『君莫泣 ー君、泣くなかれ……ー』

 

 
 さめざめと雨が降る。あの日と変わらず、空が泣く。

「一年、 か」

 何をするにも億劫だった一年。気がつけば、居室は荒れ、庭も垣根もかつての整った美しさとは縁遠い姿に成り果てている。
 長いようで、短いようで、終わりのない、ただ繰り返されるだけの日々。涙も枯果て、このままじっと死を待つのだと思っていた。それなのに。

「一年……」

 生きながらえてしまった。
 彼女のいない世界で、一日だって生きられないと、そう思っていたのに。
 まるで、自分がひどく薄情な人間に思えて、心がきりりと締め付けられる。
 虚ろな眸を雨降る庭へとやって、李桂は遠くの空を仰いだ。

 

 若葉が青々と茂る、美しい季節だった。雨さえも、草木を瑞々しく染めあげて、それは、それは美しかった。生きる力に満ちあふれた、輝ける季節。薄紅色の花が咲き、蝶が舞う。
 彼女は、春紅は、そんな季節が好きだった。
 日に日に暖かさを増す陽射しに、透明な笑顔を向けて。身体が良くなったら遠都まで、李桂の友を尋ねていくのだと、名所の花を眺めるのだと、大層楽しみにしていたのに。
 彼女が最後に眺めたのは、降りしきる雨。
 あんなに激しく降っては、咲き始めたばかりの花が散ってしまうと、外のことばかり気にしていた。優しい人。
 それから一年。月日は無情にも、変わることなく流れている。

 

 哀しい記憶を呼び覚ます雨音が、空虚な李桂の中へと流れ込む。いつしか李桂は呼ばれるように、庭へと進んで雨に打たれていた。この季節に似つかわしくない冷たい雨。このまま打たれていれば、身体は冷えきって、春紅のように冷たく、冷たくなるのだろうか。このまま打たれていれば、春紅のところへ行けるような気がして、李桂は天を仰ぐ。
 濁った空に、時折遠雷が閃く。閃く青白い光の中、ふわり、と、何かが揺らめいた気がした。

「あれ、は……」

 深紅の衣が、嵐の中に翻る。血で染め上げたような赤が、無彩色の世界にあって、李桂の心を惹き付けて放さない。

「春紅……?」

 ふらり、と李桂は一歩を踏み出した。誘うように、衣が舞う。あと少しで、その裾を掴める。そう思った刹那、

「李桂!」

 耳元で怒鳴る声とともに、李桂の身体は後ろへと大きく傾いだ。眼前を、薄紅色の花弁が乱れ飛び、赤い衣がすいと遠のく。なおも追いすがろうとする李桂は、片腕を掴まれ思い切り後ろへと引き戻された。

「放せ、春紅が……」

「李桂、こっちへこい!」

 尋常ならざる力で引き戻されて、李桂は勢い余って後ろへと倒れ込んだ。その拍子にしたたかに腰を打ち、痛みで李桂は我に返る。周囲は異様な邪気を孕んだ風が吹き荒れ、李桂は漸く、これが常の嵐でないことに気づいた。
 己を引き倒した者を見上げれば、それは見知った旧友の姿をしている。遠都で出世していると、風の噂で聞いた、古くの学友。それが何故、今ここにいるのか。李桂は困惑し、ただ呆然と眼をみはるしかない。

「飛晃……?」

 旧友は、まるで今しがた戦場から還ったかのような、物々しい出で立ちだった。腰に佩いた剣を抜き、何事かを唱えながら剣を構える。その鋭い眼光の先には、李桂を惑わした赤い衣。
 否、正気に戻った李桂には見える。
 赤い衣を纏った、恐ろしき骸骨の姿が。

 ──ゴォォォ……

 風が渦巻く。唸りをあげて、赤い衣が襲いかかる。その鋭い爪が飛晃の肩に突き立てられる。思わず、李桂はぐっと眼を閉じた。
 剣が風を薙ぐ。ザンッと鈍い音とともに、これまでにない程の風があたりを渦巻いた。身を切るような、生臭い風が疾風となって李桂の周りを駆け抜ける。
 やがてそれは、糸が切れるようにふつりと途絶えた。
 恐る恐る眼を開く。友が倒れ伏しているのではないかと、そっと伺った地面には、何もない。

「飛、晃?」

「なんだ」

 真上から返ってきた応えに、李桂はぎょっとして振り返った。

「顔が真っ青だな。ひとまず部屋に入って身体を拭け。その後は温めた酒でも飲め。立てるか?」

 何事もなかったように、飛晃は無骨な手を差し出す。戸惑いながらも、李桂は飛晃の手を借りて部屋へと戻った。

 

 熱い湯を湧かして身体を拭き、温めた酒を一口啜る。それだけで、不思議と生き返るような心地になる。
 つい先程まで死のうと思っていたことすらも、青臭い馬鹿げたことに思える。それは、久方ぶりの安らぎだった。

「荒れ放題だな」

 胡座を組んで当たりを見回していた飛晃は、そう言って顔を顰めた。

「この一年、ろくに手入れもしていないからな」

 ふぅ、と小さな息を吐いて、李桂は杯を傾けた。
 床に置かれた花器には、飛晃が手土産にと持参した、白く香りの良い花が飾られている。春紅の楽しみにしていた、遠都の白木犀。亡き人の面影が感じられる、優しく柔らかな気を纏った花だった。
 遠都からここまでは、馬でも二月。どうしてこんな手土産を持って来られたのか、その問いには、飛晃は笑うのみで答えない。
 李桂も深くは聞かなかった。ここにその花があるだけで、空気が澄み、凝り固まっていた心が解される。それだけで、彼には十分だった。

「酒が進まないな。珍しい」

 底の抜けた瓶のように酒を煽る飛晃が、今宵は珍しく、杯に手すらつけていなかった。

「この頃は、めっきり飲めなくなってな」

 嘘か真か、そう答えられては、勧めるわけにもいかない。

「そうか……」

 身体が温まり、李桂を穏やかな睡魔が包み込む。このまま横になればすぐにでも眠りに落ちそうで、李桂は軽く頭を振った。飛晃とは、積もる話がたくさんあるのだ。今、眠ってはいけないような気がして、李桂はぐいっと背筋を伸ばす。

「春紅は、」

 ふと飛晃の口から漏れた名に、李桂ははっとして顔を上げた。

「春紅は、お前のことを大層心配していた。自分が死んでから、すっかり生きる気力をなくしていると。そうして、お前のその虚ろな心が、悪鬼を呼び寄せていると」

 飛晃の口から語られる、春紅の死後の、春紅の言葉。
 李桂は訝し気に眉をしかめ、黙って耳を傾ける。

「自分の力では、李桂に気づいてもらえない。自分では、あの悪鬼には勝てなかろうから、李桂を頼むと。自分は庭の薄花梅の木に宿って、ずっと見守っているから、だから、そんな悲壮な顔をしないで欲しいと。そう、言っていた」

 薄花梅。
 手入れを怠って、今年はほとんど咲かなかったはずの紅花。思えば、先刻の赤い衣と引き離してくれたのは、あの薄紅色の花弁ではなかったか。

「では……」

 先刻助けてくれたのは、春紅の魂だったのか。
 そう思っただけで、知らず李桂の胸は熱くなる。目頭がつんと熱くなって、慌てて李桂は顔を伏せた。

「お前は昔から、自責が強すぎるのだ。人はいずれ死ぬし、己もいずれ死ぬ。死は永劫の別れではないぞ。巡り巡る環の一つの点に過ぎん。心穏やかにあれよ」

 諭すように、ゆっくりと語られる言葉。神妙な空気が流れ、飛晃が心なしか沈んで見える。李桂はぐっと杯を煽ると、茶化すように口の端をほんの少し持ち上げた。

「まるで、閑老師のような言葉だ」

 共に学んだ師の名を出すと、飛晃は昔のように豪快に笑った。

「俺も老師の域に達したか」

「そこまで褒めてはいないぞ」

 飛晃の心透くような笑い声に呆れ、李桂も涙目ながら声を立てて笑う。楽しく、清々しく、ほんの少しだけ哀を含んだ夜気がそっと李桂を包み込む。
 それは、一年以上ぶりの、楽しい夜だった。

 

 春紅が、どうして飛晃に李桂を頼んだのか。どうして李桂には伝えられず、飛晃には伝えられたのか。
 その問いを、李桂が発することはなかった。
 何故ならその答えに、自ら気づいてしまったから。
 遠路を駆けつけ悪鬼を倒し、己を助けてくれた友。その友にとっても悔いなき夜であるように、李桂は飛晃との積もる話に夜を徹して花を咲かせた。

 

 やがて朝がきて陽が昇る。気がつけば酒は尽き、夜通し飲んだつけで微かに頭が痛む。向かいに置かれた杯は干され、友の姿は既にない。
 差し込む光に眼を細め、視線を庭へと転じれば……昨日の嵐に堪えた薄紅色の花が、小さく蕾をほころばせていた。

「春紅……、飛晃……」

 空は晴れ、青く高い空に悠然と雲が泳ぐ。この雲は、遥か遠都にもゆくのだろう。
 友を想う気持ちだけでも、この雲に託そう。
 思ってそっと眸を閉じれば、穏やかな風がふわりと頬を撫で、雲を追いかけて遠のいていく。
 暫しそうして風に吹かれていた李桂は、大きく一度息を吸い、よしと小さく呟いた。

「生ける者には、生ける者の務めがあるから、な」

 誰へともなく呟いて、腰に手を当てる。眼前には荒れ果てた庭。背後には荒れ果てた居室。まずはそれらを整えることから、始めねばなるまい。
 手始めに、薄花梅の手入れをしてやろうと、李桂は道具をとりに踵を返した。

 

  ー了ー

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