甲斐武田を探検っ!!

       琵琶城

 

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史跡・関係地名:琵琶城(倉科氏屋敷)

住所:山梨県山梨市牧丘町倉科

場所のわかりやすさ:△

駐車場:×

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:倉科信棟・倉科信広など

<甲斐武田諸流倉科氏>倉科氏は、武田信満庶子信広が応永年間(1394-1428)現在の山梨市牧丘町倉科の地に居を構えたことから始まったといわれています。倉科氏の屋敷は高台にあり、その地形が琵琶に似ていたことから琵琶城と呼ばれました。

近隣の竜泉寺にある倉科氏墓碑によると、倉科氏は信広-信定-信義-信親-入道願正-信棟と続いています。どのような経緯かは不明ですが、信玄の代になると大村党の一員として(血脈から考えると頭目でもなんら問題なさそうですが)活動します。そして信棟の代に甲斐武田家が滅亡し、更に大村党も壊滅するのです。

 

<琵琶城の現在>琵琶城は倉科黒戸奈神社西方の高台にあります。県道から昇る農道がありますので、脇の石像を見つつ昇ります(左上写真)。すぐ右にカーブしますが左手は沢(右上写真)で攻め込まれにくそうですね。右手にはビニルハウス(温室葡萄栽培しています)が見えていますが、このあたりが屋敷があった場所といわれています。農道を進むとビニルハウスに沿って右に折れます。更に左に折れるのですが、左に折れずビニルハウス間のスキマ?を進み右手を見ると石祠の背中が目に入ります。

  

この石祠は倉科氏屋敷の鎮守であったといわれる稲荷社(明治の年号が確認できてしまいましたが・・・)。高台の南部分に屋敷を構えていたと思われています。

 

石祠の右側(東方)も沢となっています。先ほどの農道に戻り、ビニルハウス間に入らず進むと北方にむかいます。しばらく進むと正面に民家が現れますが、その民家付近までが城域であったと考えられています。しかしながら、民家と葡萄畑となってしまっている今、遺構と呼ばれるようなものは残されていません。甲斐国志には桜の木が石祠の横にあったといいますが、これも残らず。石祠のみが往古を知っている・・・という感じでしょうか。

大村党は徳川氏と北条氏の旧武田領国争奪戦、いわゆる天正壬午の乱では北条方につき大野砦と中牧城を拠点にします。倉科信棟は中牧城に在番し、徳川軍と戦ったと伝わりますが、多勢に無勢中牧城は七月五日落城。信棟も討死します。御子孫は名字を変えるなどして現代まで続いていらっしゃるようです。

周辺の甲斐武田氏関係地:大村氏屋敷(間瀬屋敷)浄居寺(中牧)城など

参考文献:甲斐国志・図説山城探訪16集/宮坂武男・定本山梨県の城他

<2012/5/20>