カボット・コヴィルの南京旅行記

(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』より抜粋)


[註]テーブルの右列・青字[数字]は私のコメントです。

一九三八年四月二十二日
・・・・金陵大学のM・S・ベイツ博士とスマイス博士、ともに博士号を持つ両者が南京大使館を訪れ、アリソン、エスピーと私とで夕食を共にした。・・・・
・・・・私は二人の南京での一連の経験を話し合ったが、これらはアリソンの全報告を十分に網羅し、さらに個人の経験が加味されて話をもりあげた。・・・・
・・・・秩序と規律正しい日本軍、私利私欲のない軍政当局という伝説は、中国人民の心を深くえぐりとったアトロシティーズ [1]や過ちによって、台無しとなったので、日本側の支配は中国人にとって何ら意味を成さないことに中国人自身が気づくであろうこと、そして、彼らの悲痛な思いは、日本軍を追い出すまで不断の攻撃となって続くだろうことを、ベイツとスマイス両者は確信している。・・・・
[1]「アトロシティーズ」はベイツ、スマイスの発言であって、コヴィルがそのように認識しているのではない。
一九三八年四月二十四日 目曜日 南京
・・・・午後、オアフ号の士官二人とともに、市内を車で回った。初めに、南京の主要なビジネス街地域を走った。その途上、道端で明らかに盗品と思われる商品を並べた中国人の露店を幾つか見た[1]。あるちっぽけな売店には、中古ではあったが、よく磨き込んだ大きな事務所用扇風機一二台が並んでいた。ビジネス街は黙示録を思わせる光景であった。爆撃の跡はほとんど見当たらない。しかし、個人の商店やその他の建物は略奪や火災で内部が荒らされている。とはいうものの、全域が大火災でなめ尽くされた訳ではない[2]。そこここに残存しているところがあることは、そのことを示している。・・・・

[1]中国人の露天に盗品が並んでいるということは、中国人が略奪を働いたということに他ならない。

[2]「マッカラムの手紙」にも同様の認識がある。

一九三八年四月二十五日
 南京にあるドイツの権益は、現地大使館のローゼン書記官に委託されている。彼は見るからに日本人嫌いだ[1]。ドイツ政府の対日本外交がここでの彼のドイツ利権保護に妨害となるかどうかを尋ねたところ、彼の答えは、この紛争においてドイツの公的態度は中立の対応を示しているので、中国における日本の妨害を排除して仕事を行うようなことは決してないという。
 彼日く、・・・・
・・・・日本は負ける。自らの国を戦場として闘っている中国人が野蛮な侵入者に降参するなどということは、ありえない。ゲリラがゴリラに対抗しているのだから、ゴリラが敗退するのは必定だ[1]。文化と文明のあらゆる力と共鳴とは、中国側に寄せられている。
 アリソンは、私が南京で会った人たちほどに日本の敗退を確信していないようだ。・・・・
・・・・日本兵の略奪、強姦は数週間も続いており、アリソンは大使館再開のため一月六日 午前一一時に到着したのだが、それはまだ盛んに行われていた。・・・・
・・・・形跡を見た私は完全に納得もし、議論の余地もないように思う[2]。・・・・
・・・・アメリカ人伝道団医師(宣教師)マギーは南京虐殺の映画を撮り、それは世界各地に送り出されている。彼は凶行にあまりにつよく心を奪われていたため、この間題に関しては心の平衡を失っていて話合いには無理なところがある[3]。・・・・
・・・・大使館関係者の中国人で死亡したのはジェンキンスの子供だけであった。彼の自宅を荒らす略奪者に反抗して殺害されたのである[4]。・・・・
・・・・一月六日からは食糧状況はよくなってきている。地方の農民が作物を持ち寄り、路上で露店を開いているからだ[5]

[1]ローゼンの日本に対する敵意はこちらの資料を参照されたい。

[2]強姦の「形跡」と呼べるものは自称被害者の申し立てのみ。略奪の「形跡」は略奪があったという事実だけで、それが誰の手によるものかは形跡として残らない。
 コヴィルがこういう「形跡」を元に「議論の余地もないように思う」と判断したのは、自国の外交官というアリソンの地位に惑わされた為ではないか。

[3]マギーには客観的な証言を期待できないとコヴィルは判断している。

[4]略奪者が日本兵であるという証拠も残っていないが、大使館関係者に限定されているとはいえ中国人の犠牲者が一人だけというのが、当時の実態を表しているのではないか。

[5]1月6日は良民証の交付による便衣兵摘出が完了しつつあった時期であり、便衣兵逃亡のリスクが減ったので「地方の農民」が城内で露店を開くことができるようになった、ということではないか。
 この「地方の農民」が城内の農民という意味でない限り(市民が全て安全区に集められていた状況から、その可能性はゼロだと思うが)、城外から城内への流入による人口の増加はこの時点であり得たということになる。

一九三八年四月二十五日 長江上にて
・・・・・・・・
 中華工業国外貿易協会南京支配人の英人シールズは、・・・・
・・・・南京陥落後、シールズは、約二〇〇名の社員にカードを発行し、それは尊重された。シールズの家に避難した発電所の社員三五名は、日本軍に連行されて射殺された。陥落後、数日たっての出来事であった[1]これとまったく同じ頃、市内の別の地域の日本兵のグループは発電所の操作をする人員を捜し求めていたという。・・・・
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 南京の安全区設定は失敗だった。中国民衆の保護とは名目上で、本当のところはアメリカ人、ドイツ人、富裕な中国人の財産保護のためである。安全区設定以前から中国軍は区内に大きな対空砲を設置していたし、その後も、引き続き使用していた
 私が安全区について、もう少し詳しく尋ねたところ、グループは一〇日間ほど毎日朝六時に集合したという。十一月頃だったと思う、とシールズは述べた。グループが発足した時には、ほとんどの取決めはできあがっていた。実際にはきわめて党派的なものに国際色を添えんがために彼が招請されたのは明白であった。提案されている区域に、中国人の貧民区を含むようつくられるべきではないか、と尋ねたところ、地割りの問題はすでに調査決定済みであるとだけいわれたという(シールズとスカラブ号の士官の一致した意見では、上海での難民区は、つまり固定された安全区は、中国市民の利害を考慮して決定されたものである)。初めのころ、会合には市長も参加していたが、協議の末、これは中止となり、部下だけが来るようになった。中国側はおそらく関わり合いたくなかったのだろう。
 協議の結果は、公にしようとはしなかったが、だれかが情報を漏らしたのか、たちまち難民が地区になだれ込んできた。
 戦闘期間中、中立国民自身を保護することが、普通一般の処置だと私がいうと、この場合、委員会として断言できるのは、その動機は、中国人民間人に対する人道的配慮であると言われた、とシールズは述べた。安全区は実際、アメリカ、ドイツの財産や大学、富裕な中国人の財産を含む郊外の区域に設定されていた。シールズの工場は含まれていなかった。安全区を日本軍は無視する権限を持っており、委員会の提案は日本軍にとっては軽蔑に値するような、いや、確かに軽蔑を受けたと彼は思っているような、恥ずべきものであったというのがシールズの意見であった。彼の名前がともかく委員会に連なっていたことは遺憾である、と彼は思っている。

[1]国際委員会の委員が関係者であるにもかかわらず、この事件は『南京安全地帯の記録』に収録された国際委員会の抗議文書に含まれていない。時期・人数が照合するのは警官・「志願警察官」が連行され殺害されたという抗議だけである。
 連行されたというのはあくまでも発電所復旧の作業員としてであり、射殺されたというのは国際委員会の他のメンバーがシールズに吹き込んだデマではないのか。そうでなければ、『南京安全地帯の記録』に収録されていない説明がつかない。
 またそう考えれば、日本軍の行動にも合理的な説明がつく。

 コヴィルの旅行記で印象的な部分はやはり、国際委員会の一員でありながら安全区の正当性を否定するシールズの発言です。
 安全区がラーベやベイツの言うような中国人市民保護の為の人道的な理念から作られたものではなく、またシールズはそう聞かされていたにも関わらず、本音はアメリカ人、ドイツ人、富裕な中国人の財産保護のために作られたものだとシールズは具体的な根拠(地割り)を挙げて述べています。
 また、安全区内には中国軍の陣地があり、それは安全区成立後も引き続き使用されていたこと、安全区は日本軍に無視されても仕方の無かったものであったことが国際委員会の委員の口から語られています。

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