マスターの受け売りなんだけど。
「秀一くん、砂糖はお入れしますか?」
「あ、じゃあお願いします」
「はい」
エスプレッソが入る間、マスターは冷蔵庫からミルクの入ったボトルを取り出した。小さな金色のミルク鍋に、マグカップ半分くらいのミルクと少しの砂糖を入れて、沸騰しないように弱火で注意深く温める。充分に暖まる頃には、エスプレッソが入っているという塩梅だ。
暖かそうな湯気と珈琲の芳ばしい香りが、カウンターテーブルの上を漂って行った。
マスターは薄緑色の厚手のマグを取り出して、入りたてのエスプレッソを注ぐ。濃いめの珈琲の香りがより一層強まって、僕の鼻をくすぐる。温められたミルクは、小さな電動の泡立て器でふわふわに泡立てられて、真っ黒なエスプレッソの上に白いふんわりとした層を作っていた。
「マスター、それ、どの辺が抹茶なんですか?」
抹茶の出番がないまま完成したカプチーノに、僕は小首を傾げる。マスターは笑いながらくるりとこちらに背を向けて、後ろの棚から小さな缶を取り出した。
「この辺です」
そう言ってマスターが見せてくれたのは、『古都』と書かれた小さな缶。藤色の缶を開ければ、京都に繋がっているのではないかと思うくらい、優雅な抹茶の香りが漂う。
「これを小さな篩でふるってあげれば、抹茶カプチーノの出来上がりです」
白いふわふわのミルクの上に、マスターは抹茶色の雪を降らす。
苦くて濃いエスプレッソに、甘くてふわふわなミルク、そして、古の和を思わせる抹茶の緑。
なんだか、よく考えれば不思議な飲み物だ。
「下はイタリア、上は日本、なんだか、不思議な感じですね」
思ったままを口に出すと、案の定、マスターはふわりと微笑んで頷いた。
僕の父親くらいの年齢のはずなのに、本当に優雅に素敵に微笑む人だ。燻し銀の渋さと、微笑の似合うナイスミドル。歳を取るなら、こういう歳の取り方をしたいものだとつい思う。
「日本人は、色んなものを上手く取り混ぜるのが得意なのでしょうね」
ミルク鍋を流しで洗いながら、マスターはそう言って目を細めた。
マスターの言う通り、抹茶カプチーノは三つの味がとても上手く混ざってる。濃い珈琲と甘いミルクは当然としても、毛色の違う抹茶の香りがちゃんと生きているんだから、すごいと思うんだ。少しだけマグを傾ければ、抹茶の香りと甘いミルクで抹茶ラテ。もう少し傾けると、そこに珈琲が加わって……面白い味。
JAZZと静けさと豆を挽く音、濃い珈琲とミルクと抹茶、色んなものが混じりあって、このカフェ[quatre saisons]は出来ている。年が変わろうと、変わらない味と雰囲気。まぁ、喫茶店なんだからそういうもんなんだろうけど。その変わらない味も、新年という気持ちをもって臨むと、なんだか新鮮に感じるんだから不思議だ。
気の持ちようで、人の感じ方はいくらでも変われるんだよなぁ。
珍しく、知り合いの常連客も来ない一月の午後。ついつい、色々と我流の哲学に耽ってしまう。
喫茶店て、そういう考え事が似合うからいいよね。
僕はそうやって、あれこれ考えを巡らせるのが好きで、だから彼が店に入ってきたときも、そんな風に考えながら優雅にマグを傾けていた。
「明けましておめでとうございます。アンド、今年もよろしく!」
カランカラン、とベルを鳴らすなり、彼は勢い良くそう言ってカウンターまでやってきた。ブルージーンズに白いタートルネックのセーター、お決まりの青いマフラーにコート姿。去年最後に会った時とほとんど変わらぬ出で立ちで、彼は僕の隣に腰を下ろす。
かく言う僕も、去年とほとんど同じ格好だけれども。
「一樹、明けましておめでとう。今年も宜しく」
「うん、よろしく」
に、と笑って、彼はマスターに向き直る。
「この店は、外に『謹賀新年』とか貼らないの?」
メニュを受け取るより先に、そんなことを訊ねる。僕より長い常連さんの一樹は、マスターに対してかなりずばりと物を言う奴だった。けれどそれが、嫌な感じに聞こえないのが彼のいいところ。
マスターは、彼の前にメニュを置きながら、苦笑を浮かべて答えている。
「七日までは貼っていたんですが、もうはがしてしまいました」
「あ、そうか。帰省してたから見なかっただけか」
なるほど、と彼は頷いて、メニュに視線を落とした。
「なんだか、このお店なら「A Happy New Year !」の方が似合いそうだけど、謹賀新年だったんですか?」
なんでも手作りしちゃうマスターのことだから、Happy New Yearと描かれたボードくらい作っていそうな気がするけれど、マスターは苦笑したまま首を横に振った。
「謹賀新年という張紙は、この辺一帯の町内会で作ってらっしゃるんです。せっかく頂いたので、そちらを貼っていました。新年早々、いらっしゃる方もあまりいませんし」
なるほど。楽しんでくれる人がいなければ、飾り付けるモチベーションも高くないのかもしれない。
「マスター、抹茶のロールケーキとブレンド珈琲をひとつ」
「はい」
一樹の注文を受けて、マスターはいつもの珈琲ミルに手を伸ばす。豆が挽かれて珈琲が入る間、僕らはお互いの年末年始や地元の様子をぱらぱらと話した。
年始の雪がすごかったとか、年末のテレビ番組の感想とか、そんな話しをとりとめもなく。
話しに花が咲いていたのか、マスターは僕らの話しを遮ることなく、一樹の前にカップとケーキを差し出した。ブレンド珈琲のかぎ慣れた香りがふわりと広がる。
「おー、このケーキ美味しそう。頂きます」
一樹はブレンド珈琲を一口啜ると、早速フォークを手に取った。抹茶の入った濃い緑のスポンジケーキと、粒あんの入った生クリームが、綺麗に同じ厚さで巻かれたロールケーキ。
「ん。甘さ控えめで旨い!」
「有り難うございます」
一樹の絶賛に、マスターは笑顔で応える。
「このケーキ、マスターの手作りですか?」
「そうですよ」
「じゃあ、次来たら食べよ」
一樹のケーキをちらりと眺めて、僕は抹茶カプチーノを口に運ぶ。
「今は食べないわけ?」
「いや、懐が、ね」
僕が苦笑すると、一樹は納得顔で頷いた。
「この時期はなー、帰省に忘年会に新年会に、お金が出てく一方だからな」
はぁ、と揃って溜め息をつく僕らを、マスターはただただ笑顔で眺めている。
僕らの掛け合い漫才みたいな会話を、マスターはいつだって静かに笑顔で聞いているんだ。その笑みにはいつも暖かさがあって、新しい年が始まったってそれは変わらない。
僕らはこの店にくる度に、変わらないものに安堵するんだ。
変わらない味、変わらない時間、変わらない仲間。
けれど、いつもそこには新しい何かがある。
それが、カフェ[quatre saisons]、「四季」の名をもつ喫茶店。
新しい年、またこの店で、素敵な出会いがあったらいいな。
それと、
今そこにいるあなたに、素敵な年でありますように。
─了─
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