甲斐武田を探検っ!!

              金峰山洞雲寺

 

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史跡・関係地名:曹洞宗金峰山洞雲寺/加藤遠江守光泰供養塔他

住所:山梨県山梨市牧丘町北原

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:武田信豊・望月信雅・加藤光泰など

 

<金峰山洞雲寺と加藤光泰>「きんぷうさん どううんじ」と読みます。参道を右手に通り過ぎると駐車場に入れる道が出てきますので、そちらから。洞雲寺は建久五年(1194)自害した安田義定の三男西保三郎義安(16歳、義定とともに自害)をともらう浄谷山安養寺として建久八年(1197)に家臣の渡瀬志摩守清満により建てられたことが始まりだと伝わります。しかしその後無住になり荒れてしまいますが、武田氏が滅び豊臣氏家臣加藤光泰が甲斐に入ると、安養寺は甲府にある興因寺十三世を開山として迎え洞雲寺として再興。光泰が開基となります。光泰は朝鮮出兵の際現地で病死、甲斐善光寺に葬られます。その後、寛保二年(1792)こちらに供養塔が建てられました。

<武田信豊書状>洞雲寺には天正四年(1576)二月十九日 武田信豊から望月遠江入道(望月印月斎・信雅)あてへ、位牌所分の寺領を洞雲寺に寄進するという書状が残っています。上記のとおり、洞雲寺は武田氏滅亡後、加藤光泰が甲斐を与えられた天正十九年(1591)以降建立されたとされていますので、天正四年の文書が残っているのが不思議ですが、しかし、洞雲寺前を通り佐久へ通じた道があったようですので、なにかしらの関係があったのではとも考えることができます。

<武田と望月>武田信豊は信玄の弟、甲斐の副将とも称された武田信繁の二男です。信繁は信濃攻略で活躍、その際佐久の望月氏は武田氏に従属し、その後も先方衆として活躍しています。天文十七年(1548)頃、信繁長男信頼は男子のなかった望月信雅の養子となり、永禄四年(1561)川中島合戦にも従軍したといわれますが、永禄七年(1564)九月二十一日18歳で死去。翌永禄八年(1565)には早くも信玄の命により三男の左衛門尉が望月信雅の婿養子となり望月氏を継ぎます。しかし彼も天正三年(1575)設楽ヶ原にて討死してしまいます。その後信雅は信豊に望月氏が断絶しないよう信豊娘を養女ととし、婿をむかえたいと要請をして許可を得ますが、その婚礼が決まるまでは信豊が望月氏の名代をつとめたようです。

「甲斐国志」によると武田信豊は跡部勝資らとともに勝頼を補佐し、勝頼側近として大きな影響力を持つようになります。しかし天正十年(1582)織田軍侵攻の際、信豊は信濃東部(望月氏)・西上野(小幡氏と姻戚関係)への影響力が高いことから小諸城に入ります(西上野に向かおうとしていたとも)が、武田氏の一門でもある下曾根浄喜に殺されます。

<加藤光泰供養塔>

 

本堂裏手にまわりこむと歴代住職墓所とともに周囲よりひとまわり大きい五輪塔が目に付きます。こちらが説明板はありませんが、加藤光泰の供養塔です。よく見ると「富山開基剛園勝公大居士」と刻まれていますので、こちらで間違いはないかと思います。

周辺の甲斐武田氏関係地:小田野山城・中牧城(浄古寺城)跡鍵懸の関跡など

参考文献:甲斐国社記寺記・武田勝頼のすべて・新編武田信玄のすべて・甲斐国志・甲斐百八霊場HP

 <2010/2/28>