甲斐武田を探検っ!!

       大石神社

 

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史跡・関係地名:大石神社

住所:山梨県山梨市西

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:

 

関係人物:岩手信盛・岩手信景・岩手縄美・手塚光清・手塚光遠・手塚光保など

<大きな石の大石神社>国道140号(雁坂道)から「大石山」の案内に従い車をしばらく走らせると大石神社鳥居前に到着。鳥居横の駐車場に駐車し、そこから長い石段を登ると拝殿に到着します。普段身体を動かさない方は疲れると思いますが、ゼヒ周囲に顔を見せる巨石を堪能しながら登ってみてください。説明板は駐車場付近と拝殿横にあります。

社名の起こりともなった御神石は高さ12m、周囲68mの花崗岩。・・・とても大きいです。御神石周辺には似たような巨石がゴロゴロしており、上手く写真に納まりませんでした(大きいもので・・・)がここだけ特殊な空間というのが伝わります。山梨県内でも珍しい巨石群ということです。

甲州噺(享保十七年/1732)によると、大石神社は永禄五年(1562)武田家臣岩手能登守信盛が建立したと伝わります。しかしながら、社殿ができる以前からも本殿裏にある巨石は信仰の対象となっていたようです。大石神社の祭神は「大山祇命」、山の神様です。

  

 

<「神」になった岩手氏>山梨市史によると大石神社は岩手大明神とも呼ばれているようで、これは相殿に岩手岩手信盛・縄美が祀られているからなのだとか。さらに境内摂社の祭神は岩手信景。相殿・摂社ともに直接確認はできませんでしたが、「神」になっている岩手氏です。地域にとってはとてもよい領主であったのでしょうか。

その岩手縄美(つなよし)は、武田信虎の父である武田信縄の弟。この大石神社周辺に居を構え、岩手氏を名乗ります。縄美は信縄が病死し信虎が家督相続した際、兄である油川信恵とともに反乱を起こしますが、信虎の奇襲をうけ坊ヶ峯で兄とともに討死します(信虎が甲斐統一に向けての第一歩となった戦いといわれます)。岩手信盛は縄美の子で、ここ大石神社を建立した人物。信盛の子信景とともに武田家の御旗奉行などをつとめました。信景は武田家滅亡時死去しますが、子孫は生き残り徳川家旗本となっています。

<岩手氏家臣手塚氏>山梨市史の大石神社由緒調査表(大正四年頃のもののようです)によると、大石神社の神主は手塚氏。初代平助郎光景は木曽義仲に仕え、故あって甲斐武田家に仕えます。のちに六代の左衛門尉光清は岩手縄美に仕え、国学に通じ兵法に長じていることから縄美より大石大明神の祝部に任ぜられたといいます。

七代光遠は縄美・信盛に仕えます。調査表には発意光遠と記されているので出家して「発意」と名乗ったのでしょうか。光遠は七代光清の弟で、光清に子がなかったことから後を継いだのだとか。岩手信盛は武田信虎が晴信(信玄)に追放されたことを喜ばず、光遠を使者とし常に連絡を取り合っていましたが発覚、処刑されています。岩手信盛が武田家にあまり重用されなかったのはこの一件があったからだと記されていますが、どうでしょう?

光遠が死去すると光遠の子、平左衛門光保が12歳で後を継ぎ八代となります。岩手信景・信重に仕え天正十年の天正壬午の乱には岩手信景が徳川軍と戦うため兵を挙げますが、それに従い織田・徳川軍に戦いを挑みますが敗退。信重とともに落ち延びようとしますが信重に「岩手の宮所を守るよう」諭され、それ以降宮司を勤めたのだといいます。

穴山氏・郡内小山田氏の家臣団などは多少でも知られていますが、岩手氏・油川氏などはほとんどというか、全く知られていないはずです。調査表に伝わる逸話が事実かどうかはわかりませんが、岩手氏に仕えた「手塚氏」という存在を今回知ることができたこと、個人的に大収穫です。

<思い出の地>個人的な話ですが、山梨県内の甲斐武田に関係する場所をうろつくきっかけになった場所がここ、大石神社です。何気なく子供とドライブにいって、なんとなく立ち寄った場所。ふと説明板を見てみると「武田絡み」。近くには信盛院っていうお寺もあるんだぁ〜・・・という感じでドンドン興味が湧き、今に至ります。

皆さんもチョットしたきっかけで「甲斐武田」の虜になるかもしれませんよ! 

周辺の甲斐武田氏関係地:信盛院・上野氏屋敷・金光寺など

参考文献:山梨市史・甲斐国社記寺記・甲斐国志など

<2009/10/9 2011/5/8リニューアル>