『南京安全地帯の記録』(“DOCUMENT OF THE NANKING SAFETY ZONE”)

(本文は冨沢繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』より抜粋)


 『南京安全地帯の記録』は、徐淑希が国際委員会の抗議文書を集めて編集したものである。一八九四年(明治二十七年)生まれの徐淑希は、コロンビア大学で博士号を取得して帰国したのち、外交部(外務省)顧問を務めたこともある燕京大学教授であった。
 その徐淑希の序文が本書の冒頭にある。序文の日付は一九三九年五月九日、そこから刊行の時期がほぼ推定されよう。支那事変二周年(昭和十四年七月)の前後に刊行されたものであろう。
 なお、この 『南京安全地帯の記録』を引用するにあたり、左記の要領で訳したことをお断りしておく。
 ドキュメントという英語は、『ランダムハウス英和大辞典』によれば、「公文書」のほかに、本、記事、手紙などの、資料的な「記録、文書」をも意味する。そこで、ドキュメントの訳語としては、本書は「記録」を採用した。
 また、「安全区」と言えば、新宿区とか経済特区のような行政区画を連想させる。が、安全地帯は行政区画ではなかった。それは先に記したように、日本軍の承認しなかった非武装の中立地帯であった(六〇頁参照)。その本来の意味を見失わないために、昔からの「安全地帯」という直訳に従った。
 さて、本書は、開巻劈頭に「南京安全区档(档は正しくは木偏に當)案」と大書された。『大漢和辞典』 によれば、档とは文書のこと、档案とは「官署(筆者註・役所、官庁)の記録」ないしは「永久に保存する、辺外(筆者註・国境の外)と往復の公文書」を指す。つまり、档案とは官庁の公文書のことなのである。
 では、「南京安全区档案」は官庁の公文書であったかと言えば、それは違った。公文書とは、政府や地方自治体または公務員の職務上作成する文書であるが、国際委員会は「市民支援の私的な組織」(三十五号文書)に過ぎなかった。従って、国際委員会の作成した文書は公文書(档案)とは言えない。
 それでも、この 『南京安全地帯の記録』には、決定的に重要なことが書かれていた。「重慶の国際問題委員会の主宰のもとに作成された」Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chunkingという開巻劈頭の一文がそれである。中華民国の公式見解――それが『南京安全地帯の記録』であった。決定的に重要と言ったのは、そのためである。このことも併せて付記しておく。
(東中野修道著『「南京虐殺」の徹底検証』)

 このように、『南京安全地帯の記録』(“DOCUMENT OF THE NANKING SAFETY ZONE”)は、南京攻略戦直後に何が起っていたかに関する、当時の中国政府が認めた外国人による記録です。当時南京に残留した外国人が何を目撃したかについての、中国側の主張と言い換えることもできます。
 つまり「外国人が見た南京事件(南京大虐殺)」とは本来『南京安全地帯の記録』を超えるものではなく、また『南京安全地帯の記録』に書かれていることは中国側の主張する南京事件(南京大虐殺)であって、決して公正な第三者の残した、客観的な記録とは言えないということです。
 ではそれがどのようなものであったか、『南京安全地帯の記録』から第4号、第9号、第10号、第11号、第28号、第38号、第42号、第50号を抜粋して検証してみましょう。

[註]テーブルの右列・青字[数字]は私のコメントです。

第四号 福田氏への手紙
第四号 福田氏への手紙
                一九三七年十二月十五日

謹啓

 南京安全地帯国際委員会は武器を投げ捨てた兵士達の問題で大変因っております。国際委員会は当初から安全地帯に中国人兵士が全くいないよう努力し、この点では十二月十三日月曜日の午後まではかなり成功していましたが、十三日に兵士数百名が北側境界を通って安全地帯に近づいたり或いは入って来て、私どもに救助してくれるよう訴えました。国際委員会は兵士達に保護できないとはっきり言いました。しかし私どもは兵士達がもし日本軍に対する一切の抵抗を止めて武器を捨てるなら、日本軍は温情ある扱いをするであろうと思うと言いました。
 その夜の混乱と慌ただしさの中で、国際委員会は武装解除された兵士達[1]一般市民から分離しておくことができませんでした。とりわけ兵士達の中には軍服を脱ぎ捨てた者がいたからです。 [1]武器を遺棄しただけでは武装解除とは認められない。
 敵軍に武器を引き渡し、それ以上武装が無いことを確認されて初めて武装解除となる。
 国際委員会は兵士と確認された者達を法的資格を満たした戦争捕虜であると完全に認めるものです[2]。しかしそれらの武装解除された兵士達の取り扱いにおいて、国際委員会は日本軍が市民を巻き添えにすることなきよう最善の注意を払われるよう希望いたします[3]。さらに国際委員会は日本軍が捕虜に関して認められている戦争法規に従い、また人道上の理由から寛大な処置をこれらの元兵士に取られるよう希望いたします[4]。元兵士達は労務者としてお使いになれば大変役立つでしょうし、可能なら喜んで市民生活に戻るでしょう。
                          敬具

ジョン・H・D・ラーベ
        委員長
[2]国際委員会にそんな権限はない。

[3]市民を巻き添えにしているのは中国軍の方であり、便衣兵が市民を巻き添えにするリスクを国際委員会は認識していた。

[4]元兵士ではなく、兵士。
 投降せずに逃走・潜伏を選択しているのだから、敵対の意思を持ち続け、敵対行為を継続中ということになる
第九号 日本大使館への手紙
第九号 日本大使館への手紙
(原注)(訳注本号文書の末尾にある)
[引用に当り原文固有名詞を省略]

                 一九三七年十二月十七日
拝啓
 昨日午後の岡崎勝男総領事の「国際委員会は何らの法的地位を持っていない」との言明に対しては、我々の立場を少々説明しておくのが適切だと思う。日本当局に対して我々は何ら政治的地位を要求してはいない。しかし、十二月一日、南京市の馬市長は事態急変のために市政府の殆ど全ての機能を国際委員会に委託した[1]。警察、必需施設類の管理、消防、住居規制、食糧供給、衛生などである。その結果、十二月十三日月曜日正午、日本軍が勝利者として本市に入城した時、本市において機能していた行政組織は唯一つ、我々の委員会だけであった。勿論、その権限は安全地帯の外に及ぶものでなく、安全地帯の中においても統治権を含むものではなかった。[2]




[1]ラーベ日記には11/28付ローゼンの報告として、
『「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、「そのときは日本人がすればよい」というものだった。』(ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編 平野卿子訳『南京の真実』)
と書かれている。これは、行政権は占領軍が行使するという当たり前の認識を国民党政府(軍)が有していたことを示している。
[2]国際委員会は行政組織ではなく、自治組織ですらない。 国民党政府及び南京市政府に対する民間の協力団体でしかなく、一切の法的権限は備わっていない。 もし国際委員会が行政組織だというなら、一体誰に対して責任を負っており、不祥事があった場合どのような形でその責任を果たすというのか
 現に国際委員会は敗残兵の非武装地帯侵入を阻止できなかったという重大な失態に対して、何の責任も取っていない
 我々は唯一つの行政組織であった[3]、また上海の日本当局から安全地帯に兵士がおらず、また軍事施設がなければ、日本軍は安全地帯を意図的に攻撃することはないとの確証を得ていたので、我々は直ちに日本軍先遣隊と接触すべく努力した[4]。十二月十三日午後、一名の日本軍の大尉が一群の兵士とともに漢中路で休息しているのを見かけた。我々は安全地帯の位置を彼に説明し彼の地図にその印をつけた。我々は三つの赤十字病院について彼に丁重に注意を促し、武装解除された兵士のことも話した。彼は分かったと肯いていたので、我々はこれで日本軍に全てを諒解してもらったと思った[5] [3]これは政治的地位の要求に他ならない。
[4]安全区の非武装化に関して、国際委員会は重大な背信行為を行っている。
[5]この「日本軍大尉」は安全地帯の境界と病院の場所と武装を解除したと称する敗残兵の存在について分かったと言っているに過ぎない。
 国際委員会の主張が認められたと考えるのは都合の良い思い込みでしかない。
 その夜と翌朝早く、我々は十二月十四日付けの書状を作成し、日本語に翻訳させた。日本帝国大使館員福田氏が貴下に伝えるであろうが、ラーベ氏、スマイス氏及びフォースター師はこの書状を提出すべき日本軍高級将校を捜しに出かけた。我々は別々に五名の将校とも話したが、皆、翌日の最高司令官の到着を待つようにと言っていた。
 翌十二月十五日の朝、我々は本部に日本帝国大使館の福田篤泰氏及び日本帝国海軍軍艦勢多の艦長と士官達の名刺を持った関口氏の訪問を受けた。我々は前述の十二月十四日付けの書状を福田氏に手渡し、我々が電気復旧工事の開始に喜んで協力する旨を関口氏に確約した。正午、我々は交通銀行で特務機関長に会う機会に恵まれ、我々の十二月十四日付けの書状に対する正式の返事を口頭で伝えられた。機関長はその返事の中で取り分け次のようにいった。即ち、安全地帯の入口に歩哨を立てること、武具としては警棒を持つだけである限り、民警が安全地帯内を巡回して差し支えないこと、国際委員会が貯えている米一万担を使い、また旧市政府から委託された貯蔵米を他所より運び入れて差し支えないこと、電話、電気、水道設備を可及的速やかに復旧することが不可欠であることなどである。しかし、我々の十二月十四日付けの書状の第四項に対しては、一般市民は可及的速やかに各自の自宅に戻るべきであるというだけで、回答はなかった
 この返事に基づき、我々は警官に任務を遂行するように促し、一般市民には既に日本軍将校に話をしたのだから今後は酷い扱いをされることはないと安心させ、米の運搬を開始した。しかし、その後、西洋人の同乗なしで路上に出たトラックは全部徴発されてしまっている。(我々の指示で働いていた)紅卍字会が安全地帯内にあった死骸を片付けるために火曜日午前にトラックを動かしたところ、トラックは実際に取られたり取られそうになったりして、昨日現在で作業員十四名が連行された。我々の警官は妨害を受け、昨日、司法部に詰めていた者五十名が日本軍当番将校の話では「殺されるために」連行され[6]昨日午後には私どもの「志願警察官」四十六名が同じように引っ立てられて行った(この志願警察官は安全地帯内で処理すべき仕事の量が昼夜勤務の正規の制服警官の手に余るように思えたので、国際委員会が十二月十三日に組織したものである[7]。「志願警察官」は制服を着ていなかったし、武器は一切携帯していなかった。ただ、彼らは委員会の腕章をつけていただけである。言うなれば、人だかりの整理、清掃、応急処置などの手伝いの雑用をする西欧諸国にいるボーイスカウトのようなものであった)。十四日、日本兵達が我々の消防車四両を徴発し、運送に使っていた[8]



[6]第10号文書に詳細。

[7]12/12〜12/13には大量の敗残兵が安全区に流入している。このような状況下で志願警察官が組織できたのか。志願者の中に敗残兵が混じっていなかったのか。
 この警察官摘出の事例はエスピー報告やコヴィル旅行記には出てこない。その代わり、エスピー報告・コヴィル旅行記には電力会社の職員連行・処刑の話が出てくる。エスピー報告における犠牲者数は43名で、この事例の46名と規模がほぼ相応する。

[8]消防車両すら運送用に徴発しなければならない状況下で、私的な略奪にトラックを使えたはずがない。
 火事が起こって困るのは敗残兵よりも日本軍の方である。(宿営用の建物、宣撫工作に不都合が生じる)
 貴大使館及び日本軍に是非とも理解してもらいたいのは、日本当局が本市における諸機能を遂行する新規市政府なり他の機構を確立するまでは、我々が南京市一般住民のために市政府の業務を履行するように委ねられているという点である[9]。しかし、不幸にして、貴国兵士達には我々に安全地帯の市民のために秩序とサービス業務の維持を引き続き行わせようという気持がない[10]。そのために、我々が十二月十四日の朝まで担ってきた秩序の維持と必要業務の提供を行うための仕組みが壊れてしまった[11]。言い換えると、貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが[12]、そこでは流れ弾の砲弾による被害は殆どなかったし、全面退却中であっても中国兵達による掠奪もなかった[13]。貴方達がこの地区を平和裡に掌握し、安全地帯以外の南京市の残りの地域の治安が確保されるまで、その中で日常生活を平穏裡に続けさせる舞台は貴方達のためにしっかりとでき上がっていた[14]。そして南京市は完全に普通の生活を始めると思われた。この時本市に滞在していた西洋人二十七人全てと中国人住民は十四日、貴国兵士達が至る所で行った強盗、強奪、殺人の横行に全く驚かされたのであった[15] [9]占領地の行政権は、文民の行政機構を再建するまでもなく、占領軍に属する
[10]国際機関の圧力も無いのに、友好関係にない第三国人に占領地の行政を任せる軍隊は、常識的に存在しない。
[11]敗残兵の流入を阻止できなかった時点で、秩序を維持していたとは言えない。
[12]安全区外に市民はいなかったことの最大の根拠といえる。
 尚、市民が安全区に集中していたのであって、市民以外の中国人(=敗残兵)が安全区外に潜伏していた可能性を排除するものではない。
[13]ダーディンの報道やエスピー報告と齟齬を来している。
 12/17ダーディンの記事には、12日に中国兵が市民から服を剥ぎ取っているのを目撃したと書かれている。
[14]日本軍のためでは全く無い。国際委員会の影響力のない安全区外の元の住居へ市民を帰還させることが日本軍の方針であり、日本軍と国際委員会の利害は対立していた
[15]ここでも日本軍の不法行為は12/14に始まったと主張されている。
 しかし、12/14は午後になってようやく市街戦が終結した状態であり、城壁外では戦闘が継続中で、全軍兵士は敗残兵掃討にフル回転していた。そのような状況下で、任務を離れて私的な略奪や強姦を働く時間的余裕などあったはずがない。
 我々の抗議の書状で求めているのは、貴方達が部隊の秩序を回復し、本市の通常生活をできるだけ早く元に戻すことである。後者の過程で我々は喜んでできる限りの協力をしよう。しかし、昨夜も、午後八時から九時の間に国際委員会の西洋人職員及び会員五名が状況視察のために安全地帯を巡回した際、安全地帯内部にも各入口にも日本人警備兵は唯の一人も見掛けなかった。我々の警官は、昨日脅しを受けて連行されたので、街路上から一掃されていた。我々の目に入ったのは安全地帯の路上を二、三人の徒党でうろつく日本兵達の姿だけであったのであり[16]、そして今は、敢えて述べるが、この統制されていないうろつき廻る兵達が犯す掠奪、強姦の報告が安全地帯のあらゆる所から続々と入って来ている[17]。これは、私どもの昨十二月十六日付けの書状第二項で述べた、入口の歩哨がこれら兵士を安全地帯に入れないようにすること、という要求に対して何の措置も講じられていないことを示すものである[18]

[16]敗残兵掃討が完了していない占領したばかりの敵地を、夜間、たった二、三人で、友軍の援護のあても無くうろつくなど自殺志願者か頭のネジが緩んでいるとしか思えない。
 目撃したことが事実であったとしても、それが本当に日本兵だった可能性は極めて低く、中国兵の変装だったという方が余程説得力がある。

[17]まともな目撃者は皆無に等しい。

[18]敗残兵掃討が完了していない占領したばかりの敵地で、夜間、敵国人の為に歩哨を立てることを要求する方がおかしい。 それでも掃討が一段落した後、歩哨は配置された。
 従って、安全地帯の秩序推持の業務を貴国当局に引き渡すための第一歩として、我々は以下の事項を提案する。[19] [19]占領地の秩序維持は占領軍の権利であり義務であって、私的な団体に過ぎない国際委員会には要求する権利も提案する権利も無い。
一、日本帝国陸軍は掠奪、家屋侵入、婦女暴行、拉致の現場を見つけられた兵士を逮捕する完全な権限を持って昼夜を問わず安全地帯を巡察する正規の憲兵隊の制度を立ち上げること。
二、日本当局は前中国南京市政府から私どもに委託された中国人警官四百五十名を引取り、彼らを組織して市民の間に安寧と秩序を維持すること(この秩序が安全地帯の中で乱れたことは一度もなかった[20] [20]非武装地帯であるはずの安全区内に敗残兵の流入を許している。
 それどころか、国際委員会の委員長が中国軍の幹部を匿っていた。
三、昨日および昨夜の本市における火災の件数から見て、もっとも幸いにして安全地帯では皆無であるが、消防部を貴方側で再組織し、貴軍兵士達に取り上げられた消防車四両をその新組織に返すこと。
四、できるだけ早く都市行政の専門家を南京に連れて来て新しい市政府が設立されるまでの間、市民の生活を管理すること(安全地帯には警官と消防士、それに事務員三名の他には旧市政府で残った者は皆無である。他のものは全員本市から退避した。貴国軍は南京市の土地建物という形骸と住民の内の貧困層だけを掌握したのであって、訓練された知的な活動的な人々の殆どは遥か西方に移動してしまっている)。[21] [21]都市行政については国際委員会も素人集団でしかない。
 重ねて念を押すが、我々は旧南京市政府から委ねられた半ば行政的な業務を続けて行うことに何の関心もない[22]。日本側ができるだけ速やかにこれらの業務を引き受けいただくよう心より希望する。そうすれば、我々はたんなる救済組織となるであろう。 [22]関心が無いと言いながら、交換条件を提示して安全区内の実権を放棄することを拒否している
 過去三日間のような掠奪行為[23]が続けば、救済問題は一挙に倍増する。我々はそれができる家庭は皆住居と食事の手配は各自行うべしという前提で安全地帯を設立した。我々のような臨時の組織に突然降りかかってきた行政の重責を減らすためである。しかし、現在の状況が続けば、数日の内に我々は飢えに瀕した多数の人々を抱えることとなり、各家庭の食料と燃料の蓄えは底をつくこととなり、金、衣料品、日常必需品は多くの人々からうろつきまわる日本兵達に奪われ、人々は店を開けるのも路上に出るのも怖がっているので、普通の商売も他の何の活動もほとんどできないこととなろう。一方、十二月十四日の朝以来、我々の供給用トラックは事実上立往生している。貴国部隊が本市に入城するまでは、我々は食糧を安全地帯に持ち込むのに専念し、配給は後でするつもりでいた。住民には一週間分の食物を持参するように言っていたからである。しかし、難民収容所を食糧のないまま一日以上ほおっておくわけにはいかないので、我々職員や委員会の西洋人メンバー達は米袋を夜個人用乗用車で数ケ所の収容所に運ばざるをえなかった! [23]問題になっているのは殺人でも強姦でもなく略奪行為だと言っていることになる。
 殺人や強姦がそれほど深刻であるなら、食糧の配給の心配どころではない。
 このようなサービスが早急に行われないならば、人々が飢えに瀕するのに加えて、人心の動揺が起こることになる。一晩に五回も自宅に侵入され、物を奪われ、婦人を犯された家庭が幾つかある。そんな人達が翌朝になって動き出し、もっと安全な場所を求めたとしても少しも不思議ではあるまい。昨日の午後、貴国軍兵站部門の将校三名が我々に電話回線復旧の援助を求めていたその間にも、私どもの記章を付けた電話工事人数名が安全地帯にある自宅から追い立てられ、今は安全地帯内の私どもも知らない数ヶ所に散らばっている[24]。こんな恐怖状態が続くようでは、必須不可欠のサービスの復旧を行う作業員を配置につかせるのは不可能同然である。本市駐屯の日本兵の間に規律が即刻もどらないかぎり、二十万中国市民の多くに襲い来る餓死をどうやって防ぐのか、見当はつけにくい[25]

[24]エスピー報告・コヴィル旅行記には電力会社の職員連行・処刑の話が出てくるが、ここでは電話工事人が自宅から追い立てられた、とされているだけで、連行されたとすら書かれていない


[25]日本軍占領下の南京において、市民の間に餓死が発生したという記録は無い。軍事裁判の証言にすら知られていない。
 つまりここで述べられている理屈に従うと、日本兵の規律は即刻戻ったということになる。
 本市の市民を保護するに当たり、我々はできる限りの協力をするのに吝かでないことを改めて申します。

                            敬具
ジョン・H・D・ラーベ
委員長

原注 福井清氏二等書記官の配慮を請うとしてある。

添付書類(原注 入手した資料の中にない)
 中国語で書かれた説明
 中国語で書かれた規則

追伸 昨日正午以降の安全地帯内における日本兵の不法行為の事例は後刻提出いたします。
第十号 日本大使館への手紙
第十号 日本大使館への手紙
一九三七年十二月十八日
[引用に当り原文固有名詞を省略]
拝啓
 再びご迷惑をお掛けするのは残念ですが、我々が面倒をみようとしている二十万人の市民の苦しみと困惑のために、貴軍当局が安全地帯を徘徊している日本兵の現在の無秩序を停止する行為を取られることを緊急に要請せざるをえないのであります。
 現在タイプで打ち切れない程持ち込まれる個々のケースについて詳述する時間も場所もありません。しかし昨晩我が委員会のベイツ博士は、家にいれば襲われるのを理由に昨日逃げ込んで来た千人の女性達を保護するために[1]、南京大学寮に泊まり込みに行きました。憲兵隊はそこにはおらず、また新大学図書館にもおりませんでした。午後八時にフィッチ氏とスマイス博士がW・Pミルズ牧師を金陵女子学院の校門近くの部屋で泊まらせるために同大学に連れていきました時(このことは十四日以来我々のうちの誰かが、一人或いは数人で三千人の婦人や子供達を保護するためにずっと行ってきたことであり、昨日はパニックのため四千人にまで増えていました)、我々は捜索隊に手荒く捕まり、一時間以上拘留されました。士官は金陵女子学院のミニー・ヴォートリン嬢と陳女史とその友人トワィネム女史とを捕まえ、校門に並ばせ、そのまま寒気の中で彼女らをそこに留め置きました。兵士連は彼女達を周りから荒っぼく押したりしていました。士官は大学構内に兵士(訳注 中国兵)がおり、それを探し出して射殺するのだと言い張っていました[2]。最後に士官は我々を帰らせましたが、ミルズ牧師が構内に留まろうとするのをどうしても許さず、我々が立ち去った後そこで何が起こったのかは知りません

[1]「一晩で強姦千件」の元ネタはこれか?












[2]実際に敗残兵が摘出されている。
「第二十八号 王新倫事件についての会談の密書」
 このことは十二月十六日に司法部の建物から男達の連行が行われことと繋がっており(別の「覚え書き」参照)、その中にははっきりと民間人と分かる数百人がおり[3]、また制服警官五十人も含まれていました。これらを合わせて考えると、この状況を打開すべく何らかの手が打たれない限り、我々の安全地帯の全ての民間人の生命は捜索隊の隊長の気分の儘にどうにでもなると認めざるを得ません。 [3]何を根拠に民間人と判定したのか。
 国際委員会がその場にいた民間人の顔を全て知っているか、あるいは敗残兵の顔を全て知っていたのでない限り、「はっきりと民間人と分かる」等と断言できるはずがない。
 女性達の間でパニックが起こって、彼女らは今や保護を求めて千人単位で我々アメリカの施設に集まってきて、男性達はいよいよ孤立しつつあります(例えば古くからの小桃園語学校では十六日までは六百人の人々がいましたが、十二月十五日の夜に余りに多くの女性がそこで強姦されたので、結果二百人の男性を残して四百人の女性と子供が金陵女子学院に移りました[4])。これらの公共施設の諸建物は元々三万五千人を収容する能力がありましたが、女性達の間でパニックが起こったので収容人数は五万人まで増えました。もっとも司法部と最高法院との二つの建物には男性はいまはおりませんが。



[4]二百人の男が一緒にいた建物で「余りに多くの女性が強姦された」のか。
 もしこのパニックが続くなら、我々の住居の問題は益々深刻になるのみならず、食糧問題と労働者を見つける問題もまたその困難さは深刻に増大するでしょう。今朝貴大使館の代表の一人であるK・菊地氏は発電所のために必要な人夫を探しに我々委員会に来ました[5]。我々は、我々が何をするにも我々自身の人夫を確保することすらできないと答えざるをえなかったのです。現在我々委員会とその職員の西欧人メンバー達は米と石炭とをトラックで運びこの沢山の人々に届けていますが、それしかできないのです。我々の食糧委員はこの二日間家の外へ出るにも出られません。我々の住宅委員会の副主任は漢口路二十三号の自宅で昨夜食事中に、家族の中の二人の女が日本兵に強姦されるのを見なければなりませんでした。我々の食糧補助委員ソーン氏(神学教授)はトラックで米を運ぶので、南京神学校に収容している家族ごとに集まった二千五百人の人々の世話ができず、この人々は自分で自分の面倒をみなければなりませんでした。昨日白昼、神学校の数人の女性が、男女の大人や子供で満員の或る大きな部屋の真ん中で強姦されました[6]。我々二十二人の西欧人は二十万の中国市民を食べさせ、夜も昼も保護することなぞできません。それは日本当局の義務なのです。もし貴方がたが彼らの安全を護ることができれば、我々は彼らに食事を与えることができるのです。

[5]ここでも、シールズの家(会社)に避難していた発電所の職員の連行・射殺の話は出て来ない。
 連行されたという指摘すらない。





[6]成人男性も多数いたであろう大部屋の真ん中で強姦が行われたというのか。
 第十号文書の日付は12/18であり、「昨日白昼」ということは、入城式の最中か、その準備中ということになる。
 衆人環視の中で日本兵による強姦が起こり得るような状況ではない。
 尚、洞富雄『日中戦争資料9 南京事件U』では「女、子供で満員の」と訳されているとのこと。(冨沢繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』53頁)
 別の問題がこの安全地帯を探索している日本の士官達の心にあります。それはこの地帯が「平服の兵隊」で一杯だと彼らが信じていることです。確かに我々は数度にわたって十三日の午後、武装解除されて[7]、安全地帯に入った中国兵士がいることは貴方がたに通知しました。しかし今はこの地帯に武装解除された中国兵のグループは全くないと確実に保障することができます[8]。貴国の捜索隊が彼らの全部を多くの民間人を道連れに連行しつくしたのです。 [7]武装を遺棄しただけでは武装解除とは言えない。ましてや、武器を隠匿した者を武装解除された兵士とは呼ばない。

[8]これが事実でないことは、この文書の文責者であるラーベ自身が良く知っていたはずである。ラーベは自宅に中国軍の幹部を匿っていた。
 全ての関係者の利益のため、我々は次の如き建設的提案をさせていただきたく思う。
一、兵士の統制
 1 昨日の要求と同じく安全地帯を憲兵が昼夜通じてパトロールすることを繰り返し要求します。
 2 十二月十六日の我々の手紙で我々は夜徘徊する兵士を締め出すため歩哨を安全地帯の入り口に立てることを要求しました。これは未だなされていません。そこで我々は兵士が民間人を強盗、強姦、殺害するのを、特に兵士達が兵舎に入っている筈の夜間[9]にするのを防ぐために、日本軍が何らかの手段を講ずることを希望します。 [9]ラーベの指摘するとおり、日本兵には夜間行動の自由がなかった。
 一部の犯罪者が兵営を抜け出すことはあっても、多数の日本兵が夜間に徘徊することなどあり得ない。
 3 全般的秩序が兵士の間に回復されるまでは、どうか我々の比較的大きな十八ヶ所の難民収容所の各人り口に歩哨を立てて下さい。さらにこの歩哨には兵士達が収容所の建物の壁を乗り越えて侵入するのを防ぐことに責任がある事を指示してください。
 (附録「難民収容所」リスト参照)
 4 我々はまた丁重に次のことを要望します。日本語の布告文をこの収容所の各々に張出し、収容所の性質を説明し、日本兵に対してこの哀れな人々を苦しめないよう命令して下さい。
二、捜索
 1 我々の難民収容所は貴捜索隊の将校から誤解を受けているので、我々は以下のことを提案します。即ち今日我々は喜んで日本軍の高級将校一人を我々の住宅委員の一人が案内しますので、十八の収容所の各々に出向かれ、日中収容所を見ていただきたいのです。
 2 安全地帯には非武装の兵士のグループは存在せず、安全地帯では未だかつて一度も狙撃はありませんでした。さらに避難民収容所も民間の家屋も共に日本軍によって幾度も捜査が行われましたが、その度毎に多くの掠奪と強姦が行われました。これを理由に我々は敢えて申上げたい。即ち日本軍が安全地帯において元中国兵が隠れるのを許すまいとの希望は今後前記の憲兵隊のパトロールによって達成可能なのであります、と[10] [10]安全地帯に中国兵が潜伏しているのを知っている上での発言だから、この発言は日本軍に虚報を伝え中国兵の潜伏を補助するものと言える。
 占領地におけるこの様な行為は戦時叛逆に該当する。
 3 我々が上の提案を敢えてしましたのは、もし一般民間人を二、三日そのままほって置けば、彼らは必ず安全地帯において普通の日常生活を取り戻し[11]、食糧と燃料とが運ばれ、店が開かれ、労働者達が仕事を探しに現われると我々が心から信じているからです。これら労働者達は電気、水道、電話などの基本的な業務の開始を助けることができるのです。 [11]日本軍は「人々はできるだけ速やかに各自の自宅に戻るべきである」と言明している(第6号文書)のであるから、この発言は日本軍の占領方針に真っ向から逆らうものと言える。
三、連行された警官
 昨日我々は、五十人の制服警官が司法部から連行され、四十六人の“志願警官”も同じく連行された事実に貴方がたの注意を喚起しました。今日我々は、最高法院に駐在していました制服警官のうち四十人もまた連行されたことを付け加えねばなりません。彼らの連行に対する罪状は、司法部で発表されたものが唯一であります。即ち司法部が日本軍に一度捜索された後、その中国兵をそれら警官がその中に引き入れたので、従って彼らは銃殺されるべきだと日本の士官は言うのです[12]。添付しました「司法部における事件に関する覚え書き」に指摘してあります通り、我々委員会の西欧人メンバー達は、日本兵によって居住地から追出された若干の男女の民間人を地帯の中に入れましたことに対しては全面的な責任は取るものです。






[12]警察官は交戦者資格の無い非戦闘員であり、その警察官が敗残兵の逃亡幇助という敵対行為を行ったのだから、国際法上は山賊や海賊と同じく法の保護を受けない敵対者となる。
 昨日我々は安全地帯警備の制服警官四百五十人を日本管理下における南京市の新しい警察力として組織されねばならないと要望しました。同時に我々は、前述の九十人の制服警官が警官としての彼らの地位に復帰でき、また四十六人の志願警官も働き手として我々の事務所に帰ることができるか、或いは彼らの居場所を我々に知らせていただけるものと信じております。我々は安全地帯に配置されていた制服警官450人の完全な名簿を持っており、この作業の手助けができます。[13]



[13]「志願警官」の名簿は無いのか。
 もしそうだとすれば、国際委員会は彼らの素性を知らぬまま雇入れたことになる。
 私は、我々のこのような提案を敢えてする失礼をお許し頂けることを確信しており、かつまた当市の民間人の福祉のため我々があらゆる面で喜んで協力する用意のあることを確約いたします。
                               敬具
H・D・ラーベ
委員長

原注 福井清氏二等書記官の配慮を請うとしてある。

同封した物
 「司法部における事件に関する覚書」
 「安全地帯の避避難民収容所リスト」
第十一号 司法部における事件に関する覚書
第十一号 司法部における事件に関する覚書

 十二月十六日の朝、一将校のもとの日本兵の一隊が司法部に来て、そこの人々の大部分を銃殺すべく連行するといった。少なくとも銃殺するとは将校が言った言葉である。彼は、警察署長を酷く手荒に扱った後、全警官を連行して立ち去った。その数は恐らく五十人であった。何故ならばそれがその駐屯所に割り当てられた人数であったからである[1]


[1]第11号文書では志願警官46人がカウントされていない。
 これより二日前の十二月十四日、一人の日本将校が司法部にやって来て、その人員の半数を調べた。その中から約二百ないし三百名を中国兵だと主張して連行し、三百三十名を民間人と認めて残した。この半数の人員の最初の調査は大変注意深く行われた。この日将校が調査しなかった残りの半数は建物の別の区画に入れられ、将校は翌日即ち十二月十五日に戻って来て彼らを取り調べ、その中に中国兵を発見すれば、それは余所へ移すと予告した。ところが翌十五日には選り分けする将校は一人も来なかった。しかし十六日になって或る将校がやって来て、十四日の最初の調査で全ての兵を連行し終ったと言い、十六日にこのグループ(それには未だ調査し終っていない例の半数が入っていたが)の中に中国兵が入っているのを発見したのは、警察と我々委員会とが最初の調査の後にその建物の中に兵士を入れたのだ、と将校は主張した。
 このグループに我々が加えた人は日本兵により住居から追い立てられた多数の民間人だけであり、彼らは大学病院のマッカラム氏と国際委員会のM・S・ベイツ博士により司法部に連れて来られたのである[2]日本側が十六日にグループの中に中国兵を発見したのは、委員会がグループの中に中国兵を入れたためではなく、日本兵が十五日に計画通りグループの半数を調査しなかったがためである[3] [2]それらの人々が本当に民間人かどうかを知るのはマッカラムとベイツのみ。マッカラムは手紙の中で、中国兵を匿っていたことを告白している。
[3]中国兵を匿っていた言い訳にはならない。
 安全区には中国兵を入れないのが設立時国際委員会の出した条件であり、警官は兵士の侵入を阻止する任務を負っていたはずである。
 十六日朝の事件の全体は大学病院のジェームス・マッカラム氏と国際委員会所属でかつ住宅委員であるチャールス・リッグス氏によって目撃されていた。この過程で将校は刀で三度リッグス氏を脅し、最後に拳で彼の胸を二度激しく叩いた。リッグス氏がしようとしていたことは、民間人が元兵士と間違えられるのを防ぐために前に述べた状況を将校に説明しようとしただけであったにもかかわらずにである[4]

ルイス・S・C・スマイス
書記
一九三七年十二月十八日

[4]客観的に見れば、日本軍の作戦行動に対する妨害行為となる。
第二十八号 王新倫事件についての会談の覚書
第二十八号 王新倫事件についての会談の覚書

一九三七年十二月三十一日二時三十分
出席者
C・Y・徐博士 住宅委員長
呉国珍氏 第六区住宅主任
M・S・ベイツ博士 南京大学緊急委員会委員長
ルイス・S・C・スマイス博士 国際委員会書記

一、徐博士は、彼は地区主任に対しては責任を持つものではなく、地区主任が配下の人々を任命したものであることを指摘した。
二、第六地区主任の呉国珍氏はこの男、王新倫をよく知らなかった。が、彼らは同郷であり、王が住宅委員のスタッフになってから知り合うようになった[1]。養蚕館の元責任者は呉の父親が任命したが、名を則賢といった。彼はあまり有能でなかったので、王新倫に彼を助けるよう依頼した。 [1]呉国珍が王新倫を知ったのは、王が国際委員会の住宅委員のスタッフに加わって後のことであり、それ以前には知らなかったということである。
三、呉氏は王が南京市警察の警部であったことは知っている[2] [2]王が住宅委員のスタッフになるまで、呉は王のことを知らなかったのだから、これは呉が王の口からそう聞いた、というだけに過ぎないものと考えられる。
四、則賢が王に嫉妬し、憲兵隊にこのことを通報した。則賢は今も養蚕館にいる。
五、呉の言うには他の四人が銑を埋めた。王は兵士に対し、この四人が銃を埋めたと説明した。
六、ベイツ日く、中国語の書類に署名をした男が言うには、このことが起こる前にリエンチャン大尉がおり(呉はルーチャン大佐だと主張)[3]、金銭問題でこの元大尉と王との間にトラブルが起こった。後にこの元大尉は日本軍の仲間となり[4]、昨日養蚕館から妻を引き上げさせた。「田中氏は、昨日私(ベイツ)に王もあそこで強姦をしていたと言った」。呉は王が強姦したことは否定した[5] [3]いずれにしても、中国兵が潜伏していたということに他ならない。
[4]中国兵同士の密告により事態が発覚したことをベイツも認めているということになる。
[5]他の中国兵が強姦したことは否定しなかった、ということになる。
七、徐博士がこれに対する我々のとるべき態度を問うた。ベイツの意見では、もし王が元兵士なら我々は介入できない[6]。軍隊の問題である。彼はよそ者としてここへ来た。しかし、二人の使用人については我々(南京大学委員会)は身元を引き受け、他の者達はこの件に関係した難民達を含めて喜んで身元を引き受けた。 [6]呉国珍は王新倫のことを南京市警察の警部だったと言っているが、ベイツは王が中国兵であることを否定できなかった。
八、徐博士は日本大使館に報告のために出かけた。

L・スマイス
第三十八号 国際委員会本部に対する捜査に関する覚書
第三十八号 国際委員会本部に対する捜査に関する覚書

 一九三八年一月十一日午後二時頃、私が寧海路五号の本部へ着いた時、日本兵達が中庭の外周を取り囲んでおり建物にも多くの兵士達が居るのが見えた。フランス語を話す責任者の日本軍将校の言うには住宅委員会第六区の晏氏が数日前にここに持ち込んだ衣類一包みを探しているということであった。将校は他の部屋部屋を捜査し、フィッチ氏の事務室の鍵が来るのを待っていた。召使がフィッチ氏の事務室へ鍵を持ってくると、我々は全員フィッチ氏の事務室に入り、将校が探している衣類の包みを見つけた。将校は私に供述書を要求した。供述書の写しをここに同封する。

                南京一九三八年一月十一日
 中国服一包みが晏氏によって今日取り戻されたことを認めます。晏氏の供述によれば、これらの衣類は難民により掠奪されたもので、彼らから取り返して寧海路五号に所在する我々の事務室に持ってこられたものであります。
                    Chr・クレーガー

 この供述書は日本軍憲兵の面前で書かれたものであります。
                       クレーガー
 晏氏は私に包みの中身と思われるリストを中国語でくれたが、私にはそれを照合する機会がなかった。将校と兵士達は立ち去った。晏氏も彼らについて行った。
 家に居た人達に尋ねたところでは、昼の十二時半頃、日本兵がこの場所を包囲し、四、五人の兵士が入り込み使用人達に声をかけずに、またこの家の主人であるラーベ氏に断りなしに、家中を捜索したということだった。門前に居た人達が日本兵に用件を尋ねると、中国語を話す一人の兵士が悪い奴を探しているのだと言った。しかし、目指す人が誰も見つからなかったので、兵士達は立ち去った。
 午後一時三十分、同じ将校が部下達を連れて戻ってきて家を取り囲み塀を乗り越え、再び家宅捜索をした。この時もまた彼らは、この家の主人であるラーベ氏にも召使にも声をかけずに、門前でC・Y・徐博士との面会を求めた。使用人が徐博士は不在である旨伝えると、兵士の一人がその使用人に数回平手打ちを食らわせ、使用人が外国人を呼んではどうかと言ったところ、兵士達は外国人に用はないと言った。そこで居合わせた人々は自治委員会の王承天氏を呼んだ。私が午後二時にそこへ行った時、丁度王氏が着いたところだった。
 フィッチ氏の言うには、問題の包みは難民によって掠奪された[1]ので、徐博士の命令で事件三、四日ほど前に持ち込まれたとのことである[2]

クリスチャン・クレーガー
[1]略奪はほとんど全てが日本兵の仕業という国際委員会の主張に対する反証となる事例。
[2]三日間以上被害者に返却せず、日本軍憲兵にも届けていないのは何故か。合理的な説明は困難。
 フィッチが日本軍に濡れ衣を着せる為この事件を企んだ可能性は低くない。
第四十二号 日本大使館への手紙
第四十二号 日本大使館への手紙

                  一九三八年一月十五日
拝啓
 今朝、上海から無線電報を受け取りました。電報によれば、南京のために多量の補充用食料(約六百トン)を上海で用意したとのことであります[1]。我々が当地南京で貴軍当局の許可を得次第、この食料は輸送されるでしょう。




[1]1月15日の段階で、上海と無線電報が通じており、国際委員会はこれを利用できたことが分かる。南京が情報封鎖されていたというのは虚偽ということになる
 石田少佐との話合いのなかで、日本軍には南京の住民のために我々に売却できる豆類、落花生、抽、青野莱、その代用品も一切ないと彼は言っていました。この多数の住民が冬何週間も米だけで過ごすとしたら、疾病の危険性はさらに大きくなるでしょう。そこで、上海に無線電報を送り[1]、これらの補充食料を確保するための資金と手配を依頼しました。
 どうかこれらの食料品の船積み、荷下ろし、市内への運搬について、できるだけすみやかに貴国の軍当局が許可されるよう依頼していただけませんか。
 この問題についての御援助に感謝します。
敬具
ジョン・H・D・ラーベ
委員長
第五十号 南京大学における難民登録の結末に関する覚書
第五十号 南京大学における難民登録の結末に関する覚書
一九三七年十二月二十六日
 難民登録は、主に婦女子で占められた本館で始められた。軍当局者は、本館にいた比較的少人数の男子に、新図書館にいた二千人以上の男子を加えた。その結果、全部で約三千人の男子がスワジイ会館の下のテニスコート上に集められ、次のような三十分行った熱弁にこたえて、二百人〜三百人の男子が進み出た。「中国兵であった者または強制労働に従事した者は全員、後方に回ること。もし、自分から出てくれば、生命は助けて仕事を与えよう。もし、そうしないで、取り調べによってその事実が発見された場合、射殺する」。日本人将校の指示で、中国人による短いスピーチが何度も繰り返された。彼らは、これまでに、多くの人が中国兵だったという理由やまた元兵士であると誤って告発された者が陥った運命から、できるだけ多くの同胞を助けようと望んだ中国人だったのである。スピーチは、ソーン氏、リッグス氏、そして私自身にも、また南京大学スタッフである多数の中国人にも明瞭かつ完全に聞こえた。進み出た者のあるものは恐怖心から、またはこのスピーチの中の「強制労働者」という用語を誤解して考えた中国人もいた。明らかにかなりの数の人達はかつて兵士ではなかった[1]













[1]兵士ではないと判断した根拠は何か。ベイツが組織的に中国兵を匿っていたのでない限り、そんなことが分かったはずは無い。
 難民登録の実際の運営は、後に比較的慎重で分別のある者であると分かった将校達の手によって行われた。しかしながら、このことは、賞賛でもないし、またその部下達の真昼間にかつ公衆の面前でしかも将校立ち会いの下で行われた、登録手続きの際になされたひどい罪悪の責任から彼らを免責させるものでもない。その日の朝最初に先任将校が、米国の所有地で登録をやる許可を私に求めたが、これは日本軍占領の経験の中で最も驚かされた丁重なことであった。さらに、彼その他は、初期の不必要な恐怖を除くために特別な配慮をしたので、恐ろしい結果になったのにもかかわらず私は彼らの誠実さを信用する気持ちになった。さらに、兵士達は残りの男子の中から約一千人を検査のために選び出す作業を行った。しかし、将校達は一千人のうち一人を除いた全員に対し、個人尋問のために列が進むにつれ、色々な中国人から出される思いつきの「保証」をもとに、登録のために釈放を許可した[2]。この一人も、ソーン氏と私の共同の陳情によって解放された[3]。さらに将校達は、昼前、ふた皿の米料理を二百〜三百人の自主申告者の各々に対し提供するよう我々に求めたが、その分は軍の倉庫からの米で補完するつもりであった。警備を担当した普通の兵士でさえかなり親切で、殴打するよりはタバコを分け与えていた。その日の午後には、その男達は名前や職業をそれぞれ報告し、記録された。












[2]良民証交付の基準はかなり緩いものであったことが分かる。

[3]結果的に、全員が元兵士でないと認定されたことになる。
 その間に、もう一つの要素が導入されてきた。少なくともこの特別な任務のためには上位にある二人の日本人将校が追加されて取り調べに来た。彼らの一人は、これまでに行われたことに激しく不満足な態度を取った。この男は、前日南京大学を訪問した時も大変な乱暴振りと愚行振りを示し、我々は度々、彼のこの地区の憲兵の長としては邪悪な行為と粗野なやり方に出会うこととなった。午後五時頃、二百〜三百人の男子が二つのグループにされ憲兵により連行された。彼らの一人は、当時を振り返り、幾人かの友好的な警備兵の普通でない丁重さに不安を感じた、と言明した。
 翌朝、銃剣の傷を五ケ所に負った一人の男が大学病院に来た。この男は二つの出来事について明確に報告した。彼は難民として図書館にいたが、テニスコートにはいなかった――彼は路上でつかまり、テニスコートからきたグループに加えられた、と[4]。その夕方、西方のさる場所で、約百三十人の日本兵が五百人の彼と同類の捕虜の大部分を銃剣で刺し殺した{case1}[5]。意識が戻ってみると日本軍は立去った後であり、夜中に何とか這って戻った。彼は、南京のこの地域は良く知らなかったので、その場所については暖昧であった[6]。また、二十七日朝、一人の男が私の所へ連れて来られたが、彼の言うには、前夜連行された二百〜三百人のうち大多数が死に、三十〜四十人が死を免れたが、自分はそのうちの一人であるとのことである{case2}[7]。その男もまた当時実施中の登録手続き中の他の仲間も共に助けを願っていたし、かつその時私は憲兵に取り囲まれていたので、彼に「今日の登録は、女子だけに限られる。それ以上、今は何も話さないのが一番だ」と言わざるを得なかった。その後三度にわたって私はこのグループを探したが、無駄であった[8] [4]本人の主張以外、根拠は無い。一体どのような状況で捕らえられたのか。

[5]どうやって五百人という人数を知ったのか。行進する列の中から全体の人数を目算することはできない。全員が一箇所に集められ、それを見渡すことができなければならないが、前段では「二百〜三百人の男子が二つのグループにされ」と書かれている。二、三百人を二つのグループに分けながら、五百人を一塊にしていたのか。

[6]殺害現場が不明ということであり、ベイツは死体も確認していないということでもある。

[7]三十〜四十人という生存者数をどうやって知ったのか。逃げ出す最中に人数を数える余裕があったのか。

[8]三十〜四十人いるはずの生存者グループの内、発見できたのはこの男一人ということになる。
 同日及び翌日のうちに(二十七日及び二十八日)、私は次の報告を受けその間接的な報告を確かめたが、それは、連行された男の一部は五人と十人のグループに縛られ、大きい家の最初の部屋から次の部屋に、または大きな焚き火のある中庭に次々と入れられたとのことである。それぞれのグループが進むにつれ、残された人々はうめき声や叫び声を聞いたが、射撃音はしなかった。当初の六十人の中から残った約二十人は、必死に後ろの壁を突き破り逃亡した{case3}[9]。大学から連れてこられた一隊の一部は、近所に住んでいた僧侶の嘆願により助けられたといわれる(場所は五台山であることが、一部仏教徒から出された一群の間接的な報告集に明確に記述されている)。同様な話をリッグス氏から、二十六日夜早く聞いた。推測するに、同じ事件のことにしてはあまりに早すぎた。報告のこの混乱と複雑さにはがっかりさせられたし、また、その後も調査などをいくつか試みたが、毎日他の仕事や問題に忙殺されたため、成果はほとんどなかった[10]






[9]聴取元は逃亡した捕虜であり、国際委員会は逃亡した捕虜を匿ったことになる。



[10]事実が確認できなかったということである。
 三十一日、二人の男が、図書館難民収容所の信頼できる助手に自分の話を持ってきて援助を求めた。この助手は、もし希望するなら彼らを私の所へ確認のためにつれて来ると言った。一人は、自分は兵士だったと率直に言明し、彼を信頼できるのではないかという気持ちを私に起こさせた[11]。彼らは、南京大学からの二百〜三百人の男達は色々なグループに分けられた、と述べた。彼らは、彼ら自身は最初は五台山へ連行され、次いで漢西門の外の運河の土手に連れて行かれ、そこで機関銃が彼らに向けられた。彼らは倒れ、一人は負傷して、死人の中で血に塗られた。{case4}[12]

[11]ベイツが逃亡兵を匿ったことを告白している箇所である。

[12]この逃亡兵達はどうやって漢西門外から城内に戻ったのか。城門は日本兵によって封鎖されていた。
 封鎖というのは不審者を通さないということであって誰一人通行させないという意味ではないが、夜間に、返り血を浴びた負傷者交じりのグループを通行させることはありえない。
 一月三日、図書館の中にいた五人の知り合いのうちの二人の男とインタビューが持たれた。十二月二十六日に起きた事件の生き残りである[13]。彼らの一人は大学から連行された最初のグループの中におり、前記のように[14]二十七日と二十八日の五台山で起きた「部屋と火事」の件について、詳細に確認した。彼は、彼のグループの八十人が殺され、四十〜五十人が逃げたと踏んでいた。そのうちの一人は、銃剣により突かれ負傷した者だが、図書館におり、連れてきてそのことを報告させることができた{case5}[15] [13]case2のことであれば、
「その後三度にわたって私はこのグループを探したが、無駄であった」
という記述と矛盾する。
[14]case3のことか?
[15]case3では、殺害を目撃した逃亡者はいない。また、逃亡者のグループは二十人。case5の証言者は、どうやって生存者の全体数四十〜五十人と知ることができたのか。当事者が知るはずの無い全体像を小説の読者のように知っているのは、作り話の特徴。また、五人〜十人単位で縛られ、処刑されていた捕虜が、銃剣で突かれながら逃げ延びたというのは余りにも不自然。
 二番目の男は稀に見る知的な人で、話も質疑応答も両方とも明快で明確であった。彼は第二番目のグループで、ある寺院の反対にある五台山の大きな家に連行された(この場所は、かなりの確信を持って言えるが、上海絡またはそこからの路地にある二つの建物の一つであり、アメリカン・スクールの向かい側、少し南方よりの所である)。
 そこの路上で、中国人僧侶と日本人僧侶が、悲しんで祈りながら寺院への入り口で細長い紙切れを貼っているのに気がついて彼は驚いた(日本人僧侶が南京にいたという報告は全く珍しかったので、私は僧侶が日本人だとどうして分かったのか怪しんで彼に尋ねた。報告者は、彼の履物に親指のための裂け目があるからだと答えた。後で私はその報告者が天津に住んだことがあり、そこで自然にそのような知識を得たことを知った。数日後、私自ら、そのような僧侶を上海路で見た)。雰囲気が不吉なのを感じて、その男は好意的な警備兵に話しかけ不安の念を示した。その警備兵は、黙って棒で「上司からの命令」と土に書いた。私の報告者の直ぐ近くの男達は、二人一組で腕と腕を針金で縛られていた(彼はその他の人のことを話さなかった)[16]。三十人かそれ以上の人が漢中門に連行され、運河をわたった。そこで四、五人は死に物狂いで夕闇や暗夜を利用し列を抜け出し、防壁で身を守り、隠れ場所を見つけた。その男は、月齢から推定すると一時頃、北方の遠くないところで絶望的な叫び声を聞いた。彼は、夜明けに少しその方向に行くと、銃剣で刺されて列をなした死体を見た[17]。大きな恐怖の中だったが、彼は門を何とか無事に抜けることができて安全地帯に滑り込んだ。{case6}[18]









[16]その男本人は何故縛られていなかったのか。




[17]兵士でもないなら、発見される危険を冒して死体を確認するのは不自然。

[18]case4と同じく、この男はどうやって封鎖された門を抜けたのか。
 その男の報告と証言には、二点、追加する必要がある。中国赤十字の責任ある作業員は、我々に対し、漢中門の外に行きそこの多数の死体を視察するよう求めた。国際委員会のクレーガー氏は私に、早朝思い切って門外に行ったところ、これらの死体を見たが、城壁の方からは見えなかったと話した[19]。その門は、今は閉められている。最初の報告者は私にとても自由に話をした。それは彼が受けようとしていた難民登録に際してのトラブルを予感していたためである。一月七日だと思うが、南京大学構内で再び始められた公開の難民登録の時、憲兵が前を通ってゆく男達の中から選り分けた男が約十人いたが、彼はそのうちの一人だった。その週の間、実務を担当していた将校達は、一日にその位の人数の男かまたは、たぶん上官が満足するだろうと思われるだけの数の男を獲得するよう命令されているように見えた(当然、以前の軍隊勤務を自白させるやり方は実質的に終わり、難民登録の全体手順は以前のものから大きく変化していた)。いつものように、私は登録の状況をやや精細に見ようとし、また、軍隊でも担当隊員やその時の気分によっては許されるであろう範囲で、多少でも助けになろうとした。私は、この男が十人のうちの一人だと分かったので、遠回しに努力をしたがそれは失敗した。私はチャンスを見つけ、一番良い将校を連れて行き、(真実を曲げるのを大目に見て貰えることを望みながら)その男ともう一人の見込みのありそうな男は自分の知りあいだと主張し、彼らの保証人になりたいと述べた[20]。二番目の男が解放されたが、私の知人の方は駄目であった。その理由は不明で、さらなる努力を行うことは反動があってその他の人を傷つける恐れがあったため、私は思い止まらなくてはならなかった。確かではないが、結果は恐らく死を招いたであろう。

[19]この時期は城外で抵抗を続ける敗残兵の掃討が行われていた。死体があったからといって、捕虜を殺害したものとはいえない。
















[20]逃亡し再捕獲された捕虜を偽証により匿おうとしたということである。
 大学図書館からの他の二人は運河に沿って北に向かって、三●(さんずいに叉)河の近くで刺殺された数百人の一団から逃れたと間接的ながら報告している。
 最後に記憶されなければならないことは、この事件は全て二週間にわたって行われた一連のものの一つに過ぎないのであって、元兵士と正しく告発され、または誤って告発された男達の集団殺害という主題の変形なのである[21]。ここは捕虜の命は重大な軍事上の必要以外では助けられるべきであるとの国際法の金言を議論する場所ではないし、また日本軍がその法を無視して率直にそれを復讐だと言っているのを議論する場所でもない。復讐というのは現在南京を占領している軍隊の戦友を戦闘中殺したとされる人々に対する復讐のことである。他の事件はこの事件よりも多くの人を巻き込んだのもある。この事件の状況で私が特に関心を抱くのは二つある。一つは話合いの条件が大きく裏切られたことであり、これによって人々が死へと導かれたのである[22]。二つには我々の財産、職員、被保護者(難民)が恐ろしい犯罪のいろいろな段階に痛ましくも密接に関係していることである。またこの事件の殺害の方法、場所、時刻等の証拠の全て[23]、他の事例で大きな一団の男達が連行されたまま帰らず、そのため我々がそれについて知っていることが少ないものよりは豊富である。一般的に次のことははっきりしているようだ。大学から連行された男達の大多数はその夜殺され、そのうちのあるものは他の場所からのグループと一緒にされてからであったということである[24]


[21]ベイツは死体すら確認していない。






[22]国際委員会は安全区を非武装地帯だと主張していたのだから、仮にベイツの得た証言が正しかったとしても、元兵士を匿う行為の方が重大な背信行為と言える。

[23]証拠と呼べるものは皆無である。

[24]自称証言者の証言のみで、城内では死体が全く確認できていない。城外の死体は、城外で掃討された敗残兵の可能性が高い。
 この数週間厳しい残酷事件が沢山あったが、なかでもあのテニスコートを通るのはつらい[25]。このドラマで様々な役を演じた将校や兵士達と交渉するのに、笑顔や恭順な態度を示しながらするのは拷問のようであった。登録のために大学へ連れてこられる数万の人達のためを考えてそうしなければならなかったのである。或る人は彼とキリスト教団体が二百人の殺害で片棒を担がされたように感じ、彼らの家族が悲惨のまっただ中にいるのが分かれば、その悲惨さに責任があるように感じるのである。将校や兵士達はどうであろうか?彼らのあるものは我々が遭遇した凶暴な悪人よりは人間的であったが、その多くには彼らも優しく接する妻子がいるに違いない。
[25]国際委員会のレポートを収録した『南京安全地帯の記録』の中で、このベイツによる第50号文書は殺害事例中、飛び抜けて「被害者」数が多い。
 ベイツがこの事例を最も深刻な被害と見做していることが、「なかでもあのテニスコートを通るのはつらい」という表現からも分かる。
 つまり、ベイツの認識する南京大「虐殺」とは、便衣兵の処断のことと言える。
 なお、日本軍の記録では、市内で摘出された便衣兵2千は捕虜として収容されている
                         M・S・B
一月二十五日書かれた。十二月三十一日に準備された情報の草稿と、また一月三日に作られた注によって書かれた。

 冨沢繁信氏は『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』の中で、国際委員会の抗議文書についてこのように書いています。
・・・・『南京安全地帯の記録』は日本軍と国際委員会との間に繰広げられた確執の記録であって、日本軍兵士の暴行事例は国際委員会がこの闘争を有利に導くための作り上げられた道具の一部に過ぎない。「我々国際委員会の活動は正義と人道に基づいたものであり、この活動を妨げようとする日本軍は非人道的で野蛮な集団である」これこそ彼らが『南京安全地帯の記録』によって訴えようとしたことである。加えて上海戦、南京戟に敗れた蒋介石は宣伝戦に重きを置くようになった。日本の中国における戦争は大義のない戦争であり、またその戦闘方法は野蛮残酷であると宣伝したい彼としては、この国際委員会の動きは大いに歓迎でこれを最大限に利用した。・・・・
 第9号文書を仔細に見れば、その分析の妥当性が分かります。
 第42号文書からは、南京が情報封鎖されていて何が起っていたかリアルタイムで把握することはできなかったという主張が虚偽であることも分かります。
 また、第50号文書には中国人の自称被害者証言が記載されていますが、これらの証言には当事者である当人がその事件の直後の段階では知り得なかったはずの事件の全体像を、まるで小説の読者であるかのように把握し証言しているという共通の特徴があります。
 フィクションの世界、特に推理小説の分野では、探偵がその時点で知り得たはずの無い情報を元に推理を展開しているというアラが指摘されることも珍しくありませんが、実体験の証言であれば、そのようなことは起こりえません。そのような証言はある程度時間が経過し、第三者の情報によって自分の体験を補完した後か、あるいは作り話でなければ語ることはできません。
 証言時点で知るはずの無い情報の含まれた証言に、信頼性はありません。
 『南京安全地帯の記録』は、詳細に読めば読むほど、「南京大虐殺」が如何に根拠の乏しいものであるのかを明らかにする資料と言えるでしょう。

〔 戻 る 〕