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『黒猫』
男は、足を引きずって歩いていた。 「くそったれ」 吐き出す言葉は、中身とは裏腹に擦れていた。降りしきる雨が体温を奪い、命までも水に溶けて流れていくようだ。実際、脇腹からは雨に混ざって、赤い水が流れている。 「やってられんぜ」 男は傷の痛みに顔を顰めて、よろよろと裏路地を一つ曲がった。
「ついてねぇ」 入った路地が袋小路だったことに気づき、男は天を仰いだ。
「くそっ」 まだ死ぬわけにはいかない。こんな路地裏で、趣味の悪いサブマシンガンの弾なんぞで、死ぬのは己の矜持が許さない。こんなところで倒れて冷たくなろうものなら、相棒は鼻で笑うだろう。
「はっ」 二発でどうこう出来る追っ手の数ではなかった。男はもう一度、天を仰ぐ。幾分雨脚の弱まった雨は、それでも容赦なく冷たいつぶてを男の顔に浴びせかけた。黒に近いグレーのコートは、雨と血を吸って闇のように深い色に染まっている。トリガーにかかる指先の感覚は、恐ろしく鈍い。
──にゃぁ 黒い、真っ黒い猫が足にまとわりついていた。死を運ぶ不吉の象徴。 「お前、俺の最後を看取りにきたのか?」 男は口の端を吊り上げて皮肉な笑みを浮かべる。
「黒猫なんざ、縁起が悪いだけじゃねぇか」 なぁ、と、当の黒猫に毒づく。
──にゃあ 「頼むぜベイビー、静かにしててくれ」 声を潜めて、猫にささやく。猫は当然、男の言葉などわかりはしないだろう。黄色の眸を丸く見開き、蒼白の男の顔を覗き込むように首を伸ばした。そうして次瞬、軽々と身を翻す。
「猫にも見放されやがった」 呟く男の声に、力はない。自嘲するように、男は口の端を軽く持ち上げて笑った。乾いた笑いは、声にはならなかった。
「こっちだ!」 叫ぶ声が聞こえる。それに続いて、どたばたと足音が遠のいていく。 「な、んだ?」 辺りの様子が一転し、男はいぶかしんで僅かに身体を動かした。
「まさか……な」 まさか先ほどの黒猫が、追っ手を撹拌しているのではないか。そう考えて、そんなことを考える自分にまたしても自嘲する。 「ばからしい」 「何がだ」 思いがけず近くで声が上がり、男は反射的にシグを構えた。危うくそのままトリガーを引きかけたが、幸いなことに、男にはまだ真っ当な判断力が残っていた。寸でのところでトリガーにかかった指の力を抜く。 「……危うく、撃ちかけたぞ」 「勘弁してくれ」 声の主は軽い調子で、ひょいと肩を竦めてみせた。
「へましたんだってな。……あいつに感謝しろよ。あいつが飛び出してくるのを見なきゃ、こんな袋小路に探しにゃこなかったぜ」 あいつとは、きっと黒猫のことをさすのだろう。男の追っ手の後を追って、相棒はここまでやってきたと言うわけだ。そうして、黒猫の飛び出してきた袋小路に足を踏み入れた。
「殺し屋の俺には丁度いい縁起もんだな」 呟いた男に一瞬怪訝な顔をして、相棒は男の腕をつかみあげた。 「何でも良いが、帰るぞ」 「……あぁ」 力のでない足を叱咤して、よろりと立ち上がる。相棒の肩に身体を預けて、男はようやく雨の路地から一歩を踏み出した。 「……あいつにも、今度から分け前をやらんとな」 誰にともなく、男が呟く。 「そうだな」 肩越しに、相棒の笑った気配がした。
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この作品は、『Villain-悪役・悪漢・敵役ー競作企画』に参加しています