甲斐武田を探検っ!!

       甲斐善光寺 

 

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史跡・関係地名:常額山善光寺(浄土宗常額山善光寺)

住所:山梨県甲府市善光寺

場所のわかりやすさ:◎

駐車場:◎

説明板:◎

売店:◎

地図:

山門:

金堂など:

  

関係人物:武田信玄・小幡昌盛・加藤光泰・横田尹松など

<甲斐善光寺>武田氏の北信濃への勢力拡大などに脅威を感じた長尾景虎(後の上杉謙信)は、弘治元年(1555)善光寺の諸物を越後府中に移し越後善光寺を建立、その門前町は大いに賑わいをみせます。しかし永禄元年(1558)九月二十五日武田信玄は景虎に対抗し、善光寺本尊善光寺如来と鏡空(きょうくう)上人を甲斐に移します。そして翌永禄二年(1559)板垣と呼ばれていたこの地に仮堂を建て、永禄七年(1564)からは金堂などが整備されます(金堂が完成したのは信玄死去直前の元亀三年)。同じ頃には南方に門前町も整備され賑わいをみせたようです。ただ、現在の門前町は信濃の善光寺などに比べ、その面影を感じることができなくなっています。

善光寺の甲斐移転は川中島合戦と重なる時期です。川中島周辺での対陣は計五回繰り返され、激戦が繰り広げられ武田信繁らが討死したのは永禄四年(1561)九月で4度目の対陣時でした。ちなみに川中島合戦は五回繰り返されています。第一回は天文二十二年(1553)八月、第二回弘治元年七月、第三回弘治三年(1557)八月、第四回が永禄四年、第五回は永禄七年(1564)八月。このあたりの年代は甲斐・越後が互いに牽制しあっていて面白いですね。弘治三年(1557)武田晴信が信濃守護職に補任、永禄二年四月には長尾景虎が上洛、正親町天皇や将軍足利義輝らに拝謁し、様々な特権を与えられるなどなど・・・。直接的な合戦以外にも「善光寺」をめぐる政治合戦も激しく行っていた甲斐と越後です。

さて、武田家滅亡後ですが本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々としますが、慶長三年(1598)信濃に戻ります。しかし甲斐善光寺も大寺院として甲斐国内の浄土宗をまとめ、後に徳川家の位牌所になりました。

<宝物・観光など>甲斐善光寺建立当初の建造物は信濃善光寺と同規模・同規格を誇っていたようですが、宝暦四年(1754)二月七日門前町からの失火により類焼。現在の金堂は寛政八年(1796)に完成したものとなっており、以前にくらべ規模は縮小されています。しかしながら、山門と金堂はその歴史的価値から重要文化財に指定されています。その他にも多くの文化財を保有しています。なお、金堂西には宝物館があり、500円で拝観できます・・・が、まだ宝物館にはお邪魔していません。また見たら報告したいと思っています。

善光寺の少し北方に「かいてらす」という地場産業センターがあります。こちらも見てみると山梨名産品などが多くあり面白いですよ!

 

<武田家滅亡>甲州街道(旧国道20号・現国道411号)善光寺入口の信号からもはっきり善光寺山門がみえますが、この山門が登場する武田家関連のお話がひとつ。天正十年(1582)織田・徳川軍の甲斐侵攻をうけ、三月三日早朝武田勝頼は新府城に火をかけて、笹子峠を越え郡内領(現山梨県東部)に退こうと甲府盆地を西から東へと移動します。その途中、甲斐善光寺山門前で病気の身でありながら「小幡豊後守昌盛」の面会をうけ、勝頼に涙ながらに今生の別れを伝えました・・・。事実かどうかはよくわかりませんが、ひとつの印象深い話です。右の写真に写っている道を勝頼一行は郡内領岩殿城に向かっていったんですね。その後小幡昌盛は武田勝頼が自害する三月十一日の五日前、三月六日に所領黒駒(現笛吹市)で四十九歳で亡くなったといわれます。

勝頼一行は山門前の道を東に行き、酒折→石和→春日居鎮目(芍薬塚)→笛吹川→一宮→勝沼(正宗寺大善寺)→田野(景徳院)の道をたどっていきます。

文章ですと、さらっと流してしまうんですが、実際に見てみると何かを感じることができます。

 

<横田甚右衛門尹松逆修塔>もともと伊勢の人であった横田備中守高松(たかとし)は、武田信虎に登用され足軽大将として活躍します。その活躍ぶりから他の足軽大将とあわせ「五人衆(原美濃守虎胤・横田備中守高松・小畠山城守虎盛多田淡路守満頼山本勘助)」と称されたりしています。しかしながら、天文十九年(1550)武田信玄の数少ない負け戦と言われるいわゆる戸石崩れの殿をつとめ討死します。横田氏には男子がなかったので、原美濃守虎胤の二男を入れ、彼は十兵衛康景と名乗ります。その康景も武田軍の中で屈指の猛者と称されますが、設楽ヶ原にて討死。康景の子が甚右衛門尹松(ただとし)です。彼も、勇敢な血をしっかり受け継いだようで、天正八年(1580)徳川氏に攻められ落城寸前の遠江高天神城の防備にあたり、勝頼からの撤退命令を聞かず、「徳川氏の足止めをする」と言い戦い続けたそうです。しかし最終的には高天神城から脱出し、甲斐に戻ります。武田氏滅亡後は徳川氏に仕えます。

写真は逆修塔(生前に、無事に成仏できるように願い建てる石塔)です。表面には「君松」と刻まれています。

場所は金堂の東ですが、木々や様々な石像物がある陰になりますので、結構見つけにくいかと思います。東の塀際くらいの気持ちで探してみてください。

 

<加藤遠江守光泰供養塔>墓地には加藤光泰の供養塔があります。金堂右手に回りこんでいくと目立つ場所にあるのですぐわかるはずです。

加藤光泰は美濃出身で斉藤家没落後まだ家臣なども多くなかった羽柴秀吉に仕えます。その後秀吉は出世しますが、光泰は古くからの秀吉家臣ということで彼から信頼されていたようです。その後豊臣政権下では徳川家康の関東移封後、甲斐を拝領し統治を行ないますが、朝鮮の役の際現地にて病死してしまいます。光泰の遺骨は家臣が持ち帰り、甲斐善光寺に埋葬したことからこの地に供養塔があるのだそうです。

なお、当時はまだ武田氏館(躑躅ヶ崎館)を住居兼甲斐の政治中心地として使用していたようです。甲府城築城は加藤氏の次に甲斐を統治した浅野氏だと言われてます。

周辺の甲斐武田氏関係地:東光寺小山田信茂首塚能成寺など

参考文献:甲斐国社記寺記・新編武田信玄のすべて・川中島の戦い下巻・武田氏研究第25号・甲斐善光寺HP

<2006/8/11>