マッカラムの手紙

(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より抜粋)


[註]テーブルの右列は私のコメントです。

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・・・・このようにして、太平路の建物の六〇%以上が焼かれた。焼失価値はそれ以上である。中華路は南門(中華門)にあるわれわれの資産の所まで、ほぼ八〇%が焼失し、そこから南側は焼け残ったところが散在しているだけである。すべての商工街はだいたいこうである。
 しかし、南京は大都市なので、われわれが毎夜一件から一四件の火事を見ていても、私の計算では市の建物の八〇%が建っている。ためしに私が、通りを下って、建っている建物を実際に数えてみたら、パーセンテージはもっと高かった。しかしながら、他のものは市の半分が焼けたと私に言った。私は損失額のパーセンテージは計算しなかった。
実際に数えてみたら、建物の焼失率は20%未満だった、ということになる。
 白下路二〇九号のわれわれの施設にはまだ日本軍の一隊がいる。別の部隊が南門の女子の建物の一階に、そしてもう一隊がプロッパーの施設にいる。すべて十二日か十三日からだ。隠すのに許可をもらうなどということはできない。私は病院の防空壕に三八人以上を匿った。さらに近くの通りから数人を集めてきて許可を得ずに匿ったが、彼らのほとんどは兵士だった。そうしたのは、命の損失が明らかだったからだ。 占領地に於て、逃亡兵を第三国人が匿うことは中立義務違反であり、戦時叛逆に該当する戦時犯罪行為。
 あらゆる年齢の男性、女性、子供が、とるにたらない理由で、あるいは明確な理由もなく撃ち殺され、刺し殺されている。われわれは、彼らが何百人という集団で行進させられて行き、やがては機関銃で殺されるのを見てきたし、他の事実も彼らの運命がどうなるのかをわれわれに告げている。
 もちろん、市民服に着替えた元中国兵も多かった、しかし、かなり大きな割合の人々はそうでなく、そのことは彼らの職業や親戚関係からも証明することができた。しかし、軍隊のやりかたでは相応の判別をすることは不可能であった。個々の兵士が原告であったとしても、裁判官や死刑執行人のやるべきことはなかった。
 われわれはこのことを後から知ったのであり、話は生き残った者から聞いたのである。
「あらゆる年齢の男性、女性、子供」と言いながら、実際に目撃しているのは便衣兵として摘出された者が連行される姿のみであったことが分かる。
 われわれは良い奉仕を捧げたと感じている。私自身はかなり大きく病院に限定して係わってきたが、それはそれでかなり大変な仕事であることが分かった。
 病院は満杯状態なので、百人ほどの臨時の患者を収容するために別棟も運営した。彼らには一食たりとも欠かせなかったし、電気や水道が止まった時は、われわれは非常発電や供給で忍んできた。維持と供給の出費のためにわれわれの財源・在庫は底をついてしまい、告白すると、私自身、何回かギャングを連れて外出し、病院維持のためにある種の略奪をやったこともある
 われわれのスタッフはわれわれ宣教師を除いて完全に一新してしまった。しかし、これらの宣教師たちは仕事に従事し、あるものは昼夜を分かたず働き、素晴らしい奉仕を成し遂げている。
中国人どころか、外国人(マッカラムは国際委員会の委員ではなかったが、マギーを委員長とする国際赤十字委員会のメンバーだった)が略奪行為を働いたことの告白である。

 手紙の日付は1938年1月7日です。
 この中でマッカラムは、自分の目で確認した限り、80%以上の建物が焼けていなかったと述べています。これは他の外国人の主張と大きく異なるものであり、日本軍将兵の主張と合致するものです。
 この「マッカラムの手紙」には、自ら略奪を働いたこともある、などの表向きに出せない告白も記されており、国際委員会の抗議文書よりもこちらの方が外国人達の実感に近かったのではないでしょうか。

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