幕府山事件

宣誓に依らざる捕虜解放に関する誤解


1.『戦史叢書』の公式見解
 幕府山事件と呼ばれる捕虜暴動鎮圧事件は、反日宣伝勢力から違法な捕虜殺害、捕虜虐殺の冤罪を浴びせられ、「南京大虐殺」の象徴として採り上げられることも多い事件です。
 捕虜殺害を強調するのは、市民不法殺害の主張を維持できなくなっている反日勢力の悪足掻き、と言えないこともありませんが、やはり、反論すべき点は反論しておくべきでしょう。
 まず、幕府山事件とはどのようなものであったのかについて、公式の戦史である戦史叢書の見解を引用します。

・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・
(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)

2.『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の日記と自称する物
 この様に戦史の公式見解においては、「幕府山事件」なるものは捕虜暴動に対する自衛発砲と明言されています。
 これに対する反日宣伝勢力の拠り所は、独自に参戦者から収集したと称する「日記」「メモ」です。
 では、小野賢二・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』より、彼らの収集した資料の中で幕府山事件がどのように「証言」されているか見てみましょう。
(引用に当り、原則として誤字と思われるものもそのままにしてありますが、日本語入力システムで対応していない記号は意訳しています。また「捕慮」の表記は非常に多い為、「捕虜」に修正しています。)

証言者 12月16日 12月17日以降
斉藤次郎 (該当無し) 12/17 (該当無し)
12/18
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気たつて居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、・・・・捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞い悲哀の情がみなぎる、・・・・
〔欄外記事〕銃殺捕虜の死体処理(十八日○時)
堀越文男 (該当無し) (該当無し)
遠藤重太郎 (10/4〜12/18の日記無し)
伊藤喜八郎 (該当無し) 12/17
・・・・その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江岸にて銃殺した。
12/18
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場でした。
 我軍に戦死十名、負傷者を出した。・・・・
中野政夫 (該当無し) 12/17
 警備。
 小隊員中××××、××××ノ両名歩哨服ム中、敵敗残兵ノタメ手榴弾ヲナゲツケラレ負傷ス。
 毎日敗残兵ノ銃殺幾名トモ知レズ。
12/18
 警備。(大隊に於テハ一万七千ノ捕虜ヲ所分ス)
 変リタル事モナシ。
宮本省吾  警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。 12/17
 本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京入城式に参加、壮厳なる史的光景を見のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまつた
 中隊死者一傷者二に達す
杉内俊雄 (該当無し) (該当無し)
柳沼和也 (該当無し) 12/17
・・・・夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
 一団七千人余揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た
新妻富雄 〔記事全文抹消されている〕 (12/17〜12/20の日記無し)
大寺隆 (該当無し) 12/17 (該当無し)
12/18
・・・・昨夜までに殺した捕リヨは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なつて居るそうだ・・・・
遠藤高明  定刻起床、午前九時三十分ヨリ一時間砲台見学ニ赴ク、午後零時三十分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同三時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シTニ於テ射殺ス。 12/17
・・・・夜捕虜残余一万余処刑ノ為兵五名差出ス、・・・・
12/18
 午前一時処刑不完全ノ為生存捕虜アリ整理ノ為出動ヲ命ゼラレ刑場ニ赴ク、寒風吹キ募リ同三時頃吹雪トナリ骨マデ凍エ夜明ノ待遠シサ言語ニ絶ス、同八時三十分完了、・・・・
本間正勝  午前中隊ハ残兵死体整理ニ出発スル、自分ハ患者トシテ休養ス、午后五時ヨリ塩規錠ヲモラー、捕虜三大隊デ三千名揚子江岸ニテ銃殺ス、午后十時ニ分隊員カヘル。 12/17
 午前九時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日一万五千名、午后十一時マデカカル、自分ハ休養ス、煙草二ヶ渡、夜ハ小雪アリ。
(休養とはマラリヤで病床にあったということ)
天野三郎軍事郵便 (該当無し) (該当無し)
大内利己 (該当無し) (該当無し)
高橋光夫 (該当無し) 12/17 (該当無し)
12/18
 ・・・・午後にわ聯隊の捕りよ二万五千近くの殺したものをかたつけた。
菅野嘉雄  飛行便ノ書葉到着ス、谷地ヨリ正午頃兵舎ニ火災アリ、約半数焼失ス、夕方ヨリ捕虜ノ一部ヲ揚子江岸ニ引出銃殺ニ附ス。 12/17
 未曾有の盛儀南京入城式ニ参加、一時半式開始。
 朝香宮殿下、松井軍司令官閣下ノ閲兵アリ、捕虜残部一万数千ヲ銃殺ニ附ス。
12/18
 朝ヨリ小雪ガ降ツタ、銃殺敵兵ノ片付ニ行ク、自分ハ行カナカツタ。
近藤栄四郎 ・・・・夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。・・・・ (該当無し)
黒須忠信  午後一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ、二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バガリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタデアロウ。
 山となつて居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒゝガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ
 ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ、××少尉殿並ニ×××××氏、×××××氏等ニ面会スル事ガ出来タ、皆無事元気デアツタ、帰リシ時ハ午后八時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。
(該当無し)
目黒福治  休養、市内ニ徴発ニ行ク、致ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、午後四時山田部隊ニテ捕イタル敵兵約七千人ヲ銃殺ス、揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。 12/17
 午前九時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、午後五時敵兵約一万三千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、二日間ニテ山田部隊二万人近ク銃殺ス、各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノノ如ス。
12/18
 午前三時頃ヨリ風アリ雨トナル、朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、南京城内外ニ集結セル部隊数約十ヶ師団トノ事ナリ、休養、午後五時残敵一万三千程銃殺ス。

 私は、これらの「日記」「メモ」の信憑性は低いと考えています。
 この時点における第65連隊の実働兵力は『証言による「南京戦史」』では約1500、『南京の氷雨』では約2200、当初捕獲した捕虜はその7〜10倍弱です。
 占領したばかりの敵地に十分な収容施設が用意されているはずもありません。
 武装解除し、非戦闘員を分別し、給養し、監視し・・・・
 このような状況下で、フルにこき使われるであろう下っ端の兵士が、詳細な日記を残せるとは到底思えません。
 せいぜい、簡単なメモ書きを残せる程度でしょう。日記といってもその実態は、後日、メモと記憶を元に再構成した手記か、あるいは全くの創作である可能性の方が高いと考えます。

 しかし、そのような疑念はひとまず横に置いて、これらの日記・メモの内容を見てみることにします。
 反日宣伝勢力が主張する幕府山事件は、12/16、12/17の二日間に跨る事件です。
 しかし、これら19本の日記・メモの中で、12/16の捕虜処刑に言及しているのは7本、その内一人は病床にあって明らかに処刑を目撃していません。
 また、捕虜処刑の理由に触れているのは宮本省吾陣中日記と遠藤高明陣中日記だけです。

 遠藤高明陣中日記は「軍命令ニヨリ」行われたと述べています。そしてその理由付として、「一日二合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能事ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシトノ命令アリタルモノゝ如シ」と書いています。つまり、16日の捕虜処刑は食糧不足によるものであり、交戦法規違反の可能性が残る捕虜殺害です。(可能性が残る、というのは、緊急避難に該当するかどうか、解放が不可能な状況であったかどうかが吟味されなければならないからです。)
 但し、遠藤高明陣中日記では「Tニ於テ射殺ス」、つまり第1大隊が処刑を実行したと書き記しています。12/21の日記には、「U本部ニ連絡兵1名自転車ニテ派遣シ、南京側ニ渡リ荷物ヲ受領渡江セシメ」とありますから遠藤高明は第2大隊所属と推定されます。つまり、遠藤高明も処刑を実見していない可能性大です。「命令アリタルモノゝ如シ」と記述されているのは、直接軍命令を受けていないからでしょう。 
(尚、阿部輝郎著『南京の氷雨』では、12/16の捕虜連行・処刑は第2大隊によるものとされています)

 これに対し、宮本省吾陣中日記は捕虜が「非常なる騒ぎ」を起こし、「最後の取るべき手段」として捕虜を射殺したと述べています。実際に処刑に携わった宮本省吾は、暴動鎮圧の為の合法的な処刑と認識している訳です。
 さて、一体、どちらを信用すべきなのでしょうか。
 それとも、両者とも間違っているのでしょうか。
 仮に両者の記録が食い違いのないものだとすれば、遠藤高明陣中日記に書かれた「軍命令」とは、騒擾した捕虜を鎮圧のため処刑せよ、というものであり、給養不可能につき、というのは遠藤高明の憶測であって、この捕虜処刑は「虐殺」ではなかったということになります。

3.角田証言
 日記ではありませんが、阿部輝郎著『南京の氷雨』には第五中隊長角田栄一中尉(当時)の証言が収められています。角田氏の証言は鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』では酔って虐殺を認めた、という趣旨で書かれているものです。
 インタビュー形式になっていませんので、角田氏の証言だけを抜粋することは出来ません。よって、該当箇所をそのまま引用することにします。

『・・・・・・
「きみの紹介だといって、ルポライターの鈴木明という人が俺を訪問してきたよ。俺は酒を飲んでいたところだったので、差し出されたテープレコーダーのマイクに向かって、いきなり本当のことを大声で話してやったよ」
 「え、どんなことを?」
 「なにね『虐殺をしたのはこの俺だぞ』といったんだ。彼は目をまるくして退散してしまったがね」
 南京虐殺の下手人だと自分から名乗ったのだ。
「別にウソをいったわけじゃないんだ。本当のことなんだ。ま、虐殺にはちがいないけれど、実は事情があったんだ」
 その事情とは――。
 火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか――。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京入城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」
 逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。
「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
 夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して、捕虜の集団が騒然となってしまった。
 万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって……。これが騒動の発端さ。あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と……。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」
 銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。
「捕虜たちは横倒しになっており、あたりは血みどろになっていて、鬼気迫るばかりの情景だったなあ。みんな死んでしまったらしい。そう思いながら、このあとどう処置しようかと考えあぐねていると、俺は頭髪が逆立つのをおぼえた。目の前の死体の中から、生き残っていた兵士が、血まみれの姿で仁王立ちになって、こちらに突進してきたんだ。しかし十歩ほど歩いてこと切れてしまったがね。あの形相を、あの気迫を、私は今でも忘れることがありません」
 偶発、それが結果として虐殺になった。
 その悔恨が深く胸にわだかまり続けた。この思いが「虐殺をしたのは、この俺だぞ」と叫ぶことになったのだ、と角田中尉は説明した。この連行には第二大隊の兵士たちが主として動員されている。
・・・・・・』

 このように、12/16の捕虜殺害は、秘密裏の解放を目的とする連行中捕虜が騒擾したため生じた、と証言されています。
 逃亡阻止の威嚇射撃が味方に命中した、というのは枝葉のエピソードでしかありません。角田氏ご本人の個人的な罪悪感はともかく、捕虜暴動に対する自衛の為の発砲は交戦法規違反でも虐殺でもありません。
 事態の推移に関する証言内容は異なっていますが、捕虜暴動の鎮圧という点では、宮本省吾陣中日記と角田証言は一致しています。
 実のところ、宮本省吾陣中日記は最後の取るべき手段=射殺とは書かれていません。
 最後の取るべき手段を決した→揚子江岸に引率した→射殺した、と書かれているだけです。
 この陣中日記は遺族より入手となっていますが、仮にこの陣中日記が本物だとして、宮本省吾本人に生前インタビュー出来ていたなら、この簡潔な一文の背後には
「最後の取るべき手段として捕虜を解放することとし、揚子江岸に連行したところ、暴動が生じたのでこれを射殺した」
という、角田証言と一致する経緯のあったことが判明したかも知れません。
 少なくとも、12/16に捕虜の不法殺害はなかった、ということは言えそうです。

4.栗原証言
 では、12/17の事件についてはどうでしょうか。
 「幕府山事件」という場合、通常はこちらの方を指します。
 戦史叢書もこの認識であり、どのように結論づけているかは冒頭に述べたとおりです。
 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』には、何故捕虜が銃殺されることになったのか、その理由・経緯・事情を説明したものがありません
 これ以外にも、12/17の事件については多くの証言、分析があります。
 その中でも、栗原利一氏の証言とスケッチは特に有名なものでしょう。
 残念ながらスケッチの方は手許にあるコピーが不鮮明なためご覧頂けませんが、偕行社『南京戦史』の編集委員が栗原氏より得た証言を引用します。


 昭和13年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。
 昭和12年12月12日、南京攻撃を命じられた山田栴二少将指揮の歩兵一連隊山砲一大隊は、鎮江を夕刻出発した。
 翌13日、私達の属する歩兵第六十五連隊(長・両角業作大佐)第一大隊(長・田山芳雄少佐)は烏龍山砲台を占領したが、既に敵兵の姿はなく無血占領であった。
 14日朝、幕府山付近に至ると莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。私たちは、集積され山のようになった武器の焼却を命ぜられたが、その煙は数キロ離れてから振り返っても天に沖するほどであった。捕虜は4列縦隊で延々長蛇の列となった。
(スケッチ1及び飯沼日記14、15日参照)
 15日から16日、第一大隊(135名)はこの13,500人と公称された捕虜の大群を、幕府山山麓の学校か兵舎のような萱葺きの十数棟の建物に収容し3日間管理した(スケッチ2)。しかし自分たちの食料にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく烏龍山(注・幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を1日1回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状態であった。
 多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。4列縦隊で出発したが、途中で列を外れて小川の水を飲もうとして射殺された者もいた。丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、4列では歩けなかった。列の両側に50メートルくらいの間隔で兵が付いた。左側は荒れ地で揚子江の向こうに島(注・草鞋洲、八卦洲ともいう)があり、右側は崖が続き、山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も2、3隻見えた。(スケッチ3)
 うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。
 その後20日ころ、揚子江を渡り浦口に行った。
 これは「虐殺」ではなく「戦闘」として行ったもので、その時は「戦友の仇討ち」という気持ちであり、我が方も9名が戦死した。殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13,500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という「大虐殺」などとても考えられない。私たちも真実を言うから、真の日中友好のために、中国側も誇大な非難は止めてもらいたい。

(偕行社『南京戦史』 漢数字を一部算用数字に書き換え)

 この様に、栗原氏の証言は味方が襲われたという警告に対処して発砲が開始されたという内容になっています。「戦友の仇討ち」というのはその場で殺された戦友の仇を取るという意味であって、これを上海以来の戦闘における味方の仇討ちと解釈するのは穿ち過ぎというものでしょう。栗原氏の証言は、戦史叢書と同じ自衛発砲説です。
 ところで、栗原氏はこの場で9名が戦死したと証言しています。数の多少はあれ、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』でも斉藤次郎、伊藤喜八郎、宮本省吾が味方に犠牲が出たと証言しています。
 阿部輝郎著『南京の氷雨』に収録された箭内准尉、田山少佐(第1大隊長)の証言に依れば、捕虜を連行した部隊は(重)機関銃8挺を用意していました。兵士達は当然、小銃を携行していたでしょう。
 これで、最初から処刑するつもりでいて、処刑する側に犠牲者が出るものでしょうか?
 連隊砲中隊の小隊長だった平林氏はこんな証言を残しています。

『・・・・・・・・
 一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が6人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません
・・・・・・・・』
(阿部輝郎著『南京の氷雨』)

 栗原証言とは発砲に至る経緯も犠牲者数も食い違っていますが、どちらが正しいのか、ここでは保留します。
 ここで重要な点は、最初から計画的に処刑するなら、味方に犠牲が出るようなリスクは冒さないと当事者も証言しているということです。
 平林氏の主張は、論理的にみて尤もだと思われます。最初から計画的な処刑であるなら、捕虜を集めたところで一斉に撃ち殺せば済むことです。連行途中で暴動が起ったならともかく、集結が終ってから味方に犠牲が出るまで処刑する側が待たねばならない理由は皆無です。

5.上級幹部の記録
 おそらく、計画的処刑を主張する人達の中には、機関銃を予め据え付けていたことこそが計画的処刑の証拠だ、と主張する向きもあることでしょう。
 抵抗力のない捕虜を解放するのに、そんな重武装は不要である、と。
 しかし、第65連隊第1大隊は、捕虜を解放するに当り、それだけの警戒をする必要があったのです。
 このことを説明するためには、そもそも幕府山事件と呼ばれるものがどのような経緯を辿ったかを解きほぐしていく必要があります。

『・・・・・・・・
「両角日記」(註39)は「捕虜を開放」と記すが、小野資料集には、確実な「虐殺目的の連行」の証拠は記されていない。捕虜を江岸に連行した真の目的が何であったかは、上級幹部しか分からない事項に属するから、上級幹部の日記を検討してみなくてはならない。

○飯沼守日記
「十二月十五日、山田支隊ノ捕虜東部上元門附近に一万五、六千アリ、尚増加ノ見込ト。依テ取リ敢へズ16Dニ接収セシム
「十二日二十一日、荻洲部隊山田支隊ノ捕虜一万数千ハ逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処、何日カニ相当多数ヲ同時ニ同一場所二連行セル為、彼等二騒ガレ遂ニ機関銃ノ射撃ヲ為シ、我将校以下若干モ共二射殺相当多数ニ逃ゲラレタリトノ噂アリ。上海ニ送リテ労役ニ就カシムル為、榊原参謀連絡ニ行キシガ(昨日)遂二要領ヲ得ズシテ帰リシハ此不始末ノ為ナルベシ」(註40)

○上村利道日記(註41)
「(二十一日)N大佐ヨリ聞クトコロニヨレハ山田支隊俘虜ノ始末ヲ誤リ大集団反抗シ敵味方共ニMGニテ撃チ払イ散逸セルモノ可ナリ有ル模様。下手ナコトヲヤッタモノニテ遺憾千万ナリ」

○山田栴二日記
「十四日 明ケテ砲台ノ附近二到レバ投降兵莫大ニシテ始末二困ル……恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、一四、七七七ヲ得タリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ
「十五日 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京二派遣シ連絡ス。皆殺セトノコトナリ。各隊食糧ナク困却ス」
「十六日 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊長大役ナリ」
「十八日 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸二之ヲ視察ス」
「十九日 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム」

○両角業作日記
「十五日 俘虜整理及附近掃蕩」
「十六日 同上。南京入城準備」
「十七日 南京入城参加。Tハ俘虜ノ開放(解放?)準備、同夜開放」
「十八日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝二遺体埋葬」

 飯沼日記に見るように、捕虜担当の第三課参謀・榊原主計少佐は二十一日に第十三師団に行って空しく帰っている。榊原氏の証言(註42)では、捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた、という。・・・・・・・・
・・・・・・・・
(註42)1983年7月3日、榊原主計氏自宅にて
・・・・・・・・』
(板倉由明著『本当はこうだった南京事件』)

 板倉由明著『本当はこうだった南京事件』より、幕府山事件に関する日記・証言の抜粋です。
 山田日記15日の記述については、南京に派遣したのではなく師団に派遣したという説もありますが(鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』))、後述の理由により南京に派遣した、が正しいと思われます。
 尚余談ですが、板倉氏が榊原氏の自宅で聴取した証言により、秦郁彦著『南京事件』に出てくる稲田正純氏が榊原氏より聞いた証言は、仙鶴門鎮の捕虜のことではなく幕府山の捕虜のことであることが分かります。

6.十七日の事件の背景
 さて、話を戻して幕府山捕虜17日の事件です。
 板倉氏の指摘、「小野資料集には、確実な「虐殺目的の連行」の証拠は記されていない。捕虜を江岸に連行した真の目的が何であったかは、上級幹部しか分からない事項に属するから、上級幹部の日記を検討してみなくてはならない」はもっともなものですが、日記を調べるにしても単に直接事件について述べた部分を見るだけでは必要なピースがこぼれ落ちてしまいます。また、これらの記録を時系列で見ていかなければ事態を正確に把握することは出来ません。
 欠け落ちたピースは二つ、当時の情況と、捕虜解放に関する国際法上の類型に関する認識です。

飯沼日記 12月15日
『・・・・・・・・
・・・・長参謀16Dト連絡シタ結果同師団ニテハ掃蕩ノ関係上入城式ハ二十日以後ニセラレタキ申出アリト重ネト方面軍ニ事情ヲ説明セシム。・・・・
・・・・・・・・』
(偕行社『南京戦史資料集』)

 これを時系列に整理します。

12月14日 山田栴二日記 砲台ノ附近二到レバ投降兵莫大ニシテ始末二困ル・・・・斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ
12月15日 飯沼守日記 山田支隊ノ捕虜東部上元門附近に一万五、六千アリ、尚増加ノ見込ト。依テ取リ敢へズ16Dニ接収セシム
12月15日 山田栴二日記 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京二派遣シ連絡ス。皆殺セトノコトナリ。
12月15日 飯沼守日記 長参謀16Dト連絡シタ結果同師団ニテハ掃蕩ノ関係上入城式ハ二十日以後ニセラレタキ申出アリ
12月16日 山田栴二日記 相田中佐ヲ軍二派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム
12月17日 両角業作日記 Tハ俘虜ノ開放(解放?)準備、同夜開放

 まず、15日に本間少尉を送ったのは鎮江で渡江準備中の第13師団司令部か、南京駐留の第16師団司令部かですが、飯沼日記によれば、派遣軍司令部は捕虜を第16師団に接収させる方針を山田支隊に示しています。第13師団主力は既に14日渡江済で鎮江には司令部のみ残留の状態でしたから、第13師団司令部に収容させなかったのは本来ならば適切な判断でしょう。派遣軍司令部の判断は第13師団司令部も当然了解済だったはずです。となれば捕虜収容について折衝する相手は第16師団になりますから、本間少尉の派遣先は南京の第16師団司令部だったと考えるのが妥当です。
 ところが第16師団は、他所の師団の捕虜を収容できる状況ではありませんでした。入城式を20日以降に延期して欲しい、という申出を行っているほどです。実のところ多忙の原因は掃蕩関係ばかりでなく、師団独自の入城式をやったりして余計に時間が足りなくなったという事情もあると思われますが、14日には仙鶴門鎮で第38連隊が公称7千2百の捕虜を収容し、17日前後にようやく城内の収容所に移送を完了しています。更に1万5千(実数8千)もの捕虜を収容する余裕など到底無い、というのが第16師団司令部の偽らざる実感だったのではないでしょうか。
 また、上海派遣軍司令部と第16師団司令部の関係が上手く行っていなかった、ということも考慮に入れなければなりません。湯水鎮の派遣軍司令部が襲撃を受けた際、救援に赴いたのが最も近い位置にいた第16師団ではなく、第9師団第19連隊だったことが両者の関係を象徴的に表しています。
 おそらく、派遣軍司令部は第16師団司令部に、山田支隊の捕虜収容に関する正式な命令を出していません。「取リ敢へズ」という飯沼日記の言葉からこの事が窺われます。司令官名ではなく、参謀長名で、派遣軍司令部の意向というような形で伝達されたのでしょう。
 しかし、派遣軍司令部に良い感情を持っていなかった第16師団司令部は、多忙な状況も相俟って、その「意向」を拒否したのです。「皆殺セトノコトナリ」とはおそらく、
第16師団にはこれ以上捕虜を収容する余力はない。山田支隊で捕虜を給養できないというなら、殺してしまえばいいだろう
というような、捕虜引継の依頼を突っぱねるものだったのです
 「皆殺セトノコトナリ」は命令ではありません。第16師団司令部は、第13師団に属する山田支隊に対して命令できる立場にありません。命令ではなかったから、山田日記には「各隊食糧ナク困却ス」と皆殺しにせず給養することを前提とした泣き言めいた記述があるのですし、翌日相田中佐を派遣して再度捕虜の扱いについて相談しているのです。命令ならば、再相談の余地はありません。
 始末(仕末)とは、殺すことではありません。山田日記には、殺してしまうか生かしておくかの判断も始末と書かれていますし(14日)、死体を片付けることも仕末と書かれています(18日、19日)。
 なお、相田中佐の派遣先は上海派遣軍司令部だと思われますが、『本当はこうだった南京事件』には
『・・・・昭和五十八年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では「崇明島」に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲との記憶違いとすれば・・・・』
という記述があります。第十三師団司令部の渡江は16日(予定)ですから、16日に鎮江の師団司令部で捕虜解放の命令を受けた可能性もあります。
 但し、山田少将、両角大佐(当時)の記憶とは食い違っていますので、第13師団司令部から解放命令が出ていたというのは、あくまで「可能性がある」というレベルです。

7.解放目的の連行を証言する者(『南京の氷雨』)
 さて、第16師団に捕虜引継を拒否された山田支隊は、捕虜解放を図ります。
 両角手記に出てくる「俘虜のものどもを“処置”するよう」という督促は、殺してしまえということではなく、早く第16師団に引き継げというものだったと思われます。あるいは、それができないなら自分たちの裁量で何とかしろ、という抽象的なものだったのでしょう。21日飯沼日記があくまでも労役使用を考えていた内容になっていますので、処置の真意は殺してしまうことではありませんでした。
 しかし、自部隊の数倍の捕虜を抱えて心理的に追い詰められていた山田少将、両角大佐は、この指示を極端に解釈してしまったというのが実情ではないでしょうか。それが両角メモの背景になっていると思われます。実際には、派遣軍司令部も第13師団司令部も捕虜殺害を意図していなかったことが飯沼日記や吉原証言で判明しています。
 そういう誤解はともかくとして、山田支隊は給養できない捕虜を解放することにしました。
 既に見てきたように、捕虜を殺害する目的で連行したという記録はありません。
 それに対して、捕虜の連行は解放が目的だったとする証言は両角メモ、栗原証言以外にも複数の当事者から得られています。

『・・・・・・・・
 歩兵六十五連隊の連隊機関銃中隊に所属する箭内亨三郎准尉は、捕虜を集合させる場所を河原で設定したという。福島市の人だが、既に故人となった。私とは懇意にしており、生前その状況について詳細に語ってくれている。私は回想談を速記メモしていたが、それを紹介しよう。
「目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成一個中隊をつくって出かけたはずです。私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、四キロか五キロほど歩いて河川敷に出かけたのです」
 ノコギリやナタとは、また異様なものである。
 いったい、なんのために?
「実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように。それに舟も捜しておくように……と、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです」
 解放のための準備だったという。
「実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。ところが、後でこれが大変なことになるのです」
 明るいうちに場所の設定を終えた。上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。
「兵舎のある上元門に戻って、まだ日のある時間でしたが、それから捕虜の連行が始まったのです。手などは彼ら自身の巻脚絆を利用して縛り、四人ずつ一つなぎにして歩かせたのです。なぜ縛ったか? それはね、四キロか五キロ歩かせるのですから、途中でなにかがあったら、せっかくの苦心も水の泡になりますからね。第一、小人数で大人数を護送するには、そうしないと問題があったとき抑えられないからです」
 箭内准尉はこう話しながら、何度か溜息をついた。その後に起こった惨劇の、あまりの凄まじさを、まるで昨日のことのように思い起こすのだ。・・・・
・・・・・・・・
・・・・ここで再び箭内准尉の証言メモを続けてみよう。
「集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が……。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し――巻脚絆などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです」
 縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。
「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第一大隊長の田山少佐が『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね……。万一を考え、重機関銃八挺を持っていっていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです」
・・・・・・・・』
(阿部輝郎著『南京の氷雨』)

『・・・・・・・・
 第一大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある。
「解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃八挺を準備させました。舟は四隻――いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、揚子江の対岸(揚子江本流の対岸)には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから……」
 南京虐殺を研究している人の中には「対岸には日本軍が進出しており、その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」
・・・・・・・・』
(阿部輝郎著『南京の氷雨』)

『・・・・・・・・
 歩兵六十五連隊の連隊砲(山砲)中隊で小隊長をしていた平林貞治中尉は、このとき江岸に出かけた一人で、私に次のように語ったメモがある。
「十七日夜の事件はね、連行した捕虜を一万以上という人もいるが、実際にはそんなにいない。四千か五千か、そのぐらいが実数ですよ。私たちは『対岸に逃がす』といわれていたので、そのつもりで揚子江岸へ、ざっと四キロほど連行したんです。途中、とてもこわかった。これだけの人数が暴れ出したら、抑え切れない。銃撃して鎮圧できるだろうという人もいるが、実際には心もとない。それは現場にいた人でないと、そのこわさはわかってもらえないと思う。第一、暴れ出して混乱したところで銃撃したら、仲間をも撃ってしまうことになるのだからね」
 実はその銃撃が集結地で現実に起こってしまったのだ。
「一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。結局、仲間が六人も死んでしまっているんですよ。あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬへマはしません」
 銃撃、叫び、血……。すさまじい形となった。平林中尉はその状況を「鬼哭啾々とはあんなことでしょうか」と表現する。
「乱射乱撃となって、その間に多数の捕虜が逃亡しています。結局はその場で死んだのは三千――いくら多くても四千人を超えることはない。これが実相です。油をつけて焼いたとされますが、そんなに大量の油を前もって準備するとなると、駄馬隊を大量動員して運んでおかなければならず、実際、そんなゆとりなんかありませんでしたよ。死体の処理は翌日に行いましたが、このとき焼いたように思います。死体が数千人――これがどれだけの量か、あなたは想像できますか、とにかくものすごい死体の散乱状況となるものなのです。それにしても恐ろしいことになってしまったと、思い出すたびに悲痛さで胸が締めつけられます」
・・・・・・・・』
(阿部輝郎著『南京の氷雨』)

8.宣誓に依らざる解放
 では何故、解放目的の連行に(重)機関銃まで用意したのでしょうか。角田証言によれば、16日の連行も解放目的のものであり且つ重機関銃を用意しています。
 この疑問は、捕虜解放に宣誓に依る解放と宣誓に依らざる解放の2種類があり、宣誓に依らざる解放の場合は自衛手段を講じておく必要があるという戦時国際法の知識があれば、すぐさま氷解します(と言うより、最初から疑問にもならないことです)。

『・・・・・・・・
第5節 俘虜の身分の終了
 俘虜の身分の終了は、(1)俘虜の交換、(2)宣誓に依る解放、(3)宣誓に依らざる解放、(4)味方の救援、(5)逃走、(6)俘虜を捕えたる軍と共に中立領域に入ること、(7)俘虜を中立国に送りて留置せしむること、(8)国籍の変更、(9)戦争の終了等に因って生ずる。
・・・・・・・・
(2)宣誓による(on parole)解放に於ては、普通俘虜が戦争中再び兵器を操らざることを宣誓して解放せらるるものである。宣誓は書面を以て之を行い、俘虜が之に署名するを常とする。交戦国は俘虜の解放を求むるの請願に対して、必ずしも之に応ずるの義務無く、又俘虜も宣誓解放の受諾を強制せらるるべきでは無い(陸戦条規第11条参照)。然れども俘虜の本国法が之を許すときは(註)、俘虜は宣誓の上解放せらるることあるべきである。宣誓解放の場合には、俘虜は、本国政府又は之を捕えたる国の政府に対し、一身の名誉を賭して其誓約を厳密に履行するの義務を有するものと為さるるのである(同条規第10条第1項参照)。俘虜の本国政府も、之に対して宣誓に違反する勤務を命じ、又は之に服せんとの申出を受諾すべからざるものと為さるる(同条規第10条第2項参照)。是両交戦国が、戦争状態に在るも互に信義を守り、其間に自ら背信の行為を行わず、又自己の権力下に在る者が背信の行為を行わんとするを止むべきものとする一種の信義誠実的関係を認めたるものにして、学者或は此種の場合を以て、戦争中に於ける交戦国の非敵対的関係又は準平和的関係と称するのである。宣誓解放の場合に於て、宣誓解放を許せる国は、宣誓解放を受くる俘虜の人名簿を、敵国政府に送るを例とする。宣誓解放を受けたる俘虜にして、其の名誉を賭して誓約を為せる政府又は其政府の同盟国に対して兵器を操り、再び捕えられたる者は、俘虜の取扱を受くるの権利を失うべく、捕えたる国は之を裁判に付することを得ると為さるる。是れ刑法に依る刑罰的制裁を加え得ると為すのであって、此場合に於ては、普通死刑に処するのである。世界大戦の際、当初フランス政府は、敵国将校の宣誓解放を許せることあるも、ドイツが俘虜となれる連合国の兵士に対して同様の事を認めざりしより、宣誓解放の事は行われざるに至ったのである。
(註)或国の国内法上特に俘虜は其属する国の承認を予め受くるに非ざれば、宣誓による解放を受くるを得ざるの規定を存することがある(イタリア交戦法規第124条参照)。
(3)宣誓に依らざる解放は、俘虜を捕える軍が敵軍に迫られ、急に退却するとき、又は攻囲を受け、糧食の欠乏を存するとき等に於て、之を行うことがある、又両国政府が協定を以て或種の俘虜を、宣誓を行うこと無くして、解放を為すを約することがある。世界大戦中、1916年ドイツ及びロシアは其間に協定を為し、兵器を操るに堪えざる俘虜を互に解放したのである。1918年に至り、フランス及ドイツは、将校以外の俘虜にして永く俘虜の境遇に在りて且つ一定の年齢以上に達せるものを、互に解放した。是等の場合の宣誓に依らざる解放は、両交戦国の間の全体の行為として見れば、交換に準ずるものと言い得べきである。・・・・
・・・・・・・・』
(立作太郎著『戦時国際法論』旧字体を新字体へ、旧仮名遣いを新仮名遣いへ、漢数字をアラビア数字へ一部書き換えて引用)

 宣誓に依る解放の場合は、解放された捕虜から武器で攻撃を受けない保証があります。解放される捕虜自身の名誉に基づくだけの保証ではありますが、解放したその場で宣誓が破られる事態は少ないことでしょう。宣誓が容易に破られるものならば、宣誓に依る解放という慣習そのものが成立しません。
 それに対して宣誓に依らざる解放には、解放された捕虜が反撃してこないという保証がありません。元々宣誓に依らざる解放は劣勢に置かれた軍が緊急の必要に迫られて行うもので、捕虜を抱えていては自分たちの生存が危ういという状況下で生じるものです。
 幕府山のケースは、退却を要する事情や攻囲された状態こそありませんでしたが、捕虜を抱えていられない差し迫った事情があるという点では宣誓に依らざる解放が行われる一般的なケースと同質の状況でした。
 また、相互に国際法上の戦争と見られることを忌避し宣戦布告を行わないまま戦い続けた日支事変では、対象となる捕虜の名簿を敵国政府に送るという国際法上の手続きを必要とする宣誓に依る解放は、行いようがありませんでした。宣誓に依る解放を行えば、現在の戦争が国際法上の戦争であるということを認めずにいられないからです。それでは、中立国を戦場から排除するという国際法上の権利を犠牲にしてまで、日支事変は国際法上の戦争ではないと装おうとした苦労が台無しになってしまいます。少なくとも南京攻略戦の時点では、捕虜(俘虜)という言葉を公式に使用することすら避けようとしていました(陸支密第一七七二号昭和十二年十一月四日)。
 山田支隊が意図したのは、労役に使用するという派遣軍司令部の意向に背いた、宣誓に依らざる解放です。
 派遣軍司令部の意向に背くものであったのですから、秘密裏に行わなければなりませんでした。
 宣誓に依らざる解放だったが故に、圧倒的多人数の捕虜の反撃を警戒して重武装が必要でした。
 山田支隊の捕虜解放が宣誓に依らざる解放にならざるを得なかったということが理解できれば、重武装の必要性は最初から論点にもなりません。
 解放目的の連行・自衛発砲説には、些かの破綻もありません。
 破綻があるとすれば、単に銃殺したという証言を計画的殺害に結び付ける違法殺害説の方です。


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