『黒猫』

 

 男は、足を引きずって歩いていた。

「くそったれ」

 吐き出す言葉は、中身とは裏腹に擦れていた。降りしきる雨が体温を奪い、命までも水に溶けて流れていくようだ。実際、脇腹からは雨に混ざって、赤い水が流れている。

「やってられんぜ」

 男は傷の痛みに顔を顰めて、よろよろと裏路地を一つ曲がった。
 遠く、雨の中を走る足音が聞こえる。複数の足音が入り乱れ、近づき、遠のき、それでもやはり少しづつ近づいてくる。
 見つかれば、今度こそ終わりだった。

「ついてねぇ」

 入った路地が袋小路だったことに気づき、男は天を仰いだ。
 今日一日で、何度神を罵ったかわからない。それくらい、今日は運に見放された日だった。
 簡単に運ぶはずだったヒットマンの仕事。最初のケチがついたのは、どの瞬間からだったのか。
 今日に限って、相棒が一緒でなかったからか? それとも朝、靴を左から履いたせいか? 
 なんにせよ、大した理由もなく、今日の自分は天にも運にも見放されたと言うことだけは確かだった。天は慈悲ではなく、鉛の弾を恵んで下さったというわけだ。
 
 冷たい雨に打たれて、痛みの感覚すら薄れ始めていた。

「くそっ」

 まだ死ぬわけにはいかない。こんな路地裏で、趣味の悪いサブマシンガンの弾なんぞで、死ぬのは己の矜持が許さない。こんなところで倒れて冷たくなろうものなら、相棒は鼻で笑うだろう。
 口元をにやりと吊り上げて、自分の墓に酒を手向ける相棒の顔を思い浮かべてみる。そうすると、不思議と、余裕の片鱗が心の隅に首をもたげた。
 そうだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。あいつより先に死んでなるものか。
 男は渾身の力を振り絞って、袋小路の奥へと歩を進めた。無造作に積み上げられ、雨に打たれる段ボール箱の影へと身体を滑り込ませる。路地から隠れたその隅で、男はようやく身体の力を抜いた。
 暫くは、時間が稼げるだろう。追っ手が通り過ぎてくれれば助かるのだが、天に見放された今日と言う日にそんな幸運は、とても期待できそうもない。
 男は鉄の感触を確かめるように、右手をそっと持ち上げた。手の中のシグは、いつもの通りしっかりと手にフィットする。残弾数は、二。

「はっ」

 二発でどうこう出来る追っ手の数ではなかった。男はもう一度、天を仰ぐ。幾分雨脚の弱まった雨は、それでも容赦なく冷たいつぶてを男の顔に浴びせかけた。黒に近いグレーのコートは、雨と血を吸って闇のように深い色に染まっている。トリガーにかかる指先の感覚は、恐ろしく鈍い。
 もう、どうにでもなれ。
 そう、男の気持ちが自暴自棄になった時、足下に何かのまとわりつく感触がして、男は視線を足下に移した。

 ──にゃぁ

 黒い、真っ黒い猫が足にまとわりついていた。死を運ぶ不吉の象徴。

「お前、俺の最後を看取りにきたのか?」

 男は口の端を吊り上げて皮肉な笑みを浮かべる。
 それは、見知った猫だった。
 いつも、アパートからでて数歩のところにあるフィッシュチップスの屋台の前で、朝飯の相伴に預かろうとふらついている黒猫。気まぐれに一度チップスをやって以来、買いに行く度に愛想を振りまかれるようになった。辟易する、と言った男に、猫好きの相棒はよく笑って言った。可愛いもんじゃないか、と。

「黒猫なんざ、縁起が悪いだけじゃねぇか」

 なぁ、と、当の黒猫に毒づく。
 その時、近くを人の走る足音が響いた。男は緊張に身を固くする。

 ──にゃあ

「頼むぜベイビー、静かにしててくれ」

 声を潜めて、猫にささやく。猫は当然、男の言葉などわかりはしないだろう。黄色の眸を丸く見開き、蒼白の男の顔を覗き込むように首を伸ばした。そうして次瞬、軽々と身を翻す。
 鈍い灰色の雨が降る路地を、黒猫は弾むように駆けていった。

「猫にも見放されやがった」

 呟く男の声に、力はない。自嘲するように、男は口の端を軽く持ち上げて笑った。乾いた笑いは、声にはならなかった。
 
 遠くで、がしゃんと大きな音が立ったのは、そのすぐ後のことだった。

「こっちだ!」

 叫ぶ声が聞こえる。それに続いて、どたばたと足音が遠のいていく。

「な、んだ?」

 辺りの様子が一転し、男はいぶかしんで僅かに身体を動かした。
 またしても、遠くで何か大きな物音が響く。二度、三度。その度に、追っ手の足音が右往左往と方向を変え、変えつつ遠ざかっていく気配が感じられた。

「まさか……な」

 まさか先ほどの黒猫が、追っ手を撹拌しているのではないか。そう考えて、そんなことを考える自分にまたしても自嘲する。

「ばからしい」

「何がだ」

 思いがけず近くで声が上がり、男は反射的にシグを構えた。危うくそのままトリガーを引きかけたが、幸いなことに、男にはまだ真っ当な判断力が残っていた。寸でのところでトリガーにかかった指の力を抜く。

「……危うく、撃ちかけたぞ」

「勘弁してくれ」

 声の主は軽い調子で、ひょいと肩を竦めてみせた。
 シグを下ろす。その向こうに見慣れた相棒の顔を見て、男は軽く目を閉じた。
 行き先を知らないはずの相棒が、目の前にいる。これはどういう了見だ?
 眉間に皺を寄せる男に、相棒は軽い調子で右手を差し出した。

「へましたんだってな。……あいつに感謝しろよ。あいつが飛び出してくるのを見なきゃ、こんな袋小路に探しにゃこなかったぜ」

 あいつとは、きっと黒猫のことをさすのだろう。男の追っ手の後を追って、相棒はここまでやってきたと言うわけだ。そうして、黒猫の飛び出してきた袋小路に足を踏み入れた。
 幸運なことに。
 天に見放された命を、拾ったのは不吉の象徴。

「殺し屋の俺には丁度いい縁起もんだな」

 呟いた男に一瞬怪訝な顔をして、相棒は男の腕をつかみあげた。

「何でも良いが、帰るぞ」

「……あぁ」

 力のでない足を叱咤して、よろりと立ち上がる。相棒の肩に身体を預けて、男はようやく雨の路地から一歩を踏み出した。

「……あいつにも、今度から分け前をやらんとな」

 誰にともなく、男が呟く。

「そうだな」

 肩越しに、相棒の笑った気配がした。
 
 次からは、フィッシュチップスを買う度に黒猫に一カケやらねばなるまい。
 あの命の恩人の黒猫に。
 そんなことを考えながら、男は雨の中をゆっくりと歩いた。



 

       この作品は、『Villain-悪役・悪漢・敵役ー競作企画』に参加しています

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