甲斐武田を探検っ!!

 

善福寺 一条右衛門大夫信竜供養碑

 

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一条塁跡に関してイロイロ調べていたんですが、「近くに一条信竜の菩提寺善福寺があった」と書かれた書籍(あぁ・・・すみません、またチェックし忘れてるんです)がありまして、なんかしらの跡でもあればと密かにずっと一条塁跡の近所を探していましたんですが、まるで見つかりませんでした。

うーーーむ・・・ふと、地図の違う場所を見ると、「善福寺」の文字。なんと!と、いうことで、早速行ってきました!

善福寺の場所ですが、JR身延線のすぐ脇です。一応市街地ですが、線路脇なのでかなりわかりやすいはずです。駐車場もバッチリ(ひょっとしたら、近隣の方の駐車場なのかな・・・・?)。ちょっとした説明版も供養塔の横にあります。こちらのお寺、過去に火事にあってすべて焼失。一条信龍の位牌も焼失、よって信竜の法名も不明です。さらに電話帳にも載っていない・・・実際行ってみるとやはり左の写真のような建物があるのみでした。

一条信竜は武田信玄の弟。どちらかというと武断派であったらしいのですが、合戦時には信玄のまわりに陣取ることが多く、実際にはどの程度の武名があったかはよくわからないそうです。

そんな中でも武田氏の駿河侵攻時には田中城代、勝頼の代になると嫡男の信就が田中城代となり、信竜は武田信友とともに駿府城代をつとめ、また信玄の代の末期には畿内の石山本願寺や松永久秀などとの外交を担当していたとか。

天正三年(1573)設楽原合戦(長篠合戦)では、武田氏が劣勢になったとみるや一門の穴山信君や武田信友らが早々に退却を始めてしまいます。しかし、一条信竜隊は勝頼が無事退却するのを見届けるまで、馬場信春隊とともに戦場に留まって奮戦していたんだとか。

その後天正十年(1582)織田・徳川軍の甲斐侵攻時には、勝頼を裏切ることなく信就とともに上野城(現一条塁跡)を防備して討死します。ただ、「信長公記」には織田信忠が処刑したとあるそうです。武田家崩壊直前に病死したとも言われており、出生から謎が多い人物となっています。

 

一条右衛門大夫信竜供養碑

この供養塔自体は昭和年代に建てられたものです。

山県昌景が「伊達者にて花麗を好む人」と彼を称したとか。ん?「伊達者」って言葉この頃あったんですか?まぁ、そんなことはいいとして。

武田義信事件の後、信竜は信頼され信玄の副将などもつとめます。勝頼の代になっても変わらず武田家中枢にいた重要人物です。

<2007/1/8>