ローゼンの反日エピソード

(石田勇治編集・翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』より抜粋)


資料47
書簡
ラウテンシュラーガー(駐華ドイツ大使館参事官、漢ロ)宛、発信者−シャルフェンベルク (南京)
一九三八年二月一日付

親愛なるラウテンシュラーガ一様
 残念なことにいまになってやっと、ローゼン博士が帰省休暇のためにあなたに手紙を書いたことを聞き及びました。もっと早く知っていたら、業務上の理由からかれの本国帰還を勧めるために、私の方からもあなたにお願いしたことでしょう。かれと一緒に仕事をするのは前から苦痛であり、われわれが当地に戻って以来、状況はかれの敵意に満ちた反日的な態度のせいで日に日に厳しいものになっています。 陸軍元帥〔大将〕の優秀なご子息で、物静かな本郷騎兵少佐が、われわれが戻ってきたときと後の日本大使館での晩餐会の席でローゼンに「なぜあなたがたは英国人といっしょにきたのか」と尋ねました。かれは質問の理由を確かめもせず、これをただ無神経な問いかけとみなしました。本郷氏はわれわれドイツ人に何か特別な意向をもっていたのではないでしょうか。無神経なのは本郷氏ではなくてローゼン氏の方で、かれは日本人との会合のたびに相手の気分を害するような表現で、南京空襲、黄浦号への砲撃、一二月一二日の急降下爆撃など古い話を蒸し返しています。中山陵でおきた二度目の衝突は、ローゼン氏がクリスティアン・クレーガ一会計士の忠告にしたがって、日本人外交官と本郷氏による明孝陵での最初の警告を受けた直後に町に戻っていれば回避できたはずでした。それなのにかれは怒り、まるで躾の悪い子どものように警告を無視し、何が何でもゴルフクラブに行こうとしました。本郷氏が晩餐会で丁重かつ明瞭に、われわれは特別な許可なしに街を離れてはならないと述べていたことをクレーガー氏は知っていたのに、ローゼン氏に譲歩してしまったのは残念なことでした。その結果、激しい衝突が生じたのです。このときローゼン氏は、最初の警告に逆上し、狂ったように日本陸海軍と航空部隊が犯したいくつもの罪業を並べ立てました。そして、憲兵の同行なしにドライブや玄武湖の散策ができるよう、また城外へ出るといった移動の自由を要求しました。クレーガー氏はただひどく困惑していました。
 そこで、衝突の場に居合わせたわけではありませんが、ちょうど当地に滞在中の岡崎総領事が事態の収拾に尽力してくれました。しかしその間に事件は、われわれがラーベ氏、総領事代理の福井氏を経由して知らされたように、いち早く東京へ打電されてしまったのです。翌々日、愛想が良く協力的で言葉もー番堪能な大使館付外交官補の福田氏が私を訪ねてきて、私からローゼン氏に福井総領事代理を訪ねるよう指示してほしいと依頼してきました。福井総領事代理はすでに二度ローゼン氏を訪ねたのですが、会うことができなかったのです。福田氏はローゼン氏の反日姿勢の原因を私に質しました。かれは「米国人と英国人が日本に敵対的なことは承知のうえだが、なぜドイツ人までもがそうなのか」と問うたのです。この発言から、日本側は例のいざこざのおりローゼン氏の言葉を一部しか理解していなかったことがわかりました。あのとき、ローゼン氏は興奮していて、ときには恐るべき早口で、またときには機関銃、もっと言えば急降下爆撃機のような速さでまくし立て、舌がもつれたりしながら日本軍に抗弁していました。私は福田氏にローゼン氏が玄武湖を訪問できるよう許可を出して欲しいと頼んだところ、福田氏はそれがどこのことなのかまったく知らないことが判明しました。そして地図を見たのち、福田氏は軍から許可をとりつけると約束し、それは二日後に実現しました。ただし、憲兵一名の同行と日本大使館への事前の届け出が条件でした。後者の条件はこの間に不要となりました。ちなみに日本軍は、憲兵の同行はあくまで外交官の護衛のためで、城外には中国人敗残兵がうろつき、ときおり日本兵を射殺しているらしく、城内から出るのは望ましくないと繰り返し強調しています。これとは対照的に、安全区国際委員会の人々には憲兵の護衛はなく、かれらにたいして日本軍はとくに責任を負っていません。なぜなら、国際委員会の面々は日本軍よりも先に城内にいたからです。
 福田氏との協議にはヒュルターも同席し、友好関係を築く手助けをしてくれました。福田氏は実に和やかにその場を後にしました。翌日、ヒュルターと私が業務上の問い合わせで福田氏のもとへ出向いたときも、かれと、後から加わった福井代理は、われわれをビールと軽食でとても懇意にもてなしてくれました。われわれ二人に関するかぎり、日本人と友好関係を保っていけると思いますし、ローゼン氏の天敵である憲兵もわれわれには気になりません。かれらは礼儀正しく、とても役に立ちます。もしわれわれが家屋の検分を無事に終えたければ、かれらに同道してもらう必要があります。なぜなら、日本軍歩哨兵は疑わしき者はすべて銃撃せよとの指示を受けているからです。また酒保での買い物にも通訳をして助けてくれます。多少英語を話せる者がいるのです。
 これとは反対に、ローゼン博士は、日本軍の命令や要望に背いて、憲兵たちを遠ざけようとしています。かれはこっそり徒歩や車で外出するので、護衛の憲兵が上官に報告し、摩擦が生じます。先日もローゼン氏はラーベ氏といっしょに同氏の車に乗り、憲兵の同行なしで大使館から出かけました。本郷少佐はラーベ氏に厳重に注意し、ローゼン氏に憲兵なしで二度と外出しないよう伝えることを依頼しました。ヒュルターと私、その他のドイツ人は大使館の前で憲兵と守衛に丁重に挨拶しているのに、ローゼン氏は両者にまったく目もくれません。その様子はまるで、かれの怒りの矛先が日本軍全体に向けられているかのようでした。ここで唯一の正しい選択は、本郷少佐の仲介で、一切の決定権をもつ軍司令部と連絡をとることだったのですが、ローゼン氏は、プリドー・プルーン氏とアリソン氏の助言にしたがい、これに反対しました。しかし、ドイツの外交官になら、〔松井〕大将も、たとえば時間がないという理由で接見しなかった若いアリソン氏とは異なる扱いをしたに違いありません。ローゼン氏は、この問題を協議したさい、ラーベ氏と私を前に、いつものように憤慨してこう言いました。「私は、フィッシャー氏が上海で松井とそうしたように、このような殺人者たちと同じテーブルにつくつもりはない。」
 米国人外交官のアリソンが、歩哨兵が見張っていたある家に入り込んだとき、日本軍の再三再四の要望に応じて憲兵一人を同行させていたら、アリソンも付き人も横っ面を張られずにすんだことでしょう。要するにアリソン氏の一件は自業自得であり、同じことがローゼン氏の身にもいつ起きても不思議ではありません。ときに、ローゼン氏には〔ドイツ〕帝国にとって外交上好ましくない衝突を挑発しているような印象があります。かれがあれこれ協議している英国や米国の同僚が、ローゼン氏の勝手放題の気質を抑制するよりも、火に油を注いでいることは、とくにここで述べる必要もないでしょう。
 さて本題に移ります。日本軍当局は、ローゼン氏を一月三〇日の一三時に「戦場視察」に招待しました。かれはわれわれもいっしょに連れて行くつもりでした。われわれ二人が約束どおりかれの家に到着したとき、すでに憲兵が運転手の隣に座っていました。ローゼン氏は車に歩み寄ると、残念ながらまたしても癇癪を起こし、血相を変えて「降りろ」、「出て行け」と金切り声で何度もわめき散らしました。われわれはかれを鎮めようとして、もう一台車をとってくることを提案しましたが、かれはますます手がつけられなくなり、「見せしめにするぞ」と叫んで憲兵を追い出しました。われわれはふたたび割って入り、ローゼン氏に自分の車でおとなしく憲兵といっしょに出発し、われわれは別の車で後をついていくので、憲兵を日本大使館で降ろすよう説得しました。しかし、ローゼン氏はそれも嫌がり、いっそわれわれ二人だけが行けばよいと言いました。とはいえ、われわれは直接招待されてはいなかったので、これは断らざるをえませんでした。中国人の使用人と憲兵の眼前でこの騒動が始まったとき、その憲兵は車から降りてローゼン氏の狂態をじっと注視していました。幸運にも、この憲兵は事の次第を理解しなかったようですが、もしそうでなければ、ローゼン氏は横っ面を二、三回殴られていたかもしれません。そしてヒュルターと私の二人もかれに不利な証言をしなければならなかったことでしょう。
 結局、われわれはその場から立ち去り、視察に行くかどうかはローゼン氏に任せました。約五分後、癇癪はおさまったらしく、ローゼン氏の中国人の警官が、いつもの見回りの道を通ってわれわれを追いかけてきて、「ローゼン氏が戻ってこいと言っている」と伝えました。私はすげなくこれを断りましたが、おかげでわれわれは、中国の新年にあたる一月三一日にもローゼン氏に会わずにすみました。日本側がローゼン氏をわざわざ招待したのは、かれの攻撃的な態度を和らげるためであったに違いなく、ローゼン氏が日本人に謝罪したかどうかは知りません。もちろんわれわれにたいしては、いまに至るまで、かれからの謝罪はありません。
 以上のことで、私はローゼン氏についての苦情を訴えるつもりはありません。ただ、ローゼン氏との協力がいかに困難であるかを明らかにしたいだけなのです。かれは何のためらいもなく、また配慮も熟慮もなく、顔を合わす人すべてにわれわれの内部事情や政策などを話し、不平を言っています。そしていたるところで、かれの私的かつ公的なふるまいにたいする極めて否定的な批判を招いています。このようなことでわれわれが今後もさんざん悪く言われるとすれば、そうでなくても不愉快なここでの滞在がいっそう不愉快なものになります。船上では、英国人や米国人からローゼン氏にまつわる愕然とするような質問を受けました。なによりローゼン氏は、ベテランの外交官なら「七つの言語ができても沈黙を守り得る」という格言をわきまえていません。とにかくローゼン氏は何ごとも胸のうちにとどめておくことができず、それでしばしばわれわれを不愉快な状況に陥れるのです。そのうえ、われわれはローゼン氏と頻繁に対立してしまいます。かれの余りにも激烈な、ときには憎しみとなって爆発する反日的姿勢は、われわれのより客観的な考え方と相容れないのです。
 ローゼン氏の身辺に何かが起きた場合、それは大使にとって好ましくないことでしょう。ことと次第によっては大使が、この外交官を当地に滞在させたことで非難を受けるからです。南京陥落後の危機的な時期には、思慮深く穏やかな性格の、そして当地のひどく不愉快な生活にも、公務の利益ゆえに耐えることのできる外交官の投入が必要でしょう。
 ローゼン博士は、上述の内容からも察せられるように、神経が完全に参っており、この点はときにかれ自身も認めています。もしいまローゼン氏が、許可された帰省休暇に一日でも早く入れば、船旅を通じて少しは静養できますし、故郷に戻って療養所に入ればすぐに精神のバランスを取り戻すことができるでしょう。
 最後の衝突は一昨日の一月三〇日のことでした。おわかりいただけるとおり、私はもうずっと前から私を苦しめるすべての問題を考え抜いたうえでこの書状を書き綴りました。決して先の衝突で突然の憤りを覚えたためではありません。
 フィッシャー氏も立場上この問題に何度も関与されたので、同氏にも本書状の写しをお送りしました。

ハイル・ヒトラー
P・シャルフェンベルク 〔署名〕

資料48
書簡
ラウテンシュラーガー(漢ロ)宛、発信者−シャルフェンベルク(南京)
一九三八年二月一日付

親愛なるラウテンシュラーガ一様
 同封の私信を大使にお渡し下さいますようお願い申し上げます。ただこの手紙には以下のことを付け加えたいと思います。私の赴任期間はあと四か月ほどなので、ローゼン氏がどうなろうと、私には関係のないことかもしれません。しかし、ここで何らかの大きな衝突が生じると、当然ながら私が、適切な時期に警告しなかったとして非難されかねません。以前われわれは忠誠心ゆえに、自分たちの個人的な考えに背いて、ローゼン氏の要求に従い、あやうく取り返しのつかない事態を招くところであった長江下りに同行したことがあります。今回ふたたび、同様の問題に直面するようなことがあれば、私は自分の判断に従って行動します。
 ローゼン氏は、ドイツ人が一堂に会するよう求められていた一月三〇日――ローゼン氏は招待されませんでした――を、その粗野なふるまいによってまったく台なしにしてしまいました。私は、〔ナチ党〕権力掌握五周年記念日に、このような侮辱を経験しなければならなかったことを恥と感じます。精神病者に苦しめられているとでも思わないと、私でさえときにはらわたが煮えくり返ります
 ラーベもわれわれも、ローゼン氏の攻撃的な態度は安全区国際委員会の仕事にもまったく役に立たないという印象をもっています。
 ローゼン氏の日本人同僚との関係について、以下のことを付け加えねばなりません。ローゼン氏は、一月一〇日の日本側の招待にたいする返礼の招待状をいまだに出しておらず、しかもその意図はないと言明しています。しかし、その一方でローゼン氏は、近々、英国と米国の外交官を会食に招待するつもりでいます。このことはいずれ日本側にも知れるでしょう。端的に言って、ここではすべてが非常に不愉快であります。

ハイル・ヒトラー
P・シャルフェンベルク 〔署名〕

報告
駐華ドイツ大使館(漢ロ)宛、発信者−ローゼン(南京)
一九三八年二月二五日付南京分館
文書番号五七一九/一五四三/三八

内容 − 日本兵の略奪と立証責任

エッカートとフォン・シュメリンクの家屋(今年一月二八日付報告添付書類を参照。番号なし)は、両方とも日本兵に焼き払われたとかなりの確証をもって断言できる。南京城内のおもな略奪が日本兵の仕業であることばすでに立証されており、高価な物品のひどい略奪と破壊がおこなわれたエッカートとフォン・シュメリンクの事件も日本兵が引き起こした可能性がきわめて高い。
 南京における中国兵の略奪は、多くの目撃報告が語るように、どれも小規模で、その対象も特定の物品とくに食料品と生活必需品に限られていた。日本軍に激しく追い立てられた中国兵には、たとえばシャルフェンベルク邸を略奪してすべての物品をトラックで運び去った日本兵のように、大きな略奪品を運ぶ手段がなかった。特定地域の「戦略的」焦土作戦を除けば、中国兵には、日本兵がおこなった、価値あるものの無意味な破壊のための動機も時間もなかったのである。
 私の考えでは、南京で暴虐の限りをつくした日本軍は、目撃証拠のない事件においては、自らその立証責任を負うべきである。中国当局がまだ機能していた間、南京では(「戦略的」焦土作戦とわずかの違法行為を除いて)模範的な秩序が支配していた。だが、それは周知のように、日本軍の到着によって混沌へと変化したのである。

ローゼン〔署名〕

資料64
通達
ローゼン(南京)宛、発信者――ラウテンシュラーガー(漢ロ)
一九三八年三月一五日付
文書番号五七ニ○/ニ四八七/三八
添付書類一

 貴殿の二月二五日付報告(五七一九/一五四三/三八)に関連して、文書の写しを同封する。
 そこに描かれた状況に鑑み、私は、貴殿が時機をみて日本に損害賠償請求をおこなうことを要請する。だがそのさい、中国兵による略奪が異論の余地なく立証された物品は除外されねばならない。(南京防衛委員唐生智将軍宛の中国語書簡を参照。)
 目撃証言のないすべての事件に日本側が立証責任を負うという〔貴殿の〕見解は、こうした一般的な形式において維持するのは難しいように思われる。だがそのことは、当面する事件に関して――上記の条件下で――日本側に立件協力を要請することを排除するものではない。

資料84
通達
ローゼン(南京)宛、発信者――ラウテンシュラーガー(漢ロ)
一九三八年三月二八日付
文書番号五七ニ○/ニ七九八/三八

 先日届いた〔南京〕分館の報告によると、ドイツ国民が借用中の南京の家屋がふたたび略奪を受けたが、今回の略奪が中国側によるものか日本側によるものかは、目撃者報告〔だけ〕では確認できない。それにもかかわらず、通例にしたがい、推定にもとづいて今回の略奪は日本兵によって引き起こされたとの主張がなされている
 南京分館は、南京に残るドイツ資産の保護を日本当局に要請するため、あらゆる手段を講じているものと考える。成果を期待する。

 ドイツ人の同僚でさえ、ローゼンの異常な反日的態度を持て余していたことの分かるエピソードを抜き出してみました。
 ローゼンのスタンスは「日本軍は、目撃証拠のない事件においては、自らその立証責任を負うべきである」という暴論に集約されています。
 おそらく彼の証言は「中国側によるものか日本側によるものかは、目撃者報告〔だけ〕では確認できない」事例を「推定にもとづいて」「日本兵によって引き起こされたとの主張」したものばかりです。
 シャルフェンベルクが愚痴をこぼしているように、ローゼンは精神を病んでいたのではないでしょうか。

〔 戻 る 〕