『黒猫 2』

 男は、追われていた。

「なんだってんだ、畜生」

 心当たりが多過ぎて、追われる理由がわからない。追っ手が何者かもわからない。それでも、背後から聞こえる足音と銃声が、己の危機を物語っている。
 腰には愛用のシグ・ザウエル。その硬い感触を確かめて、男はちらりと後ろを振り返った。追っ手は、四人。一人を路地で追い回すには、いささか数が多すぎる。腕が悪いと言っているようなものだ。
 やり合うか、逃げるか。
 迷った刹那、相手が発砲してくるのが見えた。重い破裂音とともに、顔のすぐ脇を、弾が風を切って通り過ぎる。相手の銃の口径は、かなり大きい。

「くそっ」

 分が悪いとみて、男はすぐさま踵を返した。
 人通りの多い大通りを目指して、男はひた走った。人が増えれば、そうそう撃ってくることもないはずだ。追っ手も撒きやすくなる。夜とはいえ、週末の今日は街の人出も少なくないに違いない。

「しつこい男は嫌われる、ぜ」

 路地に積まれたゴミ箱を、背後に向かって思い切り蹴散らす。ガラガラと音を立てて崩れたゴミ箱は、生ゴミの悪臭をまき散らしながら転がった。
 追っ手の足が乱れた一瞬、男は全力で大通りに飛び出した。大通りを歩く人々は、突然走り出て来た男に驚いて足を止める。その合間を縫うように、男はするりと大通りを抜けた。
 遠く、背後で怒声が飛び交うのが聞こえる。けれど、その声が近づくより早く、男の姿はあっという間に雑踏へと紛れていった。

 

 見慣れた路地を曲がる。ひとつ、ふたつ。尾行は、ない。

「撒いたか」

 全力で走って乱れたシャツを、軽く手で整える。験担ぎの黒いネクタイを締め直し、男はポケットからひしゃげた煙草の箱を引っ張りだした。

「何処かのチンピラか。賞金稼ぎにしちゃ、腕が悪過ぎたが……」

 ひしゃげた箱から煙草を取り出し、火をつける。紫煙はゆらりと揺らめいて、暗い空に吸い込まれていった。
 ゆっくりと歩き出しながら、煙を吸い込む。ふと、男の足が止まった。

 ──にゃぁ

 山と積まれたダンボールの裏から、躍り出た陰。それは、見知った黒猫の姿だった。

「よぅ」

 朝飯の分け前をやるようになってからすっかり懐いた黒猫は、すりすりと身体を寄せてくる。すらりとしたなかなかの美人で、賢い猫だった。
 最近は、帰る頃を見計らって現れては、勝手に部屋に上がり込むのが習慣になりつつあった。スプリングのイカレたソファーの上で、丸くなって眠る猫。安心して眠る猫を横目に、相棒と酒を酌み交わす。それがここ暫くの夜の定番だ。
 だが、今日は不思議と、足にまとわりついた猫はなかなか離れない。

「おいおい、踏んじまうぞ。いい子だから、少し離れな、ベイビー」

 ひょいと避けた足下に身体を滑り込ませて、猫は一声にゃぁと鳴いた。どうあっても、簡単に前に行かせてはくれないらしい。

「参った……な」

 呟きながら、男はそっと、腰のホルスターに手をかけた。首筋にぞわりと寒気が走る。気配を殺した何者かが近づいてくる。もう少しで、後ろの角を曲がってくるに違いない。あと、三歩、二歩、一歩……
 振り向き様、男はホルスターからシグを抜き放った。
 トリガーを引きかける、一瞬。男は寸でのところで、トリガーに掛けた指を離した。

「……お前か」

 緊張の糸が緩む。見慣れた相棒の姿がそこにあった。

「気配を殺して近づくな。また危うく撃ちかけたぞ」

 眉間に皺を寄せて文句を言う。相棒はこめかみ辺りを掻きながら、ふっと息を吐き出した。

「勘弁してくれ。さっきまで、変な奴らに付け回されててな。用心しただけさ」

 ひょいと肩を竦めて、相棒は手にしたコルトGMをホルスターにしまった。

「付け回された……か。腕の悪そうなチンピラか?」

「いや? かなり手練のように感じたが」

「別口、か」

 殺し屋という稼業である以上、二人ともに命を狙われる理由など掃いて捨てるほどある。命を狙われたからと言って、別段思い悩むこともない。
 彼らの中にあるルール。それは、「運と腕さえあれば生き残れる」それだけだった。
 夜風が出始め、涼しい風が頬を撫でた。火のついた煙草はもうほとんど灰になり、はらはらと風とともに流れていく。

「冷えて来たな」

「帰るか」

 二人は肩を並べ、アパートに向かう細い路地を入った。二人の間を歩く黒猫は、忙しなく二人の足に絡み付いては、軽くあしらわれている。

「今日は随分甘えるじゃないか、ん?」

「今夜は帰らせないわ、てか?」

 笑みを含んで言葉に出した途端、二人は何かに気づいたように顔を見合わせた。お互いに思いついたことは、恐らく同じ。目だけで意志を交わして、二人はゆったりと、アパートへと歩を進める。
 手は、腰の銃を掴める位置に。全神経は、辺りの気配に。
 慎重に、けれど不審でないように、ゆっくりとした足取りで鉄筋の階段を昇る。二階の角部屋、彼らの部屋の前に立った。ドアノブにちらりと目をやって、二人は口元に笑みを浮かべる。
 ドアノブに刻まれた、小さな傷。その痕が、わずかに中心からずれていた。
 それは、誰かが部屋に来た証拠。
 確認した次の瞬間、二人は身を翻し、ひらりと宙へ身体を踊らせた。階段の手すりを越えて、路地裏に降り立つ。直後に、爆発音が辺りに響いた。
 熱気と熱風に顔を顰めて振り向けば、今まで彼らが立っていた廊下が火を噴いている。金属製のドアは内側からひしゃげ、部屋の中が炎に包まれているのが伺えた。

「あぁ、くそ。俺のとっておきのバーボンが」

「あれは俺のだろう」

 赤い炎が、不機嫌な二人の顔を照らし出す。暫くの沈黙の後、二人はスーツにかかった煤を払った。

「派手にやってくれるぜ」

 ど派手な爆発音に、周囲が騒がしくなり始めていた。誰が呼んだか、遠くから近づいてくるサイレンが聞こえる。これ以上の厄介ごとは、避けるが吉だ。恐る恐る集まってくる野次馬を避けて、彼らはアパートに背を向けた。

「心当たりが多過ぎて、礼をする相手もわからねぇ」

「俺たちゃ、モテるからなぁ」

 大きく吐いた息は、微かに白んで空に消えた。

「ほとぼりが冷めるまで、南にでも行くかねぇ」

 新しい煙草に火をつけて、ぽつりと呟く。
 手元に残ったのは、銃と煙草と金が少し。幸いにも、二人とも五体満足。
 それから……

 ──にゃぁ

 歩き出した二人の間に、黒猫が駆け寄ってくる。

「なんだお前、無事だったか」

 なかなかやるじゃないか、と男は口の端を軽く持ち上げて笑った。

「このまま一緒に来るか?」

 ──にゃぁ

 黒猫は応えるように一声鳴いた。

「一緒に来る気だぞ」

 笑みを浮かべて、相棒が言う。

「それも、悪くない」

 応えて紫煙をゆるりと吐き出す。熱気にあてられた頬に、夜の風が随分と心地よかった。

 

 赤々とした火が空を焦がす。かつての住処を燃やす炎。その炎を振り返ることもなく、二人と一匹はそっとその場を後にした。



 

       

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