南京アメリカ大使館通信〜エスピー報告

(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より抜粋)


[註]テーブルの右列・青字[数字]は私のコメントです。

一九三八年一月二十五日 南京
南京の状況
在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛
 一九三七年十二月十三日、日本軍の南京占領以来の状況についてのエスピー副領事の報告を、ここに慎んで提出いたします。報告内容は大使館スタッフの調査、および南京陥落以来当地に残留しているアメリカ人の記述に基づくものであります。報告に含まれているのは、勝利に輝く日本軍の南京入城の時から市に発生した事件、市の現況に関する観察、および、日本軍占領の影響を改善するためのアメリカ住人ならびに「南京国際委員会」の仕事の概要、さらに、市内における人命および財産を保護する彼らの尽力に関するものです。
                       敬 具
                  ジョン・M・アリソン
                     三等書記官
 報告書作成一月十五――二十四日
 郵 送  一九三八年二月二日
  
T 南京の状況――エスピー報告一九三八年一月

 一月六日朝、南京大使館に到着すると、南京陥落いらい現地に残留していた中国人職員、董、呉(音訳) の両氏の出迎えを受けた。董氏は二カ所の建物の案内をし、われわれに予備視察をさせてくれた。建物の損傷は公文書保管室の扉が銃剣により傷を受けている以外には見当たらない。大使館に残されたアメリカ人職員の所有物にも異常はない。董氏は十二月九日いらい大使館に発生した事柄を説明し、彼が綴った日誌を見せてくれた。二ヵ所に分かれている敷地には、日本人憲兵五名、中国人警察官二〇名が駐屯、二四〇名の中国人が避難したという。中国人避難民は、大使館所属の苦力、召使、その他の雇用人とその家族である。
 即日、アメリカ人一四名の訪問を受ける。不愉快な事件に頭を痛めてきたものの、彼らとこのほかの外国人一四名は、ともに無事とのことだが、彼らの胸中は南京に発生した事件のみに集中していた。日本軍入城以来、南京が甘受してきた恐怖と残虐のおぞましい一連の話をわれわれに詳しく述べたてた。最悪の事態は去ったものの、事件は引きも切らず、市内の状況は依然としてよくなったとは言えない。
 彼らの話によると、日本軍の占領により、南京には恐怖政治ともいえる統治が開始された。彼らやドイツ人の話によると、南京市は餌食として日本軍の手に落ちたが、組織的戦闘の経過のなかで陥落したばかりでなく、制限のない略奪、暴行を競い合っているような侵入軍の手に落ちたのだということを物語っている。詳細の情報やわれわれの観察によっては、彼らの情報を否定する事実は見当たらない。市内に留まった民間人は、いわゆる「安全区」と呼ばれる地域に殺到した。多くが難民である。男女子供の死体、略奪破壊跡、住宅やビルの焼失・破壊など、証拠はいたるところにみられる。[1]





[1]これらの証拠は犠牲者が出たこと、略奪があったこと、放火があったこと等を示しているだけであり、日本軍の仕業であることを立証するものではない。
 日本官憲に提出した南京安全区国際委員会および大使館作成のアメリカ人財産被害報告、および、市内の状況に関する委員会作成の報告を付録に収めているが、これらは南京に発生した事件の詳細を記している[2]。また市の取扱いに関する日本軍の行動緩和に関する委員会の要望・嘆願書も付記している。しかし、それ自体で南京市の状況を反映している要望・嘆願書をここに要約するのは、南京の状況をくっきり浮かび上がらせるためである。 [2]日本官憲に提出した国際委員会の報告は『南京安全地帯の記録』に収録されているから、「南京に発生した事件の詳細」は『南京安全地帯の記録』を見れば良いということになる。
 残留アメリカ人との会見の最後に、「すでに起きてしまったことは取り返しのつかないことであり、脇に置くとしても、あなたがたは日本官憲に、南京の状況に目を向けさせてほしいということですか?」と尋ねてみた。すると彼らの返事は、「兵士を日本官憲の統制の下に置いてもらいたい。そしてこの恐怖と残虐な行為に終止符を打ってもらいたい」ということであった。このことをもう少し明確に言うならば、次のように言えるかもしれない。つまり、日本官憲は人道上から、兵士の無秩序な行為を止めさせ、殺害、略奪、放火を阻止し、南京に正常な市民生活を取り戻させて欲しい、と彼らは要望している、ということである。
 
T 十二月十日後の主な報告
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに五万人の兵士に任されていた。さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった、とアメリカ人らは強調した[3]









[3]交通部に対する中国軍の放火を知らないはずがない。
 それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった[4]住民の五分の四は逃げ去っていたが残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた[5]。日本軍は多数の中国兵を捕捉するはずだったが、比較的少数の中国兵しか捕捉されなかった。市内に残った中国兵の数は把握されていないが、軍服を脱ぎ棄て、市民の服に着替え、市民に混入した者、ないしはどこかに潜んだ者は、数千人はいたにちがいない[6] [4]城南城壁付近は砲戦の現場になっていたのだから無傷ということはありえない。小規模ながら市街地戦もあった。
[5]国際委員会は「ほぼ全員」と主張している。(第9号文書)
[6]「市民に混入」「ないしはどこかに潜んだ」のだから、降伏の意思は無かったと解釈される。
 従ってこれらの敗残兵はハーグ陸戦規則に定める
「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵」
には該当しない
 日本軍はどのくらいの中国兵が逃亡したのか把握していなかったのではないか、というのがアメリカ人の感触だった。城内にいる中国兵の「掃討作戦」では、捕捉できる兵士の数は10万人はくだらない、と日本軍はみていたようだ。そして、中国兵を根こそぎ捕捉しようと市内を隈なく捜索し、思いのほかその数が少なかったときの彼らの憤りや不信感が、兵士だけでなく、多くの罪もない市民を巻き添えにして、テロ行為にかりたて、長期にわたる「掃討作戦」を強行することになったのではないかと思われる[7] [7]敗残兵掃討はテロ行為ではない。
 市民に偽装すれば市民を巻き添えにするのは当然予想されることだから、中国軍の便衣兵戦術こそが「市民を巻き添えにしたテロ行為」である。
 また、掃蕩作戦は実質的に3週間で完了した。この程度の掃蕩作戦を「長期にわたる」とは言わないだろう。
 しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪と無縁ではなかったことである。彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている[8]。日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った[9]。この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである[10]。市政府の完全な瓦解は、公共施設やサービス機能をストップさせ、国民政府および大多数の市民の退却は、市を無法行為に委ねることになり、混乱を招いたようだ。このため、残った市民には、日本軍による秩序の回復を期待する気持ちを起こさせることになった。
[8]残留アメリカ人と認識を異にしている。

[9]「事件もたくさん起こし」強盗殺人まで言及しておきながら「ある程度まで」とは控え目過ぎる表現だろう。

[10]コヴィルの旅行記や日本人証言者の証言に見られる泥棒市の繁盛振りを考慮すれば、退却の時期に限定されるとは考えられないし、散発的なものであったとも思えない。
 しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、たちまち恐怖統治が開始されることになった。十二月十三日夜、十四日朝には、すでに暴行が行われていた[11]。城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された[12]。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる[13]。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、例外なく連行され、銃殺された模様だ[14]。中国政府軍の残兵はあまねく「掃討」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった[15]



[11]ロイターのスミスは、略奪・暴行が始まったのは14日午後からと講演で述べている。国際委員会の第9号文書にも日本兵の不法行為は14日から始まった旨が書かれている。ラーベによるものと推測されている駐華ドイツ大使館報告第113号添付文書も13日の日本軍は公正に振る舞ったと書いている。
[12]日本軍が無秩序に市内へ乱入した事実はないということになる。
[13]二万人は兵士・兵士と誤認された者の合計という認識。
 顧維鈞は国際連盟で「南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ」と演説しているが、外国人の認識する二万人とは便衣兵として摘出された者、つまり実際に便衣兵であった者とその巻き添えを食った市民である。
(これはあくまでも外国人の認識であって、実際に摘出・処分した便衣兵は『南京戦史』の研究成果によれば約7千と見られる)
[14]これが事実としても、中国兵が軍服を脱ぎ捨て市民に偽装したりしなければ、このようなことは起こらなかった。
[15]占領地の治安確保の為には当然の措置である。
 処刑の報告のなかから幾例かを次に記す。南京電力会社の職員五四名は江岸にある中華工業国外貿易協会に避難していた。十二月十五、十六の両日、日本軍がここを訪れ、職員でない者を引き出すよう要求がなされた。そこで電力会社の元職員が54名、うち臨時職員11名であることを告げると、日本軍は正職員43名は公務員であるから「処刑する」と言って連行した。アメリカ人の述べるところによると、これと時を同じくして、市内の電力・電灯サービスを回復させるために、訓練を受けた電気技師・職員はどこにいるのか、と日本軍は再三国際委員会に尋ねていたそうだ[16]



[16]この事件はコヴィルの旅行記にも出てくる。
 コヴィル旅行記によると、避難先は国際委員会の一員であるシールズの会社であるが、それにも関らず、国際委員会が日本当局に提出した抗議文書の中にこの事件は収録されていない
 国際委員会のメンバーが直接関係している事件であるのに、国際委員会が抗議しなかったとは、一体どう解釈すれば良いのか。
 連行されたのは事実であっても、殺されたというのは虚偽であり、日本当局に抗議してそれが軍に知られたなら、たちまちの内に連行された職員が軍の監督下に存命中であることが明らかにされてしまうから、この事件を捏造した誰かは、同僚であるはずのシールズに嘘を吹き込むことはできても、日本当局に抗議はできなかったのだ、としか考えられない。
 もう一例は、十二月二十五日頃、金陵大学構内で起きた事件である。日本軍が市内の住民全員の登録を始めた直後だった。二十五日を含む数日間、日本軍将校が大学を訪れ、大学の建物に避難していた中国人三万人余りの登録を開始した。建物にいたおよそ二千人の男性が集められると、元軍務に就いていた者は、隠しだてをせずに申し出るよう彼らに言い渡した。そうすれば命は助ける、と繰り返し言い渡した。申し出た者は日本軍に使役することになろうが、万一兵士であったことを隠し、あとになってそのことが発覚した時には銃殺は必定だと言われたため、この言葉を信じたおよそ200人が、兵士であったことを白状すると、日本軍は彼らを引き立てていった。重症を負った四、五人が後に戻ってきて言うことには、200人は一塊りで連行され、途中他の中国人も加えられて、人影のない場所数カ所において、日本兵の一団に刺殺ないしは銃殺されたという。この報告者は処刑による死を免れた者であった。[17] [17]ベイツによる報告『南京安全地帯の記録』第50号文書に収録。詳細はそちらで検証。
 日本軍の分遣隊による便衣兵狩りや処刑のほかに、日本兵は二、三人ないしはそれ以上に徒党を組み、市内を傍若無人に徘徊した[18]。これらの兵士は極悪非道な殺害、強姦、略奪をして、市を恐怖のどん底におとしいれた。日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか、十分な説明はなされていない。しかし、われわれの聞いたところによると、日本軍指揮官より、兵士を統制下におくよう少なくとも二回の命令が出され、また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。 [18]安全区への出入りは厳しく制限されていた。
 この部分は明らかに国際委員会第9号文書の焼き直し。






 それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽くし難い凶行を犯したことは事実である[19]外国人目撃者の話によると、南京を冒涜する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた[20]。市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている[21]。われわれが南京に到着した日、日本兵自身から聞いたところによると、死体は前日までに片付けられるはずであったが、住宅の中、池、通りの脇に依然として見うけられた[22]。あるアメリカ人の通告によると、市の南部にある[23]、14人の中国人が住んでいた家に、日本兵が侵入した。彼は11人の死体を目撃し、うち女性は殺害される前に強姦されたことを聞かされたそうだ。子供2人ともう1人だけが生き残ったという[24]。先日、大使館近くの小さな池をさらったところ、市民の服装をした遺体二、三十体があがった[25] [19]日本軍兵士による犯罪であるという証拠は皆無に等しい。
[20]宿営用物資の徴発は略奪ではない。
[21]ダーディンやスティールの記事にも、国際委員会の抗議文書にも、そのような目撃事例は皆無に等しい。
[22]死体があった=日本軍による不法殺害があったということにはならない。
[23]スマイスの調査報告には
「城南のふつうは密集地区となっていた地区(城西・門西・門東)は、危機の時期には実際に完全に無人地帯となった
と書かれている。
[24]マギー・夏淑琴証言では子供二人。この事例は同一事件でありながら複数の証言が基本的な数字で全く一致しない
[25]クレーガーとハッツの目撃事例を、国際委員会は「合法的な処刑」と述べている。(第37号文書第185件)
 日本兵は土地の女性を捜しだしては、暴行を加えたことが報告されている。このような事件に関する報告書をここに添付している。日本軍の占領当初、こうした事件は一晩に千件からが数えられ[26]、あるアメリカ人が数えたところ、アメリカ人所有の建物で、一夜に30件の強姦があったことが認められた[27]





[26]犠牲者の内訳どころか、事件の発生エリアすら不明。
[27]これが一つの建物で発生した事件と仮定して、一晩に千件の強姦が発生する為には同様の建物が30以上あったということになる。安全区の外は事実上無人地帯だったのだから、これが事実とすれば、安全区は毎晩日本兵で溢れていなければならないことになる。
 しかし、このエスピー報告にも国際委員会第9号文書にも、「二、三人の徒党」しか目撃されていない。
 そもそも入城式を十七日に設定した為、極めてタイトになったスケジュールの中で、敗残兵掃討にフル回転していた兵士達に、夜通し強姦を続ける体力があったのか疑問。
 殺害や強姦が間断なく続くなか、日本軍部隊は市内を根こそぎ荒し回った。住宅や建物はことごとく侵入され、物色されて日本兵に持ち出された[28] [28]中国人や外国人が略奪を働いていたことは、コヴィル旅行記に出てくる泥棒市や、マッカラムの手紙で明らか。
 国際委員会は、「安全区」内で起こった事件のうち、気づいたものは記録にとめていた[29]。委員会は定期的に日本大使館に事件を報告し、公式記録として注意を促すと同時に、事件を抗議し、二度と再び事件の起こらないよう日本官憲がなんらかの措置をとることを要求してきた。われわれが着任してからは、大使館にも報告コピーが提出されている。一月十日までに、188件の報告を受けており、ここにそのコピーを添付している。
 
[29]委員会のメンバーであるシールズの会社で起こった事件に気付いていなかったとでもいうのだろうか。
 そんなことはあり得ないから、この「事件」はやはり、ベイツ達によって故意に抗議事例から外されたのである。



財産の略奪
 国際委員会ならびに個々のアメリカ人、および当大使館員による検証により、日本軍の侵入、略奪を免れた財産はただの一つもなかったものと思われる。それが構内、住宅、商店、ビルであろうが、外国伝道団のものであろうが、外国人のものであろうが、中国人のものであろうが、すべて区別なく侵入されて、多少の差はあるものの、荒らされ、略奪を受けている。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等の大使館も侵入され、品物を持ち出されている[30]イタリア大使館についても同様な報告がなされている[31]。ソビエト大使館は元旦に不審火に見舞われた。われわれによる調査、およびアメリカ人からの報告によると、アメリカ人財産はことごとく、再三再四にわたり、日本兵の侵入を受けている[32]。現在アメリカ人が住んでいる住宅にさえ、日本兵の侵入がある。これらアメリカ人住民や国際委員会のメンバーは、この報告を書いている間にも、外国人財産に侵入し、略奪品や婦人を漁る日本兵を追い払うことに追われている。
[30]冒頭部分「建物の損傷は公文書保管室の扉が銃剣により傷を受けている以外には見当たらない。大使館に残されたアメリカ人職員の所有物にも異常はない。」矛盾している
[31]イタリア領事館には郭岐の一隊が潜伏していた。領事館と大使館は区別されているのか。
[32]「侵入」には敗残兵捜索が含まれる。
 イタリア領事館には郭岐の一隊が潜伏していた。ラーベ邸には中国軍幹部が潜伏していた(ラーベ日記)。マッカラムの病院の防空壕には中国兵が匿われていた(マッカラムの手紙)。外国大使館(領事館)に潜伏していた高級将校を発見した実績もある(日本軍発表、NYタイムズ記事)。大使館や領事館といえど、敗残兵を逃げ込ませないという中立義務を果たせない限り、占領軍の捜索を受けても文句を言える筋合いではない。
 兵隊が運び出せるすべての物は、彼らの略奪の格好の餌食となっているようだ。外国人住宅をとくに例にあげると、車、自転車、酒などとともに、ポケットに忍び込ませるような小さな貴重品が主に物色されている。しかし、外国人のものであれ、中国人のものであれ、侵入者の望みの品は、ことごとく略奪された[33]。市内の商業地区で破壊から免れ残っている商店はすべて、中のものをほとんど空になるほどに持ち去られている[34]。希望の品が手に余るほど多い場合には、トラックを持ち込み積み去った例も数例見受けられる。店や倉庫から持ち出した荷をトラックで運んでいるのを数件目撃したという外国人住人の報告がある。テキサス石油会社(中国支社)の倉庫係の報告によると、日本兵は倉庫のガソリン、油類を運び出すのに、会社のトラックを使い、ようやく持ち出したということだ[35]



[33]『南京安全地帯の記録』には未遂事件も少なくない。
 また、目撃者不明の事例が圧倒的多数である。
[34]ダーディンは12/22の記事の中で「土曜日(12/11)には、中国軍による市内の商店略奪も珍しくなくなった」と書いている。



[35]これは明らかに軍用物資である燃料の徴発の事例であって略奪ではない。
 住宅の略奪を受けた程度は、構内、構外により大きな差がある。これまで様々な財産を調査してきているが、侵入されたものの、大きな被害や、夥しい盗みなどのないところもある。品物が二、三盗まれた程度ですんでいるところもある。「安全区」の外には、大きな被害を受けていないところもあるが、区内はとくに被害を最小限に食い止めている。これらのケースは、区外での略奪、破壊が最高に行われたことと対象をなす[36]。大使館員のダグラス・ジュンキンズ氏の住宅の場合、――使用人が殺害されてから――住宅の中の物はことごとく荒らされ、略奪されただけでなく、家具などを手荒く壊した形跡がある[37]。同様の手口としては、上海路と中山路の角にある金陵自動車修理所の例がある。修理所の二つの扉は板で囲われ、戸板の外から鍵が掛かっていた。板には別々にアメリカ人の所有であると記したアメリカ大使館の布告が貼られていた。われわれが到着してから修理所を調べると、一枚の板は外されて脇に転がっており、そこにはいまだ布告書が付いたままであった。修理所は侵入され、完全に荒らされていた。残されていたものは、古タイヤ二本、ワイヤーのロッドとビットが少々のほか、設備の類では空気圧搾機だけであった。事務室の床にはファイルや書類が散乱し、机は薪にするため持ち出され、二つの金庫は上部が壊され、中は空であった。修理所の裏にある小屋も鍵が掛かっていたが、侵入されていた。書類やら機械の部品、設備の一部などが床から六インチも積もるほどに散乱していた。このごたごたのなかに、貴重な標準型映写機が粉々に壊されてあった。[38]






[36]区外は事実上の無人地帯。誰の犯行か分かるはずがない。
[37]フィッチが死体を確認しただけで日本兵が殺したという証拠はない(第15号文書第66件)。












[38]犯人の手掛かりは皆無。
財産への放火
 しかし、なんといっても南京の財産がこうむった最悪の被害は、火災による破壊である。この報告を書いている現在でも、市内の数カ所で火の手があがっている。安全区内では、火災は発生していない。にもかかわらず、安全区以外では、市内いたるところ放火その他による火災が手当たり次第に行われた[39]多くの通りではまったく火災にあっていない家々の間に、焼け落ちた住宅や建物が散見された。ある通りでは、一、二、あるいはそれ以上の建物が焼失し壁だけが残っているのに対して、他の建物は火災の跡が見受けられない
[39]ただでさえ宿営用の建物が少なくて野営を余儀なくされていた日本軍に、放火の動機は全く無い。
 安全区外は事実上の無人地帯だったが、正確に言えば市民がいない地帯であって、空き家に敗残兵が潜んでいた可能性は高い。放火事件は、そういう敗残兵の仕業ではないか。
 放火が日本兵の仕業という証拠は皆無に等しい。
 火災の被害は、市の南端が最も大きい[40]。商業地区であるこの地域を調べた結果、どの区画においても、住宅や建物はことごとく火災にあっていた。残っている建物はすべてあわせても一二に満たない。上海の閘北地区のように、火災によりほとんど完全に破壊された所と違い、大通りに面した建物はたいてい破壊されたものの、裏の建物は主に放火を受けなかったようだ[41] [40]市の南端は城壁攻略時の砲戦で被害の激しかった地域。
 建物が焼失しているからといって放火による被害とは言えないことは、エスピーやアリソンも知っていたはず。
[41]住宅や建物はことごとく火災にあっていた、という直前の部分と矛盾している。
 報告書を改竄したのでなければ、このようなことは通常あり得ない。
 当地の日本官憲によると、南京城内の火災の多くは、退却中の中国軍ないしは、便衣兵によるものであり、陥落後に発生したとの弁明がなされている。なかには中国軍による火災もあるかもしれないが、占領後の日本軍が、故意に、または不注意で引き起こした火災には比べるべくもない、というのが妥当のようだ[42]。日本兵が建物に侵入して略奪をした後、放火したか、それとも、建物内の小火が不注意から建物に燃え付いたものか、あるいは近くの火災から延焼したかのいずれかと思われる[43]。火事を起こした建物の消火に努めた形跡はまったく見当たらない[44]
[42]根拠は全く無い。

[43]これは火事が発生した状況を焼け跡から判断しているだけであって、犯人を特定する要素は皆無。

[44]『証言による「南京戦史」』には、消火活動に奔走した体験談が収録されている。
(歩兵第35連隊第三中隊隊長清水貞信氏の証言)
 火災による南京市の破壊が最悪の時期に書かれた記録[45]を添付している。国際委員会のメンバーが大火の原因を追求し、署名をしている。記録の第一章には、日本軍の入城以前に、どの程度が焼失していたか知る限りを述べ、当時火災による損害は大したことがなかったと証言している。第二章は、十二月二十日夜の状況を述べたもので、このとき沢山の建物が火災にあい、現場近くで火事見物をする日本兵や、店から洗いざらい品物を持ち出し、トラックで持ち逃げする日本兵、また別の建物では、「床の上で焚き火をする」日本兵が目撃されている。





 
[45]『南京安全地帯の記録』第22号文書のこと。
 第22号文書第2章に書かれているのは12/20夜ではなく12/21夜の状況。
 品物をトラックで持ち逃げする、ではなく「・・・・そこまでの諸街路は、物資を満載した日本軍のトラックと自動車で道幅一杯に混み合っていた。・・・・十五名から二十名の日本兵の集団をいくつも見かけた。それらの小集団は一見下級将校に指揮されており、燃える建物を街路の両側から注視しているか、あるいは商店から物資を持ち出し、他の店では床の上で焚き火をしているのが見られた。・・・・」となっている。
 火事になった建物から物資を運び出している、ということでありトラックに積まれた荷物とは直接の関係はない。
 この部分は品物まで燃えてしまうのを防ごうとしていたとも解釈できるし、焚き火というのは室内の小火を消そうと集まっていた姿とも解釈できる。

(中略)
 


 
われわれの南京到着後に発生した事件
・・・・・・・・
 次のことは注意に催すると思うので、ここに記載する。イギリス系の会社、中国木材輸出入会社の広い貯木場は、一月十八日まで侵入の形跡が皆無であり、貯木場に至る門は閉ざされ、錠が下ろされていた。その日、われわれは毎日の恒例にしている下関のバンドへ行くとき、新しい門から持ち出した材木の山を、日本兵が車で運び去るのを目撃した。後になってイギリス領事より通告があり、その材木の搬出はまったく不当なもので、領事はそのようなイギリス財産の略奪に関し、日本大使館に抗議をしている、ということが判明した。[46]

(以下省略)


[46]これは唯一の目撃例といえる事例だが、この報告書の後段には、同一と見られる事例について
当地の該会社所有の貯木場より日本陸軍に木材を売り渡すことがその目的で、彼に許可が下りたわけである
と述べられている。
 つまり、事実は日本軍相手の商取引であり、略奪などではなかったのである。


東京裁判にも証拠として提出された所謂「エスピー報告」です。
この報告書で最も注目すべき点は、中国軍退却時に、中国兵による市民に対する暴行殺人が行われていたという認識を、外国人が有していたということでしょう。
それが多いか少ないかは副次的なものです。
問題は、中国兵による、軍事作戦によるものではない市民に対する暴行(violence apart from military operations)があったと認識されていたにもかかわらず、スマイスの調査では “warfare” as a code word for violence by Japanese soldiers apart from military operations とされている、つまり戦争行為から逸脱した暴行は全て日本兵によるものと最初から定義されていたということです。
このエスピー報告にも随所に見られる傾向ですが、国際委員会に関係した外国人達は、中国兵による被害を過少に報告し、それを日本軍に転嫁する傾向があります。
日本軍の不法行為を誇張する余り、同じ報告書の中で辻褄が合っていない部分まで見受けられる始末です。

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