『岡村寧次大将資料』について

 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』(岡村寧次著 原書房)
 という本があります。
 著者は中国戦線にて第十一軍司令官、北支那方面軍司令官、第六方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任した岡村寧次大将です。
 その「第四編 武漢攻略前後」に以下の記述があることを以て、「南京大虐殺」の証拠と論ずる人々がいます。

 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
  註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。
一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。


 この文章だけでも「南京大虐殺」の証拠になるかどうかは曖昧です。
 問題になるのは「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」と「俘虜を殺してしまう弊」ですが、例えば数万の市民に対する掠奪強姦等とは、被害者が数万なのか、被害者が属する集団の総数が数万なのか、この文章だけでは断定できません。
 ところで、この文章の前後は以下のように記述されています。

 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満洲に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無事の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一 南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
  註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。
一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する。団結心強いが排他心も強く、配営部隊等に対し配慮が薄いと云う。
 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。


 前後を通して読むと、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行〜」等の「前科のある部隊」は第六師団を指していることが分かります。
 このことは、

・・・・地形の関係もあり自然漢口に突入するのは第六師団のみであるので、この訓示は誇張されて師団将兵の士気益々振う動機となったらしい。
 しかしそれだけに、南京攻撃戦で前科のある師団でもあり、如何にして漢口入城に際して立派に軍、風紀を維持せしめるかについては、私も、稲葉師団長も、牛島旅団長も相当苦心したことは後述するとおりである。・・・・

 という別の部分からも推定できます。
 ところで、この文章が含まれている「第四編 武漢攻略前後」の冒頭には、次のようなはしがきがつけられています。

 本篇は、昭和十三年六月第十一軍司令官に補せられてから、同十五年三月軍事参議官に転補されて帰国するまでの体験を記述しようとするのであるが、その基盤となる日記、陣中感想録(作戦の部は焼却)は、将来戦史室に寄贈、あるいは既に寄贈済のものであるから、ここには、これらを更に、分析したり、記憶を呼び起したり、解説したりして、概ね年月の順序を逐うて、重要事項を回想して、書いてみることにする。
 本期間は、作戦に次ぐ作戦であったが、度々申すとおり、また右にも書いたとおり、作戦に関する所感録は、終戦時の環境上、焼却してしまったので、ただボンヤリした記憶だけを記すに過ぎないのは巳むを得ない。当時の作戦課長参謀であった宮崎周一中将の手記は、まことに貴重なものであって、既に戦史室に寄贈ずみのものでもあり、作戦事項は専らその方に委すことにした。

 この第四編は主として回想によって書かれた物であることが分かります。
 岡村氏本人が、作戦に関する所感は「ボンヤリした記憶だけを記すに過ぎないのは巳むを得ない」といっているように、記憶というのは劣化するものです。作戦以外の事項についても、「将来戦史室に寄贈」するものはまだ手許にあったでしょうが、「既に寄贈済のもの」は手許に無いわけですから、作戦に関する所感同様、明瞭な記憶でない可能性は否定できません。

 では、『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』が全て回想のみで書かれているか、というと、そうではありません。
 第一編「降伏から帰還まで」には、当時の日記が数多く収録されています。これは年月によって劣化していない、当時の記録です。
 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』に収録された1947年3月10日の日記には、このように記されています。

 谷寿夫中将最後の公判、死刑を宣告された。
 いわゆる南京暴虐事件は、中国側でも最も重大視していた。当時南京に居住していた外国宣教師等が、実際に視た暴行の状況を詳細に綴った書物なども欧州で刊行され、その中国語訳書を終戦後殊更に私の許へ届けたりして、南京事件は許さないぞとばかりの示唆があった。中国側も、谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同師団参謀長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
 罪の深い第十六師団関係は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量。

 この終戦直後の日記には、「罪の深い第十六師団」「ほとんど罪のない方を代表して谷中将」と書かれています。つまり1947年当時の岡村氏は、「いわゆる南京暴虐事件」の主犯は第十六師団であり、谷中将が代表する第六師団はほとんど罪がない、と認識していたと言えます。
 この1947年3月10日の日記の後には、こんな註記がつけられています。

私は武漢攻略の任務を有する第十一軍司令官の大命を受けて昭和十三年七月上海に上陸し間もなく先遣参謀其他から南京における大暴虐事件の実相を聴き、しかもその関係部隊の大部を以て漢口、武昌の攻略に任ずるのであることを知り、大に覚悟を新たになし、いろいろ苦心したが幸に漢口攻略に際し一件の非行も無きを得たことなどを思い出すが、これらのことについては本記録の第四篇において詳述しようと思う。

 「その関係部隊の大部」と書かれていますが、第十一軍の構成は第六師団、第九師団、第二十七師団、第百一師団、第百六師団、台湾独立混成旅団で、「罪の深い第十六師団」は含まれていません。
 そして前に見たように、第四篇においては第六師団を「前科のある部隊」と書いています。
 日記では、ほとんど罪がないと書き、回想では前科があると書く、このように『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』における「南京暴虐事件」の認識には一貫性がありません。
 では何故、このようなことが生じたのか。
 この本のまえがきには、編者の稲葉正夫氏の言葉として次の記述があります。

 本書収録の手記以外、岡村将軍には、そのときどきに書かれた「陣中感想録」なるものがあることは、本書手記中にも所々に言及されている。その内容は、「戦場における軍紀風紀」、「統御」、「死生観」、「個人所見、他人評」、「日華関係」、「共産党関係」等に分類されて、後人の教訓書となっている。別に「統帥」の分もあったとのことであるが、終戦後焼却処分したという。
 これらのすべてを、本書に収録することがもっとも望ましいことではあったが、「一切公表転載を禁ず」という取り扱いになっているため、割愛せざるを得なかった。悪しからず、御寛容の程お願いする。しかし、岡村大将が前述のように、唯一人の豊富な戦場指揮官経験の所有者であり、その意味では、この手記が「統率の書」とさえ言われている。したがって本書に画龍点睛の必要を痛感し、右「感想録」中、「統御の道」および「戦場における死生観」を独断もって摘録付記することとした。謹んで、地下の岡村将軍にお赦しを乞う次第であります。

 第四編はしがきとこのまえがきを合わせ読めば、この、手記とは別に書かれた、「一切公表転載を禁ず」という取り扱いになっている『「陣中感想録」なるもの』が日記とは異なる認識をもたらした原因だと考えられます。
 上記の通り、稲葉正夫氏が「謹んで、地下の岡村将軍にお赦しを乞う次第であります」と書き添える程慎重な取扱いをした「陣中感想録」ですが、実はこれをあっさりと引用している本があります。
 笠原十九司,吉田裕著『現代歴史学と南京事件』という本です。
 そこでは、次のように「陣中感想録」が引用されています。

・・・・一つは、一九三八年六月に第一一軍司令官として中国戦線に赴いた岡村寧次の記録である。一九五四年六月に厚生省引揚援護局が作成したこの記録、『岡村寧次大将陣中感想録』(靖国偕行文庫所蔵)には、三八年七月一三日のこととして、次のような記述がある。
 中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し。
 なお、この記録の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」とのただし書きが付されている。・・・・

(笠原十九司,吉田裕著『現代歴史学と南京事件』 柏書房)

 「一切転載並公表を禁ず」と書かれた文献を一般の閲覧に供してしまった偕行文庫もやや配慮に欠けるところがあると思いますが、「一切転載並公表を禁ず」と書かれていることを明確に意識しながら平然と転載している『現代歴史学と南京事件』は、配慮を欠いているという言葉では言い尽くせない無神経な代物です。
 しかもその引用が不正確と来ては。
 本来ならば私も著作者の意思に従い転載は避けるべきなのですが、検証を行う上でやむを得ません。
 (靖国偕行文庫所蔵)の文献資料の表紙はこれです。
 この通り、文献のタイトルは『岡村寧次大将回想録』です。
 『岡村寧次大将陣中感想録』というタイトルで、偕行文庫に所蔵されている文献資料はありません。
 『岡村寧次大将回想録』の表紙を捲ると出てくる内表紙がこれです。
 「岡村寧次大将陣中感想録」というのは、『岡村寧次大将回想録』の内表紙のタイトルです。
 資料の状態から見る限り、この文献は当初、「岡村寧次大将陣中感想録」というタイトルで編纂されたものです。ただそれは、装丁も何もなく、和文タイプを打った普通紙を綴じ込んだだけのものでした。資料の毀損を防止するため、防水加工の厚紙で「岡村寧次大将陣中感想録」を製本したのが『岡村寧次大将回想録』です。
 従ってこの資料は本来、『岡村寧次大将回想録』に収録されている「岡村寧次大将陣中感想録」と言うべきものです。
 私は以前、Yahoo!掲示板に
『多分、前書き部分に「本書は岡村寧次大将の陣中感想録である」旨が註記されていますので、これをタイトルと混同してしまっているのでしょう。
 学術書としては(誰の学術書とは言いませんが)、引用資料のタイトルを間違えている時点で二流です。』
と書きましたが、これは言い過ぎでした。『岡村寧次大将回想録』は「岡村寧次大将陣中感想録」を製本したものですから、資料名としては「岡村寧次大将陣中感想録」でも誤りではありません。
 しかし、(靖国偕行文庫所蔵)であるならば、偕行文庫に所蔵されているのは『岡村寧次大将回想録』だけです。『現代歴史学と南京事件』は資料を収録した文献名を明示せずに資料名だけを示すという、素人のような杜撰な引用をしている本です、と言うべきでした。
 次に引用部分を比べてみるとこうなります。
 句点で終っている引用部分末尾が実は読点であり、その続きがあることがお分かりでしょう。
 続きはこうなっています。

・・・・最近湖口附近に於て捕獲せる中国将校は我等は日軍に捕へらるれは殺され、後方に退却すれは督戦者に殺さるるに由り唯頑強に抵抗するあるのみと言えりと云ふ
 上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、待遇必すしも適良と云ひ難し

 これは『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』のこの部分に該当します。

一 上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一 最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。

 『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』を読んだときも違和感を覚えましたが、『岡村寧次大将回想録』ではその違和感をより強く覚えます。
 捕虜の多くを殺してしまうと言いながら、その根拠として引用されているのは実際に捕虜として保護されている中国軍の将校の証言です。そして上海には、待遇が適切とは言い難いけれども、多数の捕虜が使役されている現実がある、それが『岡村寧次大将回想録』に書かれていることです。
 一体どういう意図でこの部分が切り捨てられているのか、その詮索は横に置いておきましょう。杜撰な引用をした著者の意図など、本来どうでもいいことですから。
 普通に判断すれば、これは「日本軍に捕まれば殺されるという噂が流れているが、実際には日本軍は中国兵を捕虜として収容している」という結論になるべき事実です。それが何故かこの後にも「俘虜を殺す悪弊あり」と何度も出てきます。
 しかも観察された事実として述べられていることは

昭和一三、一一、一九 A
 ・・・・俘虜を濫りに殺す悪傾向は予の累次に亘る厳飭と云はんよりも部隊自身か弱兵の背嚢や荷物を運搬せしむるの必要上大機動后の今日は俘虜を同伴する傾向に転し来れり、形而上的に覚醒せしに非すして形而下的の必要より生したるなり

 と、捕虜を殺さず使役している事実です。(『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想編』では「註 後には、荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。」がこれに当たります。)
 おそらくこれは、『岡村寧次大将回想録』(に収録された「岡村寧次大将陣中感想録」)の書かれた環境が影響していると思われます。
 『岡村寧次大将回想録』の内表紙の次のページには、このような註記があります。
 手書きで補記されている部分を拡大するとこうなります。
 この補記部分は重要な情報を含んでいます。
 まず、この『岡村寧次大将回想録』は日記等の当時の記録そのものではないということです。
 陣中感想録を「抜粋摘記」している、つまり編集を加えているということになります。
 そうすると、それがどんな状況下で編集されたものであるか、ということが内容に大きく反映してきます。
 その状況を示すものとして「終戦後戦地に於て」と説明しています。
 岡村寧次大将は、終戦後支那派遣軍総司令官として、中国軍に対する降伏手続き、日本軍の武装解除・武器引渡しと、不当に武器引渡しを要求する共産党軍に対する抵抗指揮、共産党軍の横暴や不当軍事裁判についての国民党政府に対する抗議、日本兵の復員手続き、そして自身の戦犯裁判の為、昭和二十四年一月二十九日の出航まで、中国国民党軍に拘束されていました。
 その間蒋介石に厚遇され、蒋介石との個人的なコネにより戦犯として処刑されることを免れています。この事は、同年一月二十二日に蒋介石が大総統職を追われ、替って臨時大総統となった李宗仁が無罪判決後再逮捕を命じたところを間一髪で逃れている事実、帰国後岡村氏が「白団」を組織して蒋介石を支援し続けた事実に裏付けられていると言えるでしょう。帰国直前、帰国後の事情については舩木繁著『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』にこのように書かれています。

・・・・中国政府は岡村の入監について遷延待機の策をとった。連絡班を特設して還送工作等の任務を課し、東京の軍事裁判の進捗を待ちながら世論の動向や、国際関係の配慮からやむを得ず入監せしめた。その後病気が悪化したため、秘密保釈が許されて今日に至り、本日ついに無罪の判決となった。岡村は中国政府、殊に蒋総統、国防部上層諸将軍の終始一貫の好意は、真に感謝に堪えず、戦犯に服役している二百数十名の旧部下の内地服役の実現に努めると共に、病癒えたならば壮年時代からの宿志でもあり、日中の提携に身を投じようと心にかたく誓っている。
 二八日夕、軍事法廷から、明朝六時半までに戦犯監獄に帰り、他の者と共にアメリカ船に乗って帰国すべしとの命令を受けた。
 翌二九日午前八時半、日本人戦犯二百五十九名と共に乗船し、三〇日午前一〇時出帆した。
 岡村は知らなかったが、李宗仁代理総統は中共との和平に岡村の身柄を引渡すことを条件として、再逮捕を命じたのである。既述のように、中共軍は戦犯第一号として岡村を指名していた。
 しかし、上海の湯恩伯はその命令を握りつぶし、東京の中国代表商震も占領軍当局と協議して拒否した。この間、この再逮捕の情報を察知した東京の代表団付武官王武少将はアメリカ軍と連絡し、岡村収容のため船舶派遣を手配した。このアメリカ船の横浜出帆を確認して、国民政府は最終公判を開いたのである。・・・・


・・・・帰国後、岡村大将は、蒋介石総統の要請を容れ、政治・経済的な問題を抜きにして、ただ終戦時の恩義に報いるという名目で、昭和二五年(一九五〇)二月、富田直亮少将を長とする十九名の陸軍参謀を台湾に送った。「白団」と称せられるこの軍事顧問団は、以後十五年間続き、団員の数ほ延八十三名に達した。
 この間、内地に残った岡村将軍は、幸いにも健康が回復したため、「白団」の面倒を見ながら旧軍首脳の一人として元軍人の在郷軍人会の設立に協力し、郷友連盟に発展させて第二代の会長となった。・・・・

(舩木繁著『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』 河出書房新社)
 つまり岡村氏は「終戦後戦地に於」ける期間、蒋介石の意向を無視できない状態にあったと推測できます。
 『岡村寧次大将回想録』が書かれた状況を前記のように理解すれば、『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された終戦後の日記の内容と、後半部分の回想編の内容が矛盾している理由が説明できます。
 『岡村寧次大将資料』前半部分に収録された日記と、『岡村寧次大将回想録』は同一時期に書かれた物です。その内容は、本来一致していなければならない。
 しかし、そうなってはいなかった。
 おそらく『岡村寧次大将回想録』は蒋介石の意を受けて、国民党の宣伝戦略に合致するように書かれた物です。しかしそれは、岡村寧次大将がいくら軍の在り方に不満を持っていた改革派、理想主義者だったとしても、岡村氏本人にとり不本意なものだったのでしょう。
 それで、回想録とは別に、本当に自分の認識していた記録として、日記を残したのだと思われます。
 だからこそ『岡村寧次大将回想録』は転載・公表を禁じられていたのだし、『岡村寧次大将資料』も本人の生きている間は出版されなかったのでしょう。(岡村氏の没年は1966年、『岡村寧次大将資料』の出版は1970年)

 ところで、一口に軍紀の乱れと言っても、その程度は様々です。一つの都市を攻め落とせば千件単位の略奪・強姦が当たり前の軍隊では、五百件の略奪・強姦の発生は寧ろ軍紀が保たれた戦闘に分類されるでしょう。
 一方、常に二、三件の軽微な戦時犯罪しか発生しなかった軍隊が、十件以上の略奪・強姦を発生させれば、その時の指揮官は軍紀の乱れを強く非難されることになるでしょう。
 では『岡村寧次大将回想録』で認識されている軍紀の乱れとはどの程度のものであったのか。次の記述が象徴的に示していると思います。

昭和一三、一一、二〇 A
 漢口占領当時支那人及外人は南京攻略時の我軍大暴虐より推察して我軍の暴行を予期せしが案外に軍紀厳粛なりしかは民心大に安定せり
 然るに入城后二、三日にして第六師団其の他に強姦事件二、三発生し謡言次で起り、市中不安を招きたるは遺憾とする所なり
 予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し漢口に入れたるは第六師団の二大隊のみ又第六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり
 被害者の多くは外人宣教師の許に遁れて再難を防きたる為是等外人より我憲兵に告訴し来り事件は世界的に喧伝せらるへし予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり

 回想録の当該部分と照合することにより、『岡村寧次大将資料』における「南京攻撃戦で前科のある師団」の「前科」とは、主に掠奪・強姦であることが分かります。
 そして「二、三件」の強姦事件を以て「一汚点を印するに至りたるは遺憾なり」と嘆き、「一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず」と責めているのです。
 岡村大将の言う「軍紀の乱れ」というのがどの程度のレベルのものなのか、これで分かると思います。
 「二、三件」の強姦事件を「汚点」と嘆く指揮官が、千件、万件単位の強姦事件に関わっていた師団を、如何に用兵上の都合があろうと入城部隊として投入するはずがありません。数十件、どんなに多くても百件前後の強姦・掠奪、それが岡村氏の言う「大暴行」の正体だと思われます。(それが事実という確証もありませんが)
 また、「二、三件」の強姦事件が判明した経緯は、被害者を保護した外人宣教師の告訴によるものだったことも窺われます。この遣り口は、南京安全区国際委員会による日本大使館宛抗議と同じもの、つまり事件の多くは外国人宣教師の主張の中にのみ存在するものだったのです。


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